チャールズ・プラット『ヴァーチャライズド・マン』(ハヤカワ文庫SF)訳者あとがき(1992年11月)


   訳者あとがき


大森 望  



 英米SF界に独自の位置を占めるチャールズ・プラットの最新長編、『バーチャライズド・マン』をお届けする。一九九一年にバンタム・スペクトラ(バンタム社のスペクトラ・スペシャル・エディション)から刊行されたThe Silicon Man の全訳で、日本のSF読者にとっては、事実上、プラットの本邦初紹介作にあたる。
 本書を楽しむために、おそらくこれ以上の情報は必要ないだろう。バーチャル・リアリティとハッカー倫理の問題を、数ある現代SFの中でももっともエレガントかつスマートに処理した近未来サスペンスSFとして、すなおに接していただければそれでいい。また、バーチャル・リアリティ研究の現状およびハッカー哲学の歴史的な流れなどに関しては、桝山寛氏の簡にして要を得た解説をご参照いただくとして、ここでは、著者チャールズ・プラットの経歴と、本書についての若干の背景情報を記しておくことにする。

 かつて――といっても、ほんの十年ばかり前の話だが――訳者(一九六一年生まれ)の年代に属する非創作系の英米SFおたくにとって、プラットは一種のアイドルだった。といってもこれは、コードウェイナー・スミスやジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの名に神話的な輝きを聞きとったり、イアン・ワトスンやバリントン・J・ベイリーの作品に熱狂したりするのとは根本的に意味合いがちがう。チャールズ・プラットという存在が英米SF界に占めているポジションが、すれたSFマニアたちにとって憧れの的だった、とでもいうべきか。
 しかし、話が先走りすぎたようだ。この"憧れ"を説明するためには、チャールズ・プラットというユニークな存在(くりかえすようだが、"ユニークな作家"ではない)が英米SF界ではたしてきた役割を概観しておく必要がある。
 チャールズ・プラットは一九四四年十月二十五日、英国ハートフォードシャー生まれ。一九六五年、英国のSF誌、サイエンス・ファンタシー(キリル・ボンフィリオリ編集=当時。のちにSFインパルスと改称)に、One of Those Days でデビュー。六七年、処女長編、Garbage World を刊行。七〇年代に、The City Dwellers(のちに大幅な加筆・訂正をほどこしたアメリカ版がTwilight of the Cityとして刊行)、Planet of the Voles、Sweet Evilの三長編を発表したのち、十年近く沈黙していたが、八〇年、ロナルド・バーク名義の長編、Less Than Human から作家業を再開。ピアズ・アンソニーのChthonシリーズに舞台を借りたシェアード・ワールド物の長編二冊を含め、現在までに九冊のSF長編がある。
 あたりまえの作家なら、(いささかぶっきらぼうに過ぎるきらいはあるにせよ)これで経歴紹介を終えてしまうこともできる。しかし、ことチャールズ・プラットにかぎっては、以上のような略歴にはほとんど意味がない。なぜなら彼は、実作者としてよりもむしろ、編集者・批評家・ファンジン発行者・インタビュアーなど、創作以外の多彩な活動を通じて、アメリカ/イギリス両国のSFシーン活性化に大きな貢献を果たしてきた人物だからである。
 プラットの変幻自在神出鬼没的キャリアの出発点となったのは、いまやほとんど歴史の一ページと化した感のあるニューウェーブ運動だった。六〇年代中盤のイギリスで勃興、世界的なムーブメントとして後世のSFに多大な影響を与えたこの運動について詳述する紙幅はないが、八〇年代中盤のSF界を震撼させたサイバーパンクを思い出してもらえば、あたらずといえども遠からずだろう。
 当時、このニューウェーブの牙城として知られていたのが、マイクル・ムアコックが編集長をつとめる英国のSF雑誌、ニューワールズ。デビュー作が掲載されたサイエンス・ファタシー誌がニューワールズの姉妹誌だった縁もあり、プラットはニューワールズを通じてニューワールズ=ニューウェーブ運動と積極的に係わるようになる。デビュー直後からムアコックの編集アシスタントとしてタイプセッティングなどの雑用一切を引き受け、やがてムアコックが雑誌継続の資金稼ぎのために現場を離れると、実質的な編集長として、ひとりでニューワールズを切り盛りする立場になる。印刷所への支払いの滞納、版元のとの関係悪化など数々のトラブルを抱え、瀕死の状態にあえぐニューワールズの最期を看取ったのがチャールズ・プラットだった、といってもいい。彼が名実ともに編集長に就任した七〇年、通巻二〇〇号をもって、雑誌としてのニューワールズは事実上その生命を終える。そして、心身ともに疲れ果てたプラットは、英国を去り、アメリカへとわたった。
 新天地で活動を再開したプラットは、創作をつづけるかたわら、エイヴォン・ブックスで編集を担当(タイトルが気に入らないとの理由で、フィリップ・K・ディック『流れよわが涙、と警官は言った』の出版を上層部が拒否、それをきっかけに同社を退社したというエピソードがある)。七〇年代末からは、フットワークの軽さを発揮してアメリカ全土をまわり、アルフレッド・ベスター、ハーラン・エリスン、ジェイムズ・ティプトリーなどの作家にインタビュー、その成果をまとめたインタビュー集、Dream Makers全2巻は、貴重な資料として絶賛を集めた。また、八〇年からは、辛口の書評ファンジン、パッチン・レビューを創刊、SF界に物議をかもす。いまでこそ、その後出現したブルース・スターリングのチープ・トゥルース、オースン・スコット・カードのショート・フォーム、デイヴィッド・ハートウェルのニューヨーク・レビュー・オブ・サイエンス・フィクションなどのおかげで、プロが編集・発行するレビュージンはそう珍しくないが、当時、パッチン・レビューの登場は画期的で、訳者をはじめ、そのころ生意気な大学生SFファンだった連中は、おおいに影響されたわけである(その時期、ぼくの所属する大学SF研で出していた月刊コピー誌には、パッチン・レビューの書評ダイジェストをリアルタイムで紹介する連載コラムがあったりした)。
 ニューウェーブの誕生に立ち会い、ニューワールズを編集し、大出版社を蹴とばし、マニア受けする大作家たちにつぎつぎインタビューし、辛口のコラム・書評・コンベンション・レポートをさまざまなSF雑誌に書き、なおかつその片手間に(あんまり売れないとはいうものの)小説まで出してしまう男。筆禍事件は日常茶飯事、SF界の中心でどっしり構えてエスタブリッシュメントとなるかわりに、いつも隅っこのほうから茶々を入れ、なにか騒動が起きるとすぐに首を突っ込み、論争に油を注ぐ。駄作を罵倒する切れ味は抜群、エッセイにはユーモアセンスがあふれ、人脈は豊富……。
 考えてみると、学生時代のぼくは、チャールズ・プラットになりたかったのかもしれない。卒業してから出版社に入社、どちらかといえば隅っこに属する雑誌に悪口雑言の書評コラムを書き、これまた悪名高かった業界ファンジンを高橋良平氏といっしょにつくったり(そういえば良平さんも大のプラット贔屓。ブライトンで開かれたワールドコンの帰りに遊びにいったジョン・クルートの家で、たまたまそこに泊まっていたプラットご本人と顔を合わせたことがあるのだが、そのときいっしょだったのが高橋氏である)、レビュー誌だかなんだかよくわからなくなってしまった海外SFファン向けニュースジンを創刊したりしたのも、いまにして思えばプラットのたどってきた軌跡をなぞっていただけのような気がする。
 もっとも、controversialという形容詞がつねについてまわるプラットのこと、あちこちでけんか騒ぎを引き起こし、敵も少なくなかったのだが――クルートの家で会ったとき、「あなたのことは日本のSFファンのあいだでも有名(famous)ですよ」というと「そりゃ悪名高い(infamous)のまちがいだろう」と笑っていたのを思い出す――そういうところまで含めて愛すべきトリックスターなのである。

 そのプラットの小説を、まさか自分で翻訳する日が来るとは奇しき因縁というほかないのだが、では彼の創作は手すさびかといえば、けしてそんなことはない。たしかに、これまでのプラットは、いかにもSFにどっぷりつかって育ってきた人間にありがちな、どちらかというとファニッシュでおたっきーな、つまり、マニア受けはしても、こりゃあベストセラーは無理だよな、というタイプの作品が多かった。
 題名からして『人間以上』のパロディというLess Than Humanなんてのもそうだが、典型的な例をひとつ挙げれば、八九年にエイヴォンから出た"エピック一部作第一巻"、Free Zone。なにしろ謳い文句が、「かつてSFに登場した主要なテーマすべてを一冊に網羅!」。ごていねいに巻末にはそのテーマ・リストまでついていて、エイリアン、オルタネート・ユニバースから、しゃべる犬、巨大昆虫、マッドサイエンティスト、物質転送、光線銃などなど、無慮七〇項目の"主要テーマ"がアルファベット順に並んでいるという具合。さらに、冒頭の付録には、登場人物表、地図はいうにおよばず、サブプロットの流れを図式化したフローチャートまでついている(この手のオマケは、他の長編のいくつかとも共通する)。
 SFを文学であるとする立場からは、ぱらぱらめくっただけでなんじゃこりゃと投げ出されそうな本だけど、いやしかし、未来ロボットが出るカタツムリ型エイリアンが襲来する海底人操るティラノザウルスが大暴れする犬が反乱を起こす原始人が復活する放浪惑星が迫るの大騒ぎ、いやはやまったくおもしろいのなんの、これぞまさしくSFファンのSFファンによるSFファンのための最高の一冊、ねえねえ売れなくてもいいから出そうよと早川書房編集二課をせっついているところだが、しかし、この『ヴァーチャライズト・マン』は、こうした従来のファニッシュ路線とは明らかに一線を画する長編なのである。Twentieth Century Science Fiction Writers 最新版でプラットの項を担当したD・ダグラス・フラッツいわく、
「最新作(本書)で、プラットはついに、シリアスなSF作家としての潜在能力を全面的に開花させた」
 この言葉に偽りはない。筋金入りの60年代世代(ルーディ・ラッカーより二つ年上)であるプラットだけに、システムの破壊が隠しテーマになっているのは旧作と同様なのだが、本書では、いままでならまず確実に主人公にしていただろうキャラクター、秩序破壊者のレオ・ゴットバウムを悪役にまわし、なんと、FBI特別捜査官を主役(というか、事実上は狂言回しだが)にすえた。この逆転劇のおかげで、本書はこれまでのプラット作品にはなかった小説的な奥行を獲得、情感あふれる一冊に仕上がっている。よき家庭人ジム・ベイリーの家族に対する愛情の描写など、いままでのプラットならちょっと考えられなかったものではないか(結末には不覚にも感動してしまった)。それでいて、いいたいことは悪役の口を借りてきちんといっているのだから、プラットも抜け目がない。
 とはいえ、楽屋落ちの世界からきっぱり足を洗うには三つ子の魂が強力すぎたと見えて、登場人物の名前にはニューワールズ関係者がちらほら。ベイリーはもちろん、バリントン・J・ベイリー(または、若干綴りはちがうが、ヒラリー・ベイリー)から来ているのだろうし、フレンチの同僚のマイクル・バターワースはそのまんま、イギリスのSF作家/編集者の名を借用したもの(『スペース1999』のノベライズが三冊、邦訳されている)。
 その他、筋金入りのネットワーカーやパソコンおたく、ゲームおたくならにやりとしそうな(あるいは、額に青筋たてて文句をつけそうな)ディテールも無理なく小説中に盛り込まれているのだが――SF情報誌〈ローカス〉でレビューを担当したエドワード・ブライアントは、"未来世界からダウンロードしてきた(その時代の)現代小説"のようだ、と評している――まったく予備知識のない人でも安心して読めるユーザーフレンドリーなサイエンス・フィクションであることは訳者が保証する。
 ふたたび、ブライアントの書評の結びの言葉を引けば――
「チャールズ・プラットは、おだやかで地に足のついた、思考を刺激する作品を生み出した。本格SFに対するすりきれかけた関心を呼びもどすにじゅうぶんな一冊である」
 コンピュータ・ネットワークの未来像に関しては、デイヴィッド・ブリンの『ガイア』、柾梧郎『ヴィーナス・シティ』などと読みくらべてみるのも一興だろう。

 なお、冒頭で「事実上の本邦初紹介作」と書いたのは、過去に一冊だけ、SFっぽい設定のポルノグラフィーが邦訳されているため。タイトルは『挑発』(The Power and the Pain, 1971/廣瀬順弘訳/富士見ロマン文庫)。世界的なロック・シンガー(やや落ち目)に、マッド・セックス・サイエンティストが生み出した改造ガールたちがからむ怪作。古本屋で見かけたら購入をおすすめする。
 もうひとつ、パソコン関係記述の背景に興味のある人のためにつけくわえれば、プラットは八四年から八五年にかけて、四冊のパソコン関連書籍を出している。その一冊めは、Graphics Guide to Commodore64だったりする(いまはアミガでビデオトースター使ってたりして)。その他、「数学無用のBASIC」とか「もっと使おうパソコン」とか、いかにもそれもんのタイトルが並んでいるのには笑ってしまうが、けっこうはやくからコンピュータ業界とかかわっていたのはまちがいなさそうだ。
 末筆ながら、畑違いの小説の解説を快く引き受けてくださった桝山寛氏(そういえば、桝山さんとはじめてお目にかかったのが、まさにバーチャル・リアリティもののネットワーク・ゲーム〈富士通HABITAT〉のデモ取材だったのも、考えてみれば奇妙な縁だ)と、本書を翻訳する機会を与えてくださった、早川書房編集二課の上池利文氏に心から感謝を捧げる。

1992年11月11日 大森 望   



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