『ドゥームズデイ・ブック』訳者あとがき




   訳者あとがき


 本書は一九九二年にバンタム社より刊行されたコニー・ウィリスの第二長編、Doomsday Bookの全訳である。タイトルのドゥームズデイ・ブック≠ニは、ウィリアム一世が一〇八六年につくらせた土地台帳のことだが、ここではdoomsday本来の「最後の審判の日」「運命の日」という意味もかけてある。二一世紀から一四世紀へのタイムトラベルをテーマに、ふたつの時代を襲う疫病の息詰まるサスペンスと鮮やかな人物描写で絶賛を浴びた、九〇年代を代表する大作SFである。

 英米SFになじみの薄い読者ははじめて目にする名前かもしれないが、著者コニー・ウィリスは、押しも押されもしない現代SF界の大スター。ル・グィン、ティプトリー以降、アメリカでもっとも重要な女性SF作家だといってもいいかもしれない。本格的に執筆活動を開始した八〇年代以降はSF界の各賞を総ナメ。九〇年代アメリカSFの女王の名をほしいままにしている。
 その彼女が、ジョン・W・キャンベル新人賞を受賞した第一長編『リンカーンの夢』(ハヤカワ文庫SF)につづき、五年の歳月を費やして完成した本書は、質量ともに、作家コニー・ウィリスの頂点を示す作品。SF界の三大タイトル、ネビュラ賞、ヒューゴー賞、ローカス賞のトリプルクラウンに輝き(ヒューゴー賞は、ヴァーナー・ヴィンジの『遠き神々の炎』と同時受賞)、「ウィリス時代」の到来を強く印象づけることになった。この三賞の同時受賞は、八〇年代SFを代表する顔オースン・スコット・カードの『死者の代弁者』以来六年ぶりの快挙だが、なんとウィリスは、この年のショートストーリー部門でも、月経をテーマにした笑劇「女王様でも」(SFマガジン九四年一月号訳載)で同時トリプルクラウンを達成。短篇と長編で合計六つの賞をかっさらってしまったのだから、その人気の高さがわかろうというもの。二部門同時トリプルクラウンは、あとにも先にもウィリスのこの例しかない。
 
 ……などという赫々たる戦歴を書き連ねていると、SFになじみの薄い読者には敬遠されてしまいそうだからあわててことわっておくと、いくらSF界の女王≠ナも、ウィリスはバリバリのハードなSFを書く作家ではけっしてない。
 千七百枚を越える物量にもかかわらず、『ドゥームズデイ・ブック』の構成はシンプルそのもの。
 物語は二〇五四年のオックスフォードから幕を開ける。この時代、過去へ向かうタイムトラベル技術が確立され、歴史研究のために利用されている。史学部の学生キヴリンは実習の一環として、前人未踏の一四世紀に送り出される。だがその直後、キヴリンが無事目的地に着いたかどうかを判定するデータが出る前に、タイムトラベルを担当した技術者が突如倒れ、意識不明の重体に陥る。どうやら正体不明のウィルスに感染したらしい。おりしも町はクリスマス・シーズンで、かわりの技術者は見つからない。
 隔離が宣言された未来のオックスフォードで、なんとか教え子の安否をたしかめようと孤軍奮闘するキヴリンの非公式の指導教授、ジェイムズ・ダンワーシイが、二十一世紀パートの主人公になる。
 一方、一四世紀にたどりついたキヴリンも、到着と同時に病に倒れ、意識不明に陥る。かろうじて一命はとりとめたものの、未来世界に帰還するためのゲートとなる出現地点の場所がわからない。はたしてキヴリンは元の世界に帰り着けるのか。そして追い打ちをかけるように、思っても見なかった危難が彼女の身にふりかかってくる……。

 SFの世界でタイムトラベルを扱う小説といえば、難解な時間理論が駆使されたり、複雑怪奇なパラドックスやめまぐるしい歴史改変がフィーチャーされるものがすくなくないが、本書の設定はストレートそのもの。二一世紀と一四世紀のふたつの時間をカットバックで行き来するだけで、それこそ「バック・トゥ・ザ・フューチャー」三部作などよりよほどシンプルだろう。基本的な骨格は、辺境の地へと旅立った女子学生と、その安否を気遣って奔走する老教授の苦闘を描く冒険小説だといってもいい。
 しかしなんといっても本書最大の特徴は、力強いストーリーテリングと卓抜な人物描写にある。いくつか書評を引用しよう。自身、作家でもあるジョン・ケッセルいわく、
「結末にいたって本書は、驚きと才気と技巧を越えて純然たる悲劇へと昇華され、ジャンルの枠を超越して、もっと普遍的な物語へと成長する。教義を押しつける小説ではないが、これはウォルター・ミラー・ジュニアの『黙示録三一七四年』と同様、ヒューマニズムを力強く謳い上げる宗教的な本だ。そのプロットよりもはるかにシンプルで、そのページ数よりもはるかに大きな物語である『ドゥームズデイ・ブック』は、心に深く訴えかけてくる真実の力によって読者に感動を与える」
 一方、SF情報誌ローカスで書評を担当したファレン・ミラーは、
「登場人物たちが死ぬと、読者はそれを#感じ#、悲嘆に襲われる。『ドゥームズデイ・ブック』は、およそ小説に可能なかぎりもっとも逃避主義{エスケーピズム}から遠いところにある。タイムトラベルというSF的アイデアを、ふつうなら軽い読み物にふさわしいカジュアルなやりかたで(つまり、登場人物を過去に送り込む装置として)使っているにもかかわらず、キヴリンが労苦と美と悲哀と恐怖に直面する過去の世界は、隅々まで完璧に想像しつくされている」
 その他、無数の書評の中では「ストーリーテリングの勝利」「迫真のリアリティ」「魅力的な登場人物」などの賛辞が目につくのだが、コニー・ウィリスは元来、アイデアで勝負するのではなく、ストーリーテリングやキャラクター描写に天才的な手腕を発揮するタイプ。
 SF読者にとってのウィリスは、そのテーマの衝撃性によってアメリカSF界を震撼させ、賛否両論の嵐を巻き起こしたいわくつきの作品、「わが愛しき娘たちよ」(ハヤカワ文庫SF『わが愛しき娘たちよ』収録)のイメージが強いかもしれないが、彼女はかつてのジョアンナ・ラスやリサ・タトルがそうであったような戦闘的フェミニズムSF作家ではまったくない。社会問題だろうがフェミニズムだろうが、小説のために利用できるものはすべて利用するという、見上げた作家根性の持ち主なのである。一部の(半数以上の?)男性読者に圧倒的嫌悪感を与えたらしい「わが愛しき娘たちよ」にしても、過激な文体や幼児虐待のモチーフまでひっくるめて、作品が持つショックヴァリューを可能なかぎり高めるべく、冷徹な計算のもとで利用しつくしている感がある。

「コニー・ウィリスは、フェミニズムを含めて、いかなるイズム≠フ作家でもない。(中略)ウィリスの基盤にあるものは、先にも述べたとおり(主義、イデオロギーといったものとは程遠い)人間の生き方としてのモラリティと言うべきものである。そして、そのモラリティは、かけねなしにウィリス自身の自己に発しており、同時に、それを周到な検討を介して多面的にとらえていくことによって、実体のある作品世界を構築することに成功している」(山田和子「モラリスティックな物語をめぐる一、二の考察」より)
 これは短篇集『わが愛しき娘たちよ』巻末解説からの引用だが、この言葉は本書にもそのままあてはまる。モラリスティックといえばあまりにモラリスティックな物語。とはいえウィリスは、オースン・スコット・カードのように、ストレートにモラルやヒューマニズムを謳うことはしない。
 短篇「クリアリー家からの手紙」に寄せたコメントの中で、ウィリスは、
「トリック、ミス・ディレクション、情報の出し惜しみ。あるものをべつのものに見せかけて手がかりを隠し、レッド・ヘリングを目につきやすい場所に投げ出しておいて、ちょっとずつちょっとずつ糸をくりだして読者を食いつかせ、それからえいやっと釣り上げる……。わたしはそういう手管のすべてを身につけ、その不可避的な結果として、(読者としては)二度とびっくりすることのできない体になってしまったのだけれど、それでも他人をびっくりさせることはできる」
 と語っている。もちろん小説として最大の効果をあげようとするのは作家であれば当然のことともいえるわけだが、ウィリスの高度な小説技術は他の追随を許さない。独創的なアイデアをやつぎばやにくりだすタイプではないにもかかわらずSFの世界で天下をとったウィリスは、ストーリーテリングの技術だけを武器にここまでのしあがった希有なSF作家なのである。
 そして本書は、ウィリスが無慮一七〇〇枚の枚数に持てる小説技巧をすべてを注ぎ込んだ技のデパート=Bじっさい、並みのSF作家が本書のプロットだけを与えられたら、五百枚の長編を書くのも青息吐息だろう。五百枚で書けるものをくどくどと千七百枚もかけて書いたとなると、ふつうは非難の対象になるところだが、この千七百枚がまったく水増しに見えないところにウィリスの凄さがある。
 意外なことにウィリスがもっとも得意とするのは短篇コメディの分野だが(悲劇より喜劇の脚本のほうがより緻密な計算を必要とすることを考えればそれも当然かもしれない)、彼女のコメディエンヌとしての才能と技巧は、本書にも遺憾なく発揮されている。正体不明のウィルス性伝染病が蔓延する中でひたすらトイレットペーパーの残量について心配するフィンチや、どんな女性もたちどころに篭絡するおそるべき女性キラーの学生(だが、当然母親には頭が上がらない)ウィリアムなど、この手のコミックリリーフを描かせたらウィリスの右に出るものはいない。おなじせりふ(「ほうぼうさがしまわったんですよ」)、おなじシチュエーション(かならず曇るダンワーシイの眼鏡)のくりかえしのギャグもじつに効果的に用いられている。
 その一方、ウィリスは数々のイメジャリーを駆使して、二一世紀のオックスフォードと一四世紀の領主館をオーバーラップさせる。もっとも顕著なのは鐘のイメージだろう。コミックリリーフとして登場したかに見えたアメリカ人鳴鐘者たちの一団が物語の深いレベルでしだいに大きな役割をはたしはじめる展開など、まったく舌を巻くほかない。
 言葉にすると陳腐だが、社会的にも文化的にもまったく異なるふたつの世界を重ね合わせることで、ウィリスは時代を超えた普遍的な人間性を鋭く描き出す。そのために動員される文学的技巧の数々は、おそらくサイエンス・フィクションのそれとは異質なものだろうが、こういうかたちでふたつの時代を並置させること自体、SFの特権的な手法であるとすれば、『ドゥームズデイ・ブック』はある意味で、SFと文学のもっとも幸福な結婚かもしれない。
 なお本書は、 年のヒューゴー賞ネビュラ賞を受賞した中編「見張り」(前出『わが愛しき娘たちよ』に収録)の姉妹編にあたる。直接の関係はないが、本書に興味を持たれた方にはご一読をおすすめしておく。またウィリスの経歴その他については、『わが愛しき娘たちよ』巻末解説を参照されたい。

 さて、いくつか訳注めいたことを書き連ねようかと思ったが、書きはじめるとキリがないので、翻訳にさいしてお世話になった方々に謝意を表して筆を擱くことにしたい。
 転調鳴鐘関連については定訳のない用語が頻出することもあって苦労したが、ドロシー・セイヤーズの鳴鐘ミステリ『ナイン・テラーズ』(東京創元社)における平井呈一氏の訳業とブリタニカ世界百科事典その他の記述を参考にさせていただいた。また、聖書の引用については、日本聖書協会による新共同訳・口語訳・文語訳を使用した。医学上の疑問点については、堺秀人氏および兵庫県立姫路循環器センターの今村徹氏にご教示をいただいた。記して感謝する。
 最後に、早川書房編集二課の嘉藤景子さんには、翻訳作業の遅れで多大なご迷惑をおかけしたばかりか、長期間にわたって多大な助力をいただいた。とくに校了直前の九月末、一週間の英国旅行から帰ってきてみると訳者が入院しているというショッキングな事態に立ち会うことになった点についてはお詫びの言葉もない。もっとも、病室に忍び込んで必死に話しかけるコリンの声も聞こえず眠りつづけたダンワーシイのように、「ゲラが出たんですよ、ゲラがっ」と訴える彼女の声も聞こえずこんこんと眠りつづけるほどの重病でなかったのはもっけのさいわいというべきか。入院してみてわかることというのもいくつかあって、しまったこれならもうすこしはやく倒れておくのだったと臍を噛んだのは翻訳者の悲しい性というやつだが、どうにかこうにか長丁場を乗り切りここまで漕ぎつけてほっと息をついている。
 考えてみれば、嘉藤さんから本書の翻訳を依頼されたのは、いまからもう二年半近く前になる。その後、サンフランシスコで開催された世界SF大会の席上、エネルギッシュに活動する著者コニー・ウィリスと直接会う機会を得て、翻訳上の方針について相談したりした記憶もあるが、いまとなってはそれも二年以上昔の話。いままで短いものばかり訳してきた訳者にとって、ペーパーバックで六百ページという大作ははじめての経験で、さすがに馬力がつづかず各方面にご迷惑をかける仕儀となったわけだが、そうこうするうちにコニー・ウィリスは本書の続篇を書きはじめてしまったらしい。体力に自信のない訳者としては、本書以上の長さにならないことを祈るばかりである。





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