『狂骨の夢』書評(週刊現代)

 幻想的な謎と論理的な解決。島田荘司が提唱する「本格ミステリー」の理想を、ある意味では島田荘司以上に完璧に顕現させたのが京極夏彦の作品群である。

 昨年の秋、『姑獲鳥の夏』で衝撃的なデビューを飾り、今年一月には超大作『魍魎の匣』でミステリファンの度肝を抜いた京極夏彦の妖怪シリーズ(?)は、本書『狂骨の夢』ではやくも三冊を数える。そして三冊並べたなかでも、本書はとりわけ、最良の島田作品ときわめて似かよった小説構造を持つ。

 冒頭に提示される独白の幻想性と、やがて起きる事件の怪奇性。狂気が見せる妄想のビジョン(としか思えないもの)に明快で合理的な解決を与えていく手つきの鮮やかさは、島田荘司以上に島田荘司的だ。世の新本格おたくたちが喝采をもって京極夏彦を迎え、首を長くして新作を待つのもむべなるかなである。

 もっとも、本の背表紙に「本格小説」(このネーミングの是非はともかく)と刷り込まれているとおり、京極作品を閉鎖性の高い自己言及的な「本格推理」というジャンルに閉じこめてしまうのはいささか無理がある。

 端正なパズラー(謎解きミステリー)の骨格に、大量のペダントリーで味つけされた「妖怪」の肉をまとうことで、京極作品群はいわゆる本格ミステリーには似つかわしくない顔を獲得する。一巻に一匹ずつ妖怪をフィーチャーし、憑き物を落としていく、「妖怪小説」の顔。そこでは、探偵=京極堂はゲゲゲの鬼太郎的な、あるいは妖怪ハンター的な使命を与えられ、怜悧な論理の快刀乱麻でかたはしから妖怪を斬り伏せる。

 しかし、日本古来の妖怪の名前(姑獲鳥、魍魎、狂骨)を与えられていようとも、京極作品に登場する妖怪の正体は、現代人の心の奥底に潜む魔にほかならない。

『狂骨の夢』がきわめて明快なかたちで示すとおり、これは、探偵が精神分析的な手法で心の闇に迫るサイコサスペンスなのである。極言すれば、『羊たちの沈黙』や『五番目のサリー』の日本版だといってしまってもいい。

 ただし、探偵=京極堂はフロイト/ユング的方法論で武装した白衣のかわりに、妖怪退治の陰陽師の衣をまとう。近代合理主義の化身たる探偵と日本古来のオカルト衣裳/意匠のミスマッチ。

 物語の枠内で徹底的に合理的な解決が与えられるという意味ではあくまでも正統派の探偵小説だが、惜しげもなく投入される大量の蘊蓄とサイドストーリーによって、ミステリの骨格がおおいつくされてしまう。

 この饒舌を冗長さと解釈する偏狭な読者もいるかもしれないが、奇想天外なトリックやアクロバティックな論理展開の妙だけを目あてに京極夏彦を読むのはあまりにももったいない。いくら「骨」をめぐる小説だとはいっても、新書版二段組で六百ページ近い『狂骨の夢』には、小説の「血」と「肉」がたっぷりつめこまれ、その血肉にこそ、京極夏彦を読む最大の快楽が宿っている。

 前二作からの読者なら先刻ご承知のとおり、おなじみのシリーズキャラクターたちのドタバタ漫才のテンポにはますます拍車がかかり、ページをめくる手を休めるヒマもない。榎木津の突拍子もない毒舌、京極堂の嫌味、木場の剛直。鬱病患者の関口はほとんどパブリックドメインのおもちゃと化し、ただ右往左往するばかり。今回の中心人物のひとりに抜擢された伊佐間一成(いさま屋)の茫洋たる性格のおかげでさらに幅が広がり、ほとんど「めぞん一刻」や「うる星やつら」のようなキャラクター小説として読むことができる。べつに事件なんか起きなくていいからこの連中のかけあいを永遠に読みつづけていたいと思わせるだけの魅力が、彼らにはある。

 複雑怪奇にからまりあうプロットを短いスペースで要約することはぼくの能力を超えているし、おそらくその意味もない。前二作で京極夏彦にハマった人は、もう一生ついていくしかないと覚悟をかためているだろうし、はじめて接する人は予備知識なしで『姑獲鳥の夏』からひもとくのがいちばんだろう(作品としては独立しているから、『狂骨の夢』から読みはじめてもさほど不都合はないが、せっかく十年にひとりの逸材の誕生に立ち会っているのだから、最初の一冊から読まないのでは、幸運をどぶに捨てるようなものだ)。

『狂骨の夢』の舞台(のひとつ)は、鎌倉の切り通しの狭間に建つ、奇妙なつくりの古い一軒家。骨、鎌倉、切り通しとくれば、鈴木清純の傑作「ツィゴイネルワイゼン」の世界で、じっさい本書を読んでいるあいだじゅう、サラサーテの奏でるメロディが耳について離れなかったのだけれど(朱美=大谷直子という配役は悪くないかも)、おなじように彼岸と此岸のあやうい狭間を描きながらも、映画「ツィゴイネルワイゼン」の結末とは対照的に、京極夏彦の「おほね」は最終的に此岸で葬られる。すべての魔を祓い終えたあとの海岸に残る詩情。『魍魎の匣』さえなければ今年のベストに数えたい傑作である。