■久美沙織『青狼王のくちづけ』(新潮文庫)解説


   解 説

                                大森 望

 人は物語なしには生きられない。
「物語は続いていく」と歌ったのはTo Be Continuedだが、『昔話の形態学』で知られるウラジミール・プロップは、
「神話とは生活の構成部分であるばかりか、個々人の一部でもある。人間から物語を奪い取ることは、生命を奪い取ることを意味する」
 と書いている(『魔法昔話の起源』斎藤君子訳、せりか書房より)。この本の中でプロップは、「物語ることの禁止」というタブーについて、「物語と物語る行為とに固有の呪術的機能のためである」と説明し、ある未開部族の伝承についての研究書から次の一節を引用する。
「彼(語り手)はそれらを語る時、わが身から生命の一部を切り離して譲り渡すのであり、その結果、生命は終息に向かって一歩近づく。(後略)」
 
 ……のっけから引用がつづいてしまったが、〈ソーントーン・サイクル〉三部作の完結編『青狼王のくちづけ』を読み終えたばかりのいま、「物語と物語る行為とに固有の呪術的機能」についてしみじみと考えてしまうのも無理はあるまい。
 あわててことわっておくけれど、現実の久美沙織に呪術的なところはまったくない。RPGにどハマりして寝食を忘れ、エステに凝りついでにエステ本を書き、沖縄でダイビングにいそしみ、SF大会でもあろうものならほとんどコスチュームプレイ的ファッションで颯爽と登場し(お色直しつき)、小説志望者を叱咤激励して目からウロコ落ちまくりの実践的創作指導をほどこし、かと思えばバンドを従えてステージに立ち妙なる歌声を披露する……とまあ、常人離れした多芸多才のスーパーエネルギッシュな姉御なのである。
 その久美沙織に、どうしてこんな小説が書けてしまうのか。本書の中に、ラズロがディドたちに向かって「憑かれたな、おのれら」と言い放つ名場面があるが、まったくこの鬼神のごとき語り部ぶりは、物語の魔に憑かれたとしか思えない。そして読者もまた、憑かれたようにひたすらページをめくりつづけるしかない。現代日本最強の呪術的力を秘めた物語が、いまあなたの前にある。

 しかし呪者ならぬ身としては、いささか結論が先走りすぎたようだ。本書は、『石の剣』、『舞いおりた翼』につづく〈ソートーンサイクル〉の第三巻であり、ソーントーンの石をめぐる物語の完結編にあたる。
 それにしても……とあらためて『石の剣』の奥付を見ながら思うのだが、それにしても長かった。第二巻から三年、第一巻から数えると 年の月日が流れたことになる。しかしこの熟成期間はソーントーンの物語に確実に深みと奥行きを与えた。『石の剣』の解説で風間賢二氏は、「シリーズ完成のあかつきには、おそらく和製ファンタジーの金字塔になりうると思われる」と書いているが、〈ソーントーンサイクル〉はまちがなく、日本のファンタジー小説史に輝く頂点として、これ以上ないかたちで締めくくられたのである。

 いまさらいうまでもないことだが、『火吹き山の魔法使い』を嚆矢とするファンタジー・ゲームブックの隆盛と、『ドラゴンクエスト』にはじまるコンピュータRPGの一大ブームは、西欧型異世界ファンタジーの巨大な市場を日本にもたらした。ゲームブックとコンピュータRPGというまったく新しいメディアが、その誕生の瞬間から、ファンタジーという、ほとんど人類そのものとおなじくらい古い起源を持つ物語を語りはじめたことは一見奇妙に思えるが、プロップも指摘するとおり、物語は人間にとって生命の一部にも等しい。かつて口伝えで語られてきた魔法昔話はやがて文字に記され、オペラの舞台に上がり、銀幕に移され、時代とともに新しい声を獲得してきた。そしていま、コンピュータテクノロジーがおなじ古いナンバーを奏でている。物語の帝国はあくまでも強く、永遠に終滅することがない。
 しかし、無数の声の中でも、RPGはファンタジーにとってほとんど最強の語り部かもしれない。なにしろそこでは、人は物語を生きることができる。用意された舞台とシナリオの中だとはいえ、主人公を動かし、行動する喜びを味わうことができるのだから。
 久美沙織自身、小説版『MOTHER2』のあとがきでRPGに対する偏愛を告白しているのだが、彼女の物語の生き方は半端ではない。
 前にご本人とゲームおたく話をしているときに聞いたのだが、某有名RPGをプレイしている最中、あるノンプレイヤーキャラクターとどうしても別れなければならない(別れないとシナリオが先に進まない)ことを知った久美さんは、それから一週間のあいだ、ゲームを進めることを放棄してそのキャラクターといっしょに世界を歩きつづけ、別れを惜しんだというくらいである。
 そのときは、「作家ってやっぱりへんな人が多いんだなあ」とぼんやり思っただけだったのだが、いまにして思えば久美沙織はゲームをプレイするのではなく、本気で物語を生きていた。そして物語を生きるすべを知らないかぎり、その中で読者が生きられる物語は書けないのである。
 そのことを久美沙織が証明した最初のファンタジー物語が、RPGファンタジー史上最高傑作(だと個人的には確信している)『精霊ルビス伝説』だった。ドラクエ世界の外伝というかたちをとりながら、『ルビス』は凡百のオリジナルファンタジーを蹴散らす圧倒的なパワーと絢爛豪華な文体と強靭な意志の力を持っていた。考えてみれば、異世界ファンタジー小説そのものが、神話・昔話という物語の源泉に蛇口をつけ、新しい紙の上に定着させているジャンルなのだから、そこでは物語のオリジナリティを云々することは意味がない。問題は、おなじひとつの物語をどのように語るかであり、久美沙織はまちがいなくその語り方を知っている。
 じっさい、物語を生きることを文字どおり可能にしたファンタジーRPGを敵にまわして、小説という旧世代のメディアがなお戦いを挑むとすれば、その武器は語りの力、文章の力でしかありえない。
 RPGから火がついたファンタジーブームはたちまち小説の世界にも波及し、大量のRPG小説が雨後の筍のごとく製造されたが、残念ながら、RPGに打ち勝つだけの語りの力を持つものは少なかったように思える。もちろん、ジャンル小説の必然として、量的な裾野が広がれば、それだけ傑作が誕生する可能性は高くなる。異常なまでの量的拡大が一段落し、ファンタジー小説がジャンルとして成熟に向かいはじめたここ数年、日本独自のファンタジーの傑作も生まれている。たとえば、氷室冴子の〈金の海 銀の大地〉シリーズであり、小野不由美の〈十二国記〉シリーズである。しかし、現代の和製ファンタシーを代表するこの両者は、どちらも西洋型の異世界を舞台にしてはいない。前者は古代の日本、後者は中国的異世界を使い、RPG的な西欧中世風の異世界とは一線を画そうとしているように見える。
 しかし、〈ドラゴンクエスト〉年代記作者という栄光の肩書きを持つRPGの語り部、久美沙織が、はじめての完全オリジナルファンタジーの容れ物として選んだのは、魔法使いと王子様の典型的西欧中世型の舞台だった。幾千幾万の小説がはぐくまれてきた物語の檜舞台に立って大向こうをうならせるためには、尋常ならざる筆力が必要になる。ドラクエやFFの威を借るのではなく、それを相手に真っ向勝負を挑み、ファンタジー小説として読者に物語を生きさせること。そして久美沙織は、魔に憑かれたとしか思えない文章の力によって、この不可能事をなんなく可能にしたのである。

 小説の神髄は描写にありと喝破したのは蓮實重彦だが、ファンタジー小説の神髄が描写であることは、本書の冒頭を一読するだけで了解できる。筋立てを追うだけなら小説を読む意味はない。描写の力をじっくり味わい、想像の翼を広げること。できれば朗読してみるのいがいちばんいい。いまどきの小説を読むのにそんなまだるっこしいことをしてられっか、おれは文庫本一冊なら三十分で読んじゃうもんね、というのは勝手だし、筋立てを追うことしか読者に要求しない小説も街にあふれているが、本書に関するかぎり、その読み方では人生の喜びのいくぶんかをむざむざどぶに捨ててしまうことになるだろう。
 自身、稀代のファンタジストでもある井辻朱美は、その卓抜なファンタジー論『夢の仕掛け』(NTT出版)の中で、RPGとファンタジーについて触れ、C・S・ルイスを引用しながらこう書いている。

 だが、雰囲気とは、自然や天候のこまかな描写がなされていれば、あるいは宮廷のインテリアの細部が描きこまれていれば、生まれてくるものかといえば、そういうものでもない。それらはある観点から物語に奉仕しているのでなければ、けっきょくこの「質」こそが、よい「妖精物語」をそうでないものから区別するものであるとルイスは結論づけている。
 それはまた、真のファンタジーがおのずと内在させているものであり、コナンやエルリックの物語が、幾度も読まれ、ゲーム化されるほどにも読者をとらえるのは、そのスリルのためばかりではなく、彼らの生きた時代そのものの匂いや感触、架空の都市のなまなましい存在感、貴族や魔術師らのいかにもそれらしい存在のしかたゆえではなかろうか。
 
 このような「真のファンタジー」の持つべき存在感は、本書のほとんどすべてのページに発見できる。

 あれはまるで魔法だった、とテファンは思う。耳触りのいい音楽のように次から次へと紡がれたことば。そこにないもの、はじめからないもの、前にはあったかもしれないが過去のどこかの時点で失われてしまったものが、いとも鮮やかに形をなし、いまにも目に見えそうに蘇った。なんて楽しかっただろう! こんなに満ち足りた時を過ごしたのは、ずいぶん久しぶりな気がする。(ページ)

 本書に登場する天才的な語り手、イノが語る物語に時間を忘れたテファンはこう述懐するのだが、本書を読み終えた読者なら、久美沙織自身がイノに匹敵する語り手であることを確信しているだろう。たとえばマシモが現代のスケボー少年さながら、『板』を駆って疾走する場面。

 ふいに、喪失感を覚えた。こうやってなにもかも背後の闇に飛び去っていくのだ、と思った。穏やかな生活も、家族たちも、これまで何の疑いもなく信じ込んでいたさまざまなことがら――太陽が東から登って西に沈むとか、水は高いほうから低いほうに流れるものだとか、死者は墓の中に眠って世界の終わりまで蘇ることはないとかといった常識――も荒くかきなぐった無彩色の絵になってめまぐるしく飛びすぎる景色と一緒に、みんなみんな通り過ぎていく。このままここに置き去りにして、二度と手にすることができなくなるのかもしれない。孤独は感じたが、怖くはなかった。悲しみは感じたが、辛くはなかった。これは、俺が男になるということではないのか? こんな華麗な『板』乗り男に、未来が拓けないわけがあろうか? これから自分が過ごすことになるのは、きっとイノの巧みな語りで聞いたような不思議な冒険譚の世界なのだ。こうして疾走していくのは、逃げるのではない、背を向けてゆくのではない、生き延びるために、戦うために、ヴァリを守るため、真に必要なつとめを果たすために。俺は走るのだ。(215ページ)

 著者の語りの技術はスプラッタな描写にも遺憾なく発揮されている。西欧異世界ファンタジーの舞台に立ち、その大道具小道具を遠慮なく使いながら、久美沙織は現代的なセンスと天性の筆力であくまでオリジナルな独自の世界を紡ぎ出してゆく。たとえば「赤い虫」が出現する身の毛もよだつような場面。

 もぞりとうごめき、泳ぎだす。水晶体を貫いて、男性性器の先端に似かよったみだらにも獰猛そうな頭をぶつりと突き出した。それは開く。ふたつに割れる。頑丈そうな牙顎が宙に喘ぐように振り回される。まるで潜水を終えて水面にほっと息をつく人間のよう。一匹。また一匹。次々にふたつに開く赤い糸先が現われて、互いに挨拶でも交わすように、ひょこひょこ思い思いに揺れるのだ。あまりに小さなもの過ぎて、見ていると、遠近観が狂い、大きさの感覚が歪む。いまやそれらは、ねばねばした脚で枝を伝い、次の足場を求めて、頭部をもちあげ、風に吹かれる蝶の仲間の毛虫そのもののように見えた。ただし、真っ赤だ。真っ赤で、小さくて、そのくせ、のこぎりのように鋭い牙つきの顎を持っている。その顎で生き物を内部から食うのだろう。ひとを虜にするのだろう。ゆらゆら揺れる赤い虫。(385ページ)

 引用しはじめるとキリがない。眼前にくっきりと立ち上がってくる塩湖の町ウー・ヌ・ドゥー、ドナの旅篭のあまりにも奇怪な外観、たくましき女奴隷テファンのたぎるような思い、老人の体に閉じこめられた魔王ディルドレイクの情けなさ……。
 美しいもの汚いもの、楽しいものおそろしいもの、爆笑と悲嘆、せつなさといとしさ、古いものと新しいものとがひとつにまじりあい、ファンタジーの舞台の上できらきらと輝きを放つ。そして訪れる壮大で美しい、奇蹟のようなクライマックス。そこではいままでばらばらに語られてきたすべての糸がひとつになり、時間と空間を超えて巨大な円環が閉じられる。そしてその瞬間、日本における西欧型異世界ファンタジーの頂点が高らかに産声をあげたのである。
 
 さて、残念ながら、ソーントーンサイクルの熟成に必要とされた歳月のあいだに、前二作は目録から姿を消し、一時的に入手しづらい状況になっている。本書を手にとってはみたものの、三部作の第三部だということを知って躊躇している人もいるかもしれない。もちろん読まないよりは読むにこしたことがないのだが、しかし前述のとおり、ファンタジー小説の神髄は、筋立てではない。「これまでのお話」を知りたければ、本書の冒頭に記された要約を読むだけでいい。久美沙織の魔術的な語りに憑かれるためには本書一冊だけでもじゅうぶん以上だろう。
 だいいち、異世界ファンタジーに関するかぎり、そこで語られる「どこかべつの世界」の物語にははじまりも終わりもない。作家はその一部を切りとってきて、全身全霊をこめて、限られたスペースの中でその物語を語り、語り終えると静かに退場する。『青狼王のくちづけ』によってソーントーンサイクルの円環{サイクル}は閉じられたが、ユルスュール・ファイ・コーエンもジリオンもソーントーンの世界で生きつづけている。サイクルは閉じても、物語は続いていく。またつぎの幕が開く日を待ちながら、いまはしばし、ソーントーンの魔女たちに思いをはせることにしよう。
                          (平成七年七月、翻訳家)