「日本のもう一つの顔
           週刊誌記者の思想と行動」

 

   <トップ屋時代の未発表原稿について>

 この原稿は昭和34、5年から37年頃に、トップ屋の仕事と平行して順次書かれていったものと思われる。発表されなかった理由はわからない。『13 振りまわされたトップ屋』は、「目次」には入っていなかったが、清書された原稿であったので加えた。
                        1998年3月   池田諭の会

    <目次>

 1、オンボロ・トップ屋の誕生

 2、松川事件はおわっていない
      福島県民の戦後思想史を書く時期

 3、原爆と私
      広島、長崎県民の平和思想史を

 4、横目でにらんだ安保闘争
      立ち遅れたままにおわっている統一戦線の理論

 5、三池争議はこれからだ
      すぐれた撤退作戦でなくてはならなかった

 6、トップ屋の見た経営者達
      1、東洋電機カラーテレビ事件
      2、買い占め屋Aが撒き起こした波紋

 7、道徳教科書と教科書会社の再編成

 8、トップ屋売春地帯をゆく
      1、主婦であって主婦ではなかった女達
      2、コールガールの貧し過ぎる事情

 9、トップ屋駆けある記
      1、エロ画家を追って集中豪雨の中を突っ走る
      2、世界的宗教学者の息子を追って

 10、プライバシー

 11、トップ屋廃業
      訂正記事にからむ週刊Lと私の事情

 12、曲がり角にたつ週刊誌 むすび

 13、振りまわされたトップ屋
      夏の海岸での五日間

 

                            < 目 次 >

 


1 オンボロトップ屋の誕生

 

 ある日(くわしく云えば昭和34年3月のある日だった)、突然、雑誌「平和」の編集者時代の先輩Nさんから速達が舞いこんだ。「仕事のことで至急会いたい」とだけ書いてある葉書の文面からは、どんな仕事なのか想像のめぐらしようもなかったが、窮乏生活の私の仕事について、これまでも何くれとなく心配してくれているNさんのことだから、指定された時間に、その場所に出かけたのは無論当然のことだった。しかし、Nさんの話は、あまりにも思いがけないものだった。「週刊L誌の仕事をしてみないか」というのだ。「稿料の支払いもたしかだし、出版社としても、きっちりしたところだから、君にとってもマイナスにはなるまい」と、Nさんはたたみかけるように云う。
 私は全く面くらった。週刊誌と名が付くものを、それがどんな性格のものにしろ、読んだといえるような読み方をしたことが、一度もない私だ。まして、週刊誌を仕事の対象として考えたこともない。私の存在とは全くかかわりの無いところで存在している雑誌として、興味と関心の外にあるものだったのだ。「私の思想や行動と、一体何処でかかわりあえるのか。週刊誌の狙いと私とが何処で通じあえるのか。私が、私として参加できる部分があるのか…」私は咄嗟の間にそれらのことを考えてみようとしたが駄目だった。私には、それらを考えることのできる最低の知識すら、持ち合わせがなかったのだ。だからといって、そのへんのことをぼかしたままで参加できるわけがない。おそらく、私は鳩が豆鉄砲を食ったようにキョトンとしていたに違いない。週刊誌に対して気乗り薄と見たか、迷っていると見たか、Nさんは、私の顔を見ながら話を続けた。
「君が何を考えているか、おおよそ、私にも見当はつく。だが、今(昭和34年当時)の左翼の人達が、あまりにも現実のナマの姿を知らないことから、ひどいひとりよがりや、思い上がりに陥っていることは、君も残念がっていた点じゃなかったかね。週刊L誌の名刺一枚あれば、何処にでも行けるし、たいていの人には会えるよ。君にとって、すばらしい収穫だと思うがどうだろう。マイナスどころかプラスじゃないか。」
 Nさんの云う通り、現状把握の不十分というか、現状を十分に認識できないところから、自然、書かれたもの、報告されたものに依存しすぎることになり、その結果教条主義となり、現状分析の甘さが体験主義を許すことになっているとは、私の持論であった。現状をあるがままに捉え、それを正確に分析していくことは、現実を変革していこうとする者の第一歩であることを、誰もが認めていながら、十分になされていないし、十分に観察し得る立場に身を置くことすら、難しいのが現実でもあった。今もし、その立場に自分を置いて、正確に観察し、その観察にもとづいて分析する能力を鍛えていくことができるなら、Nさんのいうように、すばらしいことでもある。
「ナマな現実」この言葉が、私にとって強烈な魅力であることはいうまでもない。体制側の首脳部、政界、財界の首脳達に会い、彼らの本音を聞き出し、彼らの強さや弱さを、明瞭に聞き出せないまでも、感じ取ることができるとするなら、そんな愉快なことはない。彼らにソッと囁いてみたいこともあるし、その反応も知りたい。
 このことは、何も、体制側の人達に限ったことではない。反体制側にいるということだけに安住して、自分達に都合の良い、手前勝手な解釈や、景気のいい発言をしてケロッとしている連中に、彼等のいやがる厳しい現実をぶつけてみたい。これは反体制側の前進のために必要なことだ。そして週刊L誌の性格、方向に、私の願うものを少しでも出すように取り組んでみることも愉快なことだ。それではじき出されたとしても、もともとじゃないか。ここまで考えたとき、ホッと緊張がゆるんだ。反対に虹色の夢が頭を蔽ったわけではなかったが、この時に考えたことを少しでも実現させるために、如何に悪戦苦闘をしなければならないかについては、あまり思い至らなかった。
「会うだけ会ってみるのも無駄じゃない。Pは、週刊Lを事実上動かしているような能力の持主でもあるんだよ。」というNさんの言葉が耳に入ったが、そんなことは、私にはどうでもよかった。私の思想とかかわりあえる仕事だという発見で十分だった。「新しい風土」という小思想雑誌をつぶしてから3年近くにもなる。そのあいだ収入らしい収入もなく、我が家の経済は妻の収入にオンブしたままであった。「自分を大切にしなくてはいけない。自分の歴史を汚してはならない。単なる生活のために、自分の思想に結びつかないような仕事をしてはいけない。」という言葉に甘えてきていた。(この言葉はかつて私の友人が私に語り、そして私を守ってくれた言葉でもあった。)この仕事ならよかろう、と私は思った。このへんで妻に少しは楽もさせたかった。(実際、私がトップ屋になって妻は果たして楽になったか。日曜も祭日もない毎日。一週間のうち、一日休める日も滅多にない。朝、とてつもなく早い時間に飛び出してみたり、一時、二時の帰宅はまだしも、そのまま徹夜で原稿書きにつながるような生活に、彼女をまきこんでしまった。彼女には昼間の普通人なみの勤めの生活がある。一間きりの暮らしの中で、常にすれちがう私の生活とのつきあいは、あんまり楽なものではなかったようだが、そんなことにそのとき気付こうはずもなかった。)そのままになっている小雑誌の負債も払えるだろう。(これもまた、全くあてのはずれた期待であった)私は何時のまにか「お願いします」と云っていた。

 Nさんと一緒にL社の応接間に案内された私は、一張羅の合オーバーを脱ぐに脱げず、弱り果てていた。Nさんは不審そうに、「それを脱いだらどう」と云う。Nさんの葉書一枚で出て来た私は、まさかそのままL社のようなところに行くとも思わなかったし、いや知っていたところで、どうしようもないのだが、背広の上衣がないので、妻のエンジのとっくりセーターを着た上に合オーバーといういでたちだったのだ。Nさんに、そのことを話して、私は合オーバーを着たままでご免こうむることにした。
 少し待つと、私より二つ三つ年上の男が入って来た。それがデスクのPだった。大出版社の中で、順調に成長し、現在、週刊Lを支えている男らしく、いかにも落ち着いて自信あり気に見えた。それでいて、なかなか神経質で、繊細な男のようで、Nさんとのやりとりのなかで、しばしば鋭いところを見せた。思想的な鋭さではなく、頭脳的な鋭さといえるものだった。編集者的な鋭さといってもよかったろう。私に一番欠けているものかもしれないな、これで、うまくコンビを組めるだろうかと思ったが、オヤッと思わせるほどの投げやりな言葉が、Pの口から一、二度、吐き棄てるように出されるのを見て、私は、Pの戦争中の生活を、なんとなく想像していた。それが、妙に私に親しみを感じさせた。安心感を与えてくれた。改めて、やってもいいなという気持ちにさせられていた。
 Pは、「Lのために取材した原稿の素材を、他所の原稿を書く場合に、自由に使って下さって結構です。」と云ってくれた。こんな都合のいい話はない。全くアッ気なく、オンボロのトップ屋が誕生した。私の仕事はトップ記事のための素材原稿を書くことだった。「今日から早速お願いするかもしれない。念のため、四時頃、一度電話してほしい。」というPの言葉をあとに、L社を出たものの、ここまでの電車賃ギリギリしか持っていない私には、今日から仕事が始まるのは、嬉しいようで、甚だ困ったことだった。四時の電話で、すぐに来るようにと云われた時は途方にくれた。といって、行かないわけにもいかない。まして、初対面のPに前借りを申し込むこともできない。Pの話をききながらも、半分は上の空だった。私の頭を占めているのは、金のことばかりと云ってよかった。「これは足代です。あとで清算してください。」と五千円渡されたとき、私ははじめて、自民党の中央政治大学院で教材として使っている、左翼の人達のブラック・リストのことを記事にするのだということが、実感として私の中でぐっと把まれたのが感じられた。
 ブラック・リストをバクロする。どんなバクロをするのかは知らないが、これなら、その一点だけで私の心を強く捉えてくれる。やり甲斐もある。是非とも、ブラック・リストを手にいれてみせるというファイトがわきおこってきた。テーマがテーマであったばかりに、わたしは、スーッと、何の抵抗も感じないままに、取材活動に入っていけた。私はすっかり昂奮し、満足感を抱いていた。
 中央政治大学院の近所に立って、学生の出て来るのを待った。こういう経験ははじめてだ。緊張、不安、期待、さまざまな感情が交錯する。
 そのとき、三、四人が一かたまりになってやって来るのが眼に入った。声をかけようとして、ふと、ためらうものがあった。彼等の眼が一斉に私にそそがれているのを意識した途端、用意していた言葉が引っ込んでしまった。モタモタしているうちに、彼等は通り過ぎて行く。私は追いかけて声をかけようとしたが、これも言葉にはならなかった。振り返ると、けげんそうに私を見ている、一人の青年の眼にぶつかった。私の顔は多分赤らんでいただろう。私は無意識のうちにそこを歩み去っていた。
 こんなことでは仕方がない。私は自分に云いきかせながら、再び元の場所に立った。今度は、青年が一人でやって来た。おとなしそうで、しかも生真面目な感じに見えた。何ということもなく、簡単に彼を呼びとめた。
「週刊L誌の者ですが、貴方は中央政治大学院に通っている方ですね。」
「そうですが、なにか」彼のいぶかし気な顔にぶつかると、またしても、ドギマギしそうになって慌てた。これじゃあいけない。勇気を出せ!
「どんなお気持ちで参加なさったんですか。」
「東京で就職するチャンスを狙ったんです。たいていの人がそうらしいですよ。」
「就職の世話をしてくれるということが、はっきりうたわれているんですか。」
「いいえ、逆です。世話はしないと云っているんです。でも、誰一人、そんなことを本気にしていないでしょう。」
「自民党支持ですか。」
「そうです。」
「左翼の人達のブラック・リストを教材にしましたね。どう考えますか。」
「私達には、その人がどういう思想の持ち主かわかりませんから、ああいうリストを頂けると助かります。」
「そのリスト、見せてくれませんか。」
「駄目です。どうせ、貴方達、言論の圧迫とかなんとかいって攻撃するつもりでしょう。
「そんなことありません。それに、影でこそこそするものじゃないでしょう。」
「何と云われてもいやですね。」
 話し合っている我々の傍らを何人かの青年が通り過ぎていく。生真面目一方のような、この青年からリストを手に入れることは困難にみえた。これ以上引き止めても無駄なことだ。私は次の男を待った。次々と、青年達に声を掛けたが、肝心のブラック・リストのことになると、どうも要領を得ない。彼等の狙いが、就職のコネづくりだということは、イヤというほどわかったが、そこから先には、一向に進まない。学院から出てくる学生の数もめっきり少なく、間遠になってきた。時計を見ると、かれこれ二時間もねばっていたことに気付いた。急に空腹が感じられ、冷えきった身体に寒風が痛い。焦らずに、もう少し頑張ろうと、自分をなだめながら、一方では、今の取材法を反省していた。正面きって、ぶつかっていく以外、青年らしい素直な感情に訴える以外どうにもならないのじゃないか。その時、一人の青年が通りかかった。私は、はじめて私らしい話し方、私らしい考えのままで青年に対した。私は元気を取り戻していた。そして、先刻までの自分が、週刊Lというレッテルに、ガンジガラメになっていたことに気が付いた。大切なことは、彼等との間にコミュニケイションを通じさせることだし、彼等との間にも、それが可能だと確信することだった。むしろ、思想的に対立する立場にある人間に対しては、その取材活動の中で可能な限り、その人の思想的成長に手を貸すこと(特に若い世代の場合)が必要なのではないかと思いついた。

「どうなんです。講義の内容は。聞くところでは、講師の一人がブラック・リストを配って、こんな連中の著書は、読んではいけないと云ったというじゃないですか。ちょっと信じられないような話だけれど、一体、本当なんですか。
 読んだあとに、この本はどうだったと批判するならいいでしょうが、読む前に決めてしまったんじゃ、全くひどいと思います。これじゃ、あなた達に不親切なだけでなく、あなた達を馬鹿にしているようなもんじゃありませんか。戦争中の軍部のやり方と変わりませんよ。あなた達の自主的な判断力は育たないし、かえって駄目にされてしまうと云ってもいいんじゃないですか。少なくとも戦後の教育の中で、批判力、判断力の必要なことを教えられてきたあなた達が、講師の云うままに黙っているなんて、だらしがないと思いますが、あなたはどう考えているのですか。是非聞かせてください」
「ブラック・リストを渡されたときは、何となく嫌な気がしたんです。何故、嫌に感じたのかわかりませんでしたが、お話を聞いて、よくわかりました。ご入用なら、リストは差し上げてもかまいませんよ。でも、今、ここには持っていません。下宿まで来て下さいますか。私の名前は云わんといて下さい。それだけはお願いします。」
 この言葉を聞いたときの私は、こおどりをせんばかりだった。スクープというものではないにしても、スクープしたときの気持ちって、こんなものかな、などと思ってみたが、実際に手に入れるまでは安心できない。私はかえって落ち着かない気分になってしまった。途中で心変わりでもされたら大変と、ハレモノにさわるようにして、下宿に同行した。
「日教組中央講師団と左翼団体との個人別関連一覧」と題した、全紙大の表を手にしたときの感激は今でも忘れない。逃げやしないかと、両手でしっかりと持っている自分に気が付いて、苦笑した。デスクに電話で報告すると、「すぐに持って来い」と云う。
 社に行って、じっくりと表を見る。何ということはない。私の手許にある資料からでも作れるくらいのものだ。よくも調べあげたなどといえるようなシロモノではなかった。しかし、これを自民党の政治大学院で配るためにこしらえたことに問題があるのだ。混同してはならないと考え直した。

 翌日からは、中央政治大学院の講師団何人かと、ブラック・リストにのった人達とに意見を聞いて廻る。まずT大学のY教授。Y氏は現在憲法調査会の委員でもあり、体制側の代表的イデオロギスト。かつて、戦時中は、昭和研究会のメンバーであり、近衛文麿のブレーンとして、新体制の樹立に活躍したこともある男だ。
「ブラック・リストだって。それは、今はじめて、君から聞いて知った話だが…、そりゃ、まずいことをしたもんだ。私が相談を受けていれば、勿論反対したよ。決して、そんなことさせなかったよ。くだらないことというより、全く下の下だよ。自分達の無力というか、自信の無さをバクロしたようなもんだ。そんなことで、今日の思想斗争に勝てるわけがない。敵方からなめられるばかりか、味方からも軽侮を受けるよ。そんなことでついてくる青年を、いくら集めたからといって、なんの力にもならん。意味が無い。そんなことでついてくる青年なんて、ロクなものでない。全く、恥ずかしいことをしたもんだ。」
 Y教授は吐き捨てるように、強い口調で語った。さすがは、体制側の代表的イデオロギストを以て任ずるだけの学者だ。云うことは筋が通っている。こんなことで、談話をとられる羽目に追い込まれたことが、いかにも口惜しそうだった。
 あれこれ、二時間近くも話している途中、何を思ってか、Y教授は、不意に
「L社って、サラリーいいんだろ。」
と云った。何と答えてよいか、私には全く準備ができていない。たしかに私は週刊Lの編集部の名刺を通している。会社で与えられた名刺だ。名前も当然、私のものではない。(私はその後、週刊Lの仕事をしている間じゅう、その名刺を使った。いわば、それが、私のペンネームともいうべきものになったわけだが、はじめのうちは、この天下り的な我が名前に馴れることができず、呼ばれても知らぬ顔をしていたりするような失敗を重ねるなど、大層苦労したものだった)まさか、人を訪ねて、コートを着たままではいられないので、やむを得ず脱いでいるが、勿論上着は着ていない。安物のオープンシャツを着ているだけだ。ズボンといえば、これも、この数年間、カタキのように着つづけ、二年ほど前に茶に染めたのが、すっかり色あせて、微妙な色合いを見せている。プレスなどしょうものなら、溶けて流れそうな奴。膝が丸く飛び出ているのは当たり前のことだ。何ともヒドい恰好というほかはない。Y氏が不思議に思うのも無理はない。
「ハァ。」
と答えたものの、冷汗が流れる思いがした。私は社員ではない。無論、L社の賃金体系など知ろうはずもない。Y教授にとって、かけ出しのトップ屋なんて、思いもよらぬことらしかった。話はすぐ元に返ったが、社内の誰彼の噂話にでもなったら、どうにもならなかっただろう。うまく調子を合わせるなどということは至って下手な私だ。新入社員なのでといってしまえばそれまでだが…。それにしても、週刊L誌の編集部員さえ知らないのはおかしなことだろう。(だが、私は、週刊Lに三年以上、こういう関係を持ち続けていたが、遂に、私のデスク以外の人達とは、全く交らぬままであった。取材先で、重役の噂をされて、眼を白黒させたという仲間もいたが、つまりトップ屋というものは、そういうものである。)

 Y教授の家から、外交評論家H氏の家に向かった。H氏は、コチコチの反共主義者としても、独裁者的な存在としても有名な男だ。しかし、もの柔らかで、終始にこやかに微笑をたたえて語るH氏に接して、これが、噂に聞くH氏だろうかと疑いたい気持ちにさせられた。いかにも心温かそうな、それが顔一面に現れているといった、福々しい顔。
 H氏についての噂は、決して単なる噂ではない。彼の行動に即しての評価だった。だが、単なる親として、友人としてのH氏は、さぞ、人々から好かれ、頼もしがられ、愛される男なのだろう。
「こういう人達が、どんな団体に所属し、どんな本を書いているかを知らせることは、決して無駄なことではない。注意を促すことは必要だ。」
「こんな人の、こんな本を読んじゃいけないというようなことを云うのはどうですか。自民党が要求している人間が、そんな態度から育ちますか。」
「そりゃ、だめだろう。」
「集まった学生たちの印象は如何でしたか。」
「だめだね。知的低さ、理解力の弱さに、やりきれなかった。」
 H氏の声はしんみりとしていて元気がなかった。

 できあがった記事は、私の満足するものではなかった。しかし、週刊誌を、こんなにも身近なものとして、感じ、読んでいる自分に呆れ、今更のように「状況に規定される人間」というものについて考えさせられた。Y教授の話が没になったのは、何といっても残念だった。というのは、このブラック・リストへの批判を、それが、たとえどんなに説得力のあるものであろうとも、反体制側に位置する人間、ブラック・リストにのった人達にだけさせたのでは弱い。それは出るべき当然の意見である。むしろ、力ある発言は、Y教授のように、同じ体制内部にいる人の筋の通った発言だ。これをぶつけることが必要なのだ。それは、時に、体制内部の矛盾を激化させることによって弱体化をすすめ、時に、その矛盾を克服することによって反動化を食い止め、前進をもたらすことができる。何れも、商業主義の立場にたつ雑誌でありながら、歴史の発展に役立つように編集できる立場でもある。この立場は、反体制内部の問題をテーマにするときでも可能な立場だ。ジャーナリズムの中立性というか、中立的ジャーナリズムの存在は可能だし、今の時代にこそ、必要なことではないか。
 記事に不満を持ちながらも、週刊誌トップ屋のあり方、役割を発見することのできた私は、新しい勇気をもって、トップ屋生活に挑むこととなった。その時の私は、ゲップの出るほど桃色記事を追わされることも知らず、休むこと無く延々と続く取材活動の、労多くして酬われること少ないトップ屋の実情を知らぬ、初心で幸せなトップ屋であった。     

 

                 <日本のもう一つの顔 目次>


     2 松川事件を追って
         福島県民の戦後思想史を書く時期

 

  (一)

 昭和 34年9月10日最高裁大法廷で、田中耕太郎裁判長係りで開かれた、松川事件の最高裁上告審判決公判は、
「国鉄、東芝の連絡謀議についての大田自供、加藤自供はいずれも真実性が疑わしく、…原判決には事実誤認の疑いがある」
として、仙台高裁判決を破棄して、裁判のやり直しを命じた。昭和24年8月17日、福島県の金谷川ー松川間でおこった列車転覆事件は、昭和25年12月の一審判決、昭和28年12月の二審判決を経て、最高裁にもちこまれていたのが、事件後、ちょうど10年めに、またもふりだしに戻ったことになる。
 松川事件には、はじめから、いろんなウワサがとんだ。庭坂事件、伊達駅事件、平事件と、惹起する東北地方における日共の拠点を一挙につぶす口実をつくるためのデッチアゲ事件だというもの、日頃、革命近しを呼号し、革命の暁は、知事は誰、警察署長は誰と、影の県当局者名簿まで作っていた彼等だから、あのぐらいのことはやりかねないというもの。しかし、そうした中で、一審で無期の判決を受けたものが二審で無罪、15年と12年の判決を受けたものがそれぞれ無罪の判決を受けたことは、裁判の性格というよりも、この事件の不可解さを物語っているように思われた。しかも、最高裁の判決そのものが、12名のうち7名の多数意見によるもので、4名は原判決を支持、他の1名もそれに近い意見を出すという複雑さだった。
 当然、最高裁の判決に疑義というか、反対の声もあがった。この時期に、当時、国鉄労組の中央委員であり、現在職能別組合(全労系)の幹部と名のるS氏から、「根拠をもっているわけではないが、自分はクロと信じている。それは福島地区にいた何人かの、当時の発言から、そう思われる。福島地方に行けば、私のいうことを裏づける発言なり、空気は、たやすく把める筈だ」と、何人かの名前を具体的にあげた投書が、週刊Lに舞い込んできた。週刊Lの首脳部が、この投書をどのように評価したか、この投書を導入として、どんな記事をつくろうと目論んだか、奥の奥の事情については、一トップ屋にすぎない私には知るべくもないが、福島行きの仕事は私に廻って来た。私は途惑った。
 Sのあげた名前の人々を、順に訪ねていけば、あるいは、Sの期待する答えが出るかもしれない。それは同時に、週刊Lの首脳部が欲する記事のできあがることかもしれない。それは、Sのかけたワナに、わざわざハマりに行くような愚ではなかろうか。裁判は公正でなければならない。事件を見る人達の声は、それがどんなに好まない意見であったにしろ、いや、その故にこそ、一層正確に捉えなくてはならない。だが、現状は、この事件を感情的にクロかシロかに決めていこうとする傾向が強くなっている。それにまき込まれるような、それを助長するような記事づくりはしたくない。まして、記事は、私の責任において書かれない。私との意志の疎通しない、他の人によってつくりあげられるのだから、私にとっては不安以上のものがあった。とはいうものの、この取材のために福島地区を訪れることは、決していやではない。松川の取材もこれが三度目だ。

 はじめて福島を訪ねたのは、雑誌「平和」に、「松川事件の留守家族を訪ねて」というルポルタージュを書くためだった。昭和28年の3月、仙台高裁の二審判決を前にした時期に、被告達の留守家族がどんな生活を送り、どんな気持ちで二審の判決を迎えようとしているか、ということに視点をおいたものだった。当時は、事件が事件なだけに、世人の眼は、事件の経過、裁判の経過にのみ向けられて、そのかげで、被告の家族達がどんな生活を送っているか、どんな問題をかかえこんでいるかを報告したものはなかった。投書者Sは、「最初の5年間、福島では、誰一人、被告をシロと考えた者はいなかった。」と書いている。誰一人とはオーバーな表現だが、当時、私が訪ねた福島市の状況は、正にそれに近いものだったことは云える。
 被告の家族達のなかで、商売をしていた者は商売が成り立たなくなり、勤めをしていた者は職場を変えていた。被告の子弟であることをかくしての勤めであることはいうまでもない。経済的にたちゆかなくなって高校を中退した弟妹も何人かいたが、中退しても採用してくれるところがなかった。折角勤めた者も、被告の身内と知れると、やめなくてはならなかった。住所を変えた家族もいくつかあった。親類づきあいまで無くなる始末だった。それほど、周囲の眼は冷たかったのである。
 私は、夫の無罪を訴えて、全国をまわっている母の留守を守っている、十才に満たない姉弟の家に一泊させてもらった。北国の、三月の風が、吹き抜けるような掘立小屋であった。夫の身を思い、残して来た子供達の上を思って一夜を過ごしているに違いない母親のこと。頑是ないほおに涙を残し、抱き合うようにして眠っている姉弟のことを考え、寒さと斗いながら、遂にまんじりともしない一夜を明かしたことを、つい昨日のことのように思い出さずにはいられない。
 彼等にとって、文字通り、五尺の身体を横たえる場所すら無いという情況だったのだ。そして私も、「被告は犯人と思えない点があるのですが」と云いかける度に、「何を云うか」という顔で否定され、怒鳴りつけられた。疑問など、てんで聞こうともしなかった。耳を傾けるどころか、受け付けようともしなかった。警察や検察陣のすることにウソはないという通念に支配されているだけのことなのは確かだったが、日共が、市民に悪感情、悪印象を与えていたということも否定できなかった。これは、体制側の宣伝工作の結果とだけいってすますことのできない事実のようだった。

 第二回目は、最高裁の判決が近づき、巷間で、その判決をめぐっての取り沙汰がだんだんたかまってきたとき、雑誌「文芸春秋」での「犠牲者の家族、容疑者の家族」をルポするためであった。松川事件がマス・コミに、あれほど取り上げられながら、被告の留守家族の実状が紹介されなかったように、犠牲者の家族のことが一度も記事になっていなかったのは、おかしなことだった。共通の被害者であり、家族だけの立場に限っていうなら、「再び帰って来ない、再び見ることもできなくなった」犠牲者の家族の方が、深い悲しみの中に突き落とされたまま生きてきたと云ってよいかもしれない。それこそ、「死んだものは再び帰っては来ない」という言葉を全身で噛みしめて生きてきたのが、三人の犠牲者の遺族だったはずだが…。そして、「生き残った者は、死んだ人達のために何を云い、何をしなくてはならないか」を考えなくてはならない時にきていた。そんなことを考えながら福島に着いた私は、曽て訪れた時との、あまりの違いように驚きの目をみはったものだった。被告の家族達の生活は、安定したとは云えぬまでも、悲惨な影は見られなくなっていた。不安な中にも、全国的な組織に守られて、期待をもって待てる日々を送れるようになっていた。私が泊めてもらった姉弟の家は、狭いながらも新しい家に変わり、姉弟も成長していて、寂しそうな表情を汲みとることはできなかった。思いがけない試練に鍛えられて、社会科にすぐれた能力を発揮する子供に育っていた。市民の態度も一変していた。十人のうち、五人までが、「サァネ」と答え、「彼等でないとすると誰だ?」という方に、むしろ興味の中心は移っている感じだった。
 だが、それと対照的だったのは、犠牲者の家族の表情だった。置き忘れられた人達の怒りと不満に満ち満ちていた。とくに、マス・コミ関係で、彼等の家を訪ねた者が一人もいないことは、がまんのならないことのようだった。まして、事件当時、被告を真犯人であるように書き、今は犯人でないかのように書く態度に、噛み付きたくてならなかったのではないかと思われるほどに、待っていたとでもいうように、私に噛み付いてきた遺族もいた。あれから一年近くが経っている。あの人達は、どう変わったんだろうか。あの町の空気はどうなっているだろうか。それは、私にとって、なんといっても興味深いことだった。長い時間を経て、ポツンと出かけて行った私にとっては、変わったと強く感じられるほどの変わりようでも、あの町にとっては、あの人達にとっては、少しずつ、次第に変わっていったのに違いない。その変わり目の渦の間に、黒い噂をもてあそぶ人達の気持ちが滲んでいるのではなかろうか。ささやかな根拠を抱きかかえている人がいるのかもしれない。これらのことを、すっかり顕在化することによって、黒い噂に終止符を打つことができるかもしれない、と考えて、やっと肩の荷を下ろしたような気持ちになれた。

 

  (二)

 Sの投書に登場した人々を訪ねて、福島を皮切りに、郡山、会津、宇都宮をかけ廻ったが、やはり、福島の変わりようには驚かされた。前の経験もあって、予想しなかったわけではないが、宿屋の女中さんから、靴みがきのおじさんまで、私の問いに対する答えは一様だった。曽て、松川の被告はシロだという人を探すのが困難であったと同じように、今はクロだと答える者を探すのは困難であるように見えた。そして、それは尋常な状態とは思えない。一種奇妙な感じであった。

 福島で私は国鉄職員のT氏を訪ねた。投書者Sが、当時の事情に最もくわしい人として、第一審に名前をあげている男だ。T氏は五十年輩の、でっぷり肥った男だった。私は、Sの言葉を引き合いに、ズバリ聞いてみた。T氏は明らかに困惑していた。そんな表情をあらわに示して、名前を出されたのでは、何も発言できないという。「当時、被告をクロだと断定したのはたしかだ…」と云いながらも口ごもる。今はどうなのですかと畳みかけると、言葉を濁して、クロともシロとも云わない。僅かに「赤間の自白はデッチアゲではないと思う」と云っただけにおわった。それが、今日のT氏を支える立場であるようだった。次に、Sが、当時列車転覆を予感していた男として名前をあげたH氏を訪ねた。H氏は、T氏が一くせも二くせもありそうな、小政略家的タイプに見えるのとは対照的に、生真面目そうな四十男だった。
「Sさんから、そのように云われたことは、わしとしては大変迷惑です。わしが、あの事件について半信半疑なことははっきり云えます。彼等がやったかもしれない。やらなかったかもしれない。そのことについては、当時も今も、私にはわからないのです。それに、検察の発言にも、弁護団の反論にも、これという決め手はないじゃありませんか。わしとしては、わからないものはわからないとするだけです。Sは、国鉄労組を割るために活躍したような人。何が何でも、日共を否定しようという立場に、わしの発言が利用されたんじゃやりきれません。まして、現場にもいないSには、わかりっこない筈です。ためにする投書としか思えません。」
 H氏は、にがにがしげに語った。引き合いに出されたことが、全くやりきれないという気持ちが、顔にも、言葉のはしはしにも、はっきりあらわれていた。
 投書には名前を明かしていないが、特に名前だけ聞き出したA氏を探した。宇都宮にいることを探しだして訪ねてみると、ここでも、Sの期待する声は聞けなかった。
「Sは売名的な男ですからね」と、かえってSへの批判が飛び出す始末。しかし、A氏が、自分の立場から、当時のことを悲痛な面持ちで語ったのは、私に印象的だった。
「松川事件がおこる前に、福管事件というのがありました。福島の管理部長をカンズメにした事件です。これなど、部長室前に静かに待機していた組合員の中に、進駐軍がジープで乗り入れ、組合員を掻き廻したのです。それで、組合員が激昂して、部長室をこわすということにもなったものです。黒い手が延びていたかどうかわかりませんがね。今一つ、私自身が郡山に出張中に、あの事件がおきたのです。私の留守を狙われたという感じが強いのです。私なんか年輩で、穏健派ですから、いれば、事件の性格もかなり変わっていたのではないかと思います。本当に残念なことだったと思います。」
いかにも残念そうなA氏の口ぶりであった。
 当時の状況を聞こうと立ち寄った新聞社では、「日共の連中はひどかったですよ。どんな記事を書いても、警察とグルになって書いていると云うんですからねぇ。記事のためにおどされた記者もいましたからね。そのおどし方が、またひどいんです。何故こうも私達が敵視されなくちゃならないのか、私達にゃわかりませんでした。一言でいえば、おごりにおごっていたと云うんでしょうかねぇ。共産党員じゃなければ人間じゃないという感じでしたから。」
 今更、こんな云い方も照れ臭いというような顔つきで語る記者達であった。
 Sの期待するような記事には、到底なりそうもないインタビューの連続だった。このことは、私にホッとした気持ちを与えてはくれたが、そうとばかりは云い切れぬ思いもあった。福島地区で「クロだ」などと云おうものなら、とんだめに会いそうだという状況は、やはり正常ではない。曽て、彼等を犯人と決めこんだと同じような誤謬が犯されているのではないか。
 ここには、自ら考える姿勢も無ければ、考えを自由に云えるような空気も無いようだ。昔も今も、ここには思うことを率直に云わせない空気がただよっているようだ。こんなことが、黒い噂を隠微に撒き散らす根元となっているのかもしれない。
 が、それでいて、それだけに終わらないのが、この地方の人達と松川事件の関係だと云えるようだ。この地方で会った人達のうち、六割から七割ぐらいが、広津和郎氏の「松川裁判の問題点」を読んでいる。単なる聞きかじりや、噂話ではすまされないものが、彼等を把えて離さないように見える。事件は他人事ではなかったのだ。ある人はこの事件を「敗戦のショックより大きかった」と云い、また、「人間というものがわからなくなった」と語る人もあった。本で読むにしろ、考えるにしろ、表面をなで去るだけではすまなくなった人の姿を見る感があった。松川事件という一つの突発的な事件をきっかけとして、渦は、深く広く拡がっていった。勿論、事件そのものも解決を見ずにここまで続いてきているのだが、多かれ少なかれこの地方の人達は渦に捲き込まれることになったのだ。それが、多くの人に、新たな考える問題を提供し、考える場を作ったと云えないだろうか。改めて、広津和郎氏が、あれだけのエネルギーを注ぎ込んだ、というよりも、松川事件があれほどのエネルギーを引き出し、広津氏をも変えたという感慨を深めた。これは勿論、それに感応できた広津氏への評価を下げる意味ではない。
 ある著名な日共の幹部に、私が見てきた事実についての批評を求めると、即座に、
「君、そりゃ、福島支部を握った民同勢力が、そう考えるようにしむけた結果だよ。新聞なんかも、そのお先棒をかついで、じゃんじゃん書いたからね。」
と、いとも簡単に説明した。そして
「そんな発言にもとづいて記事なんか書いていると、今に大変なことになりかねないよ。」
と、忠告のような、威嚇のような言葉をつけ加えることも忘れなかった。これでは、話にも何にもなったものではない。そういう一面が無かったなどと思っているわけではない。しかし、そうであったにしても、それだけで片付けてしまえないものがあることを理解しようとはしないのだ。こんなことでは、犠牲者の家族までも捲き込んで斗う運動には、発展のしようもないし、マス・コミの体質改善に力を貸すなど思いもよらぬことだ。私は、大いにがっかりしてしまった。
 あれからまた二年余りの月日が経ち、私はトップ屋商売を廃業してしまったが、松川事件のやり直し裁判は、まだ判決を見ない。しかし、松川事件を核として、福島地方の戦後思想史が、自由と権利の意識にめざめていく人々の動きを中心に、その強さも弱さも含めて、書かれるべき時期に来ているように思われる。

 

                 <日本のもう一つの顔 目次>


      3 原爆と私
         広島、長崎県民の平和思想史を

    (一)

「小隊長殿!ゼッ前方に屍体が…」
 声にもならぬような震え声が、突然私の耳に飛び込んできた。軍命令で広島に急行中だった私達の舟艇が、ちょうど岩国沖にさしかかった時だった。兵隊が指さす方向には、たしかに、うつぶせになって潮の動きに流されている屍体が認められた。しかし私を驚かせたのは、屍体があることではなくて、屍体の異様さだった。着ているものが洋服か着物か、判別できないほどにボロボロになっている。そのうち、胴体や腕だけが流れてくるのが目に入るようになった。
「オイッ。女だ。女が流れてくる。」
「イヤ男だ。」
 兵隊達が云い争う前から、私も、その屍体を見つめていた。着ているものから判断すると女のようだが、丸坊主姿はたしかに男と思いたい。さっきのボロキレ姿の屍体といい、これは古いものではあるまい。広島の被害者に違いない。それにしても、広島の被爆の状態が尋常なものではないらしいことを感じた私は、機関手にフルスピードを命じた。一刻も早く、目的地広島に到着したかった。
 宇品に着いたのが午前九時すぎ、市街地はなおくすぶり続けていると見えて、広島の上空は、どす黒い煙におおわれていた。こうなると、何度かやって来たことのある広島の街を、この眼でたしかめて見ないではいられなかった。コナゴナになった窓ガラス。こわれた戸、崩れ落ちた壁、傾いた家を横目で見ながら、御幸通りを駈けるように歩いていた私だったが、御幸橋の所で、私の足は釘付けにされてしまった。あるべき街がきれいになくなっている。あとかたもなく消え失せているのだ。僅かに、福屋(デパート)、広島文理大、市役所など、三、四の建物が残っているのが、かえって不気味に見えた。ふと、御幸橋の石のてすりが無いのに気がついた。よく見ると、一メートルぐらいの間隔で立てられている、15センチメートルぐらいの石の柱が、根本からポッキリ折れている。そのまま川に落ちたのだろう。反対側の手すりは、橋の上に、きれいに仆れていた。百メートル近くもある橋だ。爆風の強さに恐れを感じた。
 はじめは一寸、のぞいて見るぐらいのつもりだったのだが、私は、もうそのへんで引き返すことができなくなってしまっていた。一度は立ち止まった足が、今度は逆に、ぐんぐん引っぱり込まれるような形で、人といわず、馬、犬といわず、ただルイルイと屍体の重なりあっている中を歩きつづけた。昂奮、驚き、怒り、私は何を考え、感じていたのだろう。ただ無我夢中で、無暗と先を急いでいる者のように歩みをとめなかった。気がつくと、国泰寺の墓地近くにいた。旧浅野家の菩提寺であったこの寺の墓地は、かつては、静かな濃い緑に包まれた安らぎの場所であった。ゴロゴロと仆れている墓石と抱き合うようにして死んでいる、屍体は、どれも、男女の区別もわからぬほどに黒こげになっている。墓地をおおっていた木は何処に消えたのか。僅かに残った大木の切り株まで黒く燃えくすぶっている。誰かを探して、狂気のように走り去っていく人影。屍を焼いているらしい人の群もあった。そんな中を、ボサボサの灰色い髪に、青黄色いように汚れきった顔、ボロボロの布を(それはもう衣類とは云えないものだった)まとった人びとに何度もぶつかった。彼等は一様に、汚いだらけの中で、余計きわだって白く見える繃帯を巻き、筆のようなものをさしこんだ、クスリビンを持っていた。ヤケドの薬だったのであろう。ウツロな、焦点の定まらぬ眼は、通る人を見ているというふうにも見えなかった。突然、その中の一人が呻くような声をあげた。
「兵隊さん、たのむけ、この敵討ってつかあさい。」
たしかに、その言葉は私に向けられたものだった。瞬間、何かが、私の身体の中にキリキリッと切り込んでくるのを感じた。はじかれたように私は駈け出した。男の顔も見ずに…。そこに、私は到底立ってはいられなかったのだ。
 それから五日間、私達の仕事は、宇品から似島病院に、おもに非戦斗員の負傷者を運ぶことだった。片道わずか三十分あまりの道のりの間に、きまって何人かが息を引きとった。「水をぶっかけてくれ!」「海の中に放り込んでくれ」と叫ぶ人々。似島病院は呻き声で埋まっていたし、屍体は焼いても焼いても、きりがないようだった。遂に焼くのが間に合わず、穴を掘っては埋め、掘っては埋める始末、それでも処理しきれなかった。
 素朴ながらも、全身で真宗に帰依していた祖母の手で、事あるごとに焦熱地獄の図を見せられて育った私も、大きくなるにつれて、記憶も薄れ果てたようであったが、紙屋町の一角に立って以後、再びよみがえった地獄絵図の記憶は、この世の地獄のようなあの光景と重なりあって、私の脳裏からは、絶対に消え去ることのないものとして焼きつけられてしまった。戦うことの恐ろしさ、現在、自分が軍人であることのやりきれなさ、苦しさに身をもだえたのは、敗戦を数日後に控えた、この時であった。どのような理由があり、どんな目的があったとしても、戦争という手段、原爆を行使することには絶対に共鳴できないという私の立場が生まれたのも、またこの時であった。

 岩国到着を知らせるスチュワデスの声で、私の回想は断ち切られた。既に、飛行機は着陸のために機首を下向けていた。私の目的地は広島だったが、広島直行の飛行便の無い頃だったので、一旦、岩国まで行き、そこから汽車か自動車で引き返すしかなかったのだ。第十五回目の終戦記念日を迎え、原爆医師原田博士のインタビューをとるのが、今回の私の仕事だった。
 何時もなら、飛行機に乗ると取材の準備をする。準備が不要の時は、久しぶりに得た自由な時間を、読みたい本を読むことに費やすことにしている。この時も、勿論、バッグの中には一、二冊の本を持っていたし、羽田を出るとすぐに、その一冊を開いたのだった。だが、二、三ページも読まないうちに、今度の取材が、イデオロギー的関心や、知的関心とは別に、私を捉えるものがあることを考えはじめていた。
 原爆と私。私にとって、いっきょに十五年の才月をさかのぼることはたやすかった。大阪での乗りかえで一杯の紅茶をすすっただけで、とうとう岩国までの三時間あまり、私は、当時の回想の中に、すっかり身をゆだねていたのであった。岩国空港を出る時、形式的ではあるが、一旦、車をとめて、点検を受ける。日本の中の外国。それが戦後十五年の今も尚続いているのだ。勿論、被爆者の不幸も今尚続いている。時が時だけに、米空軍が利用している岩国空港のことが、私の気持ちをもう一つ重くするのだった。

 

  (二)

 翌朝、早速、原田博士を訪問した。「本日休診」という札が下がっている。個人病院らしく、こじんまりとした建物は、本建築とは云えぬ粗末なものだった。爆心地から一キロも離れていないこのあたりは、被爆当時はさぞひどかったろうと思いながらベルを押した。出てきた看護婦さんの話では、今日はゴルフに出かけて、夕方でなければ帰らないとのこと。来意を告げ、夕方出直して来ることを約して病院を出ると、私は爆心地に向かって歩き出した。間もなく爆心地にあたる相生橋の上に着いた。見ちがえるほど立派な橋にかわっている。
 私が戦後の一時期、広島に住んでいた頃は、何時落ちるかと思われるような応急の木造橋だった。被爆当時、この川が、水を見ることもできないほどに、水を求めて川に入った人たちの屍体で埋まっていた有様が、ありありと目に浮かぶようだ。網膜にやきついたその光景を振りはらうように、原爆ドームの横を通り、平和通りに出る。バカデカイ道だが、よくできたものだ。昭和24年春、私がこの地を去るころ、このへん一帯は、まだ瓦礫の山だった。どこを掘っても人の骨が出てきたものだ。三十年はペンペン草も生えまいと云われたこの土地だったが、被爆の翌年には夏草が生い繁り、翌々年には背丈を越えるほどの成長ぶりが、逆にわびしさを感じさせたものだった。ピストルの乱射事件、数においても、その純潔度においても、他の都市と比較できない性格をもっていると云われた売春婦。それが、肉親といわず、富といわず、すべてを一挙に失った広島の人間の性格を物語っていた。敗戦後の激動は、全国的なものであったろうが、そこに広島の特殊性を考えないわけにはいかない。平和運動のはいりにくいところであった。原爆への激しい憎しみと恐怖は、そのままアメリカへの憎しみであり敵対であり、被爆せぬ人達へのシットともなった。
 だが、今、街はウソのように復興している。原水爆反対の世界大会に、生き残った被爆者達がかなり参加するように変わってきた。
 夜になって、もう一度、原田博士を訪ね、帰宅されるのを待った。 博士は広島市の医師会長もしたことのある、なかなか恰幅のよい人だ。それに加えて、戦後十五年間、原爆の施術にじっくり取り組んで、それをやりとげてきた人らしく、何かをなしとげた人に共通の、意志力と、自信と豊醇さを顔にも姿にもひそませていた。博士はおだやかな口調で語った。
「当時、私は軍医として台湾にいました。原爆のことを耳にした時、もし、私が日本に帰ることがあったら、原爆治療を自分の生涯の仕事にしようと決心したのです。間もなく、私のたった一人の姉が被爆して、全身まるこげになって死んだこと、息を引き取る間ぎわに、私がいたら助けてくれたろうに、と云って死んでいった知人が多勢いたことを耳にしました。私の病院が、あとかたもなくなっていたことは云うまでもありません。帰国した私は、何とかして病院を再建しようと努力し、やっと21年暮れに治療を始めるところまで漕ぎつけました。私の病院が、病院の再建では最初のものでした。病院の再建に一年半もかかったことを考えただけでも、被爆後の市民の状態が、如何に不安定なまま放り出されていたかがわかっていただけると思います。それだけではありません。この頃になって、被爆者の傷口が、ようやくふさがりはじめていたのですから、被爆の際に受けた傷が、どんなものであったか、素人の方達にもご想像がつくでしょう。
 私は、先ずガラスを身体から取り出す手術を、つづいてケロイドの整形手術を始めました。私のとったのは「有茎弁植皮法」という方法です。はじめにお腹の皮膚を手に植皮し、それを更に、首とか、足に持って行くのです。この手術には、一人のそれに、半年も、それ以上もかかるというものでした。二年間ぐらいに、被手術者は数十人でしたが、手術の回数となると、それの数倍となる有様です。その後、「デルマトーム」という、皮膚弁採取機を使って、手術の能率をあげることができたのですが、そのうち、十人に一人は、ケロイドが再発するのにぶつかりました。当然のことですが、手術を中止しなければなりませんでした。 レントゲン療法による対策を発見したことで、この難関も、ようやく乗り越えることができました。本当に、この時は嬉しかったものです。
 でも、問題は経済面にもありました。被爆者の多くは、生活力を剥奪されて、極貧の状態にありました。助かるべき命が、かなり失われたと云ってよいでしょう。原爆治療対策協議会が発足したのが昭和27年。28年にはじめて、年末助け合い運動から、広島、長崎に350万円、29年に厚生省から一千万円の研究補助費が出ました。新聞、雑誌が書いてくれるようになったのもこの頃です。国が治療費を持つ原爆病院の創立は、昭和32年です。しかし、他の病院での治療には金が出ない。開業医の力では限度があります。」
 原田博士の話は、つきることがないばかりか、ますます熱をおびてくる。既に原爆治療には、一定の対策もできあがっている。しかし博士にとって、問題は治療だけにとどまることはないのだろう。博士の頭の中は、その問題で一杯のようだった。気がつくと、十二時をとっくにすぎていた。

 宿に帰った私は、なかなか寝つくことができなかった。寝巻から出ている自分の足を、私はしみじみと見ていた。ふくらはぎから足くびのあたりまで、黒紫色の斑点が、大小重なりあっている。戦後何年も経ってからできはじめたものだ。毎年、幾つもできる。特に痛いわけではないし、原爆症ではなかろうと云った医者もいた。外見してだけの話である。妻が時々、精密検査を受けてはと云う。歯ぐきから血を滲ませることも多いからだ。しかし、そういう妻も、決してしつこくはすすめない。そんな時の彼女の顔には、不安な影が、とりつくろった笑いの裏にかくされている。被爆直後の街を歩き廻ったという事情が、取り除くことのできない不安となって、私達を包んでいる。しかも積極的に検査を受けることもまた恐ろしいのだ。私の身体が不調なとき、私と妻は、常に「もしや」という恐れにおののいている。そして身体の調子がいい時でも、この足に印されたみにくい斑点が、私に原爆の痛みを忘れさせることを許さない。そして、この痛みの消え去らぬ限り、私にとって原爆は許せない。このことに関する限りは、絶対と云ってよいのだと思う。眠れぬ私の脳裡には、原爆で死んだ、幼な友達、学校の友達のことが、次々に浮かんでくるのだった。

 

   (三)

 それから一年、また八月六日がやってきた。そして「現代のガンクツ王」とでも云うか、広島の原爆ドームの守り番として、原爆憎悪の執念を燃やしつづけている吉川清さんをインタビューするために、私は広島を訪れた。
 広島に着くと、私は原爆ドームから三百メートルも離れていない、相生橋の下流に面した旅館に宿をとった。部屋の窓から、ドームが手にとるように見える。平和記念館や資料館も坐ったままで見える。
 一年の間に、広島の街は、もう一つ活気を呈したような感じがする。これが、曽て、廃墟と化して、数十年は人も住めぬと云われた幽鬼の街であろうか。そんな名残りを全くとどめていないこの街で、たった一つ、当時の原形そのままの姿を残しているのがドームである。あの苦しみの名残りを見るのは、かえって苦しいから、ドームを取り除きたいという声や動きが、最近とみに盛んになり、それに対して、吉川さんが生命をかけてドームの撤去に反対しているというのだ。悪夢のような思い出は、早く忘れ去りたい。思い出すきっかけになるようなものは無くしてしまいたいという感情も、わからないことはない。いやなことを忘れたいのは人情だし、本来なら忘れられるかもしれないのに、思い出させるものがあってはやりきれない。だからといって、取り除いてしまったら、綺麗さっぱり忘れてしまえるのだろうか。それに、忘れることができたら、忘れてしまう方がよいものかどうか。

 吉川清さんが、インドのニューデリーで開催中の世界平和会議に出席中で留守だと聞いたときは、全くガッカリした。やむなく、吉川さんの奥さんから話を聞くことにした。
「ドームは補強をしないので、少しずつ崩れています。壁の落ちる音を聞くと、私はドキンとします。ドームが崩れるときが、主人の仆れるときではないかという感じがするからです。それほど、ドームと主人は一体になっている感じです。
 昭和26年に病院を出てから、ここに住みついて、自分のケロイドの痕を皆さんに説明する生活をしているうちに、何時か、自分の運命とドームの運命を一つに感じはじめたようです。ドームを崩そうというなら、まず、そのナタを自分に打ち込めと云うのです。主人は本気でそう考えています。」
 夫人の眼には、涙が一杯たたえられていた。何とかしてドームを補強してもらえないかという声は、夫の身体を思う切実な気持ちで充たされていた。
「あの時、私は洗濯物を干していました。ピカッとしたので、瞬間、思わず手を眼にあてていたので、眼はやられずにすみましたが、両臂の裏側から、首、腹、背中、両足と、身体の前半分をやられました。気がついてみると、ズロース一枚になっている始末。でも、恥ずかしいなどという気持ちなんて、ちっともおこりませんでした。主人は、勤めから帰ったばかりで、B29が来たというので、わざわざ見に出たところをやられたのです。主人を見ると、皮膚がジャガイモの皮のように垂れ下がり、身体のあちこちに赤身が出ているのでびっくりしました。
「顔をやられなくて、よかったの。」と云った主人の言葉を、よく覚えています。夕方近くに、ようやく二里程離れた小学校に辿り着きましたが、着くとすぐ私は失神してしまいました。それから十月中旬まで病院にいたのですが、その間、竹を切った上に寝ている夢、太鼓橋の上に寝て息苦しい夢、砂の上に寝ていて、砂が肌に食い込んでくる夢などを見つづけていました。でも主人の方が、私よりもずっとひどく、何度も、もう駄目だと云われたのですが、どうにか持ち直してきたのです。四十度の熱が一ヶ月以上も続いたこともありましたし、よくも生きたものと思います。
 敗戦を知ったのは、八月二十日頃だったでしょうか。十月に一緒に退院はしたものの、主人はケロイドにかかっている関節部分が破れ、それにひどい栄養失調で、翌21ねんの2月ようやくまた入院させてもらい、26年四月に退院するまで、五年間に十六回もの整形手術を受けました。退院してからは、ずっとここで土産物を売っていました。」
 吉川夫人の眼は、話している間じゅう濡れていた。何度話しても、その話はナマナマしく、彼女の涙をさそうもののようだった。
 こうした深い悲しみと苦しみの故に、吉川夫妻にとっても、原水爆反対、平和運動に立ち上がるためには、数年間を必要としたという。あまりにも厳しい運命の前に立たされて、理屈では肯定はしていても、感情では、なかなかついていけなかったと云うのだ。
「ほうっておいてくれ!」
「あなた達に私の気持ちがわかってたまるか」
多くの被爆者達が吐き捨てるように云ったと同じような、こういう言葉を、吉川夫妻もまた口にして、運動には背を向けるようにして生きて来たのだった。
「自分で被爆しても、それでもなお平和と云えるか」という言葉を、平和を叫ぶ人達にぶつけたい気持ちを持ち続けてきたが、それも歳月が次第に冷静さを取り戻させてくれた。今では平和運動の先頭に立つようになったのだが、「でも、一度、その立場に立ったら、そこから退きようのない強さを持っている、それが、この運命と取り組んできた私達の、他の人達と違うところと云えるでしょう。」
 きっぱりと云い切った夫人の言葉のうちには、テコでも動かぬ強さがみなぎっていた。それは、涙に明け暮れた長い試練の上に築き上げられたものの持つ、限りない力が感じられた。

 今、原水爆反対運動の内部は、ますます分裂を深め、一見、統一への可能性は無いかのようだ。だが、原爆がもたらしたもの、原爆に対する意味を、深く静かに追求していく者から見ると、こうした分裂は、まさに不思議と云うほかはない。統一への根拠を発見することは、いとも容易に見えるのだ。それに、広島県、長崎県の場合、どんな町や村にも、原爆で知人や友人を失った者はかなり多い。こういう人達が、運動に包みこまれずに放置されている。国際面における中立外交と民族的規模をもった原水爆反対の問題との関係を追求してみることも残されている。やはり、原水爆反対を統一的に、民族的規模で進める者は、原爆孤児の中から出現するまで待たなくてはならないのであろうか。原水爆が教条主義や体験主義を越える重さを持っていることを知りうる者が、彼等でしかないとすれば、現代は悲劇と云っていい。現在のイデオロギストに、その重さがわからない筈はない。広島、長崎の両県民の ピカドン観を丹念に追求していくところに、意外にその解決の道が発見できるのではあるまいか。私にはそう思えてならない。

 

                 <日本のもう一つの顔 目次>


      4 横目でにらんだ安保斗争 
          立ち遅れていた統一戦線の理論

   (一)

 新安保が単独強行採決された、昭和35年5月20日から、自然成立の6月20日までの1ヶ月間は、不発に終わった昭和22年2月1日のゼネスト前後の政治状況に近かったと考えてもいい。デモとストの為の動員数も、日本の史上最高のものであった。この、安保斗争にまるきり民族の全エネルギーを投入し、連日その渦の中に生きていたかのように見えた期間、安保とは全く無縁な、さまざまな事件が、それも平常と少しも変わらぬ多彩さでおこっていた。それを不思議なことに感じながら、そんな記事つくりに、私は日夜動きまわっていた。私はその中に捲き込まれていた。一方に怒涛のような斗争の高まりを見つめ、一方には全く異なった世界を見つめていた私は、何時か渦の外に立っていたのだ。渦の外に立ったトップ屋は、その故に精一杯の能力を動員して考えねばならない問題を抱くことになった。だから私は、ずっと安保斗争を横目でにらみ通して終わったということができる。
 昭和33年の警職法反対に成功した反体制陣営が、岸内閣の新安保成立反対のための「安保改訂阻止国民会議」を発足させたのは昭和34年3月だった。そして、4月16日には、第一次の統一行動を組んだし、その後、第二次、第三次と統一行動を盛り上げていった。だが、その中で、「安保改訂阻止国民会議」の中心的存在である日本社会党の内部は、西尾末広の7月19日の「安保阻止よりも、まず現行条約にかわる新しい日米安保体制をどうするかということがないと駄目」という発言をめぐって揺れはじめた。西尾発言の批判的吸収ができるかどうかは、安保反対の成否を握る「カギ」の一つでもあった。すぐれて、危機における統一の問題であり、解決しなくてはならないものでもあったが、党内統一の為といって、いともあっさり西尾を除名した(私にはそう思えた)。勿論、収集策には失敗。9月12日に開かれた社会党大会は16日に休会。やっと10月16日に再開したが、翌17日には西尾派の脱党となり、社会党は、この重大時期に再び分裂するという状態に引きずりこまれた。講和条約をめぐって、戦後第一回の分裂をやってのけた日本社会党は、その延長線上にある安保改訂をめぐって、またもや分裂をしてしまった。
 11月27日の第八次統一行動は、全国的に組織され、動員数30万人におよんだ。統一斗争という意味では、これが頂点にあったと云うべく、そのあと、その際に国会に突入した全学連の行動をめぐって対立がおこり、斗争の過程を通じて、意見の対立が克服されるどころか、逆に亀裂を深めていくことになった。この時期こそ、反体制側の統一戦線への可能性を追求し、その課題と取り組み、ぜひとも解決しなくてならないものであったが、次いで起こった、安保条約調印のための岸渡米反対の羽田動員をめぐって、対立は更に決定的となるばかりだった。私など、ただヤキモキしながら、あるいはイライラしながら見ている以外に、なすすべもなかった。
 そして、この羽田デモの日、東大の樺美智子さん、女子美術大の下土井よし子さんの二人の女子学生が検挙され、トップ屋として、私は、はじめて安保斗争にかかわりあうことになった。

 

   (二)

 私の仕事は、東京都内の女子大めぐり。彼女達の思想と行動の背景をつぶさに追求するのが役目であった。何が彼女達をそのような行動にかりたてたのか、一人一人の思想形成の内面にまで入りこんで、できるかぎりくわしく把みたいと思う。若くて、元気な女子学生と、じっくり話ができるということも久しぶりのことで、私にとって、なかなか心楽しいことでもあった。皮切りはT女子大学。何時来ても、校門から表玄関に通ずる芝生の庭は、清々しいほどによく整理されている。1月という季節の故か、それとも安保反対で心せくためか、何時もなら芝生に坐って、明るく語り合っている学生の姿が、一人も見当たらない。私は自治会室の前に直行した。室内に入った途端に、この大学の、静かで落ちついたムードが全く無いことに気づく。それどころか、殺風景でガランとした感じである。
「あなた、どなた。」と、つっけんどんに問われて、もう一度驚いてしまう。
「週刊Lのものですが……」
云いかける私の言葉を終わりまで云わせずに、
「アラ、そう。どうせ、アラ探しにやって来たんでしょう。」
「よくわかりますね。」
「そんなこと、聞かなくたって、わかるわよ。週刊誌なんて、どうせエロ・グロ趣味で、どんな問題だって、興味本位にしか書かないにきまってるわ。」
 私は、改めて、畳みかけるように、まくしたててくる、その女子学生の顔を、つくづくと見つめた。部屋には数人の女子学生がいたが、私の姿を認めて話しかけてきた学生は、その中のリーダー格のようだった。一筋に何かを追求している人間に共通するものが、彼女の顔を生き生きとした個性的なものにしていた。その意味で、なかなか魅力的な女の子であったが、彼女も、イデオロギーを追求している学生にありがちの、排他的で独善的傾向の持ち主のようであった。ちょっと面倒だな、と、瞬間思った。
「ホウ、あなた、週刊Lを読んでくれているの。そりゃ有り難い。」
「馬鹿にしないでよ。私、それほど低級じゃないわ。」
「これはどうも。それで、よくまあ、私が来た目的がわかったり、週刊Lがどうのこうのと云えますね。」
 一瞬、彼女は顔をこわばらせたが、すぐ、突き放すように云った。
「私、忙しいんです。あなたの相手なんかしている余裕なんか、ありませんわ。失礼します。」
云うだけ云うと、私の言葉も待たずに、彼女はクルリと身体をひるがえして、その場を離れようとした。
「君、君、一寸待ってくれ給え。君が私達に反感を持つのは無理もないかもしれない。怒りたくなるのもわかりますよ。だからといって、君が私にまで怒りをぶっつけることはないでしょう。初対面の人間を、君の先入観でアタマから敵だと決めこんでしまうことはないでしょう。『マス・コミはけしからん』の『まちがっている』のと、いくらせっかちに非難したって、それじゃあ何も好転しないんじゃないかねえ。君達の話を聞こうとやって来た者まで、君のように冷たく拒否するんじゃ、君達を理解しようにも、理解のしようがない。率直に云って不愉快きわまるね。私達がわからず屋なら、この機会に私達を説得するぐらいの意欲はあっていいのじゃないのかね。」
「おっしゃるとおりかもしれません。でも、私達は何度も裏切られているわ。取材するときだけ、うまいことを云って、何度も私達をだましてきたのよ。私達のことを、何かって云えば、お嫁の貰い手がないなんて書くじゃないの。そりゃあ、書くのは勝手よ。でも、そんな云い方が、どんなに封建的な考え方から生まれているかっていうことに、疑問もおこらないのかしら。そういう記者を信頼しろと云われて、私達、信頼できると思って?あなたがそうじゃないということが保証できるの?」
「そうだな。そう云われて、まさか『私は違う』とも云えないね。云えば、君に、おめでたい男だと思われるのがおちだ。『私の眼を見てくれ』なんて文学青年みたいなことも云えない……。だが、今迄に裏切られたからといって、今度も裏切られると決めてかかるんじゃ、やっぱり君達を理解してくれる者は出ようがないだろう。勿論、私は、週刊Lの記事が、そのまま君を満足させるものになるとは云わない。幸い、あなたの大学は、自治会として羽田行きを決定した。N女子大はどうです。あそこでは決定ができなかった。だからといって、N女子大には、あなたの仲間はいないと云いますか。あなた達の羽田行きにしても、放っておいて決定できたわけではないでしょう。ご承知の通りの世の中です。いろんな所で、いろんな人が、精一杯に頑張っている。自由の拡大を進めなくちゃならない職場もあれば、価値観の転換の為に上役と斗わなくてはならない職場だってある。わかるでしょう。今は、忙しくて、どうしても時間が取れないのなら、あなたの都合のいい時で結構です。どうでしょう。」
 彼女はじっと考えているようだった。
「わかりました。私、今本当に忙しいんです。他の人ではいけません?」
「あなたのような頑固な人がいいですね。できるだけ、あなたにお願いしたいですね。」
 彼女は、はじめてニコリと笑った。素直そのものという表情だった。こうして、ようやく、三日後に二時間の時間をさいてくれる約束まで漕ぎつけたのだが、ここに記したのは、私と彼女のやりとりの、ほんの一部にすぎない。彼女を説得するためには、これに何倍する時間と言葉を費やさねばならなかった。適切な表現が浮かばずに、何度も、無様な姿を彼女の前にさらしもした。
 このあと、私はスケジュールに従って、次々と女子大学を訪問したが、その先々で、形こそ違うが、同じような問答を繰り返さねばならなかった。マス・コミへの不信、特に週刊誌一般に対しての不満は想像以上に強く、それを打ち破るために、私のエネルギーの大半を消費した。次の大学に出掛けるときには、新たな勇気をふるいおこさなくてはならなかった。まるで、マス・コミ論争をしに、女子大学めぐりをしているようなものだった。いやな感じは拭いようがなかった。
 ある女子大学では、
「あなた達は、週刊誌と一口に片付けてしまうが、『世界』と『中央口論』を、一つのものとして、総合雑誌はこうだと、単純な考え方をしますか。まして、個々の論文を同一の立場のものと、一括して考えますか。週刊誌の世界だって、それほど鮮明ではなくても、仔細に見ると違うものです。そこに意味があるのじゃないですか。」
と云って説得したし、また、ある所では、
「思い上がるのもいい加減にしたらどうです。君達が考えるほど、世の中は甘くないなんて、月並みな大人のようなことは云わない。しかし、世の中をもっと深く突っ込んで考えてみる必要があるんじゃないかい。組織論的に云っても、それぞれの主体的条件の異なる、各新聞、各雑誌の統一戦線はどういうもので、それがどう可能なのか、君にはわかっているのかね。考えた上での批判なのかね。是非教えてほしいね。」
とも云ってみた。彼女達を説得したあとの疲労感は激しかった。私は、マス・コミへの不信、週刊誌一般への不信を、一身に受けて弁護に廻っていたようなものだ。それはいい。しかし、私の中に残る徒労感、それは、私が彼女達に説得した際に話した週刊誌一般は、マス・コミは、決して現実の姿そのままではなく、むしろ私の持っている理想像に近いことを、私自身、あまりにも知り過ぎていたからではなかったろうか。これもトップ屋の仕事のうちか。私は無性に情け無くなった。こうやってできあがった記事は、また彼女達を怒らすことだろう。
 説得に大骨折りをした彼女達であったが、一度、お互いの間にコミュニケーションが通じると、彼女達はよくしゃべってくれた。長い時間をかけて、彼女達の一代記を話してくれた。
 Aは、組合活動家の両親から思想的洗礼を受けたと語り、Bは、兄からの指導だったと云った。Cは新聞記者の父親から、自分の専門を通じて発言力を持てと、絶えず教えられたのが出発点だったことを克明に語った。Dは、基地反対斗争の傍観者であったのが、斗争に参加した先輩の話と、新聞の報道との、あまりのくいちがいを見て、それが考え始めるきっかけとなったという。新聞は信じられないと付け加えることを忘れなかった。
「羽田へのデモで、岸渡米を阻止できるなんて思わなかった。でも、私は、この眼で、権力の走狗と云われている人達を、はっきりと見たかったのです。私は見ました。人間とは、到底云えないものを発見してゾッとしました。あの体験は永遠に忘れられないと思います。」と語るB。
「警官になぐられたとき、瞬間、痛いと思った。でも恐くはなかった。人間という感じがしなかった。警官をこんなにしてしまった権力というものを、とことん憎悪する気持ちになりました。」とDは云う。
 彼女達の話を聞いていて、反体制運動の二代目が大量に育ちつつある。伝統になろうとしているということを、私はしみじみと感じた。曾て、トレーズの「人民の子」を読んだとき、労働者の子、組合活動家の子であることを意識し、誇りにしている人々の存在を大層うらやましく思ったものだったが、日本でも、それらの意識が血となりはじめていることを知って、心強いものを感じた。
 だが、その反面、彼女達の、書物を通じて得た思想が、日常的な思想となって、日本の思想的風土をかえていくのは、まだまだこれからだと思わせられた。他方、彼女達の一群とは別に、一応週刊誌を軽視しながら、週刊誌記者になることを望んでいる女子学生が多いことを知ったのも、この女子大学めぐりの結果であった。
 できあがった記事は、予想通りのものだった。彼女達の誠意も意欲も茶化されて終わった。批判なら批判で、まともに取り上げて徹底的に批判すればいいのだ。あまりに非思想的だ。「あいつ、うまいこと云って、やっぱり、これじゃないの。」と云っている彼女達の顔が見えるようだ。現在の私の状況の中で、彼女達を満足させる記事は到底できないのだけれども……。

 

   (三)

 女子学生の記事で、何ともやりきれない思いをしたまま、しばらく安保問題から遠ざかっていた。三月には三井三池に出掛け、四月から五月にかけては岸総理を追う。岸総理を追うということは、新安保の国会批准を控えての動きということになるが、勿論、週刊Lが表面にそれを打ち出す筈もない。それでも、ゴールデンウィークの岸総理に焦点を合わせたとき、この間に、彼が誰と会い、どう自分の気持ちを整理し新安保の批准を乗り切る態勢を固めるか、なかなか興味深かった。それにしても、朝寝坊の私に、政治家の取材は辛い。彼等は、揃って呆れるほどにタフな男達だ。夜は遅いくせに、朝が早いからかなわない。まして、一度としてクラブを振った経験が無いどころか、ゴルフのゴの字も知らない私が、ゴルフに興ずる(?)岸総理の取材ときては、どうしようもない。あわてて、ゴルフ入門書をめくって見たり、テレビ番組のゴルフを眺めたり、さんざんだった。しかも、泥縄式の勉強は結局十分ではなく、書いた記事も穴だらけ。デスクに一喝されたのも当然の成り行きであった。ただ、「すみません」を繰り返すほかなかった。そんな取材に追いまわされて、出てきたのは、表面をなでるような記事。秘書官が極力否定した吉田元総理との会見は、予想通りキャッチすることはできたが、私に意外なショックを与えたのは、安保阻止の国民運動を、彼が殆ど気にしていないこと、彼の頭の中を大きく占めているのは、自民党内の反岸勢力の動きだと知ったことだった。彼や彼の周辺に、危機感も不安感も見当たらず、彼を追いつめているという証拠の片鱗すら発見できなかったことは、私として全く面白くないばかりか大変なことだった。彼はそんな心配に煩わされることなく、ゴルフを楽しんでいた。解散か、社会党を首班とする連立内閣樹立の何れかを必ず斗い取るという決断も、それだけの力も、安保阻止国民会議には無いことを見透しての、彼の余裕と理解された。それを裏がきするように、自民党内の反岸勢力は、この状況の中で、さらに、岸攻撃に安保を利用する余裕さえあった。
 この時期、月の大半をイエローページのための取材に明け暮れ、どちらかというと、体制側にまきこまれている連中とのゆききが多かったにしても、安保、三池などをめぐって、反体制側の絶叫するほどの切迫感も危機感も、私のところまで届いてこないのに、私は何度か途惑った。取材の先々で、安保、三池を傍観している人達にも数多く会った。考えるチャンスも手がかりも無いままに放り出されている多くの人達と会った。デモに参加しようにも参加できない人達、非常な勇気と可成りの犠牲なしには、声援すら送れない多くの人達にも接した。この人達をまきこむために、昭和32、33年頃に、何度か耳にした、総評発行の一般新聞の計画が、何故、この時に生まれないかと不思議に思い、イライラもしたものだった。「新週刊」の発行は、それから二年後である。戦略、戦術というものを本当に考えていたといえるのであろうか。
 たしかに、事態は、「新週刊」のような、反体制側で作る雑誌ができることを必要としていた。しかし、そんな雑誌にだけ、斗争についての役割があったわけではない。各週刊誌は、それぞれのやり方で安保斗争を取り上げた。だが、各誌が安保斗争を取り上げたとき、安保阻止国民会議の首脳陣は、運動の上で各週刊誌が果たし得る、啓蒙、発展、統一の役割の限度を見極めてはいなかった。その役割を見極めようともしなかった。もし、それがはっきりしていれば、(勿論、その為には、常にそれらについての細かい分析と評価が行われていなければならないが)各誌のそれぞれに対して、ある雑誌はこの線までとか、ある雑誌については、この層においての啓蒙とかいう、具体的な可能性も把めた筈で、その実現の為のP・Rも重点的に行えただろうし、単純に、あそこは取り上げたとか、取り上げなかったなどという、直線的な判断を下すこともあり得なかったに違いない。さらには、マス・コミの統一戦線を組む方向も把めたであろうし、マス・コミの体質改善もいかほどかはできた筈である。まして当時、「日本の中立の可能性」を追求し、あるいは「左翼から右翼にいたる革命のプログラム」を描き、水爆戦の恐ろしさを異例のページ数をつかって特集した「週刊L」を、安保問題を取りあげなかった週刊誌と書評紙で批評し攻撃するような愚かさはなかったにちがいない。私の歎きと怒りはつづくしかなかった。樺さんの死のあとの状況は、なおさらそうだった。
 樺美智子さんの死を知ったとき、私はギクンとした。1月16日の羽田デモの時、樺さんが、警官に意識的に狙われたことを、この前の取材で知っていたからだ。6月15日の、あの時も、同じように意識的に狙われたかどうかは想像のしようもないが、1月16日と6月15日が、同じ糸で結びついていたのではないかという思いがしてならなかった。
 安保阻止勢力を軽く見ていた体制側も、樺さんの血が、更に第二第三の血を呼ぶかに見えたとき、云いかえるなら、指導部の意図をはるかに越えて、国民の怒りが火を吹きはじめたと感じた途端、彼等ははじめて、たじろいだ。情況は急速に変化し、もしやの危機感におののいた。国会の赤じゅうたんの上を「革命だ !! 革命だ !!」と絶叫しながら、蒼白な顔で走った代議士もいたということが巷間に囁かれたりもした。結局アイク訪日の中止となり、ついで、岸が辞任を表明した。
 自民党内の反岸勢力だけでなく、財界筋からの、岸辞任の要請もあった筈だが、勿論、私の知るところではない。この数日間、財界の中心部に相当のショックを与えたことだけは事実だ。もし、この時、アメリカのケネディにおけるマクジョージ・バンディのような確実な情報網というより精密な分析力、的確な洞察力の持ち主が、反体制側の指導部にいたら、決定打を打つ決定的瞬間とその対象を把むことは可能だった筈である。そして、三池の斗いにおいても、あの時点での勝利だけは把めたかもしれない。あの当時、私のような一トップ屋だけではなく、いろいろな分野で、多くの情報を得ることのできた記者達。そして、その情報に密度の高い分析をなし得た人達がいた。しかし、それらの個々のものを正確にキャッチし、それに有効性を与えることのできる態勢は、反体制側には全くできていなかった。反体制側の情報蒐集力は、体制側に比べて粗雑であり、一方的であるという弊風は、この際も遂に変わらないで終わった。悪く云えば、やぶにらみの情報によってのみ、作戦を立てていたとしか、云いようがない。
 もし、あれだけの人員を吸収し得た斗争が、人員だけに終わらず、情報の蒐集網というべき大組織を持つことができたら、この一トップ屋も、ウロウロすることなく、本当の意味で戦列に連なることができたであろう。しかし現実は、あまりにも、そんなことには遠すぎた。

 

   (四)

 岸内閣の退陣に、岸を排除しようとした反体制の力、党内の反岸勢力、財界の要請が作用したことはあきらかだが、右翼の強い動きも、忘れてはならないものの一つであった。1月16日の樺さん逮捕と6月15日の樺さんの死を何となく結びつけたように、7月14日に右翼によって刺された岸元総理と、早くから岸総理の責任を厳しく追及していた右翼とを結びつけようとは思わぬが、新安保自然成立の翌日、岸を断罪せずにはいられないかのように、言葉こそ柔らかではあったが、きっぱりと批判した、ある右翼の領袖の言は、まことに印象的だった。すでに五十の年を迎えたK氏は、静かな情熱を内にたたえ、私と相対している間じゅう、おだやかな表情を崩すことはなかった。彼の周囲を取り巻く青年達は、これまた、往年のK氏の姿そのままと思われるような、激情が、光る眼からも、その物腰からも、キラキラとこぼれ出ているように見えた。底知れぬ不気味さをたたえた男、ひきしぼった弓の弦のように、恐いほどに張りつめた感じを懐かせる青年もいて、K氏の静かさとは如何にも対照的だった。だが、私を迎えた彼等は、とても礼儀正しかった。

「アイクの訪日が中止になって、私はホッとしているところであります。アイクが訪日すれば、当然、陛下は羽田にお迎えに行かれる。そのとき、どういうことが起こるか。陛下の御身の安全の保障が無い以上、アイク訪日の中止を要請すべきだというのが、私の考えでした。文書や電話で、何度か、そのことを岸に申し入れたがきかない。やむなく私達は、不測の事態に備えて、決死隊を羽田への要所要所に配置することにしました。いざというときには、陛下をお守りするために死のうと覚悟したわけです。
 お互いに犠牲者を出さずにすんでよかったと思っています。今度の混乱は、すべて岸首相にあると云っていいでしょう。社会党、共産党の責任も責任だが、国政をあずかる者としての責任感の欠如。盡すべきものを盡さなかった岸首相の官僚的態度がひきおこしたことです。強行採決は違法ではないという云い方は、決して一国の政治を担当する者の態度じゃない。アイク訪日の予定日に間に合わせようと強行したことは、アメリカへの屈従を示すもので、民族の独立心は何処にあるのかと云いたい。アメリカへの買弁的意図で、単独採決が強行されたんでは、国民が岸首相に反感を懐くのも当然です。その結果、安保反対勢力が俄然、勢いを得た。岸の失政です。
 新安保は、今の段階では賛意を表すべきものと考えるにしても、カネやタイコで喜ぶものじゃない。不平等条約であることは、旧安保と少しも変わりない。なおさら、盡すべきものがあった筈です。」
「決死隊……それは、皆さんの気持ちとしてはわかりますが、新劇人になぐり込みをかけたと云われていることは、どうお考えになりますか。」
 K氏の顔に暗い影がさしたのを私ははっきりと認めた。青年達の顔が一瞬、緊張した。部屋の中の空気が、息づまるように重苦しいものに変わったのが感じとれた。誰も、身動き一つしない。
「意識的に飛び込んだかどうか、よく調べてみないとわからないことですが、現在、愛国陣営に結集している人達には、ピンからキリまであります。それぞれの考えにもとづいて行動していることですから、とやかく云えませんが、真面目な人達を中心に、悪いものを淘汰、改造していかなくてはならないことは云えます。原則的には、直接行動というか、テロは、私達はやらないことにしています。テロに行くことは、敵に力を与えていく結果になります。戦前と戦後では違います。愛国者と自認する以上、自ら正しくあることが前提です。その正しさで他を清めていくというものでなくてはならないのです。天地に恥じないような行動をしてほしいと思っています。」
「ピンからキリまでいるとおっしゃいましたが、戦前の右翼は、政府、財閥への批判的行動が根本だったのでしょう。さっき、岸内閣への批判は伺いましたが、政府、資本家のお抱えのような人達が、現在の、右翼を自称している人達の中に多いように思われるのですが、いかがでしょう。反共のあまり、政府、資本家とも手を結ぶ。反共、しかる後政府、資本家の攻撃では、右翼本来の維新的伝統は何処にあるかと云えないでしょうか。一番大切な国民大衆のことを二義的にしてはいませんか。」
 私は語りながら、右翼がアメリカ帝国主義の打倒を第一段階に考える結果、同じ陣営内の対立抗争に明け暮れて、徒らに体制側に利益を与えるばかりか、国民大衆を二義的位置においていることを考えていた。
「私達は一貫して批判勢力です。経済的援助を受けることもないし、彼等の為にやったこともありません。」
 K氏の言葉は、なんとなく重たげであった。
「樺美智子さんの死については、どうお考えですか。」
「あの人の死に敬意を払うのは、日本人の道です。願わくば、あの痛ましい死を、共産革命へでなく、民族維新にもっていきたかったと思います。」
「昭和維新のプログラムをお聞かせ願えませんか。」
「明治維新百年祭を目標に、準備を進めています。アメリカ派でもなく、ソ連派でもない日本派を誕生させ、右に保守勢力の腐敗と堕落と無力を批判し、左にソ連、中共を背景とする非日勢力を抑えながら、民族の伝統に即した改革を進めていくことです。資本主義を修正し、農、工一体の自給経済を基礎に、働きたいものが、働く喜びをもって完全に働き得る経済機構を作ることです。分配において、搾取的なものの無い世の中を作ることは勿論であります。
 こうした考え方の者は、自民党の中の素心会を中心に、民社党にも、社会党の中にもあります。」
 K氏の話は盡きるところがない。私は、その足で、自民党代議士約60名でつくっているという素心会の中堅S氏を訪問した。S氏はしきりと、「私は小者だ。会の幹部クラスに会え。」という。だが、老幹部よりも、K氏の薦めたS氏の話が聞きたい。将来、日本の政治勢力となり得るかどうかは、S氏達中堅の器量にかかっていると云ってもよい。真面目な人という印象は強かったが、官僚政治家を相手に、彼等をリードできるようになるためには、道は甚だ遠いようだというのが、私の偽らぬ感想だった。しかし、それから既に二年半を経た今日、素心会の名は新聞紙上にちらつきはじめている。

 

   (五)

「テロなんかで、ビクビクとおびえるのは、ニセ指導者だけ。そのために、逆に敵の力を強めるようなテロ行為はすべきではない。」とズバリ私に云いきったのは、右翼のK氏だったが、テロどころか、日本経営者連盟の質問に、学者がおびえるという事件が、この頃におこった。事は、6月16日付で、樺さんの死に抗議する在京社会学者80名の抗議声明に対して、日経連事務局長の名で「抗議文の文案をご承知か」という質問状が発せられたことに端を発した。これに対して、当然、認識不足を怒る者、あわてて弁明文を書く者、内心ギクリとした者が出るに及んで、早速、週刊Lの材料にされることになったのである。
 このテーマは、体制側のやり方と、反体制内部の問題を同時に追求できるものとして、なかなか面白い。真理を追究する学徒として、16日の時点に樺さんの死を扼殺とはっきり認識していたかどうかを知りたいということをたてまえとして、間接的に、社会学者を圧迫しようという本音をうまく遂行した巧みさを明らかにすることは必要なことであった。勿論、たてまえが知りたかったことは事実であろう。それによって、社会学者達の能力というものを的確に把むことは、彼等にとって好個の判断の材料であり、今後の対策の資料となる。それは無視できない。しかも、それを調べるにあたって、抗議文と署名という、問題をはらんだ個所を狙ったところは、心憎いまでの鮮やかさである。反体制内部が、何かといえば軽々に署名したり、声明したりする態度には、明らかに問題を含んでいた。そして、そんな抗議文や声明文が、何か特別の力になり得るような錯覚を懐いている者の多い中で、厳しく明らかにしなくてはならないものを含んでいた。
 私は社会学者を歴訪しながら、日経連の事務局長の質問は気付け薬の役割を果たしたし、あの時点で私のような者に会うことは、誇りと面子から云っても、後退よりむしろ前進を促すことになるなと考えた。私との話し合いの中で、秘かに前進の決断をした学者もあった。週刊Lの首脳部は、当然、社会学者を茶化すことしか考えていなかったに違いないのだが、トップ屋としての仕事の中で、思いもかけぬ役割を果たしたのだった。
 その後、K氏の考えに反して、右翼テロはますますさかんになったが、これの進歩的文化人に与えた畏怖の情は大きかった。殊に天皇問題をめぐる特集の取材は、にわかに困難さを増していった。恐れて発言してくれないのだ。この人がと思われるような人が、可成りいた。一般は、テロの影響の甚大さを問題にしたが、私はK氏の云った「そんなことでおびえるのはニセモノだけだ、それがどうあっても問題にはならない」という言葉の方を肯定した。
 こんな連中は、テロによらず後退させなくてはならない筈である。安保阻止国民会議や、もっと広い意味での反体制陣営の指導部とその周辺には、意外にこんな連中がいる。解散か、もしくは連立内閣を造るところまで、徹底的に斗わなかった理由の一部が、こんな所になかったとは云えまい。いずれにせよ、岸が退陣を表明した6月23日から、池田政府が成立した7月19日まで、一ヶ月にわたって、自民党内の派閥争いを眺めていたくらいであったから。私もまた、池田政府の成立の前後を、ヤミクモに追い廻す一つの存在でしかなかったが……。

 

                 <日本のもう一つの顔 目次>


    5 三池争議
       すぐれた撤退作戦でなくてはならなかった

   (一)

 昭和35年3月17日、三池労組が分裂して、第二組合が生まれたというニュースは、私にかなりのショックを与えた。三井三池に限って日鋼室蘭、王子製紙苫小牧のように、第二組合ができようとは思いもしないことだったからだ。勿論、できないという確たる自信が私にあったわけではない。だが、できようとは、ついぞ思ってみたこともなかった。私には、昭和28年の、あの「英雄なき113日の斗い」をなし遂げ、昭和33年暮れから34年にかけての六千人の人員整理を含む、会社側の合理化案をみごとに後退させた三鉱連、その中核である三池労組の存在は、その支えともなっている炭婦協の姿とともに、まことに力強い存在として映っていた。
 たしかに、第一次合理化案の妥協にあたっての、「追討的な希望退職募集や強制解雇をしない」という約束を破って、会社側が、34年7月に4580名の人員整理を中心とした第二次合理化案を出し、これをめぐっておこったこの斗争も、34年10月24日の三池製作所支部の三池労組からの脱退、35年1月25日、三池労組単独の無期限全面スト突入というように、三鉱連の足並みが、必ずしも揃っていたとはいえなかったが、三池労組そのものが、こんなにも早く割れようとは想像できなかったのである。私のもとには、三池労組の機関紙「みいけ」が毎号送られてきていたが、そこからは、第二組合の匂いなど、全くかぎ出すことはできなかった。だから、私にとっては、寝耳に水のような驚きだったのである。
 第二組合発足の翌日には、二度にわたって炭労に戦術転換を申し入れていた三社連=三井鉱山職員労働組合連合が、とうとう炭労を脱退したことが報じられた。この日、炭労は、三鉱連を包んでの炭労全体のストライキ体制を確立することを指令したが、逆に、これが三鉱連内部の不統一をバクロして、三池以外の五山は、スト突入を拒否してしまった。新安保反対という、国民的規模での総抵抗が組織されていたときであったために、三池斗争はこれとの関連の中で、国民的規模での支援を受けているように思われていたのに、その実、三池労組は、斗いの点では孤立化をすすめるという、大変な状態の中に追い込まれていたのだった。そして、それが明確に意識されていなかったことが明らさまになったわけだ。私は、そのことに暗い気持ちを抱かされた。
 三池第二組合の成立をルポすることになったのは、この時期だった。私は、直接三池に行って、組合分裂を深く探り出したいと思った。殊に、日鋼、王子製紙と、すべて三井系の企業におこった分裂政策をはっきりと知りたかった。

 三月の末、私は仲間のN君と、東京を発って福岡に飛んだ。福岡から大牟田までは電車。やはり目につくのはボタ山である。大牟田駅についた私達は、まず第一組合、第二組合、三池鉱業所の正門前を見る。途中、運転手君が、あれが全労の本拠ですと云う。早速乗り込んで、第二組合の指導をやっているとは思わなかった。どうせ、ここにも寄ってみなくてはなるまい。28日の強行就労、29日の久保清さんの死のあとを受けて、組合がいずれも殺気だっていることは、周囲の雰囲気からもはっきり感じとれた。取材も覚悟してかかる必要がある。宿で一休み。週刊Lへの印象がどんなものか、わかりようもない。まして私は、ここで何を探り、何を書くべきかについて、はっきりと考えておく必要もあった。
 私が第二組合、N君は第一組合を担当することに決めた。しばらく第二組合の入り口に立って、組合事務所に出入りする人達のようすを見る。若い組合員なのか、それとも外部からの協力者なのか、よくわからないが、黒シャツ党を思わせるような、黒い制服の一群がいた。別に、イタリアのそれを見たことがあるわけでもなし、日共から転向し、現在、反共の理論的指導者と目されている三田村四郎氏が指導した組合員だからというので、ファシストを連想したわけでもないが、鉄カブトに、揃いの黒シャツのユニホームは、何となく、そんなムードを発散していた。言葉づかいや態度も、かっての軍隊の集団行動を思わせるようにキビキビしていた。年のころは、せいぜい二十才前後と見える彼等の表情は明るく、生き生きとしていた。私の先入観は、まず入口で裏切られることになった。私は、所謂裏切り者としての後ろめたさ、暗さ、よどんだ眼を想像していたのだ。この連中は一体何者なのか。どうして育ったのか。ここに滞在しているあいだに、トコトン見極めてみる必要があると痛感させられた。
 私は、はじめて、受付に名刺を通した。受付に坐って、私の名刺を受け取ったのも、制服姿の青年であった。好もしい応待ぶりだった。すぐに副組合長のYの所に案内された。Yは、「遠い所をわざわざ御苦労さんです。やりかけの仕事を片付けますから、一寸待ってください。」と云って、私のために椅子を用意してくれた。私は、仕事を続けるYの姿を、じっと観察した。Yは五十才に手が届くかどうかというぐらいの年格好、中肉中背のおとなしく誠実なタイプの男のように見えた。物腰の柔らかさに似て、身体付きにもゴツゴツしたところは無く、炭坑労働者という感じはしなかったが、それでいて、長い労働生活から生まれた芯の強さというか、逞しさは十分に認められた。ただ、先き程、入口で見た若者達から発散していた、意外にさえ思えた明るさは、いささかも感じ取ることができなかった。そこに見た男は、やはり組合を割った男、労働者を割った男だった。しかも、企業をまもるという立場から、組合を割らねばならなかった、根は生真面目な男、第二組合に、大きな精神的支柱をなしたであろう男。私は、やりきれない思いで、Yを見つめ続けた。
 一時間近くも待たされたあと、ようやくYは私の方に向き直った。
「大変お待たせしました。あなたは、第二組合が結成されるまでをたっぷり聞き度いとおっしゃる。私も是非聞いてもらいたい。新聞の報道は、まるで私達を悪者とでも云うような口ぶりです。心外に堪えんです。」
 そう前置きして、Yは語気鋭く語り出した。
「会社は潰れても三池炭鉱はなくならないという考え方に立って、斗争第一主義に立ち、すぐにストをやる第一組合のやり方には、わしは我慢がならんとです。そりゃ、そういう考え方がなりたつのかもしれん。だが、会社が潰れて、そのあとどうなるか。よくなるという見透しなんか少しもない。わしはそう思っとる。戦後の炭鉱国営も駄目じゃった。今はまだ、共産党や社会党が、なんとかしてくれるほどに強くはない。政府や会社の方が強い。斗うだけが能じゃない。記者さん、あんた、そう思わんけ。」
「おっしゃることはわかりますよ。でも、結果的に、第二組合ができれば労働者同士が斗うことになるし、会社の思うツボじゃありませんか…。」
「一寸待ってくれ。みんな、すぐにそう考える。今の組合幹部がどうしても反省せんときにゃ、非常手段に訴えてやらなくちゃならんこともあるのじゃないケ。斗うちゅうばかりいっても、旧労(三池労組)は孤立しているじゃないケ。田川、美唄、山野、江尻、砂川、芦別の五山は、旧労と統一斗争をしていない。三社連も、新労ができた翌日に脱退している。これも職場斗争だといって、職員を職場でいじめすぎた結果じゃけん。職場では、職員は数も少ないし、かないっこない。上からは、会社側にガミガミやられる。あれじゃ、会社側に追いやるだけじゃ。三池の職場斗争は凄い凄いと云って、まわりがおだて過ぎたんじゃ。」
「でも、新労は、やっぱり会社側じゃないですか。一緒になって、働く仲間を追い出そうとしているんじゃありませんか。」
「君!何を云うか。あんたは、とんでもないことを云いなさる。でも、面と向かって、そんなことを云うたのは、あんたがはじめてじゃ。勿論、あんたが云うような考え方の者もいるじゃろう。会社側も、そげんこと考えているかもしれん。だが、わし達は労働者じゃ。労働者ということを忘れることはでけん。この手が、それを何よりも語っている。会社側の走狗だなんて、バカも甚だしいことを云う。わし達は、それほど馬鹿じゃない。産別から総評が生まれた。総評から全労が生まれた。それを裏切り者だとか、会社側と云っていては、労働者の気持ちなんか、わかっちゃいねえといいたい。新労ができて、どんなに沢山の働き手が育っているか。あの若い連中もそうだし、支部(新労)の中堅幹部は殆ど、今度の争議の中から育った連中なんです。」
「その人達といろいろ話し合ってみたいんだが、紹介してくれますか。」
「いいです。あんたが本当に知りたいなら紹介もする。だが、ウソは書かんでほしい。それだけはお願いします。」
 一歩街にでると、今日も相変わらず、警官隊の警戒はものものしい。近県各地の警官が、三池に集合しているため、警察の仕事が手薄になって、物騒な地域もあるという。そこを狙って、よそのコソ泥達が移動してきているというウワサも耳にする。そんな話が、さもありなんと思うほどに、よくまあ、こんなに集めたと云いたいほどの警官隊だ。逆に、大牟田市には、一件の泥棒事件も起こらないであろう。
 大牟田駅から第一組合に行く道は、電車が着くたびに、数人、ときには十数人の、各地の組合からオルグに来た連中の姿が見られた。小さなバッグを片手に、話し合いながら道を急ぐ者、一人黙々と歩く者。でも、オルグであることは一目でわかる。彼等の顔には、緊張と興奮の入りまじった、独特の表情があった。組合員の刺殺事件、数十人の負傷者も出たあとの時期だけに、オルグ達の感情も、クッキリと表れていたのだろう。
 Yの紹介で×支部に向かったのは翌朝だった。相変わらずの警戒態勢だ三池鉱業所の正門に近付くにつれて、車の中にまで、外の緊迫した空気が感じ取れた。そこを通り過ぎて×支部に着く。現場にある支部の空気は、当然のことながら、街の中にある新労本部とは大分違う。訪ねるPは28、9才の男だった。一旦私を六畳ぐらいの部屋に案内すると、仲間を呼んでくると云って出て行った。周囲に邪魔されずに話のできるのは、ここしかないということだった。そこは青年寮の一室だったのだ。まもなく、6、7人の人間がゾロゾロ入って来た。22才ぐらいの若い男から、50才近い男もいる。私は、彼等に勝手にしゃべってもらうことにした。
「旧労時代には、わし達が出ていく余地などなかったとです。その頃のわしは、映画を見たり、酒を飲むのだけが楽しみだったと云えるでしょうなあ。これまでの組合運動は、一方的ですたい。わし達はやるもんじゃなくて、云われたことを忠実にやるちゅうもんでした。」
「旧労に批判的だったわしなんか、これまで、相手にされんとばい。労働運動には、旧労のゆき方しか無いと云うようなふうだったばい。」
「斗争!! 斗争!! あれじゃ、なんぼわし等でも、斗争疲れもあろうちゅうもんだ。息つくひまもありゃせん。斗争中、生活を切りつめて苦労したあと、それほどに月給上がらんもんな。少しぐらい昇給しても、十日も全面ストやれば、大てい赤字になるもんじゃ。それに石炭は斜陽産業でもあるんじゃけんな。斗争すりゃあいいと云うもんじゃ、なかけんな。」
「ストちゅうのが、何時でも、進学、入学の金のいる時になっている。親としちゃ不安じゃけん。すばらしい組合じゃとほめられたって、それじゃ、親としての責任は果たせんでしょうがなあ。」
「一年のうち、平均すると五分の一はストしている。この気持ちは、外の組合員にゃ、わからんたい。」
「統制、統制で、組合員をあまりに縛りすぎたことも、旧労幹部への反感を引きおこした。」
 先述した、昭和28年の113日斗争は勿論、昭和30年には143日にわたる長期斗争、昭和31年にも43日の斗いが組まれている。炭労の統一と団結が評価されればされるほど、炭労は絶えず労働運動の先頭に立たされたし、その中心である三鉱連、なかでもその核と目されている三池労組への期待は大きかった。その反面、その重荷が相当のものだったことは、容易にうなづける。そこには無理があった。無理は亀裂を作る。第一組合の灰原書記長が云う、「健全な労働者としての意識を持つ人達と、数にして一番多い、働いて賃金を貰うことだけを考えている素朴な労働者」との間に亀裂が生じる。斗争の中で、前者はますます前進して行くが、後者は必ずしもそういうふうにはいかない。無理な斗争が続くと、自然、後者は前者についていけなくなる。そういうことを、彼等の言葉は、具体的に裏書きしていた。
 今年44才になるというMは、私は運搬士だがと前置きして語りはじめた。
「組織を割ろうなんて、私は一度も思ったことがない。分裂なんて考えもしなかったとです。一言で云えば、旧労の戦術についていけなかった。不安じゃった。Yさんから話を聞いたなら、今さらわしから云うことも無かとですが、わし達は労働者なんだ。腰を落ち着けて仕事がしたいんじゃ。この気持ちを、わし達みんな持っているとです。わし達は革命家じゃない。革命的行動をする時でもあるまい。そこが、旧労の幹部とわし達の意見の違いかもしれんが、わしは間違っていないと思っちょる。今、みんなが云ったように、ここ数年のスト・ストに、ついていけない者が沢山出ている。旧労の幹部にまかしていては大変と、わし達が準備行動をおこしたのは、去年の6月からじゃった。最初の会合を持ったのは8月で、中央委員48名のうち21名が出席した。11月頃には、わし達の同志は100名を越した。一人ずつ、同志を作っていった。新労に参加している人達の中には、「夢よもう一度」と考えて参加した者もいるかもしれん。会社の紐付きの人もいるかもしれない。でも経済斗争を主眼とした労働運動をやっていこうという考え方の者も多い。決して、労資協調でやっていこうなんて考えていない。そういうふうに考えている者もいるかもしれんが、わしは違う。Yさんも違う。ここにいるみんなも違う。都合が悪くなれば、労働者はクビを切られるもんじゃということを、ずっと見て来たわし達じゃ。そのことを忘れられると、アンタ思われますかい。ここにいる連中で、わし以外は、皆、はじめて組合の役員になったもんばかりとです。労働者の意識に、はじめて目覚めたもん達ですたい。決して、御用組合にはせんとです。勿論、今日のところ、そういう面が強いことは認めるとです。でも、そのうち変わっていくに違いないとです。」
「旧労以外、美唄でも、田川でも、みな、わし達と同じ考え方をしとるとです。旧労の中では、意見を異にして、わかれたとですが、三鉱連とは、意見を同じうしとるとです。」
 私が三池に滞在中にはおこらなかったが、三鉱連、各山は三池支援のためのストを拒否、その後4月中旬には、三池労組は逆に、三鉱連を脱退するということになった。三池労組だけでなく、三鉱連そのものが、完全に割れたのである。Mのいうように、第二組合が御用組合としてでなく、労働者意識を持った組合として成長していくことに、相当な困難はあるとしても、今となっては、第二組合の成長を頼みとするしかないと私は思わざるを得なかった。ことに昭和33年から34年にかけて、一年間に296回の学習会を持ち、延べ二万七千人も参加させた三池労組でも、なおこれほど多くの労働者を吸い上げることができないままに放置されていた事実が、私に強く迫ってくるのを、どうすることもできなかった。講座の組み方に、もっともっと工夫の余地があったことを、事実が何よりも強く物語っているのではあるまいか。第一組合を取材したN君の話から、三池労組では、第二組合結成の動きに対して、周到な配慮など、何もなされていなかったことが想像される。何を書けばよいかが、少しづつ、はっきりしてきた。

 私はMの協力で、Z地区の第二組合員の主婦達数人に会うことができた。Z地区に残っている主婦は少ない。たいていが疎開しているのだ。恐くて住んでいられないとは、第二組合員の主婦の話だった。雨戸を閉めた家が、二軒に一軒ぐらいの割合で眼につく。各所に見張所まがいのものがあって、何となく物ものしく恐い。ことに、私のような、如何なる理由や根拠があったにしろ、第二組合の成立と存在を肯定できない立場にある人間が、第二組合のなかに入りこんで話を聞き、その便宜を受けていることは、第一、第二の両方の組合に対して気がとがめてならない。週刊Lの記者になりきっての取材なのではあるが、気になることおびただしい。私の意識を鋭くさせる状況の中にいるのだから、よけいにそうなのかもしれない。第二組合員の主婦達は、一か所に集まることを拒んだ。恐いというのだ。まして、自分達のしゃべったことが記事になれば、すぐにわかってしまう。そうなったら、どんなめに会うかわからないと云うのだ。窓ガラスや戸が、無惨にこわされているのを現に見て来た私は、彼女達の意のままになるしかなかった。
 彼女達の話をいろいろと聞いているうちに、私はあることを耳にした。34年12月、指名解雇の通知状が、今日来るか、明日来るかと、重苦しい気持ちで生活していた時、総評の太田議長、岩井事務局長らが、三池労組の幹部達と山鹿温泉で一泊し、その中の何人かが、芸者と一夜を共にしたというのだ。地方紙に、そのことが素っぱ抜かれた時、会社側のデッチアゲだと憤慨して、彼女達は、その新聞社にデモをかけた。当然のことであろう。
「そうでしょう。あの人達が、そんな馬鹿なことを、あんな時期にやるなんて、思いもしないでしょう。でも、それが本当だと知らされたときの、私達の気持ちがどんなだったか。ついて来いと云われ、信じろと云われて、ハイそうですかと云って信じられますか。自分のことは、自分で考えるしかないんだと、その時つくずく考えました。恋人を連れて一泊したというのとは違います。金で女の身体を買うような人を、どうして信じられますか。資本家側でも、そういう人は、下劣な人間の部類に入れられます。」
「芸者さんが投書したというんです。芸者さんも、時が時だけに、さすがに我慢がならなかったと云うんです。」
「ひどいじゃありませんか。この近所では、わかると困るからといって、わざわざ熊本県まで行ったというんです。」
 まずいことをしたもんだと、改めて思った。私は、ここで彼女達から聞かされるより、一ヶ月半ほど前に、この事実を聞いていた。週刊Lが、誰かの持ち込み原稿をきっかけに、組合幹部の醜態を取り上げた時にキャッチした話だった。しかし、三池争議のことを考えて、この話は握りつぶした。他の誰かが取材して来てバクロされるならしかたがない。しかし、私の手で記事にはしたくなかった。三池争議にプラスしないことが、あまりにもはっきりしていたからだ。だが、今や、彼等の行為が、組合分裂の一要素になったことは明らかなのだ。反体制側にある者は、内部の問題を明るみに出すことは利敵行為であるということを錦の御旗にして、問題をインペイしようとする傾向が強い。そして、強いて記事にしようとすると、ブル新だの、デッチアゲだのといって、ただ攻撃することに躍起となる。たしかに、時と場合によっては、そうしなければならないことがあるかもしれない。しかし、この因循姑息な態度が、反体制内部の浄化と前進を如何に阻んで来続けたかについて、考え直すべきである。臭い物に蓋というやり方は、反体制運動に従う人間の最もいむべき態度ではないか。また、これを厳しく追求できる立場にあるのは、中立を標榜している新聞、雑誌だといってもよかろう。中傷ではなく、断乎として、その事実を発展的に捉える立場に立って究明することは、むしろ進んでやらねばならぬことだ。反体制側にとっては、敵に自陣営の醜態をさらし、利を与えることによるマイナスよりも、これを放置しておくことから起こる、反体制内部の頽廃の方が、はるかに恐ろしい害毒を撒きちらす。たとえ、一時的に、それをごまかすことに成功はしても、内側の頽廃はますます侵攻して、遂には決定的な徴候を現すことにもなるのだ。
 この、彼女達を芯から怒らした事実は、是非とも書かねばならない。まして、第一組合側が、「第二組合側は、もっとしばしば料亭に行っているとか、会社からシコタマ金を貰っているじゃないか。」と反論しているというに至っては、何処かが狂っているというほかはない。量の大小ではないということが、全く忘れ去られている状態。それじゃ、第一組合と第二組合を、同列に置いて考え、論じていることになる。第一組合を支える質と内容は、第二組合と、本来、全く異なるものである筈だ。山鹿温泉行きも、第二組合がしたことなら、問われずにすんだことでもあるのだ。第一組合であるが故に、それは問題にされる筈だし、厳しく問われなくてはならないのだ。このことが理解されていないことに、私は云いようのない情け無さを感じた。戦いそのものが、如何に非情なものであるにせよ、新しい時代を創り出すための斗いである限り、それは、格調の高いものでなくてはならない。同列での、「勝てば官軍式」のものではない筈だ。私は、三池の斗いが、意外にも低い次元での斗いの面を持っていることを認めなくてはならなくなっていた。

 その足で、私は三社連を訪ねた。これまで常に戦斗的に斗ってきたのが、今度は全く腰砕けになっている。第二次合理化案で、一人も人員整理の対象にならなかったということ、それは、会社側が、三社連と三池労組との分裂を策した結果だとも聞かされていた。勿論、それもあったであろう。だからと云って、ここ数年間、がっちりとスクラムを組んで斗ってきた仲間達が、そう簡単に方向転換することには、それだけの理由がある筈である。共斗は無理としても、三池労組へのカンパまで拒否するなんて、一寸考えられそうにない事だ。しかし、書記局での話し合いの中で、私の疑問は、たちどころに氷解した。
「労働者の為の組合が、何時の間にか社会党の為の組合のようになっていたのです。といっても左派ですが……。そして、左派でない者、それを支持しない者は、労働者ではないというようなことが云われるようになったのです。斗争の場合、慎重論、自重論を出す人は、そうでない人とくらべて、厳密に云って、どちらが意識が高いか、検討してみる必要がある筈ですが、簡単に意識が低いと片付けられてしまうのです。それに、党員会議の決定にもとづいて、組合の戦術や決定をするようになったことも、自然に別派をつくることになっていったのです。私達三社連に所属する者にとって、世間で評価するほど、職場斗争はすばらしいものではなかったのですね。職場での諸要求は、職員への要求として突き上がってくるのですが、私達が、それをそのまま会社側に突き上げて行くほど強くないのです。会社側と職場の人達の間に立って苦労してきたのが職員なんです。随分いじめられもしましたがね。三池労組の人達に云わせると、いじめたなんて云いがかりだ。意識が低いから、そういうことになるんだと云うことになるのかもしれませんが、それがそう片付かない所に問題があるわけです。現在は組合員でも、将来、重役コース、部課長コースと、会社側になることは決まっている人達も沢山抱えこんでいる組合ですからね。石炭産業斜陽論を宣伝に使っている面は、会社側にもありますが、この事実は否定できません。ただ反対という戦術だけを単純にとれないのも私達です。少なくとも、経済の動向をふまえて、今後の方向を考えなくてはならない。それを経営者だけにまかしておいて解決できるものでもありませんからね。」
 私は、彼の話を聞きながら、昭和28、9年頃に、さかんに主張されていた「平和経済」のことを思い出していた。総評主催の「平和経済国民会議」の実りの少なかった研究発表のことも、イタリア直輸入の平和経済論の域をでなかったことも。
 イタリアの直輸入であることを、極度に非難する人達もいたが、あれ以後、このテーマを一貫して追求し続けていたら、はじめから撤退斗争の性格を持つ今後の斗いに、もっと具体的で前進的な斗いが組めたのではなかったか。(そのあと間もなく、構造改革論の紹介、それをめぐっての論争が行われ、今日に至っているが、イタリアの直輸入的段階をなかなか脱出できないし、批判する者も、いたずらにその点を追求するという愚を繰り返している。)
「組合を割るということは、決していいことじゃありません。でも、今度はどうにもならなかったのです。旧労の諸君には、自分達の世界しか見えないし、自分達の世界しか見ようとしないのです。これじゃ、世の中が今のように悪化しているときは、今は多数でも、少数派になっていく以外ないでしょう。」
 この言葉は、私の胸にドシリと響くほどの重さを持っていた。
 宮川組合長が、第二組合のできた時、「出るべきウミが出たので、これですっきりした。」とラジオで云ったとは、第二組合で聞いたことで、真偽のほどはわからなかったが、「昨年秋に、第二組合ができたら、2700名ぐらいは参加するだろう」と考えていたということ、むしろ、組合づくりのための地下工作をしている人達の各個撃破、孤立化の方向でなく、むしろ統制を強化して、組合員を拘束して、彼等の策動の乗ずるスキを抑えようとしたところに、逆効果が現れたというのが本当のように思われた。斗いは厳しい。しかし長期戦ともなれば、逆に退屈するときもあるし、息抜きも必要になってくる。幹部クラスは別として、一般組合員、一般戦斗員を規律で縛ることはできない。可能な限りの自由を与え、窮屈さを感じさせないようにするのは、戦斗指導のABCだ。
 第二組合はできても力にはなるまいという、多くの声を耳にしたが、そうなりそうにはない要素の数々を、私は具に見たと云えそうだ。そして第二組合の持ちつつある力と方向を考えて、ゾッとせざるを得なかった。

 こうして三池を去って十日目、三池労組が三鉱連を脱退したというニュースを聞いたとき、私は前途の難しさを、今更の如く思わずにはいられなかった。

 

   (二)

 三池から帰って間もなく、4月6日には藤林斡旋案が提出された。9日に始まった炭労臨時大会では、この斡旋案をめぐって、三鉱連内は、三池労組と他の五山との間に、はっきりと意見が対立。そのため大会は、休会に次ぐ休会を繰り返し、やっと15日に、それも小委員会で、斡旋案を拒否して三池斗争を継続することを決議した。しかも三鉱連五山の早期妥結権は認めるという、まことに妙ちきりんなもの。そして18日に、三池労組の三鉱連からの脱退となった。113日の英雄なき斗いを斗い抜くことによって、その団結力、斗争力をうたわれた三鉱連は、完全に四分五裂という状態に追い込まれたのだった。これに先立って、14日、総評は三池斗争を安保斗争に結びつけ、その支援を再確認したものの、三池斗争の為の共同斗争を一度も組むことなく、三池労組を生産点での斗いの接点では、終始孤立の状態に置いた。五山の早期妥結も、総評の態度が派生的に生み出したものと云ってもよかろう。「総資本対総労働」の斗いとも云われながら、それは、労働者側から見る限り、総労働などと云えるものではなかった。これと平行して斗われた安保斗争も、一見、体制側対反体制側の総力を挙げての斗いであるかの如く見えながら、これまた総力を挙げた斗いぶりではなかった。
 このことは、岸内閣にかわって新内閣を作り、国政を預かって遂行していく、自信も抱負も、また準備も無い反体制指導部は、「岸を仆せ」の叫びを全国津々浦々にとどろかせ、とうとう岸退陣にまで追い込みながら、退陣の声明後は、自民党内の派閥争いを見ている以上に何もできない有様によくあらわれている。
 7月19日、池田内閣が誕生するとすぐ、中労委に三池争議の斡旋を指示したとき、炭労側は直ちに妥結を決め、会社側はその申し入れを渋るという対照的な態度を示した。三池労組側は、勝利の臭いを感じ、会社側と第二組合側は敗北感から社長の受諾を満身で怒るという、まことに奇妙な雰囲気であった。岸の反動政策に支えられた三池争議なら、岸退陣で好転すると考えたのも無理からぬことだったかもしれない。25日夜半、社長がようやく斡旋を受諾するということになったとき、週刊Lは、栗木社長のクローズアップをやることに決定。現地に飛ぶ者、東京で三井鉱山本社の周辺を取材する者と、分担に応じて活動を開始した。
 私の分担は、東京で、三井鉱山ならびに栗木社長が、三井系列の中で占める位置。そして、三井系列内の中心メンバーである銀行、物産、不動産の幹部が、栗木をどう見ているか。次に経済評論家の展望であった。
 戦前は勿論だが、戦後もつい最近まで、三井鉱山は原料と燃料の提供者として、殊に他の炭鉱に比べて群を抜く優良炭鉱を率いる社として、系列内で占める位置は絶対的に近かったという。その為、同じ系列企業内で、三井鉱山に働く者は自ずと優越感をもたらし、ことに社長会に出席すれば、床柱を背にするのは三井鉱山の社長だと決めていたような傾向から、他社の反感をかなり買っていたらしいと知るのに、そう時間はかからなかった。だから、今度の合理化に伴う労働者の配置転換に際して、住友がその労働者を、住友系の他企業に吸収して貰ったり、三菱が三菱系の企業の資金面の協力で新企業をおこし、労働者の配置替えに比較的成功しているのに反し、三井の場合、その何れの計画もうまくいっていなかった。系列内企業の協力が得られないのだ。日本橋の三井本館時代はデンと構えていられたが、日比谷に新築中の三井本館には、鉱山は当然取り残されるだろうとの話まで聞いた。床柱の前に坐れなくなったからでもあるまいが、多忙を理由にして、このところずっと、栗木社長は社長会の月曜会に出席していないらしい。「経営者失格」と言明する者はいなかったが、私の会った三井系幹部達から、そのにおいは容易にかぎ取ることができた。「栗木人物論を」と持ちかけたインタビューは、すべて多忙を理由に拒否された。
 斡旋案の受諾のしかたにしても、栗木社長を批判する人は多かった。「何も思いまどうことはない。トメ男が入った以上、一方的に悪い斡旋案が出ることもない。出た時には断ればいいんだ。要するに、そのへんに何かが欠けている。今度のような労働争議をおこしたのも、その為だ。」と云う。斡旋案の結果を予想しているかのような、確信に満ちた発言であった。社長交代を聞くと、
「いいのは他の企業に移したから、あまりいいのは残っていない。今更、三井鉱山に行って苦労してみようという物好きもいない。」と答える。いろいろな意味で見捨てられているんだなと思う。ただ、はっきり見捨てたことを表明するほどではないだけだ。彼等は、こんなもの、政府に後始末させればいいんだと考えているようだ。
 第二組合が栗木社長を怒り、第一組合が勝利を予想する根拠は何も無い。にもかかわらず、そうしたムードがあることに、私の不審は消えなかった。案の定、斡旋案の内容は、第一回、第二回と殆ど変わらないもの。山元の労働者にとって、これを受諾するなら、これまで何の為に斗ってきたのかわからないものだった。だが、炭労は、山元を説いて受諾した。みじめな妥結ぶりだった。このあと急速に、各炭鉱は後退を続けていくことになるのだ。
 最初から足並みの整わなかった炭労。炭労を包んで、本当に斗う気持ちの無かった総評。これじゃあ勝てない。勝てる斗いであっても勝てない。まして三池争議は、首切り反対だけで斗い抜ける斗いの性格を持っていない。炭労の勝利の歴史から生まれた自信過剰は、旧日本陸軍の自信過剰に似ている。ガ島以後の撤退作戦を勝利に連なるものに結びつけることができなかったのに似ている。石炭合理化に伴う三池争議を中心とする一連の争議は、撤退作戦の性格をはっきりと認識し、次の決戦に備えて、いかなる撤退作戦を組むかということ、如何に兵を損じないで、次の斗いの為の有効な配置転換をやるかということが考えられなければならなかった。
 三鉱連五山の共斗を得られないような斗争に、他の三井系労組の共斗を得られる筈もなかろうが、企業集団毎の斗争総勢を作ることは、今日の産業構造とその変化に応じた中で、早急に作り上げなくてはならないものである。
 指名解雇の中に、社会党員○○名、共産党員○○名が含まれていたが、彼等を地域の活動家として、他の地方に配置転換するような大計画を行うときにきていたともいっていい。石炭産業に噛り付かせるばかりが最前の策ではあるまい。斗争も、彼等の新生活の為の資金増額要求、政府に協力させる要求など、どんどん出して行くべきだ。斜陽産業に噛りつかせるのが労働者への親切かどうか。専売、国鉄等の国土建設公社を作り、そこに現場労働者として吸収させ、自然改造に取り組ませるなど、方法はいろいろ考えられた筈である。
 安保、三池と見てきた私には、そこに共通する斗い方を見つめざるを得なかった。反対しかないという斗い方である。徹底反対はよい。だが、単純な反対しかない所には、一時的に指名解雇を撤回させ、安保の批准を延ばさせる形の勝利しかない。所謂取り引きを前提にした条件斗争をせよというのでは勿論ない。歴史の進展に即して、勝てる斗いを組まなくてはならない。歴史の進展を止めることはできない。歴史の進展に「待った」をかけるようなことは、愚というほかない。

 

                 <日本のもう一つの顔 目次>


    6 トップ屋の見た経営者達(その一)
         東洋電機カラーテレビ事件

 

   (一)

 昭和36年6月20日、東洋電機KK(資本金十三億五千万円の強電メーカー)は、来る28日にカラーテレビの試作品を公開すると発表した。この1月以来、カラーテレビを研究中という噂を真っ向から否定し、スポークスマンの重役に、「もし、やっていたら、私の首を差し上げる。」とまで云わせていた東洋電機がである。兜町界隈が湧きに湧いたのは当然であった。経済紙として高い評価を受けていたN紙の担当記者は、東洋電機の言葉を真に受けて来て、ここで背負い投げを食わされた形になったというのでプンプンになるし、一方、日頃、片身の狭い思いをしていた業界紙、殊に、カラーテレビは本物らしいとツバをつけてきた新聞などは、鬱積していた溜飲を一時に下げよとばかり、N紙の取材の甘さを攻撃するなどの場面を展開した。報道関係ばかりではない。東京証券取引所も、「よくもだましたものだ」と、これまた大変なオカンムリ。上場停止ぐらいには持ち込まないと我慢ならないといった鼻息の荒さであった。本物かマユツバかの噂の間隙を縫って、儲けた者、儲け損ねた者の入り乱れるこの界隈が、このニュース一つに、持ちきりになったのも当然であろう。
 国鉄を主取引とし、国鉄、運輸省の古手官僚が経営陣を占めている東洋電機は、冒険とか、開発などということには無縁の存在と誰もが見ていた。その会社が、未経験の弱電部門に進出するなどということは、常識で理解できることではない。会社首脳が否定すれば、至極もっともと納得できた。だが、カラーテレビの噂は、一向に消えてなくならなかった。「既に試作品を見た」という、まことしやかな噂も、ひそかに流れていた。そして、その噂を裏書きでもするように、1月に131円だった株価は、グイグイと鰻上がりの上昇線をたどり、3月には値幅規制を受け、5月には報告銘柄に指定される程の躍進ぶり、遂に6月には389円の高値をつけたのだった。でも、その数日前まで研究の事実を否定しきっていた会社が、突然、試作品を公開すると云い出したことは、何としても奇怪なことであり、一部に疑惑の目を向けさせることともなった。

 週刊Lは、28日の公開に先立って、真相の追求をすることになった。早速、兜町の空気を吸いに車を走らせた。
 あの時点において、少なくとも私の会った限りでは、というよりもむしろあの界隈では、東洋電機を疑っている者は少なかった。完全にしてやられたという空気が、圧倒的に支配していた。東洋電機株を大きく商いしたT証券、E証券は、羨望の的のようだった。殊に、あの情報を容れて、それに基づく売買をした男は、小英雄の如く見られ、遇されているように見えた。彼等自身、まことに誇らしげであったし、彼等の位置は、株価の上昇ほどに上がっていた。手数料だけでも、短期間に何千万という利益を会社にもたらしたのであろうから、それも無理からぬことであったろう。
 私は、これら小英雄の最右翼と目されるSをT証券に訪ねた。見たところ小柄で貧相な感じのSは、これまで、大いに切れる男とはされていなかったらしい。だが現在の彼は、多くの人の注視の中で、ぐんぐん自信を強めてきているようだった。聞いてみると、Sの情報は、東洋電機筋からではなく、彼の友人の筋から把んだという。
「その友人というのは、東洋電機の誰方の線からキャッチなさったのですか。」
「サァね、それは知りません。」
「長尾という人のことを聞いておられますか。」
「早大を出た、街の研究家と聞いていますが……。」
「フルネームをご存じですか。」
「知りません。でも、早稲田大学の研究室の一室を借りて、秘密裏にやってきたと聞いています。」
「信頼できますか。」
「できます。試作された物を見たという人もあるということです。」
「見たというのは誰ですか。あなたは、その方から直接、話を聞かされたのですか。」
「いや、聞いたのは友人です。」
 何ということだ。見たのも、聞いたのも、すべて間接にであったのだ。一体、Sは、本当に、これだけの話で信ずることができたのであろうか。それとも、この裏には何かがかくされているのであろうか。こんなにも不確かな話を基礎にして、大きな商いがやれるものなのだろうか。バクチじゃないか。
 S以外にも、二、三人の人に会ってみたが、遂に、試作品を見たとか、長尾某に会ったという人はおろか、噂の出所である男から直接聞いたという人間にも巡り会えなかった。だからといって、見た者は一人もいなかったと断定することができないのは当然だ。
 業界紙のH氏にようやく会った。H氏は、この事件を最も精力的に追いもし、また書いてきた男である。しかし、H氏にも決め手があったわけではない。彼は種々の材料から、やっていると推論したに過ぎない。彼の推論の正確さを自慢されて終わり。H氏は、資金が無い為に、みすみすチャンスを逃したと私に嘆いて見せたが、果たしてどうか。それはともかく、Sにしても、その他の人々にしても、利食いをして、東洋電機株の殆どを既に手放していた。そこを、また誇らしげに語る彼等だったが、素人の悲しさ、私には、そこを疑ってみる能力がなかった。今にして思えば実に腹が立つ。もし情報が確かなものなら、現在もさかんに商いを続けている筈ではないか。それなのに、彼等は、それを控え目にしつつある。これは、研究の結果に対して、少なくとも信頼を置いていない証拠ではないか。それが私に推察できなかった。情報の確かさ、不確かさなど、彼等にとっては、それほど重大ではなかったのだ。噂を利用しての上げ相場にうまく乗り、サヤを儲けられれば、それに越したことはない。素人投資家がガヤガヤ騒ぎ出す頃、彼等は一商売も二商売も済んだあとであり、危険が迫るより先に、サッと手を引くのだ。情報の出所を確かめて、駈けずり廻っている、無知なトップ屋を、彼等はどう見ていたであろうか。

 どうにも納得のいく説明も資料も得られない私は、方向を変えて、東洋電機KKについてのレクチャーを聞いてみようと、株式評論家のF氏に電話した。F氏の話法は、一種独特で、話についていくのに何時も苦労する。はじめは、私が素人の故だと思っていたが、そうでもないらしく、他にも同意見の者を発見して安心した記憶もある。それでありながら、彼の分析力は鋭いし、見方も面白い。池田総裁実現の為の資金は株価の操作によって捻出された……という説明が、いたく私の心を捉えてから、株のことといえば、F氏の所をのぞくことにしている。その上、彼の事務所に整理されてある、戦後十数年の各社の決算報告書は、大変な強味を発揮する。
 Fは、十八貫は越えるような肉付きのよい身体を、机におしかぶせるようにして、薄いパンフレットを睨んでいた。室内に入って行った私を認めると、ニヤリと笑った。普段、話をしている最中でも、始終、顔をほころばせているような男であるが、このニヤリは、ちょっと違っていた。思わぬ発見をしたという感じであった。そのニヤリを見て、私はしめたと思った。多分、私の顔もニヤリとしたことだろう。
「君!ありゃインチキだよ。カラーテレビの研究を全然やっていないかどうか、そりゃわからんが。オリエンタル酵母の二の舞いに決まっているよ。オリエンタル酵母も、鳴り物入りで宣伝し、株価を引き上げたもんだが、できたものは二色のテレビ。どうとも云いようのない物だった。カラーテレビというのは、株価の操作には、恰好の材料なんだ。資本金十億ぐらいだと、株価を動かすにも手頃だ。君の電話があったんで、東洋電機の増資目論見書や決算報告書を出してみたんだが、見ているうちに、とんでもないものを発見したよ。頭が悪い会社とでも云うのか、とにかく、とんでもない会社だな。ソラ、これを見たまえ。35年5月の決算報告書の中で、「仕掛品53436万円に、過年度の原価計算に算入されなくてはならない4254万円が含まれている」とか「納税引当金1121万円は引当ての必要がない」というように、公認会計士に指摘されるような、ズサンな決算書を作ってケロッとしている。それに、35年11月の決算で、三千万円の水増し利益を計上して利益率を上げ、一割二分の配当が妥当なところを、従来通り一割五分配当にして、36年2月の増資に備えていることもはっきりしている。全くの出鱈目じゃないか。そればかりじゃない。交際費が三千万となっている。こりゃベラボウな高さだ。売上高に対して1.4%という高率だ。ソニーのような派手な会社でも0.32%(昭和36年3月期)に抑えている。国鉄一本が相手の会社にしては、一寸おかし過ぎる。もっと呆れたことには、この交際費が、社員の給料とトントンの額で、研究費の三倍にもあたるということだ。こんな会社をマトモだと云えるかね。洗えば、何か出そうだね。しかし、この間抜けな会社が単独で何もできるわけはない。幹事会社の野村証券に、何かあるかもしれん。なかなか面白い記事になりそうだね。」
 F氏は、一気に喋り返すと、どうだといわんばかりに私を見つめた。今日のF氏の話は大層よくわかる。F氏に会えたことは大収穫だった。心から感謝して、今度は野村証券へ。
 案の定、野村証券は「知らぬ、存ぜぬ」の一点張り。それ以上に追いつめる材料が私に無い以上、どうすることもできなかった。東洋電機の下請会社である日本カニゼン、日本オーディオなどにも足を延ばしたが、これという決め手を発見することができない。このテーマは、せいぜい、東洋電機の重役連中が、カラーテレビを材料に自社株を動かし、あるいは一儲けもしたらしいという推定記事を書くのが精一杯ということを知った。
 東洋電機が、子会社の幾つかに、数億という金を貸し付けており、貸し付けを受けている子会社は、何と資本金百万円とか、せいぜい一千万円のものだという、まるで常識では考えられないような奇怪な事実を聞き知ったのは、勿論ずっと後のことであった。
 F氏の意見は、記事には載らなかった。東洋電機の線を直接に取材した同僚が、その話に相当信頼性をおいているとしたら、私の弱い線では、どうにも太刀打ちできない。残念だし、口惜しいが、黙って見送るほかはなかった。
 東洋電機や、研究者の長尾磯吉氏にあたったのは、同じトップ屋仲間のP君達だ。P君達の取材の様子や意見が、どうも私に十分伝わらない。彼等にも私の意見が伝わらないので、記事になった時に、妙なズレを感じたり、心残りを背負ったりすることになってしまった。かつて、私はP君達との連繋を深めようといろいろ計画したこともあったのだが、水を差す連中があって、駄目になり、以後、私は妙な立場に立たされることになった。トップ屋は、各々孤立させて置くべしというのがデスクの方針か……。東洋電機のこの仕組みをエグるには、よほど緊密な連繋が必要だし、それがあれば、どうにか尻尾を抑えることができたように思うのだが、それは望むべくもなかった。程々にツツくのが週刊L首脳の企画かもしれないが……。
 それにしても、週刊誌の取材も、毎週、追いつめられたような、セッカチなやり方に頼らず、たっぷり時間をかけてやらねばならぬ段階に来ているのではなかろうか。そして、トップ屋も、「何でも屋」から専門化していく方向に進む時期にあるように思える。このままでは、トップ屋とは、所詮、一時期に狂い咲きしたアダ花に過ぎないで終わるにちがいない。会社に所属しない記者グループのシステムの発達している外国の話が夢のように聞こえる。こんな不十分な記事をさらけ出す度に、私もまた、できるだけ早く「何でも屋」の状態から脱出したいと、しきりに思う。
「新週刊」の出発は、この少し前の時期だった。安保、三池が一段落して一年後とは、まことにタイミングが悪いが、次の機会に備えて地味な基礎作りをやることは必要だし、むしろ好ましいことだと思う。相当に転出の気持ちが動いたので、総評に出入りしている組合活動家のS君に聞いてみた。「それはいいかもしれん。とにかく状況を聞いてみよう。」と云って別れたが、あとからの電話によると、「むこうでは、記者はあり余っている」と云う。「甘い」と思う。その言葉の意味を、それ以上に、深く考えてみる気もおこらなかった。転出の気持ちも消え失せてしまった。当分は、現状そのものに切り込んでいくほかはない。しかも、それは、どこまでも個人プレーの域を出ることはない。残念だが仕方がない。

 

   (二)

 6月28日の試作品の公開の結果は、意外に画面が明るいという評価を受けて、株価は連日ストップ高を続け、とうとう505円の高値をつけた。しかし、他方、あれはインチキだ。東芝製品を適当に細工したものに違いないという声も出はじめ、逆にストップ安を続ける下落ぶり。とうとう295円まで下がってしまった。といって、インチキという結論が出されたわけでもない。しかも、300円から400円代でつかまされた人達が相当に多い。こんな状況の中で、7月28日の東洋電機KKの株主総会を迎えることになったから、カラーテレビの真偽をめぐって、一波乱もち上がりそうな、異常な雲行きとなった。
 この日、私は週刊Lの用意してくれた株主招待状を持って、株主総会に出席することとなった。定刻の十時少し前に会場に着くと、既に中は満員の様子。入口には入場の順番を待って、大変な人だかりであった。場内に入ると、坐る場所も見つからぬ程だ。五百人近い人数らしいが、用意された部屋の広さと、七月下旬という季節も影響して、ムンムンとした人いきれである。それに、今日、ここに押し寄せた人達のそれぞれの胸の内には、期待と恐れ、興奮、緊張等が充満しているに違いなく、それが異常な熱気をはらんで渦巻いているようであった。
 何しろ、株主総会なるものに出たのは、これがはじめての私であるが、城山三郎の「総会屋錦城」の姿を、其処に見るような思いであった。「これじゃ、荒れ方も凄まじいだろう。ことによったら流会にもなりかねないな。」そうなると時間も相当に長引くだろう。坐らないことにはと、強引に長椅子の一角に陣取った。決算報告書を開いて見ようとすると、隣の男が話しかけてきた。
「凄い出席者ですね。たしか前回は三十人にも満たなかったそうですよ。それに、会も十分ぐらいですんだというじゃありませんか。」
「ホー、そうですか。おくわしいですね。」
 彼は、何処かの証券マンらしい。今日出席している人達の中の、相当数が、証券会社から来ていることは想像できた。
「どうです。会社幹部は真相を話すでしょうかね。かなり総会屋も来ているんでしょうが……。」
「そうらしいですね。私の知っている顔も、二、三見ましたからね。どこまで会社を追いつめられるかに掛かっているのでしょうが……。」
 仲間と一緒に来ている者は、当然、仲間同士で囁き合っている。しかし、一人でやって来た者にとって、一人で、黙って、この緊張した空気に耐えていることは困難だ。誰でもよい、話しかけずにはいられないのだ。私の隣人も、そうした人々の一人のようであった。ソワソワと落ち着きなく身体を動かし、汗を拭ったり、資料をめくったりしている人達の後ろ姿にも、そんな気持ちが張りついているように見てとれた。私は、なおも話し続けようとする隣人の声を振り切るようにして、今日の議案書に目をおとした。
「取締役改選の件」を、カラーテレビ事件の責任問題と、どうからませながら追求していくかに、この総会のカギはあるように見えた。これは、案外簡単に、会社首脳の本音を吐き出させることができるかもしれないと、私は考えていた。
 定刻に四分遅れて開会。議長席に着いた国行社長は、開口一番「一応、各議題の審議が終わってから、みなさんのご関心の深いカラーテレビについて、十分にご説明致したいと思います。」と云った。これは、会場に火をつけたようなものだった。「賛成!」「反対!」の声が入りまじって会場を蔽った。それらの声に少し遅れて、太くて低い、さびのきいた声が「賛成」と響いた。会場は一瞬、その声に呑まれたようになった。すかさず国行社長は、「ありがとうございます。それでは……」会衆に向かってペコリと頭を下げて喋り出した。「議長!緊急動議!」殺気をはらむような激しい怒声があがった。その声には、社長の発言をピタリと止める迫力があった。
「私の知りたいのはカラーテレビのことだ。ここに集まっておられる方達の殆どが、私と同じ気持ちだと思う。先ず、カラーテレビの説明から始めてほしい。」
「賛成」「反対」の声が入り乱れた。しかし、この発言に対する賛成と反対は、さっきの社長の発言に対する賛成と反対の逆になる。ここに混乱の要素があった。一見、株主の気持ちを代表するかに見えたこの発言も、もしかすると議場混乱を招こうとする、会社側の深謀遠慮だったかもしれぬ。そうだとすると、これは相当なもんだ、と思っている私の思考を断ち切るように、国行議長の声が聞こえてきた。
「おっしゃる通りだと思います。だから私も、そのことについて、最後にタップリ時間をかけ、皆さんの納得ゆくまでのご説明を申しあげたいと考えるのです。」
 賛成、反対の声が、また一時に場内をどよめかせる。賛成、反対の意味は、もう一度引っくりかえった。その時、国行社長の顔に、薄笑いの影が走ったように見えた。
「役員改選の件を残して、あとの議案を審議するのは結構。しかし、役員改選の件は、カラーテレビ問題の責任如何で、どうなるかわからない。」という発言を予想していた私は、社長の喜ぶのは、一寸早いんじゃないかと胸の内でつぶやいていた。この発言でテレビ問題のイニシアチーブは完全に株主側が握れると思ったからだ。社長の北叟笑みなど、吹っ飛ぶこと間違いなしと思えたのだ。しかし、私の期待したような発言は、会場の何処からも出されなかった。
 こうして、総会初期の主導権は、完全に会社側に握られた。一きわ高い「賛成」の声を合図のように、「ありがとうございます」と馬鹿丁寧なおじぎをした国行議長は、サッと議案の審議にはいった。そうなると、審議されているのがどんな議案か、その議案が今日の総会にどんな意味を持っているのかを気にとめている会衆は、一人もいないように見えた。全部の議案が、賛成多数でスラスラと進み、審議を終わるのに十分とはかからなかった。その十分すら、待ち遠しそうな空気が、会場を支配していた。一つの議案が通過するたびに、「ありがとうございました」と一礼する社長の言葉が、勝利の喜びのようにも、皮肉のようにも聞こえて、ひどく印象的だった。こうして、役員は全員信任された。これから株主が追求しようとするカラーテレビの責任者達は、株主の信任を得て、時期役員に任ぜられた。信任した役員のやった事について、何を追求しようというのだろうか。たとえ躍起となって全員が団結して追求してみた所で、限度はあるだろう。前期におこった事件について、責任者たる役員は新任されたのだ。たった今、追求者によって……。

 カラーテレビについて、国行社長の説明は綿々と続いた。つい時計を見なかったのだが、小一時間もかかったであろうか。しかも、呆れたことに、この長ったらしい説明は、ある株主が「社長さん、あなたの話は、十日前の新聞の記事を一歩も出ていないじゃないか。」と怒りに満ちて怒鳴ったことでもわかるように、関心のある者なら先刻承知していることばかりだった。新聞、雑誌に書かれていたことを、直接社長の口から聞いたというにすぎなかった。私は、社長が「以上申しあげたことで全部であります。」という言葉で、その説明を結ぶのを聞いた時、怒るより馬鹿馬鹿しくなってきた。八百長芝居に一枚加わって演技でもしているような気がして、自分が惨めにさえ思われた。社長の説明で明らかにされた新事実は、僅かに長尾磯吉氏と会社の関係が1月に生じたことのみであった。長尾に提供した研究費の額も、質問されてはじめて明かしたのだった。しかし、この研究費の額をめぐっての、社長の責任を追求する権利は、さっき放棄してしまったばかりである。
 そのあと、株主達のバラバラの質問が、何の脈絡もなく、ダラダラと繰り返された。勿論、社長を追いつめていくだけの材料は出る筈もない。何時か同じ質問が、表現を変えて、何度となく繰り返された。だが、一人一人の株主の言葉には、彼自身の事情に根ざす悲壮感や必死なものが滲み出ていて、私も腹立たしい気持ちにされていった。自分の立場も忘れて腰を浮かしかけた自分に気付き、苦笑した。
「国鉄こそは伏魔殿、そも、当社の幹部は、そこの落ち武者というか、脱落者というか……」と始まった時には、何が出るかと思わせたが、「黙れ!」「やめろ!」の野次に、あえなく坐ってしまった。この発言は、この日のクライマックスと云ってもよかった。中盤での、株主側が社長に本音を吐かせる橋頭堡ともなり得るものだったが、結局、その発言を裏付けるものが無いのでは、引き退るよりほかはない。「交際費が多過ぎる」と云ったF氏の言葉を思い出す。6月の週刊L誌の記事で、もし、F氏の発言を登場させて、東洋電機の経営のいいかげんさを追求していたら、今日の総会ももっと面白いものになっていたろうにと思うと、何とも口惜しい。さっき裏付けも無く発言しかけた男と同じくらいに、私にも責任があるらしい。

 のらりくらりの社長の答弁が続く。たまりかねた株主の一人がその点に噛み付くが、社長は役者が一枚も二枚も上らしく、それに乗るわけもない。
 五十年輩の、ひげなどを生やした恰幅のよい男が立ち上がって、「問題は、信ずるか信じないかにある」とぶった。そこから一転して、「信じる者と信じない者」論争となった。隣りの男に聞くと、長尾の後援者だという。しかし、これは株主側を蘇生させる一撃であるかのように見えた。
「社長!一体、あなたは信じているのか、いないのか。」
 ガヤガヤしていた会場が、瞬間シーンとなった。会衆の眼という眼は、社長の口元を食い入るように見つめた。
「我々は、信じているからこそ、やっておるわけです。」
 国行社長の顔は妙にゆがんで見えた。声音も、震えを帯び、苦しげだった。もう一押し押したら、あの顔は苦渋に充ちたものに変わるだろう。見廻すと、わかったような、わからないような、一様に、ひどく捉えどころのない株主の顔が、見られたが、ついに、わからなさをもう一歩つきつめようとする者はいなかった。次に立った株主は、また別の質問を始めていた。国行社長は、遂に長尾を信じているのか、カラーテレビを信じているのかを、少しも明らかにせずに終わった。カラーテレビを信じるといっても、カラーテレビの試作品のできばえを信じているのか、将来、商品としてものになることを信じているのか、そのへんのところは、私には一向にわかりようもなかった。
 こうして、株主達の完全な敗北のうちに、怒号と罵声に終始した株主総会は、あっけなく幕切れとなった。その閉会の動議がふるっている。
「ご意見も出盡したようですし、また、もしお聞きになり度いことがありましたら、会社でも、できるだけご説明申しあげますから、これでいかがでしょう。」というのだ。
 閉会の辞を述べたのも、この男だった。この男が東洋電機KKの総務部長だということを知ったのは会も終わってからのことだった。会のあいだじゅう、ワイシャツ姿で発言者の間を休みなくチョロチョロと走りまわり、「あんたは駄目だ。私怨は駄目だ」と株主の発言を封じるように口走っていたので、程度の悪い庶務課員だろうぐらいに思っていたので、いささか呆れた。そういえば、他社の連中に誠実と信頼を売り物にし、「カラーテレビの研究をしていたら首を提供する」とまで云った経理部長の発言は、是非とも聞き度いものだと思っていたが、最後まで、一言も発しなかった。隣の男に、それを教えられて、つくづくとその顔だけを眺めた。一見生真面目で小心そうなこの男も、知らずに見れば一経理課員という感じを一歩も出ない。この男、なんで、あんな大芝居が打てたのだろう。社長か誰かの指しがねだったのは間違いないところだろうが……。とにもかくにも、事態をここまで引きずってきた場合、誰がトクをし、誰が損をするかは、まことに明白なような気がする。しかし、最後に笑う者は一体誰なのか。
 散会後、私は四人の女性をつかまえて聞いてみた。四人が四人とも、「社長を信じるわ、カラーテレビは大丈夫よ。」と何のこだわりも無く云う。中の一人などは「あんまり社長さんをいじめて気の毒だわ。云えないというのも、決して悪意からじゃないのよねえ。」とさえ云った。ヤンヌル哉である。欲につられての株遊びもいいが、これじゃ、株屋さんも儲かって儲かってしょうがないだろう。「お人好しもいいかげんになさい。」という言葉が喉元まで出かかるのを呑み下した。

 東洋電機の株で損をした人達も多いが、これまでに、長尾氏の発明に大金を投げ出してスッカラカンになった人達が、今度のことをきっかけに、東洋電機から何がしかをむしり取ろうと暗躍していると知った時は、開いた口もふさがらぬ感じであった。何れも、欲に目のくらんだ人間達の織りなす狂騒曲というのであろうか。欲の皮の突っ張ったこの連中を手玉に取って、更にうまい汁を吸った人達がいるというのがF氏の意見だ。果たしてどうであろうか。
 街の研究家N氏を訪ねる。総会で、「インチキ !!」と、頭のてっぺんから出るようなキイキイ声で叫び、総務部長に発言を止められた男である。
「君のところ、東洋電機か長尾に買収されとるのと違うか。どう見たって、そうとしか思えんような記事じゃないか。」
「トンデモナイ……。」
「いや、本気で云ってるわけじゃない。思ってるわけじゃないんだが、今度の記事はひどすぎる。そう云いたくなるような記事じゃないか。」
「それは、どんな記事でも、事件の内部にいる人間から見れば、不満は多い、穴もよく見えますよ。他の記事については、あなたも所詮シロウトだ。足りない点や、たとえ小さな誤りがあったにしても、おわかりにはならない。だが、今度の事件について、この際、誰にもわかるように、インチキぶりをご説明いただければ有り難いんですがねえ。お願いします。」
 こうして聞き得たN氏の話も、彼の説明が不十分だったのか、不十分な説明しか引き出せぬほど、私の知識や研究が不十分であったためか、できた原稿は記事を作る際、没にされて、日の目を見ずに終わった。記事は、結局、インチキであるとも、インチキでないとも、明確な立場をとらずに、逃げていた。これが常に週刊Lの立場でもあったのだが……。
「阿呆め!買収と同じじゃないか。」とキイキイ声で罵倒するN氏の声が聞こえてくるようで甚だ後味が悪い。私の判断もFやNに近い。しかし、N氏のことも、F氏の言葉をも気にしながら、次々に押し寄せてくる新しい取材活動に追われて、それ以上に追求してみる暇もなく、東洋電機のことは頭の隅に押しやってしまっていた。

 

   (三)

 翌昭和37年1月20日、東洋電機KKが、警視庁捜査二課の手入れを受けたというニュースが伝わると、またもや東洋電機は、新しい噂の中心に引き出されることとなった。週刊Lは、すぐに、その特集を企画した。まるで、東洋電機KK、カラーテレビ、長尾氏の提灯持ちのような結果を生んだ特集をした週刊Lとしては当然なことでもあった。F氏の発言、N氏の発言を没にしたのは私の責任ではない。しかし再び彼等に会うことは、どうにも後ろめたい感じが付きまとうのを否定できない。それに、得意気に話しかけてくる彼等の顔を想像すると、照れくさいやら、いまいましいやら……。といって彼等に会わないわけにはいかない。彼等こそ、まっとうに事件を見つめていた数少ない発言者なのだから……。N氏は仲間にまかせて、F氏に電話する。「どうぞ」という返事までが、必要以上の馬鹿丁寧さに聞こえてしまうのだから困る。扉をノックするのも遠慮がちなものを自分に感じてしまう。だが、F氏は何時もと変わらぬ笑顔で迎えてくれた。
「君のせいじゃないよ!君の着眼ははじめから適切だったじゃないか。元気を出したまえよ。君と同じ着眼で、今動いているのもA紙だけだ。A紙の経済記者ともなると、なかなか鋭いね。君を出し抜いた者は、まだ誰もいないじゃないか。気にすることはない。」
 F氏の言葉は、慰めるようにも聞こえ、皮肉のようにも聞こえた。皮肉の言葉と受け取る方が、まだしもまともと考えた。F氏から、できるだけの話を聞き、怱々に退散。この段階で、F氏は東洋電機の子会社を徹底的に洗う必要があることを指摘することをしなかった。必要を感じながら、私には抑えたのかもしれぬ。ただ、国鉄との関係については、汚職の臭いがするとズバリ云ってのけた。勿論、推定の域を出るものではなかったが……。
 私は、兜町に足をのばした。去年、小英雄扱いされて、堂々と振る舞っていた連中は、すっかり影が薄くなり、一まわり小型になった感じ。事件が刑事事件の性格を帯びてくると、会社に利益をもたらしただけでは済まされない。当然、彼等の周囲に、何かの臭いをかぎたがる。そのせいかなと思ってもみたが、私に対する鼻息は相変わらず荒い。情報のキャッチの巧みさと、自分の儲けを極力打ち出そうとする。虚勢なんてもんじゃない。これが株屋さんという商売の生きる姿勢なのだと、はじめて未知の一面を知ったような気になった。何もしらない投資家がカモにされるのもむしろ当然であろう。
 東洋電機のカラーテレビ事件の黒幕は、N証券のS専務ということを聞き出したが、それ以上に追求する材料を発見することはできなかった。無論、当のS専務は、この時既に大阪に飛ばされていた。(事件のほとぼりもさめてきた最近のこと、彼は副社長として本社に迎えられている)Sを二、三週間に亘って、徹底的にマークしてみられたらと思うが、こんなこと、週刊Lのシステムからいえば夢のまた夢のようなものである。「諦めろ、諦めろ。」
 3月6日、各紙の夕刊は一斉に「東洋電機事件は国鉄への贈賄に発展か?」と書き立てた。交際費の線から割れてきたものらしい。商法違反容疑から、汚職容疑へと、問題は急転していった。新聞は、三日、四日と間をおいて、その後の進展ぶりを報じていた。そんなある日、東京地検からの、東洋電機の7月総会に出席した週刊Lの記者に呼出状が届いた。参考調書を取るから協力してほしいという。取材で何度か来たことのある東京地検だが、この日ばかりは少々勝手が違う。緊張気味で、ばかに固くなっている自分がコッケイに思えるが、何となく笑えぬ気持ちだ。私の証言は、別に決定的な意味を持つ筈もないし、あくまで参考の域を出ないことは、よくわかっているが、松川事件の赤間調書など、数多くの謎に包まれた事件における証言の役割を考えると、心のこわばってくるのをほぐす手はなさそうだ。人を裁く資料の一つになるのだから、緊張するのもあたりまえではないかと考え、そう考えることによって、私は落ち着きを取り戻すことができた。
 書記官の調書の取り方を見ていると、私に何を云わせようとしているのか、何の資料固めをしようとしているのか、私にはよくわかった。別に誘導尋問をされているのではないのだが、調書を取られるのは、いやなことだと思った。書き上がった調書を読んで、よかったら印を押すように云われて、一読した。私の云ったことは端折られ、全体をまとめているものは書記官の主観と云ってもよいようなものがそこにあった。言葉のニュアンスもそれが、ほんの文章構成上のテクニックなのだが、大分違ってしまっている。調書とは、そういう体のものだと承知はしていても、いざ、自分の物としてつきつけられると、相当な抵抗を感じざるを得ない。しかし、不満な個所を指摘して、一か所一か所訂正したところで、どう変わりようもない網が、調書全体をおおっている感じである。時計を見ると、四時をとっくに廻っている。三時間はたっぷり向かい合っていたことになる。何ともやりきれない。しかも、書記官と向かい合って質問に答えていると、時として、私が取り調べを受けているような錯覚におちいりそうになるから妙だ。私は小心者なのだろうか。これは道具立てのせいかもしれぬなどと、自分に対して弁解を試みようとしている自分に気付く。もう、一刻も早く、この部屋から飛び出したくなってくる。
「いいでしょう」と印を押して解放された。
 何時になく疲れきっている自分に、一杯のコーヒーを振る舞って慰めてやった。
 忠実に、言葉の再現を意図している筈の参考調書が、あれほどまでに違ってしまうなら、われわれの書く原稿に対して、抗議が舞い込むのも無理は無いと、今更の如く考えた。それはともかくとして、この事件で、経営者のデタラメ、証券会社の非良心ぶりを徹底的にあばけなかったことは、何としても口惜しい。それに、検察陣に、穏便にと申し入れたという労組の奇妙な動きをそのままにしたことは悔やまれる。その後の検察庁の取り調べに対して、国鉄への汚職については、すらすらと自供した東洋電機の幹部連中が、株価操作の内実については、頑として口を割らなかったという事実を聞くにつけ、あの、国行社長たちもまた、猿芝居の猿に過ぎなかったことの裏を、その確証の片鱗すらも掴み得なかったことが残念でならない。
 これがトップ屋の限界なのだろうか。それとも私自身の能力の限界なのか。その何れでもあるらしい。

 

                 <日本のもう一つの顔 目次>


    6 トップ屋の見た経営者達(その二)
        買い占め屋Yがまきおこした波紋

 

 兜町に出入りする数多くの男達の中に、私に特別深い関心と強い魅力を感じさせる男が一人だけいる。自分の考えや生き方を、さも真理そのもの、倫理そのものであるかのように振る舞っている男。名門とか毛並みということが相も変わらず通用している財界にあって、これという背景もなしに、何とかその一角に位置を占めようとすれば、そんな信念またはジェスチュアも必要かもしれない。だが、今のところ、正直云ってこの男はそれだけの位置を確保するところまでは行っていない。それ以上に、買い占め屋の世界における位置の方が、格段に高いように見える。買い占め屋と実業家の両方に足を突っ込んでいると云った方があたっているかもしれない。とにかく乱世の梟雄であることには間違いない。そこが彼の魅力だ。東洋電機のカラーテレビ事件の演出者と噂されるN証券のSが、一年もたたずに副社長にカムバックする今日だ。YはそのSの親分Oと深い関係にあり、Oの為に大きなバクチ相場をやったことすらあると、一部の情報通に囁かれている。それでいて、Yは自分一人をたよりとし、常に自分を頂点として動こうとしているのが面白い。戦国時代といわれる経済界で、相手につけ入る隙さえあれば、サッと買い占めという方法で切り込みにかかる。どうしても興味をひかずには置かない存在というべきである。

「梟雄が英雄になる日は来るであろうか。その可能性を彼は果たして内に秘めているのだろうか。」
 週刊Lは、何度か彼を記事にしたが、彼に会うチャンスは私にまわってこなかった。だから、一度彼と会って、じっくり観察してみたいという念願はつのる一方だった。週刊Lの打ち合わせの席上で、Yその人を俎上にのせるという企画を聞いた時、私の期待は一瞬ふくれあがった。しかし、「無法者Y」というタイトルを聞かされて、ふくれあがった期待もペシャンと潰れてしまうほかはなかった。YがT社の買い占めを始めた。T社の社長Iは、Yを経済道徳に欠如する男という言葉で新聞紙上でこきおろしたという小事件があった。そのIの言葉に乗りかかって、Yの無法ぶりの総てを書こうというのがテーマの内容であった。
 実を云うと、それまで三日間追った特集テーマがオシャカになって、急遽切り変えとなった俄か仕立てのテーマである。正味二日間、それが我々に与えられた時間だった。当初の三日は徒労に帰した。こういう場合の疲労感は特別ズッシリと身体にのしかかってくる。それを振り払って、二日間に力をふりしぼらねばならない。とは云っても我々だって張り子の虎や、老いぼれ犬ではない。頑張ることはできる。いや、むしろ異常なファイトで、日頃以上に動くことだってできる自信もある。だが、二日間では集めた資料の裏付けをするいとまはない。是非会いたいと思っても、突然の申し込みでは時間の貰えないことも多い。相手もまた多忙な人達なのだから。まして旅行中、出張中という短時間故に不可抗力なものもでてくる。突発事故の取材ではないのだからやりきれない。まあ、はじめに取り組んだテーマをポシャッタのが我々にしてみれば突発事件みたいなものだ。
 それらのことは、まあ仕方がないとして、何としても頂けないのは、無法者Yというテーマの発想だ。だいたい、I社長は、T社の創立者の息子であり、パージになった前社長の復帰に、何のかのと理由をつけて拒否し、今では自分の息子にそのポストを譲ろうと、布石をしている男ではないか。その男が経済道徳云々と正義派ぶるのもそらぞらしいが、それに乗っかかってYを無法者ときめつけようというのだからお笑い草だ。「冗談じゃない」と怒鳴りたいところを神妙にうつむいて、説明を承る。トップ屋は所詮、トップ屋だ。このお抱えトップ屋に、テーマへの批判は許されない。ついこの間も、仲間のN君が、「こんなの、特集としてはつまらないじゃないですか。」とつぶやくように云った途端、デスクからはね返って来たのは、「君から、そんなことを指示されなくていいんだ。」という、取りつくしまもないほどに突き放した、冷たい言葉だった。彼の顔はこわばっていた。そして要するにそれだけだったのである。その時の光景や、音声が、私の頭から離れることはない。与えられたテーマを記事にすること、それだけがトップ屋の仕事だと、徹してしまうことは私にはできない。その取材の中に、少しでも自分の意図を出そうと必死になり、それに必要な素材原稿を提供する。その原稿が没になってしまえばそれまでのことだが。
 私は、こんなテーマでYには会いたくなかった。Y担当になったら大変と心配したが、案ずるほどのこともなく、Y担当はP君に決まった。私の仕事は、T社の買い占めと平行して進めているD社ということになった。D社の買い占めは、この所、行き詰まり状態になっているから、ちょっと面白い。無法者の名はともかくとして、Yを探るという興味は、やはりぐっと私を把む。彼の人柄もそれなりに興味をひくが、謎に包まれている彼の資金力、株買い占めの為の資金の動員力の一端をうかがえるなら、これは大きな収穫だ。殊に彼をバックにしていたG氏亡きあとを、どのように固めてきたかは、彼が梟雄から英雄に飛躍できるかどうかのキイポイントと云える。

 まる二日間というもの、私はそれこそフルに動いた。これ以上は動きようがないと自認してよいほどに……。
 経済評論家のQ氏が
「今、一流会社として名の通っているところでも、それこそ何回かの合併、合同をやって、今日に至っている。その間に二度や三度は、あくどい合併劇をやっているんだ。現に国際舞台でも、血みどろの株買い占めによる合併、吸収が続けられている。まして、現行法の中で行われている株の買い占めを非難するなんて、どだいおかしなことだ。悪徳のように云いふらす方がどうかしてると云えるね。経営者にしてみれば、自分の位置を奪われるおそれもあることだし、大変なことだろう。しかし労働者にとっても、消費者にとっても、さらに株主にとっても、果たしてどっちがいいかとなると別問題だ。自分に都合のいいことだけを云いふらして騒ぐ経営者なんて、そのこと一つで失格だよ。Yが狙った会社を見ると、何処も、内部にいろいろ問題をかかえている会社、つまり経営上に弱点のある会社ばかりだ。彼に狙われたら、経営者は、経営の重大な警告だと考えていい。少なくとも、狙われた会社で、従業員が悪くなった場合なんて考えられないよ。」
と云うのを聞いて、私は大いに勇気づけられた。そのあと、あちらこちらと歩き廻ってみたが、驚いたことには、Yに対する批判らしいものは、何一つ出てこないのだ。Yをおそれていることは明らかだ。しかたなく、D社の社長に面会を申し込んだ。D社は、社長が国会に出ていて、会社経営がすっかりお留守になっている会社だ。それでありながら、内部は社長のワンマンシステムとなっている。これでは業績のおちるのは無理もない。競争会社にどんどん追い抜かれるのも当然の結果だ。そしてお定まりの内紛とまではいかないが、意見の対立がおこる。
ワンマン社長は、そのワンマンぶりを遺憾なく発揮して、反対意見の持ち主の首を切る。筋書き通りの経緯をたどってきた所に、もう一つ筋書き通り現れたのがYの株買い占め、ということになっている。しかもYの云い分はふるっている。この首切りは不当で納得できない。だから切ってしまったこの男の首をつなげというのだ。勿論、YとD社の社長と、首になった男Bの三者の関係は昨日今日のことではない。曾て、YがS社の乗っ取りを企てた事件にさかのぼらなくてはならない。D社長は、その時Yに資金援助をした仲だった。ところが、途中でYの形勢が悪化した。社長はYとの関係を早く切ろうとし、Bがそれに反対した。社長とBの不仲は、それからはじまったとさえ、巷間に噂されている。その不仲が昂じてBが首になり、そこに割って入ったのがYということになれば、曾てのBの恩を報い、社長に恨みをはらすというように受け取れないこともない。だが、そう簡単に割り切れる筈もなし、Yの心中は知りようもない。聞いたからといって、明かすYでもあるまい。さきの事件をYは利用したにすぎないという声もあるのだ。
 D社長は生憎東京にいなかった。四日後でないと帰らないという。東京支店長に会うのをあとまわしにして、首になった男B氏に電話した。お会いしたいと云ったが、「会うまでのことはあるまい、電話で」と云う。会いたくないという気持ちは、その声を通して伝わってくる。入り組んだ人間関係のことである。どういう形で発言するにしろ、何も後に残らないということはあり得ない。何らかの尾を引くことは間違いないとすれば、この場合、こっちにとっても電話の方がいいかもしれぬ。思ったことを率直に云って貰える可能性もあり、聞きにくいことも切り出せるかもしれない。
「彼の『勝てば官軍』式の考え方には、どうにもついて行けないが、私などのように、普通に学校を出て、順調に歩んで来た者には、及びもつかぬような逞しさ、強靭さを持っている。一口で云えば雑草のような男というんでしょうか。全く、私や、私の周囲には類のない男です。私の名をかつぎ出された事については、正直云って迷惑してるんですが……。」
 私は、Yの為に極力、直言を求めた。そのことがYの為になる。特にYをとかく悪く云う世間への口封じになると考えたからだ。
「彼の将来ですか。そうですね。よくいけば大実業家、悪くすると大悪人にもなりかねない。そういう男ですよYは。」
 意外にズバリと云ってくれたことに、安堵と感謝の心がわいた。ようやっと、批判らしい批判にめぐりあえたからだ。記者登場を許されていない週刊Lでは、誰かから意見として云って貰うしかない。語ってくれる人を探し出すほかないのだ。わかりきった発言を求めて、一日中歩き廻ることだって、今までに何回もあったことだ。今度の場合、内心は云いたくてウズウズしている人間は、いくらでもいる。そのくせ、誰一人云おうとしない。名をかくして登場することすら、恐がっている有様だ。匿名で語ったって、すぐにわかってしまうことはたしかなのだが……。「株主総会などに乗りこまれたりしたら、とんでもないことになる。」というが、それが、どういうふうに大変か、何をどうされるのかという具体的なことを聞こうとすると、もう、閉じた口は絶対に開かなくなってしまう。
 N証券のO氏に会おうとしたが駄目。時間の都合がつかないと云われると、こっちも弱い。あれだけ多忙な人間を、突然、二日以内につかまえようという方が無謀なことはわかりきっている。たとえ口実にしろ、そんな筈は無いとは云えるもんじゃない。こういうケースは何時ものことだ。それで自然、人海戦術をとって、誰でも手あたりしだい面会を申し込んで、無理矢理にでも情報を資料を掻き集めるハメにおちいることになる。それで我々は尚一層バテるというわけだ。だが、他の誰かから聞き出せる内容の場合は、これでも通用するが、O氏以外の人には聞き出せないことの場合は、この線はここで行き止まりということになる。Yと一定の距離を保ち、Yを知っている人間、ズバリ云ってくれるような人間として、三人にねらいをつけたが、その三人に残らず面会を拒否された時は、ガックリきた。どの男も、経済人として一癖も二癖もあり、その発言は含蓄あるものと狙いをつけたのだったから。
 しかし肝心な人間に会えないで頭をかかえていたのは私だけではなかった。T社の社長も明らかに面会を避けている、Yもまた会わないという状況だったのだ。Yなどは、好きなように書けばよい。どうせ、「時間を作って会っても、それだけの責任のある記事を週刊Lは書かないのだから」と云ってつきはなしたという。こういう意見は、Yがはじめてではない。週刊Lに対して、最近、各所から出はじめた声だ。妙なヒネクリ方、茶化し方をしすぎる。一の発言を、全く反対の意味に転用して使ったりもする。怒るのも無理はない。堂々と批判するのではなく、他人の言葉でひやかそうというのだからやりきれない。無い時間を、たってつくって貰おうという気持ちをなえさせてしまうのは、何時も、そういう記事作りからくる後味の悪さ、やりきれなさだ。
 二時の締切時間を気にしながら、私は最後のエネルギーを振りしぼって、Yが交渉をもった証券会社を一軒一軒あたっていった。私には云えないが、曾て彼の側近だった男を紹介しようという男に出会った時、私は文句なしに、その情報に飛びついた。ある証券会社の中で、紹介された男Rをつかまえることができたのは僥倖と云わねばならないだろう。一時五分前であった。時間の惜しい私は、彼を喫茶店に誘うこともせず、そこの椅子を借用して、本題に切り込んだ。彼の話はYの人柄から資金源にまで及んだ。私の最も聞きたいところだ。聞きながら、私は、その資金繰りの巧妙さに驚嘆し、思わずウナった。改めてYを見直す気にもなった。戦後、雨後のタケノコのようにできた信用金庫を利用しているという。それも、僅かの持ち株を持った株主として、最大限に活用しているというのだ。Yなら、そのくらいの着想は当然だろう。やはり彼は梟雄なんだと再確認した。
「彼は女癖も悪い。これと思った女は、必ずものにします……。」
 この話は私に興味がなかった。それに時間は切迫している。飛ぶようにして社に帰り、一気に原稿を書いた。ただ、Rの話は発言通りには書かなかった。相当手心を加えてセーブした。Yに私怨のある男とみたからだ。
 記事になって出てきたものは、Yにとっては讃めすぎといった感じであった。無論、無法者などという所は一かけらも無い。Yを適当にやっつけてはいるのだが、そのやっつけている所は、短所が長所になるような云い方になっている。彼をやっつけている個所は、Yに不満を持っている連中に対して、解毒剤の役割を果たすことだろう。何をされるかわからないという恐れから、口を封じておくよりも、Yにとって数等上の解決である。そしてYは、その連中の不満を心に受けとめておくべきだ。しかも、記事全体から見るとき、従来の風評にくらべて提灯を持ちすぎたと思われるくらいの、格段の評価がなされていることも確かなのだ。ただストレートに讃め上げた記事なんて、そのまま信じるほど、今の読者はおめでたくない。どの面から見てもYに感謝されそうな、されてもいいようなできぶりだった。
 もともと「無法者Y」になるわけはなかったのだが、そうならなかったことは、やはり嬉しかった。東洋電機の経営者、T社のI、D社の社長、こんな連中が何時までもはばをきかしているのがおかしい。しかも、こんな会社は、労組も妙ちきりんなことで共通している。そうなると、失格経営者の会社をYのような男が攻めるのも、悪いことではない。労組の目覚めるきっかけともなろうというものだ。こんなことを考えて、いい気になっていた私だったが、思いもよらぬYからの抗議には、すっかりドギマギしてしまった。

 抗議は、Yの資金源について語ったRの発言の、ほとんど全部に及んでいた。抗議の意向を聞いたデスクは、私に、Rの覆面を脱いでもらえないかと云う。今頃になって脱げるぐらいの覆面なら、はじめから素面で登場してもらっている。「駄目でしょう」と答えておいて、一応Rに電話した。「とんでもない。どんなことがあっても、それだけは約束を守ってほしい。私の名前でもわかろうものなら、どんなことになるかわからない」と云う。あわてふためいている様子が、言葉の調子や声のぐあいで、手に取るようにわかる。だが、私を驚かせたことは、この間の話で、「見た」といったことが「聞いた」と変わってしまったことだ。まさか、自分の私怨を週刊誌の誌面を利用して晴らそうとしたとは思いたくなかったが、これで、Rを引き出すことは、はっきり断念するしかなくなった。Yの経歴について語ったRの発言が違っている。これを橋頭堡に、Rの発言全部を根も葉も無いこととして押し切ろうというのがYの作戦らしい。「紳士録を見てくれ」と云われて、デスクは弱ったらしい。紳士録は戸籍謄本じゃないから、絶対的なものともいえないが、今更、Yの戸籍調べにさかのぼる気もおこらない。私としては、問題の経歴の部分だけを訂正すればいいと考えていたが、デスクはYに強引に押されて、大幅な訂正文をのせる気になったらしい。ただ、その範囲を最小限に食い止めたい模様だった。ともかくYとの交渉に私を参加させないので、そのへんの細かいところは、よくわからなかった。週刊Lはじまって以来の大訂正記事を書くことに追い込まれて、デスクは相当頭にきていたようだった。私にあたってくるのも、これはやむを得ないことだったろう。しかし私は、この段階に来ても、まだ楽観していた。
 Rの発言をR自身の発意によって削除するならともかく、Y若しくはYの代理の発言で否定してみたところで、どうなるわけもないではないか。そんな訂正文を誰が信ずるものか。そんな愚かなことをするわけはない。そのぐらいのことのわからないYではあるまい。話が通じれば了解される筈と思っていた。第一、私はYを高く評価していたから、そんなことのわからぬ男と思いたくもなかった。
 ところが、Rの発言ばかりでなく、「雑草のような男」と批評したB氏の発言にまでケチをつけてきた。Bの云わないことが、デッチあげられているというのだ。言葉に少しの誇張はあったにしろ、はっきりと言ったことに間違いはない。しかし活字になってみると、少々はっきりしすぎる。そこでいささか都合が悪くなったB氏はYに了解を求め、電話で云いわけをしたらしい。その言葉を盾に、取り消しを要求してきたというわけだ。私は、何だか情け無くなってきた。Yって、そんなにケチな男だったのかと。
 曾て、ある若い学者の批評を、友人の学者に頼んだことがあった。二人は同時に、そのゲラ刷りを見なければならないことになってしまった。すると友人の方は、あんなことは云わなかったと私に食ってかかり、都合の悪い個所を削除してしまった。若い学者は、笑ってそれを眺めていた。彼には、友人の気持ちも、その時の具合の悪さも、すっかり見抜いた上での寛容さがあって、同年輩の二人の違いを、はっきり見せられた思いをしたことがある。だが、Yには、それだけの理解力も、包容力も無いのだろうか。もう、ご勝手に、という気持ちになってしまったが、事はそれほど簡単ではなく、遂に、Yの前でBと対決するということになった。私としては、Bに迷惑をかけるようなことをした覚えもなく、ここで対決すればBが迷惑するだけのこと。いやでたまらないが、Yが承知しない。仕方なく覚悟を決めて出席することにした。一方、私はBに電話をした。「ご迷惑をおかけしたようで」と云うと、「そんなご挨拶をされるとかえって恐縮……」という返事。これじゃ、ますますYの愚かさが浮き彫りにされているようだ。Yは果たして梟雄なのか。こんな男に現在の経営者はおびえなくてはならないのだろうか。それとも、おそれているのは、やはりYの無法者ぶりなのだろうかと、三、四日前とは全く逆の考えが、しきりに頭に浮かぶ。

 約束の時間と場所に、とうとうBもYも現れなかった。さんざん待たされたあげく、デスクと私の前に現れたのは、Yの代理であった。待たされていた一時間近くの間、応対に出たYの社の者は、
「僕たちも本当に仕事がやりにくいんですよ。大蔵省や通産省に顔を出すと、海賊が来たなんていう云い方をされるんですからねえ。皆さんに、率直なご意見を出して頂けると助かるんです。是非、云ってください。」
と、深刻な表情で語るのには、こっちが驚いた。勿論、雑誌の記事を不当と思っている様子はない。片身の狭さを訴えながらも、直言することのできない弱い社員達なのだ。

 私は、Yの代理に、訂正文を出すことが如何にも無意味なこと、匿名で登場している、比較的弱い発言をかえって重視させる結果になり、印象も強める反作用となることを強調して、経歴の訂正に止めることを薦めた。しかし相手はYではなくて、代理である。私の説明も、アタマから聞こうとしない。
「雑草のようなという表現にしても、あそこは、なかなかきかせる部分です。微妙な立場にいるBさんに、これだけのことを云わせるYは、たいしたものだという評価がされているほどです。その片言の部分にケチをつけると、すぐれた発言までだいなしになってしまう。とても僕には納得できない態度です。社長は本当にそう云っているのですか。一度、社長に会わせてくれませんか。私から直接、社長にお話したい。それが駄目なら、もう一度、社長と相談してみてはくれませんか。社長の為を思ってなさることが、逆に社長にケチをつけるようなことになりかねないと思うのですがね。」
 私は極論してみたが、代理は少しも動かない。僅かに、思案してみるような表情をした。それに勢いを得た私は、さっきの社員の言葉から、社員達の協力を期待して、最後の発言を試みた。
「この記事なんてほめすぎですよ。結局のところは、大いに持ち上げているじゃありませんか。Rの発言なんて、その結論の前では、影が薄い。やはりYという人物は、たいしたものだということになっているじゃありませんか。」
 代理は、明らかに「まさか」という顔をした。彼には、記事の個々のことだけが頭にコビリ付いて、全体としての読みとり方など、これっぽっちも思い浮かばないらしい。まわりで、我々のやりとりを見守っていた社員達を振りむき、「どう思うかな。」と声をかけた。半信半疑とまでもいかないふうだった。一人の社員が「何でしょうか。」と顔をあげた。今のやりとりを聞いていなかったわけもないのに、こんな調子だ。クドクドと説明すると、今度は「まだ読んでいませんので」と云う。馬鹿らしくて、口を開くのもいやになった。去勢されているというのか、腰抜けというのか、こういう連中に取りまかれているYは、よほど聡明でなければ仕事になるまい。それとも彼が彼等を腰抜けに育てたのか。そうなら、少し骨のある人間は、たちまち去って行くだろう。だが、社員のうちで、ただ一人、私の言葉を支持する男が現れた。代理は依然として「どうかな」という表情。まるで重箱の隅だけをほじくろうとしている相手に、ちょっとやそっとの話し合いではどうなるものでもないらしい。
 デスクがポケットから訂正文の草稿を取り出した。私は、そんなものが既に用意されているとは知らなかったからショックは大きかった。私の出る幕ではない。
 訂正文は、Yの代理が、Rの発言を否定した文章だった。編集部の訂正ではない。訂正文を出すことで、社に対して責任を感じていた私だったが、その必要はなさそうだ。訂正広告みたいなもんだ。デスクもなかなかのしたたか者だ。だが果たして、こんなもので相手がOKするかどうか……。案に相違して、この訂正文は、次号に堂々と掲載されることとなった。とんだ茶番劇を演じたことになる。
 これで、とうとうYと会う機会は逸してしまった。Yは梟雄であるか、英雄となる日があるか。私にはまだわからない。Yが新しいタイプの経営者として飛躍し、経済界を内側からゆさぶる時の来るのを願う気持ちは変わらない。しかしその為には、もっと強力な部下が必要なのではないかと思うようになっていた。

 

                 <日本のもう一つの顔 目次>


7 道徳教科書と教科書会社の再編成

 

   (一)

 昭和37年7月末のY紙は、5段のカコミ記事で、荒木文部大臣が、「道徳教科書作成の検討を事務当局に命じた」ということをスッパぬいた。週刊Lは、早速この言葉尻に飛び付いて特集することになった。記事の内容から察すると、昭和39年度から登場することになるとも考えられた。そうなると、二十年ぶりでお目見得する修身教科書ということになる。そこにどんな内容が盛られるか、戦中、戦後の違いを見ていこうというのである。
 私にとっては、久しぶりに意欲のわくテーマである。四日間の取材で何処まで追求できるか、まことに覚束ないが、私は私のペースで、行けるところまで行ってみることにした。教科書の国定化の動き、教科書無償配布の動き、教科書会社再編成の動きなど、どうからまっているか、その底には、はかりしれないほどの不気味さが感じられた。
 それにしても、週刊Lに属する私達トップ屋が、バラバラなことが、こういう特集の場合、特に弱みに感じられる。私達が一体になることを阻んできたのは会社側である。こみいった人間関係と、個人単位の契約とも云えないような会社とのつながり、そういうアイマイなものに影響されて、会社の意向に沿うような形で、とうとう一本にまとまれずにきた私達だ。口惜しいが、今更、どうすることもできぬ。この時も、文部省側を取材して、「文相の指示は事務局にきていない。Y紙の先走りである」と聞いてきた仲間の発言と、その動きは深く潜行しているという私の情報は、真っ向から対立してしまった。こうなると、私はそれ以上、自説を主張する気が消えてしまう。といって、私は私の見通しに自信がないのではない。少なくとも、私の情報源の方が、たしかであり、その後の情勢で事態はどう推移していくにしろ、現在の時点における考えには確信が持てる。だが、どうしても意見を斗わす気になれないのだ。私自信が疎外者的位置にあることも事実だし、それだからと云ったらよいか、その上にと云ったらよいかわからぬが、自説を固持することに空しさを感じてしまうのだ。いつか私の立場は、そういう状況の中におかれていた。だが、投げやりになっていたわけでもない。私は私の取材を進めていくほかなかったのだ。
 私は、文部省の友人の云った言葉を、もう一度反芻してみた。
「大臣の狙いがどの辺にあるのか、およその見当はついているんだろう。担当事務官に指示がきたのは事実だ。それでなくても沢山の仕事を抱えて、フウフウ云っているからな。その男の本音となると反対だろうね。だが、上司の命令となれば、やるほかないからな。
 教科書無償配布にからませて、道徳教科書を39年度からやりたいのが、大臣の本音であるという声は耳にするね。内容はどんなもんでもいいと云ってもいいかもしれん。良識的な線に近いものになると思う。世論の反対に会わないものを、ということになるね。できてしまえば、そのあとは思う通りになるからね。マス・コミなんて最初だけだからな、ワイワイ云うのは。君を前にして云うのは悪いが、あとは野となれ、山となれという無責任さだから。」
「従来の検定順序からいえば、とうてい間に合わないのじゃないか。」「いや、そこには国定の線も出てくるんじゃないか。原稿を文部省で作って、どこかの会社に製作、配給を請け負わせればいいという声なんかもあるんじゃないのか。君、知っているんだろう。」
「とすると……。筆者の選考も、秘かに行われているのと違うか。」
「サァね。そこは、君の明敏な頭で想像するんだな。」
「社会科の右寄りに活躍したMグループまで、筆者はのびるかい。」
「そこまでは行かないんじゃないかな。」
「K社の線は強いか。」
「サァ、わからん。」
「省内の勢力は、石井派と河野派が強いらしいじゃないか。」
「そういうふうにも云われているね。」

 

   (二)

 私は、マークしているK社をあと廻しにして、G社などの、教科書会社の大手にあたってみた。これといった情報を掴むことはできなかった。「商売だから、乗り遅れるようなことはできないが、この現状では動きようがない。39年度供給の教科書に間に合わすことは、現行のやり方(検定出願、検定合格、見本本の展示会展示、採択、供給と、どんなことをしてもまる二年半かかり、従来は三年乃至、四年前に、検定受理種目と受付締切日等が指示されている)では無理だ。しかし、準教科書として発行している物があるので、場合によっては、それを教科書原稿として切りかえて、検定出願できないことはない。やり方によっては何とかなる」という所が曲者といえばいえる。現在、その準教科書の売れ行きはと聞くと、これはどの社も売れ行きがよくない。当社にもありますという看板の為の手持ちか、いざという時を考えての事前処置か、その辺はあいまいだが、発行する時は、相当に売れるつもりでもあったのが、案に相違して、持っているだけとなったのが実情らしい。そのへんに、現場で、道徳教育の時間をどう使ってよいかに迷っている様子も読み取れる。ただし、準教科書は教科書と違って値段の制約は無いから、普通の教科書に比べれば割高な定価がつけられており、販売部数が少ないとはいいながら、教科書の販売部数に比べての話で、損をしながら発行しているわけでもない。道徳準教科書は、教科書のスタイルを、もう少し綺麗にしたようなもの。内容は、似たり寄ったり。煮え切らない感じは共通している。

 最後に残されたK社を、私が何故マークしているかには、いろいろと理由がある。その一はK社の社長K氏のことである。K氏は、もともと大手印刷会社のD社の社長であり、経済同友会のメンバーとしても、最近特にその腕を大きく買われている男だ。D社が総評発行の「新週刊」の印刷をドタンバでキャンセルして、創刊の手順に大手違いを生じさせたのは衆知のことである。佐藤派のA氏と近い関係にあるK氏はまた、池田総理のブレーンと云われ、財界実力者の一人としてマス・コミの体制くみいれに努力を払っているチャンピオンとして有名な産経新聞の社長水野成夫氏とも深い関係にある。その水野成夫氏がK社の取締役に顔を出していることでも、それは裏書きされている。
 先年、F印刷がD社に合併されたとき、D社が欲しかったのはF社の敷地だったとか、工場の拡充をはかる為だなどと噂されていたそうだが、事情通は、F印刷の子会社F社をK社に吸収するためと、うがった見方をしたものだ。F社は教科書大手三社の中に入る会社で、小、中学校に大きな勢力を持っていた会社である。K社も採択部数の上では急速に伸びてきた会社ではあるが、F社には大分水をあけられていた。不調を伝えられていたとはいえ採択部数において下位の会社に、F社は合併されたのである。合併の筋書きは勿論、F印刷のD社への合併に伴う形で行われたが、教科書国定化の際に、採択部数実績が物を言うことは確かだから、(合併後の採択部数は全国一位にのし上がったが、その後また落ちた)その為の布石と考えられないことはない。発足当初から長いこと名目的社長でしかなかったK氏が、最近しばしばK社に現れて陣頭指揮をとっていると伝えられているし、教科書協会(教科書発行会社の作る任意団体……設立当時はともかくとして、現在では会員にならずに発行会社でいることが、困難な状態になっているようだ)の会長を二期連続して引き受けている熱心さである。会長任期中に、K社は販売方法をめぐって公取委に引っかかるという問題をおこしたが、そのとき、責任をとって辞任すべきであるという、有力会員の声をあくまで抑えて、会長の椅子に座り続けたことは、むしろ異常というべきであった。さらにK氏は、もう一期は会長を勤めるハラでいるらしい。ということは何を意味するか。教科書界の再編成という臭いを感じないわけにはいかない。
 荒木文相は、逓信官僚あがりで、代議士になって以来、文部政務次官は勿論、文教委員にも縁のうすかった人間である。池田が文相を池田派で取ろうとはかりながら、適任者がいないというアナから、文相の椅子を射とめる幸運を得たが、池田内閣唯一の高姿勢が、妙にその方面に人気をかわれて、三回の改造をくぐり抜けて大臣の椅子に坐り続けてきた、内閣唯一の男となってしまった。水野氏を通じて、荒木とK氏の結びつきは、当然考えてもよかろう。念の為に云えば、K社以外の教科書専門会社は、概して財界に縁が遠く、政界にも離れている。戦後いち早く教科書国定化の線をねらったG社は、今日、むしろ一歩後退している感がある。しかし、社内の人員構成には他社を抜きんでているので、もし、K社がお膳立てをしても、G社にさらわれないとは限らない。G社を訪ねての感じは平穏そのものであったが……。

 K社から何かをかぎとりたかった私は、K社の重役であり、編集顧問でもあるH氏に面会を求めた。H氏の口からは、何のにおいも出ない。逆に、そんな動きがあるのかと問い返される始末。K社自体では道徳準教科書を作っていなかったが、合併したF社で作ったものを、K社発行として売り出していた。それにしても、K社が何もしていない筈はない。私は方向を変えて、K社と関係の深い学者の線をあらってみた。すると、簡単に、K社が道徳の本を計画し、著者決定の段階もすんで、打ち合わせの会合を行っていることがわかった。ただ、それが教科書になるか、準教科書になるかという、こちらにとっては最も肝心なことが、関係者に対しては明らかにされていない。だが、その為に、かえって著者に極秘だなどと云うことができなかったのだろう。著者は、秘密裏に事が運ばれているとは知らなかったので、あっさりわれたのだった。著者の中心人物はTという、良識的な自由主義者としての評価を受け、体制側からは勿論、反体制側からも、強い忌避は受けない学者だった。
 早速T氏に連絡をしたが、東京を離れていて、帰京後では、締切りに間に合わないことがわかった。旅先に電話を掛けるまでのこともない。ウラだけをとれば十分である。H氏を電話口に呼び出し、T氏の名前を云うと、明らかに虚を突かれた感じで、手の平を返したように、それが公になっては大変だから、名前だけは是非伏せてほしいと懇願する。さすが、強気の彼も参っている様子。「よろしい。名前を伏せる条件として、荒木文相とお宅の社長の線が結びついていることを聞かせてほしい」と云ったが、知らないと云う。平取締のH氏にはわからないことかもしれぬ。だが、このあいだ、あんなに綺麗に口を拭っていた彼のことだ。電話口で押し問答したが、結局わからないと云うだけ。これ以上責めても無駄だろうし、週刊LとD社の関係ということもある。K氏を深追いすることは、L社から忌避されて、ストップをかけられないとも限らない。A氏の線から追ってみようとしたが、ヨーロッパに旅行中だった。K社の競争会社を押しても、どうもピント外れの感じ。しかし、あまり売れもしない道徳準教科書を一揃い持っているK社が、文相の今回の発言をひと月以上さかのぼる六月頃に、著者との交渉に入ったという事実は一体何を物語っているのか。どう考えるべきか。疑っていけばきりがない。

 

   (三)

 次に私は、荒木文部行政を、池田派以外の線から追求してみた。官僚派である池田派のアナとして、荒木文相の連続留任が成立した為でもあるまいが、最近、佐藤派の中に、文部行政に積極的な勉強をはじめている人達がいるが、これという適格者がいない。いわゆる官僚派は文部行政が弱い。文部省出身の政治家が少ないせいもあろう。文部畑は、ずっと、石井派を中心に党人脈が強味を持っている。池田第三次内閣の時、各派が文相の位置に執心したが、池田は頑として他派に渡さなかったし、それがまた荒木に行くことにもなった。
 今度の荒木の道徳教科書には、自民党各派とも大賛成。ただこれで、池田派に名を成さしめる結果となってはと、痛しかゆしというのが実情のようだった。道徳教科書の方向を決定するのは、近く改選されることになっている教育課程審議会の新メンバーの編成によってカギを握られることになるように思われた。人選は文部省でやる。そうなると……自ずとわかるような気がする。
 文部省での道徳教科書執筆陣は、今のところ、省内のMグループには及んでいまいと、友人は語ったが、Mグループと云えば、同じ仲間といわれる、日本教育協議会の名が浮かんでくる。協議会のスポンサーは池田総理に近い、大阪商工会議所会頭の小田原大造氏である。同協議会は、日本父母協議会と結んで、最近、とみに活発に動いている団体である。どっちを向いても、既に準備は着々と進んでいることが痛いほどに感じられる。

 

   (四)

 記事が出ると、抗議の形ではなく、K社から私個人あてに、あのニュースを何処からキャッチしたか、是非教えてほしいと云ってきた。H氏が洩らしたのではないかと、社内で疑われているらしい。F社との合併以来、内部事情が複雑化して、K社長の狙うような態勢にまで、社そのものを引っぱっていくのは困難というのが実情らしい。しかし、K社の動きも表面化した以上、道徳教科書をめぐる動きは、いよいよ活発化していくにちがいない。記事には、当然、政治的な動きは全然出なかったが、読みようによっては、いろいろと推察もできよう。K社のことを書いたことで、少しはチェックの役割を果たしただろうか。
 だが、それとは別に、私には一つの感慨がある。昭和33年、文部省の「道徳教育の指導要領」がでたとき、(各教科書会社の準教科書は、当然、これを機会として一斉に出された)それに基づいて今井誉次郎氏達が、一出版社から(教科書会社ではない)副読本を出した。これが、反体制側から批判でなしに、非難を受けた。そして、副読本の売れ行きは悪く、会社は一回潰れ、当時のものを今も細々と売っている状態にある。当時出版された副読本が、たとえ十分なものでなかったにしろ、寄ってたかって打ちすえるのではなく、現場との緊密な連契のもとに、積極的に内容をつくりあげていく努力が、その後、特に重要だったのだ。道徳教育の問題は、長い期間、世論の中で揉まれ続けてきた。そのなかで、道徳の時間を特設するなどの法的根拠もつくりあげられたが、道徳教育の内容については、指導要領が出て数年を経た今日でも、一向につかみどころのないものとなっている。ところが、この問題に対する世論は、年々、静まってきた。政治に押し切られつつあることを意味するのかもしれない。この斗いでも、常に後手に廻っていたのが反体制側だ。もし、今井氏達の仕事の上に、着実な積み重ねができていたら、四年後の今日、文部大臣の動きに、あわてたり、引きずりまわされることもなかったのではないかと思われてならない。
 それから半年経った今、文部省編集による道徳準教科書の印刷出版に、教科書会社の入札が行われ、十四社が参加したという情報を聞いた。あの時、頑強に、そんなことは無いといっていた筈の文部省は、やはりその陰で、着々と準備を進めていたのだ。そして今国会で、教科書国定の線をつっこまれた荒木文相は、相変わらず、国定など、絶対にしないと答弁をしている。

 

                 <日本のもう一つの顔 目次>


   8 トップ屋、売春地帯を行く(その一)
       主婦であって主婦ではなかった女達

 

 中部地方にあるK市は、目下テンヤワンヤという記事が、K市で出ている地方紙の社会面に出た。売春禁止法がでて以来、あちこちで売春組織が挙げられることは、そう珍しくもないのだが、今回のそれには、十数人の人妻が連なり、隠密裡に参考人として呼ばれたというショッキングなものだった。K市の亭主族は、どんな気持ちで我が妻を眺めたことだろう。家の奴に限って……。「でも、知らぬは亭主ばかりなり」のことわざもあるではないか。また、それだけの組織ともなれば、呼び出された人妻に数倍する男性も調書を取られている筈。これも、家人に知られては、家庭争議も引きおこしかねないことだから、呼び出されたらと、胸をドキドキさせた小心の男性族も多かろう。K市の有力者達がその中に含まれていたのは、まあ当然のことだろう。道端で、職場で、ヒソヒソ、ガヤガヤ、ワンワンと噂が噂を生み、拡がっていくさまが、目に見えるようだ。
 こんな事件を、一地方の事件として、そのまま見過ごす筈はない。各週刊誌記者が、ドッと押し寄せるだろうことも、わかりきっている。本当の騒ぎは、むしろそれからかもしれない。週刊Lが、我関せずでいるわけはない。至極当たり前のこととして、取材に行くことになった。
 デスクは「人生の三分の一はイロゴトじゃないか。」と、私に向かってというより、自分に云いきかせるようにキッパリと云った。人生の三分の一だなどと云われると、ケチをつけたり、変な眼で見る方がおかしくて、むしろ積極的なテーマのような気がしてくるから不思議だ。無論そうにちがいない。問題は積極的な取り組み方にあると云えそうだ。
 K市に着いて宿で一服した私達は、県庁、市役所、市警、NHK支局、K大学、K銀座と車で一まわりした。売春斡旋をしていたKの住む町も通ってみた。こうして、K市の地図の概略を頭に入れながら、運転手君に、バー、キャバレー、料亭、連れこみ宿について、いろいろと話を聞いておく。このあと、私達は二派に分かれて取材を開始することにした。私はM君と組んで、先ず警察署に。K警察はご多分に洩れず、古びて黒ずんだ建物である。何時行っても、どこの地方ででも、警察は好きになれない。別に私が悪いことをしているつもりもないし、特に反抗を示そうと心掛けているわけでもないが、何か重苦しい気持ちにさせられるのが堪え難い。その原因の一つはこの陰気な建物のせいかもしれない。どうにかならぬものかと思いながら、防犯課の部屋に入った。室内もまた、殺伐そのもの。豊かさとはおよそ縁遠い雰囲気だ。こんなところで、日夜仕事をしなくてはならない警察官を気の毒に思う。

 防犯課長は、話せる男という印象。最近、県警から来たばかりで、若いがやり手だという噂がそのまま当てはまるような男だった。だが、話をしているうちに、話せる男である故に、彼から話を聞き出すことの困難さがわかってきた。
「彼女達はいいことをしたんじゃない。しかし、だからと云って、彼女達の家庭がどうなってもいいということにはなりますまい。私達は、彼女達の旦那に知られずに事情を聴取する為に、そりゃあ苦労したもんです。誰にもわからんように取り調べを済ましたことを、私達は誇りにさえ思っているんです。それをもし、今になって、あなた方に名前を教えてしまったら、これ迄の苦労も無駄になってしまう。」
「彼女達に迷惑のかかるような記事を書くわけはないじゃありませんか。それに彼女達から話を聞くにしたって、絶対にヘマをやるようなことはありません。信じていただけませんか。」
「そりゃあ、あんた達の良識は認めますよ。そんじょそこらのエロ雑誌ではないことも、よくわかっています。多分、あんたなら、旦那にわからんように、慎重に話を聞くだろう。だが、どうして、そうまでして女達から話を聞かにゃならんのです。女達も、今では後悔して、なんとしても立ち直ろうと懸命になっているときですよ。折角、誰にも知られずに、どうにか済ませたことなのに、今、あんたに知られて訪ねてこられたら、一体どうなると思うかね。」
 課長の云うことはいちいちもっともだ。だが、「ハイ、そうですか」と引き退がれないのが私達の仕事だ。それに、警察の話におんぶしないで、事件関係者から、直接、生々しい発言をとるのが週刊Lのやり方でもある。言葉を変え、角度を変えて課長に食い下がったが、彼を口説きおとすことができない。時計をみると、何時の間にか三時間も経っている。もう一度出直してくることにして、一先ず退散することにした。K市の名士達も、お客の中に加わっているとすれば、この割り出しが一層難しくなってくるだろう。帰りがけに、記者クラブに寄って、最近、市警防犯課から、よそに転出した刑事の名前を訪ねた。県警のNがそれにあたると教えられる。
 県警本部へ行く。Nも、防犯関係者も留守であった。こうなると明日を期するほかはない。無収穫のまま宿に帰ると、地検、弁護士筋を追求した仲間達も、やはり手ぶらで帰って来た。

 翌朝、再び市警へ。課長も課員も、呆れ顔を隠しはしなかった。でも、「またか」といったいやな顔をされなかったので救われた気持ちだった。昨日とは違った角度から、食い下がる。
「あんた達みたいに粘る人を見たことがないよ。あんた達の人柄もよくわかった。教えても大丈夫というような気持ちになって、実は困っているぐらいだ。だが、私達が、他には絶対に口外しないと約束して、捜査に協力してもらった参考人だ。その名前を私が洩らしたということになったら、私達はどうなると思います。これからの私達の活動はどうなります。私の方からお願いします。私をもうこれ以上責めないでもらいたい。」
 課長は、それだけ云うと、クルリと椅子を廻して窓の外に目をそらしてしまった。課長の言葉は如何にも辛そうだった。悲痛な感じがこめられているようにも思えた。私は連れのM君を促して立ち上がった。決して途中で仕事を投げ出すことを知らぬM君は、今がチャンスと云わんばかりの表情で私を見上げた。しかし、私にはそれができない。課長にこれ以上食い下がるのは酷というものだ。課長の言葉をそのまま受けて引き退がるなんて、トップ屋失格かもしれない。失格でもいいじゃないかと思う。課長の言葉通りとすれば、彼に約束を破らせることになる。そのことが、どうしても、私を押さえるのだ。
「課長、どうも長いことお邪魔しました。」
「すみませんな。」
 バカヤローと叫ぶデスクの顔が見えるようだ。
「オイ。県警をおとそう。それでいいじゃないか。」
M君もしかたなくついて来る。

 県警で、私達は担当の警部に会い、この事件についての批判を聞くという戦法に出た。事件の概要を聞こうとすれば、お門違いとばかり突き返されるに決まっている。取材の仕方も知らぬ記者と笑われるのがオチだ。だが、ここで何等かの手がかりを把まねば、どうにもならない。そこで編み出した苦肉の策だ。私達は、個々の女性の夫婦関係、家庭環境など、できるだけ具体的なものに即して話を聞いた。事件の詳細は、市警ですっかり聞いてきたように装って……。警部の話で、女の年令、旦那の年令と職業、子供のことなどがわかった。人妻が何人いたかを確かめることもできた。警部は、いろいろと喋った。
「旦那さん達が会社の仕事に忙し過ぎて、奥さんに対するサービスを十分にしなかったところからおこった、と想像できるが、県下でも珍しい事件と云えるな。」
「彼女達が何故そうなったか。そのあと、妻として、女としての彼女達の心に生じたヒズミ。夫婦間に溝はおこったかどうか、おこったとすれば、それはどんなものなのか。夫に隠しおおせたことを、今は一体どう考えているのか。」といったことを、係官としてどのように考えるかを警部に訊ねた。そんなことが県警に報告されていないことは百も承知の上である。直接取り調べた市警の刑事だって知っているわけはない。もし、取り調べ官が、そんなことを聞いたとなったら、それこそ問題だ。警部は「さあね」を連発する。「彼女達の内面におこった心理劇を記事にしたい」と云うと、「そういう記事なら、なかなか面白そうじゃないか。だが、それは本人達に聞いてみるほかないだろう。」と答えた。
「本当にそうお考えになりますか。」
「そりゃそうだ。単なる興味本位の記事じゃなくなるんだからね。」
「今お聞きしたお話の中で、AとBとCの三人の住所を教えてください。さっきのようなことを聞いてみたいのです。」
 警部の顔が瞬間こわばった。
「なに。君達、市警から聞いてきたんじゃないのか。」
「実はそうなんです。参考人との約束がなければ教えてもいいのだが、約束を破ることだけはできないというんです。課長の云うことも道理と思いましたので、こちらに伺ったわけです。」
「君達は筋を通すんだね。」
「何でもかんでも、聞きさえすればいいんだという人間に見えますか?」
「えろう、自信たっぷりの云い方をするじゃないかね。」
「それが唯一の取り柄と思っているんです。あまり茶化さんでください。」
「市警で明かさなんだものを、ここで発表したとなると、やはり問題じゃないかね……。私から聞いたとは、決して云わんと云うんじゃろう。」
「先手を打たれちゃ、云いたくても云えんじゃないですか。私はそんな顔をしていますか。私はそうは思わないんです。私自身、彼女達と話し合ってみたいんです。心の底を叩いてみたいんです。彼女達の相談にものってみたい。重い気持ちの解放にも、一役買ってみたい。トックリ話し合ってみたいんです。」
「君は、本当にそんなことを考えているのかね。」
「勿論です。」
「そんなことができると思っているのかね。」
「思っています。それ無しに、この四十近い男一匹、こんな事件に自分を注ぎこんで追えると思いますか。私こそ警部にお聞きしたいですね。」
「フン」と云ったまま、警部はしばらく何も云わず、私の顔を見つめていた。
 警部と私達の長々としたやりとりの間に、退庁時間はとっくに過ぎ、広い部屋に、私達三人だけが取り残されていた。
「駄目ですか。」
「駄目だね。」
「それじゃ、主人と別れた女性がいましたね。その人の名前と住所だけでも教えてくれませんか。」
 こうやって、ようやく私達が聞き出したのは、Aの名前と住所だけだった。礼を云って私達が引きあげようとした時、警部は、もう一人の名前(?)をポツンと口にした。この日、もう一組の仲間達も、Aの名前と、お客の何人かの名前を割り出すことに成功していた。

 やっとの思いで見つけたAの実家に行くと、彼女は既に、この家を出ていた。子供だけは預かっているが、彼女が何処に住んでいるかは知らないし、知りたくもないと、出てきた母親は剣もほろろの態度。家の傍らで遊んでいた子供に聞いてみたが無論わかろう筈もない。ただ子供の口ぶりから、母親の話とは違って、彼女が時々帰ってくるらしいことがわかった。明日から、彼女の帰りを張り込むことに手筈を決め、夜はキャバレー廻り。つまり彼女がキャバレーで働いているということを手がかりに、しらみつぶしにキャバレーをあたってみようということだ。私の担当は十軒近くあった。
「いらっしゃいませ」とうやうやしく迎えるボーイに、「客じゃあないんだ」と制しながらAのことをたずねる。二十二、三才、Aという名の女といっても、わかろう筈もない。マネージャーを呼んで聞いたり、働いている女性たちに聞いてもらったりするが、この世界で本名だけ、顔かたちもわからぬ女を探すということは甚だ困難だ。丁寧にこちらの話を聞いてくれる店も、そうそうはない。
「そんな子、ウチにはいないね」
「今忙しくて、そんな暇なんかありませんや」
「いたって、出てきっこないだろ」
と、はじめの態度とは掌のひらを返すようなつっけんどんな云い方で、クルリと向こうを向かれては、取りつくシマもない。だからと云って、そのまま帰れるわけではない。第一、そんな店にこそ、いるんじゃないかと思われてくる。素知らぬ顔をするボーイやマネージャーに追いすがって、何とか確かめてみなくてはならない。これまでにも、何度か、キャバレー、バーの女給を探し歩いた。何時もやりとりは決まっているし、そういうことに関して親切な店は少ない。女と酔客達のバカ騒ぎを横目に見ての、味気ない尋ね人だ。何回繰り返しても、そのいやさに馴れることはできない。二時間も歩きまわって、結局何の手がかりも掴むことはできなかった。誰もが疲れはてた、やりきれぬ表情で帰ってきた。一人の女を探し求めて、大の男が五人もかかっての、このありさま。一体我々は何をやっているのだろう。

 第三日目、私とM君は、市警から県警に移ったNの家を訪ねた。Nは休暇をとっていたので、まだ会えなかったのだ。車で一時間半もかかる自宅にいるので、後廻しにしていたが、こうわからなくては、行ってみるほかなかったのだ。A、Bの名前を聞いていたので、Nの口から、うまく、第三の女Cの名前を聞き出すことはできたが、住所は駄目だった。すぐに県警にとって帰す。
「どうだったい。」
「ゆうべは、Aをさがして、何軒のバー、キャバレーを歩きまわったかわかりませんよ。すっかりあたって、グロッキーになっちまったのに駄目でした。しかし、ヒョンなことからCの名前を知りました。市営アパートにも一人いるらしいという情報もつかみましたから、一軒一軒あたってみるつもりです。BもT派出所管内とわかりましたからね。これもやる予定ですよ。まあ、多少、周囲の人達に感付かれるおそれはありますがね。やむを得ないでしょう。」
 T派出所の名は、N刑事がBを呼び出すのに苦労したこと、それで派出所の巡査を使ったと語ったことから知り得たもので、全く偶然の収穫だったのだ。
「ヨシ、わかった。Bの住所に限って教えることにしよう。君達に、そう動きまわられちゃ、こっちで隠している意味がなくなってしまうからね。」

 ちょうどこの頃、Aをはっていた仲間のS君は、A家に向かった一人の女性に、「Aさんちょっと」と声をかけた。彼女は振り返って「私、Aじゃありませんが」と、さもいぶかし気にS君を見た。Aの子が「小母ちゃん、いらっしゃい」と、A家から出て来た。これでS君は、彼女をAと断ずる根拠を全く失うほかはなかった。後になって、彼女がやはりAであったことは判明したが、それにしてもAの親の鮮やかな演出には、きれいにひっかかったことになる。Aの母親が、口を極めて、離婚したAの元の夫某(31才)を攻撃したことから某の住所を知ることのできたS君は、その足で、国家公務員である某を訪ねた。某はたまたま家にいたが、彼が既に再婚して新家庭を営んでいるのには、S君も驚いたらしい。今度のことで、別れるのは当然と云わんばかりの口ぶりだったという。
 B(26才)の家を訪ねてみると、既に引っ越したあとだった。隣近所はおろか、米屋に聞いてみても、Bの移転先を知っている者はいなかった。派出所に行ってみると、巡査はいずに、奥さんらしい人が出て来た。
「Bさんに一寸用があるんですが、どこに移りましたか。」
「本署の方ですね。ご苦労様です。」
 何をどう感ちがいしたのか、私が何も云わぬうちに、Bの移転先を教えてくれた。有り難いような、気の毒のような、くすぐったい気持ちであったが、私にとっては、全く幸いだった。移転先の家には、Bだけがいた。勤め人である夫が昼間、家にいるはずもないが……。カメラその他、知らぬ人が見ても記者ではないかと疑われるようなものは一切、車の中におき、ごくありふれた訪問客を装って玄関を開けたのだが、Bは直観的に取材記者であることを感じとったようだった。そうなれば面倒はない。単刀直入に、
「絶対に、あなたにご迷惑をおかけするようなことはしません。どこかでお茶を飲みながら、話を聞かせてくださいませんか。」とぶつけた。顔を固くして、じっと動かなかった彼女は、しばらくして、「よろしかったら、どうぞお上がりください。」と、途切れ途切れに云った。短く吐く息が途切れるので、言葉にならないのだ。のろのろと彼女は立ち上がった。私ははじめて家の中を見まわした。玄関から一目で見えるその部屋の中に、家具らしい物は何一つ見当たらなかった。荒塗りのままの褐色にザラザラした壁に取り囲まれ、赤茶けた畳はササクレだっていた。その一隅に比較的新しいテレビの置いてあるのが、不思議なもののように、私の眼に映った。会社員というこの家の主人の職業を、改めて思い出した。それにしても、いたたまれぬ雰囲気だった。貧乏とは関係のない、よどんだ気味悪さが、ますます私をい心地悪くした。もともと、この家に上がって話を聞こうというつもりはなかった。私は、壁続きのこの家では、何処でどう話を聞かれぬとも限らないし、お客が邪魔を入れないとも限らないから、街に出ましょうと誘って、先に車に戻った。しばらくして、サンダルばきに買い物篭といった、主婦の買い物姿の彼女が現れた。この何気ない姿で、売春宿にも出入りしていたのだろうか。
 K市のコーヒー屋のなかでは、落ちついた感じがいいと云われている店にBを伴った。Bはポツリポツリと話だした。
 彼女の貧しさそのもののような生い立ち。無惨に破れた初恋……。彼女の最初の夫は、ダンス場で知り合った男だった。その頃彼女は女工をしていたという。結婚後、のんだくれのその男との生活が、どう変わりようもないことを知るのに、そう長い時間は要らなかったらしい。子供が生まれて間もなく離婚した。のんだくれの男に、子供をまかすことはできないと、子供を引き取って、Tという家に下宿した。そのTこそ、売春斡旋者として、今回起訴された51才の女である。彼女は、曲がり角にあった運命を大きく狂わせる場所に知らずに、飛びこんだようなものだ。Tの家から酒場に働きに行くBは、Tにとって絶好のカモと云うべきであったろう。「親子でボロを着ているよりはマシじゃないの」子供を抱えて、必死に生きていこうとする彼女はそんな囁きにもろかったであろう。食べることが精一杯の毎日なのである。「ヘルモンジャナシ」という常套語は、この場合も当然のことのように、Tの口から吐かれていた。今の夫との出合いは、この売春業での客と売春婦としてであった。男は、彼女の前歴を承知の上で結婚した。勿論、結婚と同時に、彼女はTの家を出ている。しかし、サラリーマンとはいいながら、夫の月給は低かった。彼女は家計を助ける意味で、Tに請われるままに、Tの家で酒席の世話をするようになった。Tの目前に、逃げたカモがもう一度帰ってきたようなものだ。Tの強引なすすめで、Bはとうとう、ある日、親切な客に身をまかせてしまった。
「主人に悪いと思って、それ以来、どんなにすすめられても断りました。一度きりなんです。」
「本当?もっとあったんじゃない?」
 私には彼女のウソが、あまりにも見えすぎた。
「もう一度ありました。でも、その時は、飲まされていて、無理矢理に手篭めにされて……。ウソじゃありません。」
 彼女の顔はゆがんでいた。もう一つき突いたら、ワッと泣き出しそうに……。だが、泣くだけで、それでおしまいだろう。そう見えた。彼女の内部に起こった複雑な心理の葛藤。そんなものを語らせようとした、こっちの要求が無理であることがはっきりわかった。そんなものは彼女の内面にはおこらなかったと判断してよいように思えた。貧しさ故におこった、単純な売春でしかないと考えるのが正しかった。少なくとも、Bにとっては、主人を裏切ったなどという感情を感じる何物も無いのだ。裏切るという感情そのものがどんなものか、彼女にとってはわからない。そんな感情が湧き出ることもないのだ。世間的に、いけないと云われることをしたから悪いと思い、夫に済まないと口走っているのに過ぎない。彼女は単に金が入用だっただけで、夫に性的不満を持っていたための行為でもなかったのである。
 この喫茶店に坐っている連中のなかで、最も不似合いなのは彼女だった。彼女は、この店で、はじめから落ちつかなかったが、それは彼女自身が、こういった場所に不馴れだった。別に喫茶店が文化的などというつもりもないし、そう考えているわけでもないが、通俗的に云って、こういう雰囲気に代表されるすべての物の反対の極に生き続けてきた彼女は、あまりにもアクセクと、ただ生活のためにのみ日を送り続けてきた。女が男を愛し、男が女を愛するという意味を、どこまで理解しているか、その意味を考え、理解するような恋愛をしたか疑問であった。といって、彼女は荒れていたわけでもない。必要な養分を吸収する条件に殆ど恵まれぬまま、年令だけは大人になり子供まで持ってはいるものの、感性はまだ、ほんの子供のそれでしかなかったのである。
 私は、もう、これ以上Bの話を聞くのが耐えられなくなっていた。「Aの話を聞き度い、Aの下宿を知っているか」と聞くと、「知っている」という。Bに案内してもらったがAは留守だった。それから、Bにつれられて、Aの出入りしそうな場所を何か所か廻ったが、何処にもAはいない。Bは、行った先々で「Aさんが来たら連絡してよ。」と頼んでくれた。最後にAの実家へ行った。BはAの母親に、「Aの本当の気持ちを聞いてもらった方がいいじゃないのか。」と、しきりに説得した。ゆうべ、私達があれほど丹念に探しまわったのに、Aを見つけ出すことができなかったのも無理はない。Aが勤めていたのは場末の、バーとも云えぬようなバーだったのだ。こっちは、大きな店ばかり探していた。
 BにAと私達との会見の段取りを、くれぐれも頼み、足代といって、断るのを無理に相当額握らせた。明日Aは来るだろうか。仲間のうち主にTと客筋を追っていた三人は、一足先にK市を引き上げた。

 この取材も四日目だ。今日中に終わらせて帰らなければ間に合わない。Bの電話を今か今かと待っているのが辛かった。ようやく、AをつかまえたというBの電話が入り、Bにつれられて、Aが入って来た。Aはなかなか男好きのする美人である。部屋に入っても、この人がと思うほどオズオズとしている。S君が声を掛けた女性であったことがはっきりした。「だましてごめんなさい。」と頭を下げたが、全くの涙声である。卓子の上の菓子や果物にも手を出そうとしない。いくらすすめても「有り難うございます」と繰り返すばかり、ようやく、コーヒーに砂糖を入れただけだった。
 Bは、昨日半日、私と行動した心安さからか、すっかり話してしまったという安堵からか、一人で、あれこれと口に入れ、のびのびとした態度を示していた。Aは、何か一言しゃべるたびに、「こんな悪いことをして、恥ずかしいことをして」と、私達にまでわびるような調子をとりつづけた。
「Aさん、あなたは、悪いこと、恥ずかしいことと、何度も繰り返していますが、あなたのしたことは、そんなに悪いことなんですか?」
「エッ!」
Aはキョトンとした眼を上げて私を見た。
「あなたが、ご主人の喜ばないことをしたのは事実でしょう。ご主人が、あなたに向かって、あなたのしたことが悪いと云われたら、悪いことだと云えるでしょう。あなたも、それがいけないことだと思うなら、そう思ってもいいでしょう。でも、あなたのようにビクビクしたり、オロオロすることはないでしょう。」
「本当なんでしょうか。」
「あなたは、何故悪いと思っているんですか。」
「だって……。悪いことだと、誰でも云うじゃありませんか。だから私、悪いことだと……」
「世間がどう云おうと問題じゃないでしょう。世間で云ってることで、間違っていることは、いくらもありますよ。男と女のことで云えば、男に都合のいいことばかりが通用していますよ。」
「そうおっしゃられると、何故悪いのか、私にもわからなくなってしまいます。でも警察でも「悪いこと」と何度も云われましたし……。」
「そういう考え方はやめるんですね。」
「いいでしょうか。」
「やめるべきですよ。」
 そう云われたからといって、ふっつりとAが考えを変えることはできなかろうが、彼女自身は何かホッとした気分になれたとみえて、冷たくなったコーヒーを一口、口にした。話し方も、それ以前にくらべて、ハキハキしてきた。Aは、昔の恋人とTの家を何度か利用したことがあった。それがTの手を延ばさせるきっかけになったらしい。夫婦仲の冷たいことをこぼしたのが、Tのつけこむところでもあったわけだ。このころAの夫は、職場の女性と恋愛中で、今回の事件が、夫にとってもっけの幸いとなった。事件を口実にAは夫に離婚を迫られ、Aにはそれを阻止する何物もなかった。今の奥さんが、当時の恋人だった女性であることは勿論である。
 Aとの会談を終えた私達は、客になった男の一人を訪ねた。二十才前後の子供二人のいる、その家の中では、何としても都合が悪い。六十才近くの、その男を家の外に呼び出すことには成功したが、彼はそんな事件に係わりはないとシラを切る。客の一人として名前を発表するが、いいかと云うと、「結構」とすましている。自分の名前が何処から出てきたのか知らないが、その人間を名誉毀損で訴えると云う。被告でもない自分の名前が、もし、客となったことがあったにしても、警察や地検から出るわけがないというのだ。「売春宿は知っているし、そこで宴会をやったこともある。芸者をあげて遊ぶことはあるが、素人女とは遊ばん。そんなものはつまらない。」と平然としたものだ。「名前は女から出た」と云うと、「人の妻君が、相手の名を云う筈はない。云ったのなら、その女の名を教えてもらいたい。そうじゃないと、まるで、あんたのカマに引っかかることになるからね。」と動じる色もない。何もかも知りつくしての男というのは始末に終えない。諦めて、匆々に退散することにした。
 鉄道に勤めている夫を持つCを訪ねる。CはBの幼友達で、Bに誘われてTの家に出入りするようになったらしい。だが、A、B、C、どの女性も、一般的な意味での人妻とは云えないことがわかった。そういうことから云えば、人妻の売春と騒ぎたてることでもなさそうだ。売春婦の某々が、たまたま結婚をしていたという見方の方が正しいようだ。浮気、性的不満の何れでもない。商売としての(それが合法ではないのは当然として)売春以外の何物でもない。人妻の内的、心理的葛藤などというのは、むしろお笑い草だ。K市を発って東京に着く。無性に疲れた。

 この取材が終わって、あまり日が経たぬある日、我々のこの原稿がデッチ上げではないかと噂されているという噂が耳に入った。一体何処から出たものかは知る由もないが、身体の芯が細るような苦労をし、神経を細らせての取材が、でっち上げと云われては、怒りを通り越して、いや気がさしてくる。面と向かって云ってくるのではないから、云い出した人間に食いついていくわけにもいかない。それほど私は信用されていないのか、そんなことをする人間だと思われているのか。私自身の人間性の問題か、トップ屋というものに対する評価から来るのか。どうにも捨て場の無い不信感が、胸の中に煮えたぎる。それを押し沈めて、次の号の取材に取り掛かる。誰にもぶちまきようのない怒りと哀しみ。腹を割って話のできる仲間を、切実に欲しいと思う。私は、この仕事をしている限り、孤独なトップ屋で終わるのか。

 

                 <日本のもう一つの顔 目次>


    8 トップ屋売春地帯をゆく(その二)
        コールガールの貧しすぎる事情

 

 東京から中央線で数時間、信州の商業都市として栄え、北アルプスの入口とも見られるM市で、B・Gをふくむコールガールの組織が摘発された。この事件は、売春した人妻の一人と、売春の場所を提供した人妻の自殺で、一層、騒ぎが大きくなった。週刊Lが飛びつく材料である。私のほか二人がM市行きと決まった。私には打ってつけのテーマと思われているとは思いたくないが、この種の仕事が私にしばしば廻ってくるのは何の因果か。しかし、政治、経済の記事の場合は、その取り上げ方をめぐって、意見を異にすることが多く、方針に従って動く為に気分も重く、辛い思いもするが、その点、こういうテーマには別の種類の神経を使いはするが、とりたてて異にする意見もあまりないので気は楽だ。それが取り柄と云うべきかもしれない。
 例によって、朝の汽車は気がもめる。発車のベルを聞きながらホームの階段を二段ずつ飛び上がり、発車間際の汽車に飛び込んだ。この頃の列車は、随分綺麗になって、大変いいが、ドアーが閉まるので用心しないと、みすみす置いてきぼりを食うおそれがある。ドアの閉まる一瞬前に身体を押し込み、プスッという音を背後に聞いた時は、目はくらみ、足はもつれるという状態だった。混雑する車内の何処かに仲間も乗っている筈だが見あたらない。ようやくL社の男は発見できたが、もう一人の肝じんのトップ屋は見つからない。だいたい遅刻の前科者ではあるが、駅には、はるかに近い者がこの始末だ。またかと思っても、車内で仕事の打ち合わせのできない腹立たしさで、やはりムカムカする。大分経って、彼からの電報。次の列車で来るとわかり、やっと落ちついた。しかし彼が着くまで仕事に取りかかれない。今朝、苦労しての早起きも、列車への突進も、無駄になってしまったと、愚痴でもこぼしたい気分だ。寝坊助にとって、無理した朝起きがポシャルことは、欲張りのケチン坊が、あやまってお金を撒いてしまったような哀しみと恨みが残るのかもしれない。N君よ気をつけ給え。社のI君は別の車輌に乗っているので、こぼし相手もなく、私はそんなことを考えていた。

 駅で、遅れて来たN君と合流し、早速市警へ行く。女達や参考人の名前が出してもらえないのは、例によって例の如し。だが、それにしても、変によそよそしく冷淡な感じが気にかかる。尚しつこく聞こうとすると、向こうは喧嘩腰だ。どうやらM市の売春を、隣接のL町の警察で挙げられたことに原因があるらしいと察しをつけた。それに、市会議員の相当数も参考人として呼ばれたことから、外部への発表について、何か圧力がかけられているとの想像もつく。
 このM署でゴタゴタやるより、L町の警察署にあたった方が早そうだと判断した私達は、一時間あまりの道のりを車を飛ばしてL署に行った。去年、県警本部から移ってきて、いちはやく今度の売春組織を挙げた署長の鼻息は、なかなか荒い。一寸、得意気な面持ちもかくせない。「この分なら、なんとかいけそうだ」と、内心ホッとする。
 N君の質問は、一人一人の場合に即して、微に入り細に亘って、呆れるほどに細かい。傍らの私が、よくもまあと、うんざりさせられるほどだ。途中であくことがないのが彼の特徴でもある。
 そう話が細かくなると、署長も、記憶だけを辿っては答えられなくなる。「ちょっと待ってください」と云っては、何度も調書を開いて応じている。
「署長。いちいち見るのも大変でしょう。どうです。ちょっと調書を見せてくださいよ。」
 わざと、そんなことを云ってみる。
「そんな冗談を云うんじゃない。見せられない物だぐらいのことを承知していない筈もないのに。」
というが、別に怒った様子でもない。それよりN君の質問ぶりに、感心しきったふうで、N君の顔をみつめながら、
「もう何人も記者諸君がやって来たが、あんたの様に根掘り葉堀り聞かれたのは、はじめてだ。それに、聞くことに無駄がない。」
とほめちぎる。トップ屋開業の頃には、本当に、何も知らな過ぎることに、度々呆れさせられたものだった。若い彼の何時の間にかの成長ぶりには、私も感心させられていた。署長のごきげんも上々だ。なかなか調子がいいなと秘かに北叟笑んでいたが、要するに、話はそこまでだった。彼女達の名前に話が及ぶと、署長の口は閉じたまま、再び開きはしなかった。
 売春した彼女達の貧しさにくらべて、市会議員達のでたらめさ、いいかげんさを、声を大にして攻撃すると、これには、署長もすぐに共鳴してきた。参考人として呼んだ議員がいることだけ話してくれた。M署では、「そんな事実はない」と、きっぱり云い切られたのだったが……。といって、その市議達が、確かに女を買ったという証明が取れたわけではない。だが、ここまできけば、他からおとせる可能性もないではない。
 こうなると、焦点はやはり、売春した女性達の名前と住所ということになる。名前を割り出せるのは、ここしかない。私は、おもむろにK市での売春事件の時、完全に彼女達の秘密を守り通したばかりか、取材と同時に、彼女達の悩みを聞くことによって勇気づけることもできたことを話した。署長は率直にそのことを認めてくれたが、K市でそうだったから、ここでもうまくいくとは限らない、という線を一歩も退かない。何度やりあっても、結局、ラチがあかない。
「署長。一覧表の中の三番目の女性の名前、それを教えてくれませんか。その女性が、さっきから聞きたがっている、子供のある母親だと思うんです。違っていたら私達も諦めて帰ります。お願いしますよ。」
 私は、イチかバチか、賭けるような気持ちでそう切り出した。署長の視線が、どうも、そのあたりに集中されて話をしているという感じだったのだ。祈るような思いで署長の顔を凝視した。しぶしぶ一覧表を開いた署長の顔に、サッと驚きの表情が走ったのを見逃しはしなかった。「しめたッ。ごまかされないぞ」と思った。だが、署長は私の危惧したように、ごまかしをする男ではなかった。
「君には呆れた」と云いながら、「S」と、ボツリ読んでくれた。すかさず「住所」と聞いたが、
「そりゃ駄目だ。」とはねかえす。
「名前がわかれば、タクシーの交通事故で夫を失った、これこれこういう年頃の女ということで、タクシー会社を歩き廻ることになりますね。かえって宣伝して歩くようなものになりますよ。」
「君は、わしを強迫する気か。」
「とんでもありません。」
「君には負けたよ。」
「署長、負けついでに、もう一つまけてくれませんか。今度のことで、BGをやめてバー勤めをはじめた女性も、一人ぐらいはいるでしょう。その名前とバーの名を。お願い。」
 ペコリと頭を下げている私の上に「T、キャバレー・ゴンドラ。」と囁くのが聞こえた。
「有り難うございます。」と叫ぶと、我々は署長室を飛び出した。

 人妻SはN君にまかせて、私はキャバレーゴンドラに行く。これでもキャバレーというのかと思うほどお粗末なものだ。M市の名誉(?)の為に云いそえるが、M市のキャバレーが田舎キャバレーということではない。ゴンドラという店が、たまたまそうだったのだ。だが、運ばれたビールを一杯飲みほした時のうまさは格別だった。びん詰のビールの味に変わりはなかろうが、署長とのヤリトリで、相当にバテていたし、喉はカラカラに干上がって、つばも足りなくなった感があった。M駅に着いてから数時間、口にしたのは警察ですすった一杯のお茶だけで、終始喋りまくっていたようなものだから無理もない。それに、仕事はどうにか目鼻がつきそうだ。第一関門をやっとくぐり抜けて来た矢先なのである。女の子にTのことを聞くと、私は入ったばかりでわからないからと、古い人を知っているという別の女を呼んで来た。いきなり、
「一杯、ごちそうして。」
ときた。断るわけにもいかない。結局、この女も何も知らなかった。私が、よほど間抜けな男に見えたのかもしれない。Tの新しい勤め先はボーイから聞くことができた。しかし、なんとなく気勢をそがれた私は、その足ですぐ、Tを訪れる気になれず、一旦宿に戻った。
 その夜十時過ぎ、Tのいるバーに出かけた。客を相手に、二人で妙にシンミリ飲んでいるTを発見した。客が帰るのを待つほかないが、一緒に出ていかれたら一大事である。その時は、立って行って、声をかけることに決めて、坐り直した。フラリと消えでもしたらコトだし、何時、客が帰る気になるかもわからない。といって私も客を装っているのだから、彼女だけを見つめているわけにはいかない。酒だって飲まなければイヤがられるし、イヤがられて仕事をマズっては元も子もない。こんな酒は身体に悪いなどと胸の内でコボしながら、チビチビと飲んだ。まずい酒であった。十一時過ぎ、ようやくその客が帰って、私はTを傍らに呼んだ。三十分も話しているときまりきった、客と女の応対が辛くなってくる。というより、どうやって、彼女と話す機会をつくるかということに気が行きすぎているためかもしれない。
「僕、仕事でMに来たんだけれど、明日はのんびり市内を見物したいんだ。君、案内してくれないか。」
と持ちかけて、オーケーをとった。案内料だと云って、何枚か彼女の手に握らせ、外に出た。すると、簡単に約束はとりつけたものの、明日、はたして来てくれるかどうか気になりだした。酒を飲みに来た男。それも他所者の、見知らぬ男との約束だ。どうせ、これまで何度かは男にだまされてきたにちがいない彼女なのだ。どうにかして、今夜、話を聞くように工作すべきだったのではないか。そう思うと、すぐにも引き返さなくては駄目なような気にもなる。こんなことではキリがない。宿に帰って、N君に「だいじょうぶ」と云われても、気休めにしか聞こえない。N君の方も、明日の段取りだという。

 約束の五分前に駅に着いた。Tは来ていない。もし彼女が来なかったら……。突然、私は大変なことに気付いた。彼女の住所を聞いておかなかったのだ。
「お前は記者失格だ!」と自分を怒鳴りちらしたい気分になる。イライラしているうちに、すぐ約束の時間になってしまったが、やはり彼女は現れない。私は、もう、そこにじっと立ってはいられなかった。待合室、改札口、駅前、便所のあたりまで、せかせかと歩き廻った。駄目だ。私はもう一度廻りはじめたが、その途中でやっと彼女の姿を発見した。もし相手がワイフだったら、途端に怒鳴りつけたところだろう。恋人だとしたら、飛び付く思いで走り寄ったにちがいない。そのどちらでもない彼女と並んで歩きだすと、たった今の安堵の喜びは何処へやら、やたらにテレくさい、彼女の化粧、彼女の服装、持ち物の何から何までが、あまりにも野暮くさく、センスがなさすぎるのだ。昨夜のバーの一隅では、さほどに気もつかなかったことだが、今、明るいさわやかな秋の日の下で、これはどうにもひどすぎる。市の公園は駅に近い。行ってみると、予想外の大変な人出だ。誰が見ているわけもなし、知人に会う筈もないのに、私はただ、ただ恥ずかしくて、逃げたくなってしまった。しかし彼女はごキゲンだ。肩から下げたカメラを見ながら、写真を撮ってと催促する。もし私が彼女の写真を撮ったとしても、それを雑誌に載せられるはずはないではないか。「ウンウン」といいかげんにあしらっていたら「冷たい人だ」とむくれてしまった。素知らぬ顔をしてこれ幸いと、写真を撮り、雑誌に載せるのがトップ屋というものだろうか。私には、どうしてもできない芸当だ。この点からいえば、私は明らかにトップ屋失格かもしれない。またとないチャンスをみすみす逃したことを話したら、デスクは顔をゆがめることだろう。あいているベンチを探し、腰をおろすと、私は彼女をさそい出した目的を話しだした。彼女の顔は見る間に蒼ざめ、折ったように首を垂れたまま、身動きもしない。人の触られたがらぬ傷口に手を伸ばし、傷口をかきまわすようなことをしなければならない。この商売は、つくづく因果な商売だ。勿論、私はこれが有害無益だなどと思ってはいない。腫れ物にさわるようにして、ただ、そうっとしておくのが、当人にとって最上の策とはサラサラ思わないし、本人にか、周囲にかに、その原因があれば、あまさずエグリ出して分析したい。だが、肝じんの、こういう場面になると、どうも辛い。私は、彼女が語り出すまで、黙って待っていた。
 Tは、うつ向いたまま、低い声で語りはじめた。結婚生活は三年で失敗。理由は主人の酒乱。一時、東京に出ていたが、間もなく兄夫婦のところに帰った。遊んでいるわけにもいかないので、工場に勤めたが、三年間働いて、160円の日給が170円になったというありさま。これでは下宿代も出ない。兄夫婦の家から通ったが、その為に必要な、月千円のバス代が会社から出るわけもなく、家にいくらか入れて、着る物も何とかしなくてはならない。化粧代など、どう叩いても、ひねり出しようもなかった。こんな彼女に目をつけて、彼女を旅館に誘った男がいた。工場に出入りしていた男である。男は、そのあとで何時もラーメン一杯を食べさせてくれた。
「ドンブリ物なんて食べさせてくれることは、めったになかったけれど、ラーメンが結構、私には有り難かったのです。」と彼女は云う。私には、何を云い出すこともできない。何と云って相槌を打ってよいか、迷う気持ちである。旅館に何回か行くうちに、そこのマダムに誘われて売春をするようになった。彼女は、ある日、その旅館の廊下で、同じバスで通勤している同僚と、バッタリ顔を合わせたことがあった。同僚もまた、同じように安い給料で、高いバス代を支払いながら通勤する、貧しい女工だったのである。Tは、そんなことの気まずさも手伝って、間もなく工場をやめた。バーに勤めるようになったわけである。
 「バーに行くようになったら、一万三千円ぐらい稼げるでしょう。だから、あっちは、もうやめたわ。」
 何ということだ。170円の日給で、ラーメン一杯に喜ぶ生活。売春して得る収入は、一回三百円。月収一万三千円にもなる今日は売春の必要はない。驚きようもないほどの驚き。怒るより、哀しくなってくる。怒るにも怒りをぶっつける相手もいない。一体、こういう工員を使っている経営者は、どんな顔をしているのだろう。遊んだ方の市会議員の中には、この種の経営者もいるのではないか。

 N君のあたった人妻Sも、やはり貧しさ故の売春だったという。Sは、夫を交通事故で失った時、五十万近い金が入った。彼女はその金の大半を親戚の者に貸したが、何時までたっても返して貰えなかった。残りは無計画に使ってしまったらしい。貧しさと愚かさの重なりあっているこの話も、聞いているだけで、やりきれなくなるばかりだ。
 革新系の知事だとか、進歩的な県だなどといったところで、この地方の計五万人の労働者のうち、組織されているのは僅かに一割。最低賃金制が実施されている業種も二、三しかない。何から何まで気に食わない。ムシャクシャする。わめく元気さえない。なんとか気分一新しないことには、仕事を続ける気力さえ湧きそうにない。我々は、その夜、景気直しに飲みに出ることにした。若い二人は、楽しそうに酒を飲み、冗談を云い合っている。昼の、あの憂鬱な気分も、スッパリと捨て切っているようだ。嫌な気分を、ズルズルと引きずっている自分を残念に思う。一人黙々とグラスをあける。マダムが、いろいろと話かけてくるのまで、煩わしい。日頃になく飲んで、ひどく酔っていながら、神経だけはますますキリキリしてくるのがわかった。店を出ると、寝静まった暗い道で、若い二人が寮歌を放吟している。聞きながら、何時か私も二十年前に歌った逍遥歌を口ずさんでいた。

 一晩寝ると、たいていの場合、かなりの元気を回復するものだ。私の中にも、新しいエネルギーを感ずることができた。その勢いで宿を飛び出し、事件の連れ込み宿に直行した。ここの奥さんが、取調べ中に便所で首をくくってしまっている。
 連れ込み宿と云っても、普通の下宿屋を改造した感じの家。露地から数メートル入った所に玄関がある。利用しやすい家であったらしい。繁昌していたようだ。出て来たのは、五十才あまりの、痩せて背の高い女だった。女の身なりをしているから女だろうと思うほかないような、ひからびた感じ。つっけんどんに、
「旦那は留守です」
と云うと、もう引っこむ姿勢になっている。
「奥さんの御霊前に」と差し出した果物篭も
「そんなもの、戴く理由がありません」と突き返される。そりゃ、たしかにそうだ。苦笑しながら、
「仏様にですよ」と念を押すと、
「じゃ、旦那さんのお帰りまで、預かるだけは預かっておきます。」ますますの仏頂面だ。
「何時頃お帰りですか。」
「そんなことわかりません。いちいち私に云って行かれるわけじゃありません。」
 この調子では、自殺した奥さんの話など、何も聞き出せそうもない。ここの主人は元警官である。その主人から聞くのは一層難しいことだろう。出直すことにして、同じ場所提供で挙げられた料亭に行く。市会議員連の利用しているところで、私は、ここの人間の口、もしくは、ここの領収書から、市会議員の名前が表面に出たとにらんでいたので、おかみにつめよってみた。
 領収書から一、二名の市議の名があがったこと。その金額が、単なる飯代としては高すぎるという点を取調べ官から追求されたことまでは、すらすらと話が進んだ。しかしあげられた市議の名前は絶対に教えてくれない。めぼしい市議の名をあげてみたが、おかみはサラリと否定する。取調官の前でも、遂に口を割らなかったというが、いわゆる料亭のおかみとしての資格を十分備えた女のようであった。
「お客さんにご迷惑をかけるより、私が罰をくらった方がいい。」
と、きっぱり云う。こんな女性には、兜を脱ぐほかない。おかみは私に同情したのか、春をひさいだ芸者との対談を心よく準備してくれ、また、客となった変わった男を一人教えてくれた。
 その男は全く変わっていて、客になったことを誇りにしているような年寄りだった。おかみに教わらなくても、こっちで探していると知ったら、自分から名乗り出たかもしれぬと思えるくらいである。だが、この男の登場で、週刊Lにふさわしい一章が成立した。
 対談した芸者は、なかなかの美人だったが、子供一人抱えていては、転ぶよりほかないのだと、細かに銭勘定をしてみせてくれた。こんな話は、いくら聞いてもきりがない。
 先に行った連れ込み宿に引き返すと、旦那はまだ帰っていないという。路地の近くに立って、主人の帰りを待つことにする。二時間、三時間と時間は経つが、一向に帰ってこない。十月中旬といっても、信州の山々にかこまれたこの町のことだ。夜ともなると相当に冷えこんでくる。ストーブをつけている家もかなりある程だ。足元がガクガクしてきて、レインコートの衿を、どんなに立ててみても、身体にしみ入ってくるような寒さを防ぐことができない。とうとう十一時、連れ込み宿の門灯も、とっくに消えてしまっている。諦めて、トボトボと宿に帰る。芯まで冷えきっているのに、風呂に入る気にもなれない。そのままふとんにもぐりこんだ。
 翌朝、またもや連れ込み宿に飛んで行った。「お出かけです」と云う。ゆうべは一時頃帰ったという。
「これ、持って帰って貰え、と云われました」
と云って、果物篭を突き返してくる。奥さんを死に追いやったのは旦那だという噂は本当だとしても、自殺されてみると、一番困惑しているのは旦那にちがいない。その男なりの泣き方もしたであろう。だが、この際、最後の貴重な時間を割いて、あの男を追いかけて何かを聞けたとしても、たいしたことはなさそうである。それより、革新系の市議をつついた方が、少しはましと思われた。つつきたくてならなかった。

 自分でも工場を経営しているという、革新系の市会議員のKは、しきりに、自分の工場は待遇がいいと力説する。
「あなたの立場として、そんなことで満足できるんですか。他の工場より、たかが二、三十円日給が高いからといって、五十歩百歩とは思いませんか。まさか、それで憲法にうたってあるような文化生活が享受できるとは、あなた自身思えるはずがないでしょう。まして、あなたは政治家だ。自分の所さえよければ、それでいいといっていられる問題ではないし、そんな立場でもない筈です。今度の売春が、生きるということの、ギリギリを守らねばならない状態から生まれているということを、私から指摘されて、はじめて知るなんて、怠慢も甚だしいと思いませんか。」
「いや、おっしゃる通りです。皆と相談して善処します。」
 額に汗をにじませて、ひたすら恐縮している態のこの市会議員は、善意の男であるらしかった。しかし、それ故にかえって、私はこの男への不信を高めた。私は、ますます激しい口調で彼を責めたが、彼を責めただけではどうにもならない。私は市長に面会を申し込んだ。
「まだ報告を受けていない」と、市長はあっさりしたものである。今度の売春事件の実情を、市会議員の脱線(そこには大いにオーバーに)にからませて説明すると、市長もいささか落ち着かなくなってきた。早速調査して対策をと、お決まりの政治担当者の口ぶりだが、そう云うそばから、それは社会福祉事務所の仕事だというような言葉が洩れる。
「社会福祉事務所にまかしておけばいいと云うんですね。そうですね、市長。」
 その時の私は、完全に怒りに燃えていた。
「いや、いや、そういう意味じゃありません。誤解しないでください。雑誌は是非送ってください。参考にして、よく調査しますから。」
 ああ、そこは私の最も弱い所なのだ。桃色記事を書く為に送りこまれてきたトップ屋の私だ。私の調べ、意図したキャンペイン的な性格をもった記事ができあがるとは、十に一つの期待もできない。期待する方がおかしいくらいなものである。それを承知で、しかしそのなまなましさだけでも、事情の深部に触れる一行でもと念じるのが精一杯なのだ。まともに受けて立たれると、私の方が腰砕けになってしまう。グサリとやられた気分だ。重い足を引きずるようにして駅に向かいながら、何時もの、あの徒労感が、雲のように私の中に拡がっていくのを感じた。今週も、また泣きだったのか。

 

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   9 トップ屋駈けある記(その一)
       エロ画家を追って集中豪雨の中を突っ走る

 

 今週のテーマの取材の大半を終えた私は、気楽な足どりでL社に向かっていた。明日に残された仕事は簡単だ。久しぶりで、まる一日休めるぞと思うと、気持ちがはずんでくる。週のうち、まるまる一日の休みが、めったに持てないような暮らしをしていると、休みというものが、何よりも欲しい。といって、そんなに毎日歩きまわり、すりこ木でゴリゴリやるほどに神経をすりへらしても、世間で囁かれているような収入には程遠い。ツルシの既製服をヨレヨレにして来ている者、かかとの無いようなドタ靴を引きずっている者、カメラはしばしば手許を離れて、倉庫に眠っているというような仲間の状態を見ていると、何処の誰が、そんなに金まわりよく、ゴキゲンで働いているんだろうと不思議になってくる。我々の日常生活に、最も必要なのは頑健な肉体であると云いたくなるような実情だ。頭脳労働者などと云えるシロモノでは絶対にない。私の神経も肉体も、休息を強く欲求しているのがよくわかっていた。
 社に着いた途端、そんなフワフワした休息憧憬気分は、一辺に吹き飛ばされてしまった。N君達と三人で、明朝七時羽田発。京都、福知山の取材を終え、明後日中に帰ってこいというのだ。取材をすませた分は、今夜中に原稿にし、残りの取材は他の者にバトンタッチして置けという。新テーマは、先日挙げられたエロ画家のクローズアップ。西日本の方の天候は、相当悪くなっている筈だが、それも、たいしたことはあるまい。それより、これから原稿をまとめなくてはならない。明朝の飛行機に確実に乗る為には、都内に泊まる方が安全だ。都下の私の家からでは、間に合うかどうかわからない。家に戻っている暇も無さそうだ。家人に電話連絡して、旅行用具一式を取り寄せることにする。ボヤボヤしてはいられない。

 翌朝、東京の宿を出る時、霧の様な雨に、明け方のビル街は煙って見えた。伊丹上空までは何事もなかったが、いざ着陸という段になって、雨風が強くて着陸できないという。上空を旋回しながら、チャンスを待っている。暴風雨の為に羽田の客を伊丹におろしたり、伊丹の客を小牧におろしたりすることはしばしばある。時には、遂に着陸できずに羽田から千歳まで飛びながら、また羽田に戻ることもあると聞いているから、どうなることかと気がもめる。気流の状態が大分悪いらしく、エアポケットに入っては、機体がドスン、ドスンと落ちる。いやな感じだ。本を読むこともできず、まとまった物思いにふけることもできないで、ただ、イライラ、ハラハラしているうちに、気分が悪くなってきた。酔ってしまったのかなと思っているうちに、旋回二十分余りで、ようやく着陸することができた。タラップをおりて、やれやれと一安心したが、実は難関は、その後に控えていたのだ。
 私はN君達と別れて、戦後ずっと、その画家が住んでいた福知山市に行くことになっていた。彼の生まれ故郷も、そこから数里奥のところにあった。ところが、集中豪雨に見舞われて、福知山線は二、三か所不通。復旧の見込みは立たないという。京都廻りはと聞いてみたが、これも駄目。こうなっては車に乗って行くほかはない。とは云うが、大体、汽車も不通になる程に、随所に水が出ている山中の道路が、果たして通れるものだろうか。空港事務所でたずねると、「サァ」というような不確かで、不安そうな声が聞けるだけだった。大体、こういう危険な時に、行ってくれる車があるかどうかだってわからない。私は、ちょっと一人で行くのが心細くなってきた。車もろともドブンで、一巻の終わりとはなりたくない。何かの場合、二人なら、助かるケースもあるかもしれない。私はあれこれと、心の中で考えていた。私の尻ごみしているのを見てとったか、N君はさっさと車の交渉をしに出て行った。こうなっては、私も、もうぐずぐず云ってはいられない。車に押し込まれるようにして行くのは真っ平だし、第一、少しでも早く行く方が、安全度も高かろう。
 車に乗り込んでみると、運転手君は、意外に若い男だった。
「一度、日本海側まで遠出してみたかったんです。」
なんて、のんきなことを云っている。こっちの悲壮な気持ちとは、全くくいちがっている。
「君、はじめてなの?道はわかるかい。」
「道は知りませんけどね。でも、どうにかなるでしょう。」
 頼りにならないような、太々しいのがかえって頼もしいような、この男との二人での道行きである。
 しばらく行くと、ずぶぬれの消防団員が防水作業にかかっているのにぶつかった。既に道路は、十センチから二十センチの濁流がうねっている。水が、もう少し深くなったら、もう、ここでエンコということになるのではないか。雨は相変わらず、ドシャドシャと叩きつけるような降りようだ。何時の間にか、車は大きな川に沿った道を走っていた。川にかけられた橋という橋には、みな通過禁止の立て札が立っている。禁止されなくても、とても渡る気持ちにはなれまい。気が狂ったようにゴウゴウと流れている、あの流れのすれすれにかかっているあの橋が、流れに呑みこまれるのは、いともたやすいことのように思われる。橋だけではない。川ぶちの崖が小さく崩れている箇所も、幾つかある。何時、あそこから水があふれ出し、車もろとも濁流にまきこまれないとも限らないのだ。
 でも、心強いことには、時々、前方から走ってくる車があった。運転手君は、何度も車をとめて、すれちがう車に、「道は大丈夫かあ?」とたずねた。どの車の運転手も、「おれ達が来るまではな。」と挨拶するのだった。彼等に大丈夫などと云わせる条件は、何もなかった。彼等とて、無我夢中で、危ない所を通り抜けて来たにちがいない。通り過ぎたそのすぐあとに、何が起ころうと、彼等にはわかりようもない。
 そのうち、道は登りになってきた。山にはいったのである。崖崩れが何か所も見られた。かなり大きな石が路上に転がっているのにも、何度もぶつかった。あんな奴が、もし車の上に落ちてきたら、それまでである。しかも道路の片側は激流である。どうころんでも助かりっこない。遂に、運転手君がネをあげた。
「お客さん、大丈夫ですかねえ。山越えできるでしょうか。」
なんとかなりますなどと、うそぶいていたのはウソのようだ。こうなれば、もうこっちが気合いを入れるだけだ。
「大丈夫だろう。行けるとこまで行くんだ。覚悟してくれよ。」
「そりゃ、いいんですがね。でも帰りは私一人でしょ。それに、夜にもなりますしねえ。」
「いざという時には、僕も考えるよ。京都を廻って帰るという方法もあるだろう。」
 実は私は、はなはだ後悔していたのだ。汽車は、京都廻りも不通だとしても、車で京都廻りのコースがあった筈だ。車賃にして二千円程度のオーバーで、時間も多少よけいかかるだろう。しかし、安全で確実なコースとすれば、二千円は安い。一時間やそこいらの時間にもかえられぬではないか。だが、私は、この道を選んでしまった。危険な、命がけの道を……。

 雨風はいよいよ強まるばかりとなった。もう、行きちがうトラックも殆ど無い。勿論、人っ子一人いるわけもなし、一軒の人家もない。真昼だというのに雨が降りこんで薄暗くなった山道を、ただ一台の車が、つっぱしっているだけである。息もつけぬほどの速さで、フロントガラスに飛びかかってくる雨滴のため、規則正しく動いているワイパアも、役に立たないほどだ。折角動いて水を押し除けても、次の瞬間、雨滴がたたきつけられているからだ。まわりも水のしぶきで、只白くボーッとしていて、視界はほとんどきかない。何時の間にか、物を云わなくなった運転手君の背中から、彼の緊張しているのがよくわかった。彼は最大の注意力を傾け、この斗いに集中しているのだ。
 お互いに通ったことの無い道だし、あたりの様子もさだかではないので、この状態が、どこまで続くのか、想像のしようもない。登りは、あとどのくらいあるのだろう。時間にして、距離にして、この息の詰まるような緊張の連続は、どのくらい続くのだろうか。
 フッと雨雲が切れたような、仄かな明るさを感じたと思ったら峠に出ていた。峠の向こうは、うそのように雨風が弱い。この山を境にして、こちら側は、屏風のかげの様なものだ。地形と気象の巧みな仕掛けを、まのあたりに見た思いである。運転手君もホッとしたのか、今までのうっくつした気分を一気にはねのけるように、さかんに喋りまくる。舗装したいい道になった。運転手はどんどんスピードをあげていく。後から見ているとスピード計の針は105キロのあたりを動いている。車は飛ぶ様な速さで走っている。
「大丈夫かい。」ときかずにはいられなかった。しかし、弱まったとはいえ、相当な雨降りの中を突っ走る気分も、満更ではない。それに、あの危険を乗り越えたという安堵感と、その時の興奮が、身体の内に残っている。どうせ両側は田んぼだ。万一つっこんでも、生命を失うことはあるまいと、自分に云いきかせてみる。
「このくらいの雨だと、スピードを出した方が、スリップしないんですよ。」
 運転手君も、結構スピードを楽しんでいる様子。さらに、先刻の抑圧された気分からの解放感もあるだろう。私にしたところで、目的地に早く着くにこしたことはない。

 福知山市内に入ると、空には薄日さえ照っていた。ついさっきの、あの吹き降りの中で死に物狂いで突っ走っていた記憶が、夢ではないかと錯覚するほどだ。後の席に坐っていた私も、終始、肩を張り、身体を堅くして、足を踏んばっていたに違いない。急に疲れを感じた。それに二人共、すっかり空腹になっていることに気づいた。適当な所で飯にしようと、市内をそのまま走らせたが、なかなか店らしい店が見つからないうちに、街はずれに出てしまった。盲めっぽう、あっち、こっちと車を走らせるうちに、街のあらかたの地図は頭に入ってしまった。市とはいいながら、市街地は、そのくらいの程度の広さでしかない。
 ようやく程よい店を発見して、二人でビールを一杯やろうとしたが、運転手君は固辞した。目的地に着いたとなると、今度は帰りを気にしている様子。ともかくビールをすすめた私の方が悪かった。運転手君は「たっぷり稼がせてもらったから、帰りは京都を廻って帰ります」と云う。あの夜道を一人で帰させるのは、何にしても気がかりだったから、その言葉を聞いて安心した。この勇敢で、誠実な運転手君には、それ相当のイロをつけた車代でも高過ぎるということはない。

 福知山での取材は、大体順調にいった。画家の弟にあたる人も、画家が勤めていた所の主人も、ゆききをしていた人達も、率直に話をしてくれた。ただ、この人達をつかまえるために、二度、三度と足を運ばなくてはならなかったのが、苦労といえば苦労だったが、何れにしろ、狭い街の中のことだから、東京と違って、その点は楽だった。夜、画家の妻君の妹が経営しているというバーに出かけた。マダムは、長く京都にいたというだけあって、なかなかシャレた美人だった。マダムの妹というのが、なかなかの貫禄で、云うこともきかせるものを持っている。店の構えもいい。福知山一といわれるだけのことはある。しかし、さすが、福知山一ともなれば、店は繁昌しているらしく、その為、マダムと話をするチャンスがつかめない。客が多すぎて、マダムを手放さないのだ。カンバン近くになって、ようやくマダムをつかまえることができた。ここで、私は、小さな失敗をやらかしてしまった。というのは、今週中は大丈夫と思っていた名刺の数が、突然の取材旅行で、足りなくなること必定となり、数枚の名刺を、仲間から借りて来ていた。宿をとる時に出したのは私自身のペンネームの名刺である。しかし昼間の取材で、それを使い果たしてしまったので、このバーでマダムの妹に渡した名刺は仲間から借りたそれだった。当然名前が違う。しかし、ここではNになりすましていればよいのだから、別に何ということはない筈だった。だのに、あまり帰りが遅くなったので、店をしめたい宿の方から、バーに電話がかかって来た。「東京のL社のOさん」というわけだ。私はこの店ではNさんであるけれども、東京から来ているL社のお客さんといえば、私一人なこともまた当然だ。女の子達が、私の顔を不審そうに見守る。一字違いか何かの名前ならとにかく、全く違う名だ。「宿の奴、寝呆けちゃったかな」とか何とか、その場を取りつくろったものの、まるで偽記者か何かのようだ。名刺の注文が、ちょっと遅れたという不注意の生んだ事故だが、この取材が、もっと、店にいやがられる性質のものだったらどうだっただろうと、内心、ヒヤリとせざるを得なかった。マダムからは、これという話も出ずに宿に引き上げた。その夜、京都と連絡、画家の実家の取材に、京都から仲間が一人駈けつけてくれることになり、時間と場所を決めた。
 午前中は市内の残りの取材を済ませ、午後、G社とF社を訪問。戦後間もなく、画家が出入りしていたという会社だ。殊にG社には、画家の妻君が勤めていたこともあるというので、G社では約一時間、F社でも三十分近く頑張ったが、知っていると云う者はいないし、帳簿にも、その名は見当たらなかった。画家から聞いたという話に基づいての取材だったのだが、何も出なかった。G社、F社は、共にこの地方の一流会社だから、画家が自分に箔をつけるためにデッチアゲたものらしい。急いで、約束の場所へ行く。思わず時間を食った為に、既に約束の時間に十分遅れているから気が気ではない。約束の場所に着いたが、仲間の姿は見えない。三十分待ってみたが駄目だった。京都の旅館に電話すると、一人は大阪へ、一人はそちらに向かったが、もう着いている筈の時刻という。私の泊まった宿に電話したが、仲間の来た様子はない。東京に電話すると、今朝から連絡がないという。何時の間にか一時間半も過ぎていた。ともかく七時には伊丹の飛行場で落ち合うことになっているから、本来なら、もう伊丹に向けて出発してよい時刻である。だが、実家の取材はどうしても必要だ。仲間のK君は、どこでどう雲がくれしたものか……。迷ったあげく実家まで行くことに決心した。往復に四十分、最低二十分のインタビューだ。運転手君に協力をたのむと、やってみましょうと、引き受けてくれた。こんな時、無線電話でもあればとつくづく思う。実家に飛びこんでみて、K君が既にここを訪れて、帰ったあとであることを知った。
 昨日来た道を、再び逆戻り。京都を廻る時間はない。途中、食料品を買い入れる。道のこわれかたは、さらにひどかったが、通れないことはない。雨も、もう降ってはいないが、しだいに暗くなっていく。
「一人じゃ、とても通れませんね。」と運転手君が云う。傍らの濁流は相変わらずの物すごさ。飛ばしに飛ばした車が伊丹空港に着いたのは、七時二、三分前だった。N君も、先に福知山を発ったはずのK君も、まだ来ていない。待合室には、大勢の人がつめかけて、ガヤガヤ、ゴタゴタとやっている。今度は東京の方が集中豪雨で、着陸不能ということで、欠航だという。東京に電話すると、「飛行機に乗れ次第、一人でも帰ってこい。」と、思いつめたようなデスクの声。
 一旦、飛行機に乗った、先便予約の人達もとうとう降りて来た。こうなると、何時になったら乗れることか見当もつかない。予約取り消しもあれば、どうしてくれると係員につめよる客など、待合室は整理のつかない混乱ぶり。ようやくN君達もやって来たが、何しろ、幾つもの便の人達がつかえているのだから、飛行機が飛べるようになったからといって、私達が何便目の飛行機に乗れるか、予想もたたない。
「合い間を見て、原稿を書いて飛行機便にしろ」というデスクの命令だが、原稿をかけるような状態ではない。汽車ではと考えてもみたが、「乗れるかどうか保証できません。」と、つれない返事。汽車の方も、不通事故その他で、相当の混乱ぶりらしい。これ以上、客をふやしたくないという、駅の配慮ではないかと勘ぐってもみたが、空港事務所ではウソではないという。日航としても、これだけダブッていてしかも急いでいる客を、どうにか東京へ運ぶ為に、汽車に頼ろうかと考えてはみたが、駄目だったらしい。
 夜十一時過ぎになって、今夜は欠航と決定した。就航できるまで、旅館の方で待機していてほしいという。こうなっても、何処までも頑張っているのは、本当に急用を持つ人間だけであろう。この分なら、飛行機が出しだい、我々も乗れる。私達は宝塚の旅館に案内された。原稿を書く条件を得たことは幸いだった。とうとう徹夜で原稿を書きあげる。朝六時、依然として就航の見通しは立たないという連絡。七時に東京と電話連絡の結果、電話で原稿を送ることになった。社では、十時までに、電話送稿を受ける態勢を整えるという。新聞社、放送会社をうらやむことしきり。
 七時半、突然、飛行機が出発できる見通しがついたというしらせ。原稿を電話で送ればあとはのんびりしたものだ。ゆっくり骨休みして帰ろうぜという計画はオジャン。三人顔を見合わせて苦笑した。
 その日の夕方、私達は、何時もの週と同じように、次の特集会議に連なっていた。

 

                 <日本のもう一つの顔 目次>


    9 トップ屋駈けある記(その二)
        世界的宗教学者の息子を追って

 

 宗教学者として、世界的な評価を受けているS博士の息子が、婦女暴行、不法監禁の疑いで、取り調べを受けているというニュースを新聞紙上で読んだ。戦後の大学生活で、日本思想史の再検討という観点から、親鸞、道元、日蓮と取り組んだ私は、博士の著書を僅かではあるが参考資料としたし、春秋社版として出版された全集も、何冊かは手許に持っていた。そんなわけで、S博士は、私にとって、近しい存在にあったから、感慨深いものがあった。
 現在九十一才にもなる老博士が、この報に接して、どんな思いにあるか、八十数才になっていた親鸞が息子を義絶したことと関連して(勿論親鸞が教えを乱す者という理由で義絶したに対して、博士の子息のした行為は非常な違いがあるにしても)、博士の胸の底を聞いてみたいという気持ちがあった。殊に、研究活動のみに止まらず、普及活動にも精力を尽くしてきた博士のことだ。意見があるに違いない。それを博士の思想とのかかわりあいの中で、是非聞いてみたかった。
 息子のMさんのクローズアップが週刊Lの特集として決まった時は、博士のインタビューは、何とかして私にまわしてほしいと思った。しかし私には、小学校、中学から大学を過ごした京都時代の取材が命ぜられた。そちらの方も十分関心はあり、M本人のことから、博士の側面が理解できる。翌日、京都に行く途中、博士の禅理論でもふりかえってみようと用意していたが、いざ機上で本を開いてみると、私の関心が、むしろ、博士の生活、家庭、教育などについて書かれた箇所に向けられていることを発見した。
「うちの雑誌は、思想雑誌でも経済雑誌でもないんだから……」
と、トップ屋になった当初からずっと、折りにふれてはデスクから云われ続けてきた自分ではあるが、私は私なりに、何時か週刊誌用トップ屋として、作り変えられつつあるらしい。奇妙な発見に、ちょっと感傷的な気分に誘われた。だが、飛行時間は短い。グズグズしてはいられないと、感傷をふり切るように本に眼を戻した。ちょうど、博士の親子関係を書いたI氏の文章にぶつかった。現在富山に住んでいるI氏が、博士の弟子であり、子供のMの家庭教師であったことを、読んでみてはじめて知った。
 I氏は私にとって懐かしい人である。マルキシストの立場から仏教に取り組む人として、日本では貴重な存在であり、すぐれた労作も二、三ある。一度もお会いしたことは無いが、教えを請うたことから、もう十年も、正月の挨拶だけは欠かさず送っている間柄だ。博士とI氏の取り組みは面白そうだ。この文章で博士は既にMを義絶していることもわかった。しかし、京都での取材も相当大変な筈だし、富山にI氏を訪れるようになろうとは、思いもしなかった。

 覚悟していたとおり、京都での取材は一向にはかどらなかった。大学時代はともかく、Mの小学校時代となると、四十年も昔のことになる。戦争、敗戦という曾てない混乱期を間にはさんでいるだけに、それが焼けなかった京都を舞台としても、やはり容易なことではない。昔、博士が住んでいた近所を探しても、その当時のことを知っている人は見つからない。中学校は中途で高野山の方に転校している。高野山に足をのばしたことは勿論だが、これという収穫も得られなかった。京都の中学時代のクラス主任が、岐阜県の中津川に引退していることがわかった。しかし名古屋から三時間も汽車で奥に入ったところの、老教師を訪れることは、ちょっと億くうな気がする。
 東京に電話連絡の際、富山のI氏のことを話すと、東京から富山に廻す人間がいない。お前一つ廻ってこいと云う。えらいことになった。旅行鞄から汽車の時刻表を引っぱり出し、路線図と首っ引きで、「北陸線で富山に行き、富山から高山線で下呂まで行き、そこから自動車で中津川へ。中津川から中央線で名古屋に戻り、小牧から飛行機で帰京」という、一応のコースをこしらえあげた。中部山岳地帯をジグザグ横断するようなコースだ。例によって期日は限られている。このコース中泊まるのは富山だけ。明朝発って、明後日の夜は東京だ。急に足下から鳥の飛び立つような忙しさで、富山のI氏の家に長距離電話を申しこんだ。幸い、I氏は在宅だったが、京都からの私の電話で、明晩伺いたいがという申し入れには、細かい事情もわからず、ひどく驚かされた様子。無理もない。私がトップ屋をしていることすら、I氏はご存知ない筈だ。だが、ひょんなことからにしろ、I氏に会えることが、私にはやはり嬉しく、とても感動してしまった。
 京都を出た汽車は、一路北陸路を進む。地方への取材旅行でも、遠方は飛行機、飛行場からはタクシーというぐあいで、近県以外は汽車で行くことがない。しかし旅行は汽車が一番いい。一定の時間、それもある程度長い時間、一つの箱の中にゆすられて運ばれていくとなると、人間誰しも気分が落ち着くものらしい。始発駅を出る頃のゴタゴタした雰囲気が一通りしずまれば、相客はみな、どっしりと落ち着いて、各種各様、それぞれの仕方で時間をつぶし、旅を楽しんでいる。そのへんが飛行機の場合とまるきり違う。千差万別の生地が、或る程度むき出しにされた感じがあって、楽しい眺めである。楽しい話相手にぶつかれるのも、汽車の長旅でなければ味わえない楽しみだ。窓から外を眺めても、空から見下ろす美しさとは違って、すごく人間臭いのが、私を飽かせない。それに本を読むにしたって、たっぷりと読める。半日以上の時間を、確実に、この車の、私の占領した狭い座席の上にしかいられないということが、逆に私を取材旅行の重苦しさから解放してくれた。それに、目的地にはI氏がいる。私は、旅の楽しさを一つ一つ満喫していた。

 富山駅に着いたのは七時過ぎ。I氏らしい姿は見あたらなかった。迎えに出るとは云ってくれたが、私には一人の方が気楽だ。早速宿をとり、夕食前にI氏に電話した。「駅で見あたらなかったので、来なかったのかと残念がっていたところだ。」という返事。何にしろ、お互いに顔かたちを知らない同志だ。行き違ってしまったのだろう。夕食をかきこむようにして、I氏の家に飛んで行った。はじめて会ったI氏は、どうして駅で見付けられなかったかと不思議に思うほど、私の想像にピッタリの印象だった。
 奥さんはお留守で、息子さんがビールを運んで来る。だが、話はどうもうまくゆかなかった。ともするとS博士やMのことを離れて、期せずして共通の、二人の関心ある問題にそれてしまう。I氏が博士のことについては語り度くないということもあって、なお、話がそれがちだ。しかし、私は、週刊誌のトップ屋としてI氏を訪れたのである。どうしても、最低のことは聞かないわけにはいかないのだ。I氏にはI氏の立場もあり、考えもあって、私の聞くことについて話したくない気持ちはよくわかる。それていく話を強いて元に戻そうとして、気まずい空気の流れる時間もあった。もし、週刊誌のことを離れて氏と会えたら、夜を徹しても語りあえたであろう。けれど、富山に氏を訪ねるというチャンスが、そんなに簡単に廻ってくることもない。時間も金も無い現在の私なら尚のことだ。全く皮肉なことだと、唇をかみたい気持ちになっていた。
「君には大いに不満だろうが、これでも精一杯話したつもりだ。君でなかったら一言もしゃべらなかったことだよ。」
と慰める口調のI氏。十二時半頃I氏の家を辞去した。旅館をとったことについて、叱られてしまったが、仕事の性格上止むを得ないことだ。宿に帰ってからも、もし、こんな仕事で来たのでなければ、もっと楽しく、もっと何時までも語れたろうにと、妙に寂しい気持ちになっていた。
 翌朝、高山本線で下呂まで、深い山の中をゴトゴトと走る。下呂から中津川までは、車での山越え。道とも云えぬような道を、ドカンドカンと、天井に頭をぶつけそうになりながらの三時間半で、身体じゅうがクタクタになった。それでも、峠を越えて、木曽川の渓流を数十メートル下に見下しながら下りにかかった時は、車の動揺も、道の悪さも忘れるほどの、すばらしい眺めだったし、スリルもあった。木曽川の水は想像以上に豊かで深い蒼さだった。こんな深い水の色は、何と表現したらよいのか。吸い込まれそうな魅力を湛えた水の色は、激しく動いていながら、トロリとした厚みさえ感じさせるような、不思議な美しさに沈んでいた。
 富山から延々、時間をかけて辿りついた中津川だったが、私の尋ねる人は、三か月前に移転してしまったあとだった。行く先もわからない。あちこちとあたった挙げ句、老教師と交際していた人の名前を知ることができた。そこを訪ねてみると留守。四十分も待って、帰ってきたところを話しかけ、聞いてみると、山陰地方のH市に行ったという。これではしょうがない。ガックリしている私に、
「訪ねて行っても無駄でしょう。本人は、もうすっかりもうろくしていますからね。」と、気の毒そうに云い添えた。泣きベソというのは、こんな時にかくのではなかろうか。泣くに泣けない気持ちだ。三時間半の車での疲れが、急に二倍にも三倍にも感じられる。重い足を駅へ運ぶ。コーヒーでもと思っても、喫茶店も見つからぬ。ようやく来た汽車に乗り込んだが、こんな列車が、今時、中央本線と名のつく線路の上を走っているのかと、疑いたくなるようなガタピシ列車。ひんぱんにトンネルに入るのだが、そのたびに車の中は煤煙でもうもうとする。毎度のことで馴れているのか、乗客達は至極あたりまえの表情でいるのには、もはや云うべき言葉も見つからなかった。名古屋駅を出て、ようやく人心地がついた。

 東京組は、結局、博士に会えなかったそうだ。すぐれた精神は、適切な配慮を欠くと、あまりのアンバランスの為、却って幼い魂を損なうことを、まざまざと見せつけられた感がある。だが人事ではない。どんなテーマをも平然とこなしていける能力を持たない私なんか、何でもやのトップ屋を何時までしていたら駄目になっていくのがはっきりわかる。ゾッとしながらも、なかなかやめきれない。日雇いならぬ週雇いのような機構の中では、職を変えるだけの余力がなかなか生まれない。日雇いが、何時までも定職につけないのと同じ理くつだ。

 

                 <日本のもう一つの顔 目次>


     10 トップ屋は消耗品
         プライバシーの問題も含めて

 

 三坪ばかりの庭先に、こわれかけた椅子を置いて、老人が新聞を読んでいた。見たところ七十に近いと思われるような感じの、その老人は、私が入っていく姿にチラと眼をくれはしたが、まるで、そこに何も認めなかったような素ぶりで、また新聞に眼をおとして、じっと動かない。顔ばかりか、身体全体が、すっかりこわばっているのが、よくわかった。おそらく、活字も眼に入ってはいまい。私の侵入を、頑強に否定していることが、あまりにもはっきりしている姿勢であった。枯木のような、その手足、うす汚れた白髪のどれもから発散している老人の感情は、必死な哀切さに満ちていて、私の足をひるませた。私は、一歩一歩、なえようとする足を踏みしめ、自分を励ましながら老人に近づいた。老人は彫像のように動かなかった。
「週刊Lの者ですが、この度は……」
呼吸をはかって、一気に云い下そうとするのを待とうとはせず、うつ向いたまま、叩きつけるように吐き出す声が耳を刺した。
「帰ってくれ。」
圧しつぶしたような、しわがれ声ではあるが、私の胸にはズシンとくるものがあった。今度は、私の方が、老人の前に立ちつくさねばならなかった。
 娘を殺された、老いた父親の悲しみと怒りが、痛いように感じられる。一家の生活を支えていた娘だった。その娘を奪われた今、どれほどの恐れと不安が、この老人をとらえているだろうか。思いめぐらすうちに、できることなら、このまま逃げて帰りたくなってしまった。週刊Lは、この老人の悲しみとは無関係に、深夜の女給殺しのナゾを、多分に興味的に記事にしようとしている。週刊Lはウソは書かない。想像でデチ上げはしない。だからこそ、我々は、どんなにいやがる当事者からも、関係者からも、談話を取らなくてはならぬ。それはともかく、今は、老人の口から、女給をしていた娘の日常生活、性格など、細大洩らさず聞き出さねばならないのだ。この全身で悲しみに耐え、周囲に抗して、精一杯肩ひじを突っ張らしている気の毒な老人の口から……。いやな役割りだ。
「帰ってくれ」
同じ言葉が、もう一度、呻くように老人の口から出てきた。
「すみません。」
私は深く頭をたれたままである。
「あんた達は、一体どんなウラミが私達にあるというのだ。娘を殺された親の気持ちも考えず、まるで、土足でドタドタ踏み込んで来るような真似をして……。そんなこと、やっていいことだと思うのか。」
「決して、そんな……」
「じゃ、K新聞や、週刊Gの記事は、ありゃ何だい。私達のことなら、まだ我まんもしよう。殺された娘のことを、それも、ありもしないでたらめを、ああ書きたてられたんでは、娘の霊も浮かばれん。」
 激しい感情が、胸の中でたぎっているのだろう。息をころしたような口ぶりだが、老人は次第に興奮してきたようだった。誰にもブツケようのない怒りに、火がついたようでもあった。ちょうど、そんな時に、娘の母親が帰って来た。
「おとうちゃん、何もしゃべるんじゃない。この人達は、人間の顔をした鬼みたいなもんだ。警察の人も、しゃべりたくなければ、話さなくていいといっていたじゃないか。」
そして、敵を見るような憎しみの眼で私を見、
「さっさと帰ってください。」
と投げつけるように云うと、家の中に入ってしまった。これには、老人もびっくりしたらしく、すまないという顔で私を振り返った。
「奥さんは、どこかに働きに行っていらっしゃるのですか。」
「ニコヨンですよ。私が身体が弱いばっかりに、娘や家内に苦労をかけてしまって……。娘にあんな商売をさせて、親の私達はのらくら暮らしているなんて書いた新聞もあった。本当にひどい。それで家内も怒っているんです。」
「いえ、こんな時に、仕事とはいいながら、おしかけてくる私達の方に問題があるんですから……。」
「まあ、お掛けなさい。」
 すすめられて椅子に坐った。老人も、今は落ちついていた。少しずつ、話を聞くことができた。さっき七十近いという印象を受けた老人が、実は五十才を少し過ぎたばかりとわかった。病弱の上に、突然彼を襲った不幸が、彼を一挙に老いこませてしまったのであろうか。そこに、
「お父ちゃん、お客さん?」と、片言に近い発音で云いながら、一人の娘さんが出てきた。明らかに脳障害とわかる。
「殺された娘の妹なんです。この子の為に、娘は一生結婚しないなんて云って、結婚の機会を逃がしてしまってきたんです。堅い勤めをやめたのも、働けなくなった私や、この妹をかかえて、なんとか暮らしをたてていかなければならなかったからなんです。そんな優しい娘を、売女か何かのように書いて……」
 老人は、静かな声を出して泣きはじめた。これには、もう一つ弱った。
「母さん、この人は悪い人じゃないらしい。お茶でもあげてくれんか。」
先刻とは打ってかわった応対に、私はかえってドギマギした。なおも話を続けるうちに、
「仏さんに線香をあげてやってくれんか。」
と云われてしまった。この言葉には、頼り少ない老人の寂しい心の内が滲み出ていた。

 親達の惨めな気持ちに向き合っていることが苦しくはあっても、こんなのは比較的うまくいった例である。娘の母親から、「鬼のような人達」と云われたが、表現に多少の違いこそあれ、ありとあらゆる罵詈雑言を投げつけられるのがトップ屋の宿命かもしれない。新聞記者が訪れる時は、突然のできごとに呆然としている状態で、相手に食ってかかるのも、なかなかにでき難いであろう。一番わりの悪い時間に飛び込んで行くのがトップ屋のような気がする。それに歴史の浅いトップ屋の業績は未だあまり認められていないし、心ない二、三の人のおかげで、トップ屋の世評は、あまり芳しくない。ゆすり、たかりと同類に入れられているふしも無くはない。週刊誌のあり方自体にも、問題は掃くほどあるのであるから、第一線に出るトップ屋に、そのさまざまな問題が、はね返ってくることになる。
 罵詈雑言なら、まだいいとも云えるが、泣かれるのは最も辛い。泣きながら頼まれ、時には拝まれさえする。
「あなた達は、私達親子に死ねと仰有るのですか。私達を殺そうというのですか。」
というようなショッキングな言葉を投げつけられたこともある。ようやく静かな生活を取り戻しつつある人間を記事にして、その結果がどうなるかは、考えてみなくてもわかっている。
 会いたくない人間、逃げまわっている人間をつかまえて、話したくないこと、いやなことを語らせようと、日夜追いかけまわしているのだから、その為に肉体はおろか、神経まですり切れていくのは当然である。そして、週刊Lの特集の二本のうち一本は、そんな記事なのだ。
 私の仲間に、私とは違って優秀なのがいた。「正義」「真実」とか「責任」とかを振りまわして取材する。仕事は熱心だし、執拗だ。相手を説き伏せる時、自分もまた、その大義名分に酔っているのではないかと見えた。そういう取材の結果は、とかく筆が走りすぎる。そして、「生きている人間への配慮が無さすぎるじゃないか。報道の結果について、もっと関心を払ってもよいではないか。」という抗議をしばしば受けることにもなった。彼自身も、その矛盾を無視できるわけはなく、ノイローゼの症状を起こすことがたびたびであった。しかも抗議が寄せられた時、L社が「彼は社外記者ですから」と云って責任を回避し、その記事を取ったトップ屋個人が後始末をしなくてはならないケースも少なからずあった。無記名の記事、それも会社の企画したテーマによる記事、そして最終的に記事をまとめた者ではなく、その資料を提供した人間が責任を負わねばならないとしたら、会社は一体どんな責任をもって、出版しているのだろうか。しかも、こういう週刊誌のゆがみが続くかぎり、トップ屋は次々とノイローゼとなり、消えていかねばならない。何時までたっても週刊誌時代の消耗品でしかない。

 最近、プライバシーの侵害ということが、しきりに云われるようになった。取材先で「プライバシーの侵害よ。」などとタンカを切られた経験も再三ならずある。新聞、雑誌がプライバシーを侵している、プライバシーは守られなければならないとする巷間の意見に対して、私はそれに簡単にくみする気はない。それは、週刊誌のやっていることをそのまま肯定するものでないことは、はじめに断っておく。個人の生活を他から隔離しておきたいという気持ちと同じように、我々には他人の生活に対する好奇心も旺盛である。火事といえば、もう表に飛び出さずにはいられない物見高さ、弥次馬根性も、それをむき出しにするかしないかの差、関心の内容に違いこそあれ、誰もが持ち合わせているものである。他のことには一切無関心、お構いなしという人間は極めて珍しい。裏を返せば、このような相互の関心が、人間を結びつける足がかりになるものだと云えないこともない。
 これらの好奇心は、普通、共通の知人の上に注がれる。スター、テレビタレント、スポーツ選手などのゴシップが、それなりにもてはやされる理由はそこにある。それともう一つ、衆知の事件に登場した被害者、加害者、その関係者が好奇心の対象にされやすい。これは一つの事件発生をきっかけとして、事件関係者が、世人一般の共通した知識の範囲内に入った人間であるからで、しかも事件の内容がショッキングであればあるほど、人々の好奇心を満たすことになる。
 そこで、共通の基礎知識を土台として相互に情報交換し、感想を述べ合う材料を提供しているのが、新聞、雑誌であり、特に週刊誌はその中で幅広い役割を担っている。だから、そういう意味での世人の要求に応えて週刊誌が発展を続けている(勿論生活テンポの週単位化、それ自体のスピード化等、幾つもの条件に支えられての上ではあるが)のを阻むことはできず、今後もその要求に応じて拡大されていくことになるだろう。私はそう考えている。だが、如何に人々が好奇心に富み、覗き趣味旺盛で、弥次馬根性が強かろうとも、それを満たすために、何の罪科もない一個の人間を、その生けにえとして葬り去ってよいという理由にはならない。そこには厳とした限界のあることは当然である。私にとって問題なのは、その線の引き方であり、内容の分析の仕方である。
 巷間のプライバシー侵害に対する反論は、日本人の物の考え方(外国人の場合はわからないから除外する)の二重構造を放置する結果を招いていると考えられる。無論、誰でもと云っては云い過ぎになるが、私達が取材に行って質問した場合、すらりと出てくる返答は、彼や彼女の公的発言とも云うべきもので、これを公式意見として、本人自身が意識していない所に特徴がある。意識もせずにそんな意見が出てくるのだが、その意見は、彼や彼女の実生活とは、さっぱりかかわりあっていない。彼や彼女の私生活を支えている考え方は、それとは別の所に何の不審もなく存在している。いわゆる、「たてまえ」と「本音」が全く分裂しながら平然と同居しているということだ。我々が型通りに質問して得る答が、何人にあたってみても大同小異であることが多い。そこでこの公的発言をくつがえし、彼等の本音を探り出すのには、並々ならぬ努力と試みが必要である。そこに、我々トップ屋が、事件当事者からののしられ、そしられるような場での取材が繰り返されることになる。だが、「触らないでほしい」「そっとしておいてくれ」と云って、傷口をかくしておこうとする人々は、その傷口を放置したまま、せめて忘れ去りたいという希望にしがみついていると云っていい。もしそこに適切な分析と解明が伴うような傷口のはがし方ができるなら、本人自身も気付かなかった本音を引き出し、そこに照明を与えることは、当事者自身にとって、また広く読者にとっても意味深いことである。それはプライバシーの侵害よりも、当事者自身の整理と発展を意味し、普遍化することを意味する。
 週刊誌が、そのかくされた部分を引き出し、照明を与える仕事に一役買っていることはたしかだ。そしてそれは、読者の望む所でもある。だが、単に興味をくすぐり、好奇心を満たすためにだけ、かくされた部分をえぐり出しているのが週刊誌の現状であることもたしかなのだ。毎号、毎号、よくも飽きもせずにと思われながら、この方向は改まりそうにない。何故なら、何十万という多くの人間が、そういう記事を要求し、買い続けるからだ。
 勿論、この種の記事といえども、決して常に同じではない。手を変え、品を変えして、読者をアヤし続けなければ、読者から見離される。そこで、目先を変え、興味を湧かせるための企画、記事作製の、熾烈を極めた斗いが展開される。だが、その斗いも、非発展的な一つの枠の中での斗いに終わっている。週刊誌づくりへの、異常とまで感じられる、すさまじい執念もまた、その枠の中を出ることがない。その枠を、どうやぶるかは、すべて今後にかかっている。この種の記事を発展させないものをいやというほど知り尽くしつつ、なおも、テーマの対象に引きずり出された被害者達の軽侮と憎しみの眼にさらされ続けたトップ屋の中からこそ、この枠を破る試みが起こり、その時はじめて、週刊誌が国民の中に定着することになるのかもしれない。その日までは、トップ屋は、神経と肉体をすりへらして、遂には消え去らねばならぬ消耗品の位置を脱することは困難かもしれない。

 

                 <日本のもう一つの顔 目次>


    11 トップ屋廃業
         訂正記事にからむ週刊Lと私との事情

 

 Y氏から大幅な訂正記事を要求されてから、僅か二か月後に、またまた私の書いた記事が訂正を要求される羽目に追いこまれてしまった。昭和25年9月27日の、日共潜行幹部伊藤律との架空会見記事は、記事そのものと、デッチあげという二つの点で、世間をアッと云わせたものだが、私の場合は、そんな派手なものと違って、原稿締切まぎわに、本人と名乗る本人ならぬ人間とインタビューし、記事にしたところ、それが本人ではなかった為に架空会見でもしたかのような体となってしまったのである。そして本人の抗議に会い、訂正記事を書かざるを得なかったという、私にとっては不可抗力に近い、しかし醜態と云えるものだった。この事件は、さらに、私の三年半のトップ屋家業に終止符を打つことにもなったのだった。

 参議院選挙に立候補して落選したK氏が、選挙違反に問われ、二号、三号宅を転々として身をかくしているということが、週刊Lの特集テーマになったのが、事のおこりであった。私の担当は、Kの家族、Kが経営している会社の直系の線から、Kの過去、人柄、思想などを洗うことだった。
 K夫人に会うことが先決と、私は先ずK家を訪れた。K家はバカデカイ構えの邸だった。この種の多くの家と同じように「猛犬注意」の札が下がっている。名刺を通すと、「夫人は来客中で、今お目にかかれない。」という返事しか得られない。最初から、あまりしつこくしてもいけない。どっちみち、夫人にとって、私に会うことが楽しいことでないのは、わかりきっている。云いたくないこと、いやなことを聞かれることぐらい知っている筈だ。どんな名目で会ったとしても、それは綺麗ごとにすぎない。夫人が、Kの為に何を語ったにしても、弁解以上には聞かれない事も承知だろう。これは根気よくせめるほかあるまいと判断した私は、「じゃまた、後ほど。」と云って引き退がり、Kの会社に向かった。受付で名刺を通すと、
「専務は留守です。」
と、ひどく呆気ない答。専務の在社時間を聞いて、非常勤の重役連を訪ねた。重役の椅子についていながら、Kをよく云う者は一人もいない。
 それからの三日間というもの、私はK家とKの会社を往復するのが日課となっていた。食い下がる度合いは、一回毎に深めていった。会社では、とうとう激しくやり合いもしたが、やはり会えない。私だけでなく、仲間の取材はどれも暗礁に乗り上げかけていた。デスクの顔が、日に日に尖っていくように見えた。
 締め切りが明日に迫った日の夕方、最後の打ち合わせをかねてL社に行くと、デスクが噛み付いてきた。「連絡を待っていたのに、何故しなかったか。」と云うのだ。「すみません」ではすまなかった。なんと、一時間半も説教を食らった。無責任で真剣でないと云うのだ。あげくの果てに、Kの会社から、私が「名刺も出さずに面会を強要する。腹が立ったからなぐってやりたいと思った」という電話がかかった。何と非常識なことを云ってくる男だろうかと思うほどの電話だが、デスクはそれを真に受けて、「L社の立場も考えてくれ」と云う。私はこの社で、まる三年半トップ屋の仕事をしてきた。デスクはそれを見てきた筈だ。どうして、私は、この男から、こんな呆れた言葉を受けなくてはならないのかと不思議でならなかった。あまりのことに呆れて、怒りの言葉も発することができなかった。そして、
「Kの家族に会える見込みがないなら、他の者にバトンを渡してくれたらよかった。方法もあったのに。」
と云われた時、私は怒りの為に声が出なかった。この時、私はやめようと決心した。Kの家族やKの部下に会えないで、少々の焦りはあったけど、この三年半、締め切り時間までには必ず何とかしてきた経験の上に立って、私はそれほど動揺していなかったのだったが……。
 翌日、専務はとうとう掴まえられなかった。私は一転して、K家に電話した。電話口に出てきた声に向かって、
「奥さんにお伝えしてほしいことがある。Kさんのことは、あまり芳しい記事になりそうではありません。Kさんの為に、三行でも四行でも、弁護の言葉をお聞きしたいのです。奥さんが駄目なら、お嬢さんでも結構です。お会いになりたくないなら、一言、紙片に書いてください。それを頂きにあがります。その言葉を結びに使わせていただきたいのです。」
 私は必死になって、これだけのことを云った。昨日の今日だから、私には相当悲壮なものがあった。「一寸お待ち下さい」と引っこんだまま、相手はなかなか出てこない。さまざまな思いが、頭の中を渦巻いた。ようやく「十二時半においでください。お待ちしています。」という返事を得た時は、眼の前がパッと明るくなるような気持ちだった。最後の責任は果たせる。トップ屋生活の中で、特に嬉しかったことの一つに数えられる喜びだった。
 K家を訪れた私は、Kの長女と名乗る女性に、応接間に案内された。女中を指図して、お茶がわりにと出されたビールに口をつけながら、たっぷり一時間、Kのこと、特に娘の立場から見た父親について、話を聞くことができた。三十才を過ぎて、自分でも仕事を持っている女性にふさわしく、父親を徒に弁護したり、知らぬ存ぜぬで押し通そうとせず、ちょっぴり批判めいた発言をしながらも、全体としては父親への深い理解と温かいいたわりの言葉を吐くところなど、聞きながら、さすがに、たいしたものだと思わずにいられなかった。殊に、公然の秘密とも云える、父親の女道楽に対する彼女の見解は立派なものだった。
「お食事の用意ができていますが」という女中のたっての言葉を斥けて、K氏の写真を受け取る時、私はその下に金包みを発見して、ちょっといやな気持ちだった。いくら入っていたか知らぬが、さり気なく包みを返してK家を辞した。
 彼女の発言は、勿論そのまま記事になった。週刊Lの仲間達が、一様に評価する発言だった。

 週刊Lの発売の日、
「あれは私の発言じゃありません。私はお宅の記者にもお目にかかりません。」
という、私こそKの長女と称する女性からの電話には、デスクも驚いたらしい。しかし、その女性は、
「お宅の記者のOという人が、私の家に来て足代まで請求して持って行った。」
とも云ったという。

 その話をしながら、デスクが、「足代のことについては本人に聞いてお返事する」と答えておいたと云うのを聞いたことは、新しい女性の登場以上に私にショックだった。身体中の血液が、みんな頭に集まってきたように、頭の中の血管が、ドキドキと脈打っていた。
「そんな筈はない。」と、その場で当然否定してくれていいことではないか。それとも新しい女性の登場で、デスクの頭も転倒していたのか。そんな破廉恥なことができるくらいなら、我々のトップ屋仲間が、年中金に困っているわけはなかろう。何故、私に聞いてみなければならないのだ。それほどに信用が無いのか。考えられないことだ。私とデスクの人間関係は零以下だ。
 相次ぐ記事の訂正要求で、デスクも頭にきているらしいことはよくわかった。しかし、Kの娘に一面識もない私に、Kの家で、Kの娘と名乗る人間が、本物か偽者かを見分けられる筈がない。第一、そんな場面に、偽者が現れるなんて予想できることではない。ヤクザのけんかの身代わりとはわけが違う。どう考えても、私のミスとは思えないが、どうして、そんなことになってしまったのか、まるで狐につままれたような感じだった。
 まさかとは思っていたが、Kの娘の事務所で、本当の娘だという女性を見た時は、ぼんやりしてしまった。たしかに、この女性は、はじめて見る女性である。その間の事情はわからず、不可抗力と信じながらも、何となく、私はまた、ミスを犯したという気持ちに引きこまれるのをどうすることもできなかった。
 本当の娘は、決して好意の持てる女性ではなかった。
「あんな不美人に見まちがえられるなんて、全く不愉快だ」
と、いかにもいやらしそうに云う。「どっちが魅力的存在でしょうかね」と云ってやりたい衝動を、やっとこらえた。娘の旦那と名乗る男もいることだし、このヒステリー気味の女性の前で、いやらしさに対抗していたら、まとまる話もこわれてしまう。残念ながら、この場合、あの発言が、娘として云うまじき発言ではなく(娘の父親についての発言らしくないというのが、本物の娘やその周囲が文句をつけている要素の一つであった)むしろすばらしい発言であることを説得するのが先決だ。
「娘を名乗ったと仰有るが、あの人は、自分で娘だと云った覚えはないし、金も請求された。あなたと対決してもいいと云っている。」と、本物は威圧的に云う。私には、あの時の女性が、どうしてそんなふうに云ってしまったのか、その気持ちがわからない。本物は、私の顔をジロジロ見ながら、
「あなたはとても不満そうだけど、私はあなたの云い分を信ずることはできません。」
とも云った。
「そうです。私はとても不満です。あなたの云うように行動しているとしたら、その男は記者としての最低の良識すらないことになる。こうやって面と向かって話をしながら、それぐらいのこともわかっていただけないとは、あまりにも残念だし、不満でたまりません。」
 彼女は疑わしそうな表情を私に投げかけながら、
「でも、あなたのような会社の記者には、そんなことはないかもしれないけれど、私の所に来るトップ屋さん達は、平気で車代を請求します。当然のようにして金を持って行きます。私はそういう人達を随分見て知っています。」
 そんなにそれが当たり前なら、金を請求したの、取ったのと、ワイワイ云わないでもらいたい。金のことがからむから、私は余計カッカとしてしまう、と云いたい所だが、そう云えば、私が取ったことになってしまう。本物は、
「『あの子』もあなたと対決すると云っているから対決してほしい。あなたの会社と『あの子』のことは、そちら側でケリをつけてほしい。私は、訂正記事さえ書いて貰えば、それでいいことなんですから。」
とも云う。だが、「あの子」は、K家に頼まれて娘の代役を勤めたのではないだろうか。「あの子」がそんな役を買って出るわけもなし、K家の事情を知らない人間でないことは、インタビューでもはっきりしている。だが、実際に記事になってみると「あの子」の発言が気に入らなくて、「あの子」を責めた。「あの子」は責められて、「娘だとは云わなかった」などと口走ってしまったのではないだろうか。それはわかるとして、金のことは……。金のことはどうなんだろう。私は、すっかり感心して、さすがはと「あの子」の顔を見つめたことを思い出していた。そうだ。あの時、女中も、はっきりよその人間としてでなく、この家の娘として接していた。
 「あの子」はなかなか現れなかった。来るという時間が一時間以上過ぎているのに、まだ現れない。電話で催促しても、さっぱりラチがあかない。彼等の話しぶりを聞いているうちに、「あの子」とK家の間がらが、少しずつわかってきた。彼女にとってKは、生活源の一でもあるらしい。そうなると、金も彼女が一時借用していたらしいと察しがつく。そのような彼女を、この場に登場させることは、彼女を大変な場に追いつめることになることは明らかだ。問題が意外に深刻な様相をおびてきたので、彼女も相当困っているのではなかろうか。おびえ、途惑っているようにも思えた。私は、できることなら、彼女との対決を拒みたい気持ちにさえなっていた。ただ、問題は金がからんでいる。どうみても金について、私の身の潔白が証明されているようには受け取れなかった。何故、彼女は、彼女自身が追い込まれたとは云いながら、私を対決などに追い込んでくれたのだろう。私は彼女を恨みたくなってきていた。本当に恨めしかった。私も弱い立場だし、将来、仕事をやっていく人間として、自分の歴史だけは汚さないようにつとめてきたのだ。これだけは明らかにしておかなければならない。だが、みすみす彼女を窮地に追い込むことがわかっていながら、それを待ち構えている辛さから、私は、
「彼女をどうしても、ここに呼び出そうとするのは止めにして頂けまいか。彼女も辛い筈だから。」
と、口に出さずにはいられなかった。もし、わかってくれる人間がいたなら、そういう発言だけで、どちらが強い立場にあるかは明瞭である。そうすれば、不要な愁嘆場を展開せずにすむのではないかという、願いに似た気持ちも、ないではなかった。しかし、これは逆効果を招くに過ぎなかった。本物は、またも露骨に疑わしげな眼で、私をにらみ、
「彼女も来ると云っているのだから、もう少し待ってください。あなたも、このままじゃ、いやでしょう。」
と突っ放した。

 「あの子」は遂にやって来た。彼女は、自分が、選挙中、Kの長女として運動していたことを語り、今回も娘と思われてもしかたのない態度をとったことを認めた。その間、私は終始黙りこくったまま、一言もさしはさまなかった。さしはさむ気にはなれなかった。さっきまで、私を疑いの眼で見続け、「あの子」との間は、そちら側でなどと云っていた本物の娘は、今度は彼女に向かって、かさにかかった態度で攻撃をはじめた。何時のまにか、本物と彼女の間の紛争のようになっていた。聞くに耐えないような暴言が、彼女に対して矢つぎ早に投げかけられた。如何にも意地の悪い、いやらしいいじめ方であった。彼女はただ、「すみません」を繰り返すばかりだった。どうにもやり場のない気持ちだった。私は彼女に一言云いたかった。
「あなたの方が、本物の娘より、よっぽど立派です。気を強く持ってください。」

 部屋を出て、デスクがはじめて口にしたのは、
「どうして、もっと彼女を攻撃しなかったのか。大変な迷惑を受けたんだからな。」
という言葉だった。私は、デスクと私との間が、さらに遠のいていくのをはっきり感じた。私は胸の内で小さく「私には、彼女の方が、あなたよりもずっと身近に感じられるんですよ。」とつぶやいた。この言葉を彼に叩きつけたい気もあったが、叩きつける相手ではない。叩きつけたら、わかってくれる相手でもなかった。
 ビルを出ると
「どうもご苦労さん、じゃ失敬。」という言葉を残して、デスクは私の前から立ち去って行った。呆然と彼の後ろ姿を見送る以外に、私に何ができただろうか。
 トップ屋をやめたのは、それから間もなくのことだった。
「ながながお世話になりました。」
という私の月並みな挨拶に対して、デスクはただ一言
「ああ、そう。」と云った。私は、彼の後ろ姿の前に、もう一度呆然と立ちつくさねばならなかった。一人のトップ屋がやめることは、一本の鉛筆がちびて使えなくなったくらいのできごとでしかないように見えた。それがトップ屋への評価なのだろうか。云い過ぎだとするなら、トップ屋という名の私へのと云い直してもいい。

 

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      12 現在考えること
          曲がり角にきている週刊誌

 

 思いがけずも、週刊誌の仕事をするようになった私ではあったが、最初の特集テーマがテーマであっただけに、すっとはいりこむことができた。もし、あの時のテーマが、イエローページ的なものであったら、あれほどすんなりはいることができたかどうか。甚だ疑問な気がする。偶然が、幸か不幸か、私をトップ屋に仕立てる作用をほどこした。だが、あの時、当時の私には想像もできなかった週刊Lのヴァイタリティを感じとれたということも、私を、この仕事に結びつける大きな要素になったと云える。旺盛なヴァイタリティには、絶えず冒険を伴いながら前進を続けていく態度が感じられた。
 このことは、私流に云えば、中立を標榜するジャーナリズムとして、体制、反体制のそれぞれの内部の矛盾を鋭く追求し、分析していくことは勿論、両体制間の矛盾を追求することによって、新しい時代の方向と、発展への契機を探り出す雑誌への可能性を予想し得たことである。
 それは同時に、戦後十七年間を経て、今日もなお、歴史の動きと私とを、確信をもって行動し発言しきるほどに重ね合わすことのできないでいる、私の現状を克服できるのではないかという期待を含んでもいた。「安保を横眼でにらんだ私」と書いたが、横眼でにらむ程度の理解と認識しかない私でもあったのである。総資本対総労働という言葉の内容を、しかと自分の頭と手で把えたいということもあった。しかも、私は、週刊誌と関係を持つようになって、はじめて週刊誌のビジョンを持ち得たのだ。このことは、それまでの、週刊誌に対して全く無関心だった自分への、大きな反省をも伴った。私がトップ屋になったことは、友人や知人にとっても、ひどく意外なことだったに相違ない。呆れ顔をする者、軽侮の色を隠さぬ者に対して、私は、熱っぽく、私の週刊誌のビジョンを語った。同時に、あの、逞しい、驚くべきヴァイタリティについても……。
 しかし、この夢のような、私の願いは、私の力の限界と、トップ屋という仕事の奇妙な形態と性格に災いされて、成功どころか、最終的な段階では、私への不信という(私の何が不信を生み出すきっかけとなったのか、そしてそれが、どうして解消することなく、ぬきさしならぬほどに固められていったものか。私には、今もって、よくわからない。何度繰り返して考えてみても、「不思議な」という言葉のまわりを廻っているような気がする。ともかく、不信を買っていたという現象だけは、まぎれもない事実で、その為に、人一倍、不愉快な思いもした。)形まで生んで、ハジキ出される結果となった。三年半の生活を通じて、私は精一杯に、私の存在の力の限り、その夢の実現に向かって努力し、週刊Lに、いろいろな角度から切り込んだのだったが、結局は実らせることができずに終わったのである。
 安保斗争、三池斗争の時にこそ、生まれるべき週刊誌であったが、それから二年遅れて出発したにせよ、「新週刊」の出現は、協力して進むことのできる新雑誌の誕生として心強く思った。新しい、あるべき週刊誌の方向を築いてくれるという、期待さえ持っていたのだった。しかし、間もなく、その分析力、取材力の貧弱さに、呆れ、嘆かねばならなかったのは、残念というより口惜しかった。この気持ちは遂に、廃刊の日まで続いたのである。当然のことながら、私の夢も、そして数百万人願いも、消え去るほかはなかった。

 三年半のトップ屋生活、それは、私にとって、まことに長い年月であった。その間、私の追った特集テーマは、政治、経済、教育にはじまり、スポーツ、芸能に至るまで、およそ200本を越えている。事件の入口は違っても、事件を深く追い、人間の内面に鋭い視線をこらせば、すべて相互に連なり合い、結びあって、錯綜していった。視点をどこに置くかということによって分かれているのは事実だが、分析を途中でやめる、その地点によって、ある事件は政治ものとなり、あるものは事件ものとして成立することを、実感的に思いしらされた。これは、何物にもまさる、私の収穫だったと云っていい。
 収穫の第二は、ナマな事件や、ある事に取り組んでいる人間に内在する凄まじさというか、激しさというものに直面して、それこそ相手の心を叩く以上に、私自身が叩かれ続け、私の心が燃やされ続けてきたことである。その中で、私は、それなりに私を発展させた。ただ、週刊Lを発展させ、発展した週刊Lを通じて読者を発展させるということが、いささかなりともやれたかどうかについては、全く疑問だということになるが。

 それにしても、現在の私には、書きたいこと、書かねばならないテーマが山積みしている。トップ屋生活の間に遭遇した、さまざまな事件、取材活動そのものの殆どが、私のこれまでの体験や思想に触発し、問題の追求と整理を促した。ここに発表したのは、まさに、その一端というべきもので、未整理なもの、なお追求と発展を必要としているものが、まだまだ残されている。ことに、私と歴史との重なり合いの問題、総資本対総労働の力関係など、何時かは整理し、補充して発表できる機会もあることと思う。ここに書いたのは、その意味でむしろ中間報告ともいうべきものであることを明記しておこう。さらに私は、将来時を得て、再び週刊誌のビジョンを求め、その実現に向かって挑み続けることであろう。

 

                 <日本のもう一つの顔 目次>


      13 振りまわされたトップ屋
           夏の海岸での五日間

 

 「女を取り合って、学生の諸君がなぐりこみをかけたように、派手に新聞に書かれてしまったので、実は私達も困っているのですよ。女といっても、何しろ、やっと六才になったばかりの女の子だったんですからねえ。」
「エッ!そりゃ本当なんですか。間違いないでしょうな。」
 H署長の言葉をさえぎるようにして、ボクは大声を出していた。
「間違いありません。貴方も新聞を見てお出でになったようですね。貴方が三人目なんですが。まあ、新聞が、まるで年頃の女の子を取りあった学生の乱斗事件というふうに書いたんですから、皆さんが飛んでいらっしゃるのも無理ありません。しかし、お気の毒ですが、事件はそんなんじゃない。」
 そうなのだ。われわれは新聞記事によって、東京から三時間、車を飛ばしてこの海岸まで引っぱり出されたのだ。われわれより先に、ここを訪れた二人も、多分そうだったのだろう。トップ屋には、新聞社のような報道網はない。通信局も支社もない。顔馴染みの刑事もいないから、当然、このH署長とも初対面だ。新聞社のようなニュース性には欠けるが、そのかわりに記事の突っ込みに、綿密な分析に力を傾けている。しかし、新聞記事で、事件の発端を知る弱みは蔽いようがない。
「そりゃ、六才の女の子のお母さんも、いらっしゃるにはいらっしゃいました。たしかに若い、きれいな女性ですが、この方はれっきとした旦那さんのある奥さんなんですよ。このことを申し上げると、先ほど見えた雑誌社の方がたも、「それじゃ記事にならない」というのでお帰りになりました。天下の週刊Lさんが、取り上げるような記事ではないでしょうねえ。」
 そうか、よその連中は帰ったのか、だが……ボクには、そんなにアッサリ帰る気は毛頭なかった。
「ホー。不思議ですなァ。そんな小さな女の子を巡って、学生がなぐり込みをかけるなんてねえ。街のチンピラじゃあるまいし。最低の理性は持っている筈の学生諸君が、どうしてなぐり込みをかけなくてはならなかったか。そこに何か秘密がかくされているんじゃないでしょうかね。むしろぼくには、女の問題が介在しないでおこったなぐり込み事件の方が興味がありますよ。これは十分、記事になりますね。」
 本当のことを云えば、週刊Lの次週号の特集テーマは学生なぐり込み事件を誘発した女性のクローズアップにあった。だからぼくは、内心ほとほと弱っていた。しかし実はコレコレシカジカでなどとデスクに云えば、それですむものでもない。もっと徹底的に調べあげなければ、報告すらできないのだ。ぼくは、ここで調べられるだけの資料を得ようと坐りなおした。
「実際、記者さんは、ああ云えばこう、こう云えばああという工合に口がうまいから困る。理由は全く簡単なんですよ。本当です。酒に酔っていたことから起こった事なんです。彼等は心から後悔して反省している。しかも前途のある身で、今、もし記事にでもされたら、その後どうなるとお思いです。貴方にも、学生時代には、脱線した経験があるでしょう。学生達のことは何とか記事にしないように、私からもお願いしますよ。」
「そうでしょうか。「なぐり込み」なんて、そんなに簡単に、後悔や反省ですませられるような事件じゃないと思います。署長は学生だから勘弁してやれとおっしゃるが、私は学生だから許せないと考えるんです。私のいう意味がわかりませんか。」
「わからんことはない。だが記事になったあとのことが恐いんだ。記事のなり方が恐い。この気持ちをわかってほしい。」
 これは辛いところだ。記事の書き方という点になると、ぼくもグッと詰まらざるを得ない。ぼくには、この記事が、署長の恐れるようなものになることはないと断言できないのだ。全く自信も持てない。現に、この取材も、女のクローズアップを興味本位に書くことがねらいだ。勿論雑誌の面子が、学生のなぐり込みに、チョッピリ、まともな文化時評的要素を加えはするだろう。しかし、それだけであることは、わかりきっている。週刊誌の興味本位、煽情的内容と批判する人間は多いが、それ以上に、こういう内容を求める圧倒的な読者層とそれにからむ出版事情。われわれの住んでいるこの社会が、現実に織りなす様々な事件のあやは、決して単純に無視し去ることが不可能なことを物語っている。だから、よけいに、この痛いところをつかれると、暗い気持ちにならざるを得ない。署長は、ぼくの、この気持ちを見抜いたように、たたみかけてくる。
「どうです。夏の夜の海は、そりゃあひどいもんです。先日もNHKが二日間かかって、カメラにおさめて帰りました。おたくも、この無軌道ぶりをルポにして、キャンペインしてくださいませんか。署をあげて、どんな協力でもしますよ。」
「勿論、学生達の事件を中心に、そのことには触れるつもりです。」
「どうしても書くんですか。」
「書きます。くわしく話してくれませんか。」
「それは困ります。さっきお話した以上にくわしく話すことはできません。県警の広報が一括して発表することになっていますから、むこうで聞いてください。むこうで話してもよいということにでもなれば、お話します。」
「そりゃあおかしい。何時からそんなことになったのですか。」
「おかしいといっても、そうなっている以上、警察官として、上司の命令に従うほかないじゃありませんか。」
 押し問答は果てしがない。何時のまにか、時計は四時を廻っていた。これからY市の県警まで飛ばしても、はたして五時の退庁時刻に間に合うだろうか。間に合わなければ、全くの無駄足だ。だからといって、このままでは署長は一言も洩らしはしないだろう。襲った学生、襲われた学生の住所は、不確かだし、女のことは、それが六才の女の子にしろ、その母親にしろ、名前も何も全くわからない。これでは署長に会った時の話から一歩も前進していない。デスクに一報の入れようがない。デスクの苦り切った顔が、言葉付きが見えるようだ。あの文句を聞くと、ぼくはきっと胃のあたりがキリキリと痛みはじめ、食欲どころか、肝じんの仕事に対するファイトまでが、なえたようにしぼんでしまうのだ。ここは一番、県警に飛ぶしかない。
「わかりました。署長がそう云いはられるのなら、ともかく県警にあたって、また出直してきましょう。」
 パトカーにでもつかまったらどうしようと、ヒヤヒヤしながらも運転手君に頼んで、車を飛ばしに飛ばした。
 係りは、「寄り道をするから」といって、たった今帰ったばかり、という所に飛びこんだ。もう一度N海岸に戻るほかない。東京方面への道を恨めしく振り向きながら、N署にとって帰す。署長、次長は既にいない。念のために署の誰彼に聞いてみるがラチはあかない。届出のあった借人の借家名の台帳をひっくりかえしてみたが、それらしいものは見当たらない。足どり重くN署を出た。N署は海岸のすぐ上にある道路に面している。海から引きあげていく若いグループが、幾組も幾組も、キャッキャッとはしゃぎながら流れるように通っていく。日帰りの連中は、バス停の前に長い行列を作っていた。日焼けした赤い顔、黒い顔、赤くただれた背中、黄色い帽子、青いパンツ。あらゆる色と人声が、N署の前に氾らんしていた。考えてみれば、ぼく達は、海の色さえ、見てはいない。汗でグチャグチャになったハンカチで、やたらにくび筋をこすりながら、ぼく達は、襲った学生達が借りているというN家を探しはじめた。たよりにするのは新聞記事だが、新聞によって違うのだから、どれをあてにしてよいのか見当もつかない。近くの店に入って聞いてみると、N市T町にはNという家が五十軒はあるらしい。みょう字だけでは無理な話だというのだ。「学生が間借りしている家だけれど」といったら、これも何の手がかりにもならないと教えられた。学生の泊まっている家もまた、数知れないというのだ。「ケンカした学生の家なんだがな」と云っても、ケンカなんて知らないという。知らないというより、血を流すケンカも毎度のことなので、無関心になっているらしい。何軒も聞き歩いて、ようやく、一昨日のケンカを知っているという男に出会った。「アー、あのケンカね」と云う。ヤレヤレというわけで、くわしく聞いてみたら、これも別のケンカとわかった。何時のまにか、あたりは真っ暗になっている。T町とはいっても、半分は丘や田んぼである。その間に何軒かかたまって建っている家は、精一ぱいに灯りをつけて、歓声が湧き、ジャズが流れ、怒声も聞こえる。ぼく達はN家探しを諦めて、襲われた学生達の借りているC町のA家を探すことにした。手当たり次第に飛びこんだ薬屋で、A家はすぐに見つかった。こっちから先に探せばよかったな。ツイてない時は仕方がない、などとこぼしながら、教えられた家を探した。電気が消えて真っ暗なので、結構骨が折れた。隣りの家で聞いてみると、「たしかに、その日の夜、ケンカがあった」という。間違いなく、この家だ。ホッとしたけれど、当の相手はいない。隣りでは、「今日、東京に帰ったらしい」という。こうなったら家主を探すことだ。
 N海岸の住人たちのなかには、夏じゅう家を全部開けわたして、その間、近村の親類や知人の家に間借りしている人達が非常に多い。A家の人も例外ではなかった。
「それは初耳です。警察から、なんの連絡も受けていません。もし、私の家でそんなことがおこったのなら、通知のないわけはない。」
 やっと探しあてたAさんの口から、その言葉を聞いたときには、ぼくは、坐りこんでしまいたいほどにガッカリした。もしかするとこのAさんの家ではないかもしれない……。しかし、Aさんは、一応否定したものの、一刻もじっとはしていられない様子で、これからすぐに行って見ると云いだした。われわれは、再び車でA家に向かった。Aさんは、道々、年々借りる人の程度が悪くなってやりきれない、とこぼしはじめた。きちんとしまってある蒲団を使って、破いてしまってもケロッとしているような有様で、もう、貸したくないと思っているのだけれど、頼まれると断れなくてと云うが、二間の家賃が月五万円、七、八、九の三か月で十五万円にもなるのだから、家具をちょっとこわされたくらいでは、止められるわけはなさそうだ。夏の三月で一年分の生活費をかせぐ人達もあるというのだから。しかし、そんなことをAさんに云っても、どうしようもない。ぼくにとっては、Aさんの家を借りているのが、ぼく達の探している学生達かどうかということだけが切実な問題なのだ。
 家に入り、スイッチをひねって、呆れた。男女が乱痴気騒ぎをしていたあとが、部屋に取り残された品物や衣類からも歴然としていた。学生らしい雰囲気は全くない。ぼくはフト、Aさんが、家を借りている連中が学生達だとは、一言も云っていないのに気がついた。あの夜ケンカがあったという隣人の話から、てっきり彼等だと決めてかかっていたのが誤りだった。聞いてみるとAさんの家を借りていたのはサラリーマンの男女だという。ぼく達は否応なしに振り出しに押し戻されてしまった。
 C町のAということから、思いあたる家があると云って、Aさんが、別のA家を案内してくれたのだから、それでもぼく達に少しはツイていたと思わなくてはならないだろう。Aさんに助けられなかったら、一晩じゅうかかっても、その家を探すことはできなかったろう。その家は、あまりにも海から遠かった。こんなところまで、なぐり込みに来たのかと、疑う気持ちになったが、その家こそなぐり込まれた学生達の借りている家だった。
 学生達は、何事もなかったようにケロリとして騒いでいた。署長の「学生達は後悔し、反省している」という姿がこれなのか。それとも、彼等は被害者の側だから、後悔も反省も不要だとでもいうのか。ぼくはムカムカとこみ上げてくるものを呑み下して、たった一人、全治十日間の傷を受けて名前を発表されたP君に面会を申しこんだ。
 玄関に出てきたPは、おとなしそうな学生だった。Pのまわりには数名の学生が、Pを守るような形で、ぐるりと囲んでいる。半間しかない玄関が一杯だ。予想してきた通り、彼等はくちぐちに云った。
「事件はもう片付いたし、何も云うことはない。何の理由もないのに、なぐられて、全くなぐられ損だけれど、既に学生同志で話し合いもついている。ここでまた記事にされたり、私達の云い分を云ったりしたのでは、かえって話がおかしくなる。」
 そうだろう。彼等の云い分としては無理もない。
「それに、すみませんが、私達もつかれていて、もう寝ようとしていたところです。Pもケガをしていますから、早くやすませないといけないと思っているんです。」
 そう云われては、引き上げるほかはない。時刻はもう十時半だ。明日また来るからと、玄関を出た途端、ぼく達の背に、怒鳴るような激しい声が浴びせられた。
「何で、人の嫌がることを記事にするんだ!嫌がることで金をとるなんて、なぐり込んで来た奴らよりも、もっとタチが悪いじゃないかよ!」
「明日来たって、話なんかしてやらねえぞ」
「早く帰れ、帰れ」
 それは相対している時に、彼等のはいた、いんぎんな言葉の何処にも見出せないものだった。彼等は良家の子供らしく、ぼく達に対しては、決して礼を失するような態度はとらなかった。なぐり込みをかけた学生達を怒らせたのは、この声なのだろうか。
 翌朝は、先ず県警へ。くわしいことは全くわからない。「遠くて大変だろうが、N署に行って聞いてくれないか。」と云う。
 N署長が逃げていることがはっきりした。何が何でも記事にさせまいとしているのだ。しかし何故? 署長の息子が、なぐり込みの学生と同じ大学に通っているらしいが、しかしそれだけの理由によるのだろうか。何かあるらしい。いや、あるに違いない。それでなければ、こう無茶苦茶にかくそうとするのは、むしろおかしい。六才の女の子か。本当だろうか。しかし、それ以上に、署長が記事をおさえようとかかる意図は想像のしようもなかった。
 再び署長の前に坐りこんで話を聞こうとするが、彼は「学生達が可哀想」の一点ばり。さんざん押し問答の末、結局間違っていた「B大生の家の名だけを聞き出してH署を出た。今日も空には雲一つなく、暑い真夏の陽光がギラギラとアスファルトを照りつけている。ウワーンという歓声とも叫びともつかぬ人のどよめきが、かたまりのようになって響いてくる。
 Pを訪ねる。Pは今朝、東京へ帰ったという。
「学生のなぐり込みなんて、おっしゃるように、おかしいと思います。学生として、私達も恥ずかしいと思います。でも私達になぐりこみの気持ちをきかれても、答えようがないじゃありませんか。あちらの方達に聞いてみてください。学生、学生といわれるけど、半分以上は、海岸に来ているグレン隊じゃありませんか。警察に連れていかれたとき、そこではじめて顔を合わせた人達も多かったようですよ。それに、グレン隊の連中は、サッサと逃げたんじゃありませんか。刑事さんが三人来たんですが、つかまったのは、どちらかと云えば、あまりやらなかった人達だったんじゃありませんか。」
 もし街のチンピラがまじっていたとすると、事件の性格は、ますます特集の線からそれていく。残っていた学生達の話を聞いていると、その感はますます深い。事件は、彼等の家に遊びに来ていた、六才の女の子を、ある女子学生が連れて行ったことに始まる。夜になっても子供が帰らず、母親が心配するので迎えに行ってみると、子供は、たった一人で暗い玄関の間に寝かされていた。寝がえりをうったら、土間にも落ちかねない状態だった。母親が「ひどい」といって怒り、子供をほったらかして、隣りの学生のところでマージャンをしていた女子学生達に文句を云った。女子学生達にいった、その文句が気に入らないというので、隣りの学生達が、なぐり込みをかけてきた、というのだ。これは、署長の話と大差ない。ただ当事者の話として、僅かに具体性をましてきたにすぎない。
 そして、六才の女の子の名前、母親の名前は勿論、女子学生の名前も知らないという。
「そんな事、いくらなんでも信じられないよ。」
と云っても、
「ウソじゃありません。あの女子学生は去年の夏、海で知り合った連中です。海に来てまで、大学の名や、フルネームなど、誰も云いやしませんよ。夏の海でのつきあいは、どこまでも、ここだけのものです。東京まで持ち込むなんて、やりきれないじゃありませんか。ぼく達、別に女の子に不自由してはいませんからね。だから彼女達が「トコ」と「チャコ」と云い合っているのをそのまま使っているので、ぼくらにとっても、トコとチャコ以外の何でもありません。今年も、海岸でまた会ったので、夏のつきあいを始めたんです。おばさんは、チャコの知り合いだというんで紹介されたんだから、やはり名前は知りません。彼女達の借りている部屋が三畳で、炊事場が悪いといって、この二、三日、おばさんは、こっちに来ていたんです。旦那さんもいるので、あのあと、東京に帰りました。住所なんて、知ってるわけもないでしょう。」
「おばさんの車のナンバーですか。知りませんね。」
 こう云われると、そうかなと思えてくる。ぼく達には想像もつかないことが平気で行われている現実に、ちょいちょいお目にかかることの多いこの頃だ。夏の間じゅう、二か月も家を借り切って、遊びほうけている学生なんて、案外、そんな割り切ったやり方をしているのかもしれない。ぼくは、改めて室内を見まわした。テレビ、楽器類、それにマージャン。本といえばマンガの週刊誌、ティーンエージャーのものだとばかり思っていた週刊誌何種類かが、ころがっているだけ。暑さと雑踏を避けて、来ているとはいうものの、学生らしい持物は、何一つ見あたらない。なるほどねえ。この学生達なら、さもありなんと考えた。だが、感心してばかりはいられない。母親と、女子学生の名前のわり出しは、ますます難しくなっていくばかりだ。
 ぼくは、その足でB大生の借りている家を訪れた。しかし、女子学生も、襲った学生達も、今日は東京に帰っていると云う。マージャンをしている女子を含む数人の学生は、振りむきもしないで、いないものはしょうがないというだけで、取りあおうとしない。疑ってみれば、今会っている、この連中のなかに、問題の学生もいるのかもしれない。しかし、名前も顔もわからない哀しさ。いませんと云われては、反問のしようもない。女子学生が借りている部屋の家主も、明日にならなければつかまえられない。H市を留守にしているのだ。女子学生の部屋には、事務員ふうの女の子がいたが、全然関係ありませんと云うだけで、取りつくしまもない。もしかすると、この女かもしれぬ……と思っても、どうにもならない。
 三度、H署長をアタックした。頑として受付けようとしない彼の態度のうらに、何かある、ことを感じさせられた。この署長から聞き出すことの困難さを確認しに行ったようなものだ。

 第三日目。ぼくとM君とは、二派に分かれて、東京の家とH市の家の両方を、同時に訪れることにした。東京の家といっても、名前と住所のわかっている、襲った学生、襲われた学生の数人ではあるが、何しろ、顔もわからぬ相手だ。東京へ帰った、Hに行っていると云われたのでは、彼等の意のままにホンロウされ続けているようなものだから……。
 二日間、朝早く家を出て、帰りつくのは一時過ぎ。二、三十万の人出で賑わっている海辺の派手な有様を横目でにらみながら、汗と汐風でベトベトになって、ドラ息子どものバカ騒ぎを追っているのだから、疲労も倍増し、ホトホトやりきれぬ思いだ。しかも、デスクには、「名前も知らないなんてことが常識で考えられるか」とやられる。「常識では考えられんことをしているのが、あの連中だと思うんです」とは云ってみるが、そうだと云いきれる根拠があるわけではない。ただ、署長も云ったように、あの襲われた学生連中は、いかにも良家でのびのびと育った子供達の感じで、まるきり坊やだ。あの子達がウソを云っているとは思えない。たしかに頭の方は強くはなさそうだ。しかし所詮、金持ちのドラ息子で、ボク達を云いくるめようなんて、おおそれたことはできそうにない。
 東京を受け持つことにしたボクは、先ず、襲った学生の中でも、最年長で、主犯らしく新聞に書かれていたEの家を訪ねた。Eは不在だった。Eの父親が現れて、
「新聞は全くけしからん」
と、ぶちはじめた。何でも、Eは、その日はじめてH海岸に行き、さんざん止めたにもかかわらず、事件にまきこまれたばかりか、主犯の扱いをされてしまったというのだ。「警察が、そんないいかげんな発表をしたなんて考えられない。私は、新聞に抗議を申し込もうと思って、いま準備をしているところだ。」心配と怒りに、すっかり心の平衡を失っているらしい父親は、まるでボクが新聞社の者であるかのように、にらみつけたり、急に心細そうに声を途切らせたりしながら話終わった。シメタ!ここで事の真相がわかるかもしれぬ。ボクは、曲解されている事件の過程をはっきりさせなくては、何もならないことを云って、事の発端から聞きはじめた。
 父親の話によると、襲った学生は、B大生とC大生の二グループで、中心はC大生であること、襲われたのはA大学生のグループで、彼等は六才の女の子を連れ戻すときに、
「今夜、なぐり込みをかけるぞ」とやった。多分、ボクにも悪態をついた、あの調子でだろう。そのおどしに驚いたB大グループは、かねて仲のよかったC大グループに助けを求めた。折悪しく、その時、C大生達は一杯やっていたので、「待っているバカはない。こっちからやっちまえ!」ということになり、先に立ってなぐり込んだ、というのだ。
 なぐり込んだいきさつは、いささかはっきりしたが、事件の発端となる六才の女の子については、依然、何もわからないし、女子学生の名前も、父親の知るところではなかった。C大生である息子も知らないらしい。
 次に訪ねたのは、襲われた学生の家であった。やはり本人はいなかった。しかし、「学生のなぐり込み」ということに対して、親達が、「酒の上でおきた、若い者にはありがちのこと」として、特別にどうとも思っていないらしいことは、ボクにとって、一大発見でもあったし、ショックであった。
「お母さんは知っているんですか。海の家では、男女学生がザコ寝をしているんですよ。」
「本当ですか!」
 はじめて顔を青ざめさせた母親は、今度は
「息子達のそんなことを書いて、息子達の将来をだいなしにするつもりですか」
と、胸ぐらをつかまんばかりの剣まくで、くってかかってきた。ケガでもしないかぎり、酒の上でのケンカ、なぐり込みも、別に気にはとめない。どんなことをやっているのか、息子達の行動は放任しっぱなし、しかし、将来にキズでもつこうものなら、その直接の原因である、新聞、雑誌に対して怒りをぶちまけようというのは、親の身勝手も甚だしいといわねばならない。しかし、親の子供に対する無知ぶりに、ショックを受けたばかりで、書かれた方がいいんじゃないかとも思ったくらいで、無性にハラも立ってはいたが、一人の人間の将来を……と云われると、それに立ち向かえるものがあるわけではない。ボクの弱い所だから、そうそうに引き下がることにした。しかし、その母親の繰り言から、A大生グループの父親には、代議士、消防署長などや、また、かつての警視庁の幹部もいることがわかった。これは想像もしないことだった。とたんにH署長の顔が脳裏に浮かんだ。しゃべらない筈だ。しゃべれなかったのだ。署長は最後に、
「教えてあげたい気持ちがないわけじゃない。でも、駄目なんです。あなた達がわり出して記事にするなら、かまわんのです。それでいいじゃないですか。あなた達の力でやったらどうですか。」
と云った。彼は口ドメされていたのだ。こうなったら、何としてもわり出してやる。急にファイトがもくもくと湧いてきた。

 第四日目、今日はボクがH海岸、M君は東京ということになる。
 まずA大生グループを訪ねる。一昨日とすこしも変わらない。もし、あの女子学生が来たら、すぐご連絡します、などと云う。B大生グループを訪ねると、襲った学生は、今いないという。
「誰と誰は東京にいない。ここにいる筈だ」と云うが、結局は、知らぬ顔をされてしまう。なかで一人、この男は、たしかに襲った学生らしいと感じがした。その男を見ながら、襲わねばならなかった気持ち、A大生のおどしなどを語らせようとしたが成功しなかった。A大生が、君達をボロクソに云っていたと、云いたくないことまで云ってみたが、彼に名乗りをあげさせることはできなかった。ボクがいるあいだじゅう、彼等はマージャンをしつづけていた。女子学生がいることも、まえとかわらない。
 C大生グループを訪ねる。ここは、今日はじめてだ。表には古い乗用車が停まっていた。学生達はこれで東京からやって来るそうだ。しかし海に行っていて部屋にはいなかった。ここには家主が同居している。この女家主は、「恐くて、恐くて」を連発させながらも、云わずにはいられないらしく、たてつづけにしゃべりだした。
「学生さん達だなんて、今度の事件が起こって、はじめて知ったんですよ。家を借りに来たときは、おつとめの若夫婦ということだったんですからね。それで、時には友達も来るから、三、四人泊まることもあるという話でしたが、何時も十人ぐらいはいるんです。毎晩、二時三時まで大騒ぎでしょう。女の人達もいてザコ寝をしているんですよ。一度ね、『寝られないから静かにしてちょうだい』って云ったんです。あんまりうるさいもんですから。そうしたらどうでしょう。『金を出して借りているんだ。文句を云うなッ!」って怒鳴りこんでくるじゃありませんか。何も云わないのに、『ババァ!文句あるか』なんて怒鳴りつけたり、酔っぱらって戸はこわすし、本当にもう、どうしていいかわかりませんよ。恐ろしくってねェ。しじゅう人の出入りがあって、東京から女の子が来ないと、海岸に行って、誰でも連れて来てしまうらしいですよ。そんなあとで、東京から女の子が来て、怒って帰ってしまったりね。何をやっていることやら、親御さんはご存知なんでしょうかねェ。本当に、驚くことばかりですよ。静かだったのは、そう、あの事件の夜だけでしたね。」
 海から帰る頃を見計らって、もう一度訪ねると、表のボロ車は無くて、早々と東京へ帰ったということだった。さすがの彼等も、ボクには会いたくないらしい。別に彼等を深追いすることもない。
 女子学生の名前と住所を知るために、十軒あまりの周旋屋を、シラミつぶしにあたったが、夏を迎えての一仕事をすませ、戸じめにしている店もある。インスタント周旋屋なのだろうか。あたった限りの店では、とうとうわからない。
 夜九時ごろ、やっと女子学生の家主をつかまえた。しかし、彼女達の名前も住所もわからないというし、契約書はと聞けば、どこかにやってしまったという。全くハリアイの無いじいさんだ。ようやく周旋屋を聞き出す。それも、何という店か忘れたが、×新聞の販売店の隣りだという。
 ×新聞販売店の隣りには周旋屋は無い。すぐ近くにY新聞の販売店があり、その隣りに周旋屋があった。昼過ぎ扉を叩いたが戸閉めになっていた家だ。近所の店で、周旋屋の住まいを聞いて、住まいに飛ぶ。暗い曲がりくねった坂道を大分行った所に、その家はあった。事務所に行かねばわからないというので、車で再び事務所へ。こうして、女子学生の住所、氏名の紙きれを手にしたのは、午後十時半だった。四日間かかった。ずい分廻り道をしたが、とにかく最後の段階に辿りついたわけだ。
 すぐに東京へ一報。M君に行ってもらったが、家中留守だったという。

 第五日目、今日はギリギリの締切だ。ボクが東京、M君はH海岸へ。女子学生Fの家を訪ねた。彼女は留守。母親から、彼女は一度東京へ帰ったが、またH海岸に行っていて、明日帰ることになっている、と告げられた。
 ああ、ボク等は、なんてキレイにだまされていたことだろう。ボクの見た女の子のなかに、多分Fはいたにちがいないのだ。歯ぎしりをするほどの怒りに、頭にカーッと血がかけ昇るような感じ。しかし、それもボクの間抜けさ加減に対する腹立ちにかわった。第一、そんな感情に引きずり廻されていては、今の、この母親から肝じんな事も聞き出せなくなる。
 女子学生は、昨年はA大生から、わざわざ招待されてH海岸で過ごしたという仲、そもそものナレのソメは高校時代に銀座でだったという。聞いているうちに、いいかげんにしろとワメキたい気持ちになる。小母さんなるもの、つまり六才の女の子の母親の名前と、彼女が出入りするクラブの名を聞いて、F家を飛び出した。H海岸でFをつかまえるように、M君に連絡。しかし小母さんのことは伏せておくことにする。ボクが行く前に連絡をつけられては、また、今までの二の舞いをふむことになる。

 小母さんは、二十八才の人妻だった。訪ねていった彼女の家には、留守番と名乗る学生がいた。「奥さんは今、大阪に行っています。ご主人も留守で、何時帰るかわかりません。」と突きはなされたが、そこを頼みこんで、部屋に上がりこんだ。留守番の学生は、部厚い原書と取り組んでいる様子だった。こういう学生もいる。当然のことながら、ホッと心の和むような気にさせられたのは、この数日間見せつけられた、あの学生達の呆れた生態と、まるで学生は公認された遊び族でもあるかのような親達、大人達の考えに、取材とは別に、どうにもヤリキレないものを感じつづけていたからでもあろうか。
 ボクは、ポツリ、ポツリと話しだした。ボクが如何にキレイにだまされていたかということ。なんとコッケイな存在であったかということ。話しながら、チョッピリ、彼女の人柄、言動などを聞く言葉を差しはさんで……。この学生は、事件を知っていた。多分彼女から聞いてであろう。だから、いささかの虚飾はあったにしても、相当真相に近い形で知っていたのだ。それだけでなく彼女自身のことについても、知っていた。
 彼女O夫人は、家庭がうまくいっていなかった。離婚寸前の所まで来ていた。A大生もFも、彼女も、クラブYの常連だった。そして、六才の女の子ではなく、母親の彼女がA大生のところに入りびたりになっていたことが、あの事件の一つの原因になっていた。直接には、女子学生Fを、A大生の一人が好いていた。A大生が子供を迎えに行ったとき、たまたまFとB大生が接吻している場面を見てしまって、カッとなり、なぐり込んでやると悪態をついたというのだ。しかし、事件がおさまると、彼等は、共々、ザコ寝をしたという話は、もう一度、ボクを驚かした。O夫人もザコ寝をした一人だ。あの連中の場合、ザコ寝をして、何も起こらないなどということはない。彼等にとってセックスは水を飲むことぐらいにしか感じられていないと、留守番の学生は云うのだ。マサカとは思うが、ナルホドと思うべきかもしれないと思いかえした。あの連中のことだもの……。
「大阪へ行っているというのも、御主人への口実で、H海岸に行っているんじゃないかと思います。」
 ボクは、ポカンとしてしまった。彼女に会えるように連絡してくれないかと云うのがやっとだった。彼は、「まかしておけ」と胸を張った。
 社に行くとM君も戻って来た。A大生の家でFに会ったこと、彼女は既に会ったことのある顔だったことなど、話し合いながら、改めて、二人は口惜しがった。あんな子供達にダマサレて……。
 十二時半、O夫人から電話、これから会いたいという。至急、車をO家に廻し、会社まで来てもらう。O夫人は、こうなったら姿を現した方が得策だというので出て来たらしい。大阪からではなく、H海岸から車を飛ばして来たようだ。つまり、これまで、ボク達をだまし続けたあの工作、芝居の筋書きは、すべて彼女が書いたものなのだ。あれで、かくしおおせると自信たっぷりだったのだ。あの純情そうなA大生たちも、彼女の芝居を実演したサルに過ぎなかったのだ。サル芝居のサル廻しは彼女だった。そして、逃げきれないと悟るや、名乗りをあげて出て来て、彼女自身に有利なように、取り引きをしようというのだ。写真は出さないこと、名前はかくすことetc。
 彼女との対話が終わったのは、午前三時。徹夜で原稿書き。苦労させやがって、と無性に腹が立つ。
 翌日、Hから引き上げて来た学生達が、なかには父兄同伴で、社につめかけて来たそうだ。何とか穏便に。ゲラを見せてくれ……。もしも、彼等が、こういうことでしか反省も後悔もできないのだとしたら。彼等の将来を、先のある身をとかばい続けた大人達は、一体、彼等に何をしてやれたというのだろうか。

 

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