「代表的明治人 乃木希典の虚像と実像

 

   はしがき

 本書を書きあげる直前、私はたまたま自動車事故にあい、車は大破して私自身一ヵ月半の重傷をおった。酸素吸入をつづける三日間、私が思いつづけたことは、「今死にたくない。私にはまだまだ書かねばならないものがある。書きのこしたいものがある」ということであった。
 病状が峠をこしたとき、この思い、この要求が、実はこの世に生きる願いであると考えた。それまで、乃木の自殺について、私は、あまりに大胆な解釈をしていることに少しばかり不安を感じていたが、私のこのささやかな体験から、その解釈が誤りでないように思うようになった。そこには、私の戦中体験も重なりあっていたが。
 即ち、乃木が、この世に生きるという意味と価値を全否定して、彼が自殺に求めたもの、自殺によってのみ歴史的世界に生きようとしたものは何であったかという疑問である。死によるしか、この世にその生命を伝えられないと確信したものは何であったかという秘密である。
 私は、その秘密を、その疑問を、本書のなかで可能なかぎり明らかにしようとつとめた。それは同時に、乃木という人物が、明治日本という時代に何であったかということを明らかにすることでもあったし、明治日本が歴史的にみてどういう時代であったかを明らかにすることでもあった。このことは、明治百年の記念行事を来年にひかえた今、どうしても究明しておかなくてはならないことである。
 現代に生きる私達が、明治に学び、歴史に学ぶということはどういうことなのかを問うとき、明治という「時代を生ききれなかった」乃木、明治という「時代に生きるしかなかった」乃木という人物を徹底的に考えてみるところに、その一の解答が得られると思ったからである。それはそのまま、明治を無条件に賛美する人々、明治を無条件に否定する人々のいずれにも、それが歴史に学び、歴史を生きる姿勢でないことを思い知らせることになると考えたからである。
 その時代に存在することは誰にもできるが、その「時代を生きる」ということはむずかしい。まして、その歴史を生き、その歴史を発展させるということはもっとむずかしい。乃木は、明治に生きたにすぎぬ存在から明治を生きようとする主体に飛躍しようとして自殺した。自殺しか飛躍する道はなかった。これが、私の乃木自殺論の眼目である。
 その意味で、私は、乃木の自殺を高く評価するし、それ故にまた、乃木の人生を今日もう一度考えてみる必要があると思うのである。その時代を、その歴史を生きぬこうとして、終に自殺を選ぶしかなかった一つの魂、栄光と苦悩の果てに絶望へと追いつめられていった一つの孤独な魂、その魂の記録をたどってみることは、けっして無駄ではないだろう。それどころか、歴史を生き、歴史を発展させようとする人々が少なからず存在する今日、このことは非常に大きな意味をもってくるのではなかろうか。
 だが、そのために、旧来の乃木観を信ずる読者は、本書に失望するかもしれない。しかし、歴史を主体的に生きようとする読者には、乃木の思想と行動を跡づけることによって、そこから今日的意味をくみとることが可能になるのではあるまいか。

   一九六七年十二月

 

 

 

     <目 次>

第一部 明治百年の中の乃木
  
一 肯定と否定
     誤った二つの歴史解釈……松陰の思想と後継者たち
     失われた松陰の思想……吉田松陰と乃木希典
  
二 自殺の意味
     自己への絶望……ゆがめられた死の警告

第二部 乃木の生涯
  
一 苦悩……その一
     士族層の不満高まる……相次ぐ士族の反乱……実弟真人との訣別
     師玉木文之進の自殺……西郷の乱……軍旗を敵にとられる
     戦死を急ぐ希典……死にまさる苦しみ
  
二 自我のめざめ
     泣き虫少年時代……弁説に長ずる……学者志望で家出
     第一回目の挫折……優柔不断・意志薄弱……二十三歳で少佐任官
     酒と芸者に明けくれる
  
三 苦悩……その二
     酒乱的豪遊の時代……脱皮と自立への模索
     農民運動各地で激化……国会開設運動おこる
     希典と自由民権運動……秩父事件鎮圧に出動
     妻の条件は鹿児島女性……初夜に花嫁を放置……妻静子の別居事件
  
四 変貌
     ドイツ留学時代……モルトケに戦略・戦術を学ぶ
     軍人勅諭への絶対随順……軍紀・制服の価値
     ドイツに学ぶ真の意義……明治憲法は玉か瓦か
  
五 ひとりよがり
     独善的な徳目主義……『武教小学』を私費出版
     謹厳・廉直・克己の強制……第五旅団長に左遷
     休職をめぐる疑問……世をすねての隠遁生活
  
六 勝利
     明治日本は異常国家……アジアに暗雲拡がる……陸軍のホープ希典
     日清戦争に出陣……乃木旅団の奮戦……乃木旅団強さの秘密
     軍備拡充、軍政改革進む
  
七 悲哀……その一
     謹厳・偏屈の豪将……台湾総督施政につまずく
     孤立を深める徳目、規範の一徹……四度目の休職
     できぬ粛正にいらだち
  
八 悲哀……その二
     日露戦争で旅順攻撃……出血多量の前哨戦
     戦術の硬直で死者増大……死を求める自責の心境
     旅順攻略後の苦悶……明治日本勝利の悲哀
  
九 栄光
     学習院に寄宿舎制度……精神教育に全力……英国戴冠式に参列
     苦痛となった栄光の座
  
十 絶望
     切腹で歴史に生きる信念……生きる価値の喪失……天皇崩御と切腹
     夫人同伴の壮烈な死

第三部 乃木の思想
  
一 人間観
     個人主義・自由主義への憎悪……忠誠的軍人の人間観
     妻静子への抑圧と束縛……雪中、静子を追い返す
     最低の親子関係
  
二 教育観
     勅諭と軍服と人形……失敗した軍隊教育……破綻した教師論
     交流と討議の禁止……教師も生徒も背を向ける
  
三 国家観
     天皇こそ国家……植民政策失敗の原因……政府高宮と軍首脳に絶望
     乃木の歴史的生命

 

              <目 次>

 

第一部 明治百年の中の乃木

 

   一 肯定と否定

 誤った二つの歴史解釈
 最近、明治維新にはじまる近代日本を再評価、再認識しようとする動きがつよい。それは明治百年の記念行事を迎えるということもあるが、この機会にもう一度、輝かしい明治維新、たくましい発展を示した明治日本を回顧することによって、ともすれば、自信を喪失しがちな今日の日本人に、自信と誇りをもってもらいたいと思う人々の願いに発している。
 たしかに、戦後、歴史教育は占領軍によって禁止され、日本の歴史は否定され、日本人の独立と誇りは、次第に弱々しいものになってきた。第二次大戦後、世界各国には、かえって、民族の伝統の再評価とか、民族主義が強烈におこったなかで、ただ一つ日本と日本人は世界主義と文化主義のみをかかげてすすんだ。それは間違っていない。ことに、偏狭な民族の伝統や民族主義を強調して進んできた明治・大正・昭和三代の日本と日本人に、世界主義や文化主義をとりいれたことはそれ自身正しい。
 しかし、戦後、日本と日本人がよりよく生き発展するためには、かつての民族主義と新しい世界主義との格闘のなかで、長い模索をつづけるべきであったが、戦後の日本と日本人は、民族主義を無視し、無条件に否定してきた。そのために、民族主義と世界主義との関係は全く思想的に究明されないままにきた。だが、民族の伝統や民族主義は、戦後の日本から消滅したのでもないし、また、消滅するわけもない。戦後二十年、それらは徐々によみがえってきた。そのため、今日の日本と日本人に、思想的な混乱が生じた。それが、明治維新とそれにつづく明治日本の評価をめぐっても、全く相対立する意見がおこる原因でもあった。
 すなわち、一つは、無条件に賛美しようとする人たち。いま一つは、無条件に否定しようとする人たち。だが、そのいずれも、明治維新と明治日本を正しく考え、評価する姿勢ではないし、歴史に学び、歴史を生き、歴史を発展させる立場でないことは明らかである。というのは、現代人が歴史に学び、歴史を生きるということは、たとえ、ある時代がどんなにすばらしいものであっても、その時代を絶対化し、モデル化することでなく、その時代の思想と精神を継承し、発展させるということであるからである。そこにのみ、現代人ののびのびとした発展と飛躍がある。明治日本を絶対化し、モデル化してしまえば、明治日本にガンジガラメになって、歴史そのものがもつ可能性を十分に生かすことはできない。それは、明治の亜流でしかない。
 同様に、ある時代を今日の視点から批判して、欠点や不十分さのみをいうことも、歴史に学び、歴史を生きようとする姿勢ではない。ある時代を今日から批判し、不十分さを指摘することは容易である。だが大事なことは、その不十分さを知悉しながらも、その時代に生きた人々、私達の祖先が夥しい血と涙を流しながら、その時代を発展させようともがいた苦悩と絶望、喜びと悲しみを全身に感じとることが必要である。その姿勢のない者には、歴史を学びながら、ついに、歴史の精神、歴史の思想を本当に理解することはできない。単に、歴史についての知識をたくさん知るだけである。知って終りである。必要なことは、明治維新と明治日本を現代との連続のなかでとらえることである。もしそこに、欠点と不十分さがあるなら、その欠点と不十分さは、そのまま、私たち現代人のなかに克服されないままにあるということを知ることである。それほどに、私たちが明治人を克服し、歴史を超克することはむずかしい。そういう理解のできる者のみが、初めて歴史そのものを発展させることができるのである。
 こういう立場から、私は、明治維新と明治日本の無条件賛美にも、また、無条件の否定にもくみすることはできないばかりでなく、思想的に、民族主義を標榜する人々と、世界主義を標榜する人々は、今こそ、明治維新と明治日本をめぐって徹底的に討論をたたかわすときであると強調したいのである。そのとき、あまりにも実体的な民族主義とあまりにも観念的な世界主義は少しは変貌し、成長、発展するであろう。
 私が今、乃木希典を書くのも、その問題に少しでも解決をあたえたいためである。明治日本の賛美者たちは、安直に、明治日本と一緒に乃木希典を肯定し、現代にかつてのような乃木観を復活させようとしている。反対に、明治の否定者たちは乃木を無批判に否定し、ボイコットしようとする。
 果たして、その姿勢と態度は妥当であろうか。明治日本の賛美者たちの考えているように、明治日本と乃木は一緒に復活できるものであろうか。思想的に共存できるものであろうか。また、否定者たちの考えるように、乃木は封建的人間像として、今日、克服された人間として、何ら省みるところのない人間であろうか。私は、そのいずれにも“ノー”と答えたい。なぜか。その点を、ここで明らかにしたいと思う。

 松陰の思想と後継者たち
 私たちが歴史を考える場合、とくに、歴史の変革期について考える場合、その時代を生きた人々の思想と行動を仔細に考えないわけにはいかない。ことに、歴史の歩みを進歩においやるか、現状維持もしくは停滞におしとどめるかという点を考えるとき、歴史の方向を大きく決定する指導的人間の思想と行動を深く検討しないではいられない。
 いろいろの可能性を数多くもっている歴史の過渡期の場合にはなおさらである。明治維新とそれにつづく明治日本がそういう時代であったことはいうまでもない。そのように考えるとき、明治維新をつくりあげ、その後の明治日本の方向を大きく決定してきた人々の思想と行動を見なくてはならなくなる。それがそのまま、一人の人間が、その時代にとって何であったか、どういう意味と役割を果たしたかを見ることにもなるのである。
 そういう観点にたって、まず、明治維新をつくりだした人々を数多く育てた吉田松陰(1830〜1859)を考えてみよう。しかも、その松陰の叔父玉木文之進は、松陰の師であると同時に、乃木の師でもある。乃木自身、深く松陰の思想に学んだというから、乃木について考えようとする今、大変都合がいいということにもなる。
 その松陰が、安政六年(1859)幕府権力のために殺されたとき、彼の到達していた思想は、次の二つであった。
 その一つは、「天朝も幕府もわが藩もいらぬ。ただ、六尺のわが身体が必要」(野村靖への手紙)という思想であり、「わが心に生きる。わが心の限りをつくす」(前原一誠への手紙)という立場であった。松陰は刑死を目前に、日本と日本人を西洋諸国のアジア侵略のまえにどうすべきかという課題にたちむかったとき、こういう思想的立場に到達したのである。人間の自由と平等を志向する近代的自我の確立にむかったというと、松陰の思想を読みすぎたといえるかもしれないが、少なくとも、彼のなかでは、個人主義、自由主義という近代的自我の覚醒にむかって、大きく一歩をふみだしていたといえるし、それは、日本人に超越的に存在する天皇そのものを拒否する思想に通ずるものでもあった。
 だが、同時にその松陰には、幕府を否定する存在としての天皇、西洋諸国の侵略を前に、日本を統一すべき存在としての天皇という強い憧憬と期待があったことも否定できない。それが彼の今一つの思想であるが、その意味では、彼のなかで、人間それ自身に自由と平等をみようとする近代的自我、日本人すべての覚醒と自主を願った考えと、天皇への依存、信仰という、日本人の半独立、半自立を考える二つの相異なる思想が未整理のまま、未解決のまま混在していたことになる。だが、わずか三十歳で、思想形成の過程に倒れたという事実と、当時の日本のどこにも、彼の近代的自我の確立を助けるような思想も書物もなかったという事実を明確に知る必要がある。
 だから、松陰の思想を本当に理解するためには、そういう思想的環境にありながらも、その生命と交換に、近代的自我確立への可能性を自分のものにしたというすぐれた事実をはっきりと認めるべきであるし、むしろ、松陰の弟子たちが彼の相異なる二つの思想を、その後、どのように継承し、発展させていったかということの方が、より重要な問題になってくる。発展させたか、後退させたかということが中心問題である。
 松陰の弟子に、吉田栄太郎(1841〜1864)という男がいる。彼は、高杉晋作、久坂玄瑞、入江杉蔵とともに、松下村塾の四天王といわれ、塾生の尊敬と信頼をうけるとともに、師松陰がその将来に深い期待をいだいていた人物であった。
 その栄太郎は、高杉が町人、農民、武士を一丸とした奇兵隊を組織したときに、当時、社会の底辺であえいでいた部落民の組織にとりくみ、その力で封建的な階級制度をうちこわそうと試みた。残念ながら、その卓越した雄図も、元治元年(1864)、池田屋の変で、栄太郎が死ぬことによって挫折してしまう。松陰の思想の一つ、人間の自由と平等の思想を最も鋭く鍵承し、発展させようとした弟子は栄太郎である。だが、その弟子は途中で消えてしまう。
 もちろん、高杉晋作(1839〜1867)も栄太郎ほど鋭い形ではないが、松陰の思想をうけついで、奇兵隊を組織し、封建制を倒す力を長州藩にもたらした。だが、その高杉自身、封建制を倒した後に、幕府を倒した後に、どういう政府をつくるか、どういう政治制度をつくるかについては明確につかめないままに暗中模索しながら、結局、慶応三年(1867)に、二十八歳で死んでしまう。

 失われた松陰の思想
 こうして、松陰がその生命と交換に闘いとった近代的自我の思想、人間の自由・平等の思想は、吉田、高杉のなくなった後、生き残った弟子たちによっては大きく発展的に継承されることもないままに終わったのである。すなわち、松陰の弟子、木戸孝允、伊藤博文、山県有朋、野村靖、品川弥二郎たちは、松陰の近代的思想を継承していたが、それは非常に希薄なものでしかなかった。
 たとえば、伊藤博文(1841〜1909)は、明治元年に、「人々をして自由自在の権を得せしむべし」とか、あるいは、明治四年に、「数千年来、専制政治のもとに、絶対服従せし間、わが人民は思想の自由を知らざりき」という言葉を吐くかと思うと、他方では、平気で、従五位守越智宿弥博文と名のるほどに、中途半端なのである。それこそ、師松陰が最も軽蔑し、憎悪した公卿をみとめ、階級制度をみとめることであった。
 木戸孝允も、明治元年、発布された「五ヵ条誓文」で、最初、越前出身の由利公正(1829〜1909)が、
 一、庶民志を遂げ、人心をして倦まざらしむるを欲す。
 一、士民心を一にし、盛に経綸を行うを要す。
 一、知識を世界に求め、広く皇基を振起すべし。
 一、貢士期限を以て賢才に譲るべし。
 一、万機公論に決し、私に論ずるなかれ。
 という文案を出したのを、つぎのように訂正した。
 一、広く会議を興し万機公論に決すべし。
 一、上下心を一にして盛に経綸を行うべし。
 一、官武一途庶民に至る迄各其志を遂げ人心をして倦まざらしめん事を要す。
 一、旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし。
 一、知識を世界に求め、大に皇基を振起すべし。
 明らかに、木戸の思想は、由利の思想からの後退である。そこには、上と下を明瞭に区別し、平等思想は影をひそめる。そればかりか、庶民を第一に考えようとした由利の立場は全く消えている。しかも、木戸のそれには、後年の長州閥、薩摩閥の横行や有司専制を肯定するものまであった。
 それが明治十年代になると、さらに伊藤、山県のなかで、はっきりと、天皇依存と天皇信仰が人間の自由・平等の思想よりも強い比重をもってくるようになり、国民のなかの先進的分子の間に育ちはじめた人間の自由・平等の意識や願いを平然と抑圧しはじめる。それを助けるのが、品川であり、野村であったことはいうまでもない。
 ここには、もう、その師松陰が生命をなげだして闘いとった人間の自由と平等の思想は全く影をひそめてしまっている。吉田栄太郎、高杉晋作のなくなった後には、誰もそれを継承し、発展させようとする弟子はいなかったということになる。思想形成の途上に倒れた松陰を理解できないままに、三十歳の松陰の思想を固定化させ、果ては絶対化させ、その固定化した思想を継承するという誤りを、生き残った弟子たちは平気でやってのけた。これこそ、師松陰を矮小化し、冒涜することであったが、そのことに弟子たちは誰も気づこうとしない。
 ここに、明治維新とそれにつづく明治日本の決定的な悲劇がある。輝かしい明治維新を、もっともっと充実し発展する可能性をもっていた明治日本を、矯小化させていった理由がある。
 もちろん、木戸や伊藤、山県が、人間の自由・平等の思想を大きく育てていかなかった原因として、吉田、高杉の死に加えて、坂本竜馬、横井小楠の暗殺という事実が大きくかかわりをもってくる。坂本は土佐出身で、明確な平等思想、平和思想の持主であったが、慶応三年に暗殺され、横井も共和思想の持主ということで明治二年に暗殺された。彼らは、いずれも、明治維新をなしとげた中心的人物で、伊藤、山県には先輩にもあたる実力者である。
 もし、高杉、吉田とともに、坂本、横井が健在であったなら、明治政府のなかに、人間の自由と平等の思想、個人主義と自由主義と共和主義が定着し、発展していったと考えられる。ことに、横井小楠は、高杉が松陰を失った後に、最も高く評価した人物であり、指導をうけた人物の一人であった。安政四年(1857)には、すでに「日本に仁義の大道をおこさねばならぬ。強国にするではならぬ。強あれば必ず弱あり。この道を明らかにして、世界の世話やきにならねばならぬ」と書いて、日本のゆく道が道義国家、文化国家の道でなければならないことを説いた思想家である。
 彼は、さらに、「そもそも、わが日本のごとき頑鈍固陋、世々帝王血脈相伝え、賢愚の別なくその位を犯し、その国を私して忌むなきが如し。是れ、私心浅見の甚しき、慨嘆にたうべけんや」(天道覚明論)といいきる男でもあった。
 五ヵ条誓文の草案を書いた由利は、この横井の流れをひくものである。そういうことを考えると、吉田、高杉、坂本、横井の死と暗殺は、明治という時代にとって、明治という時代の方向づけにとって、どんなに大きな意味をもっていたかということがわかろう。
 いいかえれば、明治維新につづく明治という時代は、いろいろの可能性をもっていたということである。すなわち、大きく分けて、吉田松陰の志向した個の確立から個人主義、自由主義の世界、さらに、横井小楠の考えた共和主義の世界をめざして、明治日本を推し進める路線、いいかえれば、道義国家、文化国家、平和国家にむかう路線と、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文、山県有朋などの明治政府が一貫して求めた植民地主義的、帝国主義的日本にむかう路線とがあった。後者は、維新当時は“玉”という道具的位置にすぎなかった天皇を絶対的な神にまつりあげることによって、君権主義、絶対主義日本をつくりあげ、西洋諸国のまねをして、侵略的強国になろうとした路線である。
 もちろん、このほかにも、いろいろの路線が考えられたが、この二つこそ、最も鋭く対立する路線であった。人間がその時代を生き、その歴史を生きるとは、数ある路線のなかから、どれかを自主的に判断して選択し、その路線を主体的に推し進めることである。もし、そうでなくて、指導者のきめた路線の後を追い、指導者のきめた歴史の方向の枠のなかで生きるなら、その人間は、その時代に存在し、単にその時代に生きたというしかない。

 吉田松陰と乃木希典
 では、吉田松陰を師と仰ぐ乃木希典、二十歳で明治を迎えた乃木希典は、明治という時代をどのように考え、明治という時代をどのように生きようとしたのであろうか。乃木は、若いときに、学問の道を選ぼうとした。武士として生きるよりは、学者として生きようとした。その道は、歴史の過渡期にたって、日本の将来はどうあるべきか、自分自身はどう生き、どういう役割を果たすべきかを自分自身で主体的に問い、考えるきっかけをもつことであった。そのとき、もし乃木が学者から思想家になり、歴史のいろいろの可能性と方向性を、主体的に、選択する可能性をもち得たとすれば、それはすばらしいことであったに違いない。
 しかし、父親の希次に、その道を拒否されると、乃木は簡単に学問への道を断念し、軍人の道を選んだ。一時は、家出をするほどに激しく燃えた学問への情熱も消え、また、思想家吉田松陰を心から思慕しながらも、あっさりと、思想家どころか、学者になる道まで断念するのである。その結果、松陰の思想と精神には全く無縁の人となってしまった。
 そこには、松陰の叔父玉木文之進を師としたという乃木の不幸があった。というのは、玉木という人物は、松陰の叔父であるが故に、逆に、松陰を理解できなかった人であるが、その玉木から、乃木は、松陰の思想と精神を誤って教えられた。彼にとってこれほどみじめなことはなかった。
 軍人になった乃木、しかも明治四年に多くの先輩、同僚を追いぬいて、二十三歳で陸軍少佐になった乃木は有頂点になり、このときをかぎりとして、単なる“軍人”としての道を歩みはじめた。毎夜のように料亭にゆき、酒を飲み、芸者と寝るという生活が始まった。もちろん、私は、酒を飲み、芸者と寝る生活を問題にしているのでない。明治初年という時代、日本をどうすべきか、日本人はどうあるべきかを真剣に考えなくてはならなかった時代、すなわち、日本自身が、個人主義、自由主義、共和主義の道を進むべきか、君権主義、絶対主義、帝国主義の道を進むべきかと苦悶していたときに、とくに、青年はそのために徹底的に考え、苦しみ、行動しなくてはならなかったときにもかかわらず、乃木は、ノホホンと酒を飲み、芸者と寝るだけの生活をしていたことを問題にしなければならないのである。
 かつて学問を志したほどの乃木が、単に漢詩をつくり、和歌をよむに終わって、明治という時代、なかでも明治の初年代がすぐれて思想の季節であり、政治の季節であったことを感じとろうとしなかったことを問題にしたいのである。それを感じてこそ、若き詩人の名にあたいするのである。彼は詩人ではなくて、単なる歌よみにすぎない。
 もちろん、その乃木にも、思想の季節、政治の季節であることを生々しく感じさせたときはあった。それは、前原の乱であり、西郷の乱であり、それにつづく軍旗喪失の事件であった。彼は士族の権利と生活の安定を要求して、鋭く明治政府と対決した前原一誠や西郷隆盛をみたとき、おそらく動揺したであろう。ことに前原の乱には、乃木の実弟真人が参加し、その師玉木文之進までが加担しているのを知ったとき、彼の内心の動揺は激しかったに違いない。
 わずかに、天皇と軍旗への忠誠と責任を理由に、前原の一味になることを拒否したものの、西郷の乱には、その軍旗をとられてしまったのである。死んだ弟、死んだ師の手前、乃木は、よりいっそう軍旗に執着し、天皇にのめりこんでいくしかなかったようである。
 だが、他方では、前原、西郷の蹶起と死を思うとき、あらためて、乃木は、人民の権利、人民の自由と平等の思想について考えてみることを迫られたであろう。それは、松陰の残した課題について考えることであった。明治十年代に、乃木が自由民権の演説会に時々出席したのも、そのためであろう。それは、彼がもう一度自分で、日本人としての自分の生き方、日本のありかたを主体的に考えなおしてみる機会であった。だが、明治十四年、軍人が政治演説会や政治結社に出入りすることを禁止する政令が出ると、彼はそういう政令を出した明治政府になんらの疑問も持たず、人民の自由と権利を拡大し、確立していこうとする立場について、それを理解しようとする努力を放棄した。かつて、父親の反対で簡単に学者になる道を放棄したように。ここに彼の貧しい自我をみる。自立精神の欠如をみる。そして、人民の自由と平等を考える立場を捨てたということは、乃木が、君権主義、絶対主義、帝国主義を肯定することを意味した。また、この頃はっきりと、君権主義、絶対主義、帝国主義の立場をその政策とするようになっていた明治政府と野合したことを意味した。彼がもし、明治十年代に徹底的に考えていれば、軍人である立場を捨てることを迫られたかもしれないし、また、軍人の立場を貫ぬいたとしても、全く違った軍人になったであろうが、彼は考えることを中止した。そればかりか、そのときを境として、思想的側面、政治的側面を自らのなかから脱落させていくのである。それを脱落させることによって、乃木は、わずかに軍人であることができたのであるといってもよかろう。
 たしかに、明治十五年に出た軍人勅諭は、軍人が政治に参加することを禁止している。乃木は、そういう軍人になったのである。しかし、すぐれて思想の季節であり、政治の季節であった明治という時代にあっては、軍人山県有朋にしても、西郷従道にしても、桂太郎にしても、より政治的であるしかなかった。彼らは一様に軍人勅諭を無視した。それは当然である。
 だが、真正直に、思想的側面と政治的側面を欠落させた乃木は、それ以後、カカシのように、明治政府が遂行した日清戦争、日露戦争で、そのお先棒をかついで闘う軍人になりさがった。なりさがる以外になかった。乃木は、それがもっとも軍人らしい軍人であると考えた。軍人とはそうあるべきだと思うようになる。彼が、天皇への忠義とか、至誠、廉直、質素、克己、謹厳などの徳目主義に陥っていたのも当然であるし、そういう徳目に、自分の行動と生活をあわせていくようになったのもそのためである。
 ことに、軍旗喪失をきっかけとして明治天皇への忠誠に傾いていった乃木は、いよいよ天皇に密着していくことになった。それは、明治天皇がすぐれて謹厳であり、至誠、仁慈、質素、克己そのものであったためでもある。明治政府の顕官や陸軍の首脳が、そういう徳目主義に縁遠い存在であったから、明治天皇と乃木の交感と信頼はいよいよ深くなり、それは年とともにますます強まったということがいえる。
 しかも、徳目主義の乃木は、その徳目主義の結果、天皇思想に敵対すると考えた人間の自由、平等の思想や個人主義、自由主義をはっきりと嫌悪し、それらの思想の発達してきたイギリス、フランス、アメリカの国々までも毛嫌いし、果ては憎むようになった。
 明治三十年以後の乃木は、悪いことはすべて、個人主義、自由主義のせいにするほど偏狭で固陋な態度をとる人間になっていく。ここに、彼の自由・平等思想への完全な訣別がある。しかも、軍人教育の結論として得た徳目主義、規範主義を、学習院の院長になったとき、中学部、高等部の生徒にもおよぼしていこうとする。
 自由にのびのびと発展し、近代的自我を確立しようとする生徒たちの反発をかうのは当然である。個人主義、自由主義を蛇蝎のように嫌悪する乃木は、生徒を理解することができない。彼はそういう思想に毒されていると考える生徒を、なんとか善導せねばならぬと考えてハッスルする。しかし、彼がハッスルすればするほど、彼と生徒の間の溝は深まるしかなかった。
 乃木が、そういう問題で苦悶しているとき、たまたま、イギリス、フランスを旅行するということがおこり、そこで、彼は恐ろしい事実に直面する。というのは、イギリス、フランスの国民と軍隊の方が、日本人と日本の軍隊よりも、風紀、軍紀が確立し、質素で克己心にみちているという発見であった。これは、長年、彼がいだいていたイギリス観、フランス観をあらためることを彼自身に強いるほどに強烈な驚きであった。彼には、それが、両国民の中に個人主義、自由主義がまがりなりにも定着している結果であると考えることは出来なかったかもしれないが、個人主義、自由主義について、再検討が必要であると考えたことだけはたしかである。その発見は、彼と学習院生徒の間にある溝を発見したとき以上に、彼にとってショックであったであろう。その思いは、人間の自由と権利のためにたちあがった人々を逆臣として征伐してきた自分の過去と重なって思い出されたとき、彼のショックはさらに大きいものとなっていったに違いない。
 ここに私は、彼の自殺の最大理由をみるのである。彼は学習院長としても、乃木個人としても、もはや生きていく勇気と自信がなくなったに違いない。それこそ、彼を支えていた拠所が一切なくなってしまったのだから。明治天皇の崩御は、単に彼に自殺のきっかけをあたえたにすぎないと思う。自殺のきっかけになれば、何でもよかったのである。責任を強調する彼が、無責任すぎた自分の一生を考えたとき、もうこれ以上生きのびて醜悪をさらすことはできなかったに違いない。
 加えて、乃木には、明治三十年頃から明治政府と明治陸軍に対して、徹底的な不信があった。そこから、明治日本にも深い絶望感をいだいていた。だからこそ、陸軍首脳は、乃木の自殺は、彼が発狂して妻を殺し、自らも自殺したものであり、一老人の発狂死として国民に納得させようと計った。そのため、彼の死んだ翌日の新聞は、この事件を各紙とも簡単に報道したにすぎないし、その遺書も、はじめは陸軍ににぎりつぶされるというありさまであった。
 陸軍首脳は、乃木の死がきっかけとなって、国民の不満と怒りが彼等自身にむかってくることを恐れたのである。それは、明治政府の顕官にとっても同じことであった。陸軍首脳と明治政府の顕官たちには、日露戦争後の国民の悲哀、煩悶、不満、失望をよそに、自分たちの栄耀栄華に狂奔しているという気持があったから、乃木の自殺が自分たちへの絶望と怒りを示すものであったことを国民が知るのを恐れたのである。
 当時、政権を批判する者に対しては、ただ強権をもって弾圧することしか知らなかった政府として、陸軍大将の乃木が怒っていたということを国民に知られることは、きわめて都合がわるかったともいえる。

 

               <代表的明治人 目次> 

 

   二 自殺の意味

 自己への絶望
 しかし、乃木の自殺は、こういう彼の怒りと絶望をもちながらも、その自殺の最大の理由は彼自身のなかにある彼自身への絶望が他の何ものよりも大きかったといえる。ことに、乃木と同じように、徳目主義、規範主義を標榜していた政府と陸軍の顕官や幹部が、それをかくれみのにして、私利私欲を追求し、でたらめの生活をしていると知ったとき、彼らと同じく徳目主義、規範主義を拠所とする自分の不明にたえがたい屈辱を感じたであろう。自分も信じ、彼らも奉じている君権主義、絶対主義、帝国主義についても深い疑惑をいだかずにはいられなかったであろう。同時に、政府と陸軍が彼と一緒に嫌悪してきた個人主義、自由主義、共和主義の理解にも疑問をもったであろう。そういう発見をしたとき、彼はどうしてよいかわからなくなったはずである。
 だが、乃木には、もうそのことを考える能力も気力もなかった。自ら結論を出すためには、あまりにも老化していた。明治日本の危機は、恐ろしいほどに、彼自身に追ってきたに違いない。彼は、心から愛する明治天皇の死と日本の将来を思ったとき、自分にできることは、明治天皇の崩御によって衝撃を受けた日本人に、さらに警告することだけだ、と考えたのではないか。
 もちろん、乃木には、日本はどうあるべきか、日本人は何をすべきかを明らかにする能力も識見もなかった。彼が欲することができ、望むことのできたものは、自分の警告を全身でうけとめた者たちが、真剣に考えてくれることであったのではなかろうか。
 新しい日本は、君権主義、絶対主義の道をすすむにしても、明治日本にはっきりと訣別してゆく必要があると乃木は考えたに違いない。個人主義、自由主義、共和主義の道を進むにしても、イギリス、フランス、アメリカの亜流ではいけないと考えたに違いない。それは、君権主義者、絶対主義者として、その長所と短所とを知り、その長所を生きぬいた彼の知恵であったであろう。

 ゆがめられた死の警告
 だが、乃木のまことにみごとな自殺も、彼の願いとは違った方向に、人々を感動させ、動かしていった。あたかも、松陰の思想と精神が発展的に継承されることもなく、彼の思想を固定化し、絶対化したように、乃木の思想と精神も、彼の心の願いに関係なく、彼の心からの苦悩と絶望に関係なく、その死と同時に彼を神にまつりあげる運動によって祭壇に安置されてしまった。
 そこから、乃木のあずかり知らぬところで彼の新しい悲劇が始まった。乃木神社は、愛知県豊明村に作られたのをかわきりに、東京、京都、山口、栃木と次々に建てられた。それは、人間乃木の悩み、逃避、絶望、感激などの面を削除していくことにしか役立たなかった。もし、あったとしても、乃木の偉大さを証明するものでしかなかった。すべてが美化され、絶対化されて、人間乃木の生々しい感情も思想もなくなってしまった。とくに、乃木がその自殺によって、日本と日本人のゆくべき道をとことんまで考えぬいてほしいという、切実な願いさえ消滅してしまった。ここにはもう、乃木を思慕し、乃木の死に学ぶというものは、全くなくなってしまったといっても過言ではない。乃木が自殺した意味も完全に消滅した。
 そればかりか、乃木神社は、いつのまにか乃木を素朴に尊敬する人々の手を離れて、彼が全身の怒りと不満をぶつけた明治政府の伝統をうけついだ大正政府、昭和政府の人々のものとなり、日本国民に君臨するようになっていった。乃木にとって、これほどの苦痛、これほどの不満はないであろう。しかし、これは権力側の意図だけによるのではなく、そこには、自殺によってやっと明治に生きる男から明治を生きる男、歴史を生きる男に変貌し、その意味では思想家の仲間入りをしたともいえる彼を本当に理解できないで、彼の思想と生き方を尊敬し、崇拝していると錯覚している人たちにも責任の一端があろう。
 明治の陸軍を大正、昭和とひきついだ人々も、国民の乃木に対するこのような人気と尊敬を利用しようとした。彼の徳目主義、規範主義を最大限に利用していった。もちろん、その徳目主義、規範主義は、彼が長年強調してきたものであるが、死の寸前において、明治政府の顕官や陸軍首脳がその徳目主義や規範主義を国民に要求する一方、自らには絶対に要求しないという欺瞞性がはっきりしたとき、彼は深い懐疑にとらわれたものである。
 だが、大正、昭和の陸軍は、乃木の晩年の懐疑に関係なく、彼の古い徳目主義、規範主義を採用した。その結果、今なお多くの人々の記憶に生々しい軍隊、泥棒と偽善と要領が支配する軍隊をつくった。形式のみあって、人間性や人間味の全く欠如した軍隊をつくりあげた。真面目な男はだめになり、ハシにもボウにもかからないような連中だけが、どうにか人並の顔つきができる軍隊をつくった。そればかりか、アジアの民衆に不人気で憎悪の対象となった陸軍をつくったのである。もし、そうでない軍人集団があったとしたら、その指揮官の識見と能力によって、伝統的な徳目主義、規範主義の枠外にあったためだといってよい。
 たしかに、大正、昭和の軍隊のありかたにまで、乃木が責任を負う必要はないであろう。しかし、彼が生前の二十数年、強調してやまなかった徳目主義、規範主義が採用された結果とすれば、やはり責任が全くないとはいえないはずだ。彼の形骸化した思想が、彼の壮烈な死によって誤解され、その誤解が生命あるものの如く、大正、昭和の軍隊に影響したということは、まことに悲劇である。その意味では、彼は、大正、昭和の日本が、明治日本以上にいっそう形骸化してゆく上に、一役も二役もかったということができる。
 それは、どこまでも、乃木の本当の姿、乃木の真価を理解しないところからきている。しかも、私たちは、往々にして、歴史上の人物を尊敬するあまり、そういう誤りを犯す。その意味でも、乃木の思想と精神を日本近代史の中に、正確に、しかも発展的に位置づけることが必要である。明治百年と騒ぐなかで、乃木を再び矮小化しないためにも必要なことである。それが、乃木の願うところであり、また乃木を顕彰することでもある。
 もう一度繰り返す。乃木は、明治政府と明治陸軍に、そして明治日本に心から絶望していた。その意味では、今日、明治日本と一緒に、乃木希典を無批判に復活させ、明治日本と乃木を共存させようとすることは、全く彼を理解していない結果である。そして、明治日本と乃木の共存ほど、彼にとって不満はないであろう。おそらく、君権主義者、絶対主義者、帝国主義者乃木は、長い苦悩と孤独と絶望の果てに、最後にはその死によって、思想家となり、日本と日本人の将来について深く鋭い思索の出来る立場に到達し、思想家として日本の未来に警世を発しようとしたのである。

 

               <代表的明治人 目次> 

 

第二部 乃木の生涯

 

   一 苦悩……その一  

 士族層の不満高まる
 希典は明治八年十二月、熊本鎮台歩兵第十四連隊長心得を突然命じられた。それというのも、前任者の山田頴太郎少佐が前原一誠の政府批判の動きに同調して、突然その職をなげだしたからである。山田少佐は前原の実弟にあたるところから、その職務を放棄して前原の動きに加担したが、希典の弟真人もまた前原の参謀格をつとめる人物であり、その関係からいうと、山田少佐同様に希典もまた、いつ前原の動きに参加するかもしれないという不安と危惧があった。
 だから、歩兵第十四連隊長就任は、当時、将校が不足していた事情もあったが、陸軍の希典への信頼を示していた。だが、もしかすると、そういう危惧のある希典をその危険なポストに据えることによって、逆に彼を身動きのできないようにするのがねらいだったのかもしれない。あるいはまた、前原の動きをきりくずすことを考えたのかもしれない。いずれにしても、当時、西日本一帯は、政府批判の声で満ち満ちていて、いつ反政府的動きがおこるかわからない状態にあった。
 希典も、明治九年四月、連隊長心得として就任するや、部下将兵にむかって、「一時の怯懦の心を発し、終身の恥辱をおぶるなかれ。この常備軍にある者、その責任や実に重し。その名誉や忽せにすべからず」と訓示している。
 では、なぜ西日本一帯に不穏の空気がおこったのであろうか。それを明らかにするためには、明治の初めにまでさかのぼらねばならない。
 木戸孝允、大久保利通、岩倉具視などを中心とする明治新政府は、薩摩、長州、土佐、肥前の力を中心に、豪農商の協力と農民、町人の有形無形の支持を得て、郡県制度、四民平等、言論の自由を旗じるしとする統一国家を出発させたが、当時国内には、それらに同調しない人々が充満していた。
 すなわち、明治二年、新たに設けた公議所で、「郡県」と「封建」の可否を論議させると、郡県を支持する藩が101藩に対し、封建を支持する藩は、それをうわまわる102藩もあった。しかも、郡県制を支持するといっても、武士階級を存続させようとする者、また藩知事は、藩主に世襲させようとする者が圧倒的であった。まして、四民平等など、到底支持されなかったのである。当時、いかに武士階級の意識がおくれていたかという証拠である。
 もちろん、農民や町人は、木戸、大久保の四民平等の意図を支えうるほどには、まだ成長していなかった。とすれば、木戸、大久保は、諸藩主を優遇する以外になかったし、武士階級の動向を無視することができなかったのも無理はない。だが、そういうなかで、彼らは断乎として、徐々に藩主や藩士の権力や特権を奪い、武士たちの封建的意識を抑圧していった。
 そこに、当然、武士階級の不平、不満がおこった。とくに、幕藩体制の時代には、十分とはいえないまでも、一定の俸禄をもらって生活が安定していた武士階級にとって、その俸禄と一緒に、農民、町人の上に君臨できた地位までも一挙に失うことになったのだから、その不満と不安は大きかった。
 加えて、討幕の恩賞に十分にあずかれなかったという不満や、明治政府の高官になった連中が自分に厚く、禄を失った藩士層に冷淡だという不平があった。明治政府が西洋化、欧化に狂奔し、日本の伝統的なものを軽視しているという、政策に対する怒りもあった。

 相次ぐ士族の反乱
 こうしておこったのが、西日本の武士層を中心にして、明治の日本を、明治政府が考えるよりも更にもっと反動化し、保守化しようとする動きであった。その最初は、明治三年一月、長州でおこった、約二千人の武士を中心とする反政府的動きであるが、それというのも、倒幕に力のあった彼らを、幕府を倒した今はもはや不要なりとして、明治政府が彼らを整理しようとしたことによる。それに政府は、農民、町人にも武士と同じように国を守る権利と義務があるという視点から、国民皆兵の制度を実施しようと考えていた。
 国民皆兵を推し進めようとした長州出身の大村益次郎は、それに反対する長州士族のために、終に生命を落としたが、政府はあくまで武士階級にたよらず、農民、町人の中から兵隊をつのろうとする方針を堅くまもった。そのために、まず身体虚弱の者や四十歳以上の武士を整理することにした。それに対して、わずかの金で整理、解雇されるのはやりきれないとさわぎがおこったのである。
 もちろん、これまで推薦制によった士官の任命を、天下り人事にしたことに対する反対もあったが、同時に西洋兵式による軍隊組織に反対ということもかかげていた。これでは、全国に西洋兵式による統一した軍隊をつくろうとした明治政府の方針と真向うから対立する以外にない。
 長州におけるこの反政府運動は、一時、九州各地から奥羽の各地にまで波及していったが、結局それらの動きは、明治政府に各個撃破されてしまう。だが、明治政府は、こうした不平士族、失業士族の不平、不満を抑圧するだけで、その生活の安定や政策の説明に努力を払わなかったから、これらの動きは一つの前哨戦となり、次にはより大きな反政府運動へと発展していった。
 すなわち、佐賀の乱であり、神風連の乱、秋月の乱、前原一誠の乱、西郷隆盛の乱である。佐賀の乱というのは、明治七年、前参議江藤新平、元秋田県令島義勇を首領として、佐賀の士族を中心に、征韓と攘夷を名目に、反政府的運動をおこしたものである。江藤は、「戦いを決するの議」の中で、「政府が一度決定した征韓論を中止するのは全くけしからん。自分たちは政府の失政を糾弾するとともに、朝鮮を討つ」というようなことをいい、島は、「西洋風に政府が心酔しているのは許せない。一日も早く大政を変革し、内には封建、郡県をならび行い、外には朝鮮ばかりか、支那、ロシアまで討たねばならない」といった。
 どうひいきめにみても、江藤、島の主張は他国に対して侵略的で、全くおだやかでないし、明治日本を古き日本にかえそうとするものであった。
 明治政府は、大久保を中心に、この江藤、島たちの動きを断乎破砕する態度にでた。といっても、明治政府に内政の危機を外征、主として征韓によってそらそうとする態度がなかったのではない。すでに、明治二年に征韓論が政府のなかにおこっていることでも明らかである。ただ、時期尚早と考え、内治を先にし、外征はそれからと考えたにすぎない。そのために、明治七年には、不平士族、攘夷士族の不平不満をそらすために、台湾征討をやってのけたが、そういう糊塗策で政府批判がおさまるほどに、士族の不平不満は小さくはなかった。
 明治九年に、政府が出した廃刀令と士族に従来あたえていた禄を金禄公債に換えるという政令は、さらに、不平士族、攘夷士族の怒りと不満を燃えあがらせた。まさに、一触即発という状況であった。
 希典が歩兵第十四連隊長心得になったのは、まさにこういう時であった。だから、先述のような訓示も出さないではいられなかったのである。就任した彼が、主に留意したことは、山口と九州地方の状況をくわしく、山県有朋陸軍卿に報告することであった。ことに、前原一誠と自分の弟真人の動きは細大もらさずに報告した。だが、政府と陸軍の厳重な監視にもかかわらず、とうとう十月には、太田黒伴雄を中心とする神風連の乱が、まずおこった。
 太田黒たちは、明治政府の政策、とくにその欧化政策に鋭く反対していた。彼らは、「日本は夷狄(西洋)のために殆んどこわれんとしている」とまで考えたし、政府の政策は「明治維新の理念に対する重大な裏切り行為である」とまで思った。そうなると、彼らは一刻も明治政府の存続を許してはおけない。こうして、成敗を無視して、明治政府の打倒にたちあがったのが彼らである。自分たちの信念に殉じようとした、ということができる。
 つづいて、宮崎車之助を中心とした秋月の乱がおこった。この乱には、希典自身、第十四連隊をひきつれて鎮圧にでかけている。しかし、問題は、前原一誠を中心とした動きであった。

 実弟真人との訣別
 前原といえば、松陰の門下生のうちの最年長者であり、明治新政府では、兵部大輔、参議にまでなった人物であるが、明治三年には、木戸、大久保と意見があわず、一切の官職をふりすてて山口に帰った。当然、山口地方の不平士族、攘夷士族は、この前原のまわりに結集した。というのは、彼は、明治政府の徴兵制度に反対し、その専制主義、独裁ぶりにも不満であり、加えて、熱烈な征韓論者であったためである。いいかえれば、士族の立場にたち、士族の身分をまもろうとした人物であった。
 希典が歩兵第十四連隊長になったとき、当然、前原からさそいがかかった。先述したように、弟真人は前原の参謀格である。それに、彼の師玉木文之進は、深く前原を支持していた。神風連の乱がおこる三ヵ月前の七月には、直接、真人が希典を訪ね、協力を要請したし、九月には、真人と夜おそくまで蜂起について、激論するということがおこっている。
 その時、真人は、「兄貴が参加してくれないなら、せめて小倉連隊の予備銃でも貸してくれ」と頼んだが、希典は拒絶した。彼は、前原や弟真人のいうことにも一理あると思いながらも、それには同調することができなかった。真人は、この兄に対して、玉木文之進も無言の声援を送っているといって説得しようとした。希典は、弟の強い要請を拒絶するために、どうしても、明白な理由が必要であった。自分をも納得させうる、もっともらしい、たしかな理由が必要であった。
 その結果、希典は、その理由として、「天皇の軍隊であり、天皇への忠義」ということを述べた。これに対して、真人は、「私たちは天皇に敵対するのでなく、天皇の周囲の奸物をのぞくのである」ときりかえす。やっと、彼は、「直接天皇から手渡された連隊旗を死守する義務がある」と苦しい答弁をしたらしい。彼は、そういっている間に、いつか、連隊旗は死守するものと考え始めたに違いない。そこから忠義一徹の男希典が徐々に形成されていったものといえる。
 真人は、「連隊旗をかついで、一緒にくればよい」とまではいわなかったらしいが、この話合いはまとまらず、結局、兄弟は水盃をくみかわしてわかれた。不思議なのは、希典が弟の蜂起をとめていないことであり、蜂起によらない他の方法で、国政をただすことを助言していないことである。そういう助言のできる希典ではなかったにしても、彼からみると、明らかに前原や弟の蜂起は無謀であり、勝算はないのである。とめてきく弟ではないかもしれないが、彼の態度は理解できにくい。それに、二人の会談のようすは、部下に全部ききとらせている。
 自分の潔白だけを証明しようとしたとすれば、希典という男は、胆っ玉の小さい男である。また、勝目のない闘いに弟を追いやるとは、非常に冷たい男である。どんな少年時代、青年時代を父母のもとに送ったかと問いたくなるような人物でもある。
 それはとにかくとして、明治九年十月六日の日記には、
  みな人のたのしくや見え望月も
     心さみしく ながめられけり
  ものすごき秋のなが夜の夜もすがら
     夢むすびえぬ人ぞものうき
  こぞよりもことしの秋は物うけれ
     又くる年は いやまさるらん
 という和歌を記している。これをみると、前原や弟真人の蜂起を彼がいかに悩んでいたか、それに参加しない自分をどんなに心苦しく思っていたかということになろう。

 師玉木文之進の自殺
 十月二十八日、神風連の乱、秋月の乱につづいて、終に前原たちは蜂起した。だが、その三十一日には、もう真人(二十三歳)は戦死し、翌月四日には潰滅している。悲惨をきわめたのは、玉木文之進で、十一月六日、自分の家から賊を出したという理由で、割腹自殺をした。希典は、ここで、初めて切腹について考えることを迫られた。かつて、少年時代、赤穂義士の切腹のことを度々きいて育ったが、今、初めて、その切腹が現実のものとして、彼に迫ってきたのである。
 自分の家から逆臣を出したという理由で、その責任をとって自刃した玉木文之進。玉木は、希典の師である。もちろん、彼には、玉木が責任をとって自刃したというのは表面の理由で、玉木が、明治政府と明治日本に絶望して、自刃したということが痛いほどにわかっていた。その絶望の当否は別として、彼は、玉木の自刃に、人間の責任や絶望について、深く考えることを求められた。それは、前原の行動や弟真人の死を思うことによって、その感慨と苦悩はさらに高まったといってもいい。
 だが、希典の感慨と苦悩をよそに、彼に対する批難があちこちからおこってきた。批難というのは、希典が秋月の乱、前原の乱に動揺して、自ら戦わずして援兵を乞うたこと、大変だ、大変だという報告をたびたび山県陸軍卿に出したことについてであった。連隊長にもあるまじき態度だというのである。このために、同郷の先輩福原和勝大佐は、わざわざ書を希典に送ったほどであった。
 希典は、その返書のなかで、「希典の去年、此年、此の職を奉ずるより、居常寝食の間と雖も、意を此の騒乱の因起する処に注がざるなく、終に骨肉の親を絶ちて、己を知る者の為に報ずるあらんとするは、早く已に足下の知了する所なり。然りと雖も、昔日の失錯相つぎ、今日志の達せざるにより、或いは乗じて其の間に入る者あるあらんか。此を以て嫌疑を師友朋友に得るときは、死するの後と雖も恨みなき能わず。死期を猶予するは恥の之より大なるはない。之を敢てする者はやむあたわざる所あればなり」と書き、その不満を訴えるとともに、このとき、すでに、深く死を思っている。恥をうけるよりも、むしろ死にたい。これが当時の希典の心境であった。それは、師玉木を思い、弟真人を考えることによって、到達した境地であったかもしれない。
 しかし、希典には、そういうことをくよくよと長く考えている暇はなかった。すなわち、翌年の二月になると、今度は、西郷の乱がおきたからである。

 西郷の乱
 西郷隆盛は、明治維新で功績第一と認められた人物であるが、明治以後の西郷は一貫して、士族階級の保護とその身分的確立のために努力するほどに、おくれた意識をもった人間であった。農・工・商出身の兵隊を危ぶんで、軍隊は士族出身でないと駄目だといって、徴兵制に強力に反対したばかりか、薩摩藩の藩政改革でも、武士階級を中心に、農民、町人を支配する体制をかためた。たしかに、藩主たち特権武士層の権力や支配力を奪いとることには熱心であったが、奪った権力や支配力を下層の武士階級のものにしようとしたのが彼である。
 そういう意味で、西郷は四民平等も、人間の権利・義務も、また人民の能力をも終に理解することのできなかった男である。だから、西郷の乱は、人民の能力を認めようとせず、自分たちの階層に異常な自信と誇りをもつ西郷ら武士階級に、人民の能力を知らせる戦いであったともいうことができる。
 その証拠には、勇武をうたわれた薩摩武士が農・工・商出身の兵隊にさんざんな目にあい、敗北してしまう。その点で、西郷の乱は農・工・商に君臨してきた武士階級の滅亡を意味し、新しく、社会の中心に農・工・商がその実力で躍りでたことを意味する。希典は、この西郷の乱で、彼の運命を狂わすような事件に遭遇する。

 軍旗を敵にとられる
 当時、熊本鎮台の司令長官は陸軍少将谷干城、参謀長は陸軍中佐樺山資紀、参謀は陸軍少佐児玉源太郎、陸軍少佐川上操六で、二千数百名の将兵が鎮台を守っていた。
 明治政府は、有栖川宮熾仁親王を征討総督に、山県有朋陸軍中将と川村鈍義海軍中将を参軍(後の幕僚長)に任じ、第一師団司令官には、野津鎮雄陸軍少将、第二師団司令官には、三好重臣陸軍少将、第三師団司令官には、三浦梧桜陸軍少将を任命し、将兵約五万人の征討軍を組織した。
 谷長官は、はじめ、鎮台兵と乃木第十四連隊で西郷軍を挟撃しようという計画をたてていたが、熊本県下もだんだんと不穏の空気が強くなっていくのをみて、急いで作戦計画を変更し、乃木連隊も熊本城にいれるということにした。それというのも、徴兵令は明治六年にでたものの、熊本鎮台はやっと明治八年から実施され、兵隊の訓練は必ずしも十分ではなかったからである。それに、徴兵隊の実力については、まだ半信半疑であったのに対して、西郷軍といえば、強豪中の強豪である。西郷軍が簡単に熊本城を落とせると考えたように、谷長官自身も、徴兵隊を信ずることができず、籠城ときめたのである。籠城となれば、城内の兵隊は一兵でも多い方がよい。こうして、乃木第十四連隊に対して、強行入城せよという命令が下った。
 二月二十二日、乃木連隊は小倉を出発して、植木まで進んだが、そこで、西郷軍と遭遇した。午後七時頃、西郷軍が突如夜襲を強行してきたのである。村田三介のひきいる抜刀隊である。この村田というのは明治四年に希典と一緒に陸軍少佐に任命された男で、彼より四歳年長である。西郷軍は士族を中心に組織されていたから、剣術もそれ相応にできるものばかり。それに対して、乃木連隊の者は百姓や町人の出身で、十分に訓練されていない上に、白兵戦となるとなおさら得意ではない。とうとう、乃木連隊にの総退却となった。
 このとき、希典は、河原林少尉に軍旗をもたせ、護衛兵十数名をつけて後方に退却させたともいうし、退却の時機を全軍にしらせようとして、伝令がいないままに、やむなく希典自身が伝令の役をかってでた間に、河原林少尉が敵陣に突入したともいう。
 もし、伝令の役を自分でかってでて、その留守に、河原林少尉が元気にまかせて敵陣に突入したとするなら、連隊長も連隊長なら、連隊旗手も連隊旗手だということになる。ともに失格者といえる。真相はいずれであるか不明だが、要するにこのとき、連隊旗を西郷軍に奪われたのである。弟真人に、大言壮語した死守すべき連隊旗を奪われたのだから、彼には非常なショックであったに違いない。
 
戦死を急ぐ希典
 軍旗をとられたと知った希典は、すぐさま引き返して戦おうとし、部下にとめられてやっと思いとどまったほどであった。翌日からは、もっと激しい戦いが始まった。第三大隊長の吉松少佐が戦死したのもその日である。桐野利秋(明治四年陸軍少将)のひきいる西郷軍と戦って、希典が左足貫通銃創をうけたのが二十七日。
 しかし、希典はかごに乗って指揮し、三月六日、初めて久留米病院に入院した。彼としては、連隊旗をとられて以来、死によってその責任をとろうとするかのように勇戦奮闘した。病院では、悶々の情を詩に託して詠んでいる。
  転戦後肥山又川 身傷いて死せず却天を怨む
  ああ吾薄命誰と語らん 泣いて功臣烈士の伝を読む
 三月十九日退院すると、すぐさま連隊に復帰し、指揮をとっていたが、四月九日、再び左腕に貫通銃創をうけて入院した。連隊が熊本城に入ったのは、その六日後である。
 四月十七日、参軍山県有朋あてに、待罪書を提出した。
「すぐる二月二十二日、植木に於て戦争の節、図らずも旗手河原林少尉事急の際に戦死候処、夜中の苦戦当時その死骸の所在を得ず。本人その節、まいて身に負い居り候軍旗共に紛失致し、焼失と賊手に落候と分明仕らず候故、その後種々捜索を遂候えども、今日に至るまで見当たり申さず、畢竟希典不注意の致す所恐懼にたえず、仍て進退伺い奉候也」
 そして、翌四月十八日退院すると、希典は、二十一日、二十三日とまたも先頭にたって戦った。これには、希典の上官たちも心配しはじめた。
「あのままでは、乃木はいつか戦死する。それも自殺に近いような戦死をする」
 そこで希典を熊本鎮台の参謀にした。すると今度は、希典は熊本鎮台を脱走した。手分けしてさがしてみると、三里ほど離れた山にいた。「戦場にぜひ出してくれ」と駄々っ子のように頼む。やっと、兵隊がつれてかえるというありさまであった。一説には、断食をしていたともいう。
 これより先、久留米病院に入院したときも、ひそかに病院を脱走して、戦線に復帰したといわれているし、また入院中に自殺をくわだてたともいわれている。要するに、希典の軍旗喪失に対する思いは異常であった。おそらく、秋月の乱、前原の乱のあと、周囲から誤解されて、次の戦争では戦死して恥をそそごうと決心していたことも無関係ではあるまい。二重の屈辱に堪えがたかったともいえる。
 希典が出した待罪書に対して、「非常の場合でやむを得なかったのであるから」ということで、彼には少しの処罰もなかったし、新たに軍旗も小倉第十四連隊に下賜された。問題は解決されたが、希典の心では解決とはならなかったらしい。

 死にまさる苦しみ
 軍旗をとられたという恥辱と不名誉に打ちのめされ、一度は自殺しようとし、それがとめられると進んで戦死しようと機会をもとめたという希典の執念は、たしかにすさまじいというしかない。そのうけとめかたは激しすぎる。当時の人々も、また後の人々も、希典の苦悶は死にまさる苦悶であったと肯定的である。希典の自責の念の強さを賛美しようとする。
 だが、私は、彼の自責の念の強さをみとめつつ、それが異常である理由を考えないではいられない。彼のように鋭い感受性をもつ者が、軍旗をとられたということに、鋭い痛みと深い恥辱感を味わったとしても不思議ではないが、逆に、軍人としての責任と義務を放棄して、自殺もしくはそれに類した行動をとろうとするのは、逆に、責任からの逃避ともいえないことはない。
 すでに書いたように、希典は、軍旗の死守ということを理由に、前肩や弟真人のさそいを拒絶し、前原や玉木、弟真人を死においやった。その言葉の前に恥じ、死を思ったのではなかろうか。彼は自分の言葉に責任をとらないでは、気持がおさまらなかったのではないか。
 いま一つ、二十二日の戦闘は激戦であったといいながら、二十三日の戦いでは戦死二十二、負傷四十七、逃亡五を出したのに対して、二十二日は戦死三、負傷者二十六にすぎない。戦死者三、負傷二十六という数字で、軍旗をとられたようすが判明しないというのは少しおかしい。戦死者の一人は、連隊旗手の河原林少尉である。それに、河原林少尉がいないと気がついて、早速さがしにいこうとしたとすれば、当然当時の状況をくわしく兵隊にきいたはずである。
 連隊旗をとられたときの状況が、いろいろであるというのも納得できない。しかも、その晩は、月あかりであたりは非常によくみえたという。希典に何か重大な失策があったか、あるいは激戦のあまりに動顛したのではないかという推測すらできそうである。そのことが、彼の恥辱感、不名誉感を決定的にし、自殺までも考えさせたのではないか。それに加えて、秋月の乱後の恥辱がある。このときの彼はそれを証明したともいえるのではないか。
 希典に酷な見方かも知れないが、私にはそう思われる。まして、当時、軍旗がそれほどに絶対的であり、神聖視されていたかどうかもあやしい。しかも、封建領主への忠と天皇への忠が混在し、はっきりしなかった明治十年当時である。軍旗といっても、封建時代の旗差物が少し発展していたものにすぎないであろう。むしろ、彼が軍旗に異常に執心したことから、軍旗を神聖視する姿勢と習慣がその後の軍隊にできたともいえる。そして、形式化し、空洞化したその後の軍隊のなかで、いよいよ神聖視するようになったといえる。
 また、希典が軍旗に異常に執心すればするほど、彼は、河原林少尉を責めることになることに気づかなかったのであろうか。もちろん、河原林少尉はすでに死んでいない。しかし、彼が、そのことに執着すればするほど、死者を鞭うつことにもなる。もし、重傷を負った間に軍旗をとられて、その後も河原林少尉が生きていたとしたら、河原林に死ねといったのと同じである。それこそ、死にまさる苦しみを与えたことになる。
 このようにみてくると、希典という男は、自分のことしか考えない、思いやりのない、冷たい男ということになろう。弟真人に冷たかった彼は、部下にも冷たかったといえるのではなかろうか。

 

               <代表的明治人 目次>  

 

   二 自我のめざめ

 泣き虫少年時代
 希典は、なぜ普通の人間以上に自殺に憧れ、その行動と責任をすぐに自殺に結びつけて考える人間になったのか。そして、他人に対して冷たいと思われる男に成長したのか。その秘密を、彼の生い立ちの中で考えてみよう。
 希典は嘉永二年(1849)十一月十一日、長州藩の支藩長府毛利家の藩士乃木希次の子として生まれた。後に、明治の陸軍を背負って立つ桂太郎は弘化四年の生れで希典の二年先、児玉源太郎、寺内正毅は嘉永五年で、三年後に生まれている。自由民権家の河野広中は希典と同じ年に福島に、中江兆民は桂太郎と同じ年に高知に生まれていることを記しておくのも無駄ではあるまい。
 嘉永二年といえば、幕府が諸大名に対して海防を厳にするように命じた年で、弘化三年(1846)アメリカの軍艦が浦賀に、フランスの軍艦が長崎に来て以来、にわかに国内が騒がしくなったときにあたっている。その五年後に、吉田松陰が国禁を破ってアメリカに渡ろうとして失敗している。
 希典はこういう時代に、桂、児玉、寺内たちと相前後して長州藩に生まれた。といっても、桂たちが長州に生まれたのと違って、希典だけは江戸の毛利藩邸で生まれている。江戸に生まれたということが、彼の精神形成、人間形成にどんな影響があったかは明らかでないが、文化の中心地江戸に育ったということは、それだけその香りを吸収したということになろう。ただ、非常にはっきりしていることは、この毛利藩邸というのは、麻布日ケ窪町の上屋敷で、赤穂の浪士武林唯七たち十人があずけられ、後に切腹をした場所である。いうまでもなく、武林たちは、大石良雄とともに、元禄十五年(1702)吉良邸に討ちいって、亡君浅野長矩の仇を討った人たちである。
 そのためもあって希典は、父希次から、切腹した人たちのことを日常的に「武士はかくあるべし、かくありたきもの」と教えられて育った。父希次とは、そういう武士であった。自然、彼が、武士の死、武士の切腹というものを美化し、その悲壮な美しさに、子供心に憧憬を感じて育ったということが考えられる。
 ことに、幼年時代、少年時代の希典は、幼名「なきと」をもじって、“泣き人”といわれるほど弱虫であった。それは、虚弱体質に加えて、その感受性が人一倍鋭く、デリケートであったということである。また、小心で、癇癪もちであったということでもある。とすれば、なおさら武士の死を思いつめ、考えつめる少年に育っていったということができよう。
 それに、元来、乃木家は医学と儒学を家業とする家柄であった。父希次は、そういう家柄をきらって武術を究め、ことに弓術にすぐれていたために、武術によって藩主につかえたほどの男であるが、希典は、祖先の伝統をついで、武を究めるよりも文を求め、文を考える性情と姿勢がより強かった。そこには彼の体質と性情に加えて、彼が育った生活環境に深い関係があったであろう。
 安改元年(1854)弟真人が生まれた。真人は希典とは対照的に、身体も頑健で、心は逞しく、典型的な武人タイプであったという。そのことが、武人タイプの父希次の影響とともに、いっそう、希典を感受性の豊かな子供に育てたのである。あまりにも強く逞しい人間の子は、往々にしてその反対になる。島田松秀について論語、孟子などの素読をはじめたのが八歳のとき。九歳になると、松岡義明について、小笠原流の礼法を学びはじめた。
 しかし、まもなく、父希次が藩主の不興をかって、長府(山口県)づめになったことから、長府の生活が始まった。希典十歳のときである。父がどういう理由で藩主の不興をかったかは明らかでないが、普通、江戸づめの者が帰国すれば家屋敷をあたえられるのに、希次には与えられなかったところをみると、相当の不興であったらしい。
 そのために、希次は六畳、三畳、二畳の家をかりうけた。わずか十一畳の家に、二人の娘を加えて、親子六人が生活するのだから大変である。だが、大変なのは住居ばかりではなかった。この頃の乃木家は貧しさのどん底にあった。しかも、希次は、生活のことには、全く無頓着というありさまである。
 自然、その重荷は、母ひさの両肩にかかってくる。それをみかねて、希典は母を助けようとした。当時、ひさの考えたことは、江戸風の塩せんべいをつくって、それを菓子屋におろすということであった。早速、菓子屋に交渉してみるとひきうけるという。そこで、希典は、毎朝はやく起きて、米をつき、ついた米を粉にひく仕事を始めた。こういう生活が約三年間もつづいている。
 もちろん、その間、安政六年に希典は、結城香崖について詩文を、江見後藤兵衛に武家礼法を学んで居るし、文久元年になると、工藤八右衛門に馬術を、小島権之進に弓術を、多賀鉄之丞に砲術を学び、さらに、文久二年には、中村安積に槍術を、黒田八太郎に剣術を学んだ。
 母の手伝いの間に、いろいろと学ぶのだから、その進歩ものろい。その上に、虚弱な体質である。その点、米をつき、粉をひきながらでも、書物ならいくらでも読み、考えることができる。自然、希典は、武術よりも文に親しむようになった。
 まして、苦しい生活、貧しい生活をしいられて、感受性の強い希典はそういう生活についていろいろ考えるようになったともいえる。

 弁説に長ずる
 文久三年(1863)六月、希典は藩校敬業館に入学した。彼の十五歳のときである。だが、これより先、文久三年五月、攘夷のさきがけとして、長州藩が米・仏の汽船を攻撃したことから、六月には、米・仏の軍艦の攻撃をうけて、長州藩はさんざんなめにあうという事件がおきた。これではいけないというので、集童場をつくって、少年を教育することになった。希典は早速その集童場に移った。
 藩校設立の動機が動機であったから、自然、そこに学ぶ者の意気も盛んであった。入学早々、希典は、他の入学生二十余人と一緒に、「此の度御国のため、正義をつくすにつき、二心なきを誓う」という誓旨に名前を連ね、血判している。しかも、これには、「この誓旨に違う者は速やかに切腹せしむべし」という添書きまである。
 希典がこの誓旨に、自発的に署名し、血判したかどうかはあやしい。ことに、切腹という言葉をみたとき、彼はあらためて、赤穂浪士の切腹と重ねあわせて、考えこんだに違いない。他の少年たちが切腹という言葉を単に言葉として受けとめ、それを実感として受けとめることがなかったときに、彼は、それを実感として受けとめていた。それは一方で彼を感動させ、他方で戦慄させることでもあった。
 その集童場時代、希典は全く、模擬戦に参加するということもなく、また仲間に争いがあると、その場をはずしてしまう。自然、仲間からはのけものにされる存在であった。そのために、卑怯者といわれる存在でもあったのである。果たして、彼が卑怯者であったかどうかは不明として、彼が単純に、仲間たちと一緒に模擬戦に参加して打ち興ずることができなかった少年であったことは明らかである。
 弟真人も集童場に一緒に入学したが、彼の方は、希典と違って身体も丈夫で、進んで模擬戦に参加するというありさまであった。そのために、集童場の教授熊野直介、福田扇馬は希典を応接掛に任命した。弁説を必要とする仕事には、誰よりも彼が能力を発揮したためである。とくに、希典がその能力を発輝したのは、“対策”といって、一つの課題をめぐって論争するときであった。どんな論争にも負けるということがなかったという。
 元治元年(1864)八月、英・米・仏・蘭の四国艦隊が下関を砲撃したときには、希典は従軍が許されないままに、仲間と一緒に交戦の姿、惨敗の姿をつぶさに見たという。この戦いがあった後、集童場の教育は、いよいよ実戦に近いものになっていく。武術の鍛錬が中心となり、それが徹底していく。
 希典は、こういう教育の中で、自分が武士として立つか、学者として立つか迷いはじめた。小心で卑怯者と思われていた希典であるが、彼は人一倍負けん気だけは強かった。そのために、武人となって、人後に落ちるのを徹底的に嫌ったともいえる。

 学者志望で家出
 希典が人一倍鋭い感受性をもっていたことはすでに述べたが、それが、深くものを考えるきっかけになり、単純に行動できない少年に育っていった。そこで、彼は、虚弱な身体、小心で癇癖であることを自覚して、武士になることを断念し、学者になろうと決心した。
 元治元年八月の、四国艦隊の下関攻撃をみたとき、日本の学問のおくれ、日本に学問の必要を痛感したからかもしれない。それに、十六歳のときに、初めて父希次より吉田松陰の『武教講録』をあたえられて、学者としての松陰の生き方に深い思慕をもったためかもしれない。
 松陰は、希典の十一歳のときに、すでに刑死していたが、彼がアメリカに密出国をしようとしたのは、武士としてというよりは学者として、西洋諸国の学問を学ばんとしたためであるということが希典にも理解できた。こうして、元治元年(1864)、希典十六歳のとき、初めて父に、学者になりたいとうちあけ、その許可を求めた。父希次は許そうとしない。やむなく彼は、玉木文之進をたよって家出した。それというのも、玉木は松陰の叔父であるばかりでなく、少年時代の松陰を教育した人物でもあると知ったからである。しかも、都合のよいことには、玉木家は乃木家の親戚でもあったのである。
 希典が玉木をたよって、家を出奔したときは、よほどの決心であったろう。自分の能力、体力を考え、時代の動きをみたとき、学者になることが好ましい、学者になるべきだと思ったにちがいない。それはまた、長い間考えた結論でもあったろう。いずれにせよ、当時の彼は気性の激しい少年であったといえよう。
 父希次は「学問はどこででもできる」とか、「武士は武術をもって立つ者、学問は儒者のすることである」といって、かたくなに希典の希望に反対した。希次自身、かつて学問を嫌って、好きな武術を求めて武士になったことを忘れたかのように、彼の願いをきこうとしない。幕末の時代状況の中で、将来は武術と同じほどに、あるいはそれ以上に学問が必要になるということを理解できない父親であった。学問の嫌いな希次は、せいぜい、学問とは四書(大学、中庸、論語、孟子)五経(易経、詩経、書経、春秋、礼記)についての訓詁的知識を記憶することだというぐらいの考えしかもてない。だから、学問はまたどこででもできると考えたし、儒者のすることだともいったのである。
 しかし、この時代の学問は、日本をどうするか、日本の政治、経済、思想をどうするかという問題に解答を見出そうというものであり、吉田松陰の学問とは、まさにそういう学問をめざしたものであった。自然、誰を師とし、誰に学ぶかということは、非常に重要なことでもあったのである。だが、希次にはそれを理解する能力がない。学問といえば、せいぜい儒学としか考えない。しかも、理解できないのに、強力に反対する。そこに、希典の不幸と悲劇があった。
 しかし、この時の希典には、父の反対に屈しないだけのものがあった。家出をしても、自分の考えを貫こうという強さがあった。そのかぎりにおいて、希典はなかなか立派であった。しかし、希典がせっかくたよっていった玉木文之進は、希次以上に頑固で、融通のきかない男であった。武士が誰よりもすぐれていると思いこんでいる男であった。
 それに、少年時代の松陰をたしかに教えはしたが、晩年の松陰とその思想については、ほとんど理解できない人物でもあった。わずかに、松陰を至誠の人、行動の人と理解できたにすぎなかった。そういう玉木文之進に教えを求めたことが、希典にとってさらに決定的な不幸と悲劇であった。

 第一回目の挫折
 当時、希典が「性質も虚弱であるし、いささか、時勢についても、少し考える所があるので、これから学問をもって身をたてたいと思う。御指導をお願いしたい」といったのに対して、玉木は、「お前は武士の子ではないか。武士の家に生まれて、武術を究めることができないようなら百姓になれ」といったという。虚弱を理由に武士から逃げようとする気持があった希典の態度をいましめたともとれるが、そのとき玉木は、なぜ学問がしたいか、どんな学問がしたいか、本当の学問は、武術を究める以上に能力も体力も必要であることを、十六歳の少年希典に説かなかった。
 もちろん玉木には、これからの学問がどんなものかを理解し、考える力は全くなかった。十六歳の少年希典にも、松陰を指導したほどの男であるという気持が邪魔して、玉木の言葉をあくまで批判し、自分の道を強く押し進めることはできなかった。彼には、久坂玄瑞や吉田栄太郎が、吉田松陰に徹底的にくいさがった気魄も抱負もなかった。こうしてせっかく希典のなかに生まれかけた学問への芽は伸びることもないままに、押えられ、摘みとられて、結局武術を学ぶことになり、学問は、その合間をみてできるだけやるということに落ちついた。学問という言葉が従来の意味から一歩もでていないことはいうまでもない。
 希典が松陰と直接会うことのなかった悲劇である。それがまた、希典が松陰を矮小化して学ぶことにもつながる。そのことについては、おいおい書いていきたい。
 といっても、希典が、玉木のもとで何も得たものがなかったというのではない。希典自身が後に語るように、「余は碌々撃剣も学びたることもなかったから、重き鍬鎌をとって耕作に従事するは誠に困難で、あったので、初めは茶を運び、農具を携えるなどの手伝いをしただけである。それでも苦しくて、何度、玉木家から逃げようと思ったかもしれない。しかし、しばらく我慢している間に、次第になれて、終には困難と思わず、大いに興味をもった。こうした生活が一年近くなると、余の体力も著しく発達し、全く昔の面影はなくなった。余は、ここで、玉木の教育が空しくないのを知り、その後、武士としての修業を積まんと志すようになった」ということもあった。
 これによると、明らかに希典は、武士の修業を避けるために学者になろうとしていたにすぎないともとれる。時勢に感じて学者になろうとしたというのは、ほんの申し訳にすぎなかったともとれる。だから、挫折したともいえる。だが、私としては、そう思いたくない。時代の課題に、学問的、思想的にむきあおうとしたが、よい指導、適切な指導のないままに、その思いが結実しなかったとみたい。父希次と玉木文之進の無知と不見識が希典の学問の芽を摘んだとみたい。そこに人と人との出あいの意味の大きさをみたいのである。

 優柔不断・意志薄弱
 慶応元年(1865)になると、希典の出奔も許されて、あらためて藩校明倫館に入学した。彼が籍をおいたのは文学寮であった。この頃の希典は、学問に卓越することもなく、かえって剣術に秀でるというありさまであった。剣術の師範は来栖又助である。そうなると、彼は、文学寮よりも兵学寮に籍をおくのがよかったのかもしれない。
 慶応二年(1866)は、長州藩が幕府の第二次長州征伐と対決した年である。長州征伐というのは、長州藩が京都で反乱(元治の変)をおこしたことに対して、幕府が長州の責任を問うた戦いで、第一次征長は元治元年におこり、慶応二年には第二次征長がおこった。これに対し、長州藩は第一次征長のときは恭順の態度をとったが、第二次征長のときは受けて立とうとした。
 そこには、高杉晋作のクーデターにより、高杉や木戸たちが、藩政府の権力を掌中にするとともに、第一次征長のときは幕府側であった薩摩藩とも統一戦線がくまれたという情勢の変化があった。希典は、四月、萩より長府にかえり、報国隊に参加し、幕府軍を迎え撃つ。このとき、彼は山砲一門の長を命じられている。これが、彼の初陣である。希典十八歳のときのことである。
 第二次征長を独力ではねかえした長州藩は、いよいよ意気盛んとなった。希典は、今ではそういう雰囲気にとけこみ、自らも意気軒昂となって、再び明倫館にかえっていく。武士としての自信も少しずつ生まれたのかもしれない。学問への道は忘れたかのように。こうして、明治元年六月まで、希典は明倫館に学ぶ。この間、幕府は慶応三年十月に、政権を朝廷にかえし、明治元年一月には、薩摩、長州の兵と幕府軍が鳥羽、伏見で衝突し、さらに四月には、薩長を中心とする討幕軍が江戸に入城し、五月には、討幕軍が彰義隊を攻撃した。それと平行して、薩長軍は、北陸征伐、奥羽征伐の軍をおこし、その戦いは翌明治二年五月、函館陥落までつづく。
 だが、希典は、これらの戦いに参加していない。その年の六月に明倫館を退学した彼は、十月、わずかに報国隊の読書係として入隊するのみである。読書係というのは、参謀のような職務らしい。
 希典の二年先輩の桂太郎は、鳥羽、伏見の戦いから、さらに奥羽征伐に参加し、三年後輩の児玉源太郎、寺内正毅はともに函館で転戦し、功をたてている。このようにみてくると、彼は一旦、武士を志しながら、この頃もなお、武士として生きるということに躊躇していたのかもしれない。彼が明倫館を退学したのは、明倫館が萩から山口に移されたときであり、玉木文之進に強くすすめられて退学した形跡がある。
 まことに、意志薄弱というか、優柔不断で、自分の心に生き、自分の心を貫ぬこうとする態度が弱々しい。家出した勇気はどこにいったのであろう。当時二十歳の希典の姿は、全くだらしないの一語につきる。そういう彼が、もし学者の道を選んでいたとしても、いかほどの学問、どんな性格の学問ができたか、あやしくなってくる。彼の肉体こそ、玉木の家で頑健になったかもしれないが、その精神は相変わらず弱く、泣き虫の少年時代を一歩も出ていなかったのではあるまいか。時代の課題に積極的に取り組むような逞しさ、時代の課題にむきあえるような自我の確立は、彼のどこにもなかったようである。
 歴史の過渡期がもっているあらゆる可能性、そのなかの一つの可能性の実現にむかって、時代そのものをひきずっていこうとする感動や飛躍が、少なくとも二十歳までの希典にはなかった。そういう希典の精神と姿勢は、青年の精神と姿勢ではない。まして過渡期に生きる青年のそれでもない。その意味では、二十歳になる青年希典は全く奇妙な存在であったとしかいいようがない。
 たしかに、希典のように感受性が鋭く、内攻的な人間は、ともすると自分の殻の中にとじこもり、自分のことしか考えないようにみえる。その場合、そういう人間は、完全に自分自身で考え、自分自身で結論を見出すまで、なかなか行動をおこさないものである。しかも、そのためには長い思索の時間がいる。希典も、このときにはそういう状態にあったのであろうか。それが、彼を卑怯者に思わせ、冷たい男に見せる原因でもあったのであろう。

 二十三歳で少佐任官
 明治二年(1869)八月になると、希典は、藩命により京都にある仏式伝習所に入所した。この仏式伝習所は、兵部大輔大村益次郎が、新陸軍建設のために設置したものであった。だが、明治三年一月になると、長州藩各隊の解散に反対して暴動がおこった。
 希典は、その鎮圧のために帰藩し、戦閥に参加したが、まもなく暴動もおさまったので、彼は再び伏見にかえっていく。しかし、伏見伝習所は、まもなく大阪の兵学寮(士官学校の前身)に合併になり、伝習所生の大部分が兵学寮に入った。
 希典は、このとき、兵学寮に移らず、残った伝習所生の教育掛になった。彼の能力が士官に適さないとみられたか、もう教育の必要もないほどに、立派に士官として通用するとみられたかははっきりしない。この伝習所生が、後に近衛兵に発展する。
 明治四年一月、希典は長府藩の練兵教官になった。二月になると、兵部小輔山県有朋の意見にもとづいて、薩摩、長州、土佐の三藩から約一万の藩兵を集めて、御親兵(近衛兵)をつくることになった。長府藩兵も、長州藩兵の一部として、百名ほどが選ばれた。いうまでもなく、彼は彼らとともに上京した。
 希典が陸軍少佐に任官したのが明治四年十一月。二十三歳の若さであった。当時、彼が少佐に任官したとき、周囲の人々は非常に驚いた。せいぜい、中尉ぐらいだろうと思われていたのに、少佐に任官したのである。三年後輩であるが、函館戦争で功をたてている児玉源太郎も寺内正穀も少尉であった。
 そこには、希典が玉木文之進をとおして、吉田松陰の弟子の末席に連なっているという配慮もあったろう。現に、松陰門下の山県有朋は三十五歳で陸軍中将、山田顕義は二十九歳で陸軍少将になっていた。それは軍人だけではない。政治家になった木戸孝允、伊藤博文、野村靖、品川弥二郎たち皆が高官になっている。
 松陰の思想を発展的に継承したかどうかということには関係なく、生き残った松陰門下生はすべて要職についた。彼らが中心になってつくった明治政権で、希典もその恩典に浴したのである。それに、山田顕義、品川弥二郎とともに御楯隊を組織し、高杉晋作のクーデターを強力に助けた御堀耕助(伊藤博文と同年輩)が希典の従兄弟であったということも無関係ではあるまい(耕助は明治四年五月病没)。
 しかも、その当時ですら、希典を卑怯者と呼んでいる者がいるなかで、その彼が同輩をぬいて、二十三歳で陸軍少佐になったのだから、人々が不思議に思ったのも無理はない。といっても、長州藩の支藩である岩国藩の長谷川好道は希典の一年後輩であるが、同じように陸軍少佐になっていることを思えば、あながち不思議ともいいきれない。長谷川は戊辰戦争にすでに小隊長として参加し、功をたててはいるが。
 卑怯者という風評もある上に、あまり軍事を好まない希典が陸軍少佐になったのである。

 酒と芸者に明けくれる
 さて、少佐になった希典は、東京鎮台第二分営勤務を命じられ、翌明治五年二月には、東京鎮台第三分営大弐心得を命じられた。当時、第三分営は名古屋にあった。大弐というのは今日の言葉では、次長というような意味である。
 明治六年一月、それまでの四鎮台であったのを六鎮台にし、新たに名古屋と広島に鎮台を設置した。そのために、希典は名古屋鎮台大弐心得となる。そのときの大弐というのは、師団長に対して参謀長のような職務であった。当時は、日本陸軍の創成期で、制度も官職名も次々に変わっている。たとえば、初め、野崎真澄中佐が名古屋鎮台大弐となり、六番大隊は六大隊と変わったが、四月になると同中佐を名古屋鎮台司令長官御用取扱、十一月には輯斐章大佐が鎮台司令官心得となり、六大隊は歩兵第六連隊第一大隊になる、という具合である。鎮台司令長官陸軍少将四条隆謌が着任するのは、翌明治七年四月のことである。
 その年の五月、希典は名古屋鎮台大弐心得をやめさせられて休職になった。その理由は明らかでないが、必要欠くことのできない人物が休職になるとは思えない。越前に暴動があったとき、彼はその鎮圧の指揮をとったが、その指揮が適切でなかったと判断されたか、あるいはつづいて金沢分営に勤務したとき、その勤務に不始末があったか、その他いろいろなことが考えられる。
 東京にかえった希典は、四ヵ月たつと、今度は山県有朋陸軍卿の伝令使となった。伝令使というのは、いまの副官にあたる。彼にもう一度、チャンスを与えようという親心であったかもしれない。
 この時代の希典は、暇さえあれば料亭にゆき、酒を飲み、芸者と寝るという生活をしている。若くして陸軍少佐になったということに、軍人としての自分に自信をもち、果ては心がおごったとも考えられる。あるいは、生真面目なところのある彼は、その大任に耐えられぬほど疲労が大きく、酒を飲まずにはいられなかったのかもしれない。しかし、いずれにしろ、希典は、軍事や軍制の研究に精魂をうちこむでもなく、時代の動きについて学問するでもなく、貴重な青春時代の二十代を、酒を飲み、芸者と寝ることで過ごしたのである。そんな生活のなかから、逞しい自我が育つわけがない。思想的自立が訪れるわけがない。
 そう考えると、先に希典は、自分自身でとことん考え、自分自身で結論を得るまでは行動をおこせない青年の一人ではないかと考えたことは、彼に関するかぎり思いすごしであったかもしれない。彼は単に、決断の乏しい男、いつまでも、ぐずぐずと考える男にすぎず、単純に環境に流される男ということになろう。自分自身に執着するあまり、他人のことを考える余裕がないということにもなる。軍旗喪失をくよくよと考えたのも、そのためであろう。自分なりに精一杯生きていたかもしれないが。

 

               <代表的明治人 目次>  

 

   三 苦悩……その二

 酒乱的豪遊の時代
 人間にとって、人間の精神形成、思想形成にとって、どういう十代を送るか、さらにどういう二十代を送るかということは決定的に重要である。ある意味では、十代に開かれた可能性と豊かさをその後の人生で結実させるのが人間の一生であるともいえようし、二十代に歩んだコースが、そのままその人の一生のコースになるともいえる。人間というものは、例外的な人の場合を除いて、十代、二十代の生活をふみこえることは殆んどない。
 希典もまた、その意味で普通人であり、平凡人であった。二十歳で、父親の制約を脱することのできなかったほどに、彼の自我は貧しかったし、三十歳で、軍旗をとられたという自意識と自責の念に異常に苦しめられ、それを解決できなかった。青年時代に貧しく、弱々しい自我しか育てなかった彼は、同時に二十代も遊んでくらしたために、その貧弱な自我の故に、軍旗をとられたという自意識と自責の念にさいなまれつづけ、そこから脱出しようと激しい戦いを自分自身に課することもできなかった。さいなまれる境地を楽しんでいたのではないかとさえ思われる点もある。久留米病院でつくった詩はそれを裏書きしているかのようである。
 こういう希典であったからこそ、弟真人に生きぬく指針を提案できなかったし、過渡期にある明治日本、創成期にある明治陸軍を、陸軍少佐、中佐、大佐時代の彼自身がどのような方向にもっていくかについて、いかなるヴィジョンも意欲ももてなかったのだということになる。
 それを証明するのが、希典のその後の生活であるというといいすぎであろうか。明治十一年一月、歩兵第一連隊長に任ぜられた希典は東京住いとなったが、この頃から彼の酒乱的豪遊が始まった。ほとんど毎晩のように、料亭にいりびたり、酒に酔うと今度は馬鹿踊りをした。それは、その年の八月、妻をめとっても変わらなかった。
 なんと、そういう生活が、明治二十年のドイツ留学まで十年間もつづいたのである。十年間というもの、希典は茶屋酒を飲み、馬鹿酒を飲んで暮らす。軍旗喪失の苦しみが異常であった彼は、その苦しみをいやし、そこから逃れるということでも、また異常であった。そうなると彼は、そういうことを理由に自分の心をあまやかし、自分の心をきずつけて楽しんでいたのかもしれない。自責の念が強いというより、女々しい男というほうがあたっていよう。これほど、意志の弱い、あまったれはいない。そういう人物が、何千名もの部下をあずかっている連隊長をやっていたのだ。
 そのころ、希典の心のなかには、もう一つの秘密……誰にも語れぬ秘密、一種の心理劇が展開されていたのではあるまいか。それは切腹は容易ではないという発見であり、切腹をしようとしても切腹できなかった自分自身の発見である。彼は切腹しようとしたとき、武林唯七たちを思い、吉田松陰を思い、玉木文之進の切腹のことを考えたはずである。実際に切腹するということと、切腹をあれこれ思うということの違いを、このときほどはっきりと認識したことはなかったのではないか。
 希典がほんとうに自殺しようとすれば、いくらでも機会があったはずである。ただ、自殺できなかっただけである。だから、弾丸にあたって死のうとし、断食によって生命を断とうとしたのではないか。しかし、希典は、そういう心の秘密を誰にもあかさず、責任感の権化であるかのように振舞い、自殺のポーズをとった。私はそこに、見栄坊で、小心である希典をみる。
 希典は、そういう自分のいやらしさをとことん、嫌悪したのではないか。その苦しみ、嫌悪感から逃がれようとして、馬鹿酒を飲んだのではあるまいか。こう考えるとき、十年間、酒を飲み、酒で自分を忘れようとした彼の生活も初めて納得がいく。豪遊時代が長く続いた理由もわかろうというものである。

 脱皮と自立への模索
 もちろん、希典も、そういう自分の生活に嫌悪をおぽえて、それから脱出をはかったということはいえる。当時、ベストセラーをつづけていた福沢諭吉(1834〜1901)の『学問のすすめ』に、次のような一節がある。
「古来、日本で討死にし(楠正成のこと)、切腹した者(赤穂義士のこと)を忠臣、義士として尊敬するが、そうした理由をよくよく考えてみると、二人の権力者の戦いに参加したか、主人の敵討のために生命を捨てたものである。それは一見立派にみえるが、世の中のためになっていない。
 主人のためといい、主人に申し訳がないといって、唯生命を捨てさえすればいいというのでは、本当に自分の生命を捨てる所を理解していない者の姿である。それは、主人の使いにいった下男が一両の金をおとし、だんなに申し訳ないといって死んだのと同じである。
 私が思うには、人民の権利を主張し、正しい道理を唱えて政府に迫り、生命を捨てた者こそ、世界中にたいして恥ずることない人物である」
 希典がこの文章を読んだかどうかはわからないが、読んでいたら、前原一誠や弟はおくれた意識と思想をもちながら、まがりなりにも人民や士族の権利を主張し、政府と対決して堂々と死んだ者である。自分はそれに組しなかった卑怯者でしかないという自問自答がおきたろう。軍旗喪失の責任を考えて、切腹しようとする自分自身の愚かさを考えたろう。もし前原や西郷、弟の真人の生き方を肯定せず、福沢諭吉の主張も肯定しないならば、いよいよ、軍旗をとられたということにこだわり、福沢が否定した愚かな死に執着する以外にはない。天皇への申し訳に自殺する、ということに執着しないではいられまい。
 しかも、人間の権利を主張し、政府にせまった西郷軍に軍旗を奪われたということは、希典にとっては最高の恥辱であったろう。恐らく、この思い、この考えが自由民権の演説会に、希典を近づけることになったのではあるまいか。彼は徹底的に自分自身で、前原や西郷や弟の行動と死を考えてみること、自分自身の行動や責任感について、とことん考えなおしてみることを求められた。その行動と死と責任感を自由民権の運動のなかで考えてみることを迫られたのではあるまいか。そして彼自身の脱皮と自立を考えたのではなかろうか。私には、希典が自由民権の演説会に近づいたことに、これ以外の意味を見出すことはできない。密偵のような立場で、出入りしたとは到底考えられないのである。

 義民運動各地で激化
 当時、希典が接近した自由民権の動きは、どのようにして日本に育ち、発展してきたのであろうか。また、その当時、運動はどういう状況にあったのだろうか。まず、明治初年にさかのぼって、農民の動きを中心にみてみよう。というのは、最後的には、自由民権の動きは農民のなかに定着し、農民を中心として農民自身の自己解放の運動に発展していったからである。
 明治維新のとき、農民を中心とする一般大衆は、長い封建制下に苦しんでいたことから強い期待を維新によせた。なかでも、東日本の農民の期待は強かった。彼らは封建制の桎梏から解放されるのではないかという希望をいだいた。
 だから、薩長を中心とする討幕軍に組織的協力というところまではいかなかったが、有形無形の形で声援を送り、できる範囲の援助もした。その代わりに得た年貢半減という言葉を歓喜してうけとめた。だが、まもなく、それが単なる宣伝ということを知ったときの農民の失望と怒りははげしかった。
 おそらく、最初、討幕軍さらに明治政府は、農民の年貢を半減することを真剣に考えたであろう。単に、幕府と農民の間をきりはなす政略であるとばかりはいえなかった。現に、前原一誠などは、明治初年の越後府知事のとき、減税の処置をとっている。しかし、討幕費や国費の収入を、主として農民にたよるしか知らなかった明治政府は、農民の税を軽くすることなどできないと次第に知りはじめた。そこで、急拠、その政策を変更したというのが、真相に近かったであろう。というのは、明治六年当時でさえ、税金の93%は農民の年貢米であり、代金納年貢でしかなかったのである。この頃まで、士・工・商にはなんらの課税もなかった。これでは、全く、封建制下の税制とちっとも変りがない。しかも明治政権下では、国費の支出は増えこそすれ、少しも減らない。農民が明治政府に失望し、怒ったのは当然であった。とくに、その不満は、奥・羽・越、および旧幕府領であった土地で強かった。こうして、明治元年から二、三年にかけて、飛騨高山をはじめとして、各地に農民一揆が頻発した。
 明治三年、信州松代におこった一揆は、終に知事との直接交渉にもちこみ、その要求を知事にのませるほどにすさまじいものであった。だが明治政府は、知事の約束を破棄したばかりか、その中心になった農民三百余人を斬首、徒刑にした。当時の農民と政府との紛争がいかに激しかったかを物語る。
 四民平等、言論の自由を旗じるしに出発した明治政府であるが、現実のきびしさに遭遇して彼らのなかにある古さ、不徹底が、ここにきて、対農民の弾圧という姿をとってあらわれたのである。しかも、不平士族の生活安定を十分にはからなかったように、ここでも農民の生活の安定をはかるという姿勢を少しもとらなかった。そこに、政策的なまずさも重なって、政府と農民は、明治初年から早くも対立するのである。加えて明治四年になると、部落民制度の廃止、明治五年には徴兵令の発布、明治六年には地租改正と、明治政府は次々と新しい方針をうちだしていった。
 とくに、地租改正は少しも農民の利益とならなかったばかりか、重税にさえなった。そのために、農民は再び一揆によって政府に対抗しはじめた。明治四年から七年の四年間に、九十件の農民一揆がおこったということは、農民の反対がいかに強かったか、農民の生活がいかに苦しかったかを証明する。
 だが、当時の農民は、税の軽減のために、果敢に政府に対決したが、同時に、部落民制度の廃止反対とか、徴兵令の拒否ということもかかげていた。それは、農民の視野が農民エゴイズムの立場から一歩もぬけでていないことをしめした。不平士族や攘夷士族と同じように、明治政府の考えかたよりも、保守的で反動的な側面をももっていた。それが、一揆農民の要求が全国的農民の要求に発展せず、国民の支持を広くえられなかった原因でもあろう。そこに、明治政府によって各個撃破される運命があった。

 国会開設運動おこる
しかし、農民たちは、不平士族、攘夷士族のように愚かでもなく、頑固でもなかった。彼らは一揆による反抗が滅多に成功しないことに気づき始めた。農民の発言を政府に反映するように努力すること、農民の社会的地位をたかめることが重要であることを次第に理解しはじめた。彼らが、明治七年頃から新しくおこった自由民権の動きを支持し、終にはその運動の母体になるまでに成長したのも、そういう理解と認識からである。そのとき、彼らのなかには、もう部落民制度廃止の反対とか徴兵制の反対という古い意識はなくなっていた。
 だから、最初は、先進的な士族を中心におこった自由民権の動きも、こういう農民を人間の自由、平等にめざめさせ、その動きを開明的に発展的にすることで強化されたのである。その意味で、明治七年一月、板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平、由利公正、岡本建三郎たちが、政府に、民撰議院設立の建白をだしたことは画期的なことであった。それによって初めて、国民の不満を政府の政策に反映しようという動きがでてきたのである。国民に参政権への道がきりひらかれたのである。
 彼らは、政府に建白書を出す一方、国民にむかって広く訴えはじめた。
「臣等伏して方今政権の帰する所を察するに、上帝室に在らず、下人民に在らず、しかして独り有司に帰す。それ有司、上帝室を尊ぶと言わざるには非ず、しかして帝室ようやくその繁栄を失う。下人民を保つと言わざるには非ず、しかして政令百端朝出暮改、政刑情実に成り、賞罰愛憎に出ず。言路壅蔽、困苦告ぐるなし。……臣等愛国の情おのずからやむ能わず。即ちこれを振救するの道を講求するに、ただ天下の公議を張るにあり。天下の公議を張るは民撰議院を立つるに在るのみ」
 板垣(1837〜1919)は、それと同時に、愛国公党を結成し、党の主旨を、
「天のこの民を生ずるや、民に付与するに一定動かすべからざるの通義権理を以てす。この通義権理なるものは、天の均しく以て人民に賜う所のものにして、人力の以て移奪するを得ざるものなり」と宣言した。
 建白書をだした由利公正は横井小楠に、岡本建三郎は坂本竜馬にかつて指導された人物であり、板垣退助と後藤象二郎もともに坂本の影響下にあった人物である。彼らは、おくればせながらも、明治七年になって、やっと横井、坂本の中心思想の具体化にむかって大きく一歩をふみだしたのである。
 そして、一度民撰議院設立論が公になると、堰をきったように人々は、この論議に集中した。あたかも、幕末に攘夷と開国、佐幕と討幕をめぐって活発な議論が闘わされたように、民撰議院論をめぐって論議は白熱化した。しかも、それは、幕末と比較にならないほどに、国民的なひろがりをもったのである。農民や町人を、ひろく深くまきこんだのである。
 すなわち、高知では、片岡健吉(1843〜1903)を中心に立志社がおこり、青年の教育にあたるとともに、士族の自力救済にも乗りだした。立志社規則第一条には「人民の知識を開達し、気風を養成し、福祉を上進し、自由を進捗するものとす」と述べている。この立志社の設立と相前後して、徳島には小室信夫を中心にして自助社ができた。そして、立志社、自助社に影響されて、各地に次々と思想結社、政治結社が誕生していった。
 明治政府は、こうした動きに対して、明治七年七月二十八日に早くも新聞紙条例を、九月三日に出版条例を改正して、言論、出版に対する取締りを強化した。こうして、明治政府は終に言論の自由を公然と捨てたのである。そのために、単行本なども、従来は文部省に出版後届出たらよかったのが、前もって内務省の検閲をうけねば出版できないようになった。だがそのような状況のなかにあって、明治七年、八年、九年と、毎年二十数紙の新聞が創刊されている。いかに、民論、言論が強くわきおこったかを示している。
 明治八年二月になると、全国の自由民権論者を一つに統一するために、愛国社が設立された。だが、このときはまだ、西日本を中心とする域を出なかった。東日本の各地から参加するようになったのは、明治十二年頃からである。そのとき初めて、自由民権の動きも全国的規模になる。しかも、全国的規模になったというばかりでなく、各村々に深く浸透していったのである。農民のなかにはいりはじめたのである。演説会などもたえず開かれるようになった。
 千葉県の村会議員桜井静が、全国の府会議員、県会議員に、国会開設を闘いとろうと呼びかけたのが明治十二年七月。早速、茨城県会、岡山県会などがその声に呼応して活動を開始する。
 明治十三年三月の愛国社第四回大会には、約十万人の国会開設の請願署名を集めて、代表者が大阪に集まり、そこで、国会期成同盟を発足させ、片岡健吉と河野広中(1849〜1923)は、その代表として政府にくいさがった。

 希典と自由民権運動
 明治政府は、これらの動きに対して、明治十三年四月五日、集会条例を定め、積極的にその運動を抑圧する姿勢に出た。政治に関する集会に陸海軍の軍人が出席し、参加するのを禁止したのも、この条例によってである。希典は、東京大学の講師をしていた金子堅太郎と一緒に、さかんに演説会に顔を出していた。が、この集会条例がでると、演説会に出入りすることをやめた。希典としては、むしろこういう条例を出した明治政府に疑問ぐらいはもったに違いない。自由民権の主張を恐れないなら、その会合に出席することを政府は恐れないはずである。だが、政府は軍人がその主張に影響されることを恐れて禁止したと、希典は考えたに違いない。それは自由民権の主張にきくべきものがあることを、政府自身が認めたのと同じである。
 だが、希典は、演説会に出席することをやめた。そのことで、彼の中心問題であり、彼自身が解決しなければならないはずの、前原、西郷の乱を考えなおし、軍旗喪失を中心とする自分自身の生き方を考えてみることを中止してしまったのである。
 集会条例の出た時点こそ、希典がとことん悩み、考えて、今迄の彼自身をのりこえる逞しい自我、思想的にも自立しうる自我を確立すべき好機であったが、そのチャンスを放棄してしまった。かつて若き日に、学問を志しながら、父親の反対でそれをあきらめたが、政府の圧力にあって、その学問に今一度かえっていく好機を簡単に彼は捨てたのである。
 考えれば考えるほど、希典という人間はあまりに弱く、逞しい精神と意欲を欠いていた。彼には、明治十三年の政令に疑問をもちながら、西郷、前原の道を否定し、福沢の思想にも、眼をつむって黙殺した。そうなると、彼は、自分自身を捨てて、自分自身を空しゅうして、ただひとすじに天皇への随順、天皇への忠誠に生きていく以外にはあるまい。軍旗喪失に思い悩む彼にかえるしかない。自分の外にある権威、自分の外にある真理、思想に随順して生きる以外になくなる。いいかえれば、自分の真理、思想に生きるのでなくて、自分の外にある真理、思想に我が身をゆだねて生きるしかない。
 それは小心で弱い人間、自我の少ない人間が辿る人生コースである。
 こうして、明治政府の弾圧は、希典をはじめ多くの人を動揺させ、ひるませた。金子堅太郎もまたその一人であったことはいうまでもない。師に恵まれなかった希典は、友人にも恵まれなかったということができよう。
 だが、希典や堅太郎をのりこえて、自由民権運動はいよいよ強まり、広がっていった。弾圧は、その動きを燃えあがらせる結果にしかならなかった。

 秩父事件鎮圧に出動
 明治十三年十一月には、国会期成同盟第二回大会が東京に開かれ、国民の声はますます燃えあがっていった。
 たまりかねた明治政府は、明治十四年三月、司法、行政にも権限のある憲兵隊を創設してこれに対抗する行動に出たのである。
 植木枝盛は、こういう政府の暴挙を前にして、終に、「政府国憲に違背するときは日本人民は、之に従わざることを得」「政府官吏圧制を為するときは日本人民は之を排斥するを得。政府威力を以て擅恣暴虐を逞うするときは、日本人民は兵器を以て之に抗することを得」という憲法草案までつくった。
 とうとう明治政府は、国民のもりあがる国会開設要求をはぐらかすために、明治十四年十月十二日に、明治二十三年には国会開設をするという詔勅を出すしかなかったのである。これほど国民を愚弄したものはなかったが、先頭にたって活動していた者はそのために呆然自失し、国民の多くも、急速度にその声を静めていった。完全に政府の勝利である。しかも他方では、愛国公党から自由党に発展し、運動が最ももりあがった段階で、自由党党首板垣は政府に買収されて外国にいってしまい、運動は腰くだけになってしまったのである。明治政府は、さらに追いうちをかけるように、次には自由党左派に対して徹底的な弾圧をくりかえしていった。
 福島事件(明治十五年)、群馬事件(明治十六年)、加波山事件、秩父事件(明治十七年)はこうしておこったものである。このとき、自由党左派を支える人たちは農民であり、農民自身がその中心的勢力になっていた。だから加波山事件、秩父事件などは、農民自身が専制政府打倒、減税の要求をかかげて立ちあがった。
 当時、東京鎮台参謀長であった希典の指揮下の軍隊が、秩父事件の鎮圧に出動した。かつて自由民権の演説会に出入りした希典が、軍の首脳の命令とはいえ、鎮圧にのりだしたのである。このときの希典は、秩父事件をどのようにうけとめ、どのように考えたのであろうか。
 前原や西郷は、士族の権利を主張し、その安定を要求して明治政府と対決した。今、農民は農民の権利と生活の安定のために、明治政府と対決している。自由民権の会合に出席した希典なら、その意味が理解できたはずである。しかも、農民出身が大多数である軍隊が農民鎮圧にでかけるのである。とすれば、その矛盾を強く心に感じないわけはない。それでいて、彼は、その矛盾を誰にも語らない。誰とも語りあうことがない。恐らく、この頃の希典には、軍旗喪失の責任以上に、それとは比較にならないほどに、こういう問題が彼を苦しめていたに違いない。その悩みと怒りが彼を酒にかりたてていたともいえる。さらに軍人の立場になって身動きのできない自分、弱く小心な自分への嫌悪が酒にかりたてていたともいえる。

 妻の条件は鹿児島女性
 この間、希典が結婚したというのも理解できないことである。すでに、三十歳になっていたとはいえ、心のなかには、何一つ解決できないでいる問題、苦悶に近い問題をかかえこみ、酒のなかで、わずかにその苦しみを忘れることのできた彼が結婚したということは、全く無責任である。それに、妻の条件として、「長州の女性はいやだが、鹿児島の女ならばいい」といったというのも、彼の気持をいよいよ理解しにくいものにする。また、他方では、「母の気にいる女性であれば誰でもいい」といったともいう。このときには、父希次は死んでおり(明治九年)、母一人だから、母への孝養を考えてのことかもしれないが、「鹿児島の女性であればいい」といったのはどういう意味であろうか。
 元来、鹿児島というところは、昔から男尊女卑の習慣が甚だしく、妻は夫に対して絶対服従を強いられるところでもあった。希典は、そういう女性を妻に求めようとしたのであろうか。希典と静子が結婚したのは、西郷の乱の翌年の明治十一年八月であるが、彼は、鹿児島の女性を求めた彼の主旨がそうであったかのように、自分を絶対化し、妻には無条件服従を求めた。自然、夫婦の間はうちとけることもなかった。主人と下女の関係では、うちとけようもない。

 初夜に花嫁を放置
 二人の関係は、新婚第一夜に、花嫁を放置して一晩中自分だけ酒を飲んでいたという無神経と無責任にすべてがあらわれている。もちろん、結婚しても料亭にいりびたり、大酒を飲むことは少しもやまない。そればかりか、希典には、金銭を賤しみ、軍人には金はいらないといって、一銭も残さずに使ってしまうことをよしとする信条さえあった。それは、父希次の姿勢をうけついだものである。当然、静子は苦労する。そのしわよせが、皆家庭をきりもりする静子にいくからだ。
 当時二十歳の彼女は、常に憂鬱そうな顔をして笑顔一つ見せない希典を夫として、どのように遇したらよいかおそらく迷ったに違いない。面白くなさそうな顔をしていても、その理由は何一つ語ってくれない夫。それでいて、ああしちゃいけない、こうしちゃいけないという小言だけは始終する夫。さすが忍耐強い静子も、ときに深い不満と強い怒りを感ずることもあったろう。
 さらに悪いことには、希典が母のいうことはよくきいても、滅多に静子のいうことはきかないことであった。年老いた姑に希典が親切であることはいいことだと思っても、静子には、なんとなく不満であった。姑と静子との間もうまくいかなかった。彼以上に、うちとけて親身になって話すこともない。それに、静子という女性は、よほど気性のはげしい、自分というものをもっていた人のようである。
 それもそのはず、静子は結婚するまで英語学校に通って勉強していたし、家庭では絵の勉強をしていたほどの女性であった。二人の兄は、ともにアメリカ留学を長くつづけていた。その意味では、静子は新しい女性として、女性の地位にめざめ、自我の確立に真剣にとりくんでいた女であったともいえる。自然、気性が激しかったのも当然である。その点、希典の結婚は失敗であった。小心で、自我がほとんど確立していない希典に、気性の激しい自我のある静子の取りあわせは不幸にきまっている。希典が、小さなことにもくどくどと小言をいうのは、彼女への劣等感のうらがえしだったかもしれない。
 そういう夫婦関係のなかで、明治十二年、長男勝典、明治十四年には次男保典が生まれている。だが、希典の生活は相変わらずで、酒におぼれる毎日であった。明治十三年には、陸軍大佐に昇進しているが、それでも荒れた生活は変わらなかった。

 妻・静子の別居事件
 そんなある日、ふとしたことから姑と静子は正面衝突し、静子は二人の子供をつれて別居した。衝突の理由は明らかでないが、彼女が別居するほどの決心をしたことを思えば、その衝突がよほど激しかったのか、あるいはその衝突をきっかけにして、長い間の不満が一度にふきだしたかのいずれかである。しかしいずれにしても、姑に対し、夫に対し、静子の怒りと不満は相当なものであったことがわかる。
 別居を希典に相談したとき、彼は「お母様さえよければ」といったという。なんという冷たい返事であろうか。母は、そのために、一時真剣に、彼と彼女の離婚を考えたほどである。同居している母にさえ、彼の彼女に対する愛情はないとみえたのである。事実、彼が彼女を愛したという証明はどこにもない。今では、せいぜい彼の心を類推するだけであるが。
 静子の別居はどのくらいつづいたか明らかでないが、初め彼女が居を定めたところは全くひどいところであったらしく、静子の兄がみるにみかねて、転居させている。もちろん、その金が、酒のみの希典から出るわけはなかった。別居中、彼は機会をみて訪ねているが、一度も泊まったことはないし、また、一度も軍服をぬいで談笑したこともなかったという。
 こういう愛情の表現しかできない男であったともいえるが、それにしても、女性の心理、女性の心情に対する理解をいちじるしく欠いている。そして、自分の考え、自分の思いをただ妻におしつけるにとどまっている。静子が、別居の淋しさにたまりかね、家にかえろうとして希典に相談したとき、彼の口から出たのは、「お母様さえよければ」という言葉であって、別に喜ぶでもなく、おこるでもなかった。そのとき静子は、恐らく、自分の感情、自分の心を殺すことによって、少しばかりの幸福をかちとろう、少しばかりの満足を得ようと決心したに違いない。我が心に生き、我が感情に忠実に生きることが、人生の最上の喜びであり、幸福であると考える新しい女の立場を捨てたのである。
 それは、静子にとって希典以上の苦痛であり、希典以上の逃避であった。だが、それによって、苦痛と逃避のなかに生きる一組の夫婦が誕生したともいえよう。その意味では、理解しあい、慰めあえる夫婦となったのである。まったく奇妙な夫婦が誕生したものである。もしも彼が、明治十三年、十四年の当時、自我の確立に生命を賭して取りくみ、自分の心に全身で生きることができるようになっていたら、軍人の地位は失ったかもしれないが、その代わりに、妻静子を生き生きとした女性によみがえらせ、その妻の心と協力を得たはずである。少なくとも充実した人生が始まったはずである。
 そこから、人民の自由と権利だけでなく、女性の自由と権利までも理解でき、その拡充と確立に取りくむ夫婦にまで成長できたかもしれない。だが、残念なことには、希典はその道を選ばず、人間としても、夫としても、内容貧しい生活を送ることになる。その貧しさは、いよいよ大きくなっていくことを次にみていこう。

 

               <代表的明治人 目次>  

 

   四 変貌

 ドイツ留学時代
 明治十八年五月、希典は、陸軍少将になり、熊本の歩兵第十一旅団長に任ぜられた。彼が三十七歳のときである。男ざかりで、仕事にうちこむ年齢であった。
 自分の感情を殺し、自分の心を捨てることを信条とした静子と姑の間は、形式的表面的にはうまくいっていたから、相変わらず酒におぼれていた希典のことを除けば、家庭は平穏であった。しかし、彼には、なんといっても思い出多い熊本の地である。軍旗にからむいろいろのことを考えると、その心はやすまらなかったであろう。
 数多くの乃木伝記には、この頃から酒をやめたと書いているものと、ドイツ留学後酒をやめ、謹厳そのものになったというのと二説あるが、私には、彼のように意志が弱く、自分自身におぼれるものには、どうしてもこの頃、酒をやめたとは思えない。まして、その心がうずく熊本の地である。飲みすぎることがあっても、量が少なくなることは考えられない。明治十三年から十四年にかけて、たびたび自由民権の演説会に出席しながら立ちなおることのできなかった彼である。
 ただ、酒におぽれる生活も八年もつづけば、今度は酒におぼれている自分自身の弱さにつくづく嫌になるということはあろう。体力的にもそろそろ無理がきかない年齢であるし、旅団長という地位への自覚もあろう。機会があれば、酒におぽれる生活だけはやめたいと思いはじめていただろう。だからといって、酒豪でとおってきた希典である。体裁屋の彼には、酒をやめて謹厳ぶることはできない。部下将兵の手前、気恥ずかしいと思うであろう。
 その意味では、希典は、今までの生活から脱出する機会をねらっていたかもしれない。そういう彼に、ドイツ留学は好機会であった。陸軍首脳も彼にその機会をあたえようとして、留学させたのかもしれない。
 ドイツに留学を命ぜられたのが、明治十九年十一月。同行者は、同じ陸軍少将川上操六である。川上少将というのは嘉永元年鹿児島に生まれ、戊辰戦争に参加して功をたてたが、明治四年には陸軍中尉。希典より、一年早く生まれているが、初任は中尉である。だが、明治十年にはもう陸軍少佐となり、西郷の乱にその指揮能力を発揮し、十七年陸軍大佐、十八年五月には、希典と一緒に陸軍少将になり、参謀本部次長となった男である。そして、十九年には近衛第二旅団長となり、明らかに彼を追いぬいている。その間、陸軍大佐桂太郎とともに山県有朋陸軍卿に随行して、欧州各国の兵制を視察したこともある。
 桂太郎といえば、すでに述べたように希典より二歳年長。戊辰戦争に参加したが、その後、病気と称して山口にかえり、一学究徒としてドイツに留学して兵制の研究をしたほどに意欲的な男である。明治六年帰国、七年に陸軍大尉、十五年陸軍大佐、十八年五月には、川上、乃木と一緒に陸軍少将に任ぜられ、陸軍省総務局長になった。総務局長は後の陸軍次官である。

 モルトケに戦略・戦術を学ぶ
 負けず嫌いの希典は、川上、桂に追いぬかれたことに、心中おだやかではなかったかもしれないが、酒におぼれてその日ぐらしをしていた八年間の空白、さらにそれ以前の六年間の遊蕩生活を痛切に後悔したことはたしかであろう。とすれば、ドてツ留学を機会になんとか立ちなおりたい、と強く自戒したことであろう。
 一説には、陸軍首脳が、彼の留学を機会に、田中を軍政に、川上を参謀部に、乃木を教育に配置し、陸軍の充実をはかろうとしたという説もある。果たして、真相はどうかわらない。もし、真実とすれば、軍旗の問題、それにからむ責任感の問題を大いに買い、活用しようとしたといえる。しかし同時に、次のような一説もある。
 川上少将とともに、ドイツの参謀総長モルトケについて、戦略・戦術を学ぶには、全く不適当であるが、薩摩の川上に対して、長州からも誰かを送る必要がある。他に適当の人材がなかったので、希典を派遣したというのである。私としては、希典の報告書の冒頭に、「先に我が陸軍の編成改革に着手して以来、漸次その緒につく。なお、その統轄及び教育の方法等益々完備を要するため」という言葉があるから、むしろ前説に近いものがあったのではないかと考える。とにかく、希典と川上はドイツにむかって出発した。明治二十年一月のことである。そして、陸軍砲兵大尉楠瀬幸彦が同行した。楠瀬は後に陸軍大臣になった男で、士官学校の第二期生。大陸戦にそなえての派遣と思われる。すでにこのとき、陸軍砲兵大尉伊地知幸介(日露戦争のときの希典の参謀長)もドイツに留学していて、希典と懇意になっている。
 一行は、横浜から、上海、香港、シンガポール、コロンボを経て、スエズ運河を通ってイタリアに上陸。そこからドイツの首都ベルリンに着いた。当時のドイツは、1871年(明治四年)にドイツ帝国を建設以来、ウィルヘルム一世の下に、ビスマルク、モルトケを中心に、世界の人々が眼をみはるような発展をとげていた国である。そのビスマルクには、大久保利通が、次には伊藤博文が非常な尊敬を払ったばかりか、二人とも、日本のビスマルクを志したほどの心酔ぶりであった。
 希典と川上は、今一人のモルトケ(当時八十八歳)に親しく教えをうけるということに感動した。三十九歳の希典と四十歳の川上は老成していたとはいえ、青年将校のような心理状態にあった。大久保と伊藤がビスマルクに最大限に学んだとすれば、自分たちも、モルトケから十二分に吸収してみせるという自信と誇りと責任感をもったとしても不思議ではない。
 希典と川上は、老将軍モルトケに「私達の目的は戦術の研究であります。その便宜をはかっていただきたい」と申し入れた。ドイツ語を十分に理解しない、むしろフランス語の方が上手であるらしい日本軍人の申し出をきいて、モルトケとしてもうれしくなる。それは、ドイツ陸軍を評価してくれたことでもあった。モルトケは、快く承知して、フランス語のできるデュフェーという陸軍大尉をえらび、二人の宿舎で戦略・戦術を教授するように命じた。
 二人には、デュフェーから、午前中は一般戦術・初等戦術などの講義をきき、午後は彼の質問に筆記で解答するという毎日がつづいた。それがすむと、べルリン郊外での現地講話をきくとともに、兵営、学校の見学から、各兵科の検閲や演習なども調査した。
 また、デュフェー大尉の家にゆき、その母とも親しく接する一方、機会をとらえて、なるべく多くの軍人に交わり、ドイツ陸軍の本当の姿を知ろうとつとめた。当時、希典が日本の友人にあてた手紙には、
「異国には、日本にいて想像するのと違って、よりよきことあり、またつまらぬこともあり。多くは嘆息することのみ。外国人は、皆々大開化と思いの外、このドイツなどには、チョンマゲがないだけで、なかなかの頑固者と攘夷家と勤王家が多い」と書いている。希典としては、自分の仲間が多いと喜んだのかもしれない。

 軍人勅諭への絶対随順
 明治二十二年六月、希典と川上は帰国した。帰国した希典は、歩兵第十一旅団長の職にもどったが、ドイツ留学の成果をふまえて、陸軍大臣大山巌に意見書を提出した。まず、希典は、戦術とは何かを説き、その基礎となる操典が必要であると次のようにいう。
「抑も、戦術とは何ぞや。一軍人の威厳を正しくして一歩の前進を為すに始まり、終に敵国の非望を断念せしむるに至るものにして、学芸、器材の如きは、皆其の補助をなすにすぎざるなり。即ち一国全軍に行う歩兵の操典なるものは、其の国戦術の基礎なり。決して軽視すべきにあらざるなり。……
 外国の軍事を推究するも、また此より出ず。我が国戦術の基礎を明らかにせずして、その枝葉、花実に異ならざる外国軍の編成、器械、材料のことに拘執、眩惑するは、迷誤の尤も甚しきものなり。故に、まず、其の国軍事の根本たる戦術の基礎を確定、強固にして、これが培養、成育をはかるに於て、初めて軍紀なるものの必要も知るを得べし。経済もこれに依て生じ、戦略もこれに依て立ち、人材の任用もこれに依て其の職務に応ずるの適否を撰択するを得べし。況んや、敵の長をとり、我が短を捨つるというが如きに至ては、尤も我が国基礎の確実、強固を成すにあらざれば、事皆無益に労し、無用に費すの徒事にすぎざるなり。戦術の基礎は一国軍制の大本たること斯くの如し。……
 彼の国近衛軍団の演習を実見するに当り、その機動の自在にして、彼此障碍なく、給義の普及齟齬なく、審判批評の明確にして遅疑せざる、皆其の原理の一途に出で、其の国戦術の任すべからざる標準ありて、然るの所以を了解するを得たり」
 希典の考えた操典というのは、日本陸軍の基本精神と基本動作を明らかにしたようなものを指していたようである。
 ついで、彼は、
「欧州各国に於ける徳義の教育の如きは、彼の宗教、最もあずかって力あること、今日少しく欧米の事を研究せし者は皆了知する処なり。然るに、我が国の仏教の如きは、目下殆んど何の用もなす処なく、我が軍人がその心神を依托する所は、唯我が皇統万世なる今上陛下の威徳を戴き、明治十五年一月四日賜わる処の勅諭の聖意を服膺し、且つ累世の臣民たる武士が忠義を重んずる父祖の家訓を守れば可なり」
 と書く。そして、
「我が陸軍の大元帥たる天皇陛下の威武、仁徳を軍隊に拡充し、上下軍人に忠君愛国の念を固うし、名誉を貴ぶの心を奨励し、これを全国臣民に普及し、尚武、名誉の志操を発達せしむるに非れば、我が帝国の制度に適せざる米英諸国の悪風俗は、日に月に侵入して已む時なからん」とも書くのである。
 ここで、彼ははっきりと米・英の自由主義、個人主義、共和思想を悪風俗として否定し、軍人勅諭こそ、軍人ばかりでなく、日本国民のよるべき規範であると断言する。自由民権思想にはっきりと訣別する。自我の拡充と確立を拒否し、自分自身を殺して、軍人勅諭に絶対随順する立場をとる。自分の外にある真理、思想をただ実践し、奉公する立場に立つ。それは、彼が、
「ドイツ国軍人が能く自ら名誉を愛重するの一例をあぐれば、将校等が居常必ずその制服を脱せざるに於ても見るべし。軍人の制服は唯勤務、儀式の用のみに非ず。常に、この名誉の制服を着するを以て、その挙止、動作、礼節の如きも、一に軍紀の範囲を脱する事なし。又脱することを得べからざるなり。……
 軍人の制服は即ち名誉の制服なり。……
 彼が名誉の制服を着するに於て、彼の国にては、旅館、茶屋、割烹店の如きも、将校等の出入する所といえば、その家屋は鄙賤、醜猥に非るを証するに足るの習慣あり。……
 我が国、上流、高等にある武官にして、浴衣、寝衣を以て公事を部下に談じ、訓戒、遣責も行うが如き、または鄙猥、賤業の家屋に出入して憚らざるが如き、共に礼節、徳義を放棄する者なり。制服の貴きを忘れ、その名誉の表章たるを思わず、これを着して豪然鄙猥、賤業の家屋に出入する者の如きは、また、その甚しきを加うるというべし」と書いて、制服までを絶対化し、名誉あるものとみなしたとき、彼の思想は完全に規範主義、形式主義そのものになった。それは、軍人勅諭であり、忠義であり、軍紀であり、制服である。それらがあれば、他にはもう何もいらないという立場である。だからこそ、彼は、そう書いた後に、
「下級後進の将校にして、広く自ら外国新奇の事を知るをつとめ、漫りにその利害、得失を評価するも、何ぞその益する処あらんや。唯に、その益する処なきのみならず、己が本分の任務を遂達するため、我が陸軍に於ける法令、規則を詳かにし、之を実務に照らして研究するに、日もまた足らざるべし。一般の将校にして知るを要するの事項は、上にその人ありて、部下を教育するに怠らざるに於ては下級後進の将校は、専ら安んじて己が本分の職任を尽すをつとめて可なるのみ。……
 少壮有為の将校に外国無益の書を講読し、遂に我が軍事を品評、謗議するに至らしめば、上自らその本分を失えるの甚しきものならずや。……宜しく、現職、実務の挙否を専らに督責して余暇なきに至らしめ、紙上の筆記、坐上の談論に属する虚学を以て、人を任用せざる方針を示せば、何ぞまた無益の労を費し、有害の書を購読するの暇あるを得べけんや」という言葉で結ぶのである。

 軍紀・制服の価値
 もはや、希典には、いろいろの書物を読み、考え、論争することが、有害無益としか見えない。無益の労力を払っているとしか見えない。勅諭、忠義、軍紀、制服の意味と価値を知るために、またそのより深い意味を発見し、より高い価値を与えていくためには、一見それらと無関係に見える書物をいろいろと読み、考えてみることが決定的に必要だということを理解できない。理解しようとしない。それこそ、彼の立場からすれば、勅諭も、忠義も、軍紀、制服もだんだんと内容が乏しくなり、形式的になっていくしかないということが理解されない。こうして、希典の思想と生活は次第に貧しいものになっていく。
 希典のように、いろいろな書物を読んでいくことによって思想的に自立する道、自我を確立していく道を歩まなかった者が、勅諭、忠義、軍紀、制服を絶対的なものとして信念化していく立場に到達したのは当然であった。その意味では、観念的で、制服や形式を異常に好むドイツ人、とくにドイツ軍人のなかに一年有余いたということは、彼が彼の思想と立場を固定化し、信念化する上に、大変幸いしたということができよう。実際は、不幸であり、悲劇であったのだが。
 もちろんそこには、当時、陸軍部内に、長州、薩摩出身の者に対して、長州、薩摩出身以外の者が、彼らに対抗するために学術派という一派をつくり、大いに論議していたことも原因していよう。そこで希典は、長州出身者として、大いに藩閥の恩恵をうけているものとして、学術派の傾向を批判したということも、あるいはいえるかもしれない。
 だが、こういう思想的立場、教育的立場におかれて育った下級将校が本当に思想的に自立できると考えたのであろうか。そういう思想的環境のなかに育った下級将校が将来上級将校になったときに、下級将校をいかなる思想をもって、いかに教育できると考えたのであろうか。
 勅諭を、忠義を、軍紀を、ただ単にオームのように機械的に暗誦し、繰り返すことしかできない軍人、精神と思想にうらうちされない空虚な言葉がでてくるにすぎない軍人が、結果的につくられていくということを知らなかったのであろうか。連戦連勝をしている間はごまかしがきくが、個の確立していない集団は、一度負け戦さになると全くの烏合の衆になるということを知らなかったのであろうか。
 大山陸軍大臣が希典のこういう意見書をどのように評価したかは明らかでない。それはともかくとして、希典は全く一変して、謹厳そのものになってドイツから帰国した。今迄の彼を知っている者には、想像もできないほどの変わりようであった。

 ドイツに学ぶ真の意義
 だが、一人、希典の生活と思想が貧しくなったわけではない。彼と並行して、その頃の日本もだんだんとその内容を貧しいものにしていた。
 すなわち、明治十四年十月、国会を十年後に開設するといった明治政府は、いやおうなくその準備にとりかかることを迫られた。その第一段階として、伊藤博文が明治十五年三月、憲法調査のためにドイツにむかって出発した。
 伊藤は何故にドイツを選んだのか。このときには、すでに木戸、大久保は死んでいないが、幕末以来、木戸、大久保、伊藤が最も深く密着し、その指導と協力をえてきたのは、イギリスとアメリカであったが、なぜ、イギリス、アメリカの憲法を学ばないで、ドイツを選んだのか。
 アメリカは、1776年、イギリスに対して独立宣言を発し、血みどろの戦いのなかから独立した共和国であり、新興国である。その独立宣言には、「われわれは、つぎの原理を自明のものと認める。すべての人は平等に創られていること。彼らはその創造者によって一定の譲ることのできない権利を与えられていること。それらのなかには、生命、自由および幸福の追求が数えられていること。そして、これらの権利を確保するために人々の間に政府が設けられ、その正当な権力は被治者の同意に基づくこと。どんな形態の政府でも、この目的に有害なものとなれば、それを変更または廃止して新しい政府を設け、その基礎となる原理、その組織する権力の形態が、彼らの安全と幸福とをもたらすに最もふさわしいと思われるようにすることは、人民の権利であること」と書かれている。当然、1787年にできたアメリカ憲法は、その主旨にそってできたものである。
 横井小楠をもう一度ひきあいに出すが、彼はこのアメリカを非常に高く評価していた。日本のお手本はアメリカの建国の精神であると考えていた。しかし、伊藤は、そのアメリカを素通りしたばかりか、イギリスまでも相手にしなかった。小楠がアメリカの次に評価したイギリスを無視して、アメリカ、イギリスよりずっと後進国であるドイツに学ぼうとした。
 イギリスは、1688年以来、すでに絶対主義王制のゆきづまりを感じ、立憲王制をとりいれた国であるが、ドイツといえば、日本の明治維新におくれること三年、1871年に初めてドイツ帝国として発足した国である。
 だが、明治五年、ドイツの首相ビスマルクに会った伊藤は、先輩大久保とともに、深く彼に魅せられた。大久保は、そのとき「英、米、仏は開花登ること数層にして、及ばざること万々歳なり。よって、独、露の国には必ず標準たるべきこと多からん」といって、日本のゆくべき道はドイツであり、自分が学ぶのはビスマルクであると思ったが、伊藤もそのとき大久保にならって、ビスマルクを手本にしようと心ひそかに決意したのかもしれない。
 加えて、明治六年以来の自由民権のたかまりに、明治政府の責任者として悩まされつづけてきた彼には、大久保のように、英・米・仏を「開花登ること数層」と無条件に賛美できなくなったばかりか、むしろ、米・英・仏の思想を敵視するようになっていたのである。
 明治十五年八月、ドイツから、岩倉具視にあてた手紙にも、「実に英・米・仏の自由過激論者の著述のみを金科玉条のごとく過信し、ほとんど国家を傾けんとするの勢いは、今日わが国の現情に御座候えども、これを挽回するの道理と手段とを得候」と書いているように、伊藤は自由民権論者と対決できる理論と手段をドイツに求め、それを発見したのである。これでは、アメリカ、イギリスにゆけるはずはない。
 伊藤は吉田松陰から自由平等思想を継承し、明治初年にはその生涯で最も思想的昂揚を遂げるが、明治五年、ビスマルクに会ったのをきっかけにその思想は冷却しはじめ、彼の地位の上昇と反比例して、いよいよ冷却し、明治十八年、内閣総理大臣という最高の地位についたとき、伊藤のなかから完全に消滅した。もちろん、彼には、人間の自由と平等を理解できる頭脳はあったが、だんだんと絶対主義者、国権主義者に変貌していったのである。

 明治憲法は玉か瓦か
 明治憲法は、そういう伊藤によって準備され、つくられた。そして、明治二十二年二月十一日、明治天皇は、自ら伊藤のつくった憲法を欽定憲法として、天皇自身が定めたものとして宣布した。しかも、天皇自ら、その地位と権力を絶対的なものとして宣言した。それは、そのまま、国民の権利をわずかしか認めないという宣言でもあった。しかも、これを固定化してしまい、国民の側からは憲法を変えることを不可能にしてしまった。
 明治憲法ができるまでは、国民の自由と平等は時代の推移のなかで拡大し、発展させる可能性をもっていたが、その可能性がなくなったのである。明治憲法はそういう憲法であった。だが、国民の大多数は憲法発布を欣喜雀躍してむかえた。たまりかねて、中江兆民(1847〜1901)は「吾人賜与せらるるの憲法果して如何の物か。玉かはた瓦か。いまだその実を見るに及ばずして、まずその名に酔う。わが国民の愚にして狂なる、何ぞかくの如くなるや」といった。
 明治日本の悲劇はここに始まったということができる。
 果たしてこれだけで、伊藤が完全に君主主義者、国権主義者になったかということには疑問がないでもない。
 幕末当時、天皇を“玉”として、手段として利用してきた彼である。しかも、明治になっても、そういう姿勢は伊藤になくなっていない。ドイツの首相ビスマルクといえども、君主をドイツ国民の統一と支配に利用した形跡がある。伊藤が国民の自由と平等を求める動きの前に、天皇を切り札として利用しようとする考えになったということは十分に考えられる。自分の地位と権力をまもるために。
 それは、伊藤が韓国皇帝をたてるようなふりをして、徹底的に韓国皇帝を利用したことでも明らかである。ときには、韓国皇帝をおどしてさえいる。真からの君主主義者、国権主義者であれば絶対にできぬことであった。君主主義者伊藤を装うために、ドイツに出かけたということも考えられる。そう考えると、伊藤が岩倉に出した手紙もあらためて意味をもってくる。
 こうして、伊藤は明治天皇と国民をたぶらかしたともいえる。天皇をまもるということで、二千人余の華族に新たに五百人の華族を加えたのも、その実、自らの地位と権力をまもるためであったかもしれないし、明治二十三年に国民道徳の規範を示すという目的で発布した教育勅語も、絶対服従のおとなしい国民をつくりあげ、自分たちの安泰をはかろうという下心であったかもしれない。
 教育勅語の起草者は、伊藤の子分で、彼を助けて明治憲法を作った井上毅である。私がなぜこれほど伊藤に不信をいだき、その地位と権力のために画策したのではなかろうかと考えるのは、伊藤が初代の内閣総理大臣になってから後、長州閥、薩摩閥が、交代で政権をにぎるようになったことによる。
 幕末に、吉田松陰の弟子である久坂玄瑞(1840〜1864)は、早くから藩をこえた在野の志士の全国的組織を考え、その力によって幕府を倒そうとしていたが、不幸にしてその計画は、彼が二十五歳で元治の変で死んだためにみのらなかった。伊藤、山県の先輩である久坂が生きていたら、あれほどに長州閥や薩摩閥をはびこらせることはなかったのではないか。
 教育勅語が上からきめた国民道徳であったために、それは国民の自発的意志、内発的思想として定着、発展せず、この頃から国民の思想と精神はどんどん空白化、空洞化していった。国民のなかに生まれた自由・民権の自発的意志、内発的思想を押えて、形式的な道徳を上から注入しようとしたのだから、空虚になっていったのも無理はない。だが、国民の精神と思想が明治中期にだんだんと空白化するなかで、逆に教育勅語のなかから生まれてきたような男、希典が出現したのである。果たして、希典の精神、希典の心は空白化し、空洞化していなかったかどうかは、なかなか興味のある問題であるが。
 しかしいずれにしても、明治政府は明治憲法と教育勅語で、その君主主義、絶対主義、国権主義を完成し、日本と日本人のなかに、人民の自由と平等の思想が発展し、定着する道を閉ざしていった。日本と日本人のなかに、明治維新以来明確にあったところの数々の可能性を抑圧し、日本と日本人の内容を非常に貧しいものとしていった。希典の貧しさと日本の貧しさが並行していったということに、私は、希典が明治に生きるしかなかった男で、明治を、明治の可能性を生きようとする男でなかったとみるのである。そこに彼のいいようもないほどの貧しさを私はみるのである。

 

                   <代表的明治人 目次>  

 

   五 ひとりよがり

 独善的な徳目主義
 希典の変りようは激しかったし、徹底していた。今まで非常にハイカラで、あれでも軍人かといわれるほどに、着物なども角帯をしめてゾロリとしていたものが、全くバンカラ風に変わり、着物も愛玩の煙草入れも、みんな人にやってしまって、内でも外でも軍服で押し通すというほど変わってしまった。あまりのバンカラぶりに、友人がその理由をたずねると「感ずる所あり」といって、それ以上の説明はしなかった。
 もちろん、大酒もやめたし、馬鹿さわぎもやめた。これまでも、食事には、どちらかというと無頓着であったが、稗飯や南瓜を好んで食するようになった。軍服をいつも着ているので、寝間着のほかに和服をもたない。名誉の制服といっただけあって、客があると、軍服を着た者を上座にすえ、平服の者は末座におくというのがならわしになった。明治四十年、友人あての手紙だが、「昨日来、痔のために引きこもり、実は格別の苦痛にもこれなく候得ども、例の軍服を着せざる故、面会謝絶致し居り候」
 と書いている。彼の徹底ぶりが知られよう。だが、希典の謹厳といい、生真面目さといっても、気むずかしく、陰鬱そうな彼の性向のうえにつくられたものであったから、彼に接する者は極度に窮屈を感じたものである。しかも、彼は意見書に、「兵卒を教育するに当っては、先ず厳正の軍紀を遵守するに安んぜしめ、これが教官たる者の姿勢、動作より、言語、号令等これにならい、その声調を聞くに習うてこれに応ぜしむ」
 と書いたとおりに、上官は思考、行動の一切において部下の模範であり、規範でなければならないと考え、それを実行しようとした。また、実行したのである。
 ということは、部下に、自分のとおりにせよと要求することであった。口に出していわないでも、上級将校はあらゆる面で下級将校の模範とならなければならないと思っているから、無言のうちに強く要求した。
 加えて、彼の思想、行動の基準は勅諭である。忠義、至誠、廉恥、質素、慈愛、克己などの徳目主義である。それが彼自身の考えた忠義であり、至誠であり、質素であり、克己であるということを考えようともせずに、部下に要求した。忠義にも至誠にも克己にも、考える人によっていろいろの意味があり、内容が千差万別であるということを知ろうともしない。それは、徳目主義、規範主義の立場にたつ者の当然の態度であった。
 そこには、乃木の崇拝者も生まれたであろうが、乃木に反発する者も生まれた。自然、一部では希典の評判は非常にいいかと思うと、他の一部では非常に悪いというありさまである。それに、乃木信者となる者は、どちらかというと、単純な人が多い。あまり深くものを考えようとしない人が多い。それは、希典が松陰を尊敬した態度でもあった。彼が吉田松陰を尊敬し、松陰の思想と姿勢に学ぼうとしたことは、
「常住坐臥、常に先生の教訓に背かざらん事をつとめている。……そのために、常に心懸けて先生の著書、講録、詩歌等出版になったものも、ならないものも読みもし、写しもした。先生の遺書などはできるだけ拝読して今日におよんだ。……
 また、先生はあまり強壮な体質でもなかったそうだが、精神の健全であったためであろう、決して居眠りするとか、あくびをするとかはなかったということである。老人や婦女小児に対しても、至極温和に親切に、決して無愛想したりすることはなかったそうである。
 武教講録の如きをみても、先生の周到なる用意と謹厳なる性格とが、躍々として紙上に現われて居る様に思われる」
 この言葉によく現われているように、彼は、松陰の思想・姿勢……革命家・思想家としての松陰がその時代の課題にどのように取り組んでいたか、そこでどのように考えたかということを少しも学ぼうとはしなかった。彼はせいぜい、謹厳であり、親切であったという松陰の態度を尊敬し、まねようとしただけで、そういう謹厳、親切の根源をさぐることをしなかった。謹厳の思想を学ぼうとしなかった、ともいえよう。
 それが、希典を単なる徳目主義、規範主義に走らせることにもなり、部下にそれを要求した理由である。たしかに、彼の考えたように、松陰は謹厳そのものであった。だが、松陰は一度として、それを友人や弟子に求めなかったばかりか、弟子が一時の感情、興奮で、煙草をやめようとしたときなども、強くそれに反対し、いましめている。
「人間が生きていく上に、そういう楽しみはなくてならないし、無理な我慢は必ずくずれる。そういう楽しみを捨てて、一生退屈することをかえって心配する」
 二十入歳の松陰は、人間の一生と楽しみの関係を知悉して、人間はのびのびと生活しなければならない。無理な我慢、欲望の過度の抑圧は好ましくないと考えていた。人間というものを十分に知って、人間を生かそうとした。希典は、松陰に学ぶといいながら、四十歳すぎても、松陰の謹厳についての考え一つ理解できなかった。その結果、自分の鋳型に部下をはめこもうとした。

 『武教小学』を私費出版
 それはまた、希典が松陰の「七規七則」を座右の銘として、非常に尊んだことでも明らかである。「七規七則」というのは、「思うに人読まず、読むも行わず、いやしくも読みてこれを行えば、千万世と雖も得て尽くすべからず」という言葉に始まって、「凡そ、皇国に生まれては、宜しく、吾の宇内に尊き所以を知るべし」とか「士道は義よりは大なるはなく、義は勇によりて行い、勇は義によりて長ず」という七つのことを松陰が自分の警めとして書いたもので、松陰二十六歳の作であった。ということは、松陰二十六歳のときの思想であるということである。しかし、繰り返して書くが、思想家であった松陰は三十歳で刑死するまでその思想を発展させつづけて、一ヵ所にとどまるということがなかった。だからこそ、死を寸前にして、「朝廷も藩主もいらない。ただ自分だけが大事であり問題だ」という、近代的自我確立の所まで到達することができたのである。
 そういう松陰を理解しないで、二十六歳当時の彼の言葉を金科玉条とする態度は、彼の思想と精神を矮小化するものでしかない。希典は、松陰を学ぶということで、このように決定的な誤りをおかした。しかも、こういう誤りは、希典がある意味では松陰以上に崇敬し、私淑したといわれる山鹿素行の書物を読む場合にもあらわれている。
 山鹿素行(1622〜1685)は、赤穂浪士の師であったということ、松陰の兵学上の先達であったということで、希典が非常に尊敬した人物である。その素行は、極度に経済を軽視し、金をいやしむ精神主義者で、『中朝事実』『武教要録』『聖教要録』『武教小学』など多数の著書がある。それが希典の尊敬を深めた理由でもあろう。希典は中でも、『中朝事実』と『武教小学』を重視し、教典のように繰り返して読んで暗唱するというありさまであった。
 軍人勅諭に自分自身を近づけ、あわせようとしたと同様に、「七規七則」に、『中朝事実』に、『武教小学』にたいしても同じ態度、同じ姿勢をとったのである。たとえば、『武教小学』に、次のような言葉がある。
「凡そ、士の言語正しからざれば、その行い必ずみだる。柔弱の言、鄙劣の語もっとも慎むべし」
「悪衣悪食を払じ、居の安きを求むるは志士にあらず」
「飯食は身体を養い、礼節を行わんが為なり。色欲は子孫をつぎ、情欲をやめんが為なり」
 希典は、それを一字一句の誤りなく実践しようとした。しかも、この本を私費で出版し、友人、知人に頒布するという力のいれようである。周囲の人々が彼に感心もし、また辟易したというのも無理はない。

 謹厳・廉直・克己の強制
 この頃、川上が再度参謀次長に転出したのを機会に、明治二十二年三月、彼は近衛第二旅団長に任ぜられた。だが、陸軍首脳は、希典を監軍部に配置したのではなかった。監軍部というのは、桂太郎少将が陸軍省の総務局長になったとき、これまで陸軍省で管轄していた教育一切を陸軍省より切りはなして、軍隊教育を取りあつかうものとして明治二十年に新設したものである。そして、希典が近衛第二旅団長になったときは、監軍部の総監は山県有朋であり、参謀長は児玉源太郎大佐であった。このとき、児玉は、陸軍大学校長も兼務している。
 希典が、その意見書でも異常に情熱をかたむけて書いている軍隊教育の部門に、なぜ当時彼を配置しなかったのか。児玉大佐がその参謀長と陸軍大学校長を兼務しているなら、彼を監事部の参謀長にすることは容易であったはずである。だが、陸軍首脳は彼を近衛歩兵第二旅団長にしたにすぎない。川上少将を参謀本部の参謀次長にするなら彼を監軍部の参謀長にするのが、順当な人事でもあった。また、そのためのドイツ留学ではなかったのか。おそらく、当時彼を近衛歩兵第二旅団長にしたことは、陸軍の最大のミス・キャストではなかったのではあるまいか。
 もし、監軍部の参謀長ともなれば、希典が徐々に一徹となり、謹厳、廉直、克己そのものの性向を深めていったとしても、それを直接部下将兵にぶっつけることもなく、また、そのための摩擦もなく、彼は十二分に軍隊教育の方向と内容を推し進めることができたかもしれない。というのは、彼を監軍部に起用しなかったが、その後の軍隊教育の内容と方向は、彼の考え、志向した徳目主義、規範主義、精神主義を大きくとりいれたし、その鋳型にはめる教育の方向をたどっている。しかも、それが、明治軍隊のみでなく、大正、昭和の軍隊教育の方向でもあったのである。では、なぜ監軍部に行かなかったか。桂陸軍次官と彼との対立があまりにも強かったためであろうか。この人事に対して、当時の希典は最大の不満を持ったのではなかろうか。そんなことから、近衛歩兵第二旅団長になった彼は、その考える軍隊教育の理念を部下将兵に実施しようと、いよいよはりきったとも考えられる。その見本を実例で示すことによって、陸軍首脳の鼻をあかそうと考えたのかもしれない。こうして彼は、謹厳、廉直、克己の姿勢を自らに強く要求するとともに、部下将校にも要求することになったのではあるまいか。そしてそれは、いつか病的なほどの厳しさとなり、ときに部下将兵に対する意地悪とさえなることもあった。

 第五旅団長に左遷
 たとえば、ときどき連隊を回って、内務班が清潔かどうかをみてまわる。内務班の統轄者である中隊長を信じてまかせることができないためである。しかも、その清潔度を調べるのに、白い手袋をはめて、鴨居の上をなでてみるというやりかたである。これは、姑の嫁いびりと少しも変わらない。部下の将校が和服を着て桜見物にいくと、「軍服を着ていけないような所はいく必要がない」と説教する。
 そこには、馬鹿酒を飲み、大酒におぼれた十年余りの生活が少しも生かされていない。人間の悲しさ、弱さが少しも理解されていない。希典には、自分の十年余りの生活は全く無駄であり、無用と思われたようである。許すべからざる生活として受けとめたらしい。これほど、過去の生活から学ばない、過去の生活を養分として自分自身をふとらせない人間も珍しい。非常に愚かな男でも、十年余りも苦しめば、人々に対して温い理解ができるようになるものである。不思議といえば、不思議な男である。
 こういう希典が部下の大方の将兵から思慕されるわけはない。まして、中隊長、連隊長を信任しないような人間が、中隊長、連隊長から心服されるわけがない。東京在勤だから、彼に対する評価も伝わってこよう。もし、近衛歩兵第二旅団長から、次には監軍部の参謀長のコースを陸軍首脳が考えていたとしたら、おそらくそういう評価をきいて全くがっかりしたであろう。これまでの希典の伝記のいくつかは、せいぜい、ある事情のために、明治二十三年七月、名古屋の第五旅団長に転出の命令を受けたと書いているにすぎないが、明らかに左遷であった。その他の伝記はこの問題にふれようとしない。ときの陸軍大臣は大山巌で、次官は仲の悪い桂太郎であったが。
 ある事情とは何か。それを明らかにすることは、永遠に不可能かもしれない。いずれにしても希典は、近衛歩兵第二旅団長としては失格者であり、その失敗が監軍部にゆく道を永遠に閉ざしたのである。
 希典は監軍部どころか、歩兵第五旅団長に左遷され、傷心の心をいだいて名古屋に赴任したに違いない。

 休職をめぐる疑問
 希典が名古屋に到着したとき、あまりに荷物が少ないので、副官が「何か足りないのではありませんか」ときくと、色をなして、「心配するな。これだけあれば、いつ動員令が下っても間にあう」といったという。まさに、大時代的な発言である。陸軍少将・旅団長になって、動員の見通しもたたないようだとすれば失格者である。希典には、そのことが理解できなかったのである。
 明治二十五年二月になると、名古屋在職わずかに一年有余で、急に休職となっている。病気のために休職になったというが、その病名は明らかでない。休職の理由は、何かほかにあったのではないかと思われるがはっきりしない。一説には、歯をぬいたことが原因で健康を害したためであるという。歯をぬくときに、歯医者の反対を押しきって、一度に全部をぬいたといわれているが、そういう非常識をやってのけるのが希典である。また一説には、指揮している最中に総入歯が落ちたのを青年将校が笑ったためであるともいう。もう一つは、希典の上司である師団長の桂との間が面白くなかったためであるという説である。そのどれも、希典の休職に少しずつ関係はあろうが、それらが決定的な理由とは思われない。
 私は、明治二十四年十月二十五日の名古屋大地震が原因ではないかと考える。このとき、桂太郎は第三師団長として、独断で兵を動かし、市民の生命保護と治安維持につとめた。それは明らかに越権であった。だが、陸軍省に報告してその指令をうけるという時間の余裕はなかった。そのとき希典は、おそらく、軍は天皇の命令で動くもの、独断で兵を動かすべきではないといったのではないか。断固として反対したのではないか。それは希典の軍隊観、軍紀観からすれば、当然の言葉である。まして、融通のきかないコチコチの頭である。
 だからこそ、また桂は、その後、独断で兵を動かしたのは天皇に対して申し訳ないという理由で進退伺いまで出している。もちろん、その進退伺いは直ちに却下されているが、希典はそれが却下されたことが不満だったのではなかったか。だから希典としては桂を許せない。桂のもとで軍務につくことががまんならなかったのではないか。その年の冬には、病と称して、彼は東京にかえってしまっている。もしかすると、桂につめ腹を切らされたのかもしれない。
 それに、希典は大の桂嫌いである。かつて、第五旅団長として浜松にでかけたとき、ある寺に泊まることになった。しかし、住職が「桂中将も毎度お越しになって、御揮毫などもいただいて居ります」というやいなや、「今夜の宿はお断り申す」といって、宿を変えたというほどに桂嫌いである。
 しかも、その桂が明治二十四年六月には、第三師団長として、希典の直接の上司としてやってきたのである。桂は、彼におくれて陸軍少佐になったが、彼を追いぬいて陸軍中将になり、彼の上官となった。彼としても面白くなかったのかもしれない。

 世をすねての隠遁生活
 希典は休職になったとき、すでに、栃木県狩野村石林に六百坪あまりの土地と二十四坪と四十坪の二つの家を購入していたので、世のなかをすねて隠遁したという噂まででた。それは、一方では、希典の心を正確に射ていたかもしれない。彼は監軍部の総監にも、参謀長になることもないままに、休職になった。彼がそのポストを強く望んでいたのに。実は休職になる前にさっさと名古屋を引きあげた希典は、明治二十五年一月のほとんどを、石林で過ごしている。もうとっくに、休職願いをだしていたのかもしれないし、名古屋にはかえる意志がなかったのかもしれない。こうして、希典の晴耕雨読の生活が始まる。
 その頃、乃木家にやとわれる村の百姓に、米の飯と相当の賃銀を払ったので、誰でも喜んで乃木家の手伝いをしたという。もちろん、彼は稗飯を食っていた。田園生活のなかで少しは、人々の心が理解できるようになったのであろうか。彼が復職して、歩兵第一旅団長になったのは、その年の十二月である。十ヵ月の休職であった。

 

                   <代表的明治人 目次> 

 

   六 勝利

 明治日本は異常国家
 希典は陸軍部内の自分の地位に不満をもちながら、もう、この頃の彼は、明治政府の決定し、指導する政策、その枠のなかで生きることしかできない人間になっていた。明治政府の推し進める外交政策のなかでのみ、陸軍をどうすべきか、陸軍はどうあるべきかを考える人間になっていた。
 いいかえれば、明治政府が吉田松陰、横井小楠のさし示した道義国家、文化国家、平和国家の道を少しも考えなかったように、希典もまたそのことを考える人間ではなかった。考えようとする将軍ではなかった。そのときの彼は、明治政府が明治日本を帝国主義への道に追いやろうとする政策を、無条件に無批判にうけとめ、それに流されていった。ここで私が、吉田松陰が横井小楠と同じように、道義国家、文化国家、平和国家を意図していたと書くと、不審に思う読者もいるかもしれない。とくに大東亜戦争中に、松陰の侵略思想が宣伝されたことを記憶している者にはなおさらであろう。しかし、私は、松陰が道義国家、平和国家を志向していたことをここで証拠をあげて示したいと思う。
 というのは、普通、吉田松陰が「取り易き朝鮮、満州、支那を切り従え」といった言葉をとりあげて、彼の侵略思想をいう。しかし、この言葉は、松陰二十四歳のときのもので、二十八、九歳以後の彼は、「西洋列強にたちむかうためには、航海通商以外にはない。そのためには、朝鮮、満州、支那、ジャバ、ボルネオ、オーストラリアを訪う」という意見に変わっているのである。
 その著『講孟余話』にも、小国日本の生きる道として、道義国家の道に積極的に活路を見出す以外にないと書いている。
「軍備なくとも仁政があれば大丈夫である。仁政の国を攻めてくるような国の支配者は、その国に仁政をしいていないから、国内は必ず動揺しよう。……上陸してきても、敵を少しも防ぐことはない。兵は農民、漁民の中に雑居せしめ、生命を完うさせる。その間、つとめて、その国の忠臣、義士を刺激して、彼らにその国を正させるようにすればよい。そうすれば、最後には必ず勝利する」
 もちろん、松陰としても、その道が容易であるとは考えていない。「この策は大決断、大堅忍の人でなければ、決してやりとげることはできない。もし、始めに少しばかりこれをやろうとしても、途中で戦いに応ずるときは、その害はいいあらわせない程に大きい」とつけ加えることも忘れていない。
 明治政府が明治日本を帝国主義の道にかりたてていったのは、松陰のいう大決断、大堅忍の人物が当時の日本にいないと判断したためかどうかわからないが、帝国主義国の米・英・仏・露などの攻撃にさらされて、日本自身、英・米・仏・露の道を模倣するしかないと判断したためであることはまちがいない。不平等条約をはねかえす道はそれしかないと判断したためであろう。明らかに、明治政府には、吉田、横井の示した道義国家、文化国家、平和国家を世界各国にさきがけて歩んでみるという大決心、大冒険心がなかったことはたしかである。その道をさし示したのが彼らの師であり、先輩でありながら、明治の指導者たちがその道を進もうとしなかったのはだらしないというほかはない。
 もし、道義国家、文化国家、平和国家の道をまがりなりにも歩もうとすれば、明治維新とそれにつづく明治日本は、もっともっと輝かしいものとなっていたであろう。
 しかし、明治日本はその道を歩まなかったし、一度その進路が帝国主義への道ときまると、軍備の拡充は、至上命令となるし、アジアで最も弱い一環とみられる韓国に、その眼が向くのは当然であった。米・英・仏から不当にいじめられ、苦しめられると、その不満、その怒りをどこかの弱い国にもっていこうとしたのが明治日本である。その意味で、明治日本は、初めから道理に反する国であり、正常でない国家、異常な国家であった。

 アジアに暗雲拡がる
 こうして、韓国問題が大きく浮かびあがる。最もそれを端的にあらわしたものが、西郷隆盛を中心とする征韓論である。士族の不満や怒りを征韓にそらすとともに、士族の救済もやろうというのである。さすがに、木戸、大久保は、国内統治、国内整備が先決と考え、西郷一派の征韓論を全力をふりしぼって破砕した。しかし木戸、大久保が帝国主義への道をつき進むのをやめたからではなく、まだその時期ではないと考えたからに違いない。だから、明治初年に、もう当時の苦しい国家財政のなかで、三分の一の軍事費を支出するということも、あえてするのである。
 明治十年に木戸が、明治十一年に大久保があいついで亡くなり、山県有朋(1838〜1922)が次第に明治政府の中枢に割りこんでくるころから、ますます情勢は悪くなってきた。いうまでもなく、山県は陸軍の最高の位置にある人物である。その山県に幸いしたのは、明治十五年、韓国に反乱がおこったことである。この反乱で、日本公使館は襲撃され、日本の軍事教官が殺されるという事態がおきた。韓国に対して宗主国の位置にある清国(中国)からは三千人、日本から千五百人の軍隊が、その反乱を鎮圧するという名目で派遣された。そして、明治十七年には、日・清両国の兵隊が衝突するというところまで情勢は悪化した。
 明治十八年の天津条約で、「朝鮮国もし変乱、重大事件あり、清日両国或は一方の国派兵を要せば、先ず互に公文を往復して知照し」ということで、一応、日・清の関係は平常にたちかえったが、山県は、この事件をきっかけに、軍備拡張に積極的にのりだしていった。もちろん、清国を仮想敵として。明治政府も韓国を支配するためには、清国と対決する以外にないと思いはじめていた。
 明治二十七年、韓国に東学党の乱がおこった。役人の不正と重税を攻撃し、日本人や西洋人を排撃しようとしておこったものである。このとき、韓国政府は清国に援兵を乞うた。これをきくと、明治政府は、援兵を乞われないのに、天津条約をたてにとって大軍を韓国に送りこみ、強引に日本と清国の正面衝突にもっていった。こうしておこったのが、日清戦争である。
 これよりさき、日本と清国の関係が、明治十七年以来、韓国をめぐって微妙になったとき、山県有朋は日本陸軍の整備、近代化に積極的にとりくみ始め、まずその第一段階として、明治十七年には、川上操六陸軍大佐、桂太郎陸軍大佐をつれて、欧州各国の兵制の調査に出かけるとともに、明治十八年にはドイツからメッケル少佐を招き、陸軍大学校の学生を中心に徹底的に戦略・戦術を中心に、戦時帥兵術を指導した。乃木、川上両少将を直接モルトケのもとに派遺したのも、その一環であった。そのとき、乃木と川上はドイツ皇帝あての明治天皇の親書をたずさえていた。
「感謝の意を陛下に転奏すべき朕の将校陸軍少将乃木希典、陸軍少将川上操六貴国へ到着の後は、陛下克く恩遇を垂れられんことを。……
 朕に於ては、尚将校数名をして我が軍制の模範たる陛下の軍隊を目撃せしめ、陛下の統御せらるる軍隊の完全なる制式を観察せしめんとす。朕乃ち、為に今般前記の将校にプロシヤ国軍制の全般を視察せしめ、以て彼等の職務に必要なる経験と既に著手せる兵制改革を成就せしむるに必要なる経験を集領せしめんとす」
 当時の陸軍首脳の力のいれようがわかる。明治二十一年五月には鎮台組織を廃し、師団編成にし、砲兵連隊や騎兵を各師団に配し、工兵中隊は大隊に編成し、野戦本位の装備にきりかえた。それは、これまでの国内鎮圧を主とするものから、はっきりと大陸侵攻に変わったものである。日本陸軍の整備、充実の方向は明確になったといえる。

 陸軍のホープ希典
 希典が復職して歩兵第一旅団長になったのは、ようやく日本と清国の関係が決定的段階に入ったときであった。師団長は山地元治中将、歩兵第二旅団長は西寛二郎である。明治二十五年十二月当時の師団長をみると、第一師団長の山地中将はもちろん、第二師団長の佐久間中将、第三師団長桂中将、第四師団長黒川中将、第五師団長野津中将(第六師団長の能久親王は別)は、ともに戊辰戦争、西南戦争のときの歴戦の勇士であった。第二旅団長の西寛二郎も同じである。
 休職になったとはいえ、また監軍部の要職にすわらなかったとはいえ、希典は依然としてエリートコースを歩みつづける陸軍のホープである。その証拠には、桂、川上に追いぬかれたといっても、彼らはもともと年齢は希典より上である。現に、彼の同僚である歩兵第二旅団長をつとめる西寛二郎は、彼より三年先に生まれているし、歩兵第十旅団長の山口素臣も西少将と同じ年に生まれているが、ずっとおくれて、明治二十三年にやっと少将になっている。そのほか、歩兵第五旅団長大迫尚敏は、彼より五年先に生まれ、歩兵第六旅団長大島久直は彼より一年早く生まれている。わずかに、歩兵第九旅団長大島義昌、歩兵第十二旅団長長谷川好道が彼より一歳若いにすぎないが、もちろん希典が先任の少将である。
 めぼしい旅団長というか、日清戦争に旅団長として参加して活躍した者のうち、ほとんどが希典より早く生まれている。しかも、そのいずれも、陸軍のエリートコースを歩んでいる者ばかりであった。
 このようにみてくると、彼がはっきりと陸軍のホープであることがわかる。ことに、日清戦争を予想して、戦時編成に近いものとする場合に、希典の存在は重みを加えてきたのではないだろうか。それに、なんといっても、清国と戦うということは非常な冒険である。負け戦さを何度かは覚悟しなくてはならない。そういうときに、希典のように謹厳そのもので非常に克己心の強いものは、部下としても、同僚としても大変に心強い。軍紀が厳正であるということも、他国で戦いをする上に、決定的に必要な条件である。まして日清戦争は、韓国のために正義の戦いをおこすということをたてまえにしている。とすれば、軍紀の厳正であることがいよいよ重大な意味をおびてくる。こうして、希典の起用となった。そのときの陸軍大臣は大山巌、陸軍次官は児玉源太郎である。
 希典のその頃の日記をみると、ほとんど毎日のように、朝は愛馬にのり、午後は剣術をやっている。彼が戦場に指揮をとることを考えて、心身の鍛錬に心がけていたことがわかる。それと同時に、たびたび山県有朋、大山巌、児玉源太郎を訪ねているし、参謀本部の川上操六や寺内正毅を訪ねている。その日記には、ただ誰と会ったとしか書いていないので、具体的に何が語られたか明らかでないが、なかには、「陸軍省に児玉と戒厳令のことを談ず」というような文章にもぶつかる。
 希典が児玉についで、たびたび会っているのが、監軍部の参謀長岡沢精少将であり、つづいて、総監の三好重臣中将であった。「岡沢を訪う、小話。教育の事」とあるように、軍隊教育について、相当つっこんだ話しあいをしたと思われる。しかも、岡沢には、ほとんど一週間に一回ぐらい会っている。

 日清戦争に出陣
 明治二十七年五月、東学党の乱をきっかけにして、第五師団の歩兵第九旅団を中心に混成旅団が編成され、六月十一日、宇品港を出発。旅団長は大島義昌少将である。七月二十五日、豊島沖の海戦、同二十八日、成歓の戦闘となって、終に、八月一日に宣戦が布告された。
 九月一日、第三師団(長、桂太郎)と第五師団(長、野津道貫)をあわせて第一軍とし、その司令官に山県有朋が任命された。つづいて、九月二十六日、第一師団(長、山地元治)と第二師団(長、佐久間左馬太)、それに第六師団(長、黒木為
モト)の一部をもって第二軍を編成、その司令官に大山巌が任命された。希典は、もちろん第一師団の歩兵第一旅団長として第二軍に参加する。
 第一師団が広島に集結したのが十月一日、そのときの歌に、次のようなものがある。
  数ならぬ身にも心のいそがれて
     ゆめやすからぬ広島の宿
 戦いにのぞむ、軍人の武者ぶるいでもあろうか。
 十月十六日、宇品を出発し、二十四日には清国の花園口に上陸、すぐさま金州を目標に前進する。希典は前衛司令官となり、五日金州の最前線に到達すると、自ら敵情を視察。清国軍の兵力は少数とみて、独力で攻略せんと決して、その旨を師団長に報告した。しかし、山地師団長は、清国軍の占めている位置が堅固らしいので、正面攻撃は不利とみて、一部の兵を正面にむけ、希典にはその主力をひきいて、清国軍の視界外である復州街道から政略するように命じた。
 翌六日は、いよいよ総攻撃。希典は師団長の命令をうけたものの、復州街道にでることは不利と考えて、その旨を師団長に報告した。そこで、師団長は彼の意見をいれて、希典に本隊とともに行動するように命令を改めた。六日午前六時十分、希典は破頭山を改めて、同四十分、その地を占領。午前十時、希典のひきいる歩兵第一連隊は金州城の東門にむかい、西少将のひきいる歩兵第二連隊は北門にむかって総攻撃を開始し、十一時頃完全に金州城を攻め落とした。やすむまもなく、希典は歩兵第一連隊、工兵第一中隊、騎兵一小隊をひきいて、大連湾を攻略するために、七日午前二時、和尚島海岸砲台を攻略した。次は、旅順要塞である。そこには、約八千五百人の守備兵と、金州、大連湾から逃げてきた約三千六百人の兵がいると推定された。しかし問題は、約一万二千名が守っているということではなくて、「旅順要塞は十万の兵隊をつぎこんでも、攻略には半年はかかる」といわれた要塞であるということである。
 海の正面は、三つの半永久砲台と九つの補助砲台。陸の正面は九つの半永久砲台と四つの補助砲台。そして、旅順にはいる街道の西方には、三つの砲台を設けるという堅固さである。半永久砲台というのは、永久築城法とよばれる築城法で建築され、備砲、弾薬も十分に整備しているということである。まことに要塞は堅固そのものであったかもしれないが、金州地方から逃亡してきた夥しい兵隊は、戦力になるどころか、逆に守備兵の士気を阻喪させる結果になった。そればかりか参謀長の位置にあった
キョウは、行方をくらますというありさまであった。
 十一月十八日、清国軍はなんとか士気をふるいおこそうとして出撃し、日本の捜索騎兵を中心とする一部隊と衝突。戦いは午前十時から午後一時半までつづく激戦であった。
 十一月二十日、午前二時半頃、第二軍軍司令官大山巌の旅順口攻撃の命令とともに、第一師団の本隊は泥河子から石咀子にむかって前進をはじめ、二十一日には、午前一時すぎに石咀子を出発し、旅順口にむかった。午前七時、西少将は歩兵第三連隊、野戦砲兵第三大隊をひきいて、案子山砲台を攻撃、多数の死傷者を出しながらも、七時三十五分には、これを攻略している。
 長谷川好道第十二旅団長は、二竜山砲台の攻撃の命をうけていたが、第一師団の攻撃目標である松樹山砲台を第一師団が攻撃を始めないのをみて、独断で二竜山砲台と松樹山砲台の攻撃を決意し、その命令を下したのが午前八時二十分。野戦砲兵第一大隊の支援の下に、十一時三十分、二竜山砲台をおとしいれ、松樹山砲台も、西旅団第二連隊第三大隊の協力のもとにおとしいれている。
 西旅団も、案子山砲台をおとしいれた後に、おくればせながら黄金山砲台を攻撃、これを攻略。夕方には、その砲台の殆んどをおとしいれている。乃木旅団は鴨湖嘴の敵と対陣し、第一師団の主力が案子山砲台を攻撃するのに参加していない。山地師団長からは、「その攻撃に参加せよ」と命令があったが、今は兵を動かせないと拒んでいる。
 この間、第一軍は平壌をおとしいれ、鴨緑江を渡って九連城、鳳凰城などを攻略している。その後、山県第一軍司令官が海城攻撃の命令を桂第三師団に出したのが十二月一日。十二月十三日には海城を攻略した。しかし、桂師団長は三面を清の大軍にかこまれて海城の第三師団が孤立するのを恐れて、山県軍司令官に代わった野津軍司令官を通じ、第二軍の一部で蓋平付近の敵を攻撃するように頼んだ。しかし、第二軍は威海衛攻撃の作戦準備におわれていたので、その要請をことわった。だが、桂師団長は野津軍司令官に頼むと同時に大本営の川上中将にもそれを依頼した。
 大本営は、二十一日に、第二軍に「混成一旅団を蓋平方向にむけるよう」に命じた。大山軍司令官は、二十三日に山地師団長に命じ、山地師団長は三十日になって、希典にそのことを命じている。

 乃木旅団の奮戦
 希典は、歩兵第一旅団をひきいて、明治二十八年一月三日、駐留地を出発し、蓋平にむかった。そこには、清国軍約五千がいたのである。九日、乃木旅団は、蓋平の南方、楡林堡に陣し、十日の蓋平攻撃にそなえた。
 希典は、自ら敵情や地形を偵察し、諸報告を参考にして、「敵の防禦正面は、蓋平城の南方約六千の地点で、その前面は平坦で広々としている。その左翼には小山があり、我が軍の監視には便である。こういう敵を攻めるには夜明け前に敵陣に接近することが必要である」という判断を下した。
 そこで一月十日、夜明け前に行動をおこすことにきめ、まず隠岐第一連隊が五時三十分に鳳凰山にむかって前進を開始し、そこを占領すると今度は蓋平城の東をめがけて進撃し、八時二十五分、軍旗を蓋平城の一角にたてたのである。河野第十五連隊は五時四十分頃、敵の正面にむかって攻撃を始め、悪戦苦闘の末に、やっと九時四十分、蓋平城突入に成功する。こうして、乃木旅団の四時間の猛攻の前に、敵は総くずれとなる。そのために、海城にいる桂第三師団は、清国軍の前後五回にわたる攻撃にもどうにかたえぬくことができたのであった。
 その後、大本営は山地第一師団の主力に北上を命令したので、蓋平まで進んで、乃木旅団を合し、二月二十四日には太平山を攻略している。そのときも乃木旅団の活躍はめざましい。明治天皇は第一師団の戦功に対して勅語を下した。
 「その軍の一部、さきに蓋平を占領せし以来、能く冷寒に堪え、来襲の敵を撃退し、今又鞍山站、牛荘地方に転戦せる第一軍をして後顧の憂なからしめ、終にこれと協力して営口地方則ち盛京省重要の地点を略取す。朕深くこれを嘉賞す」
 この勅語にもあるとおり、桂第三師団は、その後攻勢に転じ、第五師団と協力して、三月二日、鞍山站をおとしいれ、三月四日には牛荘を攻略している。そして、三月九日には第一師団の協力のもとに、営口もおとしいれている。

 乃木旅団強さの秘密
 この営口攻略戦は、日清戦争中最大の砲戦であると同時に、乃木旅団にとっては最後の戦闘でもあった。大本営としては、直隷平野(河北省)での決戦にすべてを賭けていたが、結局、その決戦は行われないままに終わり、四月十七日休戦、五月八日講和になった。
 希典は、その四月五日に西少将、長谷川少将など、他の旅団長に先んじて陸軍中将に進み、佐久間左馬太に代わって第二師団長になった。この頃、第二師団は、直隷平野の決戦にそなえて遼東で休養していた。大本営は、直隷平野の決戦を前にして、新たに小松宮彰仁親王を征清大総督に、川上操六を総参謀長に任じ、一行は四月十三日に宇品を出発、十八日に旅順口に到着しているぐらいだから、希典の第二師団長就任は、明らかにその戦功を認めての抜擢ということになろう。
 日清戦争の各戦闘を通じて、希典が敵を攻撃する際、常に正面攻撃をしていることがめだつ。おそらく、彼は、武人という誇りから正面攻撃以外は考えられなかったに違いない。奇襲戦法などは、用いる気にもなれなかったのではなかろうか。正面攻撃で勝たねばならない。正面攻撃で勝つための戦術を考える。これが希典の戦う姿勢であり、それはまた、希典の謹厳、廉直、克己に通ずる姿勢でもあったろう。
 もう一つ、希典をふくめて、各旅団、各連隊の独断専行が目につく。もちろん、状況の変化に応じて、各旅団、各連隊が臨機応変に行動しなくてはならないのは当然だし、前夜に出された命令を翌朝忠実に守ることはできがたい。それは、命令の不徹底ともいえるし、命令不履行ということにもなるが、各旅団、各連隊が責任をもって、積極的に闘うということでもあろう。それがまた、戦闘力をたかめたとも考えられるのではあるまいか。
 電信、電話の設備が不十分なところから、自然そうなったともいえるが、日露戦争当時と比較すると面白い。このことについては、あらためて日露戦争のところで考えてみたい。
 陸軍首脳が、日清戦争にそなえて、休職中の希典を起用したことが適切であったことはいうまでもない。彼は十二分にその職責を果たしたのである。児玉源太郎や川上操六ほどにすぐれた戦略家、戦術家ではなかったかもしれないが、野戦の指揮官としては桂太郎以上であったことは間違いない。
 しかも、この戦争中、希典は日本から送ってきた防寒具を、「兵士の防寒具がないのに私や将校だけが着て一体どうする」といって手にもふれなかったという。それをきいた山地師団長は、二つの毛皮外套を送った。彼は、師団長に礼をいったが、さっそくそれを野戦病院に寄付した。希典は、酷しい寒さのなかで歯をくいしばって頑張っている兵隊と、なるべく苦労を共にしようとしたのである。自然、兵隊は感激し、心服する。そこに、乃木旅団の強かった秘密がある。

 軍備拡充、軍政改革進む
 日清戦争に日本は勝利した。勝ったことは勝った。
 だが、戦いの後には、戦いのさなかよりもより多くの問題が残った。まず第一は、日清戦争は韓国の独立のために、日本の犠牲の上に戦われた正義の戦いであるというように国民がうけとめたことである。もちろん政府が積極的に、そう考えるように国民を指導して、日本の国家エゴイズムのために戦ったのではないと国民に思わせようとした結果である。国民自身もその素朴な民族感情で政府の見解を支持した。政府の見解にたぶらかされていった。
 第二に、明治政府は、外国との戦争が国民の世論を統一し、支配していく上に、いかに効果的なものか、いかに絶大な力をもつものかを、あらためて認識した。戦争という危機状況のなかで、政府に対する批判分子は国民から完全に孤立するということを発見した。現に日清戦争がはじまる前は、政府の軍備拡充案を徹底的に抑えてきた野党が、いざ開戦となると手のひらをかえすように政府の戦争政策を支持し、膨大な臨時軍事費予算も即座に可決したのである。
 第三に、戦争はもうかるものという観念を国民の中に一般化したことである。遼東半島は露・独・仏の物言いで返すことになったが、台湾、澎湖島を入手し、償金二億テールがはいることになった。それに何よりも、韓国に支配権をもつことができるようになったのである。
 国民のなかに、そういう考えがひろがることは、帝国主義、侵略主義の道を進もうとする明治政府には思うツボである。山県は、その頃、この空気を反映して、「そもそも従来の軍備は、もっぱら主権線の維持を根本としたものであった。しかし、今回の戦勝を効果的にし、進んで東洋の盟主となろうとするなら、かならずまた利益線の拡張を計らなければならない。ところで現在の兵備は今後主権線を維持するにも足らない。まして、利益線を拡張し、東洋の覇者となるには足りるはずもない」といって、軍備の充実を訴える。防備から攻撃という方向を赤裸々に打ち出したのである。
 そのために、従来、国費の三分の一であった軍事費は、明治二十九年に一挙に四割をこえ、明治三十年になると五割にもはねあがり、それが日露戦争までつづく。
 国際的には、日清戦争に敗れた清国に対して、露・独、ついで仏・英が、強引にその利権を獲得しはじめた。なかでも、露のそれはすさまじく、まず旅順、大連の長期租借と長春、旅順間の鉄道敷設権を強引にもぎとった。しかし、日清戦争の結果、国際世論の中で孤立化していった日本は、露・独・仏・英が清国を侵略するのを黙ってみている以外になかった。だが、折あらば、日本も、露・独・仏・英の仲間入りをしたいと考えていた。満州、韓国に進出してくる露の国策をはらはらしながらみていた。
 こうして、露国を仮想敵国とする軍備の拡充、軍政の改革が着々と進んでいった。

 

                   <代表的明治人 目次> 

 

   七 悲哀……その一

 謹厳・偏屈の豪将
 下関条約により、台湾及び澎湖島が日本の領土になったとき、政府は海軍大将樺山資紀を五月十日台湾総督に任じた。しかし、清国湖東総督張之洞らは、それを怒って、五月二十五日、共和政府を樹立し、台湾が独立国であると宣言した。領土欲の強い当時の日本が、それを黙ってはいない。さっそく近衛師団(長、北白川宮能久親王)に対して、台湾を征討するように命じた。六月二日、樺山総督は清国全権との間に台湾授受の手続きをすませると、いっせいに攻撃命令を下した。近衛師団は六月三日に基隆、六日に台北、二十四日に新竹をおとしいれたが、北部から離れることのできない治安状況である。
 そこで、乃木第二師団に台湾出撃の命令が下った。希典は九月八日、金州を出発し、十二日に基隆到着。十月十一日に村寮に上陸し、直ちに台南にむかって進撃した。途中、道らしい道もないので非常に苦労したが、二十二日やっと台南に到達し、その二十七日には南部台湾司令官となっている。
 この台湾征討は、清国軍との戦いというよりは、疫病との戦いが主であった。近衛師団長北白川宮も死んでいるし、病気のために死んだ者、後送になった者二万人以上という。
 翌明治二十九年四月十二日、希典は台湾を出発し、二十二日、第二師団の衛戌地仙台にかえった。途中、四月二十日に東京についたが、その翌日には仙台にむかって出発している。一昨年東京をたってから、この日、東京につくまで、手紙はもちろん、葉書一通、彼の家庭には出していない。乃木家では、新聞で初めて彼の東京着を知ったのである。だからといって、彼が、戦地から友達に手紙をださなかったのではない。おそらく、戦地から家に手紙などを出すのは、名誉ある軍人のなすべきことではないと考えたのであろう。豪将希典はこの頃ますます一徹になり、果ては偏屈になり始めていたと思える。
 宮城県知事勝間田稔は出征軍人歓迎の園遊会をもよおしたが、そのとき希典が「賤業婦のおる宴席はお断りする」といったので、あわててそういう人達による接待をやめている。かつて、十年間、彼女たちと乱痴気さわぎをした彼が、彼女たちを賤業婦としていやしめる。彼の謹厳さも徐々に頑固さの一面をもち、周囲に何かと波風をたてるようになってきたともいえるようであった。
 その年の十月、希典に対して、台湾総督に就任してほしいという、陸軍大臣兼柘植務大臣高島鞆之助からの内示があった。初代台湾総督には海軍大将樺山資紀が任命されたことは既述したが、明治二十九年六月、第三師団長桂中将がその後任を命ぜられた。桂は「他国の領土に民政をしくということは大変なこと。私には、その経験もありませんからお断わりします」と辞退したが、伊藤博文首相は許さない。「誰でも経験はない筈」と押しきられてしまう。承諾した桂は、伊藤総理と西郷従道海相と一緒に台湾にのりこむほどの熱のいれようであった。だが、まもなく内閣が交代し、桂はその政変劇にまきこまれ、いや気がさして総督を辞任した。
 その後任に、希典に白羽の矢がたったのである。だが、彼が軍人であることを理由にことわることは明らかであった。そのために、陸軍次官児玉源太郎から、次のような手紙が、彼のもとによせられた。
「前略、山内大佐、陸軍大臣の命をふくみ、閣下の御上京を促し侯由、ついては御就任の有無は、勿論、大兄の御心算にこれあり候間、それはさておき、他の事故に托し、御上京を御拒み相成候義は、毛頭これなきことと存じ奉り候えども、又万々一にも御就任につき御熟考を要せられ候わば、とに角一旦御上京御面識の上にてしかるべく、この際、事に托して上京を拒む如きは、慮外の申分に候えど、男子の恥ずべきことと存じ奉り候」
 何故に、高島陸相兼拓務相と児玉次官は希典の台湾総督就任を強く要望したのか。とくに、「貴方が承知してくれないときには、児玉君にいってもらわねばならない」という発言までして説得したのか。たしかに、当時の台湾には武力が非常に必要であり、希典の指揮能力と台湾生活の経験を買ったのであろう。しかし、彼のように融通のきかない堅物が、民政官として立派にやっていけると考えたのであろうか。
 私には、むしろ、希典の堅物であるところを、高島も児玉も大いに買ったのではないかと思える。新しい植民地の利権をあさって、当然台湾には政商的実業家が群れ集まっていたであろう。その実力を活用することは必要だが、彼らの思うままになるときは、植民地政策はどろ沼に落ちこむ。今一つ大事なことは、占領者、支配者として台湾の人々に接し、無法を要求するということがあってはならない。彼はその点、さきの南部台湾司令官のとき、軍紀をとくに厳しくし、鶏一羽、卵一つにも必ず代金を払って、台湾の人々から略奪させなかったという前歴がある。高島も児玉も、彼のそういうところを高く評価したのではあるまいか。

 台湾総督施政につまずく
 十一月十七日、台北の総督官邸にはいった希典は、さっそく活動を開始する。「教育勅語の聖旨を本島民に遵法せしむるは、目下教育上、最も緊要にこれあり候」と高島陸相兼拓務相に意見具申し、その取りはからいを頼んだのが十二月一日である。台湾の人々に、性急に教育勅語の思想を普及しようとしたことは、決して好ましい施策であったとは思えないが、彼が台湾の人々を日本人と同様にみて、日本人と同様にあつかおうとした姿がうかがわれる。
 そのことは、その翌日の十二月二日に地方官に出した訓令をみてもはっきりしている。
「政治の要は寛厳度に適し、恩威並び行われて、人民をして其の威に畏るるとともに、その徳に服せしむるにあり。本島施政において殊に然るを見る。然るに、従来土民の内地人に対するものを見るに畏懼の念甚ださかんにして常に戦々恟々たるか、然らざれば即ち暴慢、無礼、ややもすれば、侮辱を以てこれに加えんとす。その状二つながら甚だ厭うべきものあり。蓋し、本島は勝利の結果をもって此を収め、兵馬をもって此に臨み、砲煙弾雨僅かに収まりて、内地人踵を接して渡来し、その多数は戦勝の余威をかりて土民を虐待し、物貨の売買、貸借に至るまで、往々にして理にそむき、不法の損害を与えて秋毫も意となさざるものあるを聞く。文武諸員に至りてもまた或いは職務上の威力を以て此に臨み、一度命に従わざるものあるか、または罪のやや疑うべきものあるにあたりては、直ちに此を縛し、此を拘禁し、甚だしきに至りては此を鞭笞するものあるを聞く。
 ここを以て不法を説き、無辜を訪うと雖も遂に免かる能わざる者に至りては、相ひきいて此をふくみ、弱者は従うに畏懼し、強者は反抗をなすに至れり。思うに、此の如きもの、兵馬倥偬の間、往々にして免かれざるの弊なりと雖も、抑も斯くの如くにしてやまずんば、怨恨漸く結んで民心日に乖離し、施政の障碍を見る、実に甚しきに至らん。況や全島、既に平穏に復し、行政の事業また緒につかんとし、民心の静謐を図るを以て最要急務となすの今日に於ておや。
 故に、地方に官たる者は、自他互いに相戒め、深く常に留意して、速に弊習を一洗すべきなり。若し尚、暴威を以て土民を虐遇するが如きものあらば、是れ実に、わが政令の施行を妨害し、国家の面目を汚辱する者なるを以て、その官僚たると士民たるとを論ぜず、断乎として此を糾し、法に従って処分することを怠るべからず」
 まことに、堂々とした訓令である。事実、この頃、台湾に赴任する官吏は、給料がいいからという理由で来た者が多い。自然、ぜいたくはする。しかも、腰かけ的な気持だから悪いことはするし、台湾の人に親切でない。その上に威張る。希典としては、そういう空気を是正しようとして、いよいよ率先垂範の意欲をつよめることになったのも無理はない。
 希典は、官吏の風紀を正そうとするあまり、自ら質素倹約を持するだけでなく、人々にも厳しく要求した。ことに、不正なことに対しては徹底的に厳しかった。加えて、利潤を追求する実業家、商人を非常にきらった。だから、彼は、政商や実業家を傍にもよせつけなかったのである。名刺を通じても滅多に会おうとしなかった。風紀を正すのは必要だった。しかし、政商たちをすべて同じにみなして忌み嫌い、彼らのやろうとすることに全く手を貸そうとしないから、台湾に事業はおこらないし、台湾の人々の生活向上も望むことはできなかった。せっかく、台湾の人々を日本人と同様に扱おうとしながら、彼らの生活は旧態依然たらざるを得ない。これと対照的に、希典のあとに台湾総督になった児玉源太郎が台湾経営に成功したというのは、児玉が積極的に実業家を優遇し、台湾に多くの企業をおこしたからである。
 それはともかく、台湾には台湾経営に新しい夢をいだいてやってきた若い人々も、少なくはなかったのだが、希典はそれらの人々を満足させることもできなかった。ことに、大学出の若い人々は台湾に夢をいだいてやってきたのである。彼らの不満に乗じて、甘い汁を吸おうと考えている他の多くの官吏がつけこむことになった。こうして、「乃木は厳格すぎる。融通がきかない。これでは民政は一歩も進まない」という希典批判がいたるところに強くおこった。しかも、その声は、終に政府にまで達し、希典の台湾総督の地位についていろいろ論議されるようになったのである。それも、公然の秘密として論議されたという。
 希典はたまりかねて、十一月、辞表を出したが、それに対して、松方総理はもちろん、野村靖逓相、山県有朋、児玉源太郎などからも慰留された。とくに、明治天皇は、「乃木を留職させよ」と発言した。だが、その辞意はかたく、明治三十一年二月二十一日になると、彼は許可なく任地を離れ、東京にかえってきた。休職がいいわたされたのは、その五日後である。台湾総督としては結局失敗であったというほかはない。

 弧立を深める徳目、規範の一徹
 希典は精魂をこめて、官紀を粛正しようとしたが失敗した。高島陸相や児玉次官は、適任者として強く彼の就任を要求したが、彼のような頑固一徹の者、清廉潔癖を信条とする者、ともすると周囲の者との和を欠きやすい人間には、その女房役によほどすぐれた人物がいる。高島陸相や児玉次官は、彼にいい女房役をつけるということを、ほとんど配慮しなかったのではないか。彼にはその短所を補う女房役が、彼とその周囲の人を上手に取りもつ女房役が、決定的に必要であった。だが、どうみても、彼の周囲にはそういう人間はいなかったようである。それが、彼が台湾総督として失敗した最大の原因である。
 念のために書くと、次の児玉総督は、官紀粛正のために何百人という官吏の首をきることによって、その目的を達成するのだが、希典にはそういうことはできなかった。能力がなくてできないのではなくて、人柄として、人の首をきることができないのである。希典とはそういう男であった。なお、後藤新平を起用したのは一般に児玉源太郎といわれているが、後藤の起用は桂総督時代からの懸案で、乃木総督のときに内定したものであることを付記しておく。
 休職になった希典は、家にひきこもって読書をするか、友人を訪ねて静かに語るという日々を過ごした。また、そのあいまをみては、那須野にゆき、すき、くわをとった。台湾総督を辞職しなければならなかったことは、台湾総督が彼の考える軍人の職務とは考えなかったとしても、彼としてはよほど骨身にこたえたであろう。それは、彼に、いよいよ沈思と反省を強いたことであろう。だが、五十歳になった彼に、頭脳の老化が始まっていたかどうかわからぬが、その沈思、その反省も、人間をあるがままに理解し、認め、その上で人間の志向するものが何であるかということを思い至るということにはならなかったようである。
 希典の中の自我の弱さ、思考力と判断力の弱さは、いよいよ彼を徳目主義、規範主義に追いやり、徳目や規範の奴隷にしてしまった。もっと悪いことは、それを誰彼となく要求し、それによって、ますます周囲の人達との溝を深め、自分を孤立に追いやったことである。それが鋭くあらわれてくるのが、次の第十一師団長時代である。

 四的度目の休職
 休職七ヵ月で、希典は今度は第十一師団長になった。台湾総督として失格者であったということは、軍人として彼が失格者であったということではない。彼はやはり豪将であり、厳しい軍紀を自ら実践してゆく軍人であった。それに、第十一師団は新設の師団である。彼に、大いに期待したということができよう。そのときの陸軍大臣は桂太郎である。
 希典も、おそらく自分の理想と考える師団を、今度こそ必ずつくってみせると決心して、新しい任地についたに違いない。初めて師団長室に足をふみいれたとき、彼はさっそく注意した。
「絨緞を片づけよ」と。
「これは普通の設備であります。別に贅沢な物ではありません。それに、靴の音をふせぐ利益もあります」と副官はこたえたが、彼はきこうとしない。そうなると参謀長室その他にも絨緞を敷いておくことはできない。人々は、ききしにまさる男だと思った。
 希典の住居のために、御用商人の別荘を部下の者が借りうけていたが、「御用商人に近づきたくない」といってそれをことわり、寺の一室を借りうけたのもこのときである。いよいよ、師団長としての生活が始まると、毎朝、司令部には小便のほか誰もいない時刻に出勤した。副官はたまりかねて、「あまり早く出勤されては、下のものがこまります」と忠告した。
 部下将校に対する態度は、近衛歩兵第二旅団長時代よりも厳格になっていた。兵隊の脚絆のボタンがはずれていたことで、その中隊長を詰問し、予備銃のことで、その説明がでたらめだといって、その責任者を厳しくいましめるというふうであった。ものごとをかりそめにしない、その態度は立派であるが、彼は、それを誰にも同じように求めた。これは、普通人には耐えられないことである。
 だから、希典は、自分では青年将校を愛しているつもりだし、自宅に遊びにきてほしいと思っているが、誰もこない。副官にその理由をたずねると、「厳格すぎるので、閉口しています」という返事。それもそのはず、希典は、朝おきたときから夜ねるまで、肋骨づきの軍服を着ていたから、青年将校はのびのびとした姿で彼の所にゆけないのである。
 希典は副官にそういわれても、自分の態度を改めようとは決してしなかった。彼にすれば、青年将校の方で改めればよいと思ったに違いない。しかし、その頑固さのために、結局は青年将校との意志疎通の機会を失ってしまう。これでは、彼が一人相撲をとっていることになる。彼がハッスルすればするほど、部下の将校は遠ざかっていく。
 こうして、とうとう明治三十四年五月、リュウマチを理由に辞表を出し、理想の師団創設も達成できずに、失意のうちに四度目の休職となった。

 できぬ粛正にいらだち
 第十一師団長をひくとき書いたものに、「軍人はかくありたきもの」という小論がある。それは十五項目からなっているが、これは軍の粛正を求めた警世の発言でもある。その一部をあげてみよう。
「第二 我が明治元年の当時、所謂維新の元勲たりし諸氏の品行は如何。その家を為したる後家風は如何。その多数は実に恐るべき害毒を後輩に伝染せしめたるにあらずや。今日死者については猶更生者と雖も許して此を言うは忍びざる処なれども、今に於て尚悔悟するなきのみならず、希有にもその己に習わざる者ある時は却て此を忌悪するに至るは如何ぞや。而して、此を憤慨するものなきか。否々彼の行為に習わざれば、彼の好む処となる能わず、彼に習い、彼に好まれて、彼の如き名誉も幸福も獲得し能うべしと信ずるなればなり。
 第七 わが国の宴会なるものに至っては歎息すべき事、また言うに忍びざる事多々なり。実に予の如きも、明治十四、五年の頃迄、ある時には主動者となりて、料理屋宴会を開きたりしは、今更慨愧汗顔に堪えず。後にその非を悔悟するに至りしと雖も、世間の風潮の駸々たる勢いは如何ともする能わず。然るに、幸いなるかな、先に軍艦費献納の事起り、この際に於て、奢侈を押え、冗費を省かざる可からざるの声起りてより、料理屋宴会は一時殆んど跡を絶つに至らんとせしが、終に然る能わず。表面に近来の宴会如何と問えば、集会場に於てす、偕行社に於てせりと言うとも、その実如何と察すれば、漸やく宴会は表裏二様に行わるるの悪風となりしなり。
 また饗応とも言うべきか、進級若くは着任、転任、あるいは結婚披露の如き自宅にて設くるも稀には有るべけれども、十の八、九までは料理屋ならざるべからず。……この悪風醜俗は上流に位置する大官、高級の先輩者が一朝悔悟する時に至らば、必ず滅退の勢いに向かうべく、仮令、然らざるも増長を抑留するの効は期せらるべきものをと思わるるなり」
 これは、軍人の心得というよりも、むしろ希典が、明治の政府に、それをとりまく権力者に、そのあとに従う上級将校に対する不満と怒りを書いたものである。同時に、明治日本の現状を憂える警世家的発言でもあった。だから、明治三十五年七月、時の陸相寺内正毅と話しあったとき、「陸軍部内の粛正ができないうちは、どんな職にもつかぬ」といいきったのである。
 希典はどうすれば、陸軍部内の粛正が、さらには、日本の粛正ができると考えたのであろうか。彼自身、第十一師団の粛正ですらできなかったのではないか。だが、彼は、そのことについては何の反省もなく、ただ徒らに陸軍首脳に陸軍の粛正を求めたのであろうか。しかし、その陸軍首脳を構成する大部分の人々には、彼は不満と怒りをもっていたのではないか。彼自身、自分の能力に限界を感じたのであろうか。
 この頃の歌に、
  張りつめし案山子の弓はそのままに
     あられたばしる那須の小山田
  雪降れば枯木も花の咲くものを
     埋れ木のみぞ憐れなりける
 というのがある。案山子や埋れ木に託して、自分の心境をうたったものであろう。
 案山子や埋れ木にされている自分自身に、心の底から不満であったのだろう。だが、彼には何もできない。そうなると、希典は唯一人でいらいらし、やきもきする以外になかったであろう。自分のことしか考えない青年のように、自分一人で日本の運命を、そしてまた人間の悲しみと苦しみとを背負っていると感じて、いよいよにが虫をかみつぶし、憂鬱な顔になっていくしかなかったであろう。

 

                   <代表的明治人 目次> 

 

   八 悲哀……その二

 日露戦争で旅順攻撃
 だが、日本と露国の関孫があやしくなり、その関係が決裂すると、日清戦争の猛将希典が放っておかれるはずはなかった。いや、日本陸軍が彼を必要だと錯覚したといったほうがあたっているかもしれない。ともに、帝国主義の道を歩もうとする日露両国の衝突は決定的で、明治三十三年の北清事変で両国の関係は悪化の一路をたどり、ついに明治三十七年一月十三日、露国に最後通牒をおくるとともに、近衛師団(長、長谷川好道中将)、第二師団(長、西寛二郎中将)、第十二師団(長、井上光中将)に動員令が下り、二月五日、黒木為
モト大将を軍司令官として第一軍が編成された。そして、同じ日に、希典に留守近衛師団長の命令が下った。
 黒木軍司令官が鎮南浦に上陸したのが三月十五日。四月三十日と五月一日の二日間にわたって、鴨緑江をはさんで激戦が展開されたが、それに勝利した第一軍は、鴨緑江をわたり、十日には鳳凰城を攻略し、鳳凰城、岫厳、蓋平を結ぶ線を確保した。
 第二軍は奥保鞏大将を軍司令官とし、第一師団(長、伏見宮貞愛親王)、第三師団(長、大島義昌中将)、第四師団(長、小川又次中将)をもって三月六日に編成され、五月五日には遼東半島に達した。第一軍に協力して、遼陽方面に北進するためである。しかし、遼東半島を分断し、旅順要塞を孤立させるためには、その前にどうしても金州、南山をおとしいれておく必要があった。こうして二十五日、金州、南山の攻撃が始まったのである。
 二十四日には、新たに第二軍に編入された第十一師団(長、土屋光春中将)にも、速やかに金州、南山の攻撃に参加するように命令が下った。それほどに、金州、南山攻撃は困難をきわめ、死闘につぐ死闘の末、二十六日午後八時、やっと攻略することができたのである。この戦闘で、ロシアの将兵は一千百三十七名の死傷者を出しているにすぎないが、日本軍は、その四倍の四千三百八十七名の死傷者を出している。いかに、壮絶な戦闘であったかが理解できよう。
 だが、戦局の進展とともに、旅順要塞を放置しておくことは不可能であるということに気づいた。ステッセル中将の関東兵団は、要塞にじっと閉じこもっているということをしないで、積極的に第二軍の背後をおびやかすという判断である。さらに、旅順港内にいるロシア艦隊を撃滅しておかないと、バルチック艦隊が極東にきたとき、それと合同し、海戦は日本海軍に非常に不利になるという判断である。そのためには、旅順要塞を攻略して、そこから港内のロシア艦隊を港外に追い出してほしいという海軍からの要望があった。
 こうして、旅順攻略のための第三軍が編成されることになった。軍司令官には乃木中将、参謀長には伊地知幸介少将が任じられた。希典が旅順にくわしいということもあったが、やはり彼の猛将ぶりが買われたとみるべきであろう。
 しかし、日清戦争のとき、旅順攻略の花形であったのは、現在、近衛師団長である長谷川好道中将であり、その次は第二師団長西寛二郎中将である。希典は旅順攻略戦に直接参加していない。長谷川中将は希典より一歳下であるが、西中将は三歳上である。したがって、第三軍司令には、西中将を任命するのが順当である。中将になったのも彼と相前後している。それが希典にきまったということは、要塞戦に必要な剛毅と沈着とが彼により多くあるとみられたためであろう。しかし、同時に、冷静さと忍耐力が、それ以上に必要ではなかったか。希典にそれがあったろうか。
 伊地知少将は、ドイツ留学以来、希典と懇意であり、陸軍士官学校卒業後、長くフランスに留学し、ついでドイツに留学していた陸軍のホープで、明治三十六年、参謀次長田村怡与造少将がなくなったとき、福島安正とともに、後任の参謀次長に噂された男である。児玉源太郎が参謀次長になったので、参謀本部の第一作戦部長のまま、事実上の対露作戦計画を立案した。そういう意味では、参謀本部は旅順要塞の攻撃を重視したといえる。
 六月六日、張家屯に上陸した希典は、すぐさま、第二軍に編入されていた第一師団と第十一師団をその指揮下におさめ、それに、野戦砲兵第二旅団、攻城特種部隊を新たに編成した。

 出血多量の前哨戦
 その頃、ロシア陸軍では、ステッセル中将に「第三軍を反撃せよ」と命じ、ステッセル中将の指揮下のフォーク少将も強くそれを主張したが、なぜかステッセル中将は動こうとしなかった。彼が希典の猪突猛進ぶりを知って、要塞にひきつけるのが得策とみたかどうかは不明だが、結果からみると、その作戦はあたっていた。
 六月二十五日、攻撃命令を出し、やっとその日の夕刻、剣山を攻略した。すると、次には、ロシア軍が剣山奪回を計画して、剣山の傍の老左山、大白山を占領し、剣山を攻撃してきた。一万三千の兵隊と砲三十六門、機関砲二十四門を注入して剣山は守りぬいたが、当初から日本軍とロシア軍との戦いは互角であった。
 七月十三日、新たに編入になった後備歩兵第一旅団が到着し、第九師団(長、大島久直中将)、後備歩兵第四旅団も補強された。その陣容は第一軍、第二軍以上のものであった。当時、旅順攻撃をいかに重視したかということがわかる。
 七月十八日、満州軍総参謀長児玉源太郎と第三軍参謀長伊地知幸介が会い、旅順攻略の方針を話しあい、七月二十五日から進撃を開始し、三十日までに旅順要塞を包囲するという方針が決定された。
 七月二十六日、希典は攻撃命令を出した。各師団は一斉に前進を始めた。だが、その攻防がいかに熾烈であり、旅順要塞の攻撃前に、すでに相互がいかに死闘につぐ死闘をくりかえしたかということを記してみよう。
 第九師団の攻撃目標は三四八高地鞍子嶺。三四八高地は右翼隊がうけもった。野戦砲兵の一時間におよぶ攻撃のあと、右翼隊はまず三四八高地のうしろの小座山に攻撃を開始した。三四八高地の前面は険しい断崖で、到底よじのぼることができないと思われたが、小座山はよじのぼるのがさほど困難に思われなかったからである。
 だが、攻撃を開始すると、小座山と三四八高地からの猛射である。加えて、鞍子嶺と三四八高地の砲兵陣地からも砲撃を集中してくる。そのために、ロシア軍陣地に五、六百メートルの地点にまで迫りながらどうすることもできない。大島師団長は、砲兵部隊に命じて三四八高地に集中砲火をあびせたが、それでもどうにもならない。師団長は、自ら予備の一大隊をひきい、右翼隊の一大隊とともに三四八高地に突撃し、断崖をよじのぼって第一塁を奪った。ときに午後八時十五分。しかし、第一塁の上方には、第二、第三、第四の陣地があり、そこからうちおろしてくる橙閑銃に、第三聖にたどりついた日本軍は一歩も進めないどころか、進もうとすればみな殺しになるありさまだった。
 七月二十七日の夜明けとともに、ロシア軍の射撃は再び激しくなり、日本軍の将兵はつぎつぎと倒れていく。午前六時、増強された砲兵陣地から三四八高地に砲撃が集中。そのために、ロシア軍の機関銃が破壊された。それを合図に第二塁への攻撃を開始し、午前九時やっとおとしいれた。しかし、第二塁から先にはいぜんとして進めない。午前十一時二十分、大島師団長は再び全火力を三四八高地に集中するように命じた。それに呼応するように第三塁の攻撃を始めて、午後四時、どうにか奪うことができた。しかし、奪った陣地も、いつとりかえされるかわからないほどに、ロシア軍の攻撃は執拗であった。事実、第三塁では、敵の砲火をあびて死傷者が続出していくありさまであったが、日没に助けられてやっと一息つく。
 この日、三四八高地には、第一師団第三連隊も協力し、三四八高地の北側から攻撃を始めたが、ロシア軍の射撃が猛烈で、その第八中隊のごときは、終に将校唯一人になるという激戦であった。
 二十八日、午前三時十五分、工兵隊が第四塁に爆薬をなげこみ、五時三十分、三たび第九師団は攻撃にうつった。このとき初めて、ロシア軍は予定の退却を始めたのである。第九師団はこのように苦戦したが、第一師団、第十一師団も同じように苦戦した。その結果、前哨線を初めて攻略し、旅順の攻撃の態勢はできあがったのである。だが、ロシア軍を攻撃することの困難を今更のように知らされたが、そのことは、希典をはじめ第三軍の将兵の士気をいよいよ盛んにしたことであろう。

 戦術の硬直で死者増大
 野戦には、たしかにそのような士気が非常に有効であるが、要塞戦には何よりも冷静さと忍耐がいる。それは、歩兵第五旅団長、台湾総督をやめた経緯をみても、希典に最も不足していたものである。そこに彼の悲劇があり、陥穽があった。加えて、海軍から旅順の攻撃を早めてほしいという依頼がたびたびあり、その要望にもとづいて、参謀本部は第三軍に旅順攻略を早めるようにといってきたのである。そのとき、満州軍総司令部の参謀井口省吾少将は「第三軍にはすでに歩兵三十六大隊と砲二百七十余門があるから、第九師団と砲兵第二旅団の全部が到着しなくても攻撃できる望みがある」といっている。
 当時、旅順要塞の築城につかった中国人は、完成後、全員殺して埋めたという噂まであり、満州軍総司令官クロパトキン大将は、「三年間はどんなにしても落ちない」と豪語していることから、陸軍首脳は不気味なものを感じつつも、日清戦争のときに一日で攻略したという自信もあり、改めて落ちないことはないという考えに支配されていた。だから、井口参謀の口からもこういう発言が出たし、海軍がその攻略に協力を申しいれたときも、「陸軍だけで大丈夫」と初めはことわっているほどである。
 第三軍は旅順要塞の攻撃を前にして、八月十五日、大孤山、小孤山、北大王山をおとしいれ、希々にその包囲網をちぢめていった。ここで希典は、十八日、十九日、二十日の早朝まで集中砲火をあびせて、二十日の夜明けとともに一挙に突入する計画をたてた。しかし、資材、弾薬の補給が連日の雨のためにうまくゆかず、攻撃は一日のばされ、十九日午前六時、一斉に砲撃が開始された。
 だが、計画は戦況の変化とともに変更されるしかない。竜眼北方の堡塁を攻撃目標としていた第九師団右翼隊は、朝からの集中砲撃で午後一時三十分頃、ロシア砲台が沈黙すると、ロシア堡塁にむけて突撃を殆めた。第九師団はロシア砲台の沈黙は砲が破壊されたためと考えて、命令を出したのである。ところが、ちょうど右翼隊が鉄条網をこえて堡塁に迫ろうとしたとき、突如、堡塁にロシア守備隊があらわれ、集中砲火をあびせかけた。しかも、椅子山、案子山、二竜山の砲台からも、近づく右翼隊に一斉に砲火をあびせてくる。みるみるうちに、死傷者は増えていった。そうなると退却以外にない。
 翌二十日には、夜明けとともに、また堡塁に突撃を敢行したが、昨日と同じように猛烈な集中砲火にさらされ、正午ごろになると、生存者はどんどん減っていった。このため、夕刻、終に退却をよぎなくされたのである。
 これまでの攻撃で、右翼隊の出血が激しかったので、竜眼攻撃を一時断念し、二十一日には、主として左翼隊による盤竜山堡塁、一戸堡塁の攻撃が始まった。突撃部隊は第一回、第二回の攻撃を敢行したが、どうしてもぬくことはできない。連隊長と大隊長が全部戦死するという激しさであった。左翼隊長は攻撃を断念し、師団長に了解を求めたが、その直前に、乃木軍司令官から師団長あてに、攻撃強化の命令がきていた。
 そのために、大島師団長は左翼隊長に攻撃続行を要求するとともに、後備歩兵連隊を増強したのである。午後三時三十分になると、乃木軍司令官から、さらに師団長のもとに命令が伝えられた。「第一、第十一両師団はすでに突撃の準備が終わり、第九師団の前進をまっている。攻城砲の弾薬も次第に欠乏してきたから、これ以上の遅延は許されない。直ちに突撃を決行せよ」と。弾薬が欠乏したから、あとは肉弾でやれという命令である。
 その夜、月が沈むのをまって、盤竜山堡塁にむかって、左翼隊は夜襲を敢行した。だが、ロシア軍は探照灯を照らして、一斉射撃をあびせた。一戸堡塁にむかった連隊も同じこと、しかも二十二日午前四時三十分には、かろうじて地隙に身をひそめていた隊に攻撃命令が出て、連隊は突入。連隊長も大隊長も戦死する。ここまできて、希典は攻撃中止を命令し、戦術転換を協議した。が、第一線は、もはや退くことも困難な状能にあった。そういうとき、工兵隊の独断による決死的行為によって、盤竜山東堡塁に、二度にわたり爆薬を投込み、機関銃とその銃眼を爆破した。それをきっかけとして、終に東堡塁を奪い、つづいて西堡塁も奪った。それは、突撃隊員の三分の二の死傷を代償として得たものである。二十三日には、戦術を変えて、東鶏冠山攻撃にむかっていた第十一師団にその攻撃を中止させ、盤竜山堡塁を拠点として、望台砲台にむかうことになった。だが、二十三日、二十四日と攻撃したが、死傷者だけふえて、望台砲台は落ちない。第一師団も同じようなめにあっていた。
 加えて、攻城砲兵司令官から、このままでは翌二十五日までで弾薬は使いはたしてしまうという報告である。希典は終に攻撃中止の命令を出す以外になかった。こうして、六日間の総攻撃はいくつかの堡塁をとったのみで終わったのであった。死傷者一万五千八百六十人。約三分の一が死傷者になったのである。

 死を求める自責の心境
 この攻撃で、敵の堡塁がいかに堅固であるかを、いやというほど思い知らされたのだったが、それもそのはずだった。堡塁の前の鉄条網には電流を流し、その鉄条網の内側に壕を深く掘り、壕は地下通路になっていて歩兵が自由に動ける。射手のためには胸壁をつくり、その奥にもう一つ壕があり、さらにその奥に堅固な掩蓋をかぶって砲座があるのである。しかも、その堡塁は無数にあり、一つの堡塁を攻撃する敵には、他の堡塁から一斉射撃ができるようになっていたのである。その事実を知るには、一日間の攻撃で十分だったはずである。六日間、それも一万六千人の将兵を犠牲にしなければわからないことでもなかった。しかし、希典は頑固で融通のきかない男。それに正面攻撃に固執する男である。
 参謀長伊地知も結局それに近い男だったと見るほかはない。それは六日間も攻撃をつづけたこと、戦術の転換をやらなかったことで明白である。それは、第二回総攻撃のとき、満州軍総司令部の下した二〇三高地を主目標に攻撃せよという命令に頑強に反対したことで、さらに明らかである。伊地知はより多く自分の面子にとらわれて、カッカとしたのかもしれない。
 最初の一日の攻撃で中止命令を出し、作戦を変えるべきであった。第二回総攻撃の前に、工兵隊をつかって攻撃路を構築しているが、そのことを直ちに始めてもよかったはずである。すでに第一回総攻撃を前に、有坂成章少将は「現在旅順攻撃に使用しようとしている砲では到底旅順要塞はおちない。二十八サンチ榴弾砲をつかうべきだ」といったという。
 事実、九月二十六日から使用された二十八サンチ榴弾砲はすごい威力を発揮している。とすれば、その砲の準備をまって攻撃してもよかったはずである。だが、希典にはそういう忍耐心はなく、名誉、それも自分の名誉に極端に執心する男。伊地知は砲兵科出身でありながら、それを理解する能力がない。
 もし、希典や伊地知に、そして攻城砲兵司令官豊島陽蔵に、そのことを理解する能力があれば、せめて九月十九日に始めた第二回総攻撃を少しばかり延期できたはずである。だが、希典をはじめ第三軍の首脳は、誰一人それを考えることができなかった。そのために、第一回総攻撃で徒らに将兵を殺したが、第二回総攻撃でも同じことをやった。こうして、九月十九日に始まった四日間の戦闘で、死傷者四千八百四十九人、十月二十六日から五日間の戦闘では、死傷者三千八百三十人を出すのである。しかも、奪った堡塁は竜眼北方堡塁のほか二、三にすぎなかった。
 だが、このときになっても、希典は旅順要塞の正面攻撃に固執し、伊地知もそれを支持した。このころ大本営内に、希典と伊地知を変えてはという意見も出るが、いつかその声も消えていく。それというのも、希典にそういう声がきこえてきたために、将兵二万三千を死傷させながらまだ旅順を落とせないという自覚が、いつか彼に戦場での死を強く求める心をひきおこし、好んで戦場にでかけ、敵の弾丸をあびようとする態度がでてきたためである。死を決意するというより、死を思い、死を待望する彼の生活が、この重要な戦闘のさなかでまた始まったといってよかろう。

 旅順攻略後の苦悶
 希典の死を求める姿は周囲の者にはショックであった。そのショックは大本営にまで伝わった。一人の希典の生命が大事か、数万の将兵の生命が大切か、大本営は一人の希典の生命を大事とみ、更迭しなかったのである。勿論、希典や伊地知をはずして、誰を後任に送りこむかとなると、自信をもって白羽の矢をたてるような人材は乏しく、いずれをみても大同小異だったのであろう。
 十一月十一日、新たに第七師団(長、大迫尚敏中将)が第三軍に増強された。希典は十一月二十六日、第三回の総攻撃、それも最後の総攻撃の命令を下した。いうまでもなく、要塞正面にむかってである。だが、二十六日、三回にわたる攻撃を加えたが、どうしても奪うことはできない。希典もついに、要塞正面の攻撃を断念し、二十七日の夜からは、二〇三高地に全力をあげることを余儀なくされる。
 二〇三高地を攻略するということは、早くから海軍が要望し、大本営も満州軍総司令部も第三軍に要望していたことだが、第三軍首脳は自分たちの方針を堅持して、きこうとしなかった。が、ここにきて、とうとう自分達の意見を変えなければならない破目に追いこまれたのである。しかし、二十七日、二十八日、二十九、三十日と四日間攻めたが、二〇三高地も落ちない。児玉総参謀長も十二月一日、満州総司令官代理として旅順にのりこみ、直接第三軍の指揮をとりはじめた。
 児玉は、直ちに鴨湖嘴砲台と北太陽溝の砲台からうちだす砲弾が日本軍をなやましていることを発見した。二陣地を砲撃せよというと、砲の死角になっていて駄目だという。砲兵陣地を変えればよいというと、それができないと答える。もちろん、児玉がそれをきくわけはない。早速、陣地を変えて、鴨湖嘴と北太陽溝の二砲台を制圧することに成功するのである。希典は結局、砲台の位置をも変更できないほどに頭の堅い男に補佐されていたことになる。
 十二月五日、終に二〇三高地を落とし入れた。二〇三高地を落とすと、旅順港の敵艦も他の砲台もつぎつぎに攻略することができたのである。だが、攻略までに五万九千四百八人の死傷者を出している。文字どおり、希典は、将兵の生命とひきかえに、強引に旅順を奪ったということになる。その間に、二人の息子を戦死させているが、数万の将兵を死傷に追いやったということは、軍司令官として、息子の死以上の苦しみを彼に与えたことであろう。
 明治三十八年一月四日、寺内陸相にあてて、「弾丸と人命と時日の多数を消費しつつ、埓明き申さざる為、唯々苦悶、慙愧の外これなく。……無智無策の腕力戦は、上に対し、下に対し、今更ながら恐縮千万」と書かないではいられない心境でもあった。
 降将ステッセル中将と希典が水師営で会見したのが一月五日。この日、彼は、ステッセル以下に帯剣を許したが、外国人記者が会見の状況を写真にとりたいという申しいれは許可しなかった。日本の武士道として、敵将の恥をさらすことはできないというのである。この言葉は、ひどく外国人記者を感動させ、各国新聞のニュースになった。名誉ある軍人であることを日常的に考え、それを自分自身に課している彼には当然のことであった。それ故に、いっそう、外国人記者を感動させたのである。おそらく、希典が、彼の一生を通じて、軍人の生涯を通じて、一番輝かしかったことであり、彼という人間が一番よく理解され、評価されたと思った瞬間ではなかろうか。
 しかし、その喜び、その満足も、数万の将兵を死傷させたという心の傷みを消すものではなかったであろう。その心の傷みを、悲哀を希典にもたらせたものこそ、彼と伊地知参謀長、彼と豊島攻城砲兵司令官という関係にあったのである。彼に必要であったのは、弾力性のある頭脳をもった参謀長であり、攻城砲兵司令官である。彼とコンビをくんだ伊地知も豊島も、その意味では不幸であったといえる。そういうミス・キャストしかできなかった大本営や参謀本部、陸軍省にも責任があった。
 こうして希典は、台湾総督についで、第三軍司令官も、ミス・キャストのために失敗するのである。輝かしい軍司令官のポストも悲哀となるしかなかったのである。

 明治日本勝利の悲哀
 こうして、希典をはじめとする沢山の将兵に、日露戦争は、死、負傷、悲哀などの悲劇をもたらしたが、日本と日本人には、総体として何をもたらしたのであろうか。苦しい戦いの果てに、ようやく勝つことはできたが、明治政府と日本国民に何をもたらしたのであろうか。
 日露戦争が終わった翌年の明治三十九年(1906)、徳富蘆花(1868〜1927)は、「勝利の悲哀」と題して、次のように書いた。
「私は思う、児玉源太郎将軍の奉天戦後の心機はまさに雀が丘のナポレオンに類するものありしにはあらざるか。事実は知らざれども、世は将軍に遁世の志ありしと伝えぬ。彼は確かに胸中ある煩悶を覚えしなり。こは、彼が大悟の機なりき。しかれども世は彼に迫るに参謀総長の職務をもってし、彼は行きがかりを捨つるあたわず。さりとて、胸中の煩悶を忘るるあたわず。もとより好める紅燈緑酒の場はその悶々をまぎらすべく彼のしばしば出入るところとなりて、彼は突然死の手に拉し去られぬ。……彼は日露戦争に殉死せり、彼は悟らんとして悟りえざりきと歎息するを禁じえざりき。ああ、彼はその胸中の煩悶を国民への遺物として逝けり。
 豈ただ児玉将軍のみならんや。日露戦争の終局にあたりて、一種の悲哀、煩悶、不満、失望を感ぜざりし者幾人かある。……
 一歩を誤らば、爾が戦勝はすなわち亡国のはじめとならん。しかして、世界未曾有の人種的大戦乱のもととならん。……
 さめよ、日本、眼を開け、日本」
 これは、吉田松陰、横井小楠の思想に相感応するものであったが、明治政府はもちろん、当時の国民の多くも、この声に耳を傾けようとはしなかった。耳を傾けることができないほどに日清、日露の二つの戦争が明治政府と当時の国民の両方を退廃に導いていたのである。すなわち、日清戦争の結果、明治政府と日本国民にもたらしたものが、更に日露戦争で決定的になっていたのである。日本の進路を変えることができないほどに、深い泥沼に落ちこんでいたのである。
 心ある人々は、勝利の悲哀を感じた。空虚感を感じた。だが、その悲哀、その空虚感をごまかすために、次の戦争に、より大きな戦争にむかって盲進する方向に進もうとしたのが明治の日本である。明治四十一年(1908)の戊申詔書は、政府がその道を歩むために発布しなければならなかったものである。あがきであり、ごまかしであった。
 それに、日露戦争後、西洋諸国が日本に徹底的に不信をいだき始めたとき、それはまったく帝国主義的な西洋諸国の身勝手な不信でもあっただけに、詔書でいくら「東西相倚り彼此相済シ以テ其ノ福利ヲ共ニス」と宣言しても、国民への説得力はなかった。こうして、明治日本は、昭和二十年の破滅へのレールを確立したのである。亡国への道をあゆみ始めたのである。その手始めに、まず韓国を併合した。それが明治日本の狂い始めた証拠である。伊藤博文が韓国人に殺されたということは、その意味で象徴的である。それは、明治日本への悲しい挽歌であったともいえる。
 たしかに、明治日本はすばらしい発展と繁栄をなしとげた。国民念願の不平等条約も改正にこぎつけた。しかしそれは、道義国家、文化国家、平和国家となることによってでなく、日本自身が帝国主義的国家となることによって達成した。その結果、不平等条約を新たに韓国におしつけ、果ては併合してしまった。日本が韓国民の怒りと不満をもろにうけることになったのは、そういう立場に日本を追いこんだ明治政府であり、当時の国民である。そういう意味で、明治日本は、まさしく二つの顔、明るい顔と暗い顔をもつものであった。
 国民待望の国会を開設し、憲法を発布したが、ここにもこの二つの顔ははっきりと出ている。明治二十二年(1889)の時点で、世界史の動向からすれば非常にたちおくれた欽定憲法を発布し、国民の大多数の迷妄につけこんで、国民の権利と自由をわずかしか認めなかった。しかも、それを半永久化したのである。これほど、自由と平等を望む国民にとって暗い顔はない。
 加えて、つぎつぎと出てくる明治政府の戦争政策のために、税金は重くなるばかりである。わずかに、国民の満足といえば、勝利の栄光に酔うことだけである。しかし、その結果は、戦争好きの国民という有難くない評価をうけることになる。そういう日本国民は明治という時代が作りだしたものである。

 

                   <代表的明治人 目次> 

 

   九 栄光

 学習院に寄宿舎制度
 日露戦争後の日本のこういう二つの顔を、道徳主義者の希典はどのようにうけとめていたのであろうか。それはしばらくおき、明治四十年一月になると、希典は、学習院院長に任ぜられた。彼の五十九歳のときである。彼は就任にあたって、「陛下の御思召とあってみれば、事の成否を顧慮して考えるべきではない。そこで、不適任なることは承知の上で、御受けすることになったのである」とあいさつした。かつて台湾総督を辞任したときには、明治天皇が極力とめたのに、それをふりきってやめた彼が、今度は天皇の御恩召だという理由で、不適任だといいながら承知する。
 自分勝手である。そのへんに、希典の忠節、絶対随順の本当の中身があるともいえよう。それに不適任という言葉は謙遜ともうけとれるが、不適任といいつつその職につくほど、自分自身をいつわるものはない。天皇に対しても無責任といえる。しかし、そういうことがわかる希典ではなかったかもしれない。院長になった彼は、彼自身が思い、考えることをただ強力に推し進めていく。
 希典はまず、彼が軍隊教育のなかで考えた徳目主義、規範主義を生徒に教えこもうとした。その徳目、規範は、努力であり、忍耐であり、勤勉であり、質素であるが、要するにそういう鋳型の中に生徒を押しこめようとした。生徒のなかにある感情や志向をその教育で伸ばし、発展させることによって、その結果として努力、忍耐、勤勉、質素に育成するのではなくて、初めからそういう徳目を設定し、それにはめこもうとした。
 今一つは、寄宿寮制度を採用したことである。希典は思想訓練、生活訓練の場としての寄宿寮を考えた。しかも、中学・高校の九年間の寄宿寮生活を主張した。父兄も先生も反対したが、彼は断乎実施した。それは、なかなかすぐれた意見ともいえるが、彼の寄宿舎九年論の理由をきくと、無条件に肯定できなくなる。
「いよいよ、酒食に溺れたり、金銭を浪費したりして、その性質をうちこわしてしまうのは、高等科時代である。であるから、是非とも高等科を寄宿せしめねばならぬ」というからである。
 ここでも、希典の徳目主義、規範主義の教育観が根底になっている。人間の精神と思想を自由に、しかも徹底的に開発し、その結果が好ましい結果に到達するように教育することを考えていない。それは、人間の能力や精神を知悉しないもの、その精神や能力に信頼をおかないものの教育観である。
 しかし、とにかく、希典はこの二つを実践しようとした。強行しようとした。もちろん、実施にあたっては、特に寄宿寮の実施については慎重であった。まず、明治四十年四月、教授を京都、奈良、静岡、兵庫、岡山、広島の各地に出張させ、語学校の寄宿寮を調査させ、十二月には寄宿舎制度調査委員会を発足させている。
 明治四十一年五月になると、中学、高校の父兄を集めて説明会、さらに六月には、父兄を寄宿舎に集めて説明会を開くという慎重さであった。こうして、初めてその年の九月に入寮式となったのである。希典もその日から寄宿寮にはいる。どこまでも、率先垂範でいこうというのである。
 希典がいかに寄宿舎生活を重視し、厳格を求めたかということは、「一体、寄宿をさせるという本意からいって見れば、なるべく家庭と離して自分のことは自分で処置のできるようにするという主旨である。学校にいる時だけ、自分のことは他人の手を借りてはならぬと教えても、それが通学であって、課業が終って家庭に帰れば、玄関には召使のものがまちうけて、持物をとる、靴を脱がせる、帽子まで持って、その部屋に送り込むという風では、賽の河原と同様、積んでは崩し、積んでは崩しするのでなんの役にもたたぬ。全く徒労であるから、それをさせないために寄宿をさせるのである。
 それが、五日毎に二泊宛するということになると、よしや通学の時程でないとしても、その害をおよぼすことは五十歩百歩である」といったことで明らかである。希典のねらったものは生徒の生活革命であった。

 精神教育に全力
 希典はまた、剣道を通じて生徒の人間教育をやろうとした。ことに、院長として、生徒に接する機会にめぐまれないことを恐れた彼は、剣道を教えることで生徒に接し、生徒を知り、生徒を教育しようとしたのである。ことに、剣道をしていると性質があからさまにでるから、教育には非常にいいと考えたのだった。
「最初、生徒に教えるには、撃ちこみを十分に練習させる。つまり、教師が受手になって必死にこの撃ちこみを教える。それは、随分小腕でもだんだんにさえてくるから、教師の方は骨がおれるが、この間に人に臆せぬ、つまり、何ものにもひけをとらぬという気合を、無意識の撃ちこみの中に、生徒の頭脳の中に注入するのである。
 今のように、十分に撃ちこみを教えぬうちに試合をさせると怪我もすれば又痛い目もする。一度怪我をするか痛い目をすると、それが原因で、剣道そのものも嫌いになるし、自然と攻勢の意気を忘れて防禦防禦と廻るようになる。そんなことならば、剣道をやらせぬ方がよい。
 つまり、剣道の要は自信と勇気とを養い、攻撃精神を無上に発達させるのが目的である」
と説いている。それは、虚弱であった希典が剣道を通じて自分自身を鍛えたところから生まれた実感的剣道論でもあった。
 希典がその剣道とともに重視したのが水泳である。毎年夏になると、片瀬海岸で遊泳訓練をした。それも三週間である。中途半端な合宿ではなくて、訓練の効果があがるとみられる三週間の合宿を計画するところに、彼らしい徹底ぶりがある。そして、遊泳でも、剣道と同様に生活の訓練、精神の訓練が中心であった。
 海岸での希典は、いつも首だけの所で浪を浴びていた。それも、頭には晒無地の木綿の手拭で、ちょうど太古の武士の兜のような妙な格好の鉢巻をして激浪のなかに頭をつっ込んでは、波を被っていたという。たまには、臆病な学生をひきだして怒涛のなかにつれていき、潮水を飲ませて勇気を鼓舞した。
 こうして、遊泳の技術よりも、彼は気力の鍛錬に重きをおいていたのである。
 文字どおり、希典は、剣道や遊泳をするなかで、生徒のなかにとけこんでいった。とけこもうとした。そのために、大好きな酒も煙草もやめるほどのうちこみようであった。それが、学生生徒に「おじいさん」といわれて親しまれた理由でもある。ある者は、彼を「剣をおびたペスタロッチ」と呼んだという。ペスタロッチでありえたかどうかは別として、誠心誠意、全精魂をこめた教育に彼が没入したことはたしかである。

 英国戴冠式に参列
 明治四十四年六月、イギリス王ジョージ五世の戴冠式に出席する東伏見宮依仁親王の随員として、希典は海軍大将東郷平八郎と一緒に、陸海軍を代表して訪英した。ときに、彼は六十四歳であった。東郷とともに、陸海軍の代表に選ばれたということは最高の栄誉であったといえよう。
 戴冠式に出席した後で、希典は、イートン、ハーローなどの学校を見学し、さらに帰途、フランス、ドイツ、ルーマニアなどの小学校、中学校、士官学校を見学している。
 八月二十九日、帰国した希典は、九月二十八日、全学生を集めて渡欧中の話をした。
「自分の見てきたことについて、親しくお話をしたいが、始めから終り迄は非常に長くなるから、旅行中の所々をお話しよう。彼の地の学校、学生、婦人方のこと、ご饗応をうけた時などのことをつまんでお話しよう。
 まず、イギリスへ到着するまでの途中のことははぶき、ロンドンについてからのことを話そうと思う。戴冠式は何にせよ、盛大無類な大典で、大きい儀式である。イギリスはヨーロッパの中でも、ことに昔のことを重んずる国柄であるから、その式も厳そかで、盛大な上に盛大と申すより外はない。然し、その式について盛大というは、年一年と、富み且つ強くなって、世界中、イギリスが今日最優勢な有様である故、世界中のあらゆる国々から集まった。これは、今日の列強中、真似のできないことである。
 式がすんでから、四日間お暇をもらい、スコットランドヘ旅行して、イギリスのいなかの風俗を見ることができたのは幸いであった。いなかの風俗は誠に質素である。質素であるが清潔である。どこが清潔かというと、日本の農家等に比較して衛生がよくゆきとどいている。自分は希望して小さい宿屋に泊ってみたが、すべて掃除がゆきとどき、食器なども清潔であろ。夜具の被布も、古いのを修繕していて良く洗濯している。日本では、絹布の夜具を出し、白き布をつけているが不潔である。自分は質素で清潔なことは、最も喜び尊ぶところである。
 フランスといえば、いかにも華美な様に承知していたが、近頃は変化して、市中などを気をつけてみると、あやしげな衣類や帽子、そんなものが思いのほかにない。さぞ、自分は目新しい風俗があるだろうと、女学校をみたが、変化はない。家の構造も変らない。生徒は中学で、十三、四以上であるが、誠に質素な姿である。そして、年齢にかかわらず、白粉などをぬらない。また指環などをつけない。首飾もないという風である。また、他の処でも、学生として、処女として、すべてにわたり、思いのほか質素である。また、他の女学校を見ても、極近きところの者は勿論のこと、三十分以上もかかるところの者も、学生の帰るまで送り迎えの者が学校で待つということはないとのことである。なる程、送り迎えは必要であるが、時間を費し、学校のすむまで待っているのは、その人達の仕事を欠き、時間を空費する」
 希典には、どこまでも、イギリス・フランスの学校の形しかみえなかったらしい。みなかったらしい。そういう形が、どういう思想、どういう精神から生まれたかということを考えることはできなかったようである。しかし、かつてイギリス・フランスの思想を否定したことのある彼は、このときに何と考えたのであろうか。
 同じときに、イギリスの軍隊をみて、希典は、「イギリスは傭兵制度であるから、実は稍々軽蔑の念をもって臨んだのであるが、行ってみると予想外に進歩し、軍紀といい、風紀といい、実に侮るべからざる有様で、乃木の以前の考えは間違っていたことを悔いたのである。
 あのイギリスの軍隊が実際戦場で決死奮闘するならば、恐ろしい軍隊である。軍紀、風紀の厳粛なることは野外演習などで明らかに認められる。ただ、実際戦場に死を顧みざるや否やは、実戦して見ねばわからぬけれども、ともかくも甚だ精鋭で、一見して傭兵とはどうしても思われないのである。
 かくのごとく、イギリス陸軍が改良せられたる原因は、キチナー元帥のごとき、真面目の老将軍が率先躬行して、日夜孜々として、軍隊の改良進歩をはかった結果である。なんというても、すべての点において、英国は健全なる大国である。学ぶべき先進国である」
と書いているが、彼は、これまでのイギリス観、フランス観を是正しなければならないことになったのである。大きく誤解していたことに気づく。

 苦痛となった栄光の座
 だが、希典には、自らの自由意志で軍人を選ぶということの意味は、依然として理解されなかったようだし、イギリス人の思想と生活に関係なく、キチナー元帥によって、すぐれたイギリス軍隊がつくられたという以上の理解はできなかった。その意味では、彼は年をとりすぎていた。彼の頭脳は硬化しすぎていたといえるかもしれない。
 だから、希典が全精魂をこめて、徳目主義、規範主義の教育をやろうとすればするほど、また至誠、忍耐、努力、質素の徳目を強くかかげればかかげるほど、彼と生徒の間に間隙が生じたのである。それは、人間精神と思想の自由性、創造性を感じはじめ、知りはじめ、それを強く求めずにはいられなくなった生徒と、徳目主義、規範主義にがんじがらめになった彼との間に当然おこる間隙であった。だからといって、この生真面目な老院長を笑い、軽蔑するほどに、生徒は幼くなかったであろう。おそらく、生徒は正面から老院長の意見に反対することもなく、この老院長をいたわり、慰めようとさえしたのではなかろうか。
 希典には、そのことがだんだんと、痛いほどにわかってきたのではなかったろうか。彼と生徒の間をうずめようとしても、うずめきれないものがあるのを痛感したのではなかろうか。
 こうして、希典は、いやおうなく、学習院院長の仕事に失敗したことを知らなければならなかったと私は思う。明治天皇の絶大な信用と期待のもとに、学習院院長になったものの、彼はその教育に、日露戦争のときの旅順要塞攻撃以上の失敗と痛苦を認め、感じなければならなかったのではあるまいか。しかも、彼が長い間かかって考えてきた教育、最も自信のあった教育で敗北を認めなければならなかったとすれば、彼の思いはどうであったろう。
 明治日本というか、明治天皇を支配者、指導者に仰ぐ明治国家で、天皇の藩屏になる人々を教育する学習院院長になるということは、最大の名誉であり、栄光である。希典はその地位を獲得した。それは、彼には最高の満足でもあったろう。
 だが、その失敗を知らされ、明治天皇の信用と期待にこたえることができないと知ったとき、希典は深い驚きと激しい痛みにおそわれたのではあるまいか。
 臣民としての希典にとって最高の栄光の座であったポストも、彼には、だんだんと苦痛になり、重荷になってきた。その苦痛と重荷は、栄光の座であっただけに、彼をおしつぶすほどに激しく、重かったであろう。そして、それと関係なく、ルーマニア王とイギリス王から勲章を授与された。希典のような人間には、それがいよいよ重く感じられたのではなかろうか。

 

                   <代表的明治人 目次> 

 

   十 絶望

 切腹で歴史に生きる信念
 希典は、もの心ついたころから、人間の死というものについて考えてきた。ことに、切腹というものについて。そこに、壮烈で悲壮なものがあること、なによりも切腹する人の想像を絶する決断と勇気があることを知って、切腹そのものに憧れの気持さえいだいた。
 だが、赤穂四十七士の切腹、玉木文之進の切腹を考えていくうちに、その切腹がどんなに、後世の人々に勇気と決断をあたえているかを知った。切腹ではないが、それに近いともいえる松陰の刑死が、いかに高杉晋作、久坂玄瑞、入江杉蔵、吉田栄太郎らを人間的思想的に成長させ、明治維新を闘いとる中心的力になるまでに育てたことか。希典は切腹や切腹に近い刑死というものに強い賛歎の心さえもつようになった。切腹や切腹に近い死を強く要望する人間になっていたとさえいえよう。
 切腹すべきときに立派に切腹するということが、人間が歴史的に永遠に生きうることであると思ったかもしれない。それは、希典のように感受性が鋭く、深く考え、強く思う人間、ことに文学的才能のある者にはありがちなことである。こうして彼は、切腹を決心し、選ぶというよりは、切腹を考え、切腹に憧れ、切腹を望む人間になったということができる。
 弟真人が戦死し、師玉木文之進が切腹したとき、希典は人間が何故に切腹し、切腹を選ぶかということを深く考えないではいられなかったであろう。切腹に、あまり意味のないものもあり、意味のあるものもあるということも知ったに違いない。
 西郷の乱で軍旗をとられたときに、希典は、切腹を自分のものとして初めて真剣にうけとめて考えた。本当に切腹しようと決心したかもしれない。だが、彼は、そのことに切腹の意味を発見することができなかったとはいえないだろうか。そのために切腹することで、歴史的に生きうるという確信をもてなかったのかもしれない。反対に死のうと決心したが、切腹できなかったのかもしれない。死が恐ろしくて。
 私は、西南戦争後の彼の荒れようは、軍旗をとられた自責の念でなく、死のうとして死ねなかった自分自身への嫌悪からでたのではないかと先述したが、切腹できなかった彼は、ここであらためて、切腹することそのことを、切腹を選ぶということそのことを、その課題としてうけとめていくことになったのではないか。彼は、このときかぎり、切腹に憧れ、切腹を考える青年でなく、現実にある切腹とむきあい、切腹できる人間になるということが彼の課題になったはずである。そこに、彼の陰鬱さもある。追いつめられたものの苦悩もある。そして、その荒れた生活が十年間も続いたということは、彼自身、切腹できる立場に到達できなかったということでもあろうか。
 希典は学習院院長時代、生徒に家系とか家柄とかを重んずるように強調しているが、それこそ、弟真人にその意志はなかったにしろ、反逆者の烙印をおされたという事実に対する自責の念であり、その思いは軍旗を取られたということにまさりこそすれ、決してそれ以下ではなかったはずである。彼は、軍旗を失い、さらに肉親から反逆者を出したということで、真剣に切腹することを考えながら、終に切腹できない自分を発見したとき、あらためて切腹することの厳しさを思わないではいられなかったであろう。弾丸にあたって死にたいという願いは、そこからきている。

 生きる価値の喪失
 希典が切腹の問題と対決し、その問題を克服するための活路を、極端な徳目主義、徹底した規範主義に発見していったことも非常によくわかる。しかし、その徳目主義、規範主義に徹していくなかで、彼のなかに徐々に陸軍首脳に、陸軍の上級将校に、その夫人達に対する不平不満がおこってきたことも否定できない。それは、さらに日本人一般に討する怒りにまで発展する。しかも、陸軍の首脳が彼を起用せず、彼が蛇蝎のごとく嫌悪し、軽蔑する桂太郎などがどんどん起用されるのをみたとき、彼は深い絶望に落ちこんでいき、とうとう、その徳目主義、規範主義の信者にまでなっていった。信者になる以外になかったのである。
 希典が「軍人はかくありたきもの」と題して綴った、十五ヵ条からなる軍人心得は、日本陸軍に対する、日本陸軍が歩もうとする方向に対する怒りであり、憤りであった。明治日本への痛切なる告発の小論であった。日露戦争で夥しい将兵を殺したとき、彼は、再び死を思い、死を願望する人間になるが、だからとて彼は切腹を求めなかった。死のうとはしなかった。彼には、死ねなかったのである。それは、おそらく西南戦争のときに死ねなかったのとは違っていたはずである。その苦しさから、死にたいと思ったが、明治日本の歩みを心配して死ねなかったのである。陸軍の将来を思うと死ねなかったのである。ことに、旅順攻略における遅々たる成果と、夥しい犠牲をめぐって国民の示した怒号は、無理もないとは思いつつも、実情も知らずに軽々しく怒り、その怒りをただめちゃめちゃにぶっつける、節度も風紀もまったくない国民の姿に、彼は死ぬどころか、かえってなんとかせねばならぬと思ったに違いない。
 だからこそ、希典は、旅順攻略戦のあと寺内陸相に、沢山の将兵を殺し、多数の日時を要したことをわびたあとに、「軍服の改革と軍紀の粛正」について意見をのべたのである。奉天の戦いを前に、多忙のなかにも、陸軍の軍紀をたかめようと考える彼である。死ぬどころか、生きたかったはずである。生きねばならないと思ったはずである。
 日露戦争のあと、彼は教育総監(軍監部総監)になることを欲したであろう。その願いは切実であったに違いない。しかし、教育総監になることもなく、学習院院長になった。そのポストは栄光につつまれたものではあったが、所詮、終始軍人でありたいと思った彼には不満なポストであったといえる。しかもそこで、彼が一生懸命になり、情熱的になればなるほど、自分と生徒の間に間隙を発見しなければならなかったとすれば、絶望に追いこまれる以外になかろう。
 陸軍に絶望し、明治日本に絶望し、明治日本を形成している国民に絶望した希典が、最後に未来の日本を背負う青少年との間に溝を発見したとき、彼は初めて自分自身にも絶望する以外になかった。それまでの彼は、陸軍首脳や日本国民に絶望しても、自分自身に、自分の能力に絶望したことはない。
 おそらく、旅順攻略に対しても、自分以外の誰かがやっても同じこと、あるいは自分以下であったという自負があったと思われる。しかし、今、学習院の生徒に見捨てられたとき、いやおうなく、自分の敗北を認める以外になかったであろう。

 天皇崩御と切腹
 そういう心境に追いこまれたときに、たまたま明治天皇の崩御があったのである。それが、彼に死ぬきっかけをあたえた。もし、彼が学習院の教育に成功し、生徒が彼を本当に必要としていると知っていたなら、その生徒を放置して死ねるものではない。すぐれた師弟関係とはそういうものだし、そこに教育というものの微妙な姿がある。不思議な人間関係がある。
 希典は、世の中に絶望し、自分自身に絶望したとき、人間は容易に死ねるものだということを考えたかもしれない。その意味では、明治天皇は彼の生きていく最後の支えであったともいえよう。明治天皇の崩御は、彼からその最後の支えすら奪ったのである。
 しかも、希典は、イギリスとフランスを実際にみて、自分がいだいていたイギリス観、フランス観があやまっていることを知った。明確ではないにしろ、両国民を支えている個人主義、自由主義について、考えなおしてみる立場にたたされたともいえる。もし、それを認めるなら、彼を長い間支えてきた思想は崩れ落ちることになる。それは、いたたまれないような焦燥感を彼にあたえたのではなかろうか。それは、英、仏両国を訪問したときから始まった疑問ではなかろうか。焦燥感ではなかろうか。
 こうして、希典はあらゆるものに追いつめられ、一切に絶望し、生きていく最後の支えまで失って、九月十三日に自殺する。その遺書には、次のように書かれていた。
「自分このたび御跡を追い奉り自殺候段恐入り候義、その罪は軽からず存じ候。然る処、明治十年の役に於て軍旗を失い、その後死処得たく心がけ候もその機を得ず、皇恩の厚きに浴し、今日迄過分の御優遇を蒙り、追々老衰もはや御役に立ち候時も余日なく候折柄、この度の御大変、何共恐入り候次第、ここに覚悟相定め候事に候。
 両希戦死の後は、先輩諸氏親友諸彦よりも度々懇諭これあり候えども、養子弊害は古来の議論これあり、目前乃木大見の如き例、他にもすくなからず、特に華族の御優遇あいこうむりおり、実子ならば致し方もこれなく候えども、却って汚名をのこすようの憂えこれなきため、天理にそむきたることは致すまじき事に候。祖先の墳墓の守護は血縁のこれあるかぎりは、その者どもの気をつけ申すべき事に候。すなわち、新坂邸はそのため区または市に寄附し、然るべく方法願度候。(略)
 父君、祖父、曾祖父君の遺書類は乃木家の歴史ともいうべきものなる故、厳に取りまとめ、真に不用の分を除き、佐々木侯爵家または佐々木神社へ永久無限に御預け申し度く候。(後略)」
 希典は、自分の死に、可能なかぎり意味と価値をあたえようとした。それがまた、いっさいに絶望しながらも、未来の日本に歴史的に生きることであると、彼自身、長い時間をかけて考えたことでもあった。そのためには、軍旗喪失の責任をとって、死ぬということが最も好ましいと考えたのであろう。とくに、天皇への忠節と責任を日頃強調してきた者として、それが最もふさわしいと考えたのであろう。それがまた、心ある人々の胸を大きくうち、心ある人々をたちあがらせると思ったに違いない。
「死処を得たい、その機を得たい」と思ったと書く希典であるが、自分勝手に死ぬということ、死にたいと思いながらその任務につくということが、天皇に対する忠節でないことは、彼ほどの人物にわからないわけはない。おそらく、明治天皇は、日本の未来、皇太子の未来を心配しながら崩御したはずである。それを知悉しない希典でもない。あくまで生きて、明治天皇の心に生きるのが、希典の忠義であるということも知っていたであろう。
 しかし、すべてに絶望した希典にできることはただ一つ、その死によって政府の首脳、陸軍の首脳を反省させることであり、心ある人々の胸をゆさぶるということであった。それが、彼の発見した死処である。
「もはやお役にたたない」と書く希典の気持は文字どおりであったろう。そこに、彼は死でなくて、永遠の生を求めたのである。だからこそ、この日の朝、彼は陸軍大将の正装、静子は白襟の黒のうちかけに袴という姿で写真をとっている。彼は十二分に、人々が彼の気持を理解し、彼を模範としてくれることを知っていたのである。また、それ故に、「乃木家の歴史云々」という言葉が遺書のなかにもでてくるのである。

 夫人同伴の壮烈な死
 吉田松陰が江戸送りになるとき、死を覚悟して、弟子松洞にその自画像をかかせているが、その故知にならったのかもしれない。彼の死は、絶望の末とはいっても、やはり壮烈な死であり、感動的な死である。誰もがまねることのできない自刃である。明治天皇の心に背き、その意志に反しての自刃ではあったが。
 静子もまた、希典の意志に反して、死を選んだ。希典と同じように、一切に絶望して自殺した。というのは、二人が自殺する前日の彼の遺書には、「静子儀、追々老境に入り、石林は不便の地、病気等の節心細くとの儀もっともに存じ候故、集作にゆずり、中野の家に住居しかるべく候」と書いているし、遺書の宛名にも、湯地定基、大館集作、玉木正之とならんで静子の名もある。
 希典は、自分の自殺の後に、当然静子が生きていくことを考えたし、予想もした。だが、静子からみるとき、希典が自殺するということは、自分をつきはなし、夫としての責任を放棄して勝手に死んでいくものにみえたのではないか。お前は今後、生命のつづくかぎり勝手に生きていったらよいと言われているに等しいとうけとったに違いない。
 それは、長年、住み、親しんできた家を市か区に寄付したことでも明らかである。あとに残る静子の気持など全く考えようとしない。自分の心を殺して生きてきた三十年、自分の心を抑えて、名ばかりの夫に奴隷の如くつかえてきた三十年。それを甘受してきた自分を思うと、静子は、あらためて自分自身に深い絶望を感じたのではなかろうか。
 絶対服従を求められ、何一つするにも希典の許可が必要であった自分。お金まで、必要に応じて、そのときそのときにもらうような生活。しかも、二人の子供まで戦死させた今、何を生き甲斐として、これから生きていくかを考えたとき、静子は、めんどうくさくなったのではなかろうか。死の瞬間まで、徹底してエゴイストであった希典につきあって疲れたといえるかもしれない。
 宿利重一の『乃木静子』には、
「突如として将軍の室の静寂は破れた。明らかにききとることのできるものではなかったが、『今夜だけは』と云う夫人の声が階下にきこえた。やや高い調子で聞かれたのみでなく、つづいて二、三の強い言葉も交わされた。もちろん、ただ『今夜だけは』という以外にはいずれも明瞭にきき取ることはできなかったが、たしかに緊張しきった気配が感ぜられた。そして、ふたたび静寂に返ったのもしばしで、やがて気持のわるい圧迫されるようなひびきが階下にいるものを異常に驚かした。(略)
 サダ子(静子の姉、馬場サダ子……筆者)はひとりごとのように、『静子は死にやったのじゃよ』と語った。そして、部屋のなかには一段と無気味な空気がただよったが、目ざめたように起った馬場サダ子は、肥満した、不自由な身体を下婢にたすけられて二階に、『希典さん、希典さん、どうなさいました?』と廊下に立ってドアー越しに問うのであったが、もちろん、それには何の返事もない。年老いたサダ子は涙声になって、
『静子に無調法がございましたら私がお詫びします。お許し下さい』
とくり返して呼びかけるのであった。(略)
 なまぐさい血潮のにおいが強烈にもれる。いぜんとして、サダ子は『希典さん、希典さん』『静子に無調法がございましたら』とよんでいたが、かすかに、将軍の声で、
『ごめんください』といったように受けとれた。やがて何物かの倒れるような異様な音がすると同時に、重苦しい呼吸がきこえ、それも絶えて、……階下にいるものには水のようなものがさらさらとしだいに壁を流下するようにも感ぜられた」と書いている。
 宿利氏は今日でいう、ルポ・ライター。希典・静子の周囲の人たちの話をもとに書いたと思われるが、これによると、明らかに静子が先に死んでいるし、彼はそれを援助している。永遠に謎につつまれた二人の自殺といえよう。
 だが、私には、自害の経過をせんさくする興味はない。二人が壮烈な死を選んだということ、その事実だけで十分である。
 希典の辞世の句
  うつし世を神さりましし大君の
   みあとしたひて われはゆくなり
  神あかりあかりましぬる大君の
   みあとはるかにをろかみまつる
 静子夫人の辞世
  出てましてかへります日のなしときく
   けふの御幸に逢うふそかなしき
 静子は、明治天皇の御幸に夫希典の死を重ねあわせて詠んだのである。

 

                   <代表的明治人 目次> 

 

第三部 乃木の思想

 

   一 人間観

 個人主義、自由主義への憎悪
 希典の思想を述べるにあたって、私はまず、彼の人間観、自分をもふくめて、彼が人間をどのようにとらえていたかについて述べたいと思う。それが、このあとに述べようとする彼の教育観、国家観の基礎となり、前提となっていると思うからである。
 希典は人間をどのようにみ、どのように考えたのであろうか。もちろん、彼には人間観というか、人間をどのようにみたかについての発言はない。彼の人間観をみようとすれば、どうしても、彼が人々にどういう態度をとり、どういう言を吐いたかということから類推するしかない。しかし、そういう具体的発言と行動が、彼の人間観をもっとも如実に示しているともいえる。そこには、ごまかしはないし、またごまかしようもないからだ。その意味では、意見としての人間観よりも、ずっと純度が高く、信頼もできる。
 すでに述べてきたように、希典は、人間というものを非常に単純なものとしてわりきる。決して、複雑で奇々怪々の要素とは思わない。それ故に、軍人になり、軍人としての生涯を送ったということができようが、彼自身、青年時代、すなわち明治四、五年から明治十七、八年までの間、酒を飲み、女性と遊び、思想的に苦しみ、精神的に煩悶したことが、その後の彼に少しも生かされておらず、吸収されていないようである。全く、無駄なことをした、つまらないことをしたものだという以上にはうけとられていない。後悔だけをしているのである。
 希典は、そういうことが、人間、特に青年に固有のものであり、時には必要欠くべからざるもの、そのなかで人間は思想的にも精神的にも成長し、成熟していくものであることを認めようとしない。彼には、そのことがわからなかったといってもいいかもしれない。だから、当然そういうものを苦悶のなかに通りこしてきた人間が、それを経てこなかった人間よりも、人間と人生について深い理解をもてる人間、人間の悲しみや弱さについて、より深い同情をもてる人間になれるということを理解しない。
 その意味では、希典という人間は、長い荒れた生活、苦悶の生活を送った者としては、過去からほとんど学ばなかった珍しい人間なのかもしれない。人間というものを総合的、全体的に理解しようとしなかった数少ない人間といえるのかもしれない。そこに、彼が徳目主義、規範主義に陥り、すべての人間をその徳目主義、規範主義の鋳型にはめこもうとし、またはめこめると確信した根拠があろう。そして、自分の徳目主義、規範主義にはまらない人間、それを遵奉しようとしない人間はけしからんと考えるようになる。
 ある意味では、希典は、人間をもっとも弱いもの、だめなもの、悲しいものと思っていた故に、徳目主義、規範主義にはめこもうとしたのかもしれない。徳目主義、規範主義の立場をとり、それにはめこもうとする姿勢をとることによって、はじめて弱い人間、だめな人間から脱皮することができると思ったのかもしれない。
 もちろんそれは、希典が、江戸時代からの封建的人間像をその根底にひきずっていることを意味する。そこから脱皮していないことを意味する。だからこそ、自らの自我を拡大し、発展させ、確立させるための苦しい闘いを放棄したように、すべての人にその自我を確立させるための闘いを放棄することを要求した。あるいは、彼自身、自我を確立させることに失敗したが、自惚の強い、負けず嫌いの彼は、他人にも自我を放棄することを求めたといったほうが正確なのかもしれない。
 自我を確立する方向は、必然的に、個人主義、自由主義の道をたどり、それを自分のなかに定着させようとする。反対に、自我を放棄する立場は、国権主義、絶対主義の道をたどり、絶対服従の道を歩む。希典の国権主義、絶対主義は、明治天皇と結びつき、軍人の忠節という形をとってより完璧になっていった。
 個人主義、自由主義を憎悪する希典の立場は、以上のそれと無関係ではない。徳目主義・規範主義はいよいよ強くなっていく。
 明治維新はある意味の革命であった。だが、希典のなかには何らの革命もなく、彼のなかの封建的人間像は、そのまま明治のなかに温存された。いや、より強く温存されたといってもよい。それは、当時の多くの日本人の意識と思想に革命がおこらなかったように、彼にもおこらなかったのである。

 忠誠的軍人の人間観
 こうして、希典自身、封建的軍人になったが、同時に彼は、他の軍人にも封建的軍人であることを求めたのである。思想と政治に無関係に、政府の、上官の命ずるままに、無批判に服従し、猪突猛進する忠誠的軍人になることを厳しく求めたのである。
 そこには、自由の意識も権利の意識も義務の意識もない。少なくとも、人間としての義務の意識は、自らそう思い、そう信じ、そう選ぶ意識がなくてならない。希典の考えたものは、人間でなくて、奴隷のつとめ以上にはゆかない。
 希典の考えた忠誠的軍人とは、また、天皇の軍人であり、天皇のためにのみ存在する軍人である。手段的な存在であって、人間個々に固有の意味と価値を認める人間観ではない。人間それ自身に目的を置く人間観ではない。もちろん、ある人間が、自分は天皇のために存在する人間であり、天皇のために喜んで死のうと考えて、自らを天皇の手段的存在であると規定するなら、それはその人が考え、主体的に求めた忠誠的人間である。その場合は近代的人間が忠誠的軍人になることを求めたということになる。
 しかし、希典の考えは、全くそれに反する。つまり、天皇があり、その手段的存在としての軍人があるだけである。天皇と軍人の関係は、初めから、厳然とそうなっていると考える。それは、封建的主従関係である。彼は、その関係を軍人だけでなく、全国民におよぼそうと考えた。全国民におよぼせるとも考えたのである。
 いいかえれば、人間を単純素朴なものとわりきった希典は、また、この世のなかを単純なものにもしてゆこうと考えるのである。当然彼は、彼の人間観によって、現実の人間関係から復讐される。彼に常時接している人間は、ほとんど彼にソッポをむき、ときどき彼に会うような人、彼の話をいろいろきいた人だけが、彼を支持する。彼の信者になる。彼に劣らず単純な人間だけが、彼を支持し、信者になる。
 希典に常時接している人々が、彼にソッポをむくということは、自分自身が単純なために、それ以上単純な人につきあうのはいやだということもあろうし、単純な人にありがちな無味乾燥さが面白くないということもあろう。加えて、彼は謹厳ときている。謹厳を人に求める。そうなると、面白くない上に窮屈にもなってくる。
 また、人間を単純化してとらえるという希典の立場は、人間が単に命令を遂行するだけの存在にすぎないものとして、人間の持つ思想的側面や政治的・経済的側面に対して全く盲目にさせる。もちろん、人間の遊び的側面をみようとしない。とすれば、彼の人間観からは、人間の多くの側面と要素が欠落してくる。人間味や人間性が失われ、いわば生命が枯渇していくのである。自然、冷たい人間にもなる。
 そういうところが、教え子の武者小路実篤から、「人間本来の生命にふれない、人間本来の生命をよびさまさない」という批判がでた原因でもある。
 希典が、なぜ個人主義、自由主義の道をたどらず、自我の拡大と確立を求めなかったか、明治の新しい青年らしく、思想と意識の革命にとりくまなかったかは明らかでないが、それは師にめぐまれなかったことに加えて、幕末から明治にかけての日本は、対立抗争がはげしく、何が正義であり、何が真理であるかをきめかねるような時代、「勝てば官軍、負ければ賊軍」というような時代に生きて、彼はその拠所を発見しかねたのではないかと思われる。自ら正義と考え、真理と思うものを発見することが困難であったと思われる。たしかに、正義と真理を自ら発見し、それに自分の全存在をかけることは容易でない。強靱な思考力と粘り強い忍耐力と勇気を必要としている。それは、青年時代の希典の苦手とするところである。そこから、彼のあなたまかせの生活が始まった。常に、支配体制に順応していく生活が始まったのだった。
 希典は、一部の例外的人間を除く大多数の人々は、自分と同じ能力の人間、同じタイプの人間と考えたようだ。命令をただ遂行するだけの人間と考えたのである。絶対服従して、ただ、命令を遂行しなければならないとも考えるのである。

 妻静子への抑圧と束縛
 希典がこういう人間観をもって終始つきあった人間、こういう人間観を徹底的におしつけようとした人間が、妻静子である。静子は、本来、自我の拡大、確立を志向する新しい女性であった。その点、新しい青年であることを自分自身に課することをやめた彼と、新しい女性であることを自分自身に課する彼女との結合は、最初から不幸であった。
「鹿児島の女性であれば誰でもいい」といって希典は妻をもらった。鹿児島というところは男尊女卑の極度に強い土地、そういう土地の女性を妻に求めたということは、彼の人間観と無関係でない。妻を夫に絶対服従する者、隷属する者とみるのは、人間を封建的人間、忠誠的人間とみる人間がほとんど陥る女性観である。彼らは、人間を自我のない人間、自我を殺さねばならない人間とみる。絶対者のための手段的存在として、絶対随順をしなければならない人間とみる。自分を絶対随順する人間として自覚するとき、人々はまた痛切に、自分を小絶対者として、自分の命令に随順することを他に求める。強引に随順させようと考えたがるものである。
 昔、軍隊で、「連隊長は馬場をける」とよくいわれたものである。絶対随順の軍隊で、連隊長の無理な発言や怒りをうけた中隊長は、その不満を小隊長に、小隊長は下士官に、下士官は兵隊に、兵隊は馬に、馬はその不満をもっていくところのないままに、馬場をけるというのである。そういう立場におかれる妻はたまったものではない。自然、ヒステリーになるか、子供を感情的に叱ることになる。
 自分に、人間としての価値、権利、自由を認めない者が、女性に妻にそれらを認めるわけがない。こうして、夫と妻、男性と女性の間の封建的関係、忠誠的関係が生まれる。妻は夫の手段的存在となる。
 希典は静子に、そういう妻であることをもとめた。彼女が家出をしたのは、夫への反旗であり、反発であった。だが、彼女は独立の足がかりをつかめないままに、結局、彼のもとにかえっていく。忠誠的、奴隷的人間として。彼と彼女が別居中、「彼女を離婚しては」といわれると、「静を離婚する日は彼女の死んだ日です。息のある間は、乃木家からだすようなことをしません」と彼は答えたという。
 これまでの乃木伝の多くは、希典の静子への深い愛情として、この事実を書いているが、私は反対に、彼女を夫の奴隷としてしばりつけようとする彼の態度を感ずるのである。二夫にまみえない妻として遇しようとしただけである。でなければ、彼が多くの人々を理解できなかったように、彼女の心情をも全く理解できずに、ただ単に自分の感情をおしつけただけである。自分の感情のままにふるまっただけであって、愛情とは全く無関係である。
 希典は、自分のもとにかえってきた静子を今まで以上に、自分の思う型の女性にしあげようとでも思ったのであろうか、ああしちゃいけない、こうしちゃいけないと、うるさくいい始める。それこそ、彼女に感情も意志もないかのように、その感情・意志を無視するかのように。

 雪中、静子を追い返す
 希典が第十一師団長として、香川県の善通寺にいたときのことである。冬のある日、静子が突然、善通寺を訪ねた。すると、彼はカンカンになっておこりはじめ、「追い返してしまえ、会うことはできない」とか、「夫の許しもうけず、夫の任地へくる法はない」と取次の者にどなる有様。しかたなく、取次の者が、その言葉を伝えようと出てみると、静子がしょんぼりと立っている。折あしく、雪まで降ってきた。みかねて、希典がとまっていた寺の老僧が裏座敷にあげて、熱いお茶をご馳走する。
「ゆるしをうけずに参ったのは、私が悪かったと思いますが、家政のことで手紙に書けないこともあり、訪ねて参りました。会わないというのは、どういう考えでしょうか」と彼女は老僧にきくのである。そのときの彼女は恨みと怒りで慄えていたという。そこに、希典の「さっさと帰れ。多度津にいっても、おれがよく泊まる花菱屋という旅館にはとまるな」という言葉を取次の者が伝えてきた。やむなく彼女は、その晩、多度津にでて、他の旅館に泊まった。
 老僧や副官がとりなして、やっと、希典は「明朝、会ってやる」といったという。ここにはもはや、静子を奴隷としてみる以外のどんなみかたもなかったといってよかろう。
 そのときからしばらくして、希典がマラリヤ熱で床についたことがある。医者も危ぶむほどの高熱であったので、静子は長男勝典をつれて彼のもとにかけつけた。彼は勝典には会おうといったが、静子には会おうとしない。さすがに勝典も、母の心情を思って立つことができない。二十一歳の勝典にも、父の態度が異常であることがよくわかる。母親にすすめられて、やっと立ちあがったほどであった。一時間、病床のそばにいたが、二人ともこれという話をしなかった。そういう親子関係であったのである。
 終に希典は、静子に自分を見舞うことを許さなかった。病室にはいることすら許さなかったのである。これは、彼女を苦しめること以外の何ものでもない。かつて、別居中、彼女を訪れた彼が、一度も泊まるどころか、軍服すら脱がなかったということは、彼がいかに彼女をつきはなして扱っていたか、女性として遇さなかったかということを示している。
 静子は、盆石を楽しむことで、わずかにその寂しさをまぎらわしたというが、その盆石を楽しむということですら、希典の許しを必要としたのである。彼女を知る者が、彼女の生活は涙の出るほどの寂しさであったといったのも無理はない。
 明治天皇は希典に、「乃木は子供を失った。そのかわりに多くの子供をあたえてやろう」といって、学習院院長にしたというが、たしかに、彼は、それによって寂しくなくなったかもしれないが、学習院の寄宿寮にねおきして、月に一、二度、それもちょっと帰るだけの彼となったとき、彼女自身の寂しさはどうなったのか。明治天皇は静子の寂しさには思いいたらなかったのであろうか。

 最低の親子関係
 妻静子に対するこういう態度は、父親として子供に対する態度のなかにも当然でてくる。勝典が、日露戦争に出征する前夜、彼女は、「今夜だけは笑い顔で、食事をして下さい。それが勝典に何よりのはなむけになります」と希典にたのんだが、ついに、彼は微笑すらしなかったということである。勝典と保典はうつむいたまま、食事を終わったといわれているが、そのときの二人の心中にあったものは何か、容易に想像できよう。
 希典は、二人の子供にも、自分の感情や考えをおしつけた。そればかりか、子供を私有物として取り扱っている。旅順攻撃中のことである。弟保典は第一師団第二旅団に属していたが、彼は自分の旅順攻撃の不面目を息子保典にも背負わせ、第一線の小隊長にするように求めたのである。しかも、そういう要求は三度も四度もなされるのである。一少尉のポストに軍司令官として容喙すべきではない。また、容喙すべきことではないと知っている。それをあえてしたということは、子供を私物化している証拠である。
 勝典、保典も、父と母との関係をみて、絶望的になり、戦死を願望していたかもしれない。父の冷たさに、いいようのない怒りと寂しさを感じていたかもしれない。しかも、その二人は希典のために、希典の思想と名誉のために死んだようなものである。
 不幸のどん底にあるような乃木家の家風。希典は、そういう家風を日本人の典型的な家風として、それを軍人の家庭に、さらに国民の家庭にも求めたのである。それは、彼の人間観、自我の拡大と確立を否定する封建的・忠誠的人間観を基礎としている。そういう人間観が前提になっている。このようにみるとき、希典の人間観は最低であり、全く浅薄であり、誤謬にみちていたといわなくてはなるまい。

 

                   <代表的明治人 目次> 

 

   二 教育観

 勅諭と軍服と人形
 希典の教育観は、当然、彼の人間観を基礎とするし、その理想的人間像もその人間観を目標とすることはいうまでもない。
 まず、希典の考えた軍隊教育論であるが、彼は明治三十六年八月、息子勝典に「軍人の精神を養うにおいて、五ヵ条の勅諭にて足れり」と書いているが、五ヵ条の勅諭とは、明治十五年一月四日、天皇から直接軍人に下賜されるという形をとって発布されたもので、軍人は忠節をつくすを本分とすべしに始まる五つの心得を書いたものである。この軍人勅諭は一説には、福地源一郎が、酒をのみ、芸者をだきながら、一挙に書きあげたともいわれているものである。希典は、軍隊教育には勅諭だけで十分と考えていたし、それ以外は不用とも考えていたのである。人間に感情や意志のあることを認めず、独自性や創造性や思想性を認めなかった彼、そういうものは否定し排除すべきものであると考えていた彼は、ただ一すじに、くりかえし軍人勅諭を読み、暗記し、その信者になればいいと思ったのである。また、くりかえし読み、暗記していれば、その信者、その実践者になれると考えたのである。
 その勅諭に書かれたものを理解し、それを肯定し、信念化しようとすればするほど、より多くの書物を読み、より多くの体験をつみ、より深く、より広く考えるということが必要なことを希典は知らなかったし、考えようともしなかった。彼自身がどんな経緯をへ、どんな苦悩の末に、天皇への忠節という観念に到達したかを考えてみようともしなかった。
 希典は、おそろしく、軍人教育を単純化した。また、それによって教育の効果をあげうると確信した。そのことは、そのまま、彼が軍服の着用と制定に異常に執心していくことにもつらなっている。彼は、軍服を名誉の制服といって、制服の着用を強制したが、制服の着用によって軍紀が厳正になり、軍人の生活も行動も思想も自然に好ましいものになると確信したからである。
 だからこそ、日露戦争の最中に、寺内陸相に軍服の改正について意見を述べるのである。軍紀の厳正のために、精神教育のために、軍服というものを希典がいかに重視したか。兵隊を人形としかみない彼は、勅諭と軍服によって、強い兵隊、すぐれた兵隊をつくろうとしたのである。

 失敗した軍隊教育
 希典の軍人教育への情熱は、年とともに強くなっていく。軍人教育を統轄する監軍部に、職を得ようと働きかけたことこそなかったらしいが、明治二十七年当時など、監軍部の参謀長岡沢精には毎週会って、教育論をたたかわしている。その打ち込みようは異常でさえある。
 しかし、結局、希典は、監軍部の参謀長にも教育総監になることもないままに終わる。また、近衛歩兵第二旅団長として、歩兵第五旅団長として、さらには第十一師団長として、実際の軍人教育にあたって、ことごとく失敗してしまうのである。彼のような人間観をもって、兵隊教育、将校教育をするなら、失敗するのは当然である。兵隊や将校が彼の考える鋳型の中に簡単にはまりこんでくれるわけはないからである。種々雑多の感情をもち、意志をもつ兵隊が、彼の思うように、期待するように、一つのタイプになってくれるわけがない。まして、兵隊より一歩も二歩も独自性や思想性の発達していると見られる将校の場合はなおさらであるといえる。だが、彼は、自分の教育観が誤っており、その教育が失敗したとは少しも考えなかったようである。自分の教育をうけいれなかった兵隊や将校がわるいのだと考えるだけである。
 これでは、希典は教育者として失格であるというしかない。最低・最悪の教育者である。学習院の院長になるとき、彼は、「陸軍の方ならば、多年関係しているから、多少心得もあるが、教育のことに関しては、トント考えてみたこともなければ経験したこともない」といっているが、彼は軍隊教育と青少年教育との関係をどのように考えていたのであろう。教育ということをトント考えてこなかった彼が、軍隊教育に情熱をかたむけてきたということほどナンセンスなことはない。教育学や教育心理学、青年心理学、教授法などを学ばずして、軍隊教育にとりくむということほど無茶はない。無鉄砲なことはないといえる。
 しかも、軍隊教育にみごとに失敗した希典を学習院院長に起用することほど、無茶なことはない。学習院といえば、旧制の中学校、高等学校の生徒をも教育するところである。高等学校の生徒といえば、兵隊はもちろんのこと、むしろ将校以上に、独白性や思想性のある者であり、人間の創造性や自由を、その全存在で追求しはじめる時期である。人間の権利と価値に激しい憧憬をいだく年代なのである。
 それらに対して、全く無理解なばかりか、認めようともしない希典を起用するということは最大のミス・キャストといってよかろう。だが、最大のミス・キャストにしろ、彼は学習院院長として、五年間、そのポストにつくのである。

 破綻した教師論
 次に、希典の教師論をみてみよう。
「師道が地に墜ちて、学生が教師を尊敬せぬという悪傾向が最近盛んになったのは、抑々何の為であるか。これは教師たり、講師たる人々が、その教育家たる本務に努力勉励せずして、種々様々な著作や出版に熱中したり、又は唯々自己の学力を一校より受くる少き俸給に捧げて仕舞うのを遺憾として、数校をかけ持ちにして、その学殖を切りうりにして講義の途中でも授業の段階が悪くても、時間の鈴がなりさえすれば直ちに教室を退場して、駈歩で次の学校にかけつけるという風で、専心一意、一つの学校の為に熱心に薫陶に従うという人が少い。このような次第であるから、如何に傑出した人物であっても、決して二足のわらじをはいて、どれも十分なる成果をあげられようはずがないのである。こんな教員の軽薄なる不親切なる態度が、自然と学生の心に推察し得られるようになった所から、終には学生が教師なるものを少しも有難く思わぬようになったのである。
 他にも、それは沢山の原因があろうけれども、要するに教師の態度が真面目でない、熱心でないからして、学生が教師を信用せぬ、有難がらぬのである。その証拠には一から十まで一人の教師が受けもって、場合によっては大小便の世話までしてやる小学校に於ては、中学以上の学校のように教師の威信が地に堕ちて居らぬ。これは、学生の知識が進んで居らぬという点も一つの原因ではあろうが、随分老年になった相当の地位にある人々が、大学、高等学校、中学の先生の名も覚えて居らぬようになっても、まだ小学校の先生だけはよく覚えている。これは実に教師の親切、教師の世話が学生そのものに沁々有難く感じさせるからである」
 さすがに、責任感を強調し、誠実とか克己とかを重視する希典だけに、一つのことに集中し、責任ある行動を求めている教師論は、なかなか鋭い。今日、ますますかけもち教授が多くなっているときだけに、今日にそのまま通用する意見である。だが、単純な彼は、単純に、大学、高校、中学、小学の教師を一緒にして論ずる。小学教師も大学教授も、子供に親切であるべきだということで、同じ次元で論ずる。だが、大学教授が学生に本当に親切であるとはどういうことか、それは小学教師が児童に親切であることとは、全く違うということ、むしろ違ったものでなければならないということを考えようとしない。それは、結局、人間の発達段階の違いを考えず、学生が独自性や創造性があり、自由性や創造性を求めている存在であることを考えないことからくる。
 希典の教師論は、このような限界をもつが、彼がつぎのようにいうとき、その教師論は限界どころか、破綻であるとさえいえよう。
「学習院は、幼稚園から小学夜、中学校、女学校、高等学校と教育方面の何でも屋であるから、余程注意せぬと思わぬ所から失態が生じやすい。
 就中、既に年頃の学生が高等学校にはいる。然るに、女学校の方でも、これと同様に随分立派な女達がいるのであるから、これらが互に相交通して、為にその間に不都合や間違いの起らぬようにしたいものである。
 それが為には、少し極端のようではあるが、教師諸君も是非ない用事の外は、あまりに足繁く交通せぬがよいと思う」
 こう語ったあと、さらに次のようにつづける。
「陸軍にも官舎を使用している地方があるが、それらの間に起る弊害を調査してみると、主人同志が仲が悪くて交際せぬというようなことは少い。多くは家族が接近しすぎる結果、まず第一番に下女が頻繁に交通し、それが導火線となって妻君の交通となり、女、子供、奴婢の交通が頻繁になると共に、おしゃべりが盛んになるものであるから、あちらにもこちらにも種々なる紛糾が生じてくる。それがもとになって、主人同志の気まずい根元を作り、終にそれが公務の上にまで及んでくるというのが、一定の順序で、官舎生活の弱点である。
 他の官舎はとにかく、学習院の官舎は教育家の集団である。その間に、もしも、左様なつまらぬ苦情から不和を生じ、それが寄宿舎の一致の上にまで及ぶことにでもなったら、陛下のお思召に対して相済まぬ。主人方はそれぞれ心得もあることであるから支障はないが、如何に教育家の家族でも、家族が皆賢人、君子である筈がない。
 で、官舎同志の交通はなるべく頻繁でないようにしたい。家族同志の交通には、害あって益なきは、自分の久しい経験が証明している」

 交流と討議の禁止
 ここには、禁止教育があるだけである。危険なもの(?)害になるもの(?)には徹底的に近よらせず、それを排除しようという考えがあるだけである。危険なもの、害になるものとの闘いのなかから、それに打ちかっていくもの、それに負けないもの、その意味で本当に強い精神と発展的な思想を育てていこうとはしない。そういう精神と思想を教師自身に希典は期待しない。期待できないといったほうが正確かもしれない。
 希典自身、彼が危険なもの、害になるものと考えたものに対しては、自信がないことから遠ざかって生きてきた。それを今、教師にも要求するようになるのである。自分と同じレベルに、すべての教師をひきさげようとするのである。しかも、ここには、社会教育の視点が全くない。女性を子供をお手伝いさんを、思想的に教育して、豊かな交際、内容のあるおしゃべりができるように助言し、指導していこうとする視点がまったくない。お手伝いさん同士や女性同士に、その交際が必要であるということをまったく理解していない。
 希典自身、静子にそのような交際を禁じたことにより、涙の出るような寂しさに彼女を追いやっている。
 教師そのものの精神と思想を信ずることができないで、禁止の処置に出た希典が、生徒に対して禁止教育でのぞんだのも当然である。外出・外泊を極度に禁止したことは、すでに述べたが、次のようなのもある。
「自分が各寮の間の交通は寮長の許可を要し、同寮中各室の交通は決してならぬ、是非用があったら、その室の外から呼び出して談話室で話す。同室のものと雖も自習時間に談話したくなったら、相伴って談話室にいって他のものの勉学をさまたげるなと、このことを非常に厳重に制限したのは、自分自身が維新当時寄宿の生活をして、その弊害を知りぬいているからである。
 自習室というものを神聖なものにして、その中では勉学するほかには、雑談も悪戯もしてならぬ所にすると、それが自然に習慣になって、休み時間に室内にとじこもって居るようなこともなく、話しのしたくなった者はどんどん談話室へいくから、よしや休み時間でも自習室は極めて静粛である。この静粛であるということが自習室には一番大切な要件で、それをいつまでも保持していくためには、少しは極端なようであるけれども、この自習室の交通遮断を励行せねばならぬ」
 こういって、寮と寮との間を交通遮断したのである。

 教師も生徒も背を向ける
 希典が寄宿寮を設置したのも、結局は、酒色におぼれたり、金銭を浪費しないために、監視つきの生活をさせようとしたにすぎない。寮の生活の中で、精神と思想のかかわり、思想と行動のかかわりを徹底的に考え、生徒自身の思いきった行動をとおして思想を実験し、発現するために、また世のなかの常識に邪魔されずに自らの真理を追求していくためにこそ寮が必要だと思ったのではない。
 希典は、生徒に禁止教育をほどこすために寮が必要であり、効果的と思ったにすぎない。そのために、徹頭徹尾、生徒のまわりは禁止事項で一杯になる。禁止をしていれば、生徒は、禁止したものに近よらないと考えたようである。文字どおり、彼は、生徒を単純に考え、その教育を単純にわりきる。その結果、生徒の自主性や自発性、判断力、抵抗力は少しも考えない。おそらく、そんなものが人間にあることも、必要なことも、一度として考えていなかったのではなかろうか。
 だから、希典が実践躬行とか、率先垂範というときのそれは、教師つまり指導者の言行に生徒つまり被指導者が無批判に服従することでしかなかったのである。盲目的に随順することであったのである。彼が言葉遣いや敬礼や服装をやかましくいったのも、実は服従になれることを目的としたものであった。
 生徒自身の自主性や判断力を重んじて、教師の言行を判断させ、選ばせるというものではなかった。だから、希典自身、強く、厳しく、自分の行動を他の人々にも要求したのである。教師の行動に生徒が服従することを求めたのである。その結果は、軍隊時代と同じく、あるいはそれ以上に、教師から、生徒からソッポをむかれることになるのである。ソッポをむかれてもしかたなかろう。
 希典が尊敬した吉田松陰の率先垂範は、生徒の自主性と判断力を重視した上のそれであったが、彼のは、それが全くなかった。同じ率先垂範でも、全く異質である。松陰には、次々と彼のあとに従うものはでたが、希典にはほとんどでない。それが両者の違いである。教育者と非教育者の違いである。

 

                   <代表的明治人 目次> 

 

   三 国家観

 天皇こそ国家
 明治という時代がいろいろな可能性のある時代であったことは、私のこれまでの論述で十分に理解していただけたと思われるが、その意味で、大いに何かをなしたいと思う気魄と意欲に満ちた者には、誠に魅力に満ちた時代であった。歴史の変革期は常にそういうものである。夢があり、ヴィジョンの豊かな者には、これほど面白く、生甲斐のある時代はないともいえよう。ことに、その時代の課題をまともにうけとめて、その課題に取り組む喜びは大きい。そのとき、人々は、自分の頭に描くことのできたヴィジョンをその能力だけ達成できるものである。
 ということは、人々が学問を通じ、書物を通じ、また他人を通じて、いかなるヴィジョンを創造していくか、その能力をどこまで育てるかということでもある。そういうことからいって、変革期に生きる人間、生きようとする者には、その時代の方向を先取し、未来社会のヴィジョンを豊富に育てるために、学問は決定的に必要であり、不可欠である。学問を通してのみ、時代の変革と創造に参加できるといってもいいすぎではない。
 だが希典は、不幸にして一度はその学問を志しながら、結局は学問を放棄した。そのために、彼のなかには日本の未来についてのどんなヴィジョンも生まれなかった。彼自身、そのヴィジョンを生みだそうとはしなかった。それが必要であると思わなかったようにもみえる。その彼も、前原一誠の蜂起の際に、明治政府と鋭く対決しようとする前原の仲間になることを強く求められたときには、日本国家の本質、日本国家の有様について、考えることを迫られたといってもよかろう。
 希典は、そのとき、天皇の軍隊、天皇の国家、一人の国家、という国家観にすがりついた。国家の中心は天皇であり、軍人はそのためのものであるという考えである。しかし、前原の参謀であり、彼の弟である真人は、「自分たちは明治政府に対決するのであって、天皇に背くのではない。天皇の周囲にいる奸賊どもを討つのである」と説く。
 真人のその言葉に、軍旗をもちだして、やっと前原の仲間にはいることを拒絶した希典であったが、このとき彼は、天皇を“玉”として、明治政府と前原がその玉を奪いあおうとしている有様が、幕末当時と少しも変わらないということを発見したのである。いずれの側が正義であり、真理であるかは、彼には全くわからなかった。それは学問をせず、日本についてのヴィジョンをもたない者にはどうしようもないことである。それを裏書きするように、「勝てば官軍、負ければ賊軍」ということが、当時いわれたのである。
 希典は、天皇を直接いただく明治政府の側についた。そこには、決断も勇気もいらなかったということもあろう。そして、何のヴィジョンもない人間として、弟真人に何の助言もできず、つきはなしてしまうしかなかった。西郷の乱がおこることによって、彼は、いよいよ正義が何であり、真理が何であるかがわからなくなったようである。
 そういう抗争をみていくなかで、希典は、自分のなかの政治的存在の側面を欠落させ、前原、西郷と明治政府がともに奪おうと死闘した玉、すなわち天皇に密着していったようにみえる。天皇とは、そういう勢力の上に超然と屹立する存在であり、天皇に密着することによって、正義や真理を判断することをしなくてもよいと考えたからである。それは、彼の生活知だったかもしれない。そして、いつか、だんだんと天皇そのものが正義であり、真理であるという考えに到達して、彼の国家観は完成する。
 もちろん、そこに、希典のごまかしがある。真相をみつめまいとする虚偽がある。天皇の意志というものも、天皇をいただく者たちが直接つくるものであり、軍人勅諭、教育勅語などすべてがそのことを証明している。しかし、彼は、都合よく政治的存在の側面を欠落させ、そういうことは考えないことにしたのである。考えないから、忠節とか質素とか至誠とかをくりかえし強調する人間になったといえる。それらをくりかえすしかできなくなったともいえよう。

 植民政策失敗の原因
 こうして、「忠君愛国」「忠孝一致」「愛国心」しか説かない希典、説けない希典ができあがるのである。それはまた、軍人勅諭に、軍人と政治との分離を説いていることから、彼には非常に都合がよかったともいえる。彼が台湾総督になりたくなかったのも、そのためであろう。軍人として、政治のそとにあって、政治を考えなくてすまされるなら、それほどいいことはなかったのである。だが、彼は台湾総督になって赴任し、政治とむきあう立場におかれた。植民地の長官として、国家そのものを日常的に感ずる立場におかれた。
 希典が、台湾総督として行なった訓示をみよう。
「漸次、これを地方政庁の処分に一任し、総督府は全局を統轄して、各庁政務の挙否と成績の如何とを監視し、以て地方当路者の治績を見んと欲す。……
 本島土民の祖先以来、軌範として遵守したる旧慣、古俗は、深く脳裡に浸潤して、殆んど不変の法度となれるものあり、その甚しく本邦の定例に違い、施政上の障碍たるものに至りては、これを廃除すべきは論なしと雖も、その弁髪、纒足、広帽の如きは、これを改むると否とは、土人の自由にまかせ、また、アヘンの如きは、一定の制限の下に、漸次禁止の効をおさめんとす。その他、その民習たり、美俗たるものは、これを保護せしめ、以て施政の利便に供すべきなり」
 これを読むと、彼もなかなか、民情に理解があるし、地方分権などにも一応の理解があるようにみえるが、この訓示に先だって、彼は、本島人に教育勅語の聖旨を遵奉させようとしている。
 希典は、自分の国家観を、それも一部の人間しか認めないような国家観を、政治的に政策的に本島人に普及し、はめこもうとするのである。彼のような人間観、国家観をもつものが、政策の中心に道徳的なもの、精神的なものを置いて、島民の生活の向上とその安定を従にしたことは無理もない。
 ことに、給与生活者として、一度も生活の危機と窮迫におそわれたことのない希典は、人間の政治的側面を欠落させたばかりか、いつか経済的側面までも欠落させたのである。経済的側面を軽視したばかりか、軽蔑し、無視しようとしたのである。そして、自分の給与の根源である経済活動を無視して平気でいられたのである。精神的価値しか認めない国家観であったともいえる。当然、植民地長官としても失敗する。失敗する以外にない。

 政府高官と軍首脳に絶望
 失敗はしたが、政治的なものに眼をひらかれて、この頃から希典の明治政府とそれに連なる人たちへの道徳的不満、倫理的怒りは強くなっていく。陸軍首脳や上級将校への不平、不満は強烈になっていく。暗に、山県有朋、黒田清隆、桂太郎などを目して、その品行の乱れは、後輩に悪い影響をあたえていると鋭く攻撃している。彼らの汚職、彼らの栄華ががまんならなくなってくるのである。華族として、ぜいたくな生活に陥っているのががまんがならないのである。
 だが、希典は、依然として政治には無関心をよそおう。政治にかかわらない軍人の立場を出ることがない。そのために、日露戦争の目的や性格を考えることもなく、尊敬し、私淑したという吉田松陰が考えた日本の生きる道としての平和国家からますますはなれ、明治政府の命ずるままに日露戦争に出征し、数万の将兵を死傷させることにもなるのである。
 明治政府に、軍首脳に絶望した希典が、その命令で多くの将兵を殺すという矛盾に、このとき気づいたであろうか。天皇を正義とし、真理とすることは観念的にできたとしても、それをいただく者たちの思想と精神によって、その正義と真理はとんでもないものになる、ゆがんでしまうということに気づいたであろうか。
 希典は、当然そのことに気づくべきであった。気づいてもよいはずである。そのとき彼は、前原や西郷の心情と立場が理解できたし、前原や西郷のほうが、明治政府の人たちよりも自分の考えに近いことを発見したのではなかろうか。天皇を正義とし、真理とするかぎり、現在の明治政府の人々のように、自分たちの考えを天皇の考えとして、天皇を単に利用する立場とは違って、文字どおり天皇の親政にする必要があると考えたであろう。
 その意味では、すぐれて道徳的であり、倫理的であった明治天皇は、政治を道徳・倫理の範囲内でのみとらえる希典にとって、まさに理想的であったのである。そして、天皇の親政こそ、前原が切実に求めたものであった。それを発見したときの彼の驚きが、いかに大きかったかは想像されよう。
 希典が天皇の親政を欲し、明治政府と陸軍首脳に絶望し、反対であるかぎりは、それを具体化しようと実践すれば、彼自身、第二の前原、第二の西郷になる以外にない。前原や西郷を逆臣として、不忠の臣として非難することができなくなる。もちろん、そのためには、政府を転覆することを敢えてする必要があるし、その論拠を明確に発見することも必要であった。
 しかし、希典には、長い間の怠慢の結果、政治的展望もヴィジョンも全くない。彼の考えにしたがって、彼を支持し、行動してくれる人たちもいなかった。何もなかったのである。そうだとすれば、彼にあるものは死しかない。死によって人々をただす以外にない。彼が自殺を選ぶ以外になかったのも当然である。

 乃木の歴史的生命
 希典が明治日本にとって何者でもありえなかったのは無理もない。明治日本をいかなる意味においても、なんら指導できなかったのも当然である。もっとも政治的であり、思想的であった明治という時代に、彼は、もっとも政治に思想に、縁遠い存在であったのだから。
 人々は、ともすると、希典を明治を象徴する代表的人物であるかのようにいう。たしかに、ある意味では、そういえないこともない。明治の日本は、先に述べたように、明るい顔と暗い顔、つまり国権主義、絶対主義への道と、自由主義、共和主義への道との二つのコースの格闘によって彩られ、前者の勝利をもって終わった。前者のコースを無批判にうけいれた希典は、その意味では、代表的明治人といいうるのである。少なくとも、明治のもっていた多様な可能性の一つ……そしてそれが、結局、現実の歴史となったのであるが……をもっとも劇的に代表する人物であることに間違いない。
 しかし、これを、明治百年という今日の時点にたって、あるいは今後の百年までも含めた長い歴史的経過のなかに位置づけてみると、希典の代表する明治は、歴史を負の方向に発展させ、日本を混迷に落としいれた以外のなにものでもなかった。
 私のいう代表的明治人とは、歴史の発展方向にそって苦しみ、そのために闘うものでなければならないし、その意味では、自由・民権という明治の二大思想をその一身にだきこんで、日本の進路を全身で模索した人物でなければならない。
 希典はせいぜい、明治時代に生きたといえても、明治という時代を精一杯に生きたとはいえない。時代の苦悩と課題を一身にうけとめて生き、闘ったとはいえない。したがって、乃木を代表的明治人とするのは、私からすれば、乃木の虚像にすぎないのである。
 しかし、それでいて、希典の壮烈な死、感動的な死は、やはり、私の心を深くうつ。切腹を常に思い、求めつつ、しかも、その切腹に最大の価値と意味をあたえることによって、永遠の生命を求めて生きた生涯。そして、彼は、もっともよい時機に、切腹を劇的にやってのけたのである。かつて、自殺する風をみせながら、自殺することのできなかった彼が、最後には、その宿願を果たすかのように、非常な決断と強い意志を必要とする切腹をやってみせたのである。生前、人々を納得させ、指導することのできなかった彼の責任感であり、克己心であったが、その死によって、その責任感、その克己心を彼なりに完成させてみせた。
 そのことは、希典を神にした。彼を、あらゆる人々の規範にした。こうして、大正・昭和の人々に強い影響をもつようになるのである。責任感や克己心が社会的生活のなかで必要とされるとき、特に戦前のように天皇への忠節が強く求められたときには、いよいよその責任感と克己心が重要視される。天皇への忠節が普通の人々には、克己心と責任感を媒介にして、初めて到達できるものであったからである。
 同時に、乃木大将は、昭和の天皇主義、超国家主義の立場にたつ青年将校の拠所であり、原型でもあったのである。希典こそ、彼らが考え、望んだ天皇親政をもっとも強く、もっともはっきり求めた最初の人であったからである。
 その意味で、希典が昭和二十年に、日本人のなかから消滅していったのも当然である。私自身も、大正・昭和に生きた彼のイメージを進んで消滅させた。だが、今日、明治百年とともに希典は再生しようとする。
 亡霊としての希典を再生させるか、歴史的生命としての希典を再生させるか。それは、一にかかって、今日に生きる私たちの責任である。歴史研究者である私の責任でもある。
 歴史的生命としての希典を今日再評価するということはどういうことであろうか。それは、彼が明治政府と明治陸軍に激しい怒りと不満を持ち、明治日本には徹底的に絶望していたことを確認することであり、晩年の彼は、日本の将来はどうあるべきかということに深い懐疑を抱いていたことを知ることである。それは、彼がやっと狭い軍人の立場を脱して、思想家、革命家の道にふみだしたことを意味する。
 希典が、そうした立場にたって日本の将来を憂えたこと、またその立場こそ、天皇と日本を歴史的に生かす道であると考えるまでに彼自身が成長したこと……こうとらえ、こう評価することが、乃木に歴史的な生命を付与することである。私には、それしか考えようがない。評価しようがない。

 

      (1968年 徳間書店刊)

 

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