作成開始 : 令和5年(2023年)07月29日(土)  作成終了 : 令和6年(2024年)08月12日(月)
何だか自分のことを振り返ってみたくなりました。
とあるネット友人のサイト、記事を見ていたら今までの自分を振り返ってみたくなりました。
思いつくまま、記憶のままあることないこと書いてみます。
聞いた話も含まれています。

■生まれ

  昭和31年(1956年)6月29日 秋田県平鹿郡雄物川町石塚(現在は 秋田県横手市雄物川町石塚)
  東の一番端でした。あと150mくらいで隣町で自宅から隣町のとある小学校が見えていました。
  小学校の頃は、すぐ近くに小学校が見えているのに何で3kmも離れた学校に行かないといけないのだろうなんて思っていました。
  長男として生まれました。
  2つ下の弟(秋田で家督継ぎました)、5つ下の妹がいます。

  補足

     先の大戦中、満蒙開拓団で満州(中国北部)で広大な土地を有して何か作物を作っていたそうです。
     祖父は徴兵で陸軍の兵士でしたが終戦とともにシベリア送りになり亡くなったそうです。
     そして、日本の敗戦で大変な思いをしつつ祖母と子供8人(男6人、女2人)で帰国したそうです。
     上の女子(おばさん)は、中国人の方から娘に欲しいと請われたそうですが、父が不憫に思い断ったそうです。
     長男であった父と次男、三男のおじさんたちが協力しあったそうです。
     よく生きて帰れたなぁーと父が生前良く話してました。

■幼年期(0〜4歳)

  おばあちゃん子でいつも祖母と一緒だったようです。いわゆる初孫ですね。
  まぁ、この頃の記憶は無いですね。
  6番目のおじさんが、横手高校に通学しておりある年まで秋田の実家にいたとのことです。
  母から聞いた話だと、母は祖母と折り合いがあまり良くなく、たまに俺を背負って母の実家に帰っていたとのことです。
  父が迎えに来るまで。


■少年期(5〜14歳)

  幼稚園は行ってません。
  小学校は沼館小学校でした。(今は廃校)
  近所の同年の友人が男女近隣で3人いて遊んでたと思います。

  小学校に入学する前と小3くらいには、祖母が東京のおじさん、おばさんのところへ行く時に連れて行ってくれていました。
  いつだっかは忘れたけど、父の4番めの兄弟のところへ行った時に大雪で近くの広場で誰かが雪だるま作っていた記憶があります。 
  また、このおじさんちには既に白黒テレビがあってなんかの番組でジェットコースターに乗っている場面があって、それ見て大笑いした記憶があります。
  笑いのツボにハマってしまったのでしょうね。
  ちなみに、自分の実家に白黒テレビがついたのは、自分が小1の時です。父の6番めの兄弟から送られたのだと言ってました。

  これまた、何歳の頃か忘れましたが、冬、こたつに入っていた時に左足にやけど(当時のこたつは電気ではない)して雪の中を父が3km離れた沼館の医者に連 れて行ってくれました。
  おんぶだったか。ソリだったかは覚えていません。

  小1と小2の冬、急性リウマチ熱で各々一ヶ月くらい学校休んだ。沼館の医師が来て太い注射をされていた。

  村の婦人会主催でバスで親子旅行に行ってました。
  母は歌がとてもうまく、バス内でマイク持って民謡歌ってました。

  小学校時代の学校での事はあまり記憶にありません。
  一昨年あたり、小学校の同級生だった聡とふとしたことからメールで繋がりができ、各々が持っていた写真とエピソード交換しました。
  聡は小学校時代のことを良く記憶していて、エピソード見て自分もなんとなく覚えていたことが認識できました。
  ただ、その後聡とは連絡がとれなくなりました。
  メールしても返信ありません。何かあったのではないかと心配しています。

  小学校時代に記憶しているのは、雄物川河川での「なべっこ遠足」
  木造の古い校舎であったこと。
  床の穴から下覗いたら10円落ちてました。
  小1の時、どういうわけだかクラスの広にいじめられましたが、輝和が助けてくれました。いいやつ!!!
  彼とはその後4年生くらいまで仲良くしてました。少年誌(少年マガジン、少年サンデー)を買って交換してました。
  5年から6年は秀広と仲良くしてたのですが、何やって遊んでいたか忘れました。
  冬はお弁当をストーブの熱で温める木で作られた本棚みたいなやつに弁当のせて温かい昼食がとれていました。
  小学校5年の時に学校給食の試行としてまず牛乳が一人ひとりに配られました。
  自分はその牛乳が好きで、飲めない人から頂戴して2〜3本飲んでました。
  広は飲みすぎてゲボしてました。
  5年生のいつ頃からか完全給食になって、コッペパンに穴あけてそこにおかずを入れて食べました。美味しかったです。
  クラスの大部分の人が嫌いだった「ひじきの煮物」が好きで、かなりおかわりしてました。
  スポーツはあまり得意でなく運動会でも活躍できませんでした。
  でも、5年生の運動会 100m走で陸上部の選手を破り1等をとれた時は興奮しました。ここから体力がついてたみたいです。
  絵が好きで図画は5でした。
  クラスの黒板脇に図画で書いた絵が飾られていた記憶があります。
  小学校時代のアルバムやクラス写真を見ると1年から6年まで同じクラスだった人がいました。
  お誕生会をやってくれてましたが、自分はその頃出てきた「インスタントラーメン」が大好きで楽しみでした。
  ただ、お誕生会のメンバは記憶にないです。先の友人が沼館から自転車で来てくれていたようです。
  自分も行ったのでしょうね。覚えていません。
  修学旅行は松島、仙台でした。旅館(松島 望月)での食事が美味しかったです。
  クラスメイトの男子が女子風呂を覗いて見つかり先生からお叱り受けてました。

  同い年で同じ村の和順の長兄はメカ好きで、今で言うゴーカートみたいのを自作して走らせてました。無免許でした。
  この人はまた、大きなラジコン機を飛ばしていました。

  鹿島大明神の行灯や鹿島作りを6年生の時やりました。
  「かしまー、かしまー」と皆で言いながら行進し近くの川に流しました。なんか、行灯(?)提灯(?)の光がとてもきれいだった。

  村の西端にはプールがありました。夏になるとそこで泳いでました。
  雷鳴って、大雨の日に笑いながら潜ったことありました。
  水中で雨の音を聞きました。
  そのすぐ近くに用水ポンプがあって、夏になると地下水吸い上げてました。
  とても澄んだ水で、深く潜るとキーンと耳鳴りがしました。水中から上見ると歪んだ空が見えました。

  村の剛と片岡の家へ遊びに行ったことがあります。ギターがすごくうまいやつです。今でも地元で活躍してます。
  彼の影響でプラモデル作りをしました。
  自分は第二次世界大戦頃に活躍した戦闘機が好きで、1/72や1/32のスケールのやつをかなりたくさん作りました。
  ピースコンは買えなかったので全て筆塗りです。
  プラモデル作りは25〜26歳くらいまで続きました。

  中学校は雄物川中学校でした。(今は廃校)
  3年間、自転車通学でした。
  他の連中はイルミネーションが付いた変速機付きのスポーツサイクルでしたが、自分は家が貧乏だったのか親戚からもらったものでした。
  ママチャリではなく、変速機無しのなんとなくスポーツサイクルでした。
  貧乏と言えば、父は冬場は東京の建設現場へ出稼ぎに行ってました。
  中学校も1年の時の記憶はあまりありません。
  なんか、生意気だったやつがいた覚えはあります。先生は3年間同じ担任でした。あだ名はカッパマンです。いつもカッパ着てバイク通勤してたから・・・
  1年の(日帰り)バス旅行は田沢湖でした。
  クラブはバレーボール部でした。
  入部当時は9人制で当時の3年生が6人制のプレーとルールに馴染むため取り組んでいました。
  そして、地域の大会や県大会では6人制ルールでした。
  9人制であればローテーションがないので身長の低い人でもレシーバーとしてフル出場できたのに、6人制だと身長が高く、スパイクの打てる人でないとフル出 場ができなくなり、背の低い人はなんだか気の毒でした。
  練習中に思いっきりスパイクするのでなく軽く叩いた時、監督に怒られた記憶があります。

  中学2年でクラス替えがあり、このクラスからの思い出はたくさんあります。
  2年の(日帰り)バス旅行は中尊寺でした。

  大曲だったか横手だったかの映画館で「卒業」(ダスティン・ホフマン、キャサリン・ロス)を見ました。
  「エレーン」教会から花嫁衣装の彼女をさらいバスで逃げるのは印象的でした。
  この映画でサイモン&ガーファンクルを知りました。
  「サウンド・オブ・サイレンス」「スカボロー・フェア/詠唱」「4月になれば彼女は」「プレジャー・マシーン」「ミセス・ロビンソン」

  恋をしました。初恋です。
  学校のマドンナ的存在で同級生、自分好みの顔立ちとスタイルでした。他にも彼女を好きな男はたくさんいました。
  当時、日記に彼女への思いを綴ってました。
  同じ風紀委員の仕事をしてました。
  好きな娘と一緒なのに、本当は嬉しくてドキドキしていたのに、つっけんどんな接し方してたと思います。本当はもっとお話したかったです。
  この娘には結局打ち明けることはしなかったです。彼女が誰を好きだったのかもわからずじまいでした。

  自分のことを好いてくれた娘もいました。本人から直接聞いたわけではなく、他の人から「●●さんがあなたのこと好きなようだよ」ってな感じです。
  自分も割と好きな娘でした、笑顔が素敵でした。・・・が、こちらも双方打ち明け話はなしでした。

  バレーボール部では(当時は)割と身長もあり垂直ジャンプが89cmあって結構スパイク打ててました。
  1年、2年の練習開始はランニングからでした。暑い日は嫌でしたね。
  冬は体育館で基礎トレーニングしました。腕の力だけで体育館の天井まで上がることができていました。
  ですが、ある時からスパイクを打つフォームがおかしくなり威力のあるのが打てなくなり退部しました。

  冬のかなり雪が積もった頃、バレー部の練習が終わって2階のトイレから何気なく外を見ていたら人が一人歩いていました。
  突然、消えました。
  そう、新雪の中に倒れて埋もれてしまったのです。「こりゃーいかん」で何人かで駆けつけました。
  雪の中から起こしたら酔っ払った中年のおじさんでした。
  家はどこかと聞くと俺達と同じ方向だったので家まで送り届けました。
  危うく凍死でしたね。雪解けの頃に死体となって発見されたでしょうね。

  グラウンド脇にあった合宿所でクラス合宿しました。
  「戦争を知らない子供たち」をクラスのやつらとギター弾いて歌ってました。
  「走れコータロー」の競馬実況のセリフを完コピしてるやつがいました。

  2回ケンカをしました。なぜかは忘れましたが、自分の事を馬鹿にされたんだと思います。
  追い込んでボディーブロー一発でした。
  やっぱりケンカは嫌ですね。
  クラスの女子は「別人みたいだったよー」とビックリしてました。

  中学校入学当初は、後ろから2番めくらいの身長でしたが、そこで打ち止め・・・卒業する頃は前から5番目くらいでした。
  周りはどんどん成長してましたね!!

■青年期 (15〜24歳)

  中学3年は、クラスの仲のいい友人が属していた応援部に入りました。女子がいた記憶はありません。
  この部は楽しかったです。
  応援部の白い校名入りユニフォームがあって、それに長ーいハチマキと白い手袋です。学生服は団長だけでした。
  自転車や横荘線でスポーツ部の応援に駆けつけました。「フレーフレー雄中」「ソーレ」「フレーフレー雄中、フレーフレー雄中」

  修学旅行は北海道の道南でした。学校からバスで移動し青函連絡船利用しました。ずーっと同じバスでした。
  楽しかったはずなのにあんまり覚えていません。

  クラス対抗のバスケットボール戦で、クラスにはバスケ部のレギュラーが2名いたので優勝しました。
  試合の時、敵ゴール近くにほとんどの選手が集まっていたので、自分は誰かがボールをゲットしてくれると信じて敵のゴール近くにいました。
  案の定ボールをゲットしてくれたので、ロングパスをもらいシュートした記憶があります。

  全校運動会でクラスのリレーメンバーとなり2番手を走りました。
  一人200mです。
  バトンもらった時に4番手だったのですが、先行の3人が前半飛ばしすぎたためか後半で失速し自分が1番になりました。
  「やったー」と思いましたが、リレー3番手がバトンを途中で落としてビリになりました。
  しかし、アンカーが陸上部の短距離走選手でアッと言う間に7人抜いてトップでゴールしました。こんなに凄いんだーと感心しました。

  クラス代表で出た走り高跳びはダメでした。入賞できずです。1m40cmがやっとでした。
  背面跳びなんか無い時代です。

  高校の受験勉強は結構しました。授業の他に1日8時間したこともありました。「中3時代」を参考にしてました。
  冬は学校の補修を受けたりしてました。
  志望校は、大曲のおじさんの意見で就職に有利な「横手工業高校」にしました。
  大部分の人は地元の「沼館高校」に進学しました。今思うと自分もそうすればよかったなーと思いました。
  好きなあの娘は「横手城南高校」(女子校)でした。

  高校は横手工業高校(今は廃校)でした。
  入学式には隣家の友人母と自分の母が行きました。
  3年間電気科B組でした。担任も3年間同じ。
  同期の女性は20人くらいだったかな!?
  染色科にたくさんいました。電気科にはとなりに一人でした。
  隣家の隆司は機械科でした。
  俺の家の並び4世帯は同じ年のやつらがいました。
  斜め向かいの裕子は高校行かずにはとバスのバスガイドになりました。
  すぐ隣の隆司は横手工業高校、その隣の剛は沼館高校でした。

  入学して少し経つと校庭に集められ、校歌や応援歌の練習がありました。
  なんか、変な気分でした。

  通学は1年の時は夏場->自転車、降雪時->バスで、1年の春休みに小型自動二輪の免許を取得
  2年〜3年の夏場は125ccのオートバイ通学でした。俺がオートバイ欲しいと父に言ったら新車を買ってくれました。
  ホンダ ベンリィ CB125JXです。
  たまに学校帰りに遠回りしたり、バイク通の友人宅へ遊びに行ったりしてました。
  オートバイは風を切って走る感じが好きでした。

  先輩達は学園祭の時とかナナハンで来てました。ホンダのCB750です。乗りたかったなぁー

  電気理論は手強かったなぁー、苦手でした。

  3年の数学、因数分解の試験で100点とれました。嬉しかったです。

  母は3年間、弁当を作ってくれました。ゆで卵の味噌漬け美味しかったです。2時限目の休み時間に半分、昼食時に半分食べたりしてました。
  授業中に本で隠して弁当食べているのが見つかり叱られているやつがいました。
 学食のラーメンが素朴で美味しかったです。中華そばだったかな!!

  高校2年の時だったと思うけど、仲間と4人で男鹿半島へツーリングしました。とても楽しかったです。
  すれ違うオートバイに指でサイン作って挨拶しました。

   2年と3年の夏休みに東京の大井町でバイトをした。
   川崎の叔母の家から電車で通った。
  バイト先は、叔母の旦那さんの友人で小さい町工場でプラスチック製品の生成なんかしてた。
  そんで俺は出来上がった製品を磨く仕事だった。
  かなり稼がせてもらった。
  3年の時に叔母の旦那さんの故郷である長野に行った。
  軽井沢とか近辺の観光地に行った。

  それにしても、往復の交通費と宿泊費は誰が出してくれたんだろう。

  3年の冬、この年は大雪でした。
  学校の雪下ろし手伝いで大判焼きと温かいほうじ茶が振る舞われました。
  ある日、大雪ですが朝にはバスが通っていて、学校終わってから仲間二人とボーリングしてました。
  適当に遊んだのでバスターミナルに行ったら「運休」の張り紙。
  そう、ボーリングしている間に大雪でバス運休になっていたのです。
  三人して歩いて帰ることになりました。俺の家まで 13km あります。途中疲れて3人で笑ってました。
  3時間40分かかりました。

  確か、2m40cmだかの積雪だったと思います。
  自宅の玄関がまるで地下にあるような感覚で、家の中も暗かったです。2階の部屋から雪の積もった道路に出られました。
  父、母、自分とで雪下ろししました。母が滑って下に落ちたのですが、腰まで雪に埋もれてました。

  雪解けの頃、除雪して端に積もった雪の中空に自家用車が埋もれてました。ずーっと雪の中だったので使い物にならなくなっていたと思います。

  3年になると進路の話が出ます。
  当初、色々考えましたが、いずれ家督を継ぐのだろうと思い学校主催で地元の企業見学に行きました。
  なんとなくですが、郵政に入社して沼館の郵便局で郵便配達とかいいなーとの考え方もあり、初級国家公務員を受験すべくテキスト購入して勉強してました。
  そんな折、担任の先生から電電公社の推薦試験を受けてみないかとの話がありました。
  推薦だと筆記試験が無く面接試験のみとのこと。何も考えなくお願いすることになりました。
  ところが、ある時に担任から「推薦は■■になったから」とあっけない言葉。■■は母子家庭のやつだったので、仕方ないかーーーであきらめ。
 もう、郵政の募集は締め切られてました。
  推薦から一般試験になったので筆記試験の勉強始めた。
  でも、何使って勉強したかは覚えていない。
  筆記試験の場所もどこだったか全然覚えていない。
  面接試験は秋田市のどこかだったという記憶はある。
  そんで、無事合格となったわけです。10月頃だったかな!?

  冬、横手自動車学校に通い教習を受けた。
  卒業検定で1回落ちてしまい、2回めの検定で合格した。
  秋田の運転免許試験場で法規試験を受けて合格、晴れて自動車を運転できることとなった。

  高校の卒業式の記憶は無い。

  4月になったらすぐに入社できるものと思っていたけど、採用は別途だという通知がきていた。
  しばらく、家でゴロゴロしていたと思う。
  大曲の叔父がスズキ フロンテクーペを買ってくれた。当時は羽振りよかった。
  横手電報電話局 機械課で2ヶ月くらいバイトしていた。フロンテクーペで通った。
  面白い人たちがいたけど、もう忘れてしまった。
  十文字の無人局で作業のお手伝いをした。直行直帰でよかった。

  大型自動二輪免許取得のため大曲自動車学校に通った。小型自動二輪の免許あったので限定解除ということで教習2時間で卒業だった。
  教習車は、SUZUKI GT-380 だった。
  秋田の運転免許試験場に行き免許の手続きをした。
  弟がSUZUKI GT-750に乗っていたので、この時初めて運転した。水冷3気筒である。
  2サイクルエンジンなので加速すると煙出して走った。

 夏、雄物川の花火大会の後で、中学校の校庭で数人の同級生とたむろしてたら、それぞれが他の同級生に連絡して10数人集まった。
 何するわけでもなく雑談してたら「田沢湖行こう」と言い出したやつがいて、車数台に同乗して現地へ向かった。
 出発が遅い時間だったので田沢湖には夜明け頃に着いた。
 まだ人がいない時間だった。
 俺の車には、仲良くしていた友人と女性2人が同乗した。
 なんか、淡い甘い感じの記憶である。
 地元に戻って解散、それぞれを自宅まで送って一人になったら「はぁーーー」とため息。なんか、切ない気持ちになった。

 そうこうしているうちに、採用通知が来た。
  昭和50年10月 1日採用で仙台電信施設所と書かれていた。どういう施設なんだろう!? 聞いたことないなぁー・・・と思った。

 宿泊場所の案内なかったし、仙台には知り合いがいないので、どうしようか考えていたら大曲のおじさんに仙台の親戚がいるらしい。
 そこに泊まらせてもらうことになった。

 仙台に向かう日、前日大曲のおじさんちに泊まって出発したか、実家にいて横手から出発したか覚えていない。
 また、おじさんが同行したかどうかも記憶にない。
 ただ、家を出る時に母が涙ぐんでいたのを覚えている。
 交通機関は、国鉄陸羽東線であった。
 汽車での中のこと、仙台駅についてからのこと、おじさんの親戚に行ったこと等々ほとんど記憶にない。
 断片的に可愛らしいお嬢さんと理髪そうな男の子がいたと思う。
 そのほかの記憶も全くない。

 翌日、親戚のおじさんがモーニングコーヒーをご馳走してくれた。
そこまでは、親戚のおじさんが出勤途中に喫茶店に立ち寄ったのだと思う。
 親戚のおじさんと別れた後、タクシーに乗ったと思った。
 そんで行き先告げてどこかのビルについたけどどうやら違ったらしく、資料を見せたら守衛の方が「中電ビルだよ!」と言ってくれた。
  後から分かったけど、この時に行ったビルは仙台電話局だった。

  なんとか入社式に間に合った。入社式のことは覚えていないが、同期は5人だった。
  入社式後に父は家に帰ったようだけど全然覚えていない。

  その後の事はあまり記憶にない。
  お宿は「つた寮」とかいうところだった。同期5人のほかに別組織入社何人かがいた。
  ふとんが足りないとのことで、会社の課長さんが持って来てくれた。

  最初の土曜日の午後(当時は土曜日に半日勤務だった)にもう一人のやつと実家に帰った。 
  帰って何をしたかの記憶は無い。
  家族と酒飲んで、何か語り合って翌日に仙台へ戻った。何したかったのだろう・・・

  その後、何日か勤務して仙台電気通信学園(砂押)での前期訓練が一ヶ月くらいあった。
   無線通信、搬送通信、電信、電力が肩書のメンバだった。
   訓練中の事は全然覚えていない。

   訓練中に、独身寮が決まった。ふとんは秋田の実家から送ってもらった。
  訓練中のやつ一人と同じ、長町新田寮だった。すぐ近くにこけし塔があった。
  部屋は二人部屋で入居当初の先輩は線路技術の人で出張が多く週末しかいなかった。いい人だった。
  確か1階が8部屋で2階が8部屋だったと思う。
  1階の2部屋は寮母さんの部屋だった。小学生くらいの素直な男の子がいた。
  仙台駅前まで直通の市バスがあったけど、国鉄長町駅まで歩いて鈍行に乗って通勤した。
  長町駅の立ち食いそばが美味しくて、たまに朝食として食べた。

  特徴のあるアクの強い先輩たちが多くて、よく酒を飲んだ。楽しかった。

  時期は忘れたけど、仙台電気通信学園(砂押)での後期訓練が3ヶ月くらいあった。
  この時は電信機械班だった。
  東北各県から集って日々学習した。楽しかった。
  当時「空手バカ一代」が流行ってて、青森から来た二人が雪の中で組手してた。

  二十歳くらいの時に、初めて鈴鹿電気通信学園へ訓練に行きました。
  当時は新幹線がまだ走ってなく、7時間くらいかかりました。
  仙台 -> 東北本線 特急 -> 上野 -> 山手線 -> 東京 -> 東海道新幹線 -> 名古屋 -> 近鉄線 -> 三重県 鈴鹿市 白子
  上野駅過ぎると異国へ行くような気分でした。帰りは上野駅に行くとホッとしたものです。
  鈴鹿学園の訓練には日本全国から訓練生が来ていました。
  寮は4人部屋でした。
  学園の食事はあまり美味しくなかったです。赤味噌の味噌汁でした。
  学園の食堂1階に自販機のそばとうどんがありました。好んで食べました。美味しかったです。

 弟がもうバイクに乗らなくなったので、帰省した時に乗って帰った。「スズキ GT-750」だった。 

 仙台音楽鑑賞協会(仙音)の会員になり、神割崎のキャンプに寮の後輩と同期のやつに借りた「ホンダ CB-550」で二人乗りして行った。
 「スズキ GT-750」は同期のやつに貸した。
  お天気も良くてキャンプファイヤーしたり泳いだりして女子も何人かいて楽しかった。

  後輩が入ってくるようになり、自分の部屋の相方もそれまでの先輩が結婚退寮し後輩が同室になった。
  この後輩の友人が良く部屋へ遊びにくるようになり、よく酒を飲んだ。
  夏場はビールをケースで購入し、どんぶりに注いで飲んだ。最高に美味しかった。

 会社の一つ上の先輩と同期のやつと3人で北海道へ車で旅行した。
 先輩の家(青森)へは、JRで行き先輩の車で旅行となった。
 中学の修学旅行以来の青函連絡船で懐かしかった。
 稚内の駅では車の中で3人で車中泊した。狭いので寝苦しかった。
 民宿や国民宿舎、会社の保養所とかに宿泊。定山渓ではキャンプした。
 途中で車のマフラーが落ちて、ディラーでマフラー交換した。
 最終日の夜は青函連絡船に間に合わせようとしてかなり飛ばした。
 色々あったけど楽しい旅行だった。

  この寮には3年くらいいた。
 
  一人部屋に住みたくて希望を出したら霊屋下にある独身寮に決まった。
  引っ越しの日は職場の先輩が軽トラを出してくれ、同室の後輩が手伝ってくれた。自分はオートバイで移動した。

  入居当初はトイレ近くの部屋で3畳くらいだった。備え付けのベッドがあった。
  日があまり当たらず冬は寒い部屋だった。
  でも、待望の一人部屋でまったりしてました。

 その後、退寮の関係で日当たりの良い南向きの部屋に移ることができました。

  1978年6月12日(昭和53年)  17時14分 宮城県沖地震がありました。22歳でした。
  丁度退社直後で同じ寮に住む先輩の車に同乗していました。
  道路が波打って、車がグラグラと横に揺れました。
  停電になって信号も停止し優先道路の車は異常なスピードで走っていました。
  寮に帰ったら、部屋の荷物が散乱し自分の部屋に入れない人がいました。自分の部屋は物が少なかったので無事に入室できました。
  お風呂も食事もダメでした。何食べたのか忘れました。
  お風呂に入りたくて、オートバイに後輩を載せて、仙台学園や福田町にある独身寮へ行って風呂入りました。
  仕事でも地震で壊れた端末機の修理・交換作業をしました。

 地震の後、同じ施設の先輩とお酒飲みに行きました。
 そこで妻と知り合いました。
 当時、妻はその先輩と付き合い始めだったと思います。
 お酒飲んでいるうちになんか変な雰囲気になって、どういうわけか(酔っていたので経緯は覚えていない)先輩が帰ってしまいました。
 自分は彼女ともう一軒飲みに行ったようですが、あまり覚えていません。
 当時、自分はうぶだったので、男らしくタクシーをつかまえて妻を載せ帰宅させました。

その直後、自分は友人達3人と車で能登半島へ旅行にでかけました。
飲んで、食べて、地元の人や旅行者と交流して楽しかったです。
輪島のなんとか言う海沿いにあるホテルで夕陽を見ながらの入浴は気持ちよかったです。

そこから妻と2年くらいお付き合いしました。
自然の成り行きなのでしょう。性行為をするようになりました。
ある時、生理が来ないとのことで妻の友人からの紹介により原町のなんとか産婦人科を受診しました。
妊娠三ヶ月でした。

その日のうちに妻の実家へ行き妊娠を報告しました。
そうするのが男だと思ったからです。
義母は義父に連絡し義父に対しても報告しました。
「大切な娘さんが妊娠しました。申し訳ありませんでした。」記憶にないのですが涙ながらに話したそうです。
「で、どうすんのや!?」とのことだったので「結婚させてください」と言いました。
中絶という選択肢は頭にありませんでした。
そこからは、結婚に向けての行動が始まりました。
先輩からのアドバイスを受けて、式場の資料集めとかしました。
会場の決定と予約、打合せ、招待客の集計等々です。

仲人さんは、妻実家で昔から懇意にしていた(今はなき)荒巻医院の院長ご夫妻にお願いしました。

そうして、昭和55年 5月 5日にホテル白萩にて結婚式、披露宴をしました。
23歳と10ヶ月でした。

新婚旅行は八幡平のプータロ村というところです。海外旅行の選択肢はありませんでした。考えもつかなかったです。
今は無いだろうなー
そこのバンガローを借りました。

ちょっと八幡平をめぐった後、秋田の実家へ寄りました。

その年の10月に長男が生まれました。

ここからは記憶の思いつくまま以後の事を書いてみます。

【会社時代の事】

■19歳から28歳まで

仙台電信施設所に勤務

搬送電信単局装置、電報中継装置(リレー式)、初期の電話FAX、加入電信宅内装置(TELEX)、データ宅内装置等々の建設、保守に従事しまし た。
この施設はレクリエーションが充実してて、バレーボール大会(9人制)、ソフトボール大会、海水浴、歩け運動等々あり楽しかったです。
終了後は必ず仙台銀座で酒盛りがありました。
酒宴と言えば、職場の飲み会や有志の酒飲みが頻繁にありました。
酒飲みの日の夕方、地下の風呂場で入浴している人に遭遇したことがあります。
昼休みも保守で出かけることがあるためか11:20頃に昼食とってました。
20歳くらいの頃、泊まり勤務も経験しました。
年末の31日に泊まり明けの勤務があり、汽車で実家へ帰省しお正月を過ごした憶えがあります。

19歳の時から研修で鈴鹿電気通信学園に行きました。
東北本線(仙台・上野) -> 山手線(上野・東京) ->東海道新幹線(東京・名古屋)->近鉄線(名古屋・白子[三重県]) -> 学園(バスかタクシー ) で 7時間くらいかかりました。
東京駅に着くと「さぁ、始まる」みたいな感じ、帰りは上野駅に着くともう帰った気になっていました。
鈴鹿学園では、日本全国から大勢の研修生がいました。
長期研修(二ヶ月半くらい)では、休日になると遠方からの研修生だけ学園に残っていました。
残った皆で暇だからソフトボールしてました。
毎日、オアシスで酒飲みしてました。
仙台から先輩3人と同じ研修コースになり車で行ったことがあります。一泊二日で舘山寺温泉に一泊しました。
その車で現地にいる先輩を加え、飛騨高山に旅行しました。いいところでした。
研修コースで知り合った人と琵琶湖へ日帰りで行ったことがあります。フェアレディZでした。

現場の仕事から離れ、事務室で保守の事務作業(分析・報告・統計・会議)してました。
その時に宮城電気通信部 機械保全課 勤務の辞令を受けました。
その後、なんかの病魔に侵されました。
4月1日 辞令持って挨拶後に自宅ですごく具合悪くなり、食欲なく吐きました。胃液しか出ませんでした。
職場の人がただ事でないと察して帰りなさいと気を使ってくれました。
妻実家へタクシーで向かい荒巻医院の院長に診察してもらい入院することになりました。

荒巻医院に入院した翌日、苦しみだしたので救急車を手配されました。
義父が同乗してくれました。
搬送途中、救急車の窓から歩道橋が見えました。国立仙台病院に搬送されました。脳外科に入院です。
その後は昏睡状態に陥り2日間目覚めなかったそうです。
CTスキャンとかされたようですが記憶にありません。
もう1日目覚めなかったら脳の手術したそうです。

そのまま1ヶ月ほど、国立仙台病院と荒巻医院に入院し療養しました。
その間は、仙台電信施設所の後輩が自分の変わりに宮城電気通信部 機械保全課で作業してくれたとのことです。
これが28歳の時でした。

■29歳から現在まで

一気に思いつくままです。

宮城電気通信部 機械保全課には、2年半くらい在籍したと思います。
現場から何も知らず管理機関に行ったので、仕事の仕方や心構えについて結構きつかったです。
当時の係長には厳しく教育されました。言い方は乱暴ではなかったです。
最初は何のために言われているのか理解できなかったです。
おかげで一端の管理機関の心構え、考え方、仕事の仕方を習得しました。
以後の人間形成がここで培われたと言っても過言ではありません。

ここの途中で会社が民営化になりました。
仕事の仕方がガラっと変わりました。

会社の組織整備があって、伝送無線課になりました。
なんか、別の系統の人たちと接して色々と勉強になりました。
組織整備と言えば、その会社は2〜3年くらいの期間で頻繁に組織整備がありました。
その都度、仕事の区分けについて変動になるものだから、暫くは混乱の期間がありました。



【プライベートな事】

年齢記載はありません。記憶の思いつくままです。

プライベートな事って、時系列であまり思い出せないなぁ!

独身の頃に仲間と行った「北海道」「能登半島」旅行は楽しかったなぁーーー

結婚直後は中江にある社宅に入居しました。
星型住居と呼ばれる建物で四畳半、四畳半程度の台所、六畳間、バス、トイレ付きでかなり古い建物でした。
入居前に先輩から聞いて自前で壁を白ペンキできれいに塗りました。

ここの敷地は狭く、駐車場はお互いに声かけ合わないと出せないことがありました。
ある程度無言の了解でなんとなく駐車場所が決まっている人がいて、それ以外の人は早いものがちで車の出し入れが容易な場所へ止めてました。

近くには暴力団事務所があり、銃発砲事件とかありました。

ある時、妻が部屋の鍵を無くしたとのことで連絡がありました。上の部屋の方へお邪魔してたようです。
当時の自分はかなり動くことができたので、部屋の窓が空いているのではと思って、上の部屋の方のベランダから自分とこのベランダへ降りました。
そしたら見事にサッシが閉まって部屋に入れませんでした。
上のお部屋の方へ戻れるかと思いましたが、やっぱり下りより上りは難しく諦めました。
そんで、上の部屋のご主人が近くの鍵屋さん・・・と思いますが・・・を連れてきて鍵を開けてくれました。
その間、自分はベランダでジッと待つのみでした。
当時からちょっと思い込みでおっちょこちょいな面がありました。


今日はここまで・・・・令和6年(2024年)08月12日(月)
名前
メールアドレス
このページは役に立ちましたか?
役に立っ た
役に立たなかった
コメント

管理人プロフィールへ戻る
サイトトップ