●半村良『平家伝説』(ハルキ文庫)解説

     解 説

                              大森 望

 プラスチックの洗面器を抱えて、線路ぎわの道を歩いていくサンダル履きの若者。時刻は午後四時過ぎ。銭湯ののれんをくぐり、湯に浸かると、となりの湯舟には当の風呂屋のおやじがいる。たわいない世間話から、おやじは押しかけ三助さながら、若者の背中を流しはじめる……。

 半村良の『平家伝説』は、こうしてしごくのんびりと幕を開ける。銭湯からはじまるSFといえば、すぐに思い出すのは広瀬正の『鏡の国のアリス』。男湯と女湯がいつのまにか入れ替わってしまい、主人公が右往左往するのが話の発端だが、広瀬正とちがって、半村良はいきなり事件を起こそうとはしない。ありふれた日常的な風景からゆったりと語りはじめ、その声に心地よく耳を傾けているうち、読者はいつのまにやら、この世ならぬ場所へと連れていかれることになる。
 二十年ぶりに読み返してみても、『平家伝説』のこの導入は、まったくいやになるくらいうまい。こういう語りの技術を持っている作家は……と考えてぱっと思いつくのは、最近ではせいぜい、浅田次郎と宮部みゆきくらいじゃないですか。
 半村良の伝奇小説的な部分――大きな嘘をついてみせることに関しては、夢枕獏や菊地秀行が後を継いでいるけれど、川口松太郎の語り口と国枝史郎の奇想を併せ持つ作家という意味で、やはり半村良は不世出の天才なのかもしれない。
 宮部みゆきのようにはじまり、菊池秀行のように終わる――最近の若い読者のために思いきり粗っぽく要約すれば、それが半村良の伝奇ロマンなのである。

 さて本書は、一九七四年九月に角川文庫から文庫オリジナルで刊行された『平家伝説』の再刊である。原型になったのは同年の『別冊宝石』盛夏特別号に掲載された中編「嘆き鳥」(長らく単行本未収録のままだったが、現在は、出版芸術社の短編集『赤い酒場を訪れたまえ』に収録されている)。
『平家伝説』角川文庫版の解説で、権田萬治は、
「加筆量の多いことを考えればこの作品は書き下しといってもよいくらいであって、その意味ではこの作品は文庫として日本では初めての書き下し出版ということになる」
 と書いている。今でこそ文庫書き下ろしは珍しくもなんともないが、「四六判ハードカバー刊行から三年後に文庫化」が常識だった当時の出版状況からすれば、単行本を経由しない角川文庫版『平家伝説』の刊行は、画期的な試みだったわけだ。
 その結果、この『平家伝説』は、小説の単行本だけで軽く百点を越える半村良のビブリオグラフィの中でも、かなり特異な位置を占めている。ハードカバー、ノベルス、文庫、さらに他社の文庫と、何度となくかたちを変えて刊行されている半村作品群にあって、『平家伝説』だけは、初版刊行から四半世紀近くのあいだ、角川文庫版以外では読むことが不可能だったのである。したがって、角川文庫版が品切れになってから、ここ十年ほどのあいだは、文字通り「伝説の長編」に近い存在になっていた。本書ではじめて『平家伝説』の存在を知った若い読者も少なくないだろう。

 書誌的なことはこのぐらいにして、あらためて本書の背景をふりかえっておく。
『平家伝説』は、『英雄伝説』『黄金伝説』につづく〈伝説〉シリーズの第三弾にあたる。
 半村良はSFマガジンの第二回SFコンテストに入選した百枚の中編「収穫」(SFマガジン六三年三月号掲載)で作家デビューを飾った(小松左京「地には平和を」と同時受賞だが、掲載が一ヶ月あとになったいきさつは、『聖母伝説』に書かれている)。
 しかし、本格的に作家活動を開始するのは、七一年の処女長編『石の血脈』(早川書房)から。この畢生の大作によって、半村良は「伝奇SF」と呼ばれるジャンルを独力で開拓した。このセンセーショナルな再デビューのあと、SFマガジンに『産霊山秘録』を連載するかたわら、ノンノベルのために書き下ろしたのが『黄金伝説』だった。SFになじみのない読者にも違和感を与えない導入と、波瀾万丈の展開。ノベルスという媒体に伝奇SFの方法論を応用することで、〈伝説〉シリーズが誕生した。
 直木賞受賞の「雨やどり」をはじめとする人情噺のテクニックと、SFで培った壮大な奇想のドッキングから生まれた、いままでにないタイプのエンターテインメント――それが〈伝説〉シリーズなのである。

 半村良の弟子筋にあたる清水義範(半村良が実名で登場する短編も書いている)は、『女神伝説』の解説で、
「これは私の印象だが、伝説シリーズ≠フうち多くのものは、タイトルから予想される内容と、実際の内容との間にひとひねりあるという構造になっているようだ。逆説的なのである。そしてそのことは既にタイトルの中に仕掛けがしてあるように感じられる。」
 と分析しているが、本書も例外ではない。物語の縦糸は平家の財宝≠セが、プロットは読者が思いもかけなかった方向へとねじれてゆく。不意打ちのように結末に訪れる壮大なビジョンは、本格SFの醍醐味に満ちあふれている。

 最後に、これまでの〈伝説〉シリーズの一覧を参考までに掲げておく(『夢見族の冒険』のみ、タイトルに「伝説」の文字が含まれない番外編だが、各章題は過去のシリーズ作品タイトルからとられており、一種のセルフパスティーシュ的な趣きがあるため、リストに入れてある)。最近では時代小説方面での活躍が目立つ半村良だが、このシリーズの新作にも期待したい。
 なお、ハルキ文庫では、現在品切になっている半村作品を今後も続々再刊してゆく予定とのこと。本書を一読すればわかるとおり、時代が変わっても小説の面白さは変わらないのが半村良の特徴だから、新しい読者にも新鮮な感動を与えつづけることだろう。

【〈伝説〉シリーズ 既刊本リスト】

黄金伝説   72年11月 祥伝社ノンノベル(→角川文庫→祥伝社ノンポシェット)
英雄伝説   73年7月 祥伝社ノンノベル(→角川文庫→祥伝社ノンポシェット)
平家伝説   74年9月 角川文庫(→ハルキ文庫 *本書)
楽園伝説   75年3月 祥伝社ノンノベル(→角川文庫→祥伝社ノンポシェット)
死神伝説   75年8月 祥伝社ノンノベル(→祥伝社ノンポシェット)
獣人伝説   77年2月 実業之日本社(→角川文庫)
聖母伝説   77年7月 文藝春秋(→文春文庫→角川文庫)
戸隠伝説   77年11月 講談社(→講談社文庫)
魔女伝説   78年7月 中央公論社(→中公文庫→角川文庫)
女神伝説   79年9月 集英社(→集英社文庫)
巨根伝説   86年7月 祥伝社ノンポシェット(→祥伝社ノンノベル)
夢見族の冒険 92年2月 中央公論社(→中公文庫)
長者伝説   92年7月 祥伝社(ノンノベル)
魔人伝説   93年5月 祥伝社(ノンノベル)