ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』(大森望訳/扶桑社海外文庫)特設ページ







ジョン・クロウリー『エンジン・サマー』
Engine Summer, 1979 written by John Crowley



カバー装画:Michael Parkes "Magician's Daughter" カバー・デザイン:坂川事務所
大森望訳・扶桑社海外文庫 2008年11月30日刊 980円(税込)
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■本文より抜粋

 眠ってるの?

 ううん。起きてる。目を閉じてろっていわれたんだ。それに、待てって。開けなさいといわれるまで。

 あら。もう開けてもいいわ……なにが見える?

 きみ。

 わたしは……。

 きみは……知り合いの女の子に似てる。背はきみのほうが高いけど。天使ってみんな背が高いの?

 ほかになにが見える?

 いますわってる芝生。これ、芝生?

 みたいなもの。

 空が見える。ガラスの天蓋ごしに。ああ、天使、こんなことってあるの?

 ええ、あるのよ。

 じゃあ、着いたんだ。ここに。あの人がいったとおりだった、ここに来られるって……天使! 雲が下に見えるよ!

 ええ。

 じゃあぼく、きみたちを見つけたんだ。失われた中で最高のものを見つけたんだ。

 ええ。わたしたちは失われていたけれど、あなたが見つけてくれた。わたしたちは盲目だったけれど、あなたのおかげで見えるようになった。さあ。あなたは短いあいだしかここに――いられないの、だから……。

 ぼくのなにがほしいの?

 あなたの物語。

 いまのぼくはそれだけさ、そうだよね。ぼくの物語。ああ、話すよ。でも、長い物語なんだ。どうしたらぜんぶ話せるんだろう。

 はじまりからはじめて、終わりまで話しつづける。そこでやめる。

   *

 疲れはてたワンス・ア・デイは、頭をぼくのひざにのせて横たわっていた。風が冷たく、ぼくたちはだれかにもらった毛足の長い外套にいっしょにくるまっていた。灰色の川面に、落葉が浮かんでいる。

「冬が来るね」とぼく。

「いいえ」とワンス・ア・デイが眠そうな声でいった。「いいえ、来ないわ」

「いつかは来るに決まってるさ」

「いいえ」

「でも、もし冬が……」

「しーっ」とワンス・ア・デイはいった。

   *

 ワンス・ア・デイはぼくの手をふりほどくと、

「追いかけてこないで。どこへ行ったかだれにもいわないで。きょうと、それにあしたも――わたしが遠くに行ってしまうまで黙ってて。わたしのことはもう忘れて。あの〈おかね〉のかわりに」

 ぼくはなすすべもなくその場に立ちつくし、おびえていた。ワンス・ア・デイはぼくに背を向けた。〈ドクター・ブーツのリスト〉の最後のひとり、あの褐色の、根っこみたいな男が、駆け寄っていくワンス・ア・デイをふりかえった。

「春になったら」とぼくはいった。「もどってくるね」

「いまが春よ」

 ワンス・ア・デイはふりかえりもせずにいい、そして彼女は行ってしまった。ぼくは戸口に立ち、外套をまとい帽子をかぶった彼らが、朝霧のなか、一列になって南へと去ってゆくのを見送った。青いドレスに身を包んだワンス・ア・デイは、黒髪をなびかせ、一行に追いつこうと走ってゆく。霧か涙に包まれて彼らの姿が見えなくなる直前、だれかが彼女の手をとるのを見たように思った。

   *

 時間というのは、うしろ向きになにかから歩き去っていくようなものだと思う。たとえば、キスから。まず最初に、キスがある。そこから一歩下がると、視界にふたつの瞳が映り、もっと下がると、その瞳を含む囲む顔が見えてくる。顔はやがて体の一部になり、体はそれを囲む戸口におさまり、戸口はそのわきの木立のあいだにおさまる。戸口へとつづく径が長くなり、戸口は小さくなり、やがて木々が視界いっぱいに広がって、もう戸口は見えなくなり、それから径は森の中に消え、そして森は山々の中に消える。それでも、中央あたりのどこかにキスはまだある。時間というのはそんなものだ。






■訳者あとがきより抜粋

 たいへん長らくお待たせしました。ジョン・クロウリー初期の代表作、Engine Summer (1979) の邦訳文庫版をお届けする。訳者の贔屓目かもしれないが、"永遠の名作"という言葉は、たぶんこういう小説のためにあるんじゃないかと思う。文明崩壊後のはるかな未来を背景にした、かぎりなく美しく切ない青春SFの傑作である。

 時はいまから千年ほど先。〈嵐〉と呼ばれる地球規模の災厄によって機械文明はもろくも崩壊し、人口は激減。かつて宇宙の彼方にまで進出した科学技術は忘れられて久しく、そのころ地球を支配していた人類のことは天使≠ニ呼ばれている。千年後の世界に残された人々は、かつて天使が築いた文明の名残りにすがりつつ、自然と共存しながら細々と暮らしている。

 主人公は、リトルベレア(Little Belaire)という町で生まれ育った17歳の少年、〈しゃべる灯心草〉(Rush That Speaks)。リトルベレアは、かつて大規模集合住宅に住んでいた人々が〈嵐〉を逃れようと集団で疎開し、はるばる旅をしたあと、ゼロから築き上げた町らしい(当初の人口は千人規模)。

 失われたものを見つけ出し、聖人となることを夢見た〈灯心草〉は、やがて、幼なじみの少女〈一日一度(ワンス・ア・デイ)〉のあとを追うようにして町を離れ、冒険の旅に出る……。

 小説は、天使が住むという伝説の〈空の都市〉にたどりついた〈灯心草〉が、聞き手である少女(天使のひとり)に向かってみずからの半生と冒険を物語る、一種のモノローグ形式をとる。

 題名の"エンジン・サマー"とは、インディアン・サマーが訛った言葉らしい。とうにインドが忘れられたこの世界では、インディアンという言葉は死語となり、小春日和のことを"機械の夏"と呼んでいるわけだ。もちろんそこには、ブラッドベリ『火星年代記』冒頭の掌篇、「ロケット・サマー」のイメージが重ねられている。機械文明の夏は去り、人類は秋から冬へと向かっている……。(中略)

   *

 ……バンタム版ペーパーバック(八〇年三月刊)の書影に描かれた美少女にひと目惚れして、なにがなんやらよくわからないながらもどうにか最後まで読み通し、せつなすぎる結末に目頭を熱くしたのは(〈しゃべる灯心草〉が〈空の都市〉へ赴いたときの年齢とそんなにかわらない)十九歳の冬だった。

 なにより、いたいけなSF少年のハートを直撃したのは、ヒロインのワンス・ア・デイだった(ちなみに、批評家のマイクル・アンドレ‐ドリュッシによれば、この奇妙な名前の由来は、薬の処方箋によく記されている、一日に一回{ルビ:ワンス・ア・デイ}、夕食後に服用してください≠ンたいな決まり文句の一節だとか)。

 同じ一九八〇年には、サンリオSF文庫からマイクル・コーニイの『ハローサマー、グッドバイ』(現在は山岸真訳で河出文庫に収録)が出て、大学生SFファン男子の間では同書のヒロイン、パラークシ・ブラウンアイズの人気が急上昇していたが、『エンジン・サマー』派を自任するわたしは、ワンス・ア・デイこそSF史上最高のヒロインであるとかたく信じていたし、二十八年後の今もその確信はいささかも揺るがない。ツンデレ≠ニいう言葉はもちろん当時まだ存在しませんが、いま読んでみると、いやもう絵に描いたようなツンデレ・ヒロインじゃありませんか。ツンツン度の高さも理想的。めったに振り向いてくれない初恋の少女をひたすら追いかける。これこそ少年のための正しいラブストーリーである。(中略)

   *

 ジョン・クロウリーは一九四二年十二月一日、メイン州プレスクアイル生まれ。父が空軍将校だったため、ヴァーモント州、ケンタッキー州北西部、インディアナ州の各地を転々としながら育ち、カレッジ卒業後、映画製作を志してニュヨーク・シティに赴く。ドキュメンタリー映画の仕事をするかたわら小説を書きはじめ、一九七五年、SF長篇、The Deep で老舗のダブルデイから華々しくデビューを飾る。アーシュラ・K・ル・グィンの推薦文にいわく、

「まったく素晴らしい……驚くべき処女作だと思うし、他からもそう認められることだろう」。

これは、〈深淵〉と呼ばれる虚無にそそり立つ巨大な円柱に支えられた円板世界を舞台に描く、寓意と象徴に満ちた野心作で、評価は真っ二つに分かれた。続くBeasts は、未来のアメリカを舞台に、遺伝子テクノロジーが生み出した獣人たちを描くSFサスペンス。

 七九年に出た本書『エンジン・サマー』を最後にジャンルSFから離れ、八一年の『リトル、ビッグ』で世界幻想文学大賞を受賞。三代にわたるドリンクウォーター一族の物語を綴る、妖精版『百年の孤独』もしくは現代版『真夏の夜の夢』みたいなファンタジー大作だ。

 言葉をしゃべる鱒、妖精写真、取り替え子、予言するカード、八百年の眠りから醒めた神聖ローマ帝国皇帝バルバロッサなどなど、ファンタジー的な道具立てや登場人物にはことかかないが、「これ一冊でファンタジーというジャンルに再定義を迫る作品」とル・グィンが評したとおり、その語り口は過去のどんなファンタジーにも似ていない。妖精たちの姿が正面からはっきりと描かれることはなく、すべての要素は重層的にからみあいながら、物語のタペストリを織りなしていく。英国妖精物語の伝統とアメリカン・ファンタジー最良の成果とが融合した傑作だ。

『リトル・ビッグ』でファンタジーの頂点を極めて以降、クロウリーの最大の仕事は、二十年の歳月を費やした〈エヂプト〉四部作。七〇年代末のニューヨーク州ファーラウェイ・ヒルズで暮らす歴史学者ピアス・モフェットの物語と、その彼が専門のルネッサンス時代を背景に執筆中のヘルメス学/錬金術系の歴史小説(ジョルダーノ・ブルーノやジョン・ディーが活躍する)の物語とが複雑にからみあう……らしい(わたしは未読です、すみません)。

 第一部のAEgyptは早川書房〈夢の文学館〉叢書から九六年に邦訳が出る予定だったが、諸般の事情で延び延びになっているうちに叢書が消滅し、四部作は堂々完結。さらにAEgyptはThe Solitudesと改題・改稿されてしまった。しかし、訳者の宮脇孝雄氏によると、二〇〇九年には、〈夢の文学館〉の後継とも言うべき早川書房〈プラチナ・ファンタジィ〉叢書から邦訳刊行予定とのこと。楽しみに待ちたい。なお、国書刊行会から、『ナイチンゲールは夜に歌う』につづく短編集の邦訳も予定されている。


■ジョン・クロウリー小説単行本リスト

@ The Deep (1975)
A Beasts (1976)
B Engine Summer (1979) 『エンジン・サマー』大森望訳/福武書店→扶桑社ミステリー
C Little, Big (1981)『リトル、ビッグ』I・II 鈴木克昌訳/国書刊行会
D AEgypt (1987) →改稿・改題版 The Solitudes (2007) *エヂプト四部作1
E Novelty (1989) 『ナイチンゲールは夜に歌う』浅倉久志訳/早川書房 *短篇集
F Beasts/Engine Summer/Little, Big (1991) ABDの合本
G Great Work of Time (1991) 「時の偉業」*E収録の中篇
H Antiquitie (1993) *短篇集
I Three Novels (1994) *@ABの合本→改題 Otherwise (2002)
J Love & Sleep (1994) *エヂプト四部作2
K Daemonomania (2000) *エヂプト四部作3
L An Earthly Mother Sits and Sings (2000) *中篇
M The Translator (2002)
N Novelties and Souvenirs: Collected Short Fiction, Perennial (2004)*全短篇集
O Lord Byron's Novel: The Evening Land (2005) 
P The Girlhood of Shakespeare's Heroines *中篇
Q Endless Things (2007) *エヂプト四部作4
R Four Freedoms (2009) *予定






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