池田諭には、単行本以外に、多くの雑誌に発表した文章がある。その一部は、1979年に発行された『学ぶこと生きること 真の人間教育を求めて』(大和書房刊)に収められている。今回ここには、それ以外のものから任意に選び、発表された年順に掲載した。
1998年3月 池田諭の会
学生の転向(思想の科学)1964年5月号
知られざる松陰(潮)1964年9月号
自由を求めてはばたく精神(社会人)1964年11月号
週刊誌の可能性(思想の科学)1965年2月号
佐久間象山(歴史読本)1965年4月号
一つの暴言(神奈川の教育)1965年NO.18
現代における教師のあり方(中学教育)1965年11月号
現代青年の現実と方向(社会人)1967年2月号
期待される女教師像(中学教育)1967年3月号
六三制教育は間違っている(クリティーク)1967年6月号
夏休みと教師の研修(中学教育)1968年8月号
吉本隆明の人と思想(経済往来)1968年12月号
塾教育のすすめ(展望)1969年4月号
教育の意味を問いかえす時(小6教育技術)1969年4月号
大学教育にあらわれた男女差別(婦人教師)1970年1月号
わが著書を語る 日本の右翼(出版ニュース)1970年4月中旬号
親鸞・道元・日蓮と現代(歴史研究)1972年1月号
一切の原点から問い直そう(第3文明)1972年1月号
宗教と人生(新世)1972年11月号
自他ともに大切にすること(泉の光)1973年8月号
宗教書ブーム その背景を探る(新世)1973年11月号
書かずにいられぬもの(私の文章作法 聖教新聞社編)1974年4月発行
祀るに相応しい国家こそ先決(泉の光)1974年8月号
岡倉天心(PD研究)1975年4月号
夢と情熱(れいろう)1975年7月号
「少年の才は重んじてはならない。ことに見識が定まらない時期の才能など、狭量で、小成に安んじ、ますます客気を生じてだめになる」
これは、松下村塾を通じて、変革者の教育をみごとにやってのけた吉田松陰の言葉であるが、秀才中の秀才として周囲から評価されていた彼の十九歳の時の発言であるということを考えるとき、この言葉は一層の重さをもって迫ってくる思いがする。松陰は人の見識は三、四十歳にならないと定まらないと考えていた。ことに、少年や青年の時期に考え、描いたことは社会的実践の段階でで必ず璧にぶつかるもの。変革者としては、誰もが共通して、この段階をのりこえなくてはならないと考えていた。おそらく、こうした松陰の見解は、自らの体験と同伴者達の行動をふまえて生まれたものと考えられるが、だからこそ、教育者松陰はその弟子を育成するにあたって、なによりも、その挫折のないことを願い、客気をいましめ、自分自身に即した着実な思考と実践を求めている。
十七歳の久坂玄瑞に与えた、次のような松陰の手紙はこのことをもっともよくあらわしている。
「貴方の議論はうきあがっていて、思慮は浅く、本当の心の底よりでたものではない。世の中の、悲憤慷慨を装って、自らの名利を求めている類と異ならない。……世の中には、為すべからざるの地なく、為すべからざるの身というものはない。事を論ずるには、自分の場所、自分の身体からはじめるべきである。これこそ着実というもの。貴方は医学生である。私が囚徒の立場から論ずるように、医学生の立場から論ずベきである。これを論じないで、天下の大計を論じても、益するところはない。今貴方のために、貴方に従って死ぬる者が幾人いるか。貴方のために力をだし、材をだす者が幾人いるか」
私は「学生の転向」というテーマを前にして、百年前の松陰とその教育のことを考えないではいられなかった。これ以上に、彼のことを諭ずるのは、本論からはずれるので他の機会に譲るが、松陰のこうした思想的伝統、教育約伝統が継承され、発展されてこなかった悲劇を考えないではいられない。ことに、現代は革命路線からの脱落、後退がなしくずしに、それも広範囲に進められているといわれているだけに、なおさらである。戦前戦後の学生の転向が、松陰以前の時点でおこっているといってはいいすぎになるかもしれないが、明治以後、「学生の転向」について松陰以上に、適切で有効な発言と対策をしてきた者を私は知らない。
だから、学生の転向を考える場合に、私はまず、転向以前の時点にたって、考えないではいられないのである。それは、学生に果して、思想的に転向と呼ぷに価するほどのものがあったかどうかということである。この問いは、彼等学生が一の革命路線を決定する決定のしかたにおいて、果して思想的であったかということである。思想的に決定するとは、今日、生命をもっていると思われる種々の理論体系については、それ自身において理解し、その中から主体的に判断し、選択するということである。だが、学生活動家というか、学生革命家もその多くは、はじめ、彼等を長い間試験や古くさい倫理でおしつぷしてきた大人達に反動的に反撥したものにすぎないが、その過程で、彼等の新しい思想と倫理のよりどころとなるのが、大抵共産主義の理論であるために、彼等を鋭く革命的にするのである。それは、共産主義が彼等の青年らしい正義感とヒューマニズムに応えると同時に、大人達が共産主義を忌避しているということとも無関係ではない。加えて、彼等学生の飢餓感はあまりにも強い上に性急である。これまで、理論に対して思想的にとりくむ姿勢というものを学んでこなかった者として、彼等がその理論にせっかちに盲従してしまうのも無理はない。その結果は、現実を変革する有効な理論として弾力性あるものとして構想されてきた共産主義も理念化されて、逆に彼等を支配し、彼等をしばることになってしまう。人間解放の視点と姿勢を提供したはずの共産主義理論が唯一の理念として彼等をしばる。ここからは、理念としての理論に盲従していくか、それを放棄して現実に埋没していくか、即ち主義者か脱落者かの二つの道しかないことになる。むしろ、学生の場合、現実の壁にあたって、理念としての理論に往来通りに盲従していけなくなった地点、これまで、学生が転向していくしかないと考え、転向していった地点こそ、自分の中で理念化している理論を一度こなみじんにし、そのあとに、自己に即して、現実変革の有効な理論を構築できる機会だし、そうして、再構築したものだけが、その人の思想であり、その人の立場ともいえる。理論が理論として有効牲をとりもどすのはこの時からである。
これまでのように、学生が一の共産主義の理論だけを非思想的に選択し、現実の壁にぷつかった時、つまり、はじめて自分の思想的立場を創造すべき時にたちむかいながら、その方向に進まないで、全理論の放棄をいともたやすくやってのけ、現実の中に埋没しているかぎり、学生の転向問題は、それ以前の時点で、まず鋭く問わなくてならないものと思う。学生のこうした状況は、転向の問題であるよりは、現実の壁をきっかけとして、彼等が思想的でありうるか否かの問題としてあるように思われるのである。
しかも、このような、共産主義理論の盲信から、現実の璧の前に、にっちもさっちもいかなくなったとき、それをまるごと捨てさるという態度は学生に限ったことではない。戦前・戦中・戦後の大方の転向者の辿った道であった。彼等はその地点で、その立場ばかりでなく、彼等自身の思考さえ断絶させてしまった。人間の主体的思考はその地点でこそはじまるべきものでありながら、それができなかった。学生の転向といわれているものも、彼等の諸先輩のひながたにすぎず、転向をめぐる不毛な思想状況の伝統と無関係ではない。思想的には、転向以前の時点にある学生の思考の問題が、転向問題として論じられるのも、不毛な思想状況による。
私は先に、学生の共産主義理論へののめりこみは、抑圧された中学・高校時代の反動であり、非思想的であると書いた。このことは大学一年生が数的にも質的にも最も革命的で、上級生になるにつれて、反対になっているという数多くのデータがしめしている。勿論、一の理論への接近が何を契機とするかは問題ではない。しかし、大学生であるかぎり、学究徒として、これまでのいかなる理論と倫理に対しても批判的に処し、新しい思想と倫理を主体的に追求する姿勢を求められている。大学生はこの姿勢をもつことによってのみ、大学生となり得るし更には歴史の創造にも参加できるのである。これは大思想家のみがなし得ることでもないし、大思家のみに求められていることでもない。学生が学究徒であるかぎりは、自分なりに確立しなくてはならないものである。また確立しようと思えば確立できるものである。だから学生が学究徒であろうとするかぎりは、共産主義理論への接近が何によろうとも、それへののめりこみは最も忌避されなくてはならない筈である。少なくとも主体的に考える学生達であるなら、一年生の時はゼロに近く、上級生になるにつれて、ふえていくか、それとも同じ状態でなくてならない筈である。不幸にしてのめりこむしかなかった学生も現実の璧におしひしがれようとする自分を発見した時、即ち、その理論を放棄することを迫られた時、これまで以上に、理論を必要としている自分を発見する筈である。自己の喪失という危機を前にして、自分の身体で精一杯考え、判断し、行動することを迫られるからである。おそらく、民族の危機とか階級の危機とかをこれまで絶叫してきたものとは違った重さで、自分の危機を感じるであろうし、その時はじめて、民族や階級の危機が自分の危機と一になってうけとめられる筈である。それこそ、自分をふまえて、自分と民族、階級の解放の道を考える時、考えないではいられない時である。それをまがりなりにも考えぬく能力こそ、大学時代に身につけるものである。大学生活とはそういうものであり、だからこそ意味があるのである。しかし、現実には、学生の多くが自分と民族の解放の道を追求することをやめている。それは共産主義が理念化しているということにも原因はあるが、彼等が大学生になってのめりこんだということとも無関係ではない。なるほど、彼等の正義感やヒューマニズムが共産主義をとらえたわけであるが、問題なのは、中学・高校時代の彼等の正義感やヒューマニズムである。彼等の多くは、周囲の矛盾に眼をふさぎ、大学入学という目的の前に、自らの正義感やヒューマニズムを抑圧してきた。抑圧できる程度の正義感やヒューマニズムしか持ちあわせていなかった連中である。こういう人達なら、大学生として、一時的に解放活動に参加したとしても、就職や出世の前にあっさりとふりすてることは容易な筈である。大学生になってののめりこみは、高校時代に眼をつむってきたことに対するコンプレックスの裏がえしであるといえないこともない。
脱落と後退の姿勢は、卒業期をひかえて、突然に大学生を襲うのでなく、中学・高校時代のものが顕在化したにすぎない。中学・高校を眼をつむってきた人達は、大学生になったとき、まず自分の内部の弱点に眼をむけ、その改造にとりくまなくてならなかった筈だし、先輩達が卒業期を前にして、どんどん脱落し、後退していく現象を、自分達の問題としてとりくまなくてはならなかった筈である。裏切り者とか、転向者とかのレッテルをはって、ののしるところからは何も生まれないことは、誰もが先刻承知していながら、学生運動の中で、積極的にその問題の解決がとりくまれるというところまでいっていない。
かつては、唯一の理念化された共産主義の路線をまもるかどうかということだけが問題にされ、今ではいずれの革命路線が正統であるかということだけが問題にされている。今日の学生活動家の前には、唯一の理念化された共産主義だけがあるわけではない。むしろ、理念化された既成の共産主義に挑戦する。その結果、彼等は四分五裂をつづけている。この四分五裂の状況は思想状況としては好ましいことであり、理念化した共産主義に挑戦したかぎりでは思想的であったし、学生としては当然の姿勢であった。だが学生活動家のせっかちな姿勢はこの時点においてもあらたまらず、折角、新たに創造しつつある彼等の共産主義をまたも理念化してしまおうとする。
理論が理論としての意味と役割を果たすためには、それにむきあった人に有効でなくてはならない。有効でないかぎり、その理論が客観的にいかにすぐれたものであったとしても、その人にとっては無価値であり、時には害でさえある。今日の学生活動家達が自らに有効な理論として、共産主義の再構築に勇敢にとりくみはじめたことはすばらしい。だが、彼等は学究徒として、その再構築にのりだしていることを忘れて、自らの集団を前衛政党として位置づけ、創造の過程にある理論を理念の位置においやる。そこには、大人達への不信が媒介となっている以上、その責任は大人達の側にこそ帰せらるべきであるが、だからといって、彼等の姿勢が許されるわけもない。彼等が依然として十分には思想的ではあり得ないために、学生大衆は勿論、職業革命家になる例外の者を除く大多数の学生活動家さえも疎外していくしかないような理念としての共産主義路線を構築するに終っているからである。そのかぎりでは、昔も今も、人間に超越するものとしての、人間を解放する以上に、人間を支配するものとしての共産主義だけがあるということになる。であるかぎり、一握りの職業革命家のリーダーを除くと、そこには盲従しかない。盲従は現実の壁にぷちあたれば、それをやめるしかない。特別に強靭な意志か、非常な勇気をもつ者以外、それをふりすてるしかないといった方が正確であろう。
共産主義の理論は、本来、自らの力によって自らを解放する理論として志向されたものである。その接近がどうであろうと、一度、その人間解放の視点と姿勢の中に、ずんぶりと我が身をひたした者が、その視点と姿勢を捨てきれるものではない。捨てるしかないのは、彼等にとって唯一の理念化された共産主義路線しかないためである。学生が四年間の学生生活を通じて、それしか持ち得なかったとすれば、彼の学生生活は全く不毛であったの一語につきよう。本来なら、四年間の学生生活で、不十分ながらも自分なりの解放プログラムを構築できる筈である。自分にできる革命路線を構築すべきである。大学生活はそのためのものといってもいいすぎではない。その内容が著しく尖鋭であるか、おだやかであるかは問題ではない。いかなる状況、地点にあっても、人間解放の視点と姿勢だけはもち得るということが大切である。脱落かどうか、いずれの革命路線が正しいかどうかという論争よりも、今日、最も必要なことは、どの学生も人間解放の視点と姿勢を自分の中に定着させるということである。学生運動の当面の課題はこの問題にとりくむことである。
学生活動家にとって、大人達にまかせてはおけないという気待もわかるし、その危機感もわからないことはない。しかし、本当に、民族の危機とか、階級の危機とかいうものは、四年間の学生活動に一回あるかないかである。常時危機の状態にあるといってしまえばそれまでだが、常時、あわただしくそれにとりくんでいるかぎり、学生の中から、本当に現実をゆさぶり、現実を変えていくことのできるような底力は生まれてこない。せいぜい、学生がその多数の過激な力によって、一時的に変えるにすぎない。そこからは、相変わらず、卒業を境にして、脱落し現実を変革するどころか、停滞させる人間しか生まれようがない。それをくりかえすだけである。学生運動はいつ、どの地点で、この悪循環をたちきることができるのであろうか。
たしかに、これまでの唯一の理念化された共産主義路線に対して、新たなる路線を構築しようとしたことは、この悪循環をたちきる一の姿勢といえないこともない。しかし、そのためには、じっくりと腰をすえて、新しい思想と倫理の構築にとりかかるべきである。たとえ、五年かかり、十年かかろうといいはずである。そういう伝統をこそ、できるだけ早く確立すべきである。組合活動の中に、政党をせっかちに持ちこむことによって、組合活動を混乱させることが、愚かであるように、学生運動をせっかちに政党活動化することは愚である。このために政治不信、政治家不信を学生大衆の中に植えつけている害毒も大きいが、学生大衆を学生運動から疎外し、学生運動を矮小化していることこそ問題である。その裾野が広ければ広いだけその上に構築されるものは豊かである筈である。学生活動家は学生運動を学生達にかえすべきである。学生にかえす運動をこそおこすべきである。学生運動を職業政治家になるための実績として利用すべきではない。一握りの職業革命家が生まれるために、何万もの学生達が相変わらず、悪循環をくりかえさせられているとしたら大変である。
学生運動は政党運動でもないし、まして革命運動ではない。一般の学生が大学時代だけしか参加できないような運動しか組織できないような学生活動家が、それを実績として職業的革命家になったとしても、彼等は大衆を組織できる革命家にはなり得まい。政党化し、革命運動化した学生運動は大学に籍があるということで、学生であるというにすぎない人達に指導されているものでしかない。これほど、学生にとって不幸なことはない。
学生が学生であるかぎり、彼等は理論の学習から創造にむかわなくてはならない。その場合、書物を通じて理論を学習していくものとして自然、その理論を観念的にうけとめ、理念化していく傾向に陥る。それを克服するためにも、実践が平行しなくてはならない。しかし、その実践は学生としての実践ということで、実験的性格をもっているし、実験の枠内にとどめる必要がある。学生運動もまた実験的実験である。自分の理論が実験的段階を脱したと思う者は大学を去って、直接に、政党運動、革命運動に参加すればよい。
私はこの小論を書くにあたって、学生運動の盛んでない大学、全くない大学を択んで、何名かの学生にあたってみた。彼等に共通していたことは、大学の講義への不満であった。それは不信をとおりこして、絶望であった。政党化した学生運動に共鳴しないことでも一致していたが、大学の講義を充実するための改革運動ならぜひやりたいという。大学がいかにあるべきか、ことに私学がいかにあるべきかについて、彼等は彼等なりに精一杯考えていた。講義にどう不満なのかということも問題であろうが、ここで大事なのは、現実変革の視点をわずかながらでももっているということである。勿論、それは彼等の生きる姿勢として定着されているわけではないし、それをおしすすめていく思考力もない。放置されていれば、いつか消滅していくしかない視点である。しかも、彼等は、マルクスやレーニンの本一冊すら読んでいない。だが、現代に生きているということだけで、最低、その視点だけはもち得るのである。
学生運動を学生皆のものにしていくとっかかりは、この素朴な視点である。学内問題を一挙に国の政治問題にもっていくために、この素朴な視点が育たないのである。私が学生運動を実験的実践の枠内にとどめろというのは、まず、学生が教授の講義をはじめとして、学内の問題を、教授や学校当局と徹底的に論争し、その改革に大胆にとりくめといいたいためである。この姿勢こそ、最も必要だと思うのである。この姿勢は一見容易に見えて、最も抵抗の多い困難な道である。学外の政治活動はブタ箱いりや、時には、生命の危険さえ伴って大変ではあるが、教授や学校当局を相手にするほど、知的能力を必要としないし、余程のことがないかぎり、学生の身分を剥奪されることもない。余程妙ちきりんな大学当局でないかぎり、彼等を保護してくれる。学生が学外の政治運動に狂奔しているかぎり、彼等に職業人として、その職場で、その仕事を通じて、現実を変革していく視点や姿勢が定着するわけがない。彼等は最も安易な道を歩んでいるともいえる。
就職は脱落と転落への道だと単純に思いこむのもそのためである。そして、実際に、かつての全学連の斗士も、職場では手も足もでず、わずかに、革命の日をまちつづけるしかないのである。
少数の職業的革命家になる者を除いて、大多数の学生は、職業人として、歴史の発展に参加しようとしている。また現実にそういう道しか歩めない。しかも、彼等は、心の中に、せめて、人間解放の視点と姿勢だけは失いたくないと思いながらも、それがいかに可能であるかを知らないままに、現実の中に埋没するしかないとあきらめている。だが、彼等は、その可能の道を本当に知ろうとしたことがあるであろうか。学生から、転向といわれるような現象をなくすることは案外簡単なことではあるまいか。松陰のいうように、学生としての立場から、学生の問題を論じ、その改革にとりくみはじめればよいのである。
吉田松陰における愛と平和について、などと書きはじめると、奇異に思われる人も多かろう。あの過激な、むしろ狂心的とさえ思える尊王攘夷論者のどこに、愛と平和があるのか……といわれそうである。
松陰といえば、誰でも
身はたとひ武蔵の野辺に朽ぬとも
留置まし大和魂
の辞世の一句を知らぬ人はあるまい。松陰を革命家として大きく評価したのは徳富蘇峰であった。しかし時の権力に屈した同じ蘇峰の手によって、尊王家松陰のレッテルに貼りかえられてしまったことは周知のことである。
以後、松陰は、明治維新の原動力となった功績をたたえると同時に、尊王にこり固まった人として遇されてきた。だから日支事変以来、大東亜戦争の終るまで、熱烈な愛国者、尊王家として、持ち上げられるだけ待ちあげられ、昭和二十年の敗戦の日を境として、その栄光の座から引きずり下ろされ、教育界からはマイナスの人物ときめつけられ、過去の存在として打ち捨てられてしまった。そればかりか、明治以後の日本の方向をゆがめた、元凶の一人として指弾されさえする有様である。
私が戦中戦後を通じて、松陰に対して変わらぬ関心を持ち続けていると知ると、たいていの人達が呆れ顔をして見せたものである。わずかに共鳴してくれたのは、松陰へのそれまでの信仰(といってよいだろう)を、そのままの形で持ち続け、郷愁のようなものに寄りかかっている、ほんの一部の人にすぎなかった。
もちろん、私としては、戦後の人物再評価の傾向にならって、松陰をもう一度、民族や階級の英雄にまつり上げようという意図などで、関心を持ち続けていたわけではない。だがそれにしても、松陰の評価は、あまりにもゆがみすぎている。
ゆがめられた吉田松陰
今日に残されている、おびただしい数の松陰の手紙や著書には、たしかに、かなり激しい口調で尊王が説くかれ、攘夷が唱えられている。感情の激しい部分では、絶叫といえるものすらある。この言葉つきに幻惑されるのはたやすい。ことに、尊王攘夷を金科玉条のごとく信奉し、あるいは信奉したがっていた人々は、この好都合の文書に自らのめり込んでいた。松陰が指導した松下村塾の門人達の、松陰死後の行動も、それを裏づけるのに役立った。松陰はやすやすと、尊王攘夷の権化にされてしまったのである。
松下村塾での教育活動から、松陰を教育者という面からのみ、照明をあてられてきたことにも、松陰への理解をゆがめる大きな原因があるように思われる。
杉家の二男に生まれ、六才で叔父吉田大助の養子となって、兵学師範である吉田家を継いで松陰は、その後の一生を通じて兵学者であった。彼の教育活動は、むしろ彼の兵学者としての抱負の延点線上にあった。
過激で狂信的な主義者は、学者とは最も遠い存在である。兵学者においては、現実主義と合理主義が、常に厳しく求められなければならない。現実主義と合理主義を放棄した兵学者は、当然、兵学者の位置から転落するほかはない。
もし松陰が狂信的尊王攘夷論者であったとすれば、彼は兵学者ではなくなっていたことになるのだが、果してそうであろうか。
密出国をはかった動機
松陰について、その悲劇的な刑死と松下村塾での教育活動に次いでよく知られているのは、下田踏海と呼ばれる事件である。これは安政元年三月、当時二十五才の松陰が、日本の開国を求めて再来した米艦に乗り込んでアメリカに密航し、欧米の事情を自らの眼で見、探ろうとの計画からおこした行動であった。
この時の挫折が、その後刑死するまでの五年半という年月にわたって、彼の行動の自由を阻み、教育活動におもむかせた点で、重要な契機となるわけである。しかし、さらに大切なのは、失敗がそのまま死につながるような、当時の国禁を犯すという危険な行動に、彼を踏み切らせた動機だといえよう。
松陰が長州藩内の海岸線をくまなく巡視したのは二十才の時だった。二十一才の時には北九州を旅行し、二十二才から二十三才にかけては、東海道、東北諸国を旅している。東北から北海道にも渡ろうとしたが、これは果さなかった。松陰は、これらの巡歴によって自らの眼と頭で、日本の国情をとらえようとしていた。
はじめ松陰は、当然のこととして、長州藩一藩を国としてとらえ、忠誠を誓っていたのであって、藩内を一国として、内政の充実を考え、人民の生活の安定を願っていた。それが国を守る上での必要条件と考えられた。長州藩の兵学師範として、外敵の脅威から守ろうとするのは彼の職務であった。
しかし、外国の侵略の前に立たされているのが、長州一国ではなく、日本という国全体であることを確認した時、彼の守らねばならぬのもまた、日本という国全体にひろがった。
明確ではないまでも、彼の前には、日本という国が、その忠誠の対象として、愛すべき国家として浮かびあがってきた。そして、それに対立するものとしての西洋諸外国があったのである。
松陰は、兵学者として、守るに価する日本という国を探り出さねばならなかった。今ある日本から、あるべき日本の方向を知るためには、国内の実情をはっきり知ると同時に、ぜひとも先進諸国の事情を、知る必要があった。
また日本に迫る敵としての西洋諸国から、国土を守り、国民を守りぬくためには、それらの国の事情を、どうしても知らねばならなかった。それは世界における日本の問題に取り組む兵学者としては、当然のことであり、むしろその第一歩といってもよかった。だからこそ松陰は、しゃにむに敢行せざるを得なかったのである。一見無暴と見える下田踏海は、日本の兵学者としての欲求に根ざした、現実主義、合理主義の現れであった。
松陰は江戸から東北旅行に旅立つ時、藩の正式許可を得られぬままに出発して士籍を削られ、浪人となっている。
その翌年には、長崎からロシア鑑に乗ってヨーロッパに行こうとしたが果たせず、さらに明くる年、下田踏海を敢行して失敗し、幕府に捕えられたのであった。藩則を破り、国禁を犯そうとした、この二つの行動のなかには、共通した松陰の姿勢と考え方が認められる。遅れて愚かなものへの、激しい反撥と否定といったらよいだろう。それは正義感という単純なものではない。正しい道理への渇望と、深い人間への信頼と愛情を基盤としたものである。
尊王攘夷のスローガン
松陰は、アメリカを含めて西洋列強を夷としてとらえた。インドを皮切りに、南アジアの全域が、次々と西洋列強に侵略され、政治的に文化的に長いことアジアの中心的存在であった中国さえも、不平等条約を押しつけられている有様を知って、西洋列強を夷としてとらえ、日本の危機を痛切に感じないわけにはいかなかった。夷である限り、敵である。攘夷を強調するほかなかったはずである。
もちろん、松陰がはじめに夷と言った時は無意識のうちに、中国における中華思想に影響されていたようである。この誤まりは、山県太華という学者に指摘され、素直にその誤まりを認めた。
誤まりとして認めながら、しかし松陰は、夷という表現をやめなかった。つまり西洋列強を敵として認識した以上、夷という呼び方を変更する必要はなく、今度は意識的に使うことになったのである。
西洋列強のなかでも、松陰はアメリカを最強の敵としてマークしていた。松陰の九州旅行の年(嘉永三年)に、アメリカ国会は、日本の開国を勝手に議決していた。そんなことを松陰は知ろうはずもなかったし、アメリカをそのために恐れたのではなかった。
松陰は、アメリカの大統領というポストにつく人が、国民の中から、政治家としての識見と行動力において最高とみなされて選出されたものだという事実に恐れを感じたのだった。それにひきかえ日本では、徳川の一族だということだけで、三十分も正座していられないような男(家斉)が、将軍という要職についている。その愚かさが、彼の恐れを倍加させた。加えて、日本にやって来たアメリカの外交官にすら太刀討ちできぬ老中、奉行達のの醜態ぶりがあった。
外敵の脅威が刻々と迫ってくることを全体で感じとり、時の幕府や藩府の無力ぶりが明らかになるにつれて、松陰は、当時の彼の知識の及ぶ範囲で、日本を統一できる指導精神を、せっかちに探し求めた。
彼は、彼のすペてをかけて忠誠を誓い、愛情を注ぎこめる、統一された国家という対象が、形態が、どうしても欲しかった。因襲でガンジガラメになっている古き日本から、新しき日本の姿を模索するのである。それも大急ぎで……。それでなければとうていまにあわない。こうして探りあてたのが、紀記に画かれている時代の日本であった。
そこには、外国と対等に交わろうとする気迫がみなぎっていた。藩によってばらばらになっている幕藩体制とは違って、郡県制度によって統一された、統一国家としての日本があった。そこでは、彼が憎んでいた、人材を生かさない世襲制も、最少限度に抑えられるように見られた。このすばらしい時代をリードしていたのが天皇家であった。
そして現に天皇が、日本に迫る外敵のことを憂えて、夜も眠れぬ日を過していると知った時、彼は突き上げられるような感激を味わった。最大の感動をもって、彼はこれにしがみついたのであった。日本を統一し、現代をリ−ドできるもの、それこそ、彼の総てを投入し、忠誠を習誓う対象の核となるべきものではないかと。
明らかに、松陰は、尊王という二字に、フランス革命における自由、平等、博愛、アメリカ独立における自由と人権にあたる歴史的役割を見ていた。
もちろん、尊王はそれらの内容とは異質なものであるが、当時の松陰が構想できた、最も革命的な、反封建のスローガンだったのである。
また、攘夷の二字には、侵略者に対抗する平和への意志に支えられた祖国愛があった。彼はすでにこの言葉の中に、偏狭な民族主義とは違った、インターナショナルな意味を含めようとさえしていたのである。
もし松陰が海外渡航に成功していたら、尊王攘夷ではなく、自由、平等、平和のスローガンを掲げていたであろう。これは決してトッピな推理や夢想ではない。彼の革命的な姿勢と行動から考えて、むしろ自然なことである。海外に出ない限り、それらのことを知り得るには、彼の生きた時代と環境はあまりにも閉されており、狭かった、松陰のあとに続いた弟子達は、愚かにも、反封建の革命的スローガンであった尊王の二字から、反封建家の革命性を喪失させ、さらに時代の進展の中で封建体制の維持強化へ、偏狭な民族主義へと転化させてしまったのである。
新しい国の姿
では、西洋列強の侵略を前にし、統一国家として彼が忠誠を誓おうとしていた日本の姿を松陰はどのように考えていたのだろうか。「政治家たる者が第一になすべきことは、国民をもとにした仁政を布く、ということである。そのためには、兵をまず帰農させることである。
軍備ほど費用をくうものはないのに、今ほど、無駄で無用な兵隊の多い時はない。税を軽くするためには、兵をはぶく以外はない。国民のためになることは、たとえどんなに困難なことであろうと、直ちに実行しなくてはならない。
国政を第一に考えている者は、少しも外国の侵略を心配し、恐れることはない。不幸にして外国が攻めてきたら、その侵略にまかせて、出て戦う必要はない。
国民には自由に降服させて、その生命を全うさせることである。
大切なことは、国民に仁政をしいている国に攻めてくるような敵国は、たとえ富んでいたにしても、決して国民が指導者に心服していないということである。
だから、その国の正義の人達の心をつとめて助長し、その力を助けていけば、必ず、その国には内乱がおこる。その時をつかんで立ちあがることだ。そうすれば、世界中の正義の士が応援してくれるはずである。
とはいっても、この策が断行できるのは、よほどの人を得ないと駄目だが、私としては今日、あるいは今後に、此の策が断行されることを望んでいる」
これは松陰の主著、講孟余話の中に述べられたものである。(この本の主要部分は、松陰が下田踏海で獄に入れられていた時、同獄の囚人に講じたものである)彼はまた、
「もし隣国が、力、徳、義の三つの点で、自分の国よりすぐれている場合は、その国を崇めるがよい。しかし、力をたのんで制圧してくる場合でも、あえて戦わぬ方がよい。たいていの場合、他国の侵略を受け、国民を苦しめるようになるのは、もともと国内が争っており、国民のための政治が行われていないためである」
「小国が、大国にはさまれて生きることほど難しいことはない。その場合に大切なことは、全国民が一体となって、他国の意見によらず、自らの考えに従って行動することだ。いずれの国に従うかということは問題ではない」とも云っている。
松陰は信仰を待たなかったが、法を守り、自らの主張に生命をかけた人とし一て、日蓮聖人を尊敬していたから、あるいはその影響を受けているかもしれない。
松陰の思想は外敵との武力による抗争より、正しい道理にかなった国をつくることを大切にする考え方である。正しい理に対する忠誠といってもよい。
おそらく松陰は獄中で、強大な軍備を持つ西洋列強の攻撃を前にして、比較にもならない武力の日本が生き残る道を考え、考えつめた結果、この結論に達したのであろう。
しかも、それほど貧弱な軍備さえ、国民の生活を圧迫していることから、最小限の軍備に抑えて、国民のための政治に徹するしかないと考えたにちがいない。彼は、正しい道理を行うという立湯で、強国に対決するという、ほとんどぎりぎりの線を打ち出したのである。
松陰にとって祖国を愛するということは、武力なき国家、国民のための政治をする国家、世界に対して道理の立場を貫く国家をつくることであった。
だからこそ松陰は、武力なき平和国家への道を求めながら、夷としての性格を持つ西洋列強に対して、正義を守って死ぬだけの、非常の覚悟を持たざるを得なかった。
そして、指導階級の腐敗と無気力ぶりを眼前にしては、攘夷を強調して叱咤しないではいられなかったのである。松陰の中に、平和を戦い取るという姿勢があったにしろ、彼の攘夷の根底をなしているのが平和思想だったことを見落してはならない。
知られざる松陰
松陰の国家に対する忠誠は、道理を貫く国家への忠誠に発展し、それがたまたま、尊王という形をとったにすぎない。だから彼の尊王の中味は反封建的で平和的だった。そしてその底を愛という流れが貰いていた。
「あなた(弟子の入江杉蔵)も佐世(弟子の佐世八十郎のちの前原一誠)も、酒と女性で愉快を助ける事は、必ずやめてくれたまえ。そうしなければ、きっと事を仕損じる。私は江幡五郎の事で、おおいに懲りている。子楫(弟子、岡部富太郎)は酒をやめてくれたまえ。永久にやめよというのではない。
昨夜、三度も口に出かかったが、とうとう云えなかったのだ。今の時節は、酒など飲んでいる場合ではない。一策を得たら、また飲んでもよかろう」。松陰が獄中から、弟子に送った手紙の一節である。「下戸の心で上戸の心をはかると笑うかもしれないが」という言葉もある。松陰は下戸だったから、酒を飲む機会があっても溺れることはなく、自ら求めて飲むこともなかったが、だからといって、他人の酒に関して、とやかく云うという態度はなかった。
かつてある時、塾生である十四才の少年の煙草について、松陰がひどく心配しているのを見た塾生達は、たまたま不在であったその少年の禁煙をたすけるために、自らの煙管を折るということがあった。
それに対して松陰は、
「私は煙草というものをたいそう憎んでいるが、君達が一時の興奮から一生の娯しみを奪うことになりはしないかと心配だ」と云って、むしろ彼等をとめようとさえしている。
ただ、松陰には、洒や煙草や、さらには女性が、現実の逃避や憂さばらしに用いられることは絶対に許せなかった。それは松陰が、人間としての自立、いいかえれば精神の独立を強く求めていたためであった。
幕末の志士といえば、酒と女性がつきもののようにいわれ、門下生の高杉晋作、久坂玄瑞なども、松陰の死後大いに実績をあげているが、松陰にとって、酒と女性は全く別のことに属していた。
松陰は三十年の生涯のうち、ついに女性に近づいたことはなかったらしい。非常の時に生きているという切迫した危機感の中で、彼は、年若い未亡人を作るべきではないと考えていた。さらに、酒や煙草と違って、生身の女性を、自分の娯しみの具として考えることなど、とんでもないことであった。
彼は女性を女性として見る前に、対等な人間として見、遇していた。
〈高須未亡人に数々のいさしをものがたりし跡にて)
清らかな夏木のかげにやすらへど
人ぞいふらん花に迷ふと
(未亡人の贈られし発句の脇とて)
懸香のかをはらひたき我も哉
とわれてはじる軒の風蘭
一と筋に風の中行く蛍かな
ほのかに薫る池の荷の葉
(高須うしのせんべつとありて汗ふきを送られければ)<安政六年五月>
箱根山越すとき汗の出やせん
君を思ひてふき清めてん
右の歌は、現存している松陰の文章中、女性に贈られた唯一のものである。(妹や母など宛は別である)高須未亡人とは、松陰が野山獄に入っていた時の囚人の一人で、女性はこの人だけであった。
この歌に表われている感情はたいそう清々しくて、異性に対する愛情とはいい難い。しかし、彼の他の歌には見られない優しさ、思いやりがこめられている。女性を対等の人間として愛し、いたわった松陰の姿の現れといってよいだろう。
酒や女性に気をまぎらわすことを拒んだ松陰は、酒や女性を愛することでは人に劣らなかった。それは酒を楽しく飲み、女性といつくしみあえる国土をつくるために、進んで自からの生命を捧げたことがよく証明しているのではあるまいか。
このように明治維新に先だって、武力を否定した道義国家、福祉国家、平和国家の実現を構想し、大国の中での小国の生きる道、小国故に果し得る世界史的課題を考え、それらの路線をふまえて攘夷を唱えた松陰が、英米仏蘭にかわってアジア侵略を計画Lた大東亜戦争に使われたことは、彼にとって、また日本にとって、またとない悲劇だった。
むしろ松陰の思想からいうなら、維新から敗戦までの、ほぼ八十年間は、彼にとって空白な期間だったといってよいだろう。平和国家、道義国家を標榜した敗戦の時点こそ、日本民族の指導者、先覚者として松陰を評価し、位置づけすべき時だったのである。
スポーツはつねに躍動をするもの、いいかえれば限りない由由を求めて、大きくはばたくもの、あらゆる障害をのりこえ、制約を排除して、どこまでも自由を求めて飛躍するものといったらよいかもしれない。スポーツとは本来そういうものである。そして、この限りなく自由を求めて飛翔する精神こそ、スポーツ精神と呼んでいいものである。
国家は、その国民にのびのぴと自由を感得させ、限りない自由を享受させる時、始めて本当の国家ということができる。勿論、だからといって、国家は、全ての国民に自由を与えるとはかぎらないし、現在の段階ではすべての国民が自由を享受できるほど、完璧とはいえない。だから、国民一人一人が、自由を求めて限りなく飛翔し、自由の拡大を求めて、どこまでも精進しなくてはならないもの。いうなれば、国民一人一人の自由を求める精神と国家の意志が統一を求めて進まなければならない。
そのとき、始めて、国民の意志と国家の意志が有機的につながり、自分への愛がしみじみと国家への愛につながる。国家への愛に発展するといってもよい。国家はどこまでも、国民一人一人に対して、善き国家でなくてはならず、すばらしき国家でなくてはならない。日本に生まれたことを心から喜べるとき、日本に生まれたことを心から喜べるようなものを発見したとき、それが自然であれ、伝統文化であれ、また、工業国としてのすばらしい成長であれ、そんなものがなくてはならない。なにもないときには、国民一人一人で、それを発見し、創造する以外にない。
国家が国民の自由を阻害し、自由の精神が飛翔するのをさまたげるときには、祖国愛とか、国家愛といっても、とうていおこるものではない。そんな祖国に対して愛着を求める方が野暮というものだ。愛国心はつくられるものでもないし、あたえられるものでもない。わきあがるものでなくてはならない。かつて世界一愛国心のある事を誇っていた日本人が敗戦後の今日、世界でも珍しい愛国心の欠如した国民になりさがったことでもあきらかである。
ここで忘れてならないことは鎖国的愛国心、偏狭な愛国心は愛国心に以て、本当の愛国心ではないということである。それは、オリンピックに何本日章旗があがり、金メダルを何個とったということが、愛国心とは無関係なことと共通している。
スポーツは自由を求めてはばたくもの。そこには、最大限の自由を求めての格闘がある。自己のベストを出しきった者だけが味う安堵と満足感がある筈である。自己の力を出しきった者のみが知る喜びがある筈である。自己のために闘った者のみが知る感激がある筈である。それが祖国愛に通じ、愛国心に通ずるのである。しかも、そこには秩序があり、規律がある。無暴や非合理と異る合理の世界がある。合理の世界に深くわけいった者だけが勝利をものにする。自由と裏表の世界でもある。そして、それが、人類愛、国際愛にも通ずるのである。祖国愛と人類愛を貫くところの自由と合理の精神が燦として輝いているのである。日本精神と世界精神といってもよい。スポーツこそ、自由を経とし、合理を緯とする祖国愛、人類愛というべきであろう。
観客、それは自由と合理に参加しても、自由と合理を創造する人にはなることができない。
「あなた、どなた?」
「週刊新潮のものですが……」
「アラ、そう。どうせ、アラ探しにやってきたんでしょう」
「よくわかりますね」
「そんなこと、聞かなくたって、わかっているわよ。週刊誌なんて、きまって、エログロ趣味で、どんな問題だって興味本位にしか書かないにきまっているわ。」
「ホウ、あなた、週刊新潮を読んでくれているの。そりゃ、有難い」
「馬鹿にしないでよ。私それほど、お粗末じゃないわよ」
「これはどうも。でも、それでよくまあ、私が来た目的がわかったり、週刊誌がどうのこうのと云えますね」
一瞬、顔をこわばらせた彼女は、すぐつきはなすように、
「私、忙しいんです。あなたの相手をしている暇なんかありませんね。失礼します」という。
「君、君、一寸待ってくれ給え。君が私達に反感を持つのは無理もない。怒りたくなるのもわかる。だからといって、君が私にまで怒りをぶっつけることはないでしょう。
初対面の人間を、君の先入観でアタマから敵だときめてしまうこともないでしょう。『マス・コミはけしからん』の、『まちがっている』のと、いくらせっかちに批難したって、それじゃ何も好転しない。君のように、冷たくつきはなすんじゃ、君達を理解しようにも、理解のしようがない。卒直にいって不愉快きわまる。私達がわからず屋なら、この機会に私達を説得するぐらいの意欲をみせてもいいのじゃないかね」
「おっしゃる通りかもしれません。でも、私達は何度も裏切られているわ。取材する時だけ、うまいことをいって、何時も私達をだましてきたのよ。私達のことを、何かっていえば、お嫁の貰い手がないなんて書くんじゃないの。そりゃ書くのは勝手よ。でもそんないい方が、どんなに封建的な考え方に裏づけられているかっていうことに、疑問もおこらないのかしら。そういう記者を信頼しろと言われて、私達信頼出来ると思って? あなたがそうじゃないという保証があって?」
「そういわれて、まさか『私は違う』ともいえないね。いえば、君におめでたい男と思われるのがおちだ。『私の眼をみてくれ』なんて、文学青年みたいなこともいえないしね。だが、今迄に裏切られたからといって、今度も裏切られるときめてかかったんじゃ、君達を理解してくれる者は出ようがないんじゃないかね。週刊新潮の記事が、そのまま、君達を満足させるものになるとはいわんよ。幸い、あなたの大学は自治会として羽田ゆきを決定したが、N女子大学の場合は決定できなかった。だからといって、N女子大学には、あなたの仲間はいないと言えますか。あなた達の羽田ゆきにしても、放っておいて、決定できたわけではないでしょう。
いろんな所で、いろんな人が精一杯頑張っている。自由の拡大をすすめなくちゃならない職場もあれば、価値観の転換のために、上役と斗わなくてならない職場だってある。わかってほしいと思う。今は忙しくて、どうしても時間がとれないというなら、あなたの都合のよい時に、都合のよい場所にでかけていきますよ」
これは、安保反対闘争が激しく行われているときに、「週刊新潮」の記者として、私がT女子大学の自治会の一学生ととりかわしたやりとりである。どの女子大学にいっても、多かれ、少なかれ、同じやりとりがくりかえされたわけであるが、当時、学生の中にある週刊誌への不信がいかに根強いものであるかを感じた。あれから、四年たった今日、週刊誌的世界にのめりこんだ学生の数は可成りの数にのぼると思われるが、本質的には、その評価は変わっていないように思われる。週刊誌を無視するか、週刊誌を過少評価する学生達が相変わらずそこにいるし、そのような学生達を先頭に、それに右ならえをする相当数の人達・反体制派の人達がいる。それは週刊誌に携わる前の私の立場でもあった。無知といっていいほどに、一方的な理解しか示すことのできない私があった。それまでの私は、週刊誌を手にとってみることもまれな、だから、勿論内容や構成について知ろうと努力したこともなかったのである。だが、ふとしたことから「週刊新潮」の取材記者となり、四年もの長い間、その生活をすることによって数多くのことを知り、また、いろんなことを考えさせられたのである。時期的には、週刊公論、週刊文春が創刊される前からはじまって、四年間である。今、その体験をふまえて、週刊誌の可能性について考えてみたい。
週刊誌とは一体何であろうか。週刊誌発行の意味はどこにあるのであろうか。唯単に、一億総白痴化のお先棒をかつぐだけのものであろうか。
週刊誌が購読されているという事実は、少なくとも、読者の要求と関心に応えているということである。その記事が愚劣であったとしても、そして、読者の心をくすぐり、読者にのめりこむものであったとしても、最低、読者の心にピッタリしたものでないと売れない。読者も買って読む程、おひとよしではない。たしかに、女子大学生が言ったように、週刊誌はエロ・グロだが、そのエロ・グロの雑誌に、あるものは売れ、あるものは売れないという事実があることである。もちろん、広告も無関係ではないが、それをこえて、売れる雑誌・売れない雑誌がある。数十の週刊誌があって、みんなそれぞれ売れる部数が違うのである。百万の部数をこえるものから、十万にみたない部数といろいろある。その差を追って、編集部も営業部も必死なのである。だから、エロ・グロであれば売れる、週刊誌はエロ・グロしかつくらないという認識はどうみてもおかしいのである。しかも、エロ・グロのどぎつい週刊誌ほど売れないのである。
週刊誌の違いは、例えば、「文芸者秋」、「中央公論」、「世界」、「日本」の違いのようなものである。一括して綜合雑誌と名づけても、これらを同一視するものはあるまい。週刊誌もそれに近い違いをみせるのである。「週刊公論」、「新週刊」もある意味では、その違いを明確にだそうとして、悪戦苦闘の末、つぶれたということもできるのである。
それでいて、週刊誌の大勢はエロ・グロを志向している。志向してあくことがない。それはあきれるというしかないほどにすさまじいものである。よくもまあ、あきることもなしに、性を追求できるものだと、そのヴァイタリティの豊かさに驚くのであるが、本来、性そのものが、限りないヴァイタリティをその内部にもっている。性のヴァイタリティが編集のヴァイタリティを誘発するといった方が正確かもしれない。編集者も記者もそのヴァイタリティに魅せられているといってもいいすぎではない。それを軽蔑しながら、或いはそれを呪いながらも、性そのものにひきずられていくのである。時に違和感は感じても、結局は性にまきこまれる。性とはまさにそのようなものである。
しかも、性から疎外される者はいない。だからこそ、性を週刊誌の性にたてるのである。ある雑誌はエロとなり、ある雑誌はグロとなるのは、性をどういう角度から追求するかによってわかれてくる。
最近、ある週刊誌の編集者は、「性」と「金」と「出世」を編集の三大方針にしていると語ってくれたが、「金」と「出世」は、対象との格闘なしには得られぬものだが、「性」は、格闘なしにも楽しい気分になれるという面がある。本来からいえば、「性」もまた格闘を必要とするものだが、それを省略することが可能である。そこに「性」が生産的とならず、堕落する可能性もでてくるのである。しかし、金と出世における対象との格闘とは、体制側内部におけるそれである。それが、反体制側のものとなることは決してない。それに反して、性は常に批判的であり、また進歩的であることによって、反体制的となり、生産的となるものである。体制側にとどまって、習慣をくりかえすことしかない性は、エロ・グロになるしかない。それは、性というものが、本来、自由を欲するものであり、常に、現状を破り、現状を変えていくことによって、性の機能を果たすものだからである。性における対象との格闘とは、常に現状を破り、現状を変えていく格闘である。週刊誌が性を描いてエロ・グロとなるのは、どこまでも体制側にあって、現状に流され、現状に妥協しているかぎりどうにもならないものである。
だから、週刊誌が「性」に密着することはよい。「金」や「出世」におぼれることよりも、数等いいことである。「金」や「出世」は体制側のものとして、もうけること、階段をのぼることという一義的意味しかない。そこには、金をもうけるという価値しかない。価値への疑いもなければ、ましてや、価値を創るということもあり得ない。それに反して「性」は多義的であり、どのような「性」を創るかによって、価値への疑いもあり、価値の創造もある。到底、同じ次元で論じられるものではない。
最低、今ある性の常識についての疑いから始まって、性の常識の否定ということがある。あるべき性の創造にいかなくとも、常識的性の常識、それは日常的ものの考え方にまでおよぶもの、それを疑ってみせるだけでも十分に意義がある。少なくとも、週刊誌はその役割を果たしている。積極的役割ということはできないかもしれないが、消極的役割は十分に果たしている。いうなれば、価値の崩壊にむかって、今の週刊誌は役割を果たしているのである。絶対というものを認め、絶対というものに弱い日本人の思想的風土のなかで、いかなるものも絶対ではない、相対的価値しかない、頼るべきいかなるものもないということを教えているのである。
たとえ、「金」や「出世」がすばらしいものに見えても、すばらしいものに措いても、結局は、空しいもの、たわいないものということは、どこかに出てくるのである。それは、編集者が何よりも、「金」と「出世」を疑っているからである。生きていくために必要なものであっても、それ以上の価値はおかないからである。
だから、性にはじまって、すべての価値を疑い、すべての価値を否定するところに週刊誌はむかっているといえるのである。それは本来の価値を創造するための準備ともいえる。必要かくことのできない作業ということもできる。
週刊誌をつくる人達が、この消極的役割から、積極的に、価値の疑い、価値の否定へと向えば、それ自身すばらしいことであるが、たとえこの消極的役割におわっていたとしても、十分に意味のあることである。しかも、週刊誌は一億総白痴化の一翼を担っているとはいえ、多くの読者にとっては、依然として週刊誌は知識の源となっているのである。鋭いとはいえないまでも、政治・経済・社会についての知識、それを分析してみる能力をまがりなりにも得ているのである。深く・広く知ることは出来るのである。しかも、夥しい人達がそのように作られつつあるのである。
週刊誌に魅力がなくなったら、単行本を、専門書を読めばいいのである。週刊誌の魅力を感じている間は、週刊誌にうつつをぬかしておればよいのである。週刊誌時代が現出したといっても、それで綜合雑誌の売れ行きが下がったわけではない。綜合雑誌の質がおちたわけもない。たしかに、難解で、わけのわからぬ論文を、現実に有効性のない論文をありがたがって読まなくなっただけである。
週刊誌の尨大な読者は、少なくとも本を読む階層である。創価学会は学会員に本を読ませることに成功したが、此の人達にどんな本を読ませるか、読ませないでつきはなすかは、本をつくる人達の問題である。
では、どんな週刊誌を作り得るというのであろうか。どんな週刊誌が可能性として考えられるのであろうか。
性に密着することはよい、だが、そのためには、性にまず、どんぶりとはまりこむことが必要である。どの週刊誌も、まだおっかなびっくりで、せいぜい、性を横眼でにらんでいるところをでていない。それも、性のテーマをテーマにしないで、わずかに、性におぼれ、性に流されているのにすぎない。そこには、性はあっても、性のテーマがないというのが実情である。もちろん、性のテーマにとりくむためには、性そのものにおぼれなくてはならない。まず、おぼれることが必要である。それが、多くの週刊誌にないのである。横目でにらんだ、物欲しげにのぞいた性しかないのである。もし、ひらきなおって、性の中にとっぷりと身を浸すなら、そこから、性のテーマをさぐり出さざるを得なくなる。性には、夥しいエネルギーはあるかもしれないが、性そのものだけでは食傷するしかないものである。性とは、所詮そういうもの、それだけのものである。だから、どんな編集者でも、長く、性そのものに耽溺していることはできない。できるのは、異常なものたちだけである。
だが、性の中に、テーマを発見し、テーマを追求する者には、いつまでも、どこまでもそれができるのである。また、しなければならないものである。
性のテーマを追求するとは、人間の性を、人間の間の性を追求することであり、政治的背景、経済的背景、社会的背景の中に追求することである。どんな性的事件であっても、それが政治的事件、経済的事件、社会的事件でないものはない。性の記事を性だけの記事におわらせるのは、編集者と記者の無能である。政治的分析を、経済的分析を、社会的分析をなしきらないのは、編集者の、記者の無力である。
性の記事は、編集者の、記者の分析能力に応じて、人間ドラマともなれば、政治、経済記事にもなる。また、社会的記事にもなってくる。まして、性が本来、自由であり、慣習や堕性を廃して、常に前進と脱皮をつづけるものであるかぎり、性の立場にたつということは、すべてのものに批判的であるということである。性が性であるかぎり、どこまでも、現状を破壊していくように作用する。それは同時に、読者のヴァイタリティを喚びおこし、枯渇した人間に活力をあたえる立場である。
今の週刊誌には、性はあっても、性を横眼でにらむことはあっても、性のテーマがないということが致命傷なのである。性の消費浪費はあっても、性の生産がない。それでは、性はマイナスにしか作用しようがないのである。性のテーマほど、人間を、人間関係を厳しく問うものはない、愛情も誠実も責任もその関連のうちにでてくる。性をゆがめ、いびつなものにしているのも、政治的なものであり、経済的なものである。性の立場から、ゆがんだ政治・経済をも批判できる。批判しなくてはならなくなる。
性が、そのテーマを失うとき、必然に、エログロとなるのである。性の立場は、体制側に属する人達であろうと、反体制側に属する人達であろうと、それに常に活力をあたえ、脱皮させつづけるといえる。
週刊誌が性のテーマを追うかぎり、体制側にたつ者も、反体制側にある者も一様に活力と脱皮をもたらすといったのであるが、週刊誌はまた、徹底的に現実に密着する必要がある。だが、ここにも、週刊誌は一応、現実主義のポーズをとりながら、せいぜい、現実を横眼でみることしかしない。
体制側と反体制側が四つに取組んでいる現実に密着することである。或は、体制側と反体制側が、土俵にあがってにらみあってばかりいて、なかなか四つに組もうとしないのを、四つに組ませることである。その意味では、行司役であり、審判となればよい。中立という立場はそこにだけあるのである。一般に、新聞、雑誌などが、中立というときは、両者の争いにまきこまれることを恐れて、それから逃げた立場をいっている。だが、本当の中立は逃避でなくて、積極約に構えさせる立場でなければならない。そういう立場は可能なのである。
現実に密着して、そこから、停退の原因を発見する。矛盾しているところを発見して、それに照明をあてていく。もし、それが、体制側、反体制側にまたがる問題の場合、鋭く、その核心にせまるような分析ができる筈である。どちら側の人も、ともに、アプローチできるような記事は可能な筈である。ことに、体制側におきた事件、反体制側におきた事件は、それをとりあげることをそれぞれの側が反対する。だが、その矛盾を激しく追求し、あきらかにしてみせることは、反対側よりも、むしろ、同じ陣営内が要求している筈である。体制側の強化を望むのは、体制側の人だからである。反体制側の人も同じある。だからこそ、やりにくいことをその人達に変わってなせばいいのである。そうしていく中で、編集者は、記者はつねに、第三の道をもよくしていればよいのである。第三の道を進んでいけばよいのである。
以上、私は週刊誌の可能性として、性と現実に密着し、それを内側から破りつづける立場を提唱した。少なくとも、歴史の創造に参加しようと心がける人は、そのことにむかって努力している。商業主義の立場をまもりながら、少なくともそれができる筈である。それはまた、発行部数がいずれも下降線を辿っている現在、打つ手でもある。読者はなまぬるいものにはあきてきている。みせかけにもあきている。パンチのきいたもの、本当にパンチのきいたものだけを求めているのである。その点は読者は正直であり、賢い。ただ、流されるという弱点はもっているが。
その故に、パンチのきいたものが必要なのである。本当にパンチのきいたものが。
もし、それができないとなれば、週刊誌には絶望するしかない。絶望だけが残っている。それでは、週刊誌づくりに参加している千人近い人の智慧は徒らに浪費されていることになる。愚かな努力が、知的作業のポーズをとって、唯金をもうけるそのことのために払われているのであろうか。
開国論に死す
元治元年(1864)三月、攘夷と開港の両論がうずまく京都にのりこんでいった象山は、その六月十八日に、松代にいるお蝶(妾)にあて、「もし、私の身に患でもあれば、日本は大乱になると申してよい。甚だ、いいすぎのようだが、今日の議論や日本の運命は私の肩にかかっている。私は日本と其の存亡をともにするつもりだから、人々はいろいろに言っていても、別におそれることはない。私の心はいつもおだやかである」
と、京都の地がなみなみでないことを書きおくって、覚悟の程をしめしたが、それから一カ月もたたない七月十一日に、三条木屋町の寓居の近くで、刺客の手にかかって仆された。時に五十四歳である。
その日、三条大橋には、
「此の者、日頃洋学を唱え、貿易開国の説を主張し、国策を誤まる罪は捨ておきがたい所に、その上、奸賊会津、彦根二藩にくみし、中川宮とはかり、おそれ多くも、天皇を彦根城へ移そうという計画をたて、その機会をねらっていた。大逆無道の国賊につき、今日、三条木屋町で、天誅を加えた」
という傍書がしたためてあった。
象山としては、覚悟はしていたものの、日本の運命をになっている自分がよもや、仆されるとは思いもよらないことであったし、攘夷派もそれほどには愚ではあるまいという期待をもって安心していたに違いない。なんといっても、象山にとっては、西洋列強が日本をうかがっているということが最大関心事であったし、その西洋に対抗し得る日本をつくることこそが焦眉の急であった。彼の眼はすべて、その一点に集中していた。彼は幕藩体制のままでも、指導者達の迷妄をさますならば、進んだ日本をつくれると信じて、終始、その立場で努力していた。
天皇を彦根に移すということも、国論を統一して、開国にもっていくための手段であった。だが、それは、討幕派なかでも攘夷派という過激分子にとってはがまんならないことであった。象山は仆された。
それは、歴史の転換期にあたって、歴史をおしすすめようとする人達が常に辿った悲劇的運命であったが……。
駻馬象山
象山は、文化八年(1811)二月二十八日、松代藩士佐久間一学の子として生まれた。一学は五両五人扶持という、非常に微禄ではあったが、卜伝流の達人で、和漢の造詣にも深かった。象山がそのような父の指導をうけて成長していったことはいうまでもない。
だが、この少年、いたって頭脳明敏であったが、それに劣らぬほどに、駻が強すぎて、調和性がなかった。そのために、敵をつくることも多かった。二十一歳の時に、松代藩主真田幸貫は世子の近習に象山を抜擢したが、それはかえって、その駻馬ぶりに期待したためであった。幸貫は松平定信の子として、父におとらぬ明察の人であったから、こういう動乱の時代には、象山のような駻馬でなくては、ものの用にたたないということをよく知っていたのであろう。
二十三歳の時、始めて江戸遊学の旅に出た。江戸では佐藤一斎の門に出入りして、程朱の学を学ぶ一方、琴などにも興味をしめした。
帰藩したのが二十六歳の時。その年(天保七年)はたまたま降雨が多く、その上気温も低かったので、農作物の出来がわるかった。人々が苦しむ姿をみて、象山はその対策を講ずるとともに、雨や寒さに強い農作物は何であるかと、その根本策を考え始めるのである。それとともに、国を治めるには、どうしても学問を盛んにする必要があることを痛感して、翌年(天保八年)になると、「学政意見書」を藩に提出した。
そこには、「国家を治めるには、必ず風俗を正し、賢才を養わなくてなるまい。だが文のみで、武がなくては真文ではない。武のみで、文がなくては真武ではない……。
不才の人も三十年学べば、大抵は出来あがるものである。不断に努力すれば、何事によらず、一かどは、出来るものである……。
学政は大抵町割にして、十人宛組あわせ、相互に怠惰を励ますことが必要である。すベて、きびしくなくては人気もふるいがたく、怠惰に流れる……」というようなことが書かれていた。だが、象山の意見は用いられなかった。そこで、天保十年(1839)、象山二十九歳の時、再び江戸にで、神田お玉池に「象山書院」をつくった。その書院学約には彼の抱負というか、学問観がよく表現されている。
「言忠信、行篤敬で、聖賢の道に従事するのはよい。しかし、才能があるだけでは、ともに聖賢の道に入ることはできない。志が卑劣で、聖賢の道を学ぶに足らないとし、その良心を捨てて、自暴自棄の生活にあまえる。唯文章にたくみで、博識であれば十分であるとし、自分の為の学問をするのを知らない。好んで大言をなし、外面を飾り、専ら虚名を追い、一生を営々として小人となる者が世間に多い。諸君は自らいましめるとよい。
およそ、学問は徳行を第一とし、才識文芸は第二とすることが必要である。
字を書いても、巧拙をとわず、一生懸命に筆をとって、正確なことが第一である……」
象山はどこまでも、身を正し、国を治める学問を志向していたのである。だから、門弟達を教育するかたわら、再び佐藤一斎に学ぶとともに、梁川星巖、藤田東湖、安井息軒、塩谷宕陰、林鶴梁、大槻盤渓、羽倉簡堂らと交わり、その識見をたかめていくことに努力する。
ことに、天保十二年(1841)六月、藩主幸貫が老中となり、翌十三年に、海防係となるや、象山はその顧問となり、種々意見を提出するようになる。
法は変わるもの
象山は天保十三年十一月、はじめて、日頃抱懐する開国論を堂々と唱えて、幕府二百年の鎖国という政策に真正面から対決した。
「幕府の重要な御規定であるから、政策を変えるということは容易ではないと思うが、これより外に、防禦の方法がない以上、たとい、是迄はどんなに重い御規定であっても、天下の安危には替えがたいと思う……。
天下の為にたてられた御法を天下のために改めることには何の憚りもない。平常の事は平常の法に従うのもよいが、非常の際には、非常の制を用いなくてはならない」(感応公に上りて天下当今の急務を陳ず)。
象山によれば、法はあくまで時代とともにあるものであって、時代の進展にともなって変えなくてはならないという。至極もっともな意であったが、当時では誰一人としてそう思う者はいない。幕府の祖法は絶対不可侵なもの。唯恐れかしこむものでしかなかった。だから、象山が唱えた開国論も洋製にならって鑑船をつくり、水軍のかけひきをならわせるといったような海防八策も用いられるわけがなかった。その点では、英明だとの評判があった主人幸貫にしても暗愚に等しかった。だが、その蒙を啓くには役立った。
当時の象山は、アヘン戦争に刺激され、また西洋諸国を十分に知るところまではいっていなかったため、英国を道徳仁義をわきまえない夷狄と呼び、利潤のみを追う国だから、利になるという見込みさえたてば、少しも我が国に怨みがなくても、どんな暴虐でもする国だといって、その理解の不十分さを暴露しているが、そのいわんとする所はなかなか堂々としたものであった。
これと相前後して、伊豆韮山の代官江川坦庵に入門して、砲術教授をうけたが、坦庵の教授は必ずしも、象山の意には満たなかった。それは、坦庵が心身の鍛錬ばかりを重視して、なかなか砲術理論を教えてくれなかったからである。当時、秘密といって、容易に教えてくれないのは、何も江川坦庵にかぎらなかったが、象山としてはがまんならないことであった。
象山はどうしても直接原書にあたって見る必要にせまられた。西洋の事情を知る上にも、その言葉を知って、直接、原書にあたるにしくはないと思われた。三十四歳という晩学ではあったが、象山には問題ではなかった。必要とみれば、それをはじめる。それが象山の生きる姿勢でもあった。
三十四歳で蘭学を学ぶ
早速、黒川良安と交換教授をはじめた。良安は蘭学に秀でているが、和漢の学に暗いというので、象山に蘭学を教えるかわりに、象山から和漢の学を学ぶことになったのである。
象山が良安から学んだのは、弘化元年六月から弘化二年三月の間であった。わずか十カ月の間であったが、それ以後は大体、辞書を片手に原書を読めるほどに上達した。
ショメールの『百科事典』を片手に「西洋人とて三面六臂ではない。やはり、同じ人である。日本人でも、片端者でないかぎり、良くその書を読み、考えれば、同じものが出来ないわけはない」(藤岡甚右衛門への手紙)という考えの下に、硝子の製造を試みて、立派に硝子を製造してみせたのもこの頃である。それ以後、自信を深めた象山は、地震計など、いろいろなものを作っている。
だが、象山がもっと驚いたことは、江川坦俺が御生大事にしている知識は、問題にならないほどわずかの知識であったことである。山寺源太夫あての手紙にその驚きと怒りをぶちまけている。
「オランダの原書を求めてみると、高島秋帆が江川氏に伝えたものは百分の一にも足りない。悲しいことに、この国の人は志ある者も、その精力がうすく、労力を憚って原書を読まない。たまたま、いいかげんに学んだ者が訳したものをみて、それを秘密にしてしまう。西洋では、印刷して外国に迄送りだしているのに、日本人はかくしている。全く、たわいもない料見のものが多いのに憤激する」
このような象山であったから、自ら原書を通じて知ったことは、残らず弟子に伝え、決して、これを秘密にするということはなかった。門弟にあたえた免許状にも、決して出し惜しみしてはならぬと注意している。
これと平行して、象山は西洋学によって、大いに国利を興そうとした。すなわち「沓野山中は薄地で、五穀は実りにくいから、ジャガタライモを多く植えたい。是は西洋諸国でも、日常の常食にしている国も多いということがショメールにも見えている。救荒の助けになる」といって、輸入されてまもないジャガタライモを積極的に栽培させている。かつて、寒い土地にどんな農作物が適しているかを考えたことがあったが、今それが実際のものとなったのである。
そのほか、養豚を自らやってみせ、薬草類を栽培し、硝石を製し、葡萄酒を醸造するなどのこともしている。すべて、西洋学に負うている。象山としては、一層、西洋学を盛んにする必要があると考えた。だが「西洋学を盛んにするには、その書物が沢山なくてはいけないし、書物があっても、その学のあるものが教導しなければ、その用はなし得ない」(小山田壱岐あての手紙)と思うにつけ、蘭人ドウーフが出版したハルマの辞書を増補改訂して『増訂和蘭語彙』として出版する必要を感じた。それは、国防上からみても、西洋を知るために是非とも必要なことであった。
そこで、嘉永二年(1849)二月、象山は藩老小山田壱岐に、「西洋諸国は学術を究め国力を強盛にして、周公、孔子の国である中国の国までもかすめとろうとしている。それは何故かといえば、西洋の学ぶ所は要点を抑えているのに対して、東洋では学ぶといっても、その要を得ず、いたずらに高遠空疏の談におぼれ、訓詁考証の末に流れてしまっているからである」と言って、『和蘭語彙』を出版するように説得したが、拒絶されてしまった。
やむなく、象山は自費出版することを決心して、出版資金千二百両を貸してくれるように、藩主に上書して請願した。幸にそのことは許されて、百石の知行を抵当にして金を借りる。念のために附記しておくが、天保十四年に、いろいろの功で象山は百石になっていた。だが『和蘭語彙』の出版のためには、幕府の許可をとらなくてはならない。
老中阿部正弘に「西洋を制するには、西洋の事情を知らなくてはならない。西洋の事情を知るには西洋の言葉を知らなければならない。現在、海防の急務は西洋の事情を知ることから始めなければならない。それには、辞書を刊行することが近道である」と上書したが、出版は遂に許可にならなかった。象山は歯がみをしてくやしがったが、どうにもならなかった。象山はそのくるしい思いを胸に秘めて旅行するということもあった。
象山は西洋諸国の長所を知って西洋に心酔した。それはそのまま西洋への恐怖であり、その恐怖は日本を強国につくり直さねばならないという気持にかりたてた。象山はもはや「唯、自分の国だけが立派だと心得て、外国といえば軽視して、夷狄といって賎しめるが西洋諸国は実事に熟練し、国利をも興し、兵力は盛んで航海にたくみなことは、はるかに日本の上にでている」といって、西洋諸国を夷狄と呼ばなくなったばかりか、「道徳仁義考悌忠信等の教は尽く漢土聖人の模訓に従い天文地理航海測量万物の窮理、砲兵の技、商法医術器械工作等は皆西洋を主とし、五世界の長所を集めて、日本の大学問をなさねばならぬ」と考えるようになっていたのである。東洋の道徳、西洋の芸術ということは象山の限界でもあったが、彼は彼なりに、西洋の学問を積極酌に取入れようとはかったのである。
加増の周旋をたのむ
話は少し横道にそれるかもしれないが、この頃、友人三村晴山に、武士として十分な働きをするためには、今の知行では少なすぎるから、三百石にあげてほしいが、その周旋を殿にしてほしいという手紙を出している。
「私は百石でくらすことはできない。千里の馬は一食に粟一石を食す。私は千里の馬ではないが五百里の馬位はある。五百里の馬は一食に五斗位はいる。五斗の粟とは、書物を調え、有用の器物を収めておくことである。是をやめては、五百里の足は出てこない。内職などして、それにて生命をつなぐぐらいでは、武士という名だけである。その実はなく、真の御奉公は出来かねる。私がひそかに、見積ってみると、私の力で御奉公するには、年々三百石はいる。これがなくては、子孫の計も一向にはかれない。私が考えるには、それではお互に損だと思う」というのが昇給の理由である。恐らく、徳川治下二百数十年の間、これほど堂々と昇給を要求したものはないのではあるまいか。これは、そのまま、今日にも通用すると思われる程にすじが通っている。
別紙には「およそ、人の等級には天下の人あり、一国の人あり、一郡の人あり、一村の人あり、一家の人がある。天下に幾人とて指を折られるぐらいの人は天下の人である。私は申すまでもなく、天下の人である」とあって、天下人を遇するには、それだけの禄をもってしなくてはならないというのである。ちょうど、象山四十歳の時で「余二十歳以後、一国にかかるを知る。三十以後、日本にかかることを知る。四十以後、世界にかかることを知る」(『省侃言録』)と書いた象山としては本当に世界の運命にかかわる自分ということを自覚して、それだけのものを要求したのかもしれない。自信のなせる事とはいえ、まことに偉丈夫というほかない。
象山が再び江戸に出て、砲術の教授をはじめたのが嘉永三年。この年に勝海舟が入門している。翌嘉永四年二月には、五十斤石衝大砲の試演を試みて失敗したが、見識高い象山のこととて、大いに残念がり、翌月、早速再度の試演を試みてやっと成功するという一幕もあった。十一月にも、松前藩からの依類で鋳造した大砲の試演を試みて、砲身が破裂して失敗している。その時は「天下広しといえども、私の外にはやる人はあるまい。度々失敗しているうち、やがて名人になる時もあろう」といって、松前藩のものを煙にまいている。
たしかに、象山のいう通り、失敗するたびに一歩前進していたのである。しかも、すべては書物を手がかりに、一つ一つ実験していたのである。それは、あくことのない窮理の精神であるといってよかろう。吉田松陰、橋本左内、山本覚馬、河井継之助たちが入門したのはこの年である。といっても、吉田松陰などは入門したというだけで、本気になって象山のもとに通ったわけではなかったが。
嘉永五年になると、かねてからの友人である川路聖謨が大阪の町奉行から、幕府の勘定奉行になり、海防係を兼任した。象山は早速、嘉永三年に一旦幕府に提出しようとして思いとどまった意見書を聖謨にみせた。そこには「相房二州の御台場はどの一つをとっても全く不完全きわまるもので、全体からみても、全く役にたたない。それはわずかに西洋の書物で、火術用兵の一端を知った者の眼からみても明かなことであるから、もし、その蘊奥を究めた者から者から見ると全く遊戯の様にみえるであろう」と手厳しい批判の言葉でうずまっていた。さすがの聖謨も象山の言葉は理解することができなかった。聖謨は幕府の中では、西洋通ではあったが象山の眼からみると、聖謨もまた、和漢の書物に通ずるのみで西洋に通ぜず、その識見は一方にかたよって到底世界の形勢には通じない男と変わらなかった。嘉永六年になって、ペリーが軍艦をひきいて浦賀から横浜にはいると、始めて象山のいったことがうそでないことを知るのであった。この時、象山がいろいろと多方面に活躍したことはいうまでもない。翌嘉永七年(安政元年)再び、ペリーがきたとき、横浜に応接所を設けて、松代藩と小倉藩は警固の任に当ったが、小倉藩に比して松代藩の方がずっと装備は近代化されていた。象山の献策のたまものである。象山のこの時の任務は軍議役であった。
松陰の密航に一役かう
だが、なんといっても、この前後に大きく雄飛するのは象山の弟子松陰である。さきにも述べたように、松陰は嘉永四年に入門したものの、あまり象山の塾に出入りしてはいなかった。象山が日本の現状を真剣に心配している達識の士であるということを知るのは嘉永六年である。
その時の象山と松陰の出合いは劇的でさえある。一方は、かねてから西洋の事情を直接知ってくる必要があると痛切に考えていた象山、他方は、西洋を直接自分で見てきたいということを切望している松陰。そこには、火花が散らない方がおかしいともいえる。
「法は人間のつくるもの、時代とともに変わるもの」(『回顧録』)という象山の一言で、国法を破るという壁を、松陰は容易にのりこえることができたのである。法律は絶対的なものでなく、時代とともに変わっていくものだという象山の考え方、それは体制側にあろうと反体制側にあろうと、常に変革の道を進んでいくものの基礎になる考え方である。
象山は、日本を脱出せんとして長崎にいく松陰に、「環海なんぞ茫々たる。五州自隣を成す。周流形勢を究めなば、一見百聞をこえん……」という詩を贈って激励した。
だが、松陰は渡海に失敗し、象山も彼をそそのかしたという理由でつかまった。象山は取調べ官の前に航海を禁ずる鎖国令はもう死法で、これをまもることは愚かなことである。すでに国法を犯して港に入った米艦は内海を測量し、兵員を上陸させ、要害の地を開港させた。しかるに、西洋の事情を探って、日本のために尽そうとする忠良の士を逮捕して獄に投ずるのは、あたかも盗賊を防ごうともせず、手足をしばって、賊のなすがままにしているようなものである。世が世であるならば、松陰らの行動はほめてやらねばならないものではないか」とつめよったが、それは取調べ官の心証を悪くするだけであった。そこで、象山は、土佐の万次郎の例をひいて、
「漂民万次郎に何のおとがめもないのは、追々外国にいくことも許すつもりであろうが今はまだその時になっていないのであろう」といったが、かえって、政治を批判する者として叱られてしまった。取調べとは名ばかりで、なんとか象山までも罪にしようというのが幕府の魂胆である。死刑になるところを川路聖謨の奔走でやっと藩あずかりになった。
これ以後、象山と松陰の二人はそれぞれ別の道を歩みだすのである。一人は体制側にあって、体制内の変革を、他方は反体制側にあって体制変革の道を。だが、ともに変革の道を歩むということでは共通していた。
九年間の蟄居生活
安政元年(1854)九月二十九日、松代に護送された象山は、家老望月主人の別邸を借りうけてここに住んだ。象山もまた松陰と同じく、蟄居の機会に大いに学ばんとして、毎日洋書な読んで、知識の吸収につとめた。象山は一日として日本の進路を考えないことはなかった。日本が正しい方向に進んでほしいと願わない日はなかった。だから、勝海舟をはじめ、多くの人に手紙を通じて、いろいろと指導する。だが、幕府が西洋諸国の圧力におされて通商条約を結ぶときくと、もう我慢ならなかった。禁令を破って、早速、京都にいる梁川星巌のところに密書を送って、屈辱的な条約は絶対に甘受すべきではなく、そのためには公武融和し、挙国一致で外国にあたる必要がある。だからそのことに奔走してくれるようにと頼むのであった。
手紙を出したのが安政五年一月二十六日。老中堀田正睦が京都で条約の勅許を得ようとしていろいろ画策をはじめた時である。
象山は、その手紙のなかで「アメリカ人の申し立てるところに恐嚇欺瞞が多いから、能くその言葉を理解して、その非をせめ、たとい勢力は均衡せずとも恐れることなく、是非一言は強調しておく必要がある。それは他日許容するとわかっていても、必要なことである。現在、アメリカに応接する役人には、これらの事が少しもわかっていない。ロシアのペートル大帝の様に、広く人を択んで外国に遣わし、その長ずる所の諸術を学ばせ、その形勢事情を探索させ、また、外国の名士を引見して胸襟をひらいて優遇するなどは学ばなくてはならない……」とも書いていた。
だが、京都は頑迷固陋でかたまっていた。象山の弟子橋本左内も藩主松平春嶽の命をうけて京都で活躍中であったがはかばかしくなかった。当の堀田正睦は八千両の大金まで用意して勅許工作をしたが、ついに成功せず、三月二十日には、「三家以下諸大名の意見を求めてあらためて言上せよ」という勅諚を得たに過ぎなかった。
そのため幕府は苦しい立場にたたされることになった。象山は早速、「外国が通商を請うのは天地の公理にもとづくものではなくて、その国の私利を求めてであることは、英国が中国を侵略したことであきらかであることを説き、更めて、日本より、米国に使節を送って、天地の公理にもとづいて、交渉をする」(米使節の折衝案をのべ幕府に上らんとした稿)という意見を出した。その意見はとりあげられないまま、井伊直弼が大老となるにおよんで、条約問題は急転直下解決した。
かねてから横浜の開港を主張していた象山は条約がむすばれたことで一応の望みは達したものの、大老井伊直弼の政策に反対したという理由で、彼の愛弟子である吉田松陰、橋本左内がついに断罪に遭うという悲劇がおこるのである。
万延元年(1860)九月、今は亡き松陰の
一、幕府、諸侯何れの処をか恃むべき
一、神州の恢復は何れの処にか手を下さん
一、丈夫の死所は何れの処が最も当れる
という三質問を運んできた高杉晋作を前にして、象山は何とも答えることはできなかった。象山は、これを弟子松陰がつきつけた課題であり、遺言であると考えたのかもしれない。その後の象山は、この三質問に答えるかのように、大勇猛心をふるいおこして、日本の独立と発展のために、幕府や諸侯を動かしていくのである。
得意絶頂の時代
九年間の長い蟄居生活にも、ようやく終止符をうつときがきた。長州藩主毛利慶親、土佐の山内容堂などがそのために動いたのである。勿論そこには、象山を長州藩や土佐藩にそれぞれ迎えようという思惑があった。
文久二年十一月、長州藩士久坂玄瑞、山県半蔵、土佐藩士中岡慎太郎、原四郎たちがその意を伝えた。だが、あくまで、松代藩を通じて、自らの抱負経綸をのばしていこうと考えていた象山は動く様子もなかった。実際に赦免状が届いたのは文久二年十二月二十九日で、象山が五十二歳の時である。
文久三年一月十日には、
「家老職の家に生まれた者は、馬鹿でも家老職になるというのは悪い制度である。元来、賢者が上にいて、愚衆を指導すればこそ、よい政治ができる。しかるに松代藩の場合は、その器でない愚者が家老職についている。これではよい政治が行なわれる筈がない」(『藩政改革意見書』)と、強く藩政改革を望んだが、勿論それは容れられるわけもなかった。
象山にはまたも楽しまない日々が続いた。日本中は動転しているというのに! そんなところに、京都にいる将軍家茂から、象山に上洛を促してきた。
元治元年(1864)三月二十九日、京都に着いた象山は、早速海陸御備向掛手附御雇という役についた。天下の英傑を以て任ずる象山としては、余りにも微官なのに腹をたてて、一時は松代に帰ろうかと真剣に考えたが、一橋慶喜、山階宮から面会を求められたことでやっと心がおちついた。五月一日には、将軍家茂とも会って、ようやく、象山の心は生き生きとしてきた。ついで山階宮を通して、中川宮に会い、薩摩の島津久光も人をやって、象山の意見を尋ねさせるということもおきている。もともと、名利心の強い象山のこと、全く得意であったに違いない。
象山は元来「学術一致していないと諸侯並びに旗本が要路にあるとき、取捨、選択をあやまって、国家に大きな要毒を流す。学術一致とは東洋の道徳、西洋の文芸をもととして、統一したものを作らなくてはならない」(時事を痛論したる幕府へ上書)という立場にたって、国論を統一することを考えていたが、今や国論を一本にすることは焦眉のことと考えられた。そのためには、攘夷開国とさわいでいる公卿、浪人のいる京都から天皇を彦根城に移して、公武合体の実を挙げ、開国の方針を打出すべきだと考えた。会津藩士でもあり、弟子でもある山本覚馬などと連絡を密にし、山階宮、中川宮、さらに一橋慶喜を説いてまわった。計画は殆んど成るかに見えた。だが、その寸前で、反対派のために、意見のみか、その肉体までも抹殺されるという事態にたたされるのである。こうして象山の望みは崩れ去っていった。それは同時に幕府体制を内部から崩壊させることにも通じていた。「二十歳にして一藩にかかり、三十歳以後日本にかかり、四十歳以後世界にかかる」と豪語していた象山も世界の運命にかかわることもないままに仆れてしまった。幼い時から秀才の誉れをほしいままにしていた象山は秀才らしくその仕事をしていく途中で仆れた。
彼は幕府の老中たる家柄の藩士として生まれたので、その識見、抱負を藩をこえて幕府に採用される立場にあった。それに、藩主幸貫は腎君でもあったので、象山にとっては、なおさら都合がよかった。いくつかの意見は採用されもした。象山は陪臣ではあったが、それなりに幕府体制を支えた最後の巨人であったともいえる。
橋本左内と松平春嶽、西郷隆盛と島洋斉彬のように、象山は英明な君主幸貫の下で活動した。それは掌の中での活動といえる。途中で仆れた左内はともかくとして、隆盛は斉彬の死とともに、徐々に薩摩の枠からはみ出て、反対に薩摩をリードしていく立場にたった。象山にはそれができなかった。象山がそのように育つためには、もっと歴史的経過を必要としたのかもしれないが、要するに出来なかったのである。老中になるような家柄に生まれた環境のせいでもあろうか。
まして弟子松陰のように、藩を離れ、幕府を克服することは出来なかった。最後まで幕藩体制内に終始して、その中で、西洋の諸科学をとりいれて、体制内部の質的変貌をはかることしかできなかった。それは、思想としての西洋の学問、哲学としての西洋の学問に眼を開くことのなかった象山の限界でもある。だが、なぜに、あれほど東洋の道徳に執着したのであろうか。
しかし、いずれにせよ、象山が体制内にあって、歴史を推し進めた偉丈夫であることには間違いがない。歴史の進歩と発展を信じて、それに通ずる道を一歩一歩歩んだとだけはいえよう。
今から十数年前、私が山口県のある高校で教鞭をとっていたときのことである。私はKという同僚と、生徒の指導をめぐって議論をしたことがある。その内容は今はもう忘れてしまったがまた忘れてしまうほどたわいないものにすぎなかったと思われるが、Kも私もその時はひどく真剣であった。
とうとう、私は、「そんな指導ができないくらいなら、教師をやめてしまったらいいんだ」と怒鳴る始末。はては、「君は教育者としては失格者だ」とまでいいきった。Kとしても、それにはがまんならなかったとみえて、「なに」と顔色を変えて、一時は私にせまるかに見えたが、結局議論をやめて机に坐ったまま頭をかかえこんでしまった。私達の議論は他の教師が仲介に入ることもできない程に熱っぽかったために、私とKとが大喧嘩をしたと学校中に評判になるほどであった。
当時の私としては、Kにむかってひどいことをいったとは少しも考えていなかった。それどころか、教育に情熱をわかさない人は教師をやめていけばよいと本当に思っていた。だが、いくらそのように考えていたとしても、面とむかって、そのようなことがいえるわけがない。むしろ、Kにむかって、そういう暴言をいわせたのは、Kを信頼していたし、Kならば、そのことをやってくれるという期持があった。Kへの信頼がそういう暴言になっていたのだ。
が、まもなく、Kは学校をやめて、税務署につとめた。学校をやめるとき「教育は生命がけの仕事だということを知りました。私にはつとまらないからやめます」と挨拶されたとき、「この卑怯者」という言葉を私はやっとのみこんだぐらいである。「Kはやめるしかない。やめればいいんだ」とその時は真剣に思ったものである。
あれからもう十数年になる。今思うと、Kという人間は教師として非常に有能で誠実な男であった。Kのような人間は教師としては珍しく責任感のある意欲的な男であったと思う。Kのような人間は教育界にはますます少くなっている。
私の若気というか、私の暴言がとうとう、此の誠実で有能な教師を教育界から去らせてしまった。誠に惜しい気がする。同時に、言葉というものの恐しさをしみじみと思う。決して、自分が思うようには相手に理解してもらえないと思うと、よくよく注意して言葉は使わなくてはならない。
責任感と誠実の内容
「総合教育技術」の十月号に、坂元昂、太田奈々子両氏による「日本の教師の人間像」という非常に興味のある調査レポートが報告されている。それによると、教師が、自分の性格を批判した場合、中国・四国地方の教師も北海道・九州の教師も一様に、責任感と誠実を高く評価しているということである。
教師が子どもたちに要求したものも、また責任感と誠実が一様に上位に位置している。かれらがいかに、責任感と誠実を高く評価しているかということがよくわかる。しかし、このように責任感と誠実を高く評価した教師が、政党支持ということになると、中国・四国の教師たちが、社会党よりも自民党を多く支持しているのに対して、北海道・九州の教師たちは、圧倒的に社会党を支持している。自民党支持者はわずかに、五%以下という比率である。
坂元・太田両氏は、このように報告したあと、ここから、「自民党支持の多い中国・四国地方と社会党支持の圧倒的に多い北海道・九州地方の間に、『教師の現実像』『子どもの理想像』の差が見られないことである。
保守・革新にかかわらず、これらが一致しているということは、広く、学校教育にたずさわっている教師の意見を参考にすれば、『期待される人間像』についての全国的な統一見解を作りだす可能性のあることを思わせるものである。」との結論をひきだしている。
たしかに、坂元・太田両氏の意見はまことにもっともらしく見える。そのような結論をひきだしうるように見える。
だが、果たしてそう結論してよいのだろうか。ここには、一番大事なもの、最も本質的なものが見落とされているのではないか。本論では、板元・太田両氏を批判するのが目的ではない。ただ本誌の読者と「総合教育技術」の読者が非常に重複していると思われるので、この報告を借りてきたままである。
では、私たちは、この調査から、どんな結論をひきだし、どんなことを学ぶべきであろうか。率直にいって私は、この報告を読んだとき、身ぶるいを感じないではいられなかった。真底、ゾッとしたというほうがあたっていよう。戦後二十年、日本の教師たちは、戦前の教育を、一体どこで、どれだけのりこえたのであろうかと思わないでいれなかった。
かつて、戦前の教師たちは、さかんに、子どもたちにむかって、「立派な人になれ」、「一生懸命勉強せよ」と叱咤激励をしたものである。しかし、何が立派であるのか、何を一生懸命勉強するのかということは、ついに教えなかった。そこから、教育は、さいげんもなく、堕落していくしかなかった。支配者の命令のままに動き、支配者の命令に忠実な人間をたくさん作るしかなかったのである。
この報告からは、これと同じものを見るのである。責任感といい、誠実といっても、自民党の支持者と社会党の支持者では、まったく違うといってもいいすぎではない。
責任感や誠実の内容を具体的にあきらかにすることもないままに、それを抽象的にぼかしたままであるということは、本当に恐ろしいことである。
責任感といい、誠実といっても、何に対して責任感をもつのか、だれに誠実であるのかと考えてきたら、きりがない。だが、そのことが最もたいせつなのである。
何に対して責任感をもつかによって自分自身には不誠実になることもあるし、自分自身に対して誠実であろうとすれば、ある事には、無責任にならざるを得ない場合だってある。責任感と誠実の関係は、けっしてそんなに単純なものでもないし、必ずしも、併存する徳目でもないのである。それを、抽象的にみているかぎり、併存する徳目となってしまう。 誤解されることを恐れないでいえば、責任感と誠実を自己評価した日本の教師ほど、無責任で、不誠実な人たちはいないともいえる。責任感や誠実をあきらかにしないでいられるということは、まったくおめでたい人たちであるともいえよう。
もちろん、坂元・太田両氏がどんな調査方法をしたかということが問題といえば問題だが、たとえ、そうだとしても、無批判的に、このような調査に応じた責任だけはまぬがれまい。
それも、教師が自己評価した中に、どこにも、自主性・主体性ということはでてこないし、子どもたちに身につけてほしい態度の中にも、ついに見あたらないのである。
自主性・主体性のないところに、どんな責任感や誠実があるというのであろうか。自分自身のないところに生まれる責任感は、他人に求められる責任感であり、支配者に忠実という誠実さにもなりかねない。
戦後の教育は、なによりも、自主性や主体性を強調する教育であったはずである。責任感や誠実は、戦前に最も強く要求されたもの、ただ、自主性・主体性のない責任感であり、誠実であったために、ゆがみにゆがんだものとなるしかなかったのである。
私が、この報告をみて、身ぶるいを禁じえなかったということは理解していただけたと思う。日本の教師たちは、それこそ、真剣に、何に対して責任感をもつのか、何に対して誠実であろうとするのか、それをまず自分自身あきらかにする必要がある。自分があきらかでないのに、子どもたちに教えることはできない。
たとえば、時代や歴史に対して、責任をとろうとするなら、いかなる時代、どんな歴史に対して責任をとるのかをまずあきらかにしなくてなるまい。そこから、自民党や社会党に支持がわかれるとしても、それを本当に、自主的に自分で考え、研究して結論を出したかというと、非常にあやしくなる。なぜならば、自主性・主体性を重んじない人たちだからである。
それに、全国を平均すると、三〇%以上の教師たちが支持政党なし(坂元・太田氏の報告) といっている。これは相対的な進歩をおしすすめる立場にたつ民主主義を否定する立場でさえある。歴史に人類に無責任な立場である。こういう人たちが教師の中の三〇%以上をしめて、子どもたちを教える立場にあるということは、これまた、本当に恐ろしいことである。
自分で考えない教師が、考えることをやめている教師が多すぎる。もしかすると、自分で考える能力すらない教師が多すぎるのかもしれない。これでは、教育のなんたるかを解し、そのために全精力を注入している人たちが大変である。まして、かれらと同一視され、同じサラり−をもらっていては救われまい。真の教師は、真の教師になろうとする者は、結束して、自分で考えようとしない堕落した教師、責任感や誠実をお題目のように唱えて、その実、まったく無責任で不誠実な教師を、教育界から、放逐するような運動をおこすべきである。教師の不足によって、文部省や各県の教育委員会の心胆を寒からしめてやる必要がある。
要するに、丹頂鶴といわれる日教組の上層部が、たくさんの教師たちとは無関係のところで、ワイワイいっているにすぎない。自然、教師たちの現実と遊離する。教育界はどうみても、ぬるま湯のような存在である。眠っている。受験・受験で、血道をあげているのが、眠っている証拠である。そんなものは、教育ではない。
教師は専門家である
こんなことを書いていくと、私が、昔のような聖職者を自覚した教師だけを求めているかのように思われるかもしれないが、私は少しもそんなものを求めていない。そんな者には憎悪を感ずるだけてある。教師は聖職者でなければならないとしたところに、偽善者を生みだした。
私は、かって、戦争中、軍隊にいるとき、教師と坊主と巡査ほど、偽善者はいないと感じたものである。柄にもなく、聖職面をしなくてならないところに、自然にそうなっていくしかなかったのであろう。戦後、教師は、教師であると同時に人間である、教師も労働者であるという考え方が一般化した。そして、教師は、聖職者であるという意識から、重圧から解放されて身軽になった。その点では、教師ほどに、解放されたものはいないといっていいかもしれない。巡査が制服にしばられているときに、制服もないままに、本当に人間に復権した。
だが、教師は聖職者をやめてサラリ−マンとなり、労働者となったが、肝じんなサラリーマン精神、労働者精神というものを、身につけないままに終わっているように思えてならない。サラリーマンや労働者が備え持っている、ものを生産する意欲、ものを生産する喜び、ものそのものに対する愛着を身につけないままに終わっているという感じがする。まして、労働者やサラリーマンの中の専門家ともなれば、それはもっと厳しくなる。自分自身に対しても、大変厳しいものである。そこには、全精力こめた工夫があるし、創造がある。そして、教師もまた、専門家にはいる。
教師が、自分たちを労働者やサラリーマンと自覚したからといって少しも不思議ではない。教師は労働者であり、サラり−マンだというのをきいて、めくじらをたてている文部省もそれに同調する親たちも、労働者やサラリーマンの、ものを生産する真摯な姿勢や意欲について無智であるといわねばならず、労働者やサラリ−マンをこれほど軽蔑したいいかたはない。
自らの仕事を愛さない例外的な労働者・サラリーマンがいるからといって、すべての労働者・サラリーマンを冒とくすることは許されない。こんなに軽蔑されて黙っている労働者やサラリーマンの態度も不思議といえば不思議だが、文部省的考え方に同調する労働者やサラリーマンがいることは、どうも理解に苦しむ。
もちろん、教師は生きた人間を相手としている事情から、やりかえしはきかない。だからといって、医者ほどにやりかえしのきかない職業でもない。不注意な、心なき教師の一言で、一生を左右されるほどの影響をうける子どもたちもなかにはあるが、そういう例は、めったにない。教育とは、長い時間をかけて、地味に、こつこつとやるものである。息のながい、根気のいる仕事である。
それに、小学生の発達段階が、中学生には中学生の、高校生には高校生の発達段階がある。しかし、それは千差万別である。五十人の子どもは、みんな違っている。趣味・趣向もみな違っている。考え方も性格も違う。今年の経験が来年やくに立つということは、決していえないところに、子どもの教育のむずかしさがある。
子どものことがなんとかわかるには、十年の勉強と経験がいるということもいわれている。勉強しないで、経験をくりかえしているだけでは、永遠に子どものことはわからないともいえる。また、勉強しているからといっても、非能率的非効果的な勉強をしているのでは、子どもがわかるということはいえない。
子どもたちひとりひとりを理解するためには、その親たちを知る必要もある。親たちをとりまく、利害関係も知らなくてはならない。さらに、村や町の伝統さえ、ときには、知る必要がある。子どもは、結局、歴史的社会的存在であるからである。
そういう意味で、子どもたちの教育には、教育ということでは、大学の教師の教育に数倍する困難さがある。大学教師には、必要とされない知識、それも本に書かれた知識でなく、実地にあたって有効に活用されるような専門的知識が必要である。
小学校教師には小学教師の、中学教師には中学教師の専門的知識が必要である。それは、文字通り、専門的知識である。しかも、専門的知識ということにおいて、もういいということはない。きわめればきわめる程に、底知れないのが専門的知識である。しかも、先述したように、知っていればよいという専門的知識ではない。ときには、その専門的知識ゆえに、子どもの指導を誤り、子どもをだめにする恐れさえないとはいえない。
本当に、教師という仕事は、恐ろしい職業である。しかも、これほど、恐ろしい職業でありながら、極端にいえば、まったく、無智であっても、ごまかしてすごせるのが教育という仕事でもある。
教課では、うすっペらな知識があればなんとかごまかすことができる。うすっペらな知識では、大学教育はできないから、大学教師という職業を、一般に重視するのかしれないが、専門家という点では、大学教師も小学教師も中学教師もかわらない。
学生に対する責任感という点では、大学教師は、中学教師と比較にならない程、軽いといってもいい。これほど、責仕の重い、専門的知識を必要とする小学教師・中学教師を軽視するということは、問題である。
結局、教師が教師自身の地位をたかめるためには、そして、その能力を最大限に発揮するためには、自分で、自分を社会を世界を考えぬくこと以外にない。教師が自分たちを責任感があり、誠実であると甘い見方をしているかぎり、永遠に、教師たちには救いがないということがいえよう。なによりもまず、自分に厳しくあることである。
現代には目標がないという青年を怒る
最近出た二つの本の一節に、次のような言葉が書かれている。その一つは、同志社大学生協出版部から出た「ある私学」という本の中の一節、「なぜか空虚で無秩序な生活。これが戦後二十年たった日本の若者の生活の実態である。すべてがそうであるとは言いきれないが、しかしあののしかかるような受験苦と、ほぼ完成されつくした日本の経済、そのなかで我々にはどれだけの可能性が残されているのだろうか。我々には、このあり余る情熱とエネルギーを無限の期待のうちにささげるべき目標がない。また、命をかけ、みずからの血をみずからのために流し、人間性にめざめた共存を喜びあうものがない。我々は孤独であり、我々の要求はますます複雑な形を呈していく。たとえ強制でもいい、命令でもいい、我々の情熱と欲求を受けとめてくれる目標さえ与えてくれれば。大人たちは戦争を恐れ、死をきらう。しかし我々にしてみれば、この不不信感にさいなまれ、虚偽にみちみちた空虚な生活ほどたえられず、恐しいものはないのだ。……愛も信頼もない孤独な時代に生きるより、たとえ死んでもいい、一まつの希望のある人生を送りたい。」
今一つは、合同出版社から、「若い世代の問題」と題して、翻訳された本の中の一節、
「大人たちにおれは質問したい。……あんたらはおれたちの模範になれないし、それに、あんたらの世界はおれたちには気にくわない。おれたちはあんたらみたいにはなりたくない。おれたちは、なにやら秘密めいた機械の部品になり、運転されるのはごめんだ。おれたちは生きたい、おれたちは世界を生身で味わいたいのだ。……おれたちは、なにもあんたらにたてつこうてんじゃない。ただ、あんたらが、しょっちゅうおれたちを監督したり、お説教したりしなきゃ、それでいいんだ。そんなものよりも、おれたちに、なにかおれたちが信じられるような使命を与えてくれ。おれたちが納得でき、おれたちに属している使命を。
あんたらは、おれたちを自由に成長させ、それから、学校では、おれたちを民主主義者になるように教育しようとした。そして、あたかも自由が目標であるかのように振る舞っている。おれたちは今では、自由なんてがらんとした空虚なものにしか感じられん。」
である。
日本とヨーロッパの青年の言葉であるが、奇妙なほどに共通している。青年たらは、一様に大人たちへ不信を語り、今日の平和ムードにあきあきしている。日本の青年からは、大人たちは、真に平和を欲していまいという言葉がきかれそうだし、ヨーロッパの青年からは、大人たちは民主主義を少しも信じていないのではないかという言葉が飛び出してきそうである。要するに、東西の青年の大多数は、大人を信ずることもできず、さればといって、受験地獄の中で、同年輩の若者を信ずることができず、だからといって、会社員となって出世することに、あり余る青年の情熱とエネルギーを捧げることには満足できないでいる。夢を追い、理想を追求するのが、青年の特徴であるから、それもむりはない。立身出世もしたくないことはないが、夢というには、あまりにちっぽけで、それだけでは満足できない。それが青年というものである。だからこそ、ここに書いているように、日本の青年も、ヨーロッパの青年も、生命をかけて追求するような目標をしめしてほしい、自分たちが信じ納得できるように使命を与えてくれと痛切に叫ぷのである。充実した人生を求めて、絶叫するのである。
しかし、私は、こういう言葉をきいていると、ゾッとすル。ゾッとせずにはいられない。彼等の欲求は無理はないと思いつつも、私は、これらの言葉をきくと哀しくなる。バカヤロウと叫びたくなる。あまえるなとどなりたくなる。奴隷めがと激怒したくなる。
与えられた目標や使命は動物のもの
日本の青年はいう。「大人たちは戦争をおそれ、死をきらう」と。そして、「強制でもいい、命令でもいい、我々の情熱と欲求を受けとめてくれる目標さえ与えてくれれば」ともいう。たしかに、日本の青年のいうように、大人たちは戦争をおそれ、死をきらっているかもしれない。しかし、それは戦争の中で、無残にも死んでいくしかなかった生命を親しくみてきた故に、戦争をおそれ、死をきらうのである。勇敢な死というものに共鳴していた青年も、自分自身が死という事実に追いつめられたとき、一様に生を欲するということを知悉した者故に、戦争をおそれるのである。
まして、戦争中、大人たちが唱えていた戦争理論を無条件に信じ、疑うことなく、勇敢に戦争行為に参加し、戦死していった戦中派の生は、本当にすばらしく、充実していたのであろうか。帝国主義の国、米、英、仏の侵略主義と戦うという理由は、十分な名目であっても、中国を始め、東南アジア諸国を侵略しようとした日本の意図は、これを否定することはできない。
だが、戦中派の一部を除いて、殆んどの戦中派は、この事実を知ることはできなかった。当時のマス・コミの中で、完全に盲にされていたものである。今日の青年のいうように命令を与えられ、その命令を実現するために生命を賭け、生命を投げだしたのである。生命を賭けた生活が充実し、昂揚せぬはずはない。たしかに、充実し、昂揚した。充実し、昂揚したが、それは、愚かな侵略行為のために充実したにすぎないし、時の支配者を満足させるために昂揚したにすぎぬ。
ここには、奴隷の充実や昂揚はあっても、一個の独立し、自立した人間の充実や昂揚は全くないといっていい。今日の青年は、日本は勿論ヨーロッパでも、一個の独立し、自立した人間の充実し昂揚した人生でなく、奴隷の人生を求めているのであろうか。たしかに、自分自身で、自分の目標や使命を発見することは、見極めることは非常に困難かもしれないが、そういう困難な努力をしないで、大人たちは信用できないと言いつつ、その大人に目標や使命を示せという。自己矛盾も甚だしい上に、人間としての人生として本当に充実し、昂揚したものが何であるかも知ろうとしていない。それこそ、自分自身で、自分の目標や使命を発見する作業にとりかかり、その実現にむかって行動するということがいかに充実し、昂揚した人生てあるかを全く知ろうとしない。そういう作業にとりくむことが、いかに勇気が、忍耐が、知能が必要であるかを知ろうとしない。それ故にすばらしいということを知ろうとしない。
与えられた目標や使命に生きるところから生まれる充実と昂揚は充実と昂揚はあっても、それは人間のそれではない。せいぜい、動物のそれでしかない。
自分で模索した目標に生命を賭けよ
今日、盛んに明治維新とか、明治百年とか言われているが、その是非はともかく、明治維新が、古い日本というか、封建体制をうちたおして、新しい日本を作り、それによってヨーロッパ諸国の帝国主義的侵略を防いだことは、どんなに評価しても評価しすぎることはない。それまでの日本は、厳しい階級制度の下にがんじがらめになっていて、能力のある者も、生まれた環境によってその一生をしばられ、能力無き者も、生まれさえよければ、支配者、指導者になれるような世の中であったことは、皆さんもよく承知している通りである。
農民は、大名の奴隷であるばかりでなく、土地の奴隷でさえあった。全く悲惨というしかない、明治維新は、不完全ではあったが、農民をそういう状態から解放した。町人や職人を解放したばかりか、武士をも解放した。武士は一見農民・町人・職人の上に位する地位にあるようにみえて、その実は、一にぎりの武士が支配者、指導の地位にあっただけで、多くの武士は逆に武士階級の階層制にがんじがらめとなり、悲惨な生活を送っていたということができる。
明治維新は、それをうちこわしたのである。しかも、それをうちこわしたのは、十七・八才から、二十七・八才の青年を中心とする人達である。始めは、ほとんど不可能にみえたほどに強固な封建体制をうちこわしたのである。彼等は、新しい社会という目標を手さぐりしながら発見し、その目標の実現のために、文字通り、充実し、昂揚した人生であったに違いない。
その間、彼等は、今日の青年の如く、大人を信ずることができなかった。だか、今日の青年のように、信じられぬ大人にむかって、目標と使命をしめしてくれとはいわなかった。彼等は、自分達自身で、目標を模索し、模索した目標を達成するために、情熱とエネルギーを投入しただけでなく、その生命をも捧げたのである。その生は、自立し、独立した人間のそれであったということができる。自分達で発見した目標であるからこそ、青年は喜んで死ぬこともできたのである。誇らかに死ぬこともできたのである。
与えられた使命や目標の前に、人生が充実し、昂揚すると思うのは錯覚である。それは生命を代償にするところから、必然に生まれる充実と昂揚である。唯一の生命を失うところから生まれる充実と昂揚である。。そこには喜ぴも誇りもない。もし、喜びや誇りがあるとみえたとしても、それは、無理に、自分自身に喜びと誇りがあると思わせたにすぎない。それが、戦中派の戦争中の生であり、死であった。勿論、かぎられた一部の人達は、あの戦争を東亜諸民族の解放だと本気で信じていた者もあるし、その人達は、誇らかに死んだ。喜んで死んだ。それはそれでよい。だが、与えられた目標、使命の実現には、どこにも、喜びと誇りはないし、生の充実と昂揚がないということだけはたしかである。そのことを、戦中派の一人として、断言したいし、今日の青年たちが、そういう迷盲のとりこにならないでほしいと真剣に願わずにはいられない。
ありあまる情熱とエネルギーをどこへ
今日の青年は、「現代を虚無だ」という。「孤独である」という。たしかに、今日の平和ムードを享受する者には、受験を受動的にうけとめるしかなかった者には、そういうことがいえよう。日本経済が技術革新と平行して、ほぼ完成されたと見える者には、それに流されて生きていくしかないと見えるかもしれない。
だが、果してそうだろうか。百数十万の青年は、今、成人を迎えて選挙権を得た。昨年も百数十万の人が選挙権を得たし、来年は来年で、選挙権を得ようとする青年が多数いる。それは、おぴただしい数ということができる。それは、何かを出来るには、あり余る数である。あり余る情熱とエネルギーである。今日の青年達は、その情熱、そのエネルギーをどこへもっていこうとしているのであろうか。
かつての明治維新は、十七・八才から二十七・八才の青年の手でつくられたということは先にのべたが、それに関連して、世の大人達は一様に、吉田松陰はすばらしいといい、吉田松陰の指導した松下村塾は教育の見本であるかのようにいう。だが、彼等は、そこに学んでいた青年が十五・六才から二十一・二才であったことを考えない。すぐれた政治的な人間であったことを知ろうとしない。今でいうなら、中学生から高校生、大学生である。青年達は学びながら実践し、実践しながら学んだのである。青年達は古き秩序を破って、新しき秩序を模索した。その実現のために、生命を投げだした。
勿論、今日もそういう青年はいるし、数的には増加したということもいえよう。だが、維新当時の青年が、お互いに落後することをいましめつつ、勇気と忍耐が変革者の第一条件であると自覚していたことは、今日の革命的青年には、少しも伝統としてうけつがれていない。今日の青年は、単純に革命運動に参加し、また単純にそこから脱落していく。全く情けないというしかない。それはそれとして、明治維新をつくりだした青年達は現代にとりくむ青年達とは違うのであろうか。維新当時の青年には、生命を捧げる目標があったが、今日の青年には何もないというのであろうか。空虚と孤独しかないというのであろうか。
勉強し行動すれば虚無も孤独もない
成人式をやり、二十才の青年は選挙権を得たと書いたが、それはどういうことであるか。それは、どういうことを意味するのか。清き一票を行使するとは、どういう意味であるのか。清き一票を行使するためには、青年は、政党の研究を始めなければならない。自民党、公明党、民社党、社会党、共産党の研究をやり、それを更にくわしく知るために、資本主義、日蓮主義、社会主義、共産主義について知る必要があろうし、それを知れば、資本主義や共産主義は、単純に一色でないということもわかってこよう。そこから更に現実の政党を研究してみる。そして、初めて一票が行使できるというものである。
もし、支持する政党がどうしてもないと研究の結果わかったときには、棄権することもいいし、自分達が信じ、支持できる人間を立候補させてもよい。あるいは、信じ、支持できる目標をかかげて、思想団か政党の宣言をしてもよい。それこそ目標や使命を大人達に求めるのでなく、青年達自身で模索することである。そこには、虚無もなければ孤独もない。あるものは、連帯であり、目標を模索する充実した生活があるだけである。
成人式は、そういう機会をつくるもっともよいチャンスである。中学校出も高校出も大学生も一緒になれる唯一のチャンスである。同じ中学校を出た仲間として、語りあえるチャンスである。中学校や高校を出て働いている者達から、その職場のことをくわしく聞くことも大学生は勉強になるし、中学出の青年とコミュニケイションが通じないようでは、労働者の統一なんて夢のようでなものである。中学出の青年は、大学生から、いろいろ学んで、自分の理論の向上をはかることも必要であろう。有効でない理論を観念的にしゃべる大学生をこなみじんにするのも必要である。
戦中派の知識人は、戦争中入隊し、小学校での青年と一緒に兵隊生活を送りながら、そこで少しもコミュニケイションを進めようとしなかった。そのために、知識人も変わらず大衆も変わらなかった。戦後革命が挫折したことには、そのことが大きな理由となったといっても過言ではない。
その意味では、成人式はすばらしいチャンスといえる。有効に生かされなければならない。いかに有効にするか、それを考えるのは皆さん自身である。
1 女教師の現状
文部省が、教師として、女性の天分・能力が非常に適しているという理由で、女子師範学校の設立を、大政大臣に建議したのが、明治七年一月。早速、その意見にもとづいて、翌年には、東京神田に、女教師養成の学校が設立された。そして、明治十五年には、全国に、もう、十五の女子師範学校が設立されたのである。もちろん、女子師範学校が設立されないところには、男女共学の師範学校が設立されたことはいうまでもない。
女学校の教師も、東京女高師、奈良女高師で養成されたが、両校は国立としては、ただ二つしかない女子専門学校であった。文部省が、明治以後一貫して、いかに女性の能力を教育にいかそうとしたか、女教師の養成に力をいれたかということは、このことであきらかである。
その結果、女教師の数は、年々増加し、戦後、女性の大量の進出もあって、ついに、昭和四〇年度には、小学校の教員数約三十五万のうち、約十六万人、中学校の教員数約二十五万のうち、約十万、計二十六万の女教師が、教師という職業についたのである。そこには、教師という職業が女性にとりつきやすいということもあって、約三分の一は、女教師でしめられたのである。そして、小学校、中学校の教師のうら、半数が女教師でしめられるということも、もう、時の問題になっている。
それに、女教師の中には、既婚者も子どもをもっている女性も多い。女教師が家庭と職業を両立しやすいという理由もあり、そのことが、いよいよ女教師の数を多くしているということがいえる。
女性が男性に、経済的に精神的に依存しないで、独立した人間として、社会人として、教育という仕事にたずさわることは非常に好ましいことである。そのうえ、女性の能力を社会の発展につくすということは、たいへんいいことである。
だが、実際には、女教師の数がふえたほどには、女教師が歓迎されていないということも事実である。いろいろの問題があるのも、事実のようである。現に、学校長のなかには、女教師、とくに、結婚した女教師の勤務ぷりをみて、うかない顔をする者は多い。同僚の男性教師のなかには、女教師が多いと、自分たち負担がなんとなく増えるといって喜ばない。そして、子どもの両親、とりわけ、母親は、女教師がうけもつと、子どもの学力や社会性が円満に発達しないと心配している者もある。それに、何よりも、子どもたち自身、女教師をきらい、男教師を好む傾向がある。こういう現実は否定できないものがある。
もちろん、女教師のなかには、数多くいる男教師より有能で、仕事熱心な人もたくさんいる。だが、全体としてみるとき、女教師は男教師に劣ると評価されている。なにゆえであろうか。どうすれば、そういう評価をくつがえし、克服できるのであろうか。
2 女教師と男教師
女性の能力は、男性の能力に劣っているという、社会常識がなんとなく支配している。女教師も、案外に、そのトリコになっている者が多い。また、それを肯定するように、女教師の中には、常に、男性のあとについていくもの、男教師のたてた企画に従う者が多い。
まさか、それを女性の美徳と考えている女性は、今時いないと思うが、なかには、結婚までの職業、子どもを産むまでの職業ときめこんで、その仕事、その職業に、真剣に取りくまない者がいる。一生の仕事、職業としている男性に劣るのは当然である。長い時間に、差がでてくるのも無理はない。それが、消極的な姿勢となり、男教師のあとについていくということにもなるのである。そうした不心得者が、ひとりでもいると、教師という小社会のことである。すぐに、女教師はだめだといわれる。女教師全体の問題になってくる。男教師のように、アイツはだめだということで、男教師全体の問題にならないのと、まったく違う。
結婚した者、子どもをもつ女教師が多いということも、情況をいっそう悪くする。女教師にはまったく、分が悪い。というのは、ご主人が病気をすれば、妻である女教師は、たいてい欠席する。しかし、妻である女教師が、病気しても、滅多に、ご主人はやすまない。女性はがまんづよいし、仕事をご主人にやすませてはいけないという気持ちが働く。子どもが病気になれば、きまって、ご主人でなく、妻である女教師がやすむ。
そこに、仕事を軽視する気持ちがなくても、そうなる。しかも、実際には、女性は、そういう場合、休んでもしかたないという気持ちをもっている女性が多い。仕事をもつということでは、女性も男性も変わらないはずなのに、そう考える。仕事にとりくむ姿勢があまいということになる。
子どもが病気などしなくても、夕方ともなると、妻であり、母親である女教師は、本能的に家庭のこと、夕食の品物のことを考えはじめる。それは、だれに教えられたということなしに、女性の習性のようなものである。ご主人がどうしているか、子どもはおとなしくしているかと考え出す。そうなると、当然、ソワソワしはじめるし、仕事は手につかない。仕事をしていても能率はぐんと低下する。
それに反して、妻に理解をもち、仕事をもつ妻をよく助ける男性でも、家庭の仕事に直面するまでは、少しも家庭のことなど考えない。完全に、家庭の仕事から解放されて、自分の仕事にだけ没入する。没入できる。それが男性と女性の違いだといってしまえばそれまでだが、そういう違いは、男性と女性の仕事の量と質を、大きく変える。そういう状態というか、夕方おそくなるまで、仕事をすることは、一学期の間に多くないにしても、それゆえに、校長の目には、女教師は使いにくいという印象をあたえる。勤務評定も自然に悪くなる。
これは、どうにもならない現実であるということがいえる。しかし、大学の、学芸学部・教育学部に入学する学生は、どちらかというと、女子学生のほうが成績がいい。というのは、男子学生は、いろいろの学部に進出するのに対して、女子学生の進学者は、学芸学部・教育学部に集中する傾向があるからである。
といっても、教師になるということ、教師の能力ということになると、単に、高校の成績がよいとか、大学の入学試験で好成績をとったということがすべてでなくなる。それは、一つの重要な要素ではあるが、それは必ずしも、教育的識見があるということ、教育的情熱や子どもへの愛情、行動力、忍耐力、企画力があるということとは比例しない。教師の能力とは、結局 そういう力の総合したものである。大学時代、少しくらい、教育学の本を、たくさん読んだからといって、まじめに読んだからといって、卒業して、教師になってからの勉強が少なければ、そういうものは、三、四年で追いこされてしまう。 女性が女教師として、十分に評価されるということは男教師以上に、教育効果をあげるということで、それは、非常に困難である。
3 どういう子どもを育てようとするか
ここで、問題となることは、女教師が、子どもをどういうふうに育てようとしているかということである。文部省で出した「期待される人間像」もあるが、一般に、女教師というものは、他人の意見、指導者の意見に同調しやすい面をもっている。女子学生の読書傾向をみても、思想書・哲学書を読む者は非常に少ない政治学や経済学の書物を読む者も少ない。。それにくらべて、男子学生の場合は、女子学生にくらべると、比較にならないほどに読んでいる。読むことによって、思考力や判断力や理解力・分析力を養っている。
女子学生は、たいてい文学書の中に埋没して、感情や感覚をみがくことは、男子学生よりも進んでいるが、思考力や判断力・分析力をみがくということは劣っている。文学書を読むといっても、すぐれた文学書は、平凡な教育学・教育哲学の本よりもすぐれているというような読み方はできない。恋愛文学を教育学の本として読むという芸当はできない。
それは、結局、文学を思想的に読みきれなくて、文学書に読まれているのである。感情におぼれているのである。そういうところからは、「期待される人間像を」を、私流に読み、私流に解釈し、批判するものはでてこない。自分自身の教育への意見は生まれない。要するに、女教師は、なかなか、独立し、自立した思想を持つことはできない。それは、女の子として、長く父母に依存し、教師に依存し、さらに、男性やご主人に依存する習性にならされ、それを克服することができないからである。その習性を克服することはたいへんである。たいへんであるが、それをやりとげた女教師が、はじめて、父母にも、校長にも、子ども自身にも、信頼され、尊敬される女教師になれる。というのは、女教師が、同時に、人間として、教育の仕事をやるからである。
といって、それは、女教師が、中性化したり、男性化することでないことは、いうまでもない。
その時、女教師は、男教師といっしよに、子どもをきぴしく、かつ、たくましく教育できる。子どもをあまやかし、かわいがるだけの教師から、鍛える教師にもなるのである。感情に流され、感情に左右される教師から、子どもを冷静に観察し、冷静に子どもに接する教師になるのである。その時、子どもたちの目にも、女教師が、頼もしくうつるに違いない。
女教師は、まず、子どもをどういう人間に育てようかと考えるまえに、自分自身が、どういう人間をめざし、どういう人生を歩もうとしているかを徹底的に考えぬくことである。そこから、自然に、子どもをどういう人間に育てるか、子どもにどういう人間になってほしいかも明らかになろう。子どもに何を与えるべきか、何を与えなくてならないかもめいりょうになってこよう
確信も、それを考えるところから生まれてくるし、愚かな教育ママに対して、確信をもって、子どもの将来についても語ることができる。子どもを殺すような、子どもを損うような発言をする母親とも、真向うから、論争もできる。母親を説得できないということは、女教師自身に、柔軟な思考力が足らないということであるし、勉強が足らないということである。自分の意見がうけいれられないのを、母親の無知のせいにするほど、教師として、無恥な行為はないともいえる。
4 期待される女教師
三分の一を占めた女教師。そして、近い将来は、半数以上になる女教師ということを考えると、女教師の責任は非常に重い。半数以上をしめたときには、義務教育は、女教師にゆだねられたといっても過言ではない。
しかも、女教師は、女性の職業の先端にたっているともいえる。「女性は家庭にかえれ」とか、「女性の天職は家庭にある」という声に対しても、女性自身の社会的独立のために、能力があるということ、結婚し、子どものある女教師の能力が、男性に少しも劣らぬこと、男性の力と女性の力とが、相協力して、初めて、教育活動は完全に行なわれることをしめすべきである。一つのクラスに、男教師と女教師が、主任となり、副主任となって、教育活動するなら、男教師と女教師の教育の役割について、それぞれ検討してもよいが、現状のように、同じ教育活動を求められている場合には、そのことを考えてもむだであろう。だから、現状は、期待される女教師像も、期待される男教師像も、同じく、期待される教師像の中で考えなくてはならない。
そして、女教師が、女性の職業の先端にいるといったのも、校長・教頭になっている女性は少いといえ、同一労働、同一賃金を女教師は得ている。これは非常に恵まれているといってもよい。その事実を、女教師は十分に認識する必要がある。そこから、自然に、女教師の、女性全性全体に対する責任と義務が生まれてくるし、教育者としての責任も、いっそう、痛感されてこよう。仕事をさぼることもないし、そういう意識が子どもにもきぴしく接する。
少年時代、女教師に親しんでも、女教師を本当に頼もしい、信頼し、尊敬できる人と考えなかった子どもたちが、おとなになって、男も女も、女性の能力を軽んじているのである。女性の能力ばかりか、識見もあまりないという気持ちや考え方は、意外に、少年時代の体験に根ざしているともいえる。
女教師が校長の信任を回復し、男教師や母親の信頼を獲得することは容易でないだろう。それ以上に、子どもたちから、歓迎されることは、困難であろう。しかし、その道はただ一つ。女教師が、職業にとりくむ姿勢を徹底させ、教育についての弾力弾力ある勉強を始めることである。その勉強を広く深く始めることである。
女教師として失格するということは、母親としても失格ということである。
女はだれでも、容易に母親になれる。しかし、母親にふさわしい母親になることはむずかしい。人々は母親の能力ということ問わないが、母親に子どもを教育する能力はあると思っているが、とんでもない誤解である。母親にふさわしい母親になることがたいへんのように、女教師にふさわしい女教師になることはむずかしい。母親になる以上に。
文部省は、昨年九月、「期待される人間像」の最終報告書を発表した。その内容をめぐって、当時、賛否両論が激しく闘わされたことは、読者もまだ記憶に新しいところであろう。私は、ここで、それをもう一度やろうとは思わないが、教育制度を再検討しようと思う場合、どうしてもこの問題にふれないわけにはいかない。
「期待される人間像」への疑問
というのは、教育制度というものが、「期待される人間像」が明確に定まって初めて、そのための教育制度というものが考えられ、確立されるからである。その意味では、おくればせながらも、文部省があるべき人間像をめぐって、真剣に考えはじめたということはいいことであり、大綱として、教育の方向を示そうとしたことはいいことである。その上で、各教育者が、その案にもとづいて、各自、どのように解釈し、どのように考えて、教育するかということは、各教育者の自主性と判断にまかされていいからである。
戦後20年、現場の教師には、あまりにも、教育本来の目標を考えることなく、教育活動に従事してきた者が多すぎる。
だが、ここで問題なのは、文部省が、この人間像を日本人一般の理想の人間像として発表したかどうかということである。即ち、中学校卒業生も高校卒業生も、また大学卒業生までも含めて、この人間像を平均的目標として設定したかどうかということである。この人間像が中学校卒業生に対してのみ適用しうると考えたかどうかということである。私がみるところでは、文部省は、これを高校・大学の卒業生にも、あてはめようとしているのではないかと思われる。
問題は、そこからおきる。中学卒業生にも、大学卒業生にも、同一の人間像を理想として考えるとすれば、自然中学校教育の目的と大学教育の目的は混乱し、不明確になるということである。現在、高校教育・大学教育が混乱し、20年も、それが放置されたままというのは、そのためである。全く、いいかげんな大学が何百と濫造され、高校生の七割近くが高校教育にたえないという現状が放置されているのも、そのためである。
昭和四十二年現在、中学校だけで卒業する者30%、高校だけで一般社会に出る者50%、大学卒業生20%というのは、動かし得ない事実である。その割合が、今日の社会構造、経済構造からみて、好ましい割合であるかどうかは別としても、厳然たる事実である。五年後の昭和四七年に、中学卒25%、高校卒50%、大学卒25%となるかもしれないが、そういう人たちがいるとすれば、当然、中学出、高校出、大学出にふさわしい人間像、それも、もっと具体的な人間像が考えられるはずである。考えねばならないはずである。社会構造、経済構造からみた、人間の役割、能力、価値が考えられなくてはならない。極端にいえば、そこから、中学校だけで卒業してゆく者が陥っている非行の問題を根本的に解決できる見通しも出てくるからである。
要するに、中学出の理想とする人間像、高校出・大学出の理想とする人間像を、社会構造・経済構造の変化・発展にみあって、少くとも、三年ごとに検討し、立案する必要がある。そこから、自然、中学・高校・大学の教科課程・教科内容が明確化され、より発展し、充実してくる。
少くとも七割の失格者を出す高校教育、ニ年間の一般教育を無意味・無価値とする大学教育はなくなっていくであろう。
だが、ここでは、それぞれの理想とする人間像が究明され立案される必要があるということだけを指摘するにとどめたい。
「知」・「情」・「意」の教育
もちろん、文部省の考えたような、中学出・高校出・大学出に共通する人間像は、当然必要であるということも出来る。だが、その場合、「期待される人間像」の内容でないことだけはたしかである。家庭人と社会人を並記して、なんの疑問も感じないような感覚と知性ではどうにもならないし、ことに、日本人として、正しい愛国心とか、象徴に敬愛の念をもつとか、国民性をのばすとかの程度しか、想像し、考えられないような思考力、認識力しか持ちあわせない人たちが考える人間像なんて、最低であり、愚劣である。
というのは、人間が歴史的存在であることは高校生でも知っていることだが、その歴史的な存在であるということの意味は、人間が過去をふまえて、常に未来にむかって生成発展する存在、生成発展しなければならない存在、ということだからである。いいかえれば、人間は歴史的過去から歴史的未来にむかう過渡期という現在に生きる人間であるということにある。
それは、過去を批判し、克服して、よりよい未来を創造するということでもある。歴史的過去のあるものを良き伝統として縦承するとしても、ただ単に盲目的無批判的に継承するのでなくて、十二分に批判した上で継承することであり、発展させることである。
そういう観点からみるとき、文部省の発表した「期待される人間像」には、全くといってよいほどに、そういうものが含まれていない。わずかに、自己を大切にするとか、創造的であることとか書いているにすぎない。それこそ、人間が自由でなければならないとするなら、今日の政治、社会の状況からみて、平等であるということが、同じように強調される必要がある。どうみても、「期待される人間像」には満足できない。
これでは、明治以来、一貫して、教育の目標は知・情・意の調和した人間像をつくるにあると言われてきたことのほうが、よりすぐれているとさえ言えよう。中学・高校・大学を卒業した者に対する共通の人間像をどう考えるかという問題は、十二分に検討してもらうとして、私はいま戦前の知・情・意の調和した人間像ということに即して、今日の教育を考えてみたいと思う。
ことに、最近、知識教育即受験教育にのめりこんでいる弊害を考えて、それを解決し、克服していく道として、知・情・意の教育ということを考えてみたいのである。しかも、ここには、過去から未来にむかって生きていく過渡期的人間としても、必要な能力、要素、姿勢がふくまれていると思われるからである。
知識教育偏重の弊害
どういう未来、どういう社会が好ましいか、そこに至るにはどういう方法と手段をとればいいかを教えてくれるのは知識である。しかし、そういう未来、そういう社会を熱望し、現在の矛盾の多い社会を嫌悪するのは、とぎすまされた感覚であり、豊かな感情であるし、そういう未来、そういう社会を造るための邪魔や困難をのりこえさせるものは強い意志であり、逞しい勇気であるということを考えても明らかである。
たしかに、戦前の教育は、知・情・意の調和した人間を教育目標にしたが、実際に行われた教育は知識教育に偏していた。そのために最高学府に学んだ経験をもちながら、汚職や選挙違反、公害法成立反対などを平気でやってのける人間を作ることになった。最近ではまた、そのような知識教育に輪をかけている。
そのために、人類の破滅、人類の終わりに真一文字に進んでいるのが最近の状況でさえあるといっても、いいすぎではない感じさえする。全く、ぞっとする。今日学校教育が、この目標を、知・情・意の調和した人間におくということは至上命令になってきている。オーバーな表現かもしれないが、人類の破滅、人類の終わりを救うためには、それ以外にないとさえ思う。
では、知・情・意の調和した人間という時、知とは、情とは、意とは何を意味するのか。いうまでもなく、知とは理解力であり、批判力、創造力であるし、情とは、真・善・美への反応度であり、感度である。意とは意志力であり、行動力、形成力である。これまで学校で評価するのは、学力であり、試験の能力であり、決して、情と意とはかえりみられなかった。知・情・意の教育といった戦前の教育でも、決して、情・意の評価はなされなかった。
評価された学力も、正確な意味での知力即ち理解力、批判力、創造力である場合はめったになく、たいてい、暗記力・記憶力であった。そして、情・意の評価が欠落した。もう、そこには、人間の能力の開発というものは全くないと断言していい。それが戦前の教育であり、戦後の教育である。
過渡期に生き、過渡期を背負う人間は、ここからは生まれない。生まれようがない。わずかに、学校教育の疎外者によって……みずから疎外者となることによって、過渡期を生き、過渡期を背負う栄光をになった者が出たにすぎない。そういう人たちが現代を生み、現代をささえてきたのである。
「情」・「意」をどう評価する
だから、今日必要な教育は、人間の教育であり、人間の能力の開発であるという視点にたって、評価は学力だけでなくて、人間の能力の評価、知・情・意の評価をたかめるということである。情と意との評価を知の評価と同じ比重で評価するということである。高校・大学での入試でも、それと同じように評価するということである。
勿論、そういう知・情・意の評価をどのようにやるかということは大変むつかしかろう。とくに、情の評価というときの、真・善・美への反応度、感度をどういう方法で評価するか、意の評価というときの意思力、行動力、形成力をどうみるかということは非常にむつかしい。
しかし、文学・美術・音楽等の芸術教育を通して、学生生徒の真・善・美への反応度をたしかめることはできる。そのほかに、政治・経済・社会の諸現象に対する反応度を調べてもよい。また、中学・高校では、すでに、学籍簿の中で、指導性とか社会性とか協調性等について、生徒の性格・態度・能力等の記述をやっている。それを、意思力、行動力、形成力を中心に、知力と並行して評価するようにすればよいのである。
そういう評価が必要であり、大切であるということになれば、それをめぐっての検討がはじまり、整備されるだろう。教師の仕事はふえるかもしれないが、そういう評価が学生、生徒のために、親切であるということを知れば、やらざるを得なくなろう。ことに、社会人、日本人として求められ、評価される能力は、単に知力だけでなく、人間の綜合的な諸力ということになればなおさらである。
知力、学力という場合でも、現在のように、五・四・三・二・一で評価することよりも、その学年、学期で、学生生徒自身の努力がどうであったかとか、知能指数を基準にして、それ以上の成績をあげたか、それ以下の成績をあげたかということを知らせることのほうが大切である。それによって、同級生と競争し、同級生の成績に対して一喜一憂する人間でなく、現在の自己と競争し、歴史の中に生きる自分、歴史と対決し、歴史の発展にとりくむ自分を確認させ、確立させる方向にいかせる。
そうすれば、もし、クラスの成績順、学年の成績順を知らせたとしても、それは、自分の実力を確認するということから、自分を知るということに役立つ。ことに、愚劣で弊害でさえあると思われるのは、中学・高校での知力、学力の評価の時に、全教科、全学科の平均点数を出し、クラスや学年で、何番ということを知らせることである。
六・四・四・三制のすすめ
各教科、各学科は、それぞれに独立し、それぞれの社会的能力になるもの。それを平均化し、平均点数のいい者をあたかも、すぐれているかのごとき錯覚をいだかせることは、それぞれの個性、個人的能力を、抹殺する方向にいくものである。今日、教育制度が整備することによっていよいよ個性的人間、個人的能力を持つ人間が出にくく、平均的人間ばかりが育つのも、そのためである。必要なことはいずれの学科、いずれの教科かで、生徒自身に、生徒各自に、自信と誇りを持たせることである。何でも出来る人間でなく、何かに秀でた人間を作ることこそが大切なのである。
このように、知・情・意の調和した人間、知・情・意がそれぞれに発達した人間を教育目標にするなら、自然それにみあった教育制度が考えられてくる。私が、現在の六・三・三・四の制度に反対し、六・四・四・三の制度を強調するのも、その理由からである。
ことに、知と同じ程度に、情・意の教育を重んずる私の立場から、六・四・四・三の制度が考えられたのである。というのは、感情がめざめるのが、今日の制度では、一般的には、中学生から高校生にかけての年令である。円満な感情の発達、強烈な感情の発達をなるべく好ましくやろうとすれば、その時期を、その年令を三年ごとに分断することは全くおかしい。まして、30%の中学卒業生を中途半端のままに、社会に放り出すということはさらにおかしいことである。
もし、現在の中学校を四年制にするなら、同一環境の中で、感情は円満に育つ可能性が多い。疾風怒涛ともいうべきこの時期の感情発芽期、ことに三年生、四年生時代を分断すべきではない。一般に、四年生の時期には感情の発芽期は終わる。感情はおちつく。この時期に、どのように豊かな感情を生徒各自に育て、根づかせるかということは、数学の問題を解くより、英単語をおぼえることよりも大切である。
感情教育の充実
社会に送り出す30%の子供にも、それがどれほどに親切であるか。私は、中学時代を感情教育の時代と名づけているが、この時期に、どういう感情を養うか、どのようにして養うかということは、それこそ、中学教育、国民教育の中心問題である。学力検査に血まなこになった文部省の情熱が、この点に集中されることを念じたい。
中学校を四年制にせよと言った私は、高校も四年制にしろと叫ぷ。というのは、この時期に、感覚が大体確立されると考えるからである。感覚とは、これまで、真・善・美への反応度、感度といってきたもの、それを支配するものという考えである。勿論、その場合の感覚は、とぎすまされた感覚、磨かれた感覚を意味する。小学・中学を通じて芸術教育などにより開花してきた感覚が、人間の行動や判断を支配できるものになるかどうかは、四年間の高校生活如何にかかっている。
そういう意味をもっているのが高校生活であり、また、高校生活にそういう意味をもたせたいのである。
戦前の高校生、大学予科生は、三年間、社会常識や一般通念に反対して、ただひとすじに、社会を変革し、社会を浄化できるような真理を求めていたが、彼等は大学生になり、一般社会人となるや、多くの者は、その姿勢を平気で捨て、高校時代・予科時代に忌避し、軽蔑した社会常識、一般通念の信奉者になりさがっていった。
彼等は、三年間真理を追求する生活をしたが、三年間では短かすぎて、人間そのものを真理にいたらせることが出来なかったのである。真理を追求し、実践する喜びを知らないままで終わらせたのである。いいかえれば、彼等は、知的真理を追求したが、その真理を感覚の中で、全人間的に追求することを怠ったのである。人間そのものを変革することを怠ったと言ってもよかろう。より大事なことは、真理を求めて、知識を拡大深化させることではなくて、その真理を実現し、非真理も許容できない感覚を磨くことである。
それこそ、人間を人間たらしめるものは、知識をもつこと、何が真理で何が非真理であるかを知ること以上に、その真理を実践し、実現することを希求する感覚をもつかどうかにある。その時に、初めて歴史的過去を批判し克服して、あるべき未来にむかって進む歴史的人間になるのである。過渡期に生きる人間になるのである。
そういう意味で、四年間の高校生活は、すぐれた感覚教育の時代である。感覚教育の時代でなければならない。その場合、中学校の感情教育は主として、教師や大人に教育されるものであったが、この高校時代は教師や大人の手を離れて、学生自身による自己教育である。自己教育でなければならない。
教養課程の廃止
四年間の中学教育、四年間の高校教育になると、当然、現在の大学教育でやっている二年間の一般教育は、高校教育に移る。無意味無価値とみる二年間の教育を廃止して高校時代に移し、高校教育を充実したほうがよい。その時、小学校・中学校の教育が、理解力を中心とした教育に対して、高校・大学での教育が批判力を中心とした教育であることはいうまでもない。小学・中学校では教師の教えるところを、出来る限り正確に理解するということが中心であり、高校・大学では、教授の教えるところを自分自身で一度疑ってみる、そして自分自身で結論をひきだしていくということが中心である。
それがまた、過渡期的人間として、歴史を生成発展させる基本的能力であり、姿勢である。勉強と学問とは本質的に相違しており、勉強でなくて、学問をした人間が多くなるということは、それだけ、歴史を発展させ、個人としても豊かな生活をすることができるということである。
感覚教育を中心とした高校時代に、知的にも、人間の生きる意味と価値、未来の在り方などについて、徹底的に考え、追究した人間が、多数出現するということはすばらしいことである。社会常識や一般通念と同居できない人間、常に、みずから考え、求めた真・善・美にむかって進む人間が多数出現していくということはすばらしいことである。
そういう感情、感覚と並行して、意識的に意思力・行動力・形成力が養成されるとしたら本当にすばらしい。意思力・行動力・形成力のない人間は、社会人として、現代人として失格者であるという意見が一般化するなら、この世の中はもっともっとすばらしいものになる。
三年間の大学生活は、みずから考え、選んだものにもとづいて、専門的な研究をすればいいのである。すばらしい未来を求める感覚にめざめ、それを熱烈に実現しようと考える大学生にとって、その専門の研究をすすめることは、自分自身の要求であり、命令である。入学試験や入社試験のために、しかたなく学問をするのとは違う。
こうして、50%の高校卒業生、20%の大学卒業生が出現するとしたら、この世の中はどのように変化するであろうか。
* * *
教育の間題を考えるとき、一番肝心な教師群をどのようにして集めるか、どのようにして養成するかということが、最もむつかしい問題である。私は、そのことについては、少しも論じなかった。また中学校だけで卒業する者、高校だけで卒業する者の教育をどうするか。とくに、商業高校・工業高校・農業高校の段階で、感覚教育と職業教育をどのように並行させ、調和させるかについては、全くふれなかった。この問題は、重要であるし、むつかしい問題である。そのことについては、他日、機会をみて、詳論したいと思う。ここで論じたことも、紙数の関係で、必ずしも十分ではなかった。しかし、私が考える方向は理解していただけたと思う。
一
最近、全学連の思想、とくに行動がいろいろと問題になっているが、彼ら意識的な学生というか、活動的な学生の意識調査をすると、約三分の一が、中学時代に社会の矛盾を自覚し、それが直接の原因となって、学生運動・政治運動に参加するようになったと述べている。小学生時代に矛盾を感じ始めたという者をいれると、約三分の二の数になる。ということは小学校・中学校時代に、すでに、思想的政治的洗礼をうけているということである。中には、中学校時代にうけた教育に対する疑問と反発から、運動にはいったと答える者も相当にいるし、日本の歴史をあまりにも、否定的に教えられたことから、逆に、右翼になったという学生もいる。
この外に、中学生時代は、愛情、友情、能力、職業などの問題についていろいろ考える時期でもある。人生の落後者になるのも、また、他人を軽蔑し、自分のことしか考えないエゴイストになるのもこの時期である。要するに、すばらしい人生を歩みはじめるか、愚劣な人生を歩みはじめるかを選択する時期、人生の岐路にたつのが中学生時代である。その意味で、この時代は非常に重要である。どういう中学生活を送るかということは、生徒ひとりひとりの一生に決定的な意味をもつといってもいい。それは、中学教師の教育、なかでも、その思想と生活が非常に大きな意味をもつということである。ことに、教師の一挙手、一投足をたえず観察している中学生は、いい意味でも、悪い意味でも強い影響をうける。だから、中学生にとって、教師の思想と行動の内容は、決定的に重要になってくる。
こういうことを考えるときには、中学教師は一日もじっとしていることはできまい。自分の力の不足を感じ、恐ろしくさえなろう。普通、ともすると、「子どもを再び戦場に送るな」とか、戦争に子どもをまきこんで殺すな、とかいわれているが、戦場に生徒を送らなくても、日常的に、生徒の精神や感覚を殺し、駄目にするような教育はいくらでもある。
生徒の一生を台なしにするような教育はいくらでもある。戦場に送ることだけが子どもを殺すことではない。
もちろん、子どもの精神を、生徒の感覚を殺すのは教師だけでなく、その親であり、政治であり、社会である場合が多いが、なんといっても、教師は、子どもを生かし、生徒の人生を有意義にするための戦いの先頭にこそたつべきもの。そういう使命をになっているのが教師である。それが今日、教師に求める聖職者の意義でもある。教師は聖職者であるということが、今日もやはり、使用されるとしたら、その聖職者の意味は、これしかないといえよう。
ニ
こういう課題に中学教師がとりくむことはまことに困難である。困難であるが、教師はつねに、そういう課題と直面しているし、この課題にとりくめるのは、教師だけである。教師だけに許された特権であり、喜びであるということもできる。それに、教師という職業を選ぶほどの人間は少なくとも、このことを考えた後に教師になったはずである。経済的に恵まれないことや、雑用に追いまわされて、教育活動にうちこむことはむつかしいということも知りすぎる程に知って、教育界に飛びこんだはずである。
だが、教師という仕事を五年、十年とつづけているうちに、次第に、その初心を忘れがちになる。忘れて、教育界という、ヌルマ湯のような世界にひたってしまう。いいかえれば、教育という仕事はやればきりがないし、反対に、やらなくてもなんとかなるものである。そういう空気のまに、いつのまにかそまってしまう。しかも、教師の思想と生活がそのまま生徒に反映することが明らかになるのも、早くて二、三年後、おそければ、十数年たってからである。高校・大学と違って、直接、生徒から鋭い批判となってかえってくることもない。それこそ、多数の生徒の精神や感覚を殺していても、当面、問題になることはない。まして、今日のように、教師の第一の仕事は生徒の学力、それも、ペーパー・テストの上の学力だけを向上させることであると考えられている時には、教師の良心はいよいよ、まひする。死んでしまう。生徒が高校生になり、あるいは大学生となって、どんな生活を送るかということはほとんど考えようとしない。社会人としての生活がどうなるかということにいたっては全く関心がない。そんなことを考える教師は、今日では、ものずきな教師ということになるのかもしれない。
しかし、今日、中学教師が本当に考えなくてならないことは、また、責任をもたなくてならないことは、生徒ひとりひとりの全人生であり、全人生に対してである。長い一生の中で中学生という時代がどういう時代であり、どういう岐路にたっているかということを徹底的に考え、その上で、どんな教育を、どんな感化を、どんな人間関係をつくるかということを考えぬくことである。
教育とはどういうことかと、常に、考えぬくことだといってもいい。だれかの意見をきくことでなしに、自分自身で徹底的に考えぬくことである。ことに、生徒から、鋭い批判のあがってこない中学教師は、自分から積極的に考えぬかねばならない。それこそ、考えていないと、どうしてもマンネリ化する。
その意味で、夏休みは、それを考えてみるのに、最もよい時期である。平生、多忙な日日を送っていればいるほど、それを考えてみるチャンスである。年に一度ぐらい、それを徹底的に考えてみることは必要であるし、それによって、マンネリ化していく教育活動から脱皮していく必要がある。生命の洗濯である。もし、毎年、それをくりかえし、考えていくなら、その教育活動は常に新鮮であろうし、また、その教育活動は底の深いものになっていこう。
三
教育とは何かということを改めて考えるということは、中学教育を中心にして、幼児教育、小学教育、高校教育、大学教育ということをも同時に考えていくことである。もっと大切なことは、その人の一生に、それらがどういう意味をもつかということを考えることである。その時、はじめて、人間にとって、教育ということがどんな意味をもち、また、どんな役割を果たさなくてならないかも、すこしはわかってくる。それは、生徒ひとりひとりの全歴史を理解し、展望することであり、その中で、中学生という時期がどういう意味と役割をもち、また、もたなくてならないかを知悉することである。
学力というものが、人間のもっている能力、さらに、社会が必要としている能力の中で、どういう位置をしめているか、とくに、生徒ひとりひとりの場合に即して考えてみることも必要であろうが、もっと大事なことは、教師と生徒の関係について、おとなと子どもの関係について、改めて考えてみることである。生徒が信頼する教師、期待する教師とは、どういう内容をそなえた教師であるか徹底的に考えてみることである。
そこから更に恋愛、友情、価値、美、正義、政治、おとなというものについても考えてみることも必要である。
中学生に対しては、少しのごまかしも妥協を許されない以上、通用しない以上、それらを考えぬいておくことがたいせつである。
もちろん、これらのことを考えるのに、夏休みはありあまる時間ではないであろう。しかし、毎年くる夏作みを連続して有効に使うなら、可能になってくるのではなかろうか。また、時には自分の子どもを通して生徒を考え、自分の妻を通して生徒の母親を考えてみる。父親としての自分の観察から、生徒の父親を考えてみる。自分と子どもの関係を通して教育そのものを考えてみる。自分と子どもにとって、教育とは何かを考えてみる。
夏休みを利用して、徹底的に、生徒の家庭を訪問し、それを素材にして、教育とは何かを考えつつ、同時に、教育活動を深めてもよい。あるいは、夏休み中、教師仲間には一切あわないで、他の職業の人間ばかりに会うこともいい。それは、生徒の家庭訪問で達成できるが、人間の多面性、多様性を理解し、知る上で非常に参考になる。それがそのまま生徒を深く理解し、多様な人生を歩む生徒に対して適切な助言者になれる道である。人間の中にある多様な才能をみとめる第一歩でもある。
往々にして、学校の教師には、学者に必要な能力しかみとめないような傾向がある。それは、時として、最も愚劣な能力でさえあることもある。今日、必要なことは、学力を教授するという狭義の教育から、人間の諸能力を育成するという広義の教育を復活させることである。
その意味でも、教師は、夏休みを利用して、教育とは何かを初心にかえって、自分で徹底的に考えてみることである。日直をやり、林間学校や水泳の監督をしていても、この問題は考えられる。考えただけ、その教育は変わってくる。深まってくる。そこにしか、教育の前進はないのではないか。
四
私自身、夏休みを利用して、教育とは何かを考えたわけではないが、私が、教育というものをどのような契機で考えるようになり、また、どのように教育を考えていったかを参考までに述べてみたい。
まず、教育というものを考えるようになったきっかけであるが、それは、中学校の二、三年生のときに、教師に深く絶望したことが原因している。ことに、教師の生徒に対する理解がいかに浅く、しかも全く間違っているということに対する怒りであった。そういう間違った判断の下に、生徒をほめたり、叱ったりすることであった。更に、退学、停学の処分にすることであった。私が教師になろうと決心したのもそのためである。教師のお粗末さが逆に、私に教育について考えさせることになったのである。
次は、私が教育をどのように考えていったかということであるが、私は、ペスタロッチの研究家である長田新の教えをうけるべく、広島文理科大学に入学した。長田は、私たち学生を前にして、ある時、次のような話をした。
「教育原論などの書物を二、三冊読むよりも、すぐれた文学書を読むほうが、教育ということを知り、考える上で、ずっと参考になる。そこには、生きた人間が、生きた人間関孫が多面的に描かれている。人生の美と価値が追求されている。教育というものは、人生の美と価偵とは何であり、それを求めるということはどういうことであるかを知った上で、初めて成立する。そのためには、人間関係の中で、人間がどのように変わるかを生き生きと知ることが最も必要である。そういうものを考えない教育は死んだ教育であるが、現実に、死んだ教育論議があまりにも多い。教育について、観念的に、あれこれ知るよりも、生きた人間を前にして、恐れおののく心を感じとることが教育者の第一歩である。そこに、生きた教育がある。それを徹底的に知らせてくれるのは、すぐれた文学書である。」
この話をきいて、私は、次の週から、長田の講義をきくのをやめ、文学書をてあたり次第に読みはじめた。若い私には、長田の講義にもっと期待するというよりも、彼のことばに魅されて、彼のいうままに、教育の本質を追っていくことが大事であったのである。それから二〇年あまりの月日がたつが、私は、それ以後、ほとんど、教育学者の書いた教育論を読まない。そういう暇があったら、むしろ、政治学や社会学や歴史学の本を読むようにしている。そして、文学書の中に、一貫して、教育そのものを見ていこうとした私の立場は、狭いカラの中にとじこもり、その立場からのみ教育を考えるという傾向から私を救ってくれることになったし、人間の複雑さ、人間能力の多様さ、人間関係の微妙さをいよいよ、深く私に知らせることにもなった。
そればかりか、教師となった私に教育的情熱や教育愛を常に注入してくれたのも文学であった。私を生き生きした人間として、生徒の前にたたせたのも文学であった。文学は私に、教育とは何かを教えたのみでなく、私を生き生きした人間、教師にとって最も必要なものを注入してくれたのである。
その後、ある理由で教職を去ったが、私は相変わらず教育そのものから離れることはできない。今も教育は私の中で生きつづけている。
吉本が問われつづける理由
今日、吉本ほど問題にされ、その人と思想の意味が問われつづけている者はいないのではなかろうか。ごく最近、書かれた吉本論をみても、白川正芳『吉本隆明の世界』(「南北」四月号)、竹内成明『吉本隆明と小田実』(「展望」五月号)、粟津則雄『吉本隆明』(「朝日ジャーナル」九月二十九日号)、磯田光一『吉本隆明論』(「文芸」十月号)、白川正芳『吉本隆明の方法』(「南北」十月号)、遠丸立『吉本隆明論』(「中央公論」十一月号)というように非常に多い。
たしかに、吉本は、とりあげられるに価する独創的な思想家である。それも、戦後日本の生んだ稀有な思想家であるといえよう。しかし、数多くの「吉本論」をみると、彼の思想が非常に卓越している内容をもっているということでとりあげられており、自然、その「吉本論」は、その思想の独自性、ユニーク性を紹介するということに力点がおかれている。その思想の祖述と解説に主力がそそがれている。
勿論、吉本という思想家は、そういう紹介そういう解説をいくらでも可能にするし、また、それに価する思想家であり、興味のつきない思想家である。しかし、これこそ、吉本のエピゴーネン、吉本の信者を多数つくりだしている原因であるということができよう。今、最も必要なことは、吉本という人間とその思想をどうよみ、どう理解し、どう受取っていくかということであり、吉本という思想家もそのことを一番強く願っているのではなかろうか。いいかえれば、読者の一人一人が、人間として、現代人として、思索し、行動する上で、吉本に学びながら、吉本を必要としなくなる人間に、現代人になることではなかろうか。彼の言葉によれば、読者の一人一人が人民になるということである。吉本が生き、考えているように、読者の一人一人が生き、考えて思想的自立を戦いとることである。
ということは、吉本という思想家の思想の紹介、解説よりも、その思想の質そのものが、一般に、学者とか知識人、評論家といわれているような人々のそれとは違っているということを明らかにすることが、なによりも重要であるということである。だからといって、吉本の思想の異質さは彼だけのものでなく、埴谷雄高を始めとする数少ない思想家が、既に、自らのものにしているものである。
しかし、吉本ほどに、そういう思想の意味と価値を決定的に評価している者はいないし、また、彼ほどに、激しく憧憬している者もいない。人々の中に、その思想が定着するように願って、書きつづけている者もいない。それこそ、彼にとっては、そういう思想をもとうとすることが、人々に意識革命をもたらすことであり、それは、そのまま社会革命、政治革命を平行して実現していくことでもあるのである。彼には、これまでの思想そのものの革命をなしとげることが、なしとげようとすることが革命に通じ、革命を実現することである。それ以外の如何なる意味での革命もない。もし、あるとすれば、擬制の革命である。
その意味では、吉本の志向する革命は、吉本の考える思想をもとうとすることから、始めて、現実化していく。いいかえれば、彼の考える革命は、社会主義的思想、共産主義的思想をもつところに生まれるものでもないし、一般に、進歩的な学者、評論家と自認するような思想に導かれて成立するものでもなく、逆に、進歩的な学者、評論家の思想に変革が訪れて始めて成立するものだということである。
では、学者とか知識人、評論家といわれている人々のもっている思想の質と吉本がもっている思想の質の違いとは、一体どういうものであろうか。また、今日、そのように異質である思想というものが、日本の思想的伝統と風土の中で、ことに、革命に対して、どのような意味とかかわりあいをもっているのであろうか。
私は、そのことを、吉本の思想に則して、述べてみたい。
吉本の思想的出発
普通、吉本について論ずる者の多くは、彼の思想家への第一歩は戦争を契機として始まったもので、もし、戦争に遭遇しなかったら、思想家吉本の誕生はなかったのではないかと考えている。しかし、これが、吉本の思想の現代的意味を正確に理解させなくしている主要な理由である。というのは、思想家吉本を成立させたものは、戦争を経たからではなくて、戦争中の思想情況、戦後の思想情況に、彼が全身で投入し、全存在をかけて、対決しつづけたというところからきている。それは、埴谷雄高が昭和初年のマルキシストの転向という思想情況の中で、彼自身の独自で強力な思想を確立していったということと同じである。
吉本の思想形成の時期が、たまたま戦中、戦後にあったというだけで、彼がうけとめた思想情況も埴谷がうけとめた思想情況も、その質においては同じものであった。極論すれば、昭和初年当時も、戦争中から戦後にかけても、埴谷や吉本の考える思想は、日本の思想界には、殆んど絶無に等しかった。そのために、埴谷は、自ら思想といえるような思想とは何かを問いつづけて苦闘をつづけたし、吉本もまた、そういう思想を求めて、苦闘する以外になかったのである。それは、思想の名に価する思想、思想家といいうる思想家が日本の思想風土には、ごくまれでしかないということを知りつくした人間の宿命でもある。
埴谷や吉本は、そのことを知りぬいた数少ない人間であり、そういう思想が現代日本に定着する必要のあることを痛感した。そういう日本の思想情況は、埴谷を生み、吉本を生んだ現在も依然としてつづいている。それは、第二の埴谷、第二の吉本を生む条件を一様にそなえているということであり、思想家吉本は、戦争をくぐりぬけなくても成立したということである。
このことを知っておくことは、思想家吉本を理解するために欠かせぬことである。
現に吉本は、戦争とむきあうことでなく、戦中、戦後の思想情況の中で、次のように考えることが、彼の思想創造への起点となった。即ち、「兵士たちをさげすむことは、自分をさげすむことであった。知識人、文学者の豹変ぶりを嗤うことは、みずからが模倣した思想を嗤うということであった。どのように考えても、この関係は循環して抜け道がなかった。このつきとおされた汚辱感のなかで、戦後がはじまった。……
わたしたちは、すべてを嗤うことにより、自分自身を嗤うという方法で、みずからの思想形成をはじめるほかなかった。この方法のほかに、たよるべきものはなかったのである」(『思想的不毛の子』)と、書いている。これは、吉本が、戦時中は大東亜共栄圏の理念をかかげ、戦後は一転して、民主主義の旗手を名乗る戦前派知識人の実態を、いやというほどにみせつけられたときに、自分を被害者としてみないで、むしろ、彼らに導かれて、生命までも投入しようとした自分自身の愚かさをのろった言葉である。そればかりか、彼は、戦前派知識人に裏切られた自分を発見すると同時に、その戦前派知識人も彼ら自身に裏切られていることを知った。戦前派知織人の中に、思想といえるようなものは、何一つなかったということを思い知った。
吉本が自分だけでなく、日本人全部をゼロと見、ゼロから出発していかざるを得ないと思ったのはそのためである。こうして、思想とは何か、思想と人間との関係は何か、思想といい得るにたる思想とは如何なるものかと問いつづける作業を始めた。
そして、吉本のこの不毛に近い思想的営為をささえたものは、彼自身のやきつくような汚辱感であり、自分自身を徹底的に嗤うしかなかった姿勢そのものであった。
その時の吉本が、再び、自分を裏切ることのない思想を全身で希求したということは容易に想像される。加えて、彼よりおくれてくる世代が、自分と同じように裏切られないためにも、人々を裏切ることのない思想を創造する必要があった。しかも、その思想を、嗤うべき存在である吉本自身が創造していかねばならないと考えたとき、彼は深くとまどったであろう。しかし、彼には、その道を進むところにしか、彼自身の生はなかった。生きていることはできなかったであろう。このことが、彼を戦後の民主主義に、あるいは共産主義に、安直にのめりこまさずに、それらを徹底的に批判することを通して、彼自身の思想を徐々に、創造していった理由である。
戦前派知識人への告発
思想とは何か、思想は如何にして可能かを求めて出発した吉本は、まず、戦前派知識人の戦争中の思想と行動の再検討を始めた。そこには、戦前派知識人が、戦争中、戦中派を誤らせたことに何の痛みも感じず、戦後、再び戦後派を誤らせているということに対する吉本の怒りもあった。
こうして、吉本は、『高村光太郎ノート』『前世代の詩人たち』『民主主義文学批判』『転向ファシストの詭弁』『転向論』『日本ファシストの原像』などを通して、戦前派知識人を告発し、断罪していく。執拗に、しかも、少しの呵責もなく、徹底的に暴露し、批判していく。彼らの転向に対しては、「日本の近代社会の構造を総体のヴィジョンとして、つかまえそこなったために、インテリゲンチャの間に思想転換がおこった。したがって、日本の社会の劣悪な条件に対する思想的な妥協、屈伏、屈折のほかに、優生遭伝の綜体である伝統に対する思想無関心と屈伏がおこった」と分析して、彼らに転向がおこったのは無理もないと判断する。その実例として、日本共産党の幹部である佐野学、鍋山貞親が「最近の世界的事実は、我々に教える。世界社会主義の実現は、形式的国際主義によらず、各国特殊の条件に即し、その民族の精力を代表する労働階級の精進する一国社会主義建設の道に通ずることを。民族と階級とを反発させるコミターンの政治原則は、民族的統一の強固を社会的特質とする日本に於いて、特に不通の抽象である。最も進歩的な階級が民族の発展を代表する過程は、特に日本に於いて行なわれよう。世界革命の達成のために自国を犠牲にするも怖れざるは、コミターン的国際主義の極致であり、我々もまた実にこれを奉じていた。しかし、我々は、今、日本の優秀なる諸条件を覚醒したが故に、日本革命を何者の犠牲にも供しない決心をした」と発表して、転向したことをあげる。日本思想史や仏教史を手にしたこともなく、また天皇制の打倒という掛け声はあったとしても、天皇制の思想的究明を自分自身の手でなしたこともないとすれば、その天皇制と本当にむきあったらそれにのみこまれて、転向するしかなかったであろうと断言する。
また、岡本潤を「岡本は内部世界を外部の現実と相わたらせ、たたかわせることによって成熟させ、その成熟させた内部世界を、外部の現実とたたかわせる相互作用によって、思想を把握したのではなく、内部的未成熟のうえに、イデオロギーを接木したため、現実の動向によって密通的に動揺できるもの」であった(『前世代の詩人たち』)と批判する。
これらの批判を通じて、戦前派知識人には思想創造といえるようなものは、全くなかったということを改めて確認する。戦争中の吉本のように、徹頭徹尾、模倣することしか知らない戦前派知識人を発見する。
しかも、その模倣は、性こりもなく、戦後も依然としてつづいているし、その模倣者が指導的知識人として、今日の社会で、拍手をうけている。吉本でなくても、怒るのは当然だが、吉本を除いては、ほとんど声にならなかった。
彼の代表的な発言が花田清輝に加えられた批判である。即ち、「通俗文学のまわりに集まっている大衆は、政治的意識が低いから、高度の政治意識をもったプロレタリヤ文学についてくるはずがない。ひとまず、政治意識を低めて、作品を通俗化するか、さもなければ政治運動を強化して、文学外の要因とあいまって大衆をプロレタリヤ文学の方へひきよせるより外はない」という花田の文学観、政治に従属した文学観を徹底的に攻撃する。ここには、大衆についての花田自身の思索もないし、政治と文学についての彼自身の究明もなく、相変わらず、戦争中の大衆ひきまわし主義、大衆そのものへの無知しかない。これでは、大衆から孤立していくしかない。
しかし、花田から吉本にかえってきたのは怒号だけであった。花田自身、吉本の言葉を契機として、大衆について、文学について考えなおしてみるということもなかった。彼の花田への絶望感は深まるしかなかった。そのために、一見、吉本と花田の論争は不毛そのものにみえたが、かえって、吉本は、思想とは何か、思想は如何にして可能であり、知識人でありながら、思想そのものを自らのものに出来ないのはなぜであるかを、いよいよ深く考えるようになった。
きっと、吉本は、マルクスに学んだと同じように、花田を通して、多くのものを考えたに違いない。吉本にとって、マルクスと花田は、最も対照的な意味であるが、良き師であったといえよう。
勿論、吉本の戦前派知識人の批判は、マルクス主義にのめりこんだ者達だけでなく、丸山真男のような人にもむけられた。吉本はいう。
「丸山がその政治学の原型と考えているへーゲルには、歴史を血まみれた罪悪史のヴィジョンとしてとらえ、そこから逃れる道を必死にさがしているものがあるが、彼にはそれがない」と(『丸山真男論』)。
吉本のこのような発言をみていると、彼が考えている思想というもの、思想という名に価する思想、思想はどのようにして創造されていくものであるか、創造されなければならないものかがわかってくる。決して、自分自身を裏切ることのない思想というものの輪郭が次第に明らかになってくる。
いうなれば、人間の内部世界を現実とぶっつけて論理化していく過程において創造した思想でないものは、思想の名に価しないということである。内部世界にかかわりなく存在する思想は、いつでも、人間をつきはなし、裏切るものでしかないということである。いいかえれば、思想といい得る思想は、人間の意識に支えられて、人間と一体となっているものでありながら、同時に、人間そのものを指導し、人間のせおっている課題から、人間を全的に解放できるものでなくてはならない。人間そのものをつき動かして、人間を新しい人間に全的に変えうるものである。それほどに、思想というものは力あるものである。
大衆と知識人
こう考える吉本には、これまで、知識人といわれ、学者、評論家と自称していた人間が単に、知識をもった存在にしかみえなくなる。庶民意識を温存している人間、真に、思想家といわれるような人間は一握りしかいないということに気づく。それでいて、相変わらず、彼らは庶民大衆を指導する者であると錯覚しているし、庶民大衆も彼らに指導されるものであるという誤認から脱却できないでいる。
吉本が知識人論を展開せずにはいられない理由はここにある。そして、知識人、学者、評論家一般を、彼が、
「頭脳の理解から入った、たんなるイデオロギスト、プチ・インテリ学者であり、偶然、マルクス主義文献にとりついたにすぎぬような、“マルクス主義”主義者」(『現状と展望』)、「どこかに、無謬の真理を空想しなければ、自立できない宗教主義者」(『現状と展望』)、「歴史的な現実過程から出発するのでなく、自己の脳髄の理解から出発する革命的マルクス主義」(『頽廃への誘い』)ときめつけたのも、そのためである。
さらには、「知識人の知的過程は、いわば、必然の過程であって、けっしてめざめていく過程ではありません。つまり、政治的にか、思想的にか、あるいは、文化的にか、めざめていく過程ではけっしてないのです」(『知識人−その思想的課題』)というようにもいう。
ということは、学者、評論家をふくめて、知識人が思想家になるためには、思想的にめざめた者になるためには、吉本のいう人民になるためには、知識人は庶民大衆を指導するどころか、なによりもまず、自分自身を導いていくことが不可欠であるということである。彼ら自身こそ、思想に本当にめざめる必要があるといわないではいられない。そして、その方法として、「大衆の存在様式の原像をたえず自己の中に織込んでいくことにしかない」(『情況とは何か』)という。大衆の存在様式の原像を自己の中に織込むということは、自分自身をふくめて、現代人の背負っている全課題にむきあい、その課題から解放される思想を自分自身で創造していくことである。いいかえれば、知識人は庶民大衆をリードすることによって革命を達成するのではなく、自己をふくめた庶民大衆の課題とむきあうことによって、自らもまた、庶民大衆も、同時に、思想的にめざめることによって思想家となり、人民となる課題の前にたっているのである。
だから吉本は、庶民大衆を知識人、学者、評論家に従属する者としてみないし、また、知識人、学者、評論家に導かれて、思想的にめざめる者であると考えない。庶民大衆が思想的にめざめ、人民になるのは、彼ら自身の力によってであり、彼ら自身の力によってしかないと考える。そして、その方法を次のようにいう。
「庶民的抵抗の要素は、そのままでは、どんなにはなばなしくても、現実を変革する力とはならない。したがって、変革の課題は、あくまでも、庶民たることをやめて、人民たる過程のなかに追求されなければならない。
わたしたちは、いつ、庶民であることをやめて人民でありうるのか。
わたしたちの考えでは、自己の内部の世界を現実とぷっつけ、検討し、理論化してゆく過程によってである。この過程は一見すると、庶民の生活意識から背離し、孤立してゆく過程である。
だが、この過程には、逆過程がある。論理化された内部世界から、逆に外部世界へと相わたるとき、はじめて、外部世界を論理化する要求が生じなければならぬ。いいかえれば自分の庶民の生活意識からの背離感を、社会的な現実を変革する要求として、逆に、社会秩序にむかって投げかえす過程である」(『前世代の詩人たち』)。
「庶民が庶民でありながら、その日常的な精神体験の世界に、意味をあたえられるまで掘りさげることができたとき、庶民は、庶民の社会にいて、庶民でない存在となれることができる」(『日本ファシストの原像』)。
これは、庶民大衆が知識人や評論家になることでなく、自らの力によって自立し、さらに、人民になる道をさししめしたものである。庶民大衆が知識人や評論家を自らの指導者として考えることをやめるように説いたものである。思想にめざめ、思想を必要としているのは、知識人や評論家も、庶民大衆も全く同じであるといいきったところに、吉本のもっとも吉本らしいところがある。
大学革命と吉本
このようにみていくと、庶民大衆であろうと、知識人、評論家であろうと、自らの思想を求め、めざめた人間として、現代の課題にたちむかおうとするほどのものであるなら、誰でも、まず、自分は何であり、自分は如何にあるべきかを考えることから出発しなければならない。そこから、更に、現代とはどういう時代であり、どういう課題をもち、どういう方向にむかっていくかの期待と同時に、どういう危険をはらんでいるかということを自分自身で問いつづける必要を感ずるであろう。もし、途中で、その問いを問いつづける作業を怠り、既成のイデオロギーや思想に身をゆだねた瞬間、その人は、知識人や評論家になることができても、思想家への道はとざされ、人民になるということは決してない。思想家、人民になるということは、それほどに厳しいといえるが、今日、各所に大学紛争をおこしている学生たちの中には、こういう問いを自分自身に課しはじめている者がいる。
それは、全学連中核派の秋山勝行君が「自分の生き方を、自分の世界観をとことんまでつきつめ、自分の問題意識に従って生きぬくことは、大学に入り、本当の学問を求め、新しい眼を開いた者が行きつくところである」(『全学連は何を考えるか』)と語っているところでも明らかである。今、ようやく、若い学生達の中には、思想家になるための、人民になるための道を歩みはじめる者がではじめている。
これまでの知識人や学者のように、単に、大学の成績がよかったという理由だけで、現実への何の問題意識もなしに、自分と学問との必然性もなしに、学問をし、それぞれの科学の中に埋没してしまうということに、若い学生達は、疑問をもちはじめた。現代の課題で人間の課題に結びつかない学問は、学問の名に価しないのではないかと考えはじめている。
人間は現代にいかに生くべきかという最も本質的な問いに答えることができない学問というものは、どこか狂っているのではないか、何かが欠けているのではないか、と考えはじめている。その疑問を直接にぶっつけているのが、今日の大学紛争であり、その疑問に殆ど答えることのできないのが、学者、知識人といわれる大学教師の今日の姿である。吉本のいう知識人、評論家にすぎなかったことを、彼らはばくろしている。
そういう意味では、学生の疑問と挑戦の中で、知識人や学者にすぎなかった大学教師も、今やっと思想的にめざめ、思想家になる契機をもったということができる、もちろん、学問とは何か、思想とは何かを問いなおす姿勢のない者は、永久に、知識人や学者にとどまるしかあるまい。いずれにせよ、今日の大学紛争は、若い学生達を思想家に育て、知識人、学者にすぎなかった大学教師を思想家に変革する契機をはらんで、もめつづけており、日本の思想革命への期待を大いに、いだかせている。
若い学生達のこういう生き方、動きを直接、間接につくりだす契機となったものは、吉本である、というのが私の考えである。十数年、吉本が書きつづけ、主張してきたところのものが、やっと、わずかに、実りはじめたといえる、それ故に、また、吉本ほどに、今日の大学紛争を、学生の今後を凝視しているものはいないであろう。
「学生の指導者がたんなるイデオロギストでなく、思想家だったら、ブランキズムは駄目だとか、トロッキズムは駄目だとかいう愚論を排除して、インテリゲンチャ運動として自立する道をとるはずだ……。
早く、醒めない方がいい。そして、醒めないうちに、醒めたものには決してできない知識や思想や運動を蓄積した方がいい」(『現代学生論』) という吉本の発言をみていると彼の不安がじかに伝わってくるし、学生にむかって「もっと絶望せよ、深く絶望せよ」と繰り返すのも、彼の鋭い忠告である。おそらく吉本としては、そういう忠告を発せずにいられないのであろう。
これからの吉本
以上が、現代思想史における吉本の意味であるが、その場合、彼が戦争の中から生まれたのではなく、日本の思想情況の中から生まれたということが、特に、大きな意味をもっている。戦中、戦後の思想情況をじっくりと思想的にうけとめ、それも、十年間の長い間にわたって、彼の全存在で、とことん、考えていき徹底した絶望に全身をゆだねつづけたということ、そこに、思想家吉本は誕生した。吉本のように、深く絶望し、絶望した自分を本当に大事にするなら、戦中世代であるなら、誰でも、彼のように、思想家になることができ、人民の一人になることができる。
それと同じことが、戦後の思想情況を全身でうけとめることを余儀なくされた戦後世代にもいえる。彼らもまた、吉本のように、思想的にめざめ、思想的に自立することができるはずである。戦後世代の中には、孤独で、不毛に近い戦いを現に今、進行させている者がいるであろう。それは、吉本におとらぬほどの汚辱感と絶望感を戦後の思想情況からうけとめさせられた戦後世代であったからである。
しかし、吉本は、唯一人、戦中世代から吃立し、戦中世代の中では、彼のように、思想家、人民になり得た者は非常に少ない。同じように、戦後世代の中で、思想家、人民になる者、なり得る者は少ないのではないかという不安もある。それに、吉本のような、思想家、人民になるためには、どうしても数年から十数年の自己沈潜が必要であり、その中で始めて、自分自身を貫き、自分の内部世界をも、理論化できるような強力な思想、全人間を支配し、指導できる思想が生まれるということを考えると、戦後世代にも、あまり期待できない。
吉本に、その不安があり、そのおそれがあるから、知識人から思想家に、庶民大衆から人民になるための道を説きつづけてきたということになる。とすれば、戦後世代は吉本の思想を導きとして、戦中世代とは違って、もっともっと有効な道を歩みつづけるという期待をもつことができるかもしれない。現に、今日では、若い学生達が、多くの不安と危惧をいだかせながらも、思想家、人民にむかって、力強く歩みはじめている。その意味では、今日という思想情況ほどに、希望と期待のもてる時代は、かつての日本にはなかったのではないか。もちろん、輝やかしい時代になるという保障はどこにもないが。
ことに、今後の吉本が、『言語にとって美とは何か』にひきつづいて『心的現象論』、『共同幻想論』などを次々に完成し、思想家吉本として、いよいよ偉大にみえるようになることは、日本の思想情況にとっては、一つの 恐しいおとし穴になりかねない。このことは、これまでマルクスの模倣者、毛沢東の信者、サルトルの追随者を沢山つくりだしてきた日本の思想界をみれば明らかである。模倣者・信者・追随者が多数出るということは、その思想が卓越し、完璧に近いということである。ごくありふれた思考能力、批判力では、その中にのみこまれて、思想的に対決することが容易ではない。
そのために、多数の模倣者・信者・追随者を出したばかりか、日本の思想界全体を誤らせ、思想家、人民への道を歩みつづけている人達を不当に圧迫してきた。吉本ほどに、強力で、かつ、強引な思想家にならないかぎり、問題にされないような思想情況をつくりだして、今日におよんでいる。そのことを最も明らかにしめしているのが、今日の大学紛争について、学生運動について、正確な理解をほとんどしめしえないということである。紛争そのものや、学生の暴力的行動そのものにしか眼がむかず、思想革命の動きが底の方でおこっているということが見抜けない。
今、吉本が、思想家として、これらの作品によって、いよいよ、偉大になるということは、そうでなくても、吉本のエピゴーネンが多数輩出しているのに、さらに、そういう人間が次々と輩出していくのではないかという心配がある。また、吉本思想の祖述者、解説者がますます増加していくのではないかという危惧である。そういうことは、知識人が思想家になり、庶民大衆が人民になるということとは全く無関係であり、吉本が望むところでもない。
吉本に学ぶとは
ようやくにして、マルクスや毛沢東の初期の思想を読みなおし、再検討していくという傾向がでてきたとはいっても、自分自身が思想的にめざめ、自立していくために、マルクスや毛沢東の初期の思想を読みなおすというような者は、まだまだ少ない。偉大な思想にいかれるということは、それほどに、こわいことである。
吉本が、そのように遇されることは、彼のあずかり知らないところであり、青任がないといえばないといえるが、庶民や知識人が思想的にめざめ、思想的に自立していくことと彼の『心的現象論』や『共同幻想論』とは、ほとんど無関係であるということを、吉本もまた、吉本から学ぼうとする者も知っておく必要がある。庶民や知識人が思想的にめざめ、思想的に自立していくためには、かえって、これらの作品は害になりかねない。思想的にめざめ、思想的に自立していこうとする者には、どこまでも初期のマルクスが大切であるように、初期の吉本が大事であり、初期の吉本とこそ、対話し、討論すべきである。
そして、思想的にめざめた庶民と知識人はその時こそ、彼ら自身の『言語にとって美とは何か』『心的現象論』『共同幻想論』を書けばよいし、それが、また、思想的に真に自立する時でもある。
吉本に学ぶということは、吉本の思想の祖述者、解説者になることではなく、また、自分自身の内部世界を放置して、吉本思想をふりまわすということでもなく、自分と吉本思想を格闘させることから始まるのである。そのことを今日、私達に痛切に、つきつけているのが今日の思想情況である。
松下村塾の教育の精神と方法を明治以後、今日まで、何度か、学校教育にとりいれ、生かそうとする試みをなす者があらわれたが、そういう人たちは、一番肝腎なところで、村塾教育を見誤っていた。それは、何かといえば、村塾の主宰者吉田松陰その人が幕藩体制の中からはみ出た人であり、その体制を否定して、新しい社会の内容を全身で模索し、追求していた人であり、そこに集まった塾生たちも、幕藩体制の中で、立身出世する可能性の全くない人たちを中心に、その体制に疑問を感じはじめていた人たちであったということである。教師も学生もともに、今日の言葉でいえば、その時代から疎外された人々であった。
ということは、教師にとっても、学生にとっても、自分たちが思う存分生きうる社会、自分の能力を力一杯に伸ばせる社会を自分たちで、実現する以外にはなかったということである。
だから、師の松陰は、その全存在で、そういう社会を構想したし、塾生たちにも、その社会を精一杯構想することを求めた。ともに、構想する、協力して、構想する以外になかったというのが、村塾の実情であった。その意味では、教師は、教える者として塾生をみたのでなく、塾生も、教えてくれる者として師をみたのではない。新しい社会を構想し、その実現の方法を模索するということは、師にとっても、また、塾生ひとりひとりにとっても、至上命令であった。それが可能かどうかは、彼等の生そのものにかかわる大問題であった。 それ故に、村塾の中は、学問への意欲はみちあふれたし、熱気につつまれた。師松陰を中心に、同志的結合で結ばれたといってもいい。しかも、松陰は、つねに、塾生の先頭にたち、最も困難なことに突入した。陽明学者として、「知は行である」、「行にまでゆかない知は、いまだ本当の知ではない」と考えていたから、なおさらである。
ことに、松陰が塾生たちに、最後に、残していった実物教育は、幕府権力の弾圧の前に、ともすれば、塾生がひるみがちになるのをみて、彼自身が断乎として、その弾圧の中で死んでみせるということであった。悲壮というしかいいようのない教育である。塾生たちが、その後、その激しい弾圧をはねのけつつ、友人の屍をのりこえて、つきすすんだのも、また転向しなかったのも、松陰の死の教育があったためである。全人的教育が可能かどうかは、教師が力一杯、現代の課題にとりくんで生きてみせるか否かにかかっている。教師の眼は、学生の上にそそがれる以上に、現代の課題にそそがれていることが必要である。
今日、村塾の教育を考えると、大学闘争などで、教授と学生の関係を教えるものと教えられるものの関係とか、教授会の自治と学生の自治の関係を、学生の自治は教育の中にいれようということなど、全く、ナンセンスにしかみえない。
松陰は、今日でいう、高校生ぐらいの年齢の青年に対しても、自分と同じようにみ、自分と同じように学問をしない者は全身で叱咤したし、彼等に、完全なる自治を求めていた。彼は、教育とは、自己教育であり、自己教育しか、教育の目的を達成しないと考えていたからである。彼は、三人一組で、自治にとりくむことを求めた。それは、同時に、塾生一人一人の能力を最高度に発展させることをねらったものでもあった。
しかし、村塾教育を現代に生かすという点で、最も大事なことは、既に述べたように、現代社会に絶望し、新しい社会を熱望する者が松陰のように、塾の指導者になることである。彼が村塾を創立したときは、数え年二十六歳。東大全学共闘議長山本君より若い。それこそ、松陰になれる人間は現在、無数にいる。そこで、現代社会に絶望した青年と一緒に、新しい社会の内容とその実現の方法を模索していけばよいのである。村塾のように六畳一間から始めればよい。
しかも、松陰はつねに、十年後を考えて血みどろに思索し、構想した。勿論、行動しながら、構想した。彼がいかに学んだかということは、一カ月に、数十冊の本をよんだということでもよくわかる。「その位に、学び、考えなくては、革命は実現できない。革命を実現できるほどの見識はもてない」というのが、彼の持論でもあった。今日は、あまりにも学問のための学問か、あるいは、無学問のどちらかに走りすぎている。
村塾教育を今日に生かそうとすれば、学問そのものの意味を問いなおすことから始める以外にはない。村塾の成功の鍵は、すべては、学問に対する考え方如何からきていると断言してもよい。
教育を考えない教師たち
先日、ある小学校の校長先生から、
「今の教員は、以前のようには、書物を読みません。読んでいる者も、専門教科についての書物がほとんどで、これでいいのかと思っています」という手紙をうけとった。もちろん、書物を読むことだけが、教育を真剣に考え、教育をいかにすベきかと考えていることでもないし、まして、この手紙は、一地方の一小学校のことで、それによって小学校教員の一般的傾向と考えることは早急であろう。
しかし、少なくとも、読書は、教育を考えようとする者にとっては必要だし、この傾向が教員の一般的傾向だということもいえるであろう。それは、最近、校長の命令でも実行しない。校長の命令しか実行しないという意味で、デモシカ教員ということばが、かつての意味とは違ってはやりだしていることにもあらわれている。
教師が、それでいいと考えていないことはいうまでもない。それにもかかわらず、今日の教育界は、それを教師に考えさせようとしないし、考えようとする教師の意欲と姿勢をうしなわせるようなことがおこっていることも事実である。たとえば、教師を雑務でしばり、時間でしばり、更には、指導要領でしばり、考える一個の独立した教師から、命令どおりしか動けない教師にしようとしている。
デモシカ教師は、生まれるべくして、生まれたともいえる。今こそ、すべての教師が、教育はこれでいいのか、教育はどうあるべきかと考えるときである。そうしないと、かつて、その子どもを戦場に送りだして殺したように、たとえ、戦場に送りださなくても、子どもの心を殺すような教育になってしまう。
戦場に送りだして、子どもの肉体を殺す教育よりも、戦場に送りださないで、子どもの心を殺す教育のほうが恐しい。教師に、それがみえないだけに、その反省がおこらないから一段と恐しいといえる。
学問の課題を忘れた教授たち
今日、大学は、ゆれにゆれている。紛争の渦中にある大学は、いよいよふえていくという傾向にある。小学校の教師、とくに、六年生の担任教師は、小学校教育の最後のしめくくりをする者として、その意味を十二分に考えて、子どもに接することが必要である。それを考えることは、そのまま、教師の子どもに接する姿勢をかえるであろうし、同時に、教師に、教育はこれでいいのかという問題をつきつけているということを発見するであろう。
では、今日の大学紛争の意味、とくに、学生たちが、大学当局と教授につきつけている問題点とは何であろうか。
ご承知の人も多いかもしれないが、それを一言にしていえば、これまでの教授たちの学門とはいったい何であり、何のため、また、誰のためにやっていたのかという問いを、学生たちは、教授たちになげつけることから、紛争はおこった。
学問とは、本来、人間・社会・自然のト−タルとしての世界を対象とし、その世界を認識し、分析することから始まる。それも結局、人々を指導し、人間と社会を変革する指導原理や世界観を追求するということが課題である。
もしも、その指導原理、世界観が発見できれば、それにもとづいて、行動をおこすのは当然である。人間と社会の前進と発展にとりくむのは当然である。いいかえれば、学問とは、人間が人間として、現代社会の中でいかに生き、また、生きうるかを究明するものだということである。
しかし、現実には、教授たちの多くは、細分化した専門科学という個別研究に埋没し、安住したまま、トータルとしての世界そのものを究明しようとしない。専門科学は、世界そのものをミクロ的に観察し、認識することで、最後的には、世界そのものを正確に把握することだということを考えようとしない。それが、そのまま、人間がどう生きるべきか、どう生きうるかを究明することに、学問の課題があることを忘れることにもなっている。
そして、そんな研究を学問だと思いこんでいるから、学者として、人間としての行動もおこそうとしない。
学生たちは、そのことを、今、鋭く問いかけている。教授たちの学問には、人々を指導できるものがない。そういう姿勢がない。そのことを徹底的に自己批判して、真に、学問の名に価する学問を再建してほしいと問いつめている。
学生たちの行動が激しいために、あるいはゲバルトを用いているために、ともすると、学生たちの要求が見うしなわれて、ゲバルト批判にむいていく傾向がある。暴力学徒という批判もつよい。
しかし、大学外にいる皆さんも私も、学生たちの追求にあって、教授たちのほとんどが、ただ、もたもたして、何も対策ができなかったこと。学生たちの要求をほとんど肯定する方向にいかざるを得なかったのを、はっきりとみた。
学生たちの激しい要求にあって、やっと、教授たちは、重い腰をあげて、大学を改革しようとしはじめたのである。だらしがないの一語につきよう。
しかも、教授たちは、この時になって、なお、自分たちの学問が学問の名にふさわしい学問から、遠く離れているということは、頑強にみとめまいとする。そこには、学生たちの追求の方法のまずさもあって、教授たちをかえって、その殻にとじこめている面もある。しかし、それをいいことにして、学生たちの要求を、すべて、大学の制度改革という面だけにすりかえようとしている。
学生たちが「終わりなき戦い」といいはじめたのも、そのためである。
真の学問とはなにか
ここで、人々を指導する学問とは何かを、もう少し、深く、考えてみる必要がある。ことに、学生たちが、大学を労働者・農民に解放せよといっていることと関連して。
かつて、福沢諭吉は、「風呂をたき、飯をたくのも学問である」(「学問のすすめ」)といったが、それは、庶民大衆の学問、国民ひとりひとりの学問が成立する方向を大胆にいったものである。もちろん、唯単に、いわれるままに、風呂をたくのでは、学問にならないが、そこに、批判があり、進歩があるなら、学問になる道が開かれる。学問とは、自ら学び、考え、批判する姿勢から生まれ、自ら学ぷということもなく、批判するということがないなら、どんなに、たくさんの知識を正確に知っていようとも、それは、学問とは全く無縁である。
人間は誰でも、白痴を除いて、自ら学び、考え、批判する能力はもっている。そこに、稚拙があろうとも、誰でも可能である。とくに、時間と金があるなら。これは、人間誰にも学問ができるということである。しかし、明治以後、学問といえば、西洋の学問の翻訳、紹介であり、それを、すみやかに理解すること、たくさん、記憶することに重点がおかれた。ことばはいたずらに、難解をきわめたために、学問は、庶民大衆の理解できないもの、縁のないものとなってしまった。さらには、必要のないものと思われるようになった。
しかし、庶民大衆にこそ、生活の重圧、政治の重圧の中に生きている庶民大衆にこそ、学問は必要であったのに、これまでの学者たちのほとんどは、それを考えようとしなかった。
福沢のいった「風呂をたく、飯をたく」という行為の理解を出発点として、それが、経済学に、社会学、歴史学、植物学、物理学に発展していくということを考えようとしなかった。そのために、そういう学問を建設していこうとしなかった。
ほしい専門職としての自立意識
今日、学生がつきつけている問題とは、国民ひとりひとりにとって、学問がいかに必要であり、そういう学問をどのように建設していくかということである。
それは、そのまま、全教師が、考えねばならないことである。教師自身が、自分で考えねばならないことである。とくに、国民に接して生きている教師こそ、考えることができるし、考えねばならない。そのことを、大学教師に問うのでなく、自分たちで考えるときである。
学生たちが、既に、教授たちに、その学問の破産していることをつきつけた。そして、彼らが、自らの頭脳で考えはじめた。
このことは、大学教師に、最も強い信頼と深い憧憬をもちつづけた教師に対する鋭い批判でもある。大学紛争ほど、教師諸君に、強い反省を求めたものはないといっていい。
教師として、自立してほしい。専門職として確立してほしいと学生たちは、無言のうちに、願っているのである。学生たちは、今進んで、困難な戦いをはじめた。彼らに協力する教授も少ない。しかし、その数は徐々にふえ、中には、教授の地位を去って、市井の中に、一学究徒として生きようとする者も出てきた。
教師の教育環境、思想環境はたしかに悪い。しかし、悪いからこそ、進歩と変革が必要である。勇気も必要である。福沢は、勇気のない者には学問はできないともいった。
教師がわるい条件の中で、学問してこそ、どこまでも学問を追求する者であってこそ、子どもたちに、学問を追求する精神を求めることもできるし、学問とは何かと教えることもできる。自ら学問をしない者には、子どもに学問的精神をつぎこむことはできない。
今こそ、全教師が、学生に呼応して、教育について、じっくりと考えるという行動をおこす時である。おこしてほしい時である。
一
大学の教育の中で、男女の差別がどのように行なわれているかという問いほどナンセンスなことはない。それは、一言にしていえば、大学教育とは、本来、男性、女性をふくめて、常に、人間の意味と価値を問いなおし、その能力の極限に挑戦し、その能力の最大限をひきだすところに、その役割があると思われるからである。いいかえれば、女性の意味とか、その能力を固定したものと考え、その上にたって教育をするところでなく、時々刻々、女性の意味とその能力を問いなおしていくところに、大学教育の意味があるからである。もしも、男性、女性をふくめて、人間の能力の極限を問いなおし、人間の能力をかぎりなく発展させることを意図しない大学など、それは如何なる意味においても、大学の名に価しない。大学の本質と機能を果たしている大学とはいえない。
しかし、現実には、そういう問いを問いつづけている大学はほとんどない。そこに、一昨年以来の大学闘争がおこってきたともいえるが、女性や女子学生に即して言えば、大学教育における差別教育の最たるものとしての数百の女子大学、女子短期大学の存在を許しているだけでなく、その女子大学、女子短期大学においてさえ、女性の本質と意味、その能力の極限を常に、問うということをしなかったのである。
ことに戦後、男女平等の法的規制を占領軍に与えられた日本女性の多くは、先進的女性といわれる人たちは、そのことに驚喜し、女性の本質と意味、その能力の極限を問うことをやめてしまった。あたかも、日本人の多くが、与えられた民主主義をアプリオリなものとしてうけとめ、それを思想的に、うけとめ、問いなおすということをしなかったために、今日、戦後民主主義の虚妄と空洞化に苦しんでいるように、女性もまた、その女性の本質と意味、その能力を問いつづけ、その視点にたって、女性の能力を開発することがなかったために、社会的にも能力的にもどんどん、追いつめられている。
女性の特性とか能力は、家庭でしか発揮できないものという考えが、最近は、女性の中にどんどん拡がっていく傾向にさえある。そればかりか、女性の能力は、男性よりも劣っていると考えている者は、男性よりもむしろ女性に多いといって過言ではない。それほどに、女性の中にある劣等感は深いし、その劣等感は多数の女性をつかんでいる。
それがまた、多数の女子大学、女子短期大学を存立させ、最近いよいよ、成立させることにもなっている理由である。しかも、その女子大学、女子短期大学の多くが、文学部と家政学部であるというところに、女性の本質とその能力をそれらに限定していこうとする姿勢がある。それこそ、ここには、女性の本質とその能力を多方面に開発し、発展させようとする、大学本来の使命など、どこにもみえない。
ともすると、熊本大学を始めとするその他の大学の薬学部、さらには、最近の早稲田大学文学部における女子学生の入学制限を、一般には、女子学生に対する差別の主なものとして考える傾向があるが、そういう差別は、根本的本質的な差別ではない。
たしかに、そういう差別が行なわれることは好ましくないが、それにとらわれて、大学教育にある男女差別の根本問題を見失ってはならない。
二
今日、現代における人間の本質と意味を問うところから大学闘争、大学革命がおこつたが、それは、教育闘争、教育革命の形をとって、高校にまで、普及し、発展している。高校生の疑問と関心は、自分が今日、如何にあるべきか、如何に生くべきか、ということに集中し、その解決を求めて、苦悶している。そこには、現代人としての苦悩はあっても、人間としての怒りはあっても、女性としての怒りや悲しみは殆んど出ていないのが実情である。
男子学生や男子高校生と行動をともにしている女子学生や女子高校生の中には、女性としての怒りと悲しみをからませている者もあろうが、それを明確に意識していない。彼女たちは、そのとき、女性をほとんど意識することなく、人間として、大学生、高校生として行動しているのである。それは、それとしていい。
しかし、共学の大学や共学の高校に、熾烈な人間復活の闘争がおこなわれているとき、その波が女子大学や女子短期大学を洗わないということはどういうことであろうか。女子高校に波及しないということはどういうことであろうか。
まして、今日、人間が人間としてゆがめられているのと平行して、女性は、それに加えて、もう一つのゆがみをうけているとしたら、女性は、人間として、女性として、同時復権という困難な課題に直面していることになる。
それにもかかわらず、女子大学で、女子短期大学で、激しい闘争がおきないということは全くおかしなことである。要するに、女子大学、女子短期大学の学生は眠りつづけているというしかない。
その意味では、共学の大学で、大学闘争、大学革命にたちあがっている女子学生が人間の本質と意味との関連の中で、女性の本質と意味を問い始めるとともに、女子大学、女子短期大学で教鞭をとる女性たちが、女子大教育の意味を徹底的に問いなおすことが必要である。さらには、女子大学、女子短期大学に学ぷ学生たちの先頭にたって、彼女たちに、その疑問をぷっつけることである。
その疑問を自分自身でなげつけないような女子学生は、学生でないとの強い説得活動をおこすことも必要である。
女子大学の教師と学生こそ、今日、女性の本質を改めて問い、女性の多元的能力の開発の先頭にたつべきである。差別の徹底的排除にむかって、行動をおこすときである。
共学の大学や高校で、大学闘争、教育闘争がおこっても、女子大学で、女性復権闘争がおこらないところに、その闘いの困難さがあり、むつかしさがあるのかもしれない。ことに、その運動を阻むものが、女性自身の中にある。それは消極的受動的であり、安易さや怠けぐせである。自分自身に対する甘えであり、さらには、男性に対する甘えであり、依頼心である。家庭に逃避する姿勢であり、果敢な戦闘心の欠如である。
それこそ、これまで、女性の長所とか、美点とされていたものが、すべて、女性の能力を開発していく上の最大の敵であり、男性が女性を支配し、隷属させるために、故意に誇張してきたものである。
女性美とか、女性らしさなど、そんなところにはない。あるように、そう思わせられたにすぎない。だから、女性はバカだとも男性に、言われるのである.
三
女子大学、女子短期大学が、共学の大学と高校の谷間になって、無風状態にあるということほど、今日、大学教育における男女の差別をしめすものはない。大学革命や大学解体を叫ぷ声にもまして、女子大学の革命や解体を叫ぷ声が怒涛の如くおこらないかぎり、大学教育における男女の差別はなくなりようがない。男女の差別の撤廃にむかって、動きはじめないであろう。
ことに、先述したように、女子大学、女子短期大学の学部編成が文学部と家政学部に相変わらずかたよっているかぎり、女性の本質と能力を多方面に開発していく可能性はほとんどない。
「女性はつくられた性である」ということは、よくいわれるが、同様に、男性もまたつくられたものである。ことに、その能力と姿勢は社会の中で、つくられ、きたえられたものである。しかも、それは、長い長い風雪をたえて鍛えぬかれたもの。厳しい生存競争の中で、磨きぬかれたものである。中には、その途中で、多くの落伍者が出、脱落者、敗北者は自ら無限の悲しみと怒りを人知れずにかこつものであるし、さらには世捨人になり、自殺した者すらいる。男性の能力はこうして開発されていったのである。
その間、女性の多くは、男性に保護され、男性に依存してきた。その長い伝統をたちきって、女性が男性と伍して、その能力を発揮しようとしても、そんなに簡単なことではない。しかも、女子大学にいって気のつくことであるが、女子学生は、何でも彼でも、大学当局に、男性にしてもらうことを考えている。依存心、依頼心を今日も殆んど脱していない。
戦後の男女同権が悪平等であるといわれる理由もそこにある。 もしも女性が文学に適し、家政学にむいているというなら、それもよい。女性は文学と家政学に徹底的にとりくみ、それを追求していくこともできる。ことに、今日のように共学の大学の学問が、主体的論理と思考を忘れて、客観的論理と思考に没していった結果、現代の学問が人間そのものから遊離し、人間そのものを学問の奴隷にし、さらには、社会科学、自然科学が人間を社会と自然の従属的位置においやっていることに対して、真の文学の創造にとりくむなら、人間にその自立性、主体性をとりかえさせることにもなろうし、真の家政学は、家庭という社会での個を確立させる上に大いに役立つということもいえよう。
文学と家政学は、現代における人間の疎外を回復する第一歩になる。文学と家政学に、そういう意味を発見して、女子学生に教育しているなら、さらには、女子学生を今日の救済者として育成しようとしているなら、大変すばらしいともいえるが、現実にある女子大学、女子短期大学の文学、家政学の多くは、せいぜい、過去の文学についての死んだ知識であり、家庭についての雑多な知識、それもよせあつめの技術的知識でしかない。
未来にむかって、人間のありようを教えてくれる文学本来のとぎすまされた創造的構想的知性でもないし、また、未来社会の中での人間関係、ことに、基礎的な人間関係と人間生命の復活を教えてくれる家政学本来の発展的独創的知性でもない。
長い間、差別されてきた女性の悲しみと怒りを教えてくれる文学や家政学ですらなかった。女子学生に向上の灯をつけることさえ出来なかった文学であり、家政学であった。そういう文学や家政学は女子学生に何であったかと考えれば、今こそ、女子学生は、女子大学の革命を解体を絶叫せずにはいられない筈である
四
勿論、女子大学の革命と解体を叫ぷことは困難である。とくに、その革命にむかって行動をおこすことはむつかしい。しかし、現に共学の大学に学ぷ女子学生をふくめると、数十万の女子学生がいる。彼女たちが、男女の実質的平等を求めて、行動をおこしはじめたら、また、そのために、必要な女性の能力の開発と進展に忍耐強くとりくみはじめたらということは、必ずしも夢ではない。
大学とは、そもそも、人間に、女性に、そういう自覚を与えるところである。それを与えまいとする大学は、大学として失格である。その点では、今日、大学として失格する女子大学、大学教師として失格する女子大学教師がいかにおぴただしいことか。
それはともかくとして、女子大学の教師の中に、女子学生の中に、女子大学の革命を求めて、徐々ではあるが胎動がおこっている。学生自治権の確立を求めて動き始めた女子大学もいくつかある。
信じられないような事実であるが、今日、学生の政治運動を厳禁している女子大学、女子短期大学が三分の二もあるのである。この点だけとってみても、女子学生がいかに大きな差別の中におかれているかということがわかる。
女子学生が、本気になって、家政学を学ぷなら、女性がいかに差別されてきたかを知ることは容易である。その母親がさらには、その祖母が、差別の重圧に苦しんできたかを発見することは簡単である。彼女たちが大学教育の中の差別を知れば知るほど、その母親、その祖母の愚劣さ、かいならされた柔順さ、偏狭な見解に、深い理解をもてるようになろう。
そのことは、母親・祖母と敵対関係にはいることでなくて、彼女たちを自分たちの味方にし、連帯をくむことである。それは、同時に、家庭における男女差別、小学校、中学校、高校における男女差別を徹底的にしるということでもあり、家庭に革命をおこすということでもある。
家庭に、革命をおこすことができないで、どうして、女子大学に、共学大学に、さらには、全社会に革命をおこすことができよう。家庭に革命をおこすのが、本来あるべき家庭、理想の家庭をつくることを教えるのが、その智慧と姿勢をあたえるのが、家政学である。しかし、今の家政学は、家庭革命をおこさないようにしている。それが家政学として通用している。これほどインチキなことはない。
数十万の女子学生が、女性の差別にめざめはじめ、その祖母、その母、その姉妹をまきこみ、差別撤廃の大運動をおこしたときを想像すると、非常に楽しい。それまでは恐らく、日米安保条約の不平等も、労働者と資本家間の不平等も、本当には解消されないであろう。
五
「大学教育にあらわれた男女差別」というテーマが、私に与えられたものだが、私は、男女差別の実態をあきらかにすることを怠った。それというのも、大学に学んだ女教師にしても、また、現在学んでいる女子学生にしても、その差別の実態については、既にいやになる程痛感している筈であると考えたからである。ある学生は、差別観をいだいた教授の講義は、その内容がある点では、如何にすぐれていても、きく気持がおこらないと語ったことがあるが、私は、その女子学生の将来に大変期待をもった。
今日必要なのは、差別の実態をあきらかにすることでなく、むしろ、それは高絞生の段階であきらかになっているから、その差別に対して、女子学生が全存在で怒ることを強調することである。しかも、今日の女子学生は、残念ながら、不当な差別に鈍感になり、怒ることを忘れている。
それ故に、私は、もっぱら、女子学生の大学生としてのありようを書いてきた。女子大学、女子短期大学そのものが、大学教育にあらわれた男女差別の最たるものであることを強調してきた。その中に生きる女子学生が全身で怒らない以上、絶望的である。
戦争中、学生であった私は、右翼学生の一人であった。
しかし、当時の私は、右翼を、資本主義に対決し、軍閥、官僚を批判するものとうけとめ、その流れの中に身をおこうとした。その意味では、右翼はどこまでも疎外者であり、現状を否定するものであった。
同時に、日本を世界にむかって開いていくものでもあった。
私は戦後二十数年たった今、どうしても、右翼とは、日本と日本人にとって、何なのか、更には、現代にとって何なのかを書いてみたかった。ことに、歴史学徒として、歴史的に明らかにしてみたかった。それが、この本を私に書かせた理由である。
太平洋戦争がすんで、これまで日本を支配していた価値観は、すべて崩解した。それに代わって、占領軍から、全く新しい価値観が押しつけられた。その時、押しつけられたものを仕方ないとして、それに随従できた者はよいが、それに従うことの出来ない者の間には当然混乱がおきた。だからとて古い価値観にかわって、新しい価値観が簡単に生まれるわけはない。それこそ、新しい価値観が生まれ、それが人々の中に浸透するには長い長い年月を要する。
その意味では、戦後は、日本でのかつてのものとは質の異なった乱世であったということが出来る。日本人が自分の手で招いた乱世ではなかったが、外から突然におそいかかった乱世であった。その点では猶始末がわるかった。自分達で招いたものでなかったから、その準備もないし、それをうけとめる能力もなかった。もっと悪いことには、人々は食うにこまって、今日が乱世であることを思い知る余裕もなかった。しかし、乱世は確実に始まり、二十六年たった現在もそれはつづいている。新しい価値観は生まれようとして、その実、今も生まれていないのが実状である。
このような乱世に近いものを、歴史上に求めるとすれば、人々は文句なしに、鎌倉時代を思いおこすであろう。此の時代は、これまでの古い価値観がゆきづまり、それにかわって新しい価値観が誕生した時代であった。その新しい価値観を生みだすために、非常に苦しんだのが、表題にかかげた人々である。彼等の苦しみは本当に酷いものであった。だが彼等は現在の人々より恵まれていた。彼等はその時代の人々と共に、古い時代を葬り、新しい時代を望んでいた。現在の人々のように、ある日、突然に、乱世の中に放りこまれたのではなかった。自ら求めた乱世。しかしそれでも乱世を生き抜き、新しい時代の新しい思想を生みだすために、大変苦労をしなくてはならなかった。現在の人々が、今日の乱世を生き抜いて、新しい価値観を生みだすためには当然彼等以上の苦しみをなめなければならない。
しかし、現在、仏教にかえれという言葉をきいても、今日がその時代よりも大変だという認識はない。そればかりか、今日、彼等をもう一度考えなおそうとする動きはあっても、本当にまだ彼等を正しく見なおそうとする動きはない。今日彼等についての研究はいよいよ盛んであるが、実際にはいよいよ彼等の真骨頂がかくれていく有様である。これほど、情ない姿はない。
何故に、私はそんなことをいうのか。
私が初めに彼等を見なおそうとしたのは、戦後直後であった。大学で、彼等にとりくみ、「親鸞、道元、日蓮を通してみた現代の課題とその解決」という卒業論文を書きあげた。といっても私には卒論をしあげるということより私の人生を支配できる価値観をつくることが先決であった。世界観、国家観、社会観、人生観といってもいいし、職業観、家庭観といってもいいものだった。私はそれらを私自身のために、私が人生を生き抜くための依り所として追求した。人のためでなく、また学問のためにでなく、私のために追求した。当時の私は、それらを明らかにすることなしには一歩も進めなかった。
当時の私が考えるということは、そのまま、親鸞が考え、道元が思うことであった。いつか、私の中に、親鸞が生き、道元、日蓮が生きているように考えるようになった。
あれから二十余年たつ。私の中では、彼等を再生させることを一刻も忘れたことはない。昨年、たまたま、私は脳血栓になり、九死に一生を得た。床についてから、一年有余になる。その開、私は可能の限り、彼等の人生と思想をくりかえし、考えた。考えれば考えるほど、今度、再び筆をとることがあったら、彼等の人生と思想について、思う存分、書いていきたいと考えるようになった。それが私の使命であると考えるようにもなった。
それこそ、彼等について、書いたものは多い。多い中で、書いていかなくてならないと考え、決心した。今私の中には、彼等について書きたいという欲念で一杯である。私はまず、私と私的な人々にむかって、唯書きたいのである。それこそ、彼等が書くいたように。
親鸞、道元、日蓮を思いかえすということはどういうことであろうか。
まず第一には、仏教者としての彼等を思いかえすということである。このことは自明のことのようである。今日、仏教にかえれと言っている者の殆どが、それを問題にしている。
しかし、その場合の仏教というとき、大抵の場合、今日考えられている宗教の中の一派としての仏教であって、決して、彼等の時代に通用していた仏教ではない。彼等の考えた仏教とは思想全体におよぶもので、人間、社会、自然を同時に統一的に把握しようとするものであった。いいかえれば、学問そのものを意味していたし、当時、あった所の全ての思想を、すべて包含するものであった。
例えば、今日マルキシズムというとき、そこには哲学、文学、歴史学、教育学、経済学、生物学などのいろいろの分野をふくむように、当時の仏教も綜合的・統一的な思想であった。そればかりか、仏教と併存していた他の思想に対しては、少なくとも仏教の思想が優越するか、仏教の思想がそれらを包含していた。その点では、仏教思想は当時を代表する思想であったといっていい。
仏教は少なくとも、当時は、他の思想を知ったうえで知り得る思想であった。今日のように、マルキシズム、実存主義、実用主義、更にはキリスト教、回教と併存する思想の中の一思想ではなかった。
だから、今日、彼等の思想を考えるということは、宗教としての仏教を考えることでなく、思想としての仏教、即ち人間、社会、自然をトータルなものとして追求する思想そのものであるということである。しかも、既に当時の時代において、多くの仏教者が宗教としての仏教を追求するのみで、思想としての仏教、統一、支配の思想としての仏教を追求する者は殆どいなかった。そこで、彼等は一様に釈迦にかえれと強調した。釈迦がその時代に生きた如くに、生き、考えなくてはならないと主張した。その結果、釈迦の思想を否定することもしかたないとした。
彼等に必要であり、重要であったのは、釈迦の思想ではなくて、釈迦の生き方であり、精神であった。彼等ほど、断乎として、釈迦の生き方、精神を踏襲したものはいない。
とくに、彼等が、それぞれの立宗宣言をしたと見做されるまでの、彼等の生き方、精神はとくにすぐれていた。
では、彼等は、釈迦をどのように見ていたか。
それはいうまでもなく、釈迦その人がその時代に生きて、すべての諸思想を吸収して、即ち、彼は、長く支配的であったが、既に形骸化していたバラモン教を中心に、当時流行していた哲学的潮流、その他一切の思想流派を丹念に学び、それを自分の中で長いこと温め、長い年月の後に、それらを仏教という思想の中に、統一して表現したことであった。釈迦はそれによって、混沌としていた当時の思想界に秩序をもたらしたのである。
彼等は十年から二十年近く、釈迦のように、その時代思想を呼吸して、生き、その結果、たまたま浄土真宗、禅宗、日蓮宗を創始したにすぎない。彼等には諸宗を創始するということより、釈迦のように生き、彼のように考えることだけが問題であった。
近代になって、釈迦に最も近い生き方をした人、それはカール・マルクスであった。カール・マルクスは一見釈迦に最も縁遠いようで、最も身近かな人である。
今日、親鸞、道元、日蓮を生きる。あるいは彼等を継承するということが非常にしばしば言われるが、それは、彼等の思想を生きることでなくて、彼等がその時代に生きた如くに現代に生き、彼等がその時代に対処した如くに現代に対処することである。今日は正に、釈迦、親鸞、道元、日蓮が生きていた時代以上に、乱世であり、混沌としている。今日、彼等を考えなおすということは、彼等の思想を考えなおすということでなしに、彼等の生き方を考えなおすことである。そういう人々が出現することによって始めて、今日という乱世に終止符をうつことも出来るし、今日の混乱に秩序をあたえることもできる。
今最も必要なのは、宗教としての仏教をおこすことでなく、思想としての仏教を再生させることである。そしてそれは、彼等の思想を生きるのでなく、彼等の生き方を生きる人々の出現によって始めて可能である。
まだ、その人々は出現していない。現代の悲劇はそこにある。しかし、その場合、彼等を正確に理解することは大切である。数多くある中で、その中の一つをとりあげると、彼等はどうして釈迦のようになれたかということである。その秘密はどこにあるかということである。それを一言でいうと、彼等は一様に、その時代の課題を自分自身の課題として生きたことである。自分が生きることが、そのまま、時代を生きるということであった。自分の問題を問題として、それに直面していきる以外なかったのである。
例えば、明治以後、日本の学者のように、客観的という言葉にしばられて、自分の中で、自分が二つに分裂することはなかった。彼等はつねに、自分の問題を中心にすえて生きるしかなかった。それしか生きる道がないというのが彼等の立場であった。そこから、彼等の独自な解釈が生まれた。彼等の場合には、ユニークな解釈をしたのではなく、それ以外に方法はなかったのである。そこに追いつめられて、そう考えるよりしかたなかったのだと考えるほかはない。
例えば、親鸞の悪人正機の思想にしても、普通のある漢学素養のある者では、大経に「たとひ、われ仏を得たらむには、十方の衆生、心を至し、信楽して、わが国に生れむと欲ふて乃至十念せむ。もし生まれざれば正覚を取らじと。ただ五逆と誹謗正法を除く」
というのを、ごく普通に解釈して、唯五逆の者と正法をそしった者とは除外すると解釈するのだが、親鸞は全く違っていた。
彼はこれを解釈して、五逆の者と正法をそしる者は特に罪の重いものとして、特別にそのことを知らせようとしたもので、むしろ、五逆の者と正法をそしる者こそ、救わねばならないとしたのである。普通なら罪の塞い者として駄目だとなるのに、彼は、その人達こそ救わねばならないとしたのである。全く彼の独自の解釈である。
しかし、その独自の解釈から、彼の中心思想ともいうべき悪人正機の思想が誕生したのである。
この他、彼の思想と思われるものの多くは、彼のこのような独自の解釈から生まれたのである。
道元、日蓮も親鸞と同じである。彼等は一様に、教典を彼等一流の読み方をし、解釈を下している。あたかも一見、彼等が無学者のように。しかし、彼等は無学者として、そのように読み、そのように解釈したのではない。彼等には、そのように読み、そのように解釈するしかなかったのである。彼等は他人のために読んだのでなく、唯自分のために読んだのである。そのように読むしか、ほかになかったし、そう読むのでなくては、自分自身が救われようがなかったのである。それこそ、自分自身が救われるためには、それしかなかったのである。
彼等はこのように、すべて、自分自身が大事であり、自分の魂こそ問題であったのである。だからこそ、どんな迫害にも堪えぬいたし、非常に個性的な人生をも辿ることになったのである。今日のように、自分自身の問題は、そっちのけにして、常に得体の知れない人々のために、その思想を説くのと違っているし、また、それ故に、ユニークな思想が生まれないのとも異なっている。
彼等は、その時代に直面して生きる自分自身を終世問題にしたにすぎない。その結果、たまたま、彼的な人々にむかって、其の思想を語ったにすぎない。どこまでも、中心は自分自身であった。たとえ、その著書が人々にむかって説いているようであっても、必ずそこには、自己を含んだ人々があったということである。その故に、確信をもって語ることもできたし、嘘もなかったのである。自分自身に向かって語る言葉ほど、力強いものはないし、また説得力のあるものはない。
今日、思想界、言論界で、この態度ほど欠けているものはない。たとえ、親鸞、道元、日蓮といっても、彼等のこの態度を言う人はいない。これでは、彼等の生き方が死んだままなのも無理はない。彼等がどうして、釈迦になったかの秘密を明らかにしたが、これによって、彼等は偉大となったし、今日もなお生命をたもちつづけている。その他のことは、如何に重要に見えても、派生的なことにすぎない。今必要なのは、彼等のように、現代の問題を自分自身の問題の中心にすえることである。第三者が何と言おうと、それと取組むことである。その時、その人は、彼等に最も遠いようで、近い人となる。
* * *
以上、私は、親鸞、道元、日蓮を今日思いなおすということは、仏教者としての彼等を思いなおすことであり、その時の仏教とは一宗教としての仏教でなく、その時代の支配思想、統一思想としての仏教であること、そして、今日、そのような仏教を創造することであると述べてきた。更に、また、仏教者としての彼等を思いなおすということは、彼等の思想の跡を追うことでなく、彼等のように、釈迦がその時代に生きた如くに、現代に生きることであり、その上に、彼等のように、自分自身の課題とその時代の課題を重ねあわせて、それを執拗に追求することでもあると述べてきた。このことを達成することは非常にむつかしい。特に、現代のような時代では、一層至難のことである。
しかし、それをやることなしには、今日という乱世を克服することはできない。だから、ぜひとも、なしとげねばならない。だが、今日、仏教にかえれと強調する者はいても、このことをいうものはいない。それが、今日、思想が混沌としている理由でもある。
それを証明するかのように、先年、自民党のある要員が、
「七〇年代は自民党と共産党の対決の時代である」
と言ったとき、
自民党は勿論共産党員の中にも、この言葉に同調するものが多かった。勿論、その他の国民の中にも多かった。
たしかに、ヨーロッパの思想の流れからみると、こういうのもいいかもしれない。しかし、アジアの思想の流れからみると、それはあたっていない。
誤解されることを恐れずいえば、「七〇年代は共産党と仏教党としての公明党の対決の時代となろう」ということである。しかし、残念ながら、公明党にぞくする人々の中にも、私のいうことを知る者は少ない。
まして、その他の人々の中で、このことを知る者は少ない。
せいぜい、仏教といえば、形骸化した仏教のことしか知らない。そればかりか、カール・マルクスが、最も釈迦に近い人といえば、奇異に思うだけである。このような認識ではどうにもならない。
それこそ、速やかに、公明党にぞくする人々の中に、このことに気づいて、それにとりくむ必要がある。「公明党と共産党の対決の時代である」と真に言いうる人々が出てくることを望む。今のように、過去の仏教思想にひきずられている限りは、残念ながら、公明党と共産党の対決の時代はこない。そうなれば、いつまでも、自民党に漁夫の利をあたえることになる。
話はそれるが、ソビエト共産主義は、キリスト教を止揚するのに、一生懸命である。しかし、どこまで止揚したか疑問である。むしろ、その課題は今後にのこっている。これに対して、中国共産主義は、今仏教を止揚しようとして一生懸命である。もしかすると、逆に中国仏教が中国共産主義をのみこむかもしれない。今日、中国共産主義が真に存在するときは、中国仏教を止揚したときである。その点では、今、中国は、面白い課題の前にたたされているということになる。
仏教が勝つか、共産主義が勝つか、少なくともアジアにおいては、その戦いが始まったばかりである。少なくとも仏教が勝つかどうかは、アジアに、釈迦、親鸞、道元、日蓮を再生させるかいなかにかかっている。
勿論、それは、彼等のように、生きる者が出現することである。カール・マルクスのように生きる者と言ってもいい。そういう者が、共産主義陣営に生まれるか、それとも仏教陣営に生まれるかで、この勝負はつく。
今日、親鸞、道元、日蓮を思いなおすということには、これだけの意味があるのである。偉大なるかな親鸞、道元、日蓮。
私は、一年間の闘病生活の後、第一声として、このことを、心から喜んで書く。なんとしても、彼等を再生させなくてならない。歴史学というものがある限り、これを実現させなくてはと思う。そのためにこそ、歴史学はあるのだから。
二十数年前の敗戦時は、それまで日本人を支配し、日本人の間にも流通していた価値観をはじめ、物の考え方が大きく転倒した時代でした。しかし、日本人の多くは、学者といわす、思想家といわれる人達の間でも、単に、それまで通用していた天皇の信仰にかわって、民主主義の神話が通用したにすぎなかったのです。
誰も、その時代が日本人の世界に起きた一大変革時だとは受けとめようとしなかったのです。そのために、日本人の殆どは、その時、あらためて、人間の条件とは何かと原理的に問い直さなくてならない時にもかかわらず、それをすることもなく、いとも簡単に、天皇信仰にかわって、民主主義信仰という、形式的変革をやってのけて、日本人の物の考え方の本質に迫ろうとする、根本的変革をしないままに、今日にきてしまいました。
そのために、今日、あらためて、民主主義などが問い直され、異常なほどの混乱を迎えることになりました。当然といえば、全く当然のことで、今日本人は、二十数年前の怠慢に対して、その反逆をうけてるといっても過言ではありません。たとえ、おくればせながらも、この問題を問い直して、そこから出発しなくてはなりません。そうでないかぎり、一切の建設が砂上の楼閣となってしまうでしょう。厳密にいえば、この戦争が始まった時点こそ、来たる時代の人間の在り方について、人間の条件とは何かと、根本的に問い直すべきことであったのです。それを明らかにした上で、すべての学問も文化も教育もはじめて、本当に成立するのです。今こそ、その時に、来ているといっても、言いすぎではありません。
私は、敗戦の年に、私なりに、「天皇の歴史的使命」という小論をかきあげて、天皇制に訣別してから、あらためて、親鸞、道元、日蓮の生にむかい会いました。彼等がどのようにして、彼等の生きてきた時代に訣別して、新しい時代の価値観を創造したかを探求しました。とくに、そのために、彼等がどんなに長い時間を費し、どのように追究していったか、彼等が今日生きていれば、何をしたかを親しく追求しました。私はそのために三年間を費しました。そして、その後は、一貫して、人間の条件を追究してきました。今猶、私には、その問題は明らかでない。私は、その結論を求めて、これからも、生命のあるかぎり、追い求めていくに違いない。
今、沖縄の人々は、その帰属をめぐって争っている。この雑誌の出る頃には、その結論も出ていよう。しかし、この問題を沖縄の人々の原点にたちかえって、考えている人々が何人いよう。すなわち、沖縄の人々の存立の条件とは何かと問い直し、そこから出発している人々は何人いよう。沖縄の人々こそ、自分自身にむかって、人間の条件とは何かという問題をつきつける時である。沖縄の人々こそ、この問題を解決して進む時である。その時、はじめて、沖縄の人々の在り方が決定されるし、沖縄の人々の真に豊かな生命が生まれよう。人間の条件を問うことは、永遠の課題であるが、その時その時の結論もあるのです。大切なことは現時点にたって、それを問うということです。
宗教は本来人間としてどう生きればよいか、どう生きるのが幸いかということについて、根本的本質的なことを教えるものである。今日のように、所謂宗教として、つまり、政治、経済、教育、文学などと併存するものとして、その位置を与えられているのとちがい、政治、経済、教育、文学などの基礎となって、そのどれにも共通する考え方を教えるものである。だから、今考えられているように、ある特定の人間だけが関心をもち、その他の者は無関心のままに生きられるようなものではない。
それこそ、人間として、人間らしく生きようとする者には、全て関心をもたなくてはならないものである。
だが、宗教を所謂宗教の位置におしやって、宗教を省みない人々が多くなったから、また宗教を考える者がいても、所謂宗教の位置におしやることから、人間としてどう生きるのが正しいかも考えないままに、単に、財産や地位、あるいは、人間の生のままの血を追うことによって、人間の生のままの生活を追求し、この世を修羅場にしているのである。
人間の生活を聖なるものにしようと考える者はいないし、此の世の中を美しくしようと考える者は少ない。今日、公害で人々が苦しんでいるのも、すベて宗教を忘れた人々が作りだしたのである。
財産や地位にしても、それは聖なる生活をするために必要なもの、美しい生活のために不可決のもの、言ってみれば手段でしかない。それがいつのまにか、目的の位置を与えられて、人々はそれを求めて血眼になっている。
生まれたままの人間は、全く動物と異ならない。動物から人間にならなくてはならないのに、逆に、人間は長ずることによって、退歩し、邪悪になり、より動物的になっている。人間が人間になるために必要なのが宗教である。宗教は地位や財産の無常を教え、人間の生のままの感情は人間愛、人類愛の敵であることを教えてくれる。
それに、人間がその時代に生きるということは、前時代、前世代をのりこえて生きるところに充実があるし、進歩がある。前時代の思想、前世代の思想をそのままうけいれて流されて生きるところには発展がない。とすれば、人が生きるということは反逆者となり、求道者になって、初めて生きたといえる。しかし、反逆者とか、求道者とかの名前はこれまで特別のものだと思われていた。例外のものと考えられてきた。
だが、親鸞、道元、日蓮のように、これまで日本史上、最高の宗教家といわれる人々は、実は最もすぐれた生き方をしめした反逆者、求道者であった。彼らがどのように、反逆者であり、求道者であったかということについては、拙著にゆずる。いずれにしても、彼等は反逆者、求道者であった。
最近、彼等の復権を叫ぷ人々が多い。その場合、復権させようとするのは、彼等の思想である場合が多い。思想を復活させることもいい。しかし、それ以上に必要なことは、その思想を生みだした生そのものを復活させることである。思想を継承せんとする者は、その思想を絶対化し、固定化することによって、ともすれば矮小化しがちであるが、思想を生みだした生そのものを生きようとする者は、往々思想を発展させて、その時代にふさわしい思想を生むものである。
親鸞、道元、日蓮も釈迦の思想でなく、釈迦の生を生きようとしたことによって、その時代の思想としては、釈迦の思想そのままでは不十分になってきたのに対して彼等の思想を生みだし、仏法を再生することができたのである。思想を復活させるより、生を復活させることである。その時、思想は無限に発最していく。その思想を継承せんとすれば、往々、枯渇する。仏教が発展しなかったのもそのためである。
自分と他人の関係
宗教心といえば、普通人々は誠心誠意をもって、他人のためにつくすことだと思っている。たしかに、そういうこともいえよう。だが、もっと本質的なことは、人間として存在する自分がまず人間として救われることであり、自分の救いには、共に人間として生きている他者の救済なしには、自分自身の救済も大変不安定でもり、絶対なものとなりえないということである。
だから、自分が救われるためには、他者を救う以外にないのである。それでなくては、自分が救われていると思っているものも他者にいつこわされるかもわからないし、人間として生きている眼を故意にとざして、他人の不幸を見まいとしているだけである。
大事なのは、自分自身であり、その自分が大事であるから、他人も大切なのである。自分の救いは他人の救いなしにないということを知るぺきである。
これが本当の宗教心であり、それ以外のものはまだ本当の宗教心の過程にあるものである。人々はこのことを思いつかないで、他人のために、他人の救済のためにつくすことを知って、大事である自分のことを忘れている。
自分自身のことと向きあおうともせず、往々自分は救われているように錯覚し、自分自身の生は社会的、政治的、歴史的存在として、十二分に生きているように思いこんでいる。慈善鍋の欺瞞はここからきている。勿論欺瞞でない慈善鍋もあるが、その多くが欺瞞に陥っているのも、まず自分が救われねばならないという意識がなさすぎる所からきている。
宗教心というとき、まずこのことを知り、自分自身が必死に生きることから始めなくてならない。親鸞、道元、日蓮の自利利他を説いたものは、これ以外にない。自分とともに、自分的な人々がともに救われようとつとめたのが彼等である。
この頃は救済を説く人々が、自分のことをそっちのけにして、他人の救済を説いている。たとえ、その説く所が精緻であっても、自分を放置した言葉は真実味もないし、人の心をうたない。またそれによって確実に救われるという保証はどこにもない。
自分の問題になれば、誰人も必死だし、真剣にならざるを得ない。今日程、宗教的知識が盛んに云々されて、その実宗教心のうすい時代はない。宗教心をふるいおこすために、今こそ第二の宗教改革をやるときである。今のように、政治、経済、教育などと並列されている宗教から、人間の原点であり終点である所の宗教そのものにかえす時であり、また今のように宗教なしで多くの人々が生きていられるような狭義の宗教をなくするときである。人間が人間として生きるということは宗教によって生きるということである。その宗教を見失ったから、エコノミック・アニマルになるしかなかったのである。この宗教心こそ福祉活動そのものの原動力である。
恍惚の人
このような宗教心がないために、形骸化した福祉活動がおきるのである。気の毒な人達に救いの手をさしのぺるという同情行為がおこるのである。
たしかに、同情はないよりましといえるが、同情によって、その心が殺されている場合も多いのである。同情では、人の心、とくに、欠陥のある人々の心を満たし、生かすことはできないのである。
有吉佐和子の「恍惚の人」はよくよまれたし、老人問題の決定版のように思われている。それが決定版となったのは、読んだ人全部に自分自身いずれは近い将来恍惚の人になる可能性があると感じさせ、老人問題は他人事でなく、自分自身の問題であると感じさせたことによる。「恍惚の人」はこれまで他人事であった老人問題を自分自身の問題としてつきつけたことである。このようにみるときこの本はもっとも宗教性のある本ということになろう。この本をきっかけとして、今迄の老人問題が単なる社会問題、政治問題でなく、自分自身の問題になったのである。
自分の老後の問題を真剣に考え、真剣に解決しようと試みる態度がおこり、その関連の中で、今日の老人問題にとりくむ。それが宗教心のある福祉活動ということである。宗教心のない福祉活動なんて、本来福祉活動ではない。単に形式と行動があるだけのものにすぎない。
あるいは、人々は宗教心というとき、キリスト教的信仰をもつ人、仏教的信仰をもつ人のことを思いだすかもしれないが、偶々その人がキリスト的信仰、仏教的信仰をもっていたということで、そのような信仰をもっていない人は福祉活動ができないというものではない。人間の生命を尊び、自分を本当に大事にしようとする者はすべて宗教心のある者で、福祉活動できるものである。とくに、福祉活動といわなくても、その人の行動そのものが福祉的なのである。
人間は皆でよりそい、助けあって生きているし、人間生来皆あわれみの心をもっているのである。唯多くの人はその心を閉して、故意に生きているにすぎない。このような人は人間として、全的に生きているということはできない。
この頃では、福祉活動とことさらにいっているが、人間らしい行動は本来福祉的なものであるべきだということも今一度初めにかえって考えなおすときである。
そして、人間のこのような心というか、宗教心というものは誰にもあるもので、その心を自覚するのは、大病をし、大けがをし、生まれながら疾病をもち、一度は絶望して、それから立ち直った人、あるいは事業に失敗して、世の中から全て放り出されて、深淵をみた者である。このような人間はもう無条件に地位や名誉や健康におんぷしていることはできない。たとえ、そのような経験がなくとも、世の中を知り考えることによって、その事は知り得る。だから道元も此の世の地位や富にひかれているものは、真の求道者、僧侶になることはできないといったのである。キリスト教的信仰をもつか、仏教的信仰をもつかということでなく、人間誰しもある此の心をめざめさせて、絶対的なもの、永遠的なものを求めて生きることである。とくに、福祉活動といわなくてならないところに、今日の宗教心の荒廃があり、人間の退廃があるのである。今迄、福祉活動に怠慢であったのも、人々を全的に生きさせようとする教育、指導が全くなかったためである。
私の体験
私はたまたま三年前脳血栓で仆れ、死にかける程であったが、幸いに生命をとりとめ、今なおその時の後遺症のため歩くこともできず、しゃぺることもできないが、此の不幸は突然に私をおそったものである。
もともと、私はあまり酒も好きでないし、煙草もふかす程度であり、日頃から血圧に注意し、食事にも非常に注意していた。それなのに、此の大病にあい、殆ど死にかけたのである。退院の時医者から右手で筆をとることは殆んど不可能であろうといわれた。
しかし、一種の執念で筆がとれるようになった。だが、それ以上に、此の病気をしたことで、いよいよ世の中のことが見えるようになったし、これまで以上に、地位や富や健康に何の不安もなく、自分の全存存をゆだねて生きていることに不安をいだいた。人間が人間として生きるということはどういうことであり、今の人生の目的を達成するための手段をあたかも目的であるかのように、多くの人々が生きていることに、今の世は狂っていると思うしかなかった。
また、此の病気の中で、世の中には如何に沢山の人々が此のような病人に冷淡であるのみか、冷酷であるかも知った。彼等の中の何人かは、わざわざ足をとめて、必死に歩いている私を珍しい物でもみやるようにみるのである。
だが、反対に、車をとめて連れていってやろうとか、私をおぷってやろうという人も中にはいる。私は訓練だからといって、丁寧にことわることにしているが、全く頭がさがる。このような人こそ宗教心のある人であり、勇気のある人ということができる。
こんな人は少く、人々の行動は非福祉的である。私の体験をふまえて言えることは、誰でも私のように、予期しない大病におそわれる可能性をもっているということである。
大病でなく、災害、失敗である時もある。要するに、万物は流転するということであり、人々はいつ思いもしない事件にまきこまれるかわからないということであり、人々は補いあい、助けあって生きなければならないということである。
それなのに、私の体験したように、人々の多くはそのような人々に如何に冷淡であるかということである。私自身も、此の病気をきっかけにして、身障者の心理を身近かく感ずるようになった。大事なのは、彼等が身障者であるという事実よりも、彼等の中の屈折した心理である。その心理を理解し、力になれるのは、単なる同情心でなく、私もまたいつ彼等のようになるかもしれないという危機意識をもって、私達と彼等は別々でないという気持である。この心が彼等の心にくいこみ、彼等と一つになれるのである。彼等の心にくいこみ、彼等の心をともに支える心が必要であり、それが宗教心であり、宗教活動であり、福祉活動とはかくあらねばならないものである。
福祉の現状
現在、あまりにも人々はその福祉対策を政府に要求して、それで全ては終わりだという感じが強い。たしかに、政府に要求することはどんなにきぴしくてもきぴしすぎることはない。これまで日本政府はあまりにも福祉政策を軽視してきたし、老人問題をふくめて、身障者の生きることを軽んじてきた。しかし、政治的に経済的に思いきった対策をとったからとて、それらの問題が解決するものではない。
お役人の仕事が設備ができても、魂のない形式的なものに終わっていることも事実である。設備の充実は必要だけれども、それを作り、金を出したからとて解決するものではない。人々の心、とくに欠陥のある人々の心がそれでみたされるということはない。要は、人々の心を満たすのは人々の生き方である。
それなのに、あまりにも今日、政府にやってもらうことのみを考えて、人々を生かそうとする心をもっていない。この状態は決して人々が政治的に宗教的にめざめた姿とはいえない。既に老人病院をつくり、障害者病院をつくって、医師も看護婦も足らず、世話する人も足らないという状態がおこっている。これは単に政治的経済的に解決できる問題ではない。
それに、多くの身障者の設備があっても、単に収容しているだけで、その人達が社会人として行動できるように、日々少しずつでも前進するように治療もせず、単に彼等を収容し、その死ぬのを待っているという有様である。彼等に日々前進しているということがあって、始めて人間として生きているという実感もあるのである。
今のままでは、色々の設備はできても、その設備は生きて活用されることにはならない。今最も必要なことは、どの宗教を信仰するかということではなく、人々の中に本来ある所の生命を尊ぶ心、自分を大事にする心、自分を大事にするために他人をも大事にしようという心をふるいおこすことである。宗教心をふるいおこすことである。それによって始めて、福祉活動もその魂をもつことになる。
求められる宗教書
いま、宗教書ブームといわれている。本誌の編集者が意識的にか、無意識的にか、宗教書ブームといったが、たしかに宗教ブームでなく宗教書ブームなのが、今の時代である。人は何故にかくも真剣に宗教書を求めるのであろうか。一口にいって、今日は政治、経済、社会あらゆる方面に行詰りを感じさせ、どういう生き方に希望をもち、自信をもってよいのかわからない時代であるからである。言いかえれば、古き価値観が崩れ、それに代わる新しい価値観が低迷していて、まだ確立していないからである。それに追いうちをかけるように、地球上は公害で汚染され、物質の生産で豊かになると思っていた人間の幸福は幻想でなかったのではないか、という思いにひたっているからである。
そればかりでなく、立正佼正会や創価学会などの異常の進出、それに似た団体の活躍によって、人はいやおうなく、宗教とは何か、とくに真の宗教とは何かという問いの前にたたされている。それというのも、一部であるにしても、それらの活躍が人々に重苦しい空気を与えて、宗教そのものを問うてみる気をおこさせているのである。
これらが、宗教ブームでなくて、宗教書ブームを興させている理由であろう。宗教ブームでないことは悲しいことではあるが、その前哨戦となる宗教書ブームは必ずしも悪いことでない。なぜ私が宗教ブームよおこれといって、宗教ブームを歓迎するかといえば、それは普通にいわれている政治、経済、教育、文学などに併存しているように言われている狭い意味の宗教、特定の信仰をさしている宗教でなく、私のいうのは広い意味の宗教、人間が生きていくための最後の依り所となる世界観、人生観としての宗教、政治、経済、文学、教育を総合したものとしての宗教を考えるからである。いいかえれば、人間の起点となり、終点になるところのものである。それがなくては、人間すべて、一日も生き、存在する所のできないものである。
それなのに、人はともすれば宗教をもたないことを誇りにし、宗教なしで生きうると思っている。たしかに特定の宗教についてはそういうことも言えるかもしれないが、真の宗教なしには、誰一人として一日も生きてゆけないのである。このことをよくよく知るべきである。このことを知らないために、今は人々はまちがっているし、更に地震書ブームなどというのである。すべての書のブームは最後には宗教書ブームの中に収録されるものであり、宗教書ブームはいつの時代においてもあるべきであり、人間が人間になるためにはどうしても通過しなくてならないものである。宗教書ブームとあきれているより、真の宗教ブームになるための宗教書ブームになるように、一人も残さずその渦の中にまきこむように、人々は力をつくさなくてはならない。まだまだ宗教書ブームといわれるのにはほど遠いし、まして、宗教ブームといわれるものからはほど遠いブームといわれなくて、ブームとなるような世の中にしなくてはならない。それが人間が人間らしく生きるということである。今あまりにも、人間が人間らしく生きていない時代である。
価値が崩れ、宗教そのものを問う人達がふえたということは、それだけ人間らしく生きようとする人がふえてきたことを意味する。その点喜ばしい。
上人の生まれた時代
普通、日本の過去にも、宗教の盛んな時代があった。それは一応宗教改革の時代といわれるもので、親鸞、道元、日蓮が古くなった宗教をその時代に生きる人間のものとして、その全存在を賭して、新しく作り直し、創造したのである。仏法そのものを時代に即応するように作り直し、生々発展させたといってもよい。
親鸞、道元が等しく言っているように、彼らには宗派宗教としての浄土真宗もなく、禅宗もなかった。あるとすれば、釈迦の教えである仏法があるだけであった。
しかも彼らの仏法とは、人間が人間として人間らしく生きるとはどういうことであるかという問いしかなかった。だからその問いの前に彼らは精一杯人間らしく生きることしかなかった。生きてみせることしかなかった。今日のように、宗教とはともすれば、人のためにあり、人を救うためのものと思いがちであるのに対して、彼らには宗教とは己れのためのものであり、自分が人間として人間らしく、生きるすべであった。彼らには他人のことより、自分のことが大切であり、まず人間として自分がいかにあるかということが大切であった。
ご承知のように、親鸞は他力を説き、道元は自力を説き、日蓮は他力と自力の弁証法的発展を説いたが、彼らに共通していたものは知恵ということであった。人間は知恵をもつことによって人間らしくなり、人間らしく生きられるといったのである。
無知ほど人間を愚かにし、だめにすることはない。不幸にし、悲惨にすることはない。妄執のために悩ませることはない、人々はともすれば、宗教とは信仰であり、知恵、総合智ではないと思っている。だから、いわしの頭も信心からということがいわれるのである。知恵を基礎にした信仰が始めて信仰の名に価するし、知恵の極致は信仰に連なるのである。信仰にいかない知恵というものは、まだ知恵の実にはほど遠い。
親鸞、道元、日蓮がそれ故に知恵を基礎にした信仰を強調し、極力妄信、邪信を排斥したのである。しかも彼らが強調したものは生き方そのものであり、生き方を指導する知恵であった。生き方に反映しない知識は空論として排斥したし、いわゆる学者を嫌悪し、大知識人を求めたのである。
今日、宗教学者といわれるほどの者は、とかく、親鸞、道元、日蓮の生き方そのものより、彼らが何を言い、何を説いたかを明らかにすることに急なあまり、学問すればするほど、いよいよ彼らの真姿より遠ざかり、彼らの生き方そのものまで、単なる知識におわらせているのである。宗教を殺し、宗教を政治、経済などと併列させたのも彼らである。
親鸞、道元、日蓮は心の底より、宗教の衰えている現代をなげいているに違いない。彼らは平安時代より鎌倉時代に至る過程の中で、古き価値観が亡び、新しき価値観が待望されるとき、それを全身で求めたのである。
宗教が時代を超越すると考えるのは誤りで、宗教とはあくまで時代の所産であり、時代の軌定をまぬがれないのである。しかも新しい宗教はそれまでのあらゆる知識を取捨選択しながら、総合して作りあげた、その時代の最高智である。最高智といえないものは、過去の宗教であり、死んだ宗教である。宗教とは時々刻々発展せねばならないものである。
宗教は最高の知恵
昔から、宗教の盛んであった時代は、宗派宗教の信者が多かった時代でなく、親鸞、道元、日蓮のように、その時代の最高智を全存在をあげて追求した時代であり、また蓮如、一休、日親のようにその最高智の命ずるままに全身で生きた時代である。
宗教がその時代の人間の最高の知恵であるということは、同時に一切の人、いっさいの動植物を最高に生かすことのできる知恵であり、総合智だということである。だから、古来から、人間の精神を最大限に生かす思想と人間の肉体を最高に生かす医学というものが一つになって宗教というものが成立していた。しかし、それだけでなく、人間の精神と肉体が存在した環境そのものを最大限に好ましいものとするために、いわゆる政治的知識も経済的知識も法律的知識も更には自然科学的知識も当然宗教の重要なる部分的知識であった。しかもそれらは単なる知識でなく、人間の行動を導くにたる知恵であったのである。いわゆる最高智、一切智が本来の宗教そのものであったし、僧侶は本来医学的知識をもつものとされてきた。
しかし、学問の発達というか、学問の分化というか、宗教そのものが深化する過程で、しだいに宗教の一分野である医学が独立し、政治、教育、社会などの分野が独立し、いつか独立しない部分を対象とするのが宗教であるかのように考えられてきた。そのために信仰というか、盲信、邪信の部分をあたかも宗教であるかのように考え、宗教は政治、経済、法律、教育などと併存するようになり、人間は宗教なしにも生きられるというのが、社会の常識となってしまったのである。
世界観、人生観としての宗教、哲学、政治、経済、法律、教育などの総合智としての宗教は人間が人間として生き、行動するためになくてならないものであり必要不可決のものである。
人々はともすると、政治だけで、経済だけで、教育だけで、自然科学だけで生きれると思いがちであるが、その結果は悪しき政治の中に、豊富な物量の中に、公害の中に呻吟する以外になくなったのである。すべて、政治、経済、自然科学が独走し、人間のための学問、宗教として、真に総合し、発展しなかったためである。宗教がばらばらに分解し、宗教そのものがなくなったためである。
人間の生を充実し、幸福をかちとるためには、本来の宗教をとりかえさなければならない。宗教の下に、人文科学、社会科学、自然科学を総合し、人文科学、社会科学、自然科学をそれぞれにいかす時である。そうでない限りは、政治、経済、公害のために人間はおしつぶされよう。
今日、宗教書ブームがおこったことはよい。できれば、それを宗教ブームにし、人間いかにあり、生くべきかを人にすべて本格的に問うときである。
それがなければ、人類そのものが滅びるだろう。よくよく政治、経済、自然科学は宗教の一部分であることを知るべきである。
宗教書から宗教へ移行を
宗教が本来の最高智、一切智、総合智としての機能をとりもどし、信仰というものは最高智、一切智の結論として当然付随するものであることを知るなら、今日のように、宗教を信ずる者、宗教をもつ者が人々に恐怖を与えたり、重苦しさ、息苦しさを与え、特別の人間であるというイメージはなくなろう。
宗教を求め、宗教に生きる者こそ、人間の中の普通の者であり、むしろ宗教を求めない人こそ、人間の顔をした動物的存在であることを知ろう。
この意味で、今日こそ宗教書ブームから宗教ブームに進み、それをきっかけとして、第一の宗教改革に対し、仏法思想を深めた蓮如、一休、日親の時代を第二の宗教改革とするならば、今こそ第三の宗教改革を達成する時である。
いかなる意味で、第三の宗教改革の時かと言えば、第一に、宗教とは何かと今一度根本的に問いなおし、人間の宗教、人間のための宗教を確立する時である。今日では、皆のための宗教が一部の者の宗教となり、その他の者には入りにくくなっている。なぜそうなのか、人間のあるがままの姿に即して、今一度考えなおしてみる時にきている。そして、人間みんなの宗教として、人間すべて幸いにするようなものにしなくてならない。
第二は、政治、経済、教育、社会などと併列する宗教そのものから、宗教本来の政治、経済、教育、社会などの出発点であり、終点となるような、真に諸学を総合した人間の最高智にしなくてはならない。
本来、政治学、経済学、教育学、社会学などは宗教そのものを真に発展させるために、一時的に、特殊科学として、部門科学として分化したものである。最後には宗教の中に再びかえっていかなくてはならないもの、それらが個々に独立して存在していると考えるから、人間を真に幸福にする学問とならないし、宗教はいびつなものとして作用するに終るしかない。
諸学が真に生きてくるためには、宗教の中に本来の位置をしめたときである。たまたま今日は宗教書ブームとなり、宗教ブームとなる機縁をもったということは非常に好機会である。
この好機を生かして、真の宗教をおこす時である。
古来、宗教の盛んな時代は思想としての宗教が盛んな時であり、決して宗派宗教のさかんな時ではなかった。時代とともに、宗教の真理がしだいに有効性を失うといわれてきたのも、後の人が宗教を時代とともに発展させてこなかったからである。
宗教はもともと最高智として、その時代には絶対であるが、時代をこえて永遠に絶対なものではない。
宗教を殺すも生かすも、その時代に生きる人々の覚悟である。人間を十分に生かすためには宗教そのものを生かすしかない。
日頃から、いろいろの文章にふれ、書くことについて深く考え、非常にしばしば筆をとることが誰にでも共通した心構えであり、大事なことは誰でも、その訓練次第で、一定の文章を書けるようになるものであるということを知ることである。
文章は練習である。私に即していうなら、小学校から中学校まで、筆をとることが嫌いであったし、作文というものは嫌いであったが、その後ある事をきっかけとして大いに文章を書くようになり、文をつくることがいやでなくなり、現在は著述業者となり、文を作る人間として生きている。それこそ、私の若き日を知っているものは、たいてい、疑問に思うほどである。勿論私は今も名文家ではないが、文を作ることでこまらないし、日々、文を書いて生きている。
唯、著述業者として、文を書くとき、心がけていることはある。それは、文を書く以上、私自身に、書くことがあり、どうしても発表しなくてはならないことがあるということである。言わないと狂いそうになる程のことが、自分自身にたまっていることである。だから、私が文章を書くときには、そのような状態になるまで、決して筆をとらないようにしている。
今も二十冊日の本として、宗教そのものを考え直してみるものにとりくもうとしており、五月頃から筆をとることにしているが、一昨年死ぬほどの病気をし、今猶、病状にあるが、その間、ずっと、考え、思いがかたまったところで、筆をとることにしている。しかも、その場合、私は私自身と読者になると思われる人達の資質、能力、問題点を見極めて、その人達を必ず変えないではおかないという意気込みで筆をとる。
例えば、己を知り、敵を正確に判断した後に、初めて、兵をおこす兵学家のように、筆をとれば、必ず相手を変えるという自信がおきなければ書かない。そのような心づもりだけはもっている。だからとて、必ずしも、うまくいくとはかぎらない。しかし、文章はあくまで私自身のためにかくものと思っている。
今一つ、私自身注意していることといえば、吉田松陰の言った「勇気のない者は自分の筆をまげる。そういうことがあってはならない」という言葉をいましめとしていることである。今日のような時代には、心にもないことを言って平然としていたり、権力者の圧力であまりにも意見を変える者が多い。それが恐ろしい。
だから、筆を信用する者も少ないし、筆は剣よりも弱くなったのである。私の願いは筆を剣よりも強くすることである。私は勇者ではないが、松陰の言葉にしたがって、できるだけ、胆力を養いたいと思うし、自分の文章をまげたくないと思う。読者をつき動かすような文章が書けたら、本望である。
靖国神社というもの
戦後というか、第二次大戦後、靖国神社は国家護持にすぺきかどうかという問題をめぐって論争されている。たしかに論争に価する重要な問題である。ことに、明治以後一貫して国のために、唯一度の人生を、それも将来ある貴重な人生を犠牲にしたし、父母、妻子の悲しみをふりすてて、その身を捧げてきたのである。その魂をまつる靖国神社とすれば、どんなに広範囲に祭ったとしても不思議ではない。国をあげて、祭祀料を十分に奉って、国そのものがというよりも、国民をあげて、祭っても不思議ではない。国民そのものの総力をあげて祭るぺきものである。国民全部が敬虔にぬかづくぺきものである。
その時必要なのは、あくまで、尊い祖国をまもるために戦死したということであって、単に祖国を同胞をまもって戦死したということではない。動物が己の身をまもるために死力をつくしたということとは、はっきり違う。人間は動物とは異なるのである。まもるに価する国家目的があり、その国家目的をはばむ国の人に対して、断固戦って戦死した人々を祭ったのが靖国神社である。その意味で、靖国神社は最高に尊いのである。国民すべてが祭るぺきものなのである。靖国神社は国をあげて祭るのが当然である。
しかし、今靖国神社を国で祭ろうというのは、名目だけで、一部の自民党政府に代表される国家が祭ろうとしているのである。彼らが国家を代表するかの如き形をとり、自民党だけで祭り、それを利用しようとしているのである。反対している人達も靖国神社が自民党に独占され、自民党政府が祭ろうというのでなければ反対しない筈である。靖国神社とは本来尊い祖国のもつ国家目的の遂行のために死んだ人々を祭った神社だからである。
では何故に尊い祖国といい、その国家目的のために死んだというのであろうか。第二次大戦後一般化した戦争否定の声は別として、それまでは戦争否定をする者は限られた人達であり、戦争を罪悪視する者はかぎられていた。戦争によって、国家目的は遂行できるのだという幻想を殆んどの者がいだいていた。むしろ、戦争によるのでなければ、その目的は遂行できないという観念にひたり、その観念を毫も疑ってみようとしなかった人達でみたされていた。
勿論、日清・日露の戦争の時から、今度の第二次大戦にかけて、その戦争に反対した者もあるし、軍隊逃亡という形で消極的に戦争を否定した者もある。しかし、残念なことには、戦争が罪悪であり、戦争によって尊い国家目的を遂行することはできないという考えは、国民の中にははいらなかった。そのような考えはあくまで一握の識者のものでしかなかった。殆んどの国民は戦争目的を信じ、そのために死んだ。それを祭っているのが靖国神社である。靖国神社を国民で祭ることに反対する者は国民であるか、人間であるかという問題が残っている。
尊い国家目的とは
では、尊い国家目的とは何であろうか、守るに価し、戦死するに相応しい国家目的とは何であろうか。単に、他国に対して、自分の国を守るとか、同胞をまもるとか、自分達の衣食住をもっと豊かにするためとか言うのとは異なるはずである。いうなれば、日本の国家理想というか、日本の成立理由が厳然とあり、そのためには死んでもいいというものがあったし、父母や妻子の孤独の涙に匹敵するものがあったのである。それを日本流にいえば、各国と各国民に所を得しめるということであり、今日流にいえば、各自と各国民に自由と平等を与えるということである。それは単に形式的に自由・平等でなくて、各国と各国民が本当に自由・平等であるということである。各国と各国民を自由・平等にするということは、先ず日本国民が自由・平等であるということである。各国と各国民に所を得しめるといっても、日本国民に所を得しめないで、不自由・不平等にしていたら本物ではない。
日本国は、明治の初めから第二次大戦まで、所を得しめるという大理想、聖なる目的をかかげながら、その国民に所を得しめるという努力を本当はしなかったばかりか、他国の国民に自由と平等をあたえようともしなかった。だから第二次大戦の戦争目的は形の上では、尊いものをかかげながら、戦争裁判で裁かれるものとなってしまったのである。勿論戦勝国が敗戦国を裁くということは理にかなっていないが、一応日本は連合国によって裁かれてもしかたない一面をもっていたのである。その面で、あの戦争は尊い戦争目的をかかげながら、その実そうではなかったのである。だが、あの第二次大戦で死んだ人々はその戦争目的を額面通り信じ、そして戦死していった人々である。日清戦争、日露戦争で死んだ人々も毫もその戦争目的を疑うことなく死んでいった人々である。
彼等の多くが喜んで戦死したのもむりはないし、国民の殆んどが何らの疑いもなく、彼らを靖国神社にまつったのもむりはない。国民は第二次大戦まで何らの疑いもなく、分裂するということもなかったのである。それ程に尊い国家目的であり、そのウソの国家目的のためにだまされて、靖国神社に祭られたのである。だから最大の名誉と思ったのである。彼らにうそがない以上、靖国神社は国をあげて祭り、国民すべてが尊敬すべきものとしてあったのである。
だが、第二次大戦後、国民の中には事実を正確にみる者が増加し、戦争は罪悪だと知る者、この戦争は資本家、軍人、政治家のための戦争で、国民のための戦争ではなかったということを知る者が徐々にふえてきたのである。そのために、今日にみるように、靖国神社の国家護持に、賛成する者、反対する者、無関心の者と色々でるようになったのである。それは当然でる対立であるが、靖国神社が皆で祭らなければならないものであるとの基本方針は変わらない筈である。少くとも、第二次大戦までは殆んどの国民が国家目的を信じ、そのために死ぬことを名誉としたことは事実だからである。問題はこの事実をどのように継承すべきかということである。継承できる道はある筈だし、それでなくては戦前、戦中に生まれた者は生きられない筈である。
愛国心というもの
明治以後から第二次大戦まで日本国のかかげてきた国家目的とは消えてなくなったのであろうか。むしろ敗戦の中で、その国家目的は一層輝きをました筈である。うそを本当にするのが、戦後の課題である。戦争によって、各国と各国民に自由と平等をあたえようとしても出来ないことだし、また自国民に自由と平等をあたえないで、どうして他国民に自由と平等をあたえることができよう。そのような表面的な、きれいごとの理想をかかげることは虚偽以外の何者でもない。むしろ、敗戦後にこそ、日本の国家目的は今一度みなおされるべきであった。だまされていたにせよ、唯いちずに信じて戦死していった人々をまつる靖国神社を更めて尊び、祭るべきであった。そうしてこそ、日本の国家目的も正しかったということになるし、戦死した人々も今日に救われるのである。戦死の意味もあったのである。
西洋諸国のまねをし、他国を侵略するということは下の下である。これまでは、そういう西洋諸国を先進国といって、ただ一生懸命にそのまねをしてきたのが日本国であった。そのために、万民所得の聖なる理想を虚妄にしてしまったのである。
これまで、西洋諸国は自国の富国強兵のみをはかって、他国を侵略してきたのである。これほどのエゴイズムはない。だから幸徳秋水も愛国主義、愛国心を口をきわめて攻撃したのである。彼に言わせると愛国心というものほど、利己的、排他的で、独善的、狂熱的なものはないというのである。自国の愛国心を称揚しながら、他国人の愛国心は極力攻撃するのである。今ある愛国主義というものは軍国主義と共存するしかないものであるというのである。日本の自衛のためであったといわれている日清戦争すら、伊藤博文を大勲位にし、軍人の地位をたかめ、資本家をもうけさせる以外の何ものでもなかったというのである。国民は戦後経営のための重税に苦しみ、戦争の結果退廃した道徳のために苦しむ以外なかったというのである。
愛国心をどうみるかによって、靖国神社の国家護持には賛成であるか、反対であるかということに分れるというのが、今日一般の意見であるが、この問題はそのように簡単ではない。今、愛国心を強調することは、現状を肯定し、国と国を戦わせようとするものである。日本国の国家目的、国家理想を否定しようとするものである。各国の、各国民に自由と平等をあたえようとするのが、日本国の国家目的というなら、それなりに国家を守るということも意味があろう。だが、第二次大戦で、もはや他国民の自由と平等は戦争によってはあたえられないという証明ができた筈である。勿論戦勝国とて同じである。そうとすれば、時代は新しい時代にはいった筈である。自国に対する愛を強調すればする程、他国人の愛国心を否定しなくてならないような愛国心は本物でない。他国人の愛国心を肯定するような愛国心なら、もはや愛国心を肯定することも必要であるまい。そうなれば、愛社心ともいえようし、人類愛というものである。愛国心は戦争に通ずるものである。
靖国神社を真に祭るもの
愛国心と靖国神社とは共通するものという考えが間違っているのである。今迄は共通したが、これからは異なる。靖国神社は日本の独占物でなく、全人類に自由と平等をあたえんとする者達のものである。第二次大戦までの日本の国家目的は、世界人類のものであり、今後はそこに祭るぺき人をふやさないようにすることが必要である。少くとも、これまで靖国神社に祭られた者は万民に自由と平等をあたえようという日本の国家目的を信じたものであった。
今後はどのようにしてその国家目的を全人類のものにするかということである。吉田松陰は道義国家、平和国家を目標とし、どの国にもそれらを求める人間がいるし、その人達が国をこえて手を握らなくてはならないと強調した。
彼の弟子達によって明治国家はつくられながら、彼のいったことは表面を糊塗することだけに終わって、その実は侵略国家として成長していった。それによって、亡国だけはまぬがれたが、世界中からこの理想を駆逐してしまったのである。 敗戦後一時期、日本の歩む道は道義国家、平和国家といっていたが、いつのまにかその言葉は消えて、唯産業国家の道をばくしんするだけであった。そこに今の公害国日本があり、エコノミック・アニマルだけが誕生したのである。
エコノミック・アニマルにたとえ国家的規模で祭られたとしても、靖国神社の英霊は喜ばないに違いない。彼等を祭るにはそれにふさわしい人々でなくてならない。国家的規模であったとしても、それがエコノミック・アニマルの集団である国家ではどうしようもない。国家護持といってさわぐよりも、先ずその国家が靖国神社を祭るに相応しい国家であることが先決である。
私はそのこととを考えて、すぺての人に自由と平等をあたえる社会をつくりたい。自由と平等が必要だといいきる人間をつくりたい。
それは単に日本人に限ったことでなく、そう考え欲する人はどこの国にもいる。そのような人々が手を携えて、そのような社会をつくるぺく努力したい。その時初めて、靖国神社は本当に祭られるのである。祭られたといえるのである。国家的規模かどうかという問題ではない。
かえりみられなかった天心の全体像
最近しきりと教育の原点を問うという言葉が多くなった。それというのも、現代が過渡期にあり、今までの教育をただ続行していればよいと考えられなくなってきたためであろう。それ程に、今の教育は根底から問われている。
単に資本主義から社会主義に移行するという認識だけですまなくなっている。だから、教育労働者の待遇を改善するだけで、未来の教育にむかっていると安心はしていられない。まして、教育内容の精緻だけで喜んではいられない。それらによって、教育そのものが充実してきたと手放しでいられるほどに、今の時代はあまくないのである。
それこそ地球の破滅、人類の危機に遭遇しているのである。破滅を前にしては、その破滅を救うに足る教育を考えられなければならない。
何人も声を大にして教育の重要性を説く。しかし、かつて武器とる者の真剣さで教育にとりくんだ者があろうか。教育は常に重んじられているようにみえて、最も軽んじられてきたのである。一見してたしかに不急不要のように見える。それが教育を軽視させる原因となったのである。政治家が政治にとりくむ情熱、経済人が経済にとりくむ意欲で、教育家が教育にとりくむならば、とっくに理想社会は実現していたと思う。それによって、政治も経済も発展したと思う。
その意味で、今日、教育の原点を学校関係者のみでなく、企業間係者も、すべてが真剣に問い始めたことはよい事だと思う。しかも、これまで一度も過渡期にあたって、教育の原点として問われたことのない、岡倉天心を問題にすることは、私としても非常にうれしい。彼は長い間、その部分像を追求されるだけで、その全体像が追求されたことがなく日本の中で死んだままの人であった。今地球の破滅を前にして、天心の全体像が教育の原点として追求されることは非常にうれしい。それも第一回目としてとりあげられることに、大変意味を感ずる。
私達日本人はこれを機に、しっかりと天心の全体像を見なくてならない。彼が何故に教育の原点となり、何故に、今教育の原点とされるところに意味があるのかを、さぐらなくてはならない。天心を世界の天心として、よみがえらせなくてはならない。
「美」と「宗教」による全人類の改造
天心は日本のみでなく、世界の教育の原点として、今日省みられるにふさわしい人物である。普通、天心を思いだすとき、東京美術学校(今の東京芸術大学)の創立者、第二代の校長として思いだすにすぎないし、せいぜいユニ−クな美術評論家として思いだすだけである。だが天心は、それだけの人物であったのだろうか。
一般に天心が校長の職を停止されたことにより、それをきっかけとして、美術学校をやめ、日本美術院を創立したことは知られているが、そこにもっとも深い意味があったということを、考えようとする者は、まったくといっていい程にいない。
たしかに直接には、天心はその恋のために、その教敵から放り出された人物であるが、彼の属する文部省は今日と同じく、西洋だけを進んだとみる人々でみたされ、真の美術教育、人間教育とは何であるかを考えてみようとする者は一人もいなかったのである。それに絶望して校長をやめたというのが真相である。
天心は少なくとも全日本人を、全世界人を美と宗教で造り変えようとしていた。それも彼の考える美とは、美術の中の美に終わらず、政治、経済までも貫いた美であった。美のない政治・経済は、まだ本当の政治・経済でないと考えていたのである。いってみれば、生活全般を貫く美であったのである。宗教というときも、現実に相互に対立しているような各派宗教でなく、人間の霊性を根幹として人類の霊性を救済し、統一せんとした宗教であった。だから天心の考えた宗教とは、今日のように政治・経済・教育などと併存する宗教ではなくて、政治・経済・教育などの出発点となり、終着点となるべき宗教であった。天心はこのような美と宗教は何人にもあるはずだし、何人にも付与しなくてはならないと考えたのである。しかも、この美と宗教は一体にならなくてはならないと考えたのである。
この美と宗教がないところに資本主義という不平等な社会が生まれ、共産主義という表面的救済はなしえても、人間の魂を全的に救わない社会が生まれたのである。美と宗教が分離し、政治・経済・教育などと併存するところに公害が生まれ、原水爆が生まれたのである。資本主義から共産主義への道は、しょせん産業によって、人間を全的に救済せんとするもので、夢に等しい。
天心の考えたような美と宗教によってしか、人間は全的に救えない。だが、もう一度くりかえす。その美と宗教は、今日のように俗化した美と宗教でなく、現代人が真剣に創造しなくてはならないものである。その美と宗教を求めたのが天心であったのである。
「アジアは一つ」〜日本の孤児が中国、印度に見たもの
この美と宗教を、天心は日本の過去の中に見出したし、中国と印度の旅行の中に発見していったのである。それらが気息えんえんとしている中に、伝統としては明白に息づいていたのである。それを発見した時の彼の感激。しかし、同時にその身を日本に横たえることのできない時であった。
かくて、日本を捨てる以外になかった天心であった。だが、天心はこの旅行の中で、今一つ重要なことを発見した。それは西洋先進国によるアジア侵略という事実であった。人々は何の疑いもなく、アジアを侵略している国を先進国とみたし、彼らもそう考えた。
たしかに、武力に秀でているという点では先進国だが、他国を侵略したという点においては、これ程野蛮な国はない。まして、被侵略国を徹底的に搾取したのが、この先進国といわれている国々である。ほとんどの人がこの事実を疑ってみようとはしなかった。このようにして、何世紀もの間、アジア諸国は西洋諸国に侵略されてきたのである。
だが、アジアが侵略される前に、それに倍する期間、逆にアジアが西洋を侵略したのである。むしろ、この事実がアジア諸国に反省を与え、侵略によって、侵略者は勿論、被侵略者に平安はこない、真の豊かさはおとずれないということを知らせたのである。
そこから、印度・中国に平和主義の伝統が生まれ、育ったのである。それが真に力あるものに育つ前に、今度は逆に西洋諸国によって、印度・中国、その他アジア諸国は徹底的に侵略されたのである。
天心は印度・中国を旅する中で、西洋諸国の道からは、真の平和はおとずれないと知ったのである。印度・中国の青年の中には、真に人間として再生しつつあるものがいる事を知ったし、それがいつかは、一つの力になることをはっきりとみてとったのである。「アジアは一つ」と天心がいったとき、彼はこの力をみていたし、やがていつかは、その力が世界を変えるにちがいないとみていたのである。彼は印度・中国の青年の中に明日の世界の光をみたし、明治維新をなしとげた日本に、そのエネルギーを発見した。
しかし、維新後の日本は、西洋諸国の方をむくだけで、維新の理想は全く忘れている。人々の中にある美と宗教を育てるかわりに、美と宗教を俗化させることだけに狂奔している。天心はそれをみた時、心の底から日本に絶望し、日本教育に絶望した。そういう教育が、明治以後一貫して今日までつづいているのである。いろいろの知識のみ増えても、魂をいれないのが今の教育である。天心ならずとも悲しまないではいられまい。
天心の心に生きた人たち
天心がどのようにして、このような夢をもち、このような希望を己自身のものとして生きようと考えるようになったかについては、彼の生の秘密を究明してみる必要がある。
彼は文久二年(1862)、福井藩士の子として生まれた。文久二年という年は、福井藩士橋本左内が刑死になってから三年後である。
人も知るように、橋本左内という男は、単に福井藩の英傑であったばかりでなく、日本の英傑であった。しかも、彼が刑死にあった時、わずかに数え年二十六歳にすぎなかった。
その左内の親戚の者を乳母として育ち、朝夕左内のことを聞いて大きくなったのが天心である。この乳母が左内を敬愛することでは徹底していたのである。
こうして、天心は橋本左内の人と思想を知り、左内が相許していた吉田松陰の人と思想を知るようになるのである。知っている人もあると思うが、この吉田松陰は西洋諸国の道を憎み、いかにして平和国家をこの地球上に実現するかで、一身を悩ませた人物である。不幸にして、この松陰も左内と一緒に安政の大獄で殺された。その伝統をうけついだのが、西郷隆盛であり、勝海舟である。
西郷が西洋諸国を文明国でなく野蛮国といったのはあまりに有名だが、その言葉をしみじみと味わった人間はほとんどいない。彼の中にあった封建的要素のみがいたずらに拡大されて、西洋は野蛮国だとする声は、全くといってよい程に影がうすい。明治十年、西郷が死んでからは西洋諸国を批判する声は全くない。勝海舟に、西洋諸国のまねをした日清戦争を批判する声があるが、それとても、当時の欧化思想の中で影がうすい。岡倉天心はそのような雰囲気の中で成長したのである。しかも、橋本左内、吉田松陰、西郷隆盛の思想をうけつぎ、それを時代的に発展させようとしたのである。
彼が日本の孤児となり、日本そのものを捨てる以外、どうしようもなかったのは無理もない。天心は全く長いこと理解されなかったし、せいぜい彼をいう者も彼の部分像であった。歴史の中に生きようとした彼の全人間像をいう者は今までになかった。彼が正しく理解されないように、橋本左内も吉田松陰も西郷隆盛も歴史の中に位置づけられない。天心が誤解されたままであるのも当然である。天心の中に生きてきた彼らを、正しく見ることから出発しなくてはならない。その上で、天心の真姿が明らかになってくる。
西洋の覇道、東洋の王道
天心に影響を与えたのは、この橋本左内たちだけでなく、長延寺の玄導和尚からも多くのものを学んだ。玄導和尚は天心の母を葬った人として、彼は直接玄導の下に起居をともにして、「論語」、「孟子」を学んだ。このことが後年、天心の心を西洋の覇道を憎み、東洋の王道に憧れる人間にしたのだといえよう。しかも、玄導は単に章句を記憶するというよりも、天心に、「論語」「孟子」の体得を求めたのである。このことは自然、彼を自立人に育てることになったのである。
後に、東京大学に入った天心は、そこで中村正直にであっている。この中村は元来漢学者であったが、キリスト教、仏教にも深く通じ、それらの思想が相互に通じ、真に人間を生かし、何が人間のためであるかに通じていた人であった。
このために、天心を富とか地位に関係なく、人間誰にもある天爵をみることのできる人間に育てていった。後年、天心に「アジアは一つ」といわせた素地は、中村から学んだものといえよう。
そればかりでなく、天心は余暇を利用して、文人画を奥原晴湖に、漢詩を森春濤に、琴を加藤桜老に学んでいる。
だがなんといっても、当時東京大学教授として赴任してきた少壮の学究、フエノロサとの出会いは運命的であった。天心の語学能力はフエノロサの愛好するところとなり、彼の秘書のような形で、彼についてまわった。天心の美意識はフエノロサによって触発されたといってよい。
だが、要するに、天心は橋本左内、吉田松陰、玄導和尚、奥原晴湖、森春濤、加藤桜老、フエノロサたちによって単なる美術評論家の枠をこえて、ふとっていったのである。それを万人のものにせんとしたところに、天心の偉大さがあり、悲劇があったのである。彼こそ教育の原点というに等しい。
一般に世の中では、夢と情熱は二十歳前後のいわゆる青年に特有なものと受けとめられている。夢と情熱を夢と希望といいかえてもよい。青年が夢と希望を捨てることを「大人」になったなどといったりするのも、その現われであろう。いつの時代でも、夢や希望をとくとくと、それこそ全身で語る青年は沢山いたし、世間もそれをごく普通のこととして見ているようだ。
私自身も、今から三十年以前、つまり二十歳頃には、夢と希望をとくとくと語ることに何の不思議も覚えない一青年だった。そして、ある日、ある所で、当然のこととしてそれを語った。ある所とは山口県上関村である。この頃はテレビ小説の舞台となって一躍有名になった上関だが、以前は下関は知っていても、中関、上関の存在を知る人は少なかった。その上関で知り合った一人の婦人に、私はとくとくとして語ったのである。
黙って私の言うところを聞いてから、彼女は言った。そんなものは夢でも希望でもないと。
「夢と希望をただ語るのなら、誰にでもわけなくできます。問題は、その夢と希望を三十代、四十代になってなお、そのたしかなことを知り、そのために全力を尽くしてこそ、夢であり、希望なのではないでしょうか。昔も今も、夢や希望があまりにも空虚なことで終りすぎています。そのために、世の中は少しもよくならないのではありませんか。あなたは今、夢と希望をあなたの全存在で語っているけれども、大事なのは、それと同じことを三十代でも四十代でも語り、行じているかということではありませんか」
心から恥じ入るとは、ああいう時のことをいうのだろう。私は恥じた。同時にこういう言葉を当時在学中の大学で、教師たちからは聞いたことがないと思った。大学で学ぶということについて、もう一度考えなおさざるを得ないと思ったのも当然だった。その時の言葉が、三十代、四十代の私を決定したといっても過言ではなかろう。
もう一ついえば、私は、こういう女性がこの世の市井にまぎれて存在することに驚かずにはいられなかった。彼女が結婚に際して持って来たものは、国訳大蔵経全巻だけだったと聞いたのも感動だった。語れば語るほど、彼女は私の話を正しく理解し、反応してくれた。私がそれまでに出会ったことのない、すばらしい女性だった。人間と女性についても、彼女は私の眼を開かせてくれたのである。私の女性観もまた、変わらざるを得なかった。
私が今日、多少なりとも女性について考え、女性の解放を説くのも、多分、この時の彼女との出会いが大きな力になっていると思う。
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