著作紹介 「吉田松陰」 

       

  今、何を為すべきか?という自問こそ学問の原点であり、志あるところにこそ教育は成り立つ。松陰を通して、今日のゆきづまった政治と教育に一つの突破口を示す書である。

 

         <目  次>

   第一章 生きつづける革命児

若き兵学師範
 幼なくして芽ばえた憂国の至情   六歳で家督を相続する   激動の時代にひらく眼
 用あって形を有す   九州への旅に出た松陰   新しい出会いと新しい決意

混迷をつづける魂
 兵学諸流を統一すべし   江戸に出て学んだもの   佐久間象山の門下にはいる
 宮部鼎蔵との魂の触れあい   現実に立脚した兵学を志ざして   亡命か屈服か
 いばらの道を歩みはじめる   東北旅行の第一歩水戸   困難続きの旅
 思想家として開眼

未来への脱出
 江戸に帰った松陰   国許に強制送還される   浪人となり諸国遊学の旅に
 浦賀沖に黒船が!   海外脱出をくわだてる   米艦乗船もならず投獄
 たちきられた海外渡航の夢

変革者の瞑想
 伝馬町獄から萩・野山獄へ   内部に眼をむける   松下村塾の誕生と実力行動
 嵐の安政大獄下で   松陰の死をのりこえる新しい息吹き

 

   第二章 松陰の思想形成

絶望の中の教育
 一大ショックだった黒船の来航  佐久間象山に再入門す  歴史的価値と倫理の探求へ
 孤独な瞑想者の眼   底辺からの教育を考える  自己の全存在をかけて対決する姿勢
 絶望をのりこえる教育は可能か   富永有隣へのオルグ活動   有隣を再生させる
 囚人たちをひきつけた獄中講義   尊敬を一身に浴び出獄

松下村塾の誕生
 僕に代って矛盾を憎む変革者を   松下村塾開設   同房の出獄者を招待
 意見書を藩政府に提出   広く探く学ぶべし   教育行政の改革にきりこむ
 産学平行と共学制度を強調    明倫館の旧弊粉砕   大学設立の大横想

松陰の教育理念
 現代に有用な人間を育てること   志を支えるものは何か
 変革者の資格は志と気力と知識  転向しない人間を育成  教育の厳しさをかみしめて
 師と弟子との緊張関係   一緒に学び一緒に行動する   吉田東洋と松陰との差
 現代になお通用する松陰の思想

感覚から実践へ
 まず志の確立から   感動をナマでぶつける   すさまじい感情教育
 歴史の目的は現代を   知ることにある   知識と実践
 松陰の行動優先主義は今日も生かされていない   変革のための集団教育
 政治をめざす「我が党の士」   組織的な実践団体へ   規律よりも自律を

松陰をめぐる人々
 思想的に最も大きな影響を与えた佐久間象山   変革者を育てる象山の思想
 象山への手紙を運んだ晋作   例幕の是非をつきつけた僧月性
 憂国の僧黙霖との出会い  強く結ばれた久保清太郎との友情  久保への深い思いやり
 真に信頼できる友   松陰を助けた桂小五郎   橋本左内への非常なる敬意
 幕藩体制の矛盾を痛切に感じる  海防策を献言する梅田雲浜   雲浜の尊王思想に傾斜

 

   第三章 村塾の人間教育

明倫館と松下村塾
 藩校明倫館の設立   敬親の大英断  世界を貫く原理への道  自主教育を志ざす
 明倫館に対立させて村塾を開設

村塾の教育と塾風
 熱読とノートと討論と   学問する願度に厳しさを   つねに要求される現状認識
 しかし自由な教育態度   きせるを折った門弟達   志をもって学ぶ者
 各地にひろまる村塾の名声   死によって弟子を叱咤

政治と実践
 激しい幕府の弾圧政策   孤立する松陰   理解されない松陰の危機感
 藩統一のきっかけとなった「留魂録」   師志をつぐ晋作と玄瑞
 イギリス公使館の焼打事件   変革者魂結実す−藩政府打倒
 村塾の精神はどう明治維新に生かされたのか   松陰の思想とは縁の薄い成功者たち
 松陰の悲劇と限界

 

   第四章 村塾で育った青年たち

変革者の雄・高杉晋作
 松陰の意志を継ぐ第一人者   入塾希望を父に反対される   理想の弟子と喜ぷ松陰
 頑質、識見、気魄こそ晋作の真髄   学びあう晋作と玄瑞   謙虚さから慢心へ
 十年じっくりと考えよと忠告する松陰   僕の心を語るのは君だけだ
 晋作に死後を託す松陰  厖大な読書から得たもの  奇兵隊を変革のエネルギーの中核に

久坂玄瑞の実学思想
 血気あふれる書状を松陰に送る  松陰の手きびしい反論  空論よりも歴史を見定めよ
 ついに松陰に屈服する   苦学してオランダ医学を会得す   今何をなすべきか
 松陰の大きな期待   対立と和解、そして飛躍へ   玄瑞の思想とその限界
 それぞれの道を行く玄瑞と晋作

松陰の期待を一身に集めた吉田栄太郎
 松陰と栄太郎少年の出会い   武道から学問への転向   誇りと自信をうえつける
 弟のように愛し信頼した松陰   江戸に出てきたものの
 栄太郎の帰国を首をながくして待つ松陰   松陰下獄、栄太郎謹慎
 松陰の呼びかけにも答えず沈黙を守る栄太郎   過ちを悔いる松陰   苦悩する松陰
 栄太郎を気にしつつ死をむかえた松陰   再び活動を開始する栄太郎

入江兄弟ーうるわしい師弟愛 
 松陰、入江杉蔵にほれこむ   杉蔵のひきたてを依頼する松陰   獄中の対話
 松陰の江戸送りに涙の一筆

画家松洞から変革者へ
 詩を学ぶため松陰を訪ねる   絵から歴史に眼を開く   現代人こそ描くべきだ
 肖像画家として歩き続ける   変革者への道   長井雅楽暗殺をはかり憤死

品川弥二郎への全人教育
 弥二郎少年に全身でぷつかった松陰   きぴしい教育方針   松陰の追求と信頼
 やれる限りのことをやれ   松陰の思想を倭小化して普及

前原一誠と真の忠孝
 田舎出で最年長の一誠   自ら信ずるところを断行する志   松陰怒りの絶交状
 旧友によって鏡圧された萩の乱

悲劇の門下生たち
 松陰に最も長く師事した増野徳民   徳民の挫折と限界
 岡部富太郎の才人であるが故の悲劇   有吉熊次郎と寺島忠三郎
 村塾の後継者になり得なかった馬島甫仙   奇才天野清三郎と松陰思想のゆくえ

 

   第五章 現代に生きる松陰の思想

憂国の熱情から変革の論理へ
 愛国の至情と民族の誇りと   勤皇思想を拠点に幕藩体制批判
 体制論をめぐる山県太華との対話   幕府の否定にふみきる   草莽決起を選ぷか
 「天朝も幕府もいらぬ、我のみ必要」   人間の平等観への到達

組織の論理
 新しい人間としての変革者   変革者の組識化をはかる   士農同盟から士工同盟へ
 教育を通じて全日本人の変革を構想 

平和国家のビジョン
 外国の進んだ社会制度も新たな恐怖   批判の眼は不合理な世襲制から封建制へ
 民衆の立場からの発言   兵はすべて農に帰すべきだ
 歴史に逆行する鎖国より国際貿易を   対等の国際外交は可能か
 平和国家への道を構想   国境をこえた平和的連帯の模索
 松陰の平和思想が生かされなかった日本の不幸

いかに学ぶか
 学者を志すな   己の実行のために学をなせ   自主性の確立こそ急務

 

吉田松陰略年譜・参考文献一覧

 

              <以下抜粋>

 

「松陰は、百年前に、日本を道義国家、平和国家にする構想をたてた。そこにのみ、帝国主義に狂奔する西洋諸国の中で、小国日本の生きうる道があると考えた。西洋諸国を批判する視点が可能であると考えた。それが、幕藩体制の日本を変革するだけでなく、世界各国をも変革する道であると彼は考えたのである。」

「…松陰が道義国家、平和国家という場合、国是として、その道を歩みつづけるというばかりでなく、道義国家、平和国家への道は、国民の一人一人が道義的存在、平和的存在に変っていくことが先決であると考えたことである。考えただけでなく、そういう人間が可能であることを、自らの教育によってしめした。」

 

「…松陰は、そこでどんな人間を育成しようとしたのであろうか。一言でいえば、現代に必要な人間、現代に有用な人間である。

 幕藩体制を身を以て変革する人間といった方が、より松陰の気持を理解したいい方といえるかもしれない。それは、体制の権力に抵抗をつづける姿勢であり、歴史の曲り角にたって、歴史を推進していく人間ということである。その場合、その精神を貫き、その姿勢を支えるものとして、志が考えられるのである。」

「“志なくしてはじめた学問は進めば進むほど、その弊は大きい。真理を軽んずるばかりか、無識の者を迷わせるし、大事にのぞんでは、進退をあやまり、節操を欠き、権力と利欲の前に屈する”(講孟余話)」

「名利のために学問したり、暗記力や記憶力がいいために学問するのとは違って、現実を変革するという志の下にはじめた学問には、それ自身退くことはない。現実の壁にあたって、志がいよいよ固まるのが、志のもとにはじめた学問ということになる。自分の問題と現実の問題とが重なりあった地点にたってはじめた学問である。」

「そして、この志を支えるものとして、松陰が第二番目に重視したのは気力であり、気魄である。気力や気魄の支えなしには、その志も実ることがないというのが、彼の考え方である。行動につきすすませるのも、進んで、難局にとりくませるのも、この気力であり、気魄である。だから、気力、気塊の養成をあらゆる機会をとらえて強調した。」

「だからといって、彼は、学力や知識を軽視したのではない。…松陰は知識の裏づけなしには、志や気力も方向違いになることを十分に知っていた。」

「今日の教育のように,知識偏重の教育に陥らなかったのは、歴史を変革する人間を育てようとしたからである。松陰は志と気力と知識の三つを変革者としての基礎的資格と考えた。どれ一つを欠いても、変革者としては失格であると考えていたのである。」

「師弟同行、師弟同学こそ、彼の基本的姿勢である。」

「松陰は行動の自由を奪われることによって、かえって、道理実現への思いをふかめ、その思いを弟子たちにぶっつけることによって、教師としての感化カを強めていった。幽囚という、松陰個人にとっては悲劇であったことが、教育者としての彼をさらに完成させ、教育者としての教育効果をあげさせていった。

 自ら変革者として、変革者を求めた松陰が、自らの行動を制約されたとき、彼の思想と行動を継承するだけでなく、発展させる人たち、自分をのりこえていく人達を創りださないではいられなかった。」

 

「松陰は、たしかに変革者を育て、維新の原動力をつくりだした。しかし明治をリードできる人間はつくらなかった。というよりも、リードできる人間は途中で殺されてしまったという方が正確かもしれない。松陰の悲劇はここにあるといってもよい。その門下生の中から、生存者の中から、ただ一人も、松陰の思想を継承し、発展させたといい得るほどの人がでなかったことはたしかである(松陰の精神を地味にまもりぬいた無名の人たちはあったであろうが)。」                             「村塾そのものは、松陰の死によって開花し、維新の実現とともに死滅していったといえそうである。」

「松陰は、道義を基本にした平和国家の道をすでに百年前に構想していたのである。」

「侵略者に対しては断固自衛手段をとるということはあっても、自ら進んで、侵略なんて思いもよらないというのが、松陰の刑死前の姿勢である。」

 

                   <1964,弘文堂刊  1972,大和書房刊>

 

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