『国学、儒学、洋学……時代に対決する学問……

 

   <この未発表原稿について>

 この原稿は、池田諭が1974年秋に『燃えるアジアと日本の原点』を執筆した後、翌年3月に血栓症が再発するまでの間に書き始めていたものと思われ、未完のまま残された最後の原稿である。全体の構想を示す目次の下書きもあったので、以下に載せる。
         1998年7月  池田諭の会

 

   『国学、支那学、洋学……時代と対決する学問……』

  序、学問の本質
    一、国学、支那学、洋学と時代の課題
    二、人間と思想
  一、大原幽学
    イ、出生の疑問  ロ、諸学の追求
    ハ、放浪の中で体認  ニ、村ぐるみの組合
    ホ、自刃に追いやったもの
  二、大国隆正
    イ、津和野脱出  ロ、長崎遊学
    ハ、洋学支那学への配慮  ニ、本学思想
    ホ、国学の課題
  三、大塩中斉
    イ、彼の生い立ち  ロ、なぜ陽明学を学んだか
    ハ、陽明学と他の学問  ニ、大塩の乱
    ホ、自刃
  四、広瀬淡窓
    イ、病弱の身  ロ、儒者として立つ
    ハ、仏教学を学ぶ  ニ、自新録、更新録
    ホ、高野長英をたすく
  五、高野長英
    イ、江戸遊学  ロ、シーボルト事件
    ハ、蛮社の獄  ニ、逃避行  ホ、時代と学問
  六、佐久間象山
    イ、少青年時代  ロ、佐藤一斉に学ぶ
    ハ、江川坦庵に学ぶ  ニ、吉田松陰との出会い
    ホ、洋学と儒学
  結、思想の有効性
    一、日本が時代に対決しえたもの
    二、維新の理想は何故ついえたか

 

   <目次>

序、学問の本質
 
イ、国学、儒学、洋学と時代の課題
 
ロ、人間と思想

大原幽学
 
一、出生の秘密
 
二、諸学の追求
 
三、社会実践 其ノ一
 
四、社会実践 其ノ二

大国隆正
 
一、長崎留学
 
二、国学を思う
 
三、津和野脱出
 
四、業績 其ノ一
 
五、業績 其ノ二
 
六、神祇官時代

 

                 < 目 次 >

 

  序、学問の本質

   イ、国学、儒学、洋学と時代の課題

 今日、学会の常識としても一般の社会常識としても、国学、儒学、洋学の三者が併存し、三者を研究領域とする学者も別々のものであるという通念が一般化している。それも日本史の近代という領域を研究する者の間で分かれていて、そのことを疑うものが殆どいなかったのである。歴史学が成立して数十年余、このことを少しも疑わず、今日も猶つづいているということは全く不思議というほかはない。本来、学問として、一には綜合化に向かい、綜合できないものがあれば、始めて其の異を強調すべきなのに、その努力をなさずに徒らに諸民族、諸国家間の対立抗争に手をかしていると思われるだけでなく、曾て国学、儒学、洋学の三者が連合して、幕末の課題に対決したのに、今日は洋学のみで時代に対決しようとし、そのために学問とは何かをもう一度その原点にかえって、考えてみようとする大学斗争が起こる以外にどうしようもない時代にきたのである。たしかに、国学は日本の本質と其の課題を、更に其の方向性をあきらかにするという課題をにない、儒学は中国の本質と其の時代の課題を、更に其の将来性をあきらかにするという課題をになっている。洋学の場合、いうまでもなく、西洋そのものを発展させる使命をになっている。洋学は更にオランダ学、イギリス学、ドイツ学、フランス学、というふうに分科する。だが、明治以後、洋学一辺倒の教育政策から、国学、儒学が本来もっていた学問的性格は失われ、洋学のみの学問的性格が強調されたためについに今日のように学問そのものを問うようになる以外になくなったのである。
 当時、洋学が国学、儒学に比してすぐれていたにしても、国学、儒学にはそれぞれの学問的性格があり、長い間、それなりに日本、中国を支え、日本と中国の人々の支柱となり、それらの人々を支えてきたのであるし、国学、儒学、洋学が競合することにより、よく其の時代の課題に対決してきたのである。
 私がここに、国学、儒学、洋学のなかの代表的学者をあげて説明することにより、いかにそれらが他学問を補い、それによって学問として充実し、時代の課題によく対決しえたか、そして一見不用に見える学問を無視することにより、学問がどんなに損なわれざるを得なかったかを書きたいと思う。明治以後、日本の学問が洋学のみとなって発展した面もあるが、全体としてはゆがむしかなかった事実をしめしたいのである。国学、儒学、洋学と三人三様にやってきて、全くそれに気づかなかった近世の歴史家も愚かと言えるが、他の学者が誰一人注意をうながさなかったのも全くおかしなことである。学問を正しいものと始めから信じたことに、このような誤りをおかすことになったのである。
 学問の本質ということから考えても、学問としての国学、儒学を無視し、洋学のみを発展させたことはまずい。いいかえれば、強権で国学、儒学を無視し、圧殺するようなものである。まして、日本の現実と歴史があり、中国の現実と歴史がある以上、それらを無視することは出来ないし、圧殺することは出来ない筈であり、たとえ一時的に、無視し、圧殺したとしても、それが永遠に無視され、圧殺されることはない。いつかは、それらによって生きようとする者が必ず出てくる筈である。現に、明治以後において、ほそぼそとながら国学、儒学も生きてきたし、洋学に生命を吹きこんできた面もあるのである。唯残念なことには、それが一般的風潮にならず、大学斗争を呼びおこす所迄きたのである。間違って喚起された時は第二次大戦中のように排外的国学だけがおこるのである。
 国学には国学の使命があり、儒学には儒学の役割があるのである。しかし、その国学が忘れ去られるところに、日本人でありながら日本人としての最低の教養、知識を缺く者が多数生まれるしかなかったのである。西洋的教養よりも日本的教養を断然缺く者が生まれたのである。だからとて、私は国粋主義を主張し、排外主義を言わんとする者ではない。唯真の世界人を志向し、人類友和の実をあげる者はよく人間個人に徹し、郷土に生き、国家を尊重し、それらをのりこえた人間だと考えるだけであり、郷土や国家を軽視する者には人間として、世界人としても単なる言葉に終わるしかないといいたいのである。本当に国家をのりこえるものは、とことん、その長所、短所をみきわめたものである。日本人でありながら日本的教養を缺き、西洋的教養に秀でるならおかしな人間が生まれるのである。日本人でありながら、その日本を大切にできないものは西洋を尊重しているようにみえて、真に西洋を尊ぶ者ではない。日本を尊重し、その現実の課題に真剣に取り組む者だけが、世界の現実に取り組み、真の世界人になりうるのである。いいかえれば、一つの土地を真剣に愛し、一つの土地に真剣に生きる者だけが、よく世界に生きる人となりうるのである。国学にしても、儒学にしても、その一つの土地に生まれ、一つの土地の課題に長年とりくんできたのである。もし、不十分なところがあればそれを育て発展させる以外にないのである。そうして始めて、国学、儒学も所を得て発展するのである。現に、国学、儒学にはあまりに自己中心的な要素が多く、閉鎖的な面が強かったために学問の位置を洋学だけにゆずり、自分達は消えていくしかなかったのであるが、そのために洋学そのものの学問的性格を不十分なものにする以外になかったのである。勿論、洋学といってもオランダ学、イギリス学、ドイツ学、フランス学などがあり、それらが相互に競合することにより、学問としては発達してきたといえるが、それらに共通のグランドがあり、国学、儒学にみるようなものは存在しなかった。そのことが学問としては疲弊する以外になかったのである。学問が学問として無限に発展し、永遠に現実をリードする理論をもつためには、他の学問からより学ばなくてならない。それは現実そのものに学ぶことと同じ位に重要なことである。国学、儒学の学問的性格を吸収することにより、真に豊かになるのである。洋学そのものに、そのような性格があったとしても、人は簡単に洋学全般を学ぶものではないし、国学、儒学を学ぶことにより、それが対象とした所を自然に尊重するようになるのである。明治以後の日本人の中には全く国学、儒学を知らない者が多い。亦知っていたとしても単なる知識に終わっている者が多い。これでは知らないのと同じである。
 国学は本来儒学を吸収し、洋学をとりこむことにより無限に発展し、よく今日の日本人を指導する学問にならなくていけない。本居宣長が国学そのものを樹立する過程で漢心や仏教を徹底的に排除したのはやむを得なかったが、其の後の国学もそうだとはいったのではない。もし、そうなら国学は亡びるものでしかないし、日本を永遠にリードするものとなることはできない。国学がおこる前の日本の学問はあまりに無原則的であり、非主体的であったのである。所謂国学者達は日本の学問に原則性、主体性をあたえたかったのにちがいない。それをとりちがえたところに、国学の悲運があったのである。
 日本に国学、儒学、洋学があるという常識がおかしいし、唯一つの国学があるだけである、国学の四大人で国学が完成したと考えるのがおかしいのである。私は大国隆正をもって、国学は徐々に完成の方向をとろうとしたと思うし、大原幽学のように、むしろ他と共存したものを尊いと思うのである。だからとて、国学の四大人の作業が不要であったというのではない。私がとくに、大原と大国の二人をあげたのはそういう意味である。少なくとも、大国の国学には今日学問として存在しうる根據があったし、国学として儒学、洋学を吸収しえたと思うのである。しかも、それが世界学にもなりえたと思うのである。国学が世界学になりうるためには、真に儒学、洋学との格斗が必要であり、そうして始めて儒学、洋学を自分なりに吸収して日本の課題にとりくめる国学に成長し、発展するのである。そうでなく、他の学問を単に排除するようなところには真に日本の課題にとりくめる学問にもならないし、今日の日本を真に発展させる学問にもならないのである。国学が真に日本の学問として、日本を指導しうるようになるためには存在を賭するような格斗が儒学、洋学との間に必要である。その斗いに打ち勝って、始めて日本の課題にもとりくめるのである。
 今日、自由主義の学問にしても、はたまた共産主義の学問にしても、どちらかというといびつで、主体的、創造的理論を生みだすところにいかないで、徒らに模倣の段階に終わっているのも、明治以後国学を発展させて、それが世界学になるように悪戦苦斗しないで、単に国学をきりすて洋学をとりいれたためである。其の点では、日本はもう一度明治よりやり直す必要がある。そのことを私なりにやってみようというのが本書である。ここには大学斗争の中で指摘している問題点もふくまれていると思うし、更に第二次大戦中の誤りもふくまれている。

 

         <国学、儒学、洋学 目次>

 

   ロ、人間と思想

 第二次大戦前の日本はどちらかといえば、人間をとりまく周囲の研究がおろそかにされ、ややもすれば、人間の主観的研究のみが重視される傾向にあった。それというのも、政府そのものが人間の生きている場の研究を唯物論的研究になり易いといって忌避したためであった。だが、人間の生というものを具体的に研究しようとすれば、その生と一体的に展開される場の研究なしには人間の生というものはあきらかにされない。そのために、第二次大戦前の人間の生はどうしても主観的というか、恣意的というか、その枠をのりこえることができなかったのである。しかし、人間の生を具体的にあきらかにしようとすればどうしても人間が生きる場をもあきらかにして始めてできるのである。
 戦後は戦前の反動のせいでもあるまいが、人間の生きる場の研究というか、社会経済史というか、政治経済史というか、その研究にのみ終わって、それを人間の生に結びつけるという努力を怠ってきたのである。このために人間の生を軽視し、人間の行動を重視しない傾向が一般となったのである。ことに、客観的研究ということが強調されたために、学問、思想というものは伝達可能となって大いに其の学問、思想は発達することになったが、その学問、思想の主体者が誰であるかを問うことはなくなり、実践、行動とは無関係に学問、思想が存在するかのような風潮をつくっていったのである。本音と建前の理論がはびこり、理論と行動が別々にあるかのような風潮が堂々と世間に通用し、世の中は乱れに乱れてきたのである。たしかに客観的ということは必要だし、重要なことではあるが、所詮人間の世界の客観的ということはどこまで客観的に近づくかということであり、主観の枠をはみでることはない。いってみれば、客観的とは研究者の主観の極ということである。
 人間の生なり、行動を具体的にあきらかにしようとすれば人間の生きている場としての政治、経済、社会の場をあきらかにする以外にない。第二次大戦前の人間の生、行動は其の意味で全く不充分であったし、戦後の研究も単に政治、経済、社会の場を明らかにすることにとどまって、それがくわしくなればなる程、人間の生、行動はとり残され、世の中そのものは空虚になるしかなかった。今の世の中が学問、思想は発展しているにもかかわらず、いよいよ空虚になっていくのはそのためである。人々は此の世で最も重要なのは人間の生であり、人間の行動であることを忘れている。政治、経済、社会の研究も人間の生のためであり、行動のためであることを忘れている。人間の生、行動を真に己のために、他者のために有用なものにするために、政治、経済、社会の研究は必要なのである。今の人はなんのための研究かを忘れている。
 私が物を書き始めてより、異常に人物の生と行動に執着してきたのもそのためである。だからとて、政治、経済、社会の研究を怠ってきたとは思わない。要するに、学問、思想の研究を正常なものにかえしたかっただけである。
 思想が本音と建前に分裂し、混乱している状態を唯一つの思想が支配する世の中にしたかったのである。客観的という言葉におどらされて、最も人間にとって重要な主観的ということを蔑視する風潮をなくしたかったのである。思想は大事であるけれどもそれが人間の思想となる時、始めて大事なので、誰のものかわからぬ思想は重要ではないのである。まして、思想は人間の思想として始めて生き出すのであり、主体のない、非人間の思想は生きようがないのである。主体のある思想とは、人間が独学によって思想を自分のものにした状態をいい、単に記憶した人間不在の思想は主体のある思想とはいえないのだし、独学によって、始めて、主体のある思想となるのである。その点、独学の精神をなくした明治以後の学問が、単に世の中に浮遊するようになったのも当然である。
 思想が客観的ということにたぶらかされて人間そのものから遊離した所に今の悲劇がある。手足のない思想ばかりが遊泳している。今一度、人間そのものの生きた思想にしなくてならない。そうして、今日の学問、思想が一部の人々に独占されていて多くの人には学問、思想が無関係に存在しているような状態をあらためなくてならない。学問、思想は本来人間すべてのものであり、人間とともに存在し、人間をリードするものでなくてはならない。人間の多くと無関係に存在しているような学問、思想というものは真に学問、思想の名に値しない。国学、儒学を無視してきたこと以上におかしなことである。学問、思想が一部の学者とそれに準ずる者だけに独占されていること程今の世の中をだめにしていることはない。学問、思想が一部の者の独占であるかぎり、永遠に民主主義社会は訪れないし、それにとどまっている限り、学問、思想の性格は今日のように閉鎖的であることをやめないであろう。この意味からも、学問、思想はいかにあらねばならないかを根本的に問おうとした大学斗争の正しさがある。
 人間と思想というテーマを立てることにより、あたかも人間と思想は分裂し、対立しているように見えるが、本来人間と思想は一つのもので相対立するものでない。それらが二つのものであるように錯覚させたのは今の学問であり、逆に政治、経済、社会を研究することにより、人間を支配する政治、経済、社会が生まれたのである。とくに、技術の進歩が人間を奴隷化し、人間そのものを支配したのである。人間を支配するという、人間にとって最も不幸な状態が生まれたのである。今日の公害というものも、それと同じものである。全ては人間そのもの、生そのもの、行動そのものを軽視した所から生じたのである。
 今、国学、儒学、洋学の三様を親しく、もう一度見直おそうとするのも、どれかを無視するところに真の発展はないということをしめしたかったのである。日本が其の後如何にゆがんだかをしめしたかったのである。ゆがむ以外になかったのをあきらかにしたかったのである。
 人間が思想を支配するかぎり、思想は生きていて有効であるけれども、逆に思想が人間を支配しはじめると人間の不幸がはじまる。それが今日の姿なのに、誰もそのことをいおうとしていない。今の不幸はそのことにある。思想を人間が支配できるように、人間は偉大とならなくてはならない。思想を支配できるように、人間そのものが肥えふとらなくてならない。ではどうして、人間は完全に思想を支配し、思想をその手足とできるようになるのであろうか。そのためには、人間が独学の必要を痛感して、自己自身の対話の中ではじめて自己は成長し、発展するのだということをとことん理解することだし、他者の成長もその中にのみあるということをとことん骨身にしみて知ることである。体得することである。即ち、自己を出発点として徹底的に政治の世界なり、経済の世界なり、社会の世界なりを完全に知って、それらを支配できるような自分を育てることである。それらを知悉する自分を育てることである。いうまでもなく、技術の世界についてもそのことがいえる。
 だが、今は民主的社会を志向しているのだといいながら、その実、社会のトップ・クラスの人だけがそれらを知悉して支配している傾向にある。その他の多くの人は逆に、政治、経済、社会、技術の多様さに幻惑されて、それらに支配される度合いを深めている。ここに進歩、発展といってきて、多くの人を幻惑してきたものを今一度ふりかえってみる必要があるし、民主的社会といい、進歩、発展といい、人間にとっては大変なものであったことを知る必要がある。
 民主的社会が、万人の進歩、発展がどのようにして生まれるかを真剣に考えてみる時にきている。そして万人が真に民主的社会や進歩、発展を求めているかを問い直してみる時にきている。民主的社会なり、進歩、発展なりはしかく単純ではないし、大変に困難のものである。それは、全人が思想の主人になった時でむしろ今はその逆の道さえ進んでいる。
 独学の精神、態度を今の学校教育がいかにその教育にとりいれるかにかかっている。独学の精神、態度のない者には思想の奴隷になるしかない。国学を亡ぼした者には思想の主人になる資格はない。不充分な国学を育てた者だけが思想の主人公になりうるし、万人を育てることができるのである。万人の国学として、万人を育てることができるのである。その意味で、国学を育てなかった明治、大正、昭和の人々は大変な誤りをおかしたことになる。既に述べたように、今日自由主義の思想なり、共産主義の思想が日本人の血肉とならずに空虚なものに終わっているのもそのためである。今こそ我々日本人は先人の誤った足跡を十二分に認めて、国学そのものを今日の学問になるように今一度努力しなくてならない。そのような学問として成長するかどうかは今後の努力であるし、現代人の生きた智慧である。国学を今迄の通念の中におしこめている間は今の学問にはなるまい。大国隆正の国学を国学の正道とみたのはそのためでもある。この国学がその偏狭、固陋を脱する時、日本人は真に世界人の道を歩みだすのである。それは非常に困難の道であるかもしれないが、日本人が真の世界人として成長するためにはどうしても必要なのである。日本人にはそれをなしうる能力があると思われる。

 

         <国学、儒学、洋学 目次>

 

  大原幽学

   一、出生の秘密

 大原幽学を国学者として、ここに叙述することに多くの人々は疑問をいだくにちがいない。普通彼は道学者といわれ、その方面の大家の一人とみなされている。しかし、私があえてその定説をやぶり、国学者の代表的一人だとみたてたのにはそれなりに理由がある。彼が神道を学んだ者というのは定説だが、私にいわせると神道は国学の原初的形態であり、国学が庶民の中に生きた姿の一つである。しかも彼は儒学、仏学との関連の中で、よく神道を生かした人である。彼を神学者、国学者といわないで誰をそのようにいえよう。私にいわせると本居宣長の上をいった神学者、国学者ということになる。それも神道そのものの具現者として、当に国学を生きた人というべきである。国学に生きた人と単に国学の思想を追求した人とは異なる。私達に、今大切なのは国学に生きた人、国学の思想に生きようとした人、国学の思想を時代とともに発展させようとした人々である。国学の中に儒学、仏学をとりいれて、それを豊かにしようとした人々である。そういういみでは、彼を国学者の第一人者におくのも無理はなかろう。
 大原幽学の出生については明らかでない。それというのも彼が其の事について語っていないためである。おそらく、彼にはそんなことは問題でなかったし、必要なのは今日彼がどのように生き、どのように行動しているかということだけが問題だったにちがいない。それに彼としては日頃から、その行動よりも人間の出生を誇りとして語るのがにがにがしかったに相違ない。そればかりではなく当時の差別社会の中で自分の出生を言うことはそれだけ農民の中に入っていきにくいということを理解していたためであろう。いずれにしても彼はその出生を親しい門人にも語っていない。そのために門人達は彼の死後名古屋の万松寺境内に墓碑をたてたが、それとても確証を得て建てたわけではない。唯一度だけ、幽学は大道寺実生と書いたことがあるだけで、尾張の大道寺家の子供かどうかは不明である。しかし尾張家には大道寺を名乗る家が三家もあり、幽学自身がその少年時代を語った記録によっても相当に豊かな家に相違ない。
 それによると幽学の幼少年時代は厳しい中に豊かなものを感じさせる。即ち幽学の少年時代は朝四時に起きて六時まで書物をよみ、それからは自分の部屋にいき、茶を一杯だけのんだあと、剣道着をきて道場に通い、徹底的にけいこをした後でやっと風呂にはいる。それから朝御飯をたべるが、その間に馬の用意ができるので馬で馬場にゆき、中食までは馬の稽古をする。午後は柔術をやったり、弓の稽古をやったりした後今一度風呂にはいる。その後は茶の稽古か手習いをする。十五才になるとそれらに更に槍の稽古がはいり、全くひまというものがなかったと記している。相当にハード・トレーニングである。だが、多くの青少年はその過程をこなしてきたのである。だから特に幽学だけがきびしかったのではない。このような訓練により当時の階級社会は維持されていたのである。それが崩れるまで階級社会は維持されたのである。単に封建社会が守られたのではないことを知る必要がある。それにはそれなりの責任があった。今日はともすれば、その責任をさけ、放恣に生くるのが民主的で自由な社会ととりちがえている。要するに幽学の厳しい性格はこういう少年時代のなかで生まれたものである。民主的で自由な社会とは上流武士のもつ厳しさをむしろ全人のものにしようとする所に生まれる。
 それはとにかくとして、少年時代をこのように厳しく育てられた幽学がふとしたことにより、勘当となり、一介の無宿者になっていくのである。大道寺家をつぐことで偉大となったか、無宿者となることにより組合を創始する一大偉業をなしたかは不明であるけれども、その後の尾張藩をみれば無宿者となって始めて組合を創始できたのである。勘当によって尾張藩にしばられることもなく、庶民のために生きた方がずっと偉大な生涯であった。それをふとしたことによりなしうるような立場に移行していったのである。
 十八才といえば、思想もかたまらず、感情のままに動き易い歳である。勘当をうけたというのも、彼の従者が刀のコジリを当てたのがきっかけとなり、藩の剣道師範とあらそいになり、とうとう、その剣道師範をきり殺したためである。全く、たあいのないことで競ったものである。しかし、このことにより彼の運命は大きく狂うことになる。
 幽学が家を去るにあたって、その父は彼に「武士たるもの、みだりに身を捨つべからず」と書きあたえたという。今思えば、自分自身を大切にせよということであるらしく、彼自身、自己を大切にして、人のためにつくしたということになる。彼は始め、武芸を以て生活しようと考え、西にむかっている。武芸に自身があったということもあろうが、十八才の彼にはそれ以外のことは思いつかなかったのであろう。世の中を甘くみていたということもいえよう。
 始め、幽学は田島主膳のもとに寄食していたが、此の田島が京都の九条家に仕えたので、彼とともに京都に移りすんでいる。というのは最初田島は熱田神宮につとめていたのをその後まもなく、九条家に変わったためである。居候が一緒に移住したということは、彼の家と田島の家が相当に縁が深かったということであろう。ここで足かけ三年すごしたが、その間主として「大学」、「中庸」、「孝経」を学んでいる。いつか武芸の道を断って、文の道にはげんだのである。そのかたわら和歌、俳句も学んでいる。これが後に彼の糊口をつなぐことになる。このように、青年の時の夢はつねにくるくると変わるもので、別にせめられない。世の中というものを知らなかっただけである。

 

         <国学、儒学、洋学 目次>

 

   二、諸学の追求      

 幽学は田島主膳の所にいる時、儒学、和歌、俳句を学ぶかたわらで易学を学び、それを後に人々に教えるということもしている。だが、彼は田島氏のもとを去った後は畿内地方を遊歴している。大阪の綿屋吉兵衛という人をかわきりに多くの商人の間をまわっている。おそらく、彼はお伽衆という形でこの人達と交わっていたと思われる。
 文政元年五月になると、幽学は高野山にのぼり二年余りも仏道を修行している。二年余りといえ、彼が本格的に仏道を学んだはじめであり、先に田島氏の下で、儒学も学んだことと同じである。それから中国路の旅を始め、国学者近藤造酒について、本格的に国学、神道を学んでいる。その期間は必ずしも長くはなかったが、決して儒学、仏学に劣るものではなかったろう。造酒は本居大平の弟子で、明倫館の国学講師であった程の者で、福羽美静とともに明治天皇に書を講じた人である。
 文政七年(1824)江州伊吹山の松尾寺で、提宗和尚について更に仏学を修めている。翌文政八年(1825)には諸国を遊歴せんとして、次の句を残して京都を去っている。
  鐘の音の行末さだめぬ別れ路の
    さおき思いの夕暮の空
だが、彼は関西地方から離れず、なお当分は関西の知人宅をあちこちしている。彼が本格的に関西をあとにして、諸国を歩きだしたのは文政九年(1826)であった。まず、その年の七月、海を渡って四国の丸亀にいき、そこから金比羅宮に詣でている。それから再び海を渡って播磨の室津にいき、舞子、明石をみた後、神戸の湊川神社に参って大阪の綿屋吉兵衛の所により、そこから更に大和の奈良、郡山、丹波市にでかけている。
 丹波市で正月を送った幽学は三月、再び大和、和泉を訪れているが、まもなく、大阪に立ちもどり、そこにわずか六日間いただけでもう一度和泉地方を訪れている。それからは高野山にのぼり、五ヶ月あまり滞在している。おそらく、其の間幽学は仏学を更に深めたと思われる。一旦大阪にかえった彼は京都、池田、伊丹をまわって、大阪まで帰っている。いつか幽学も此の間に三十才となり、十年余りを放浪したことになる。だが、彼の放浪はそれ以後ますます身についたものとなり、その放浪の中で彼の学識を真にみがいていったということがいえよう。即ち彼は単なる物知りとしてでなく、それらの知識を体得していったといえよう。だが、体得のためには十年間では短すぎたといえよう。
 今度は若狭、越前、丹波から郡山、丹波市を経て京都についている。それから再び四国に渡り、讃岐、徳島にいき大阪にかえっている。その後、大溝村の中江藤樹の藤樹書院を訪れたり、石田梅岩の石門心学の話をききにいっている。彼が此の頃から急に藤樹の生き方や梅岩の生き方にみせられていくようになる。十年余りの放浪の後、やっと自分の生きる道を発見したといえよう。藤樹も梅岩も自らの学んだものを自分だけのものにせず、それをそのまま世の中の人にかえし、世の中の人とともに実践してゆこうとした人々である。そういう人々の生き方こそ、人間として本当の生き方でないかと思いはじめるのである。その決意を松尾寺の提宗和尚に語ったとき、彼がどんなに喜んでくれたか。文字通り幽学は書物からでなく、また人物からでもなく、現実の世の中から学んだのである。そして、再び現実の世の中にかえしてゆこうとしたのである。それが真の学問というものである。今時の多くの人々のように、書物から学び、書物にだけかえしてゆこうとする所に、世の中は向上しないのである。
 幽学は此の決意を深く心に秘めて美濃国に入る。それから岐阜を経て中仙道をとおり、途中南下して、松平三万石の城下町岩村に到達している。塩尻を経て諏訪についたのは、文政十三年の八月の始めであった。そこから更に上田の町にはいる。ここで幽学は彼の生涯の知己となった呉服商の小野沢六左衛門と知りあうことになる。それというのも、六左衛門の息子辰三郎の病気のことから彼は幽学を非常に信頼することになる。幽学は辰三郎の世話をなにくれとなくしただけでなく、更に六左衛門の最高の話し相手となったのである。それに辰三郎も三秋亭胡雀という俳名をもつ程の素人俳人であったから、彼の俳句への素養は大変病人のためにもよかったであろう。こうして、幽学は六左衛門の絶大なる信頼を得ただけでなく、そこに逗留することを求められたのである。おそらく、彼にとってもそのことは大きな喜びであったにちがいない。しかも、そのことによって、自分の生き方と考え方を人々に普及することができたのである。社会教育家幽学の誕生である。

 

         <国学、儒学、洋学 目次>

 

   三、社会実践 其ノ一

 幽学ははじめて六左衛門を後援者として、その思想をのべる機会に恵まれた。辰三郎の仲間を中心に門弟はどんどん増えている。彼はそのことを「口まめ草」という日記に「いよいよ稽古はげしくなりぬ」と書いている。小諸には辰三郎と一緒にでかけ、翌日には十二人の門弟を得るほどに評判がよかった。おそらく辰三郎と同じく、中流以上の町人層であったと思われるが、彼の説く所が皆の心に深く訴えたためであろう。普通彼の説く所は道学といわれ、性学ともいわれたものであるが、私からみると、それは人間性にもとづいて、いよいよ人間性を開化させる方法を説いたもので、今日からいえば人間の倫理を説いたものと思われる。道学とか、性学といって、人々に特別に感じさせるものは少しもなかったのである。たしかに反体制的要素はなかったが、体制の中で人力を最大限に生かしていこうとするものであった。そこに人間の幸をつかみとろうとしていた。
 小諸に留まること二十余日で、再び上田にかえり、講義を続行したが其の門には次々と入門者がふえていった。いよいよ幽学ははりきった。彼の夢がいよいよ実現することを思った時、彼はどんなに喜んだことであろう。彼がそのように短時日で非常な信頼を得たということは全て彼が十数年にかけて、現実を師として学んできたためである。現実から学んで現実にかえさんとしたおかげである。提宗にしても近藤にしても、全ては現実から学ぶ一つの手懸かりにすぎなかったのである。このような彼こそ自立した思想家であり、大自然の中に大自然とともに生きる男であった。
 別に幽学は貧者が富者になる道を説いたのでなく、すべての人間が相応に富んだ生活ができるためにはどうすべきかを説いたのである。それが神道であり、国学であるとも説いたのである。彼は既に今日の公害を予知していたのかもしれない。いいかえれば、彼の生きた時代は、新旧商人の交代期であり、新旧農民の交代期であったし、彼は亡びゆく農民、町人を守らんとしたし、新しく起こりつつある農民、町人の欲望を程々の所でおさえ、それを他の農民、町人をひきあげるところにむけさせんとしたのである。己だけの無限の欲望は世の中を発展させるよりも、悲惨を製造すると考えたからである。これらの彼の考えが上田、小諸の人達にうけいれられたといってよかろう。だが、約一年にして、幽学は此の地をあとにして江戸に向かうのである。彼ののこした歌は次のようなものであった。
  わかれても心はかよえ友人の
     誠の道のへだてなければ
彼の社会教育は一見順調にみえたが、権力者の間ではそのことをいやなこととして、事ある毎にその集会を妨害したので彼としては此の地方に見切りをつけたのである。彼にはもう少し自由な土地があるとみたのである。これは彼の甘い見透しであったが、其の頃の彼にそれと対決するという覚悟はまだできていなかったのである。
 江戸についたものの、これという仕事は全くなかった。ないままに鎌倉、浦賀にいき、一時紺屋七兵衛の下に寄食している。三崎、城ケ島に遊んだ幽学もその間に関西にかえることをしきりと考えていた。それこそ、彼の永住の地となった房総の地を訪れることになったのは全くの偶然によるものであった。というのは鋸山の遊覧を紺屋七兵衛にすすめられて房州の地を訪れたが、鋸山から訪ねた日本寺の住職、観音寺の住職がともに上方の人であったので意外に話もはずみ、親しみを感じている。それは久しぶりのことだといえよう。しかしこの時は房総にとどまるという意志はかたまっていなかった。館山の儒者林潤造にすすめられるままに野島崎、仁右衛門島、小湊誕生寺、鯛の浦を見てまわった彼は林潤造に挨拶して関西地方にかえらんとしたが、ここでもう一度潤造にとめられ、その晩は酒をのみかわしたうえに人々を紹介すると、ねんごろにすすめられたのである。潤造にとって彼はなんとなく忘れがたい人間であったのであろう。潤三の親切がついに幽学の大事業を此の地に生むことになったのである。人と人との出会いの運命的なものを感じずにはいられない。潤造の紹介で久留里藩黒田家の家老岡本重郎左衛門の息子の家庭教師になることをきめた幽学であったが、それに先だって久留里の地をみておこうと志したのである。そこで木更津から久留里、大多喜を経て勝浦に出て、部原、御宿、長者町、一の宮にきている。だが、其の時の幽学は金をつかい果たし、どうすることも出来ない有様であった。やむなく旅館にとどまったまま、橋のたもとに立って易をみたという。やっと館山に辿りついたのはそのしばらく後の事である。
 幽学が岡本家の息子の面倒をみるのはその後であるが、そこでどんな教育をしたかは明らかでない。だがそれなりの教育成果はあったようである。
 天保三年(1832)六月から七月にかけて東金、八ツ台、殿部田、八日市場、足洗、飯岡を経て銚子にまわり、鹿島、香取をとおって久留里にかえっている。此の前年頃よりこの地方一帯は作柄がわるく農村の疲弊は甚だしかった。特に不作が農民にあたえる打撃は激しかった。幽学は農村を親しく歩くことによって、それらを親しくみてまわったのである。それから更に各村々をみてまわるうちに農村の疲弊を悲しむ幽学の心はいよいよ深くなっていった。彼をその地方からはなれさせない程に彼の心を深くとらえたのがその地方の実状であった。
 天保四年(1833)を以て、幽学が所謂性学を説きはじめたのも農村のこのような状態と必ずしも別ではない。彼はまず人々の心を自分につなごうとしたのである。そのために彼の取った方法とは、最初の一、二年は主として情を施して情のよく通るようにし、理を二、三年学ばせようとしたのである。そのくりかえしの中にのみ、人々の心の前進があるとみたのである。情を施すためには酒をのみかわし、歌をつくることであった。
 こうして、幽学はその門人を八日市場、殿部田、一の宮、東金、鹿島、香取の地方に徐々にひろげていったのである。

 

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   四、社会実践 其ノ二

 始め幽学の交わった人々の中には、神職、僧侶などや医者が多かった。彼は彼等に所謂性学を教えたが、性学とは人性の本性にもとづいて自然に人間として生きる生き方と別のものではなかった。彼が性学との関連で教えた易学、相学も決して、人間の生き方とは無関係ではなかった。即ち易学では凶の原因を除いて吉を得させ、心の平静をあたえることであったし、相学も己の悪を知り、行いをあらためさせるのがねらいであった。要するに彼のねらいは全て実践の倫理であり、窮極には修身斉家をねらっていた。だから人に交わる時の彼の態度は大変きびしく、主人の留守の家には泊まらないという姿勢と理由もなしに物をもらわないという態度をまもったのである。彼のように農村地区を歩きまわって主人のいない家にとまらないということは大変であったろう。だがここにこそ、人の師となって道を行おうとする並々ならぬ決意があったのである。そのようなことが彼が人々の信頼を得た理由であろう。だが、その彼にしても、始めは馬鹿先生という名を甘受しなければならなかった。天保五年(1834)から天保六年(1835)にかけて140人余りの門人を得ている。その努力が知られよう。
 天保七年(1836)になると幽学は突然関西にかえるといって門人達に宣言して江戸にでている。これと同じ時に二宮尊徳も突然姿を消して、成田不動尊にこもっている。これらの行動がいかに結びつくのかわからないが、彼が高弟五人をつれて東北旅行にいったのは門人達に別れをつげた直前のことで、依然として彼の行動は謎につつまれている。
 だが、江戸についた幽学は関西にかえろうとせず、逆に房総地区を経めぐっているし、その年の十月には門人達に永々相続講設立のプランをかきおくっている。天保の大饑饉がはじまったのは此の年で、江戸に着いた幽学の眼に無数の餓死者の姿がみえた。彼の送った永々相続講に関する一文の中には、博奕、不義密通、女郎買、強慾、大酒など人間としてふさわしくないことは警しめあい、それをきかない時には破門されても異議をさしはさまないと記している。それだけでなく、年二回は幽学の家に祝儀を出し、日頃は倹約すること、そして同門の中に不仕合せの者あらば幽学よりそれ相応の援助をするが、若し不都合があって困窮する時にはその助力をしない。そのためには日頃から懸金をしておこう、と仲々厳しいことを書いている。要するにまともに生活している者にはお互いの協力で落伍しないようにつとめようではないかと言うのである。そのための貯金を日頃よりしておこうと訴えたのである。しかもお互いの共有財産として貯金しておこうと言うのである。

 

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  大国隆正

   一、長崎留学

 大国隆正は寛政四年(1792)十一月二十九日、江戸の津和野藩邸に秀馨の子として生まれている。そうすると、大原幽学に先だつこと五年ということになる。普通には、隆正は国学の思想が大体確立された後の人であり、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤の後に此の人は生まれたということになっている。たしかに所謂国学が体系化され、大成された後である。しかし、私はむしろ、荷田たち四人は国学成立の準備期にあたり、時代とともに人々を指導するに足る国学はむしろ、隆正の時代を以て始めだと考えたい。それは国学が、儒学、洋学を吸収し、真に時代を指導する学問となるためには時代とともに発達しなくてならないし、国学が亡んだ時点こそ、国学がおこらねばならない時と考えるからである。少なくとも隆正の国学にはそうなりうる要素をふくんでいる。国学が所謂儒学、洋学とともに、成長発展して日本学というものになりうるためには、むしろ隆正の国学が出発点でなければならなかった。それが反対に大国隆正の時をもって国学が亡んだということは、国学を奉ずる人に欠陥があったのである。既に述べたように初期の日本を考えていくうえには一応漢心を除去する必要はあったが、それとても漢心を永遠に除去するのでなく漢心、洋心を吸収しながら、時代とともに発展するためにはむしろ内容豊かに発展しなければ現代に生きてこない。今日の人々を指導することはできない。国学が儒学、洋学と並記されるためには、時々刻々時代と共に発展しなくてならない。そうして始めて、国学は日本学に発展し、儒学、洋学とともに生命をもってくるのである。要するに国学という学問を荷田、賀茂、本居、平田の四人のものにした所に、今日それは亡ぶ以外になかったし、今日の多くの者にとってそれが亡んでも特別のいたみはなかったのである。それこそ国学が日本学に発展していたら今の多くの人々は困ったろうし、いたみを感じたであろう。今の日本人にとって学問となっているものは洋学であって、それが今日日本学そのものになっているのである。あえて日本学ということをいえばそうなるのである。私が日本学というものにこだわるのは人々がそれぞれの国の当面する問題を大事にし、それらととりくんでいないと考えるためである。もっともっとそれぞれの国の当面している問題を大切にし、早く世界共通の学問に発展させなくてならない。そういう学問になるまでは世界はバラバラだし、一つになることはできない。今日は世界は一つのようにみえて、その実ばらばらなのである。要するに日本学、印度学、中国学、英学、米学などが大事にされていないためである。私はあらためて国学(日本学)を重視しようとした隆正のことを思わないでいられないのである。
 特に二十六才にもなって、洋学を学ばんとした隆正のことを思わないではいられない。隆正が最初国学を学びはじめたのは十五才の時であった。その点では彼はまともに学び始めている。日本人として国学(日本学)を学ぶことは非常にまともである。同時にその国学(日本学)を正確に学ぶためには儒学が必要であるし、それを学び始めたことも正しい。隆正が更に洋学を学ばんとして長崎にいったこともいたって正しい。隆正は要するに国学を学ぶためにはどうしても、儒学、洋学を学ばずして、国学を正確に学ぶことはできないと知ったのである。今日のように、国学を学ばずして単に学問一般をする所に国籍不明の学問がのさばり、それぞれの国の課題を放棄して、それぞれの国をだめにするのである。それぞれの国の課題と真に対決してこそ、学問一般の課題である世界の問題を真に解決できるのである。もっとも日本人らしい者が世界人にもなりうるのである。日本人として生ききってない者が世界人として生きれるとは思い違いも甚だしい。しかし現今そのような似而非的世界人が横行している。ことにそういう日本人が非常に多い。これは全て国学(日本学)がとだえ、似而非的学問をする者が多くなったためである。先ず国学を日本学として育て、真に人々をリードする必要がある。日本人を人間として指導する必要がある。度々書くように国学は国学のまま終わり、日本学として育てられなかったのである。日本学とは日本の今日の課題と其の方向にまともに向きあう学問のことである。それは決して第二次大戦中に主張されたような排外的な似而非的な日本学ではない。日本が世界の中の日本になるような、それを導ける日本学である。
 もう一度いおう、隆正の国学は日本を真に生かそうとする学問の方向を進んでいた。儒学、洋学を吸収し、将来の世界学を志向する方向を歩んでいた。国学の四大人以上に、国学を愛し、国学そのものがどうあらねばならないかを知っていた。それ故に私は隆正を国学の創始者とするし、大原幽学の国学を真に国学らしいものとして買いたいのである。人々はともすれば大原の国学を内容なきものとして、軽蔑する傾向にあるが、反対に彼のものこそ内容があるし、秀でているのである。隆正は、二十七才の時、半年間長崎に学んだにすぎないがそれがいかに彼の学問の中に生きていたかは想像にあまりあるものがある。たとえ半年といえ、二十七才にもなった彼の学ぶ所がいかに正確であり、本質にせまるものであったかは理解できよう。彼はそれによって、国学を充実したし、国学そのものを育てたのである。人々はこれまであまりにも国学の四大人に心をうばわれ、幕末末期に思想として生きるしかなかった国学を重んじすぎるのである。だから国学は今日ほろび、多くの人が痛みを感じないのである。単に好事家の間にのみ生きる国学となったのである。むしろ、多くの欠点を持ちながら、隆正の国学は今日の学問になりうる面をもっていた。

 

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   二、国学を思う

 隆正が十五才の時に学び始めた国学は平田学であり、本居学であった。しかし蘭学神道と憎まれた隆正の学には本居学にあった排外主義的傾向も平田学にあった狂信的傾向も比較的少なかった。今国学とは何であり、何であろうとしたかを問うこと自身無茶であり、むしろそれは大国学を明らかにする中で始めて分明になるものである。しかし今とくに国学は何であったか、何でなければならないかを彼に則して語るのは大国隆正が国学をめざし、日本学の方向を志し、国学の創始者であったとみる私の立場からはぜひとも論じておかなくてはならないと思ったからである。既に述べたように、従来の国学四大人は日本の本質をあきらかにすることが主眼であったし、そのことをあきらかにすることは幕末当時にはそれなりに、重要な課題があった。だが学問としての国学は同時に時代とともに発展し、現代の日本の課題と方向づけに真にこたえうるものでなければならないと思っている。それ故に国学には狭義の国学と広義の国学があり、儒学、洋学と併存するときの国学は狭義のそれであり、儒学、洋学をふくむときの国学は広義の国学であり、学問というときの学問は唯広義の国学があるだけと思う。この広義の国学を明治以後の日本はどのようにとりくんできたかが問題になるが、誰人も此の広義の国学を考えるものなく、徒らに狭義の国学は亡ぼしてしまったのである。この狭義の国学が広義の国学に発展するところに真の日本の発展があり、日本そのものに即しての日本の具体的発展があったのである。それがない所に公害がおこり、相変わらず戦争のつづく世界があるのである。
 たしかに此の頃の学問は国学であり、儒学であり、洋学であった。即ち土地によって統一した学問だけを考える傾向にあった。学問はまだ分科発展せずに一つの統一した学問があったし、それで十分であった。国学というとき、それ自身の中に、今の宗教学をふくみ国語学、国文学、歴史学、地理学、論理学、倫理学、医学、数学、物理学などをふくんでいた。その意味では統一学であり、一種の人生哲学であり、人生論であった。このことは儒学も洋学も変わらなかった。狭義の国学から広義の国学に発展する中で、これらの要素をもち発展しなければならなかったのである。それがいつのまにか、狭義の国学のままにおわり、宗教学、形而上学、倫理学だけに終わったのである。
 たしかに最初の国学は日本の本質をあきらかにすることに意欲的であったが、それだけに終わってしまったのである。それは重要なことであるがそれによって、時代の課題をことごとく解決できるほど、世の中は単純ではない。国学、儒学は亡ぶしかなかったのである。唯洋学の場合、洋学者の高野長英がすでに学問の基礎は形而上学、論理学、倫理学であり、数学、物理学であり、他の諸学はそれらを更に発展させるために生まれたものであるといったように、今日の諸学問として発展しうる面をもっていた。唯それが宗教学によるのか、哲学、形而上学によるのかは別として、諸学を統一し、唯一つの人生論智として綜合されなくなってばらばらになった所に、人間が何のために学問し、学問は何のために存在するのかという根本問題がとわれなくなり、ついに今日人間そのものを不幸にする学問となってしまったのである。
 日本の本質を問い、その課題と方向づけを問わんとした国学の姿は本来正しいものであり、それを中心にして諸学の問題点をあきらかにすべきであった。あくまで狭義の国学が広義の国学に発展しなければならないものであった。狭義の国学が亡びるということは学問の本質が亡ぶということであった。日本の本質をとわず、その課題と方向性だけを問題にするということは順序、過程をふまずに一挙に世界人になりたいと思うのと同じである。世界人として名実ともになることは、そんなにたやすいことではないのである。
 国学の四大人がその国学でなそうとしたことはそれまでの国学であり、明治以後の時代に生きる国学ではないのである。明治以後の国学は主体性、原則性とともにむしろ、他の思想をいかに吸収して時代とともに発展するかにあった。排他的であってはならないのである。排他的なものは時代とともに発展しない。第二次大戦中に起こった国学は排他的であり、狂信的であった。一時はそれによって日本がおこるようにみえて、結局日本を亡ぼすものでしかなかった。排他的で狂信的な学問の辿る運命でしかない。私が今唱える国学は広義の国学として学問一般の性格をふくみながら発展するものでなければならない。統一の学として、時代とともに生きるものでなくてはならない。今の学問のように中心のない、ばらばらのものであってはならない。国学にしても儒学にしても、その中心をしっかりと定めて存在している。キリスト教が洋学の中心をなしていた時代はよいが、中心を占めなくなった時はばらばらになり、何のための学問であるかという学問の第一義をなくしたのである。
 国学を日本学として今一度確立することは至難である。だがそれをやりぬく以外にない。日本と人間の本質は何かと常に問いつづける学問を構築しなくてならない。隆正の国学にはそれがあるし、学問の発展傾向を辿っている。彼の国学が蘭学神道といわれたことを恥づることはない。むしろその事が彼の学問の将来性を示している。そのことを以下の中でより明らかにしてゆきたい。それこそ狭義の国学にも今日の学問になりうる要素はあったのである。それを育てなかったのは明治の官僚たちであった。それに引きずられた日本国民たちであった。日本国民はどちらかといえば常に解決策をさがし求め、自分でじっくりと考える傾向が殆どない。それというのも、常に出来あがった思想を先生という名の師に求めてきたせいである。自分の中でじっくりと思想を発酵させるには適しないのである。そこからは真の自主性も主体性も育たない。全くといっていいほどに日本人は主体性や自主性のない国民である。それが国学を殺してしまった根本原因であるし、そこに、西洋諸国をまねるしかなかった日本人の姿がある。

 

         <国学、儒学、洋学 目次>

 

   三、津和野脱出

 長崎から帰ってからの隆正は従来交わっていた文人、墨客といわれた人達との交際を断乎として排し、深く思いを我が神代の時代にいたすようになった。国学を本格的に学びはじめたのは長崎留学があってから後である。それは彼が自分を自覚し、自分が日本人として生きる以外とても世界人にはなれないということを深く体得したためと思われる。と同時に、一津和野藩士として生きることは自分を十分に生かす道でないことを感じはじめることでもあった。文政八年(1825)五月、隆正が三十四才の時に上梓した『得経説』は彼の最初の本でそれなりの意見をひろく世に問うたものである。それはまだ彼の確固とした思想を樹立する所までいっていないが、後年の彼に近づく貴重な第一歩であり、後の彼をみる上でみのがせないものである。日本の古道が現代にとって如何なる意味があるのかをさぐり始めた最初のものである。
 文政十一年(1828)三十七才の時に、隆正は大納戸武具役を命じられている。その時の事であるが、同役に大津六左衛門という者がいて、武具の修繕を名目にして私腹をこやしていた。隆正はそれを知ると我慢ができず度々六左衛門をいましめたが、六左衛門は彼の忠告をきかず、かえって隆正をうらみ始めた。それを機に隆正は津和野藩を脱藩するのである。それは日本人として生きたいという彼の願望を達する時でもあった。大原幽学にしても、国学を真に己のものとし、実践するためには藩の枠にしばられることを苦痛とし、もっと広い世の中に出るようになったのである。何がそのきっかけをなしたかは問題でなく、彼等はともに日本人として生きようとしたのである。世界の中の日本をみつめだしたのである。貧苦を得たにしろ、何にもしばられることなく自由にのびのびと自分の全時間と全エネルギーを自分のしなくてならないと思う研究にそそぐことができるようになったのである。その時の彼の喜びは天にでものぼるような気持ちであったろう。大事なことはどうして、自分のやらなくてならないと思うことに自分の全時間と全エネルギーを注ぐかということであり、志ある者は常にその為の準備をする者である。自分の生活を日頃から心して簡素化しておらなくてならない。
 津和野を去った隆正は始め江戸に出て、貧しい中で一生懸命に我が古道の研究にとりくんだ。殆ど食べるものがない隆正であったが近隣の好意の中にすごしてたじろぐことはなかった。それというのも妻子を妻方の家にあずけていたから、隆正一人の生活をどうにかすればよかったのである。だから居所も転々と移動している。すべて隆正一人の糊口をつなぐためであった。この期間は案外に長い。その上、彼の家が類焼にあったり、火事のために蔵書一切を焼くということにもあっている。大阪に移ったのはその為もあった。だが大阪に移った隆正は国学を唱えて門人は急激に増えていった。その意味では江戸時代が彼の不遇時代で、それも六年間もつづいている。その間に隆正も四十四才にもなり、其の思想も確立されてきたのである。そうなれば次第に名声もたかまってくる。
 天保七年(1836)には播磨小野藩主に招かれて学校をつくっている。天保十二年(1841)にはそこを辞して京都に居を移しているが、その地を去るにのぞんで彼の養子をそこの教授にしている。隆正も年五十才となり、いよいよ何かをする時に当たっている。いいかえれば、国学を日本各地にひろめるということである。その学舎を報本学舎といい、その拠点にしている。
 姫路藩に招かれたのは隆正五十七才の時であった。ついで福山藩阿部正弘にも招かれている。阿部正弘といえばその後老中となり、有能という評判をもっぱらとった人である。隆正はその機会を中国地方に国学を普及するチャンスとみた。事実、阿部正弘の招聘があったことで、国学を学ぼうとする気風が急におこってきた。彼はその当時著した『倭魂』を正弘に提出している。正弘はその本の批判を藩校の教授に求めている。だが彼等は単なる儒学者であったので儒学あることを知って、他の学問所謂国学や洋学のあることを知らない輩であった。それどころか、かかる異端の学問を教えるなどとても教育指導できないと答えた。正弘は迷って更にその意見を林大学頭にたづねた。いうまでもなく、林大学頭は儒学を司る幕府最高の権力者であった。彼は隆正を流刑に処するように求めたのである。偶々水戸藩の西野新治がそのことを知り、斉昭に其の書を提出したところ、斉昭はこれこそ優れた本として激賞した。このことのために隆正は罪になることもなくすんだのである。当時日本の主流をしめた儒者の中には国学、洋学を唯忌避するという風潮があったのである。隆正の考えたような国学を中心にして、儒学、洋学があるなんてとんでもなかったのである。学問として共存するなんて考えなかったのである。
 これによって阿部正弘の心をつかんだ隆正は更に関白鷹司政通をも動かしてゆく。政通を通じて国学が公卿の間にひろまるのをみた時彼はどんなに喜んだことであろう。ついには旧藩主である亀井侯の優遇までうけるのである。
 脱藩してから二十余年目にして、今度は一流の学者として堂々と帰藩したのである。だが隆正はとくに此の時、藩の束縛をうけて進退の自由がなくならないようにと藩主に願っている。当に堂々とした態度である。藩主がそれを許した時始めて津和野藩につかえることにしている。全く立派の一語につきる。
 帰藩してからの隆正は江戸と津和野を往復し、その他は京都にいたのである。この時の亀井侯というか藩主は亀井茲監で、十八才の時に藩政を改革した名君のほまれ高い者であった。茲監は藩政改革の一端としてそれまで儒学を中心にしていた藩校を国学中心にあらためた男であった。彼は藩校の学則として、「道は天皇の天下を治め給う大道にして開闢以来地におちず、人物のよって立つところにして今日万機即その道なり」を書く程の男であったから隆正の学識には殊の外魅せられたと思う。この茲監を助けたのが国学者岡熊臣であった。

 

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   四、業績 其の一

 当時津和野藩を除いて一般には儒学を中心とし国学を従にする傾向にあった。だがそれをあらためて国学を中心にした傾向は一に藩主による。しかもそれを内外から助けたのが大国隆正であり、岡熊臣であった。それに阿部正弘の助を得て国学は非常に伸びたといっていい。阿部正弘は名老中といわれるほどの実力者であったから、猶更といってよい。そればかりでなく、津和野藩主亀井茲監は家臣の福羽美静に親しく隆正の指導をうけさせた。美静はそれ以前にも隆正の指導をうけていたが、茲監の知遇をうけてからその学は大いに進んだ。そして津和野藩の改革は隆正によって大いに進んだといっていい。
 隆正が水戸斉昭に引見されたのも此の頃のことである。彼は此の頃『文武虚実論』六巻を著し、それを斉昭に献上している。いうところは海防は虚文虚武をさけ、実文実武によるしかないことを述べたものである。だが彼は儒教、仏教は偏教で、基教は邪教であると其の中で述べ、我が国学のみが正教で本学というに足りると書いている。このような所論が独善的で排外的であるとして、其の後の日本の進展にふさわしくなくなったのであろうし、明治以後に亡ぶしかないものとなったのであろう。それが本居学、平田学になると更に徹底している。それによって幕府支配をにくむ傾向が生まれたとしても、所詮は歴史とともに発展することは出来なかったのであろう。私が今国学をおこさなくてならないという時の国学はこのような独善的、排外的な面でなく、日本人として先ず日本のことを知らなくてならないし、日本の課題とその方向を何よりも先につかまねばならないというのである。日本の学問は国学だといいたいし、その意味で日本の古道をいくら学んでもいいのである。日本の古道だけが正しく、世界で唯一のものだというのはおかしいと思うのである。それこそ儒教は中国人にとって正しいし、仏教はインド人に正しいし、基教はヨーロッパ人に正しいのである。もし正しくないものが出たら中国人なり、印度人なり、ヨーロッパ人が正せばいいのである。自分のものが絶対だと思うのはいい。しかしそれを他者におしつけたら間違ってくるのである。
 国学が幕府機構を否定する上には大いに存在意義があったとしても、同時にその後の日本を指導できるものでなくてならない。その後の日本が正しく指導されたとは言えないが、あのままの国学で指導されたら、日本人も他国人も今以上に不幸になったということは断言できよう。隆正の国学が真に学問としての日本学にならなかった所に、その後の日本の悲劇がある。
 だが隆正には日本の見識を高く買うかわりに、他国の見識を否定しなかった。中国人には中国人の見識があり、ロシア人にはロシア人の見識があるというのである。このことを考えたら儒教、仏教が偏教であり、基教が邪教であるという、大変独善的にみえる言葉も儒教、仏教、基教を否定した言葉でなく、単に日本人としては相応しくないのでないかという程度の言葉になるし、決して仏教、儒教、基教を否定したものとならない。後の人が排外的立場から隆正の言葉をそのように理解したにすぎなくなる。隆正が排外的で独善的だったというのは理解しなおす必要がある。今日日本人でありながら、日本の歴史を知らないということを得々述べていることに対する鋭い批判とみていい。
 唯日本の天皇は世界万国の総王だということがひっかかるのである。それにしても日本人がそう思うだけで、他国人に強制しないなら不都合はおこらない。それ位の自信をもっていて始めて世界統一の理想をかかげることが出来ると思うし、その道を断乎としてすすめよう。
 さて、嘉永六年(1853)十月に隆正は江戸をたって西に向かっている。其の途中に地震にあったが、夜になってもやまず、道もとだえたので江戸に還っている。無事を藤田東湖と喜びあったのも其の時のことである。だが藤田東湖もその後の江戸の大地震でなくなっている。其の時隆正は上洛中であった。人の運命はわからない。つづいて水戸斉昭も死んでいる。隆正の国学が順調に発展したのは斉昭のおかげであった。
 文久元年(1861)隆正は播磨小野におもむいている。この頃は隆正の大いに昂揚した年であった。隆正が『尊皇攘夷異説弁』や『尊皇攘夷神策論』をかいたのは其の翌年であるが、そこで彼は日本には日本の道があると喝破したのである。さしずめ今日なら、日本には日本独自の革命方式があるということであろう。日本人はもっと日本に徹すべきだし、日本に徹するためには日本の古道を学ぶべきだと言ったのである。それというのも、当時の識者は今の学者の多くが西洋一辺倒であるように儒者があるということを国学があるということを知ろうとせず、それで識者づらしてとおっていたためである。なんとしても、隆正にはこんな状態ががまんできなかったのである。日本人でありながら日本を軽視し、他国のみを尊重する精神が許せなかったのである。これではとても日本の当面する今日の課題は到底果たせないと考えたのである。
 隆正に此のようなことを考えさせるようになった直接の動機は長崎遊学である。彼はそこで西洋諸国が中国や日本をうかがっているという風聞を耳にしたし、事実既に中国は西洋諸国のものにされ、今や日本が危ういということを知ったのである。西洋諸国は口に平和を唱えながら、その実他国の侵略に躍起になり成功をおさめている国々であった。今や完全に世界中は法の外におかれ、弱肉強食が支配していたのである。この事実を前にして隆正は絶叫した。絶叫せずにはいられなかった。このような事実を徐々に日本人は知るようになり、彼等のいうことに耳を傾けだした。それは単に隆正だけでなく、儒学者、洋学者の中にいた自覚者によってすすめられたのである。忘れてならないのは国学者の中にも儒学者、洋学者の中にも自覚した者があり、それらは一となって、日本の危機を強調したということである。国学、儒学、洋学相互の間の争いはありながら、彼等は日本の危機という点では一致したのである。ここには醒めた学者と眠りつづけている学者の二通りしかなかった。国学、儒学、洋学ということで醒めたのでなく、それらをどのように学び、生きようとしているかにかかっているのである。国学者、洋学者だから醒めるということはできないのである。どの学問によってもめざめる。唯日本人は国学によってめざめたとき、より日本人らしくさめるということはいえそうである。

 

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   五、業績 其の二

 安政の大獄のあと大老井伊直弼を殺されてより時勢はおおいに動きはじめた。それに呼応するように文久二年(1862)七月には隆正は播磨明石に住み、そこで親しく津和野藩士であり自分の弟子でもあった福羽美静と語らい、ついで津和野に直接いたり、今度藩主に向かって種々献言している。此の頃は文字通り彼の生き生きしていた時代である。理論と実際が分離していた時代に、その理論と実際の統一をはかり、真に言霊の実現した国として日本を育てようと血眼になっていたし、多くの者ではないがそれを認める者もあちこちにいたのである。しかもそのような人間こそ隆正が人物として認めていた者である。隆正にとっては日本の大道とは日本の中にあり、日本自身のゆく道であった。それを強調せんとした余りに、それが万国の道よりもすぐれているということになったのである。日本人にとって日本の大道が絶対だといわんとしたので、万国人にとって絶対の大道だと言ったのではないことを知る必要がある。彼の言う攘夷は真底そう思ったもので、方便や手段から生まれたものではなかった。
 文久三年(1863)六月、隆正は出雲地方に遊び、十一月になって石見国大国村にかえっているが、その頃の彼は益々意気軒昂であったらしい。翌年には京都で蛤御門の変にあい、著書を焼いているが、そんなことは一切心にとめていない。翌慶応元年(1865)に条約が調印になった。彼は其の時、人はわが生まれし国を守るべきだといっている。だが彼は同時に「万国公法論」を否定して、我が天皇は世界各国の締帝だといいきったのである。たしかに日本人としてそれ位の誇りと決意はあってもいい筈だが、彼自身もいうようにそれを他国におしつけることはおだやかではない。彼自身の老化現象が此のようなことになったのであろうか。たしかに共存共栄を基にして万人の自由、平等の実現をはかるということは好ましいことだが、その実現のために天皇の中の一人でもその生命をかけたということはきいたことがない。その点では各国の君主もかわらない。民を犠牲にして己のみこえた万国の君主のようなことはないにしてもあくまで比較の上でよかったということでしかない。隆正程の者がどうしてそんなになったのであろうか。日本人に国学を学ばせんとしたあまりに、ついにそのようにまで思うようになったのであろうか。だが、当時は誰もこれらのことを問題にする者はなかった。
 慶応三年(1867)は隆正は七十六才の高齢であったがますます意気盛んであった。広島藩主松平長茂に招かれて古事記を講義し、ついで津和野藩主亀井茲監にも召されている。これより京都に還っているが、此の頃には既に将軍慶喜が大政を天皇に返還した後であった。この事は彼が非常に喜ぶ所であった。この時に隆正の歌ったものに
   花さきぬ牛となりても
     大君の行幸の車ひかんとぞ思う
というのがあった。
 明治維新は断行された。それはまさに隆正がその全存在で求めたことであった。しかも明治維新は同時に神武創業にかえることであった。神武創業にかえるということはその思想、精神をうけつぐということであり、その形にかえるということであった。何故なれば社会と人間は時々刻々に複雑化して、とてももとにかえることはできなかった。その思想、精神を時代に即して生かすということを考えなくてならない。徒らに其の形にかえるということは多くのものを殺すということであった。隆正が建武の中興が単に延喜天暦の治にかえらんとして神武創業の治にかえらんとしなかったのは大失敗であるといいきったのは正しかった。神武創業の治こそ明治維新の目標だといいきった岩倉具視の説は正しかったし、それを献言した玉松操も正しかった。玉松操が隆正の弟子であることを知る人も多い。こうして、隆正の思想によって明治維新は断行されたのである。おそらく彼の最高に満足した所であろう。彼は亀井茲監とともに出仕して、神祇事務局の役についたのである。

 

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   六、神祇官時代

 隆正が神祇事務局判事になったのが慶応四年二月のことで、明治政府は浦上教徒をどうするかで頭を痛めていたときである。明治政府は単に徳川幕府の基督教禁制を踏襲したにすぎなかった。彼もこの頃書いた存念書に「さりながら当今日本の神道などと唱え申候ものを流見仕候処、かの教法を圧倒いたし候程のしたたかなるもの見聞申さず候」と書いている。隆正の眼にみえた国学、神道とてだめだったのである。だから彼はなるべく早く日本人の則るべき教法即ち国学を確立する必要があると痛感したのである。彼は古神道でも本居流でも平田流でも私説でも不充分だと見做したし、これからの日本人を教導できるものはこれからつくるべきだといったのである。まさに隆正の卓見である。
 隆正はさらに次のようにも書いている。即ち中国の儒学、印度の仏法諸派をみきわめ、西洋の基督教をも知りぬいたものでなくてはとても日本の神道、国学になれないと。彼はそれによって、逆に自分の国学を宣伝したともいえる。
 要するに明治維新により祭政一致が志向され、神祇科ができたのであるが、まもなく神祇事務局に変わった。更に神祇官と名称が変わり、太政官の中の一官になったのであるが、その後になって神祇官を逆に太政官の上位におき、ここに始めて祭政一致は実現をみたのである。だが、この頃から神道内部というか、国学内部というか争いがおこり、むしろ神道そのもの国学そのものを時代にふさわしく育てるべき時にその逆の姿を呈したのである。一種の権力斗争というものであった。
 その後再び神祇官は太政官の下におかれ、やがて神祇官は神祇省になるのであるが、その間彼等の暗斗は激しくなってもやむことはなかった。ついには神祇省までなくなり、祭政一致は天皇家の私事としてつづくのである。勿論神祇省がなくなったのは明治政府の欧化政策もその一大要因であろうが、なによりも国学、神道を日本学に育てあげないで国学、神道内部が争っていたことに一大原因があろう。
 それのためでもあるまいが、隆正はわずか一ヶ月で、神祇事務局を去っている。この頃から起こりかけている国学内部の、神道内部の争いに絶望したのではあるまいか。去った後も猶相当彼は元気であった。彼の見た夢は大きかったし、国学、神道への期待は大きかった。だが、それが果たせるとは思えなかったのである。神祇省がなくなるのは彼の死後まもなくである。彼は既にそれを予感していたのかもしれない。先述した玉松操も新政の方向に不満として出仕をやめている。隆正の死んだ年は明治四年(1871)八月十七日であった。
 今日では祭政一致は時代錯誤とされ、古いものだと普通にはされている。だが果たして時代錯誤なのであろうか。宗教は古いのであろうか。たしかに今ある所の宗派宗教は多くは古いし、学問は宗教を排除することによって無限に進歩もしてきた。だが、どんなに無限に進歩しても常に未知のものを残しているのが今日の学問である。だから学問をすればする程、その未知なるものの前に祈るしかない。本来の宗教とはその未知を知ることであり、その未知なる部分に対して祈るしかない。神といい、絶対者といってもよい。要するにそれにむかって祈ることである。学問は多くの専門科学に分かれているが所詮は統一されてその未知なるものと対決するしかない。今のような諸学と併存する宗教でなく、宗教とは諸学の出発点であり、諸学の終結点となるものである。統一点となるものである。今のように諸学がばらばらではこまるのである。人間の理性がいかなるものであるかを知れば所詮人間は祭政一致しかなく、祭政一致にとどまるしかない。現代人が祭政一致をやめうると考えたところに、人間に対する不遜があり、そのための敬虔さをなくしたのである。人間は今一度真の祭政一致時代にかえるべきである。その時始めて本当の学問も生まれ、学問を主宰する宗教も生まれるのである。宗教も開明的となり、発展的となるのである。
 たしかに曾て祭政分離を主張したときには人間の進歩を害するものとしての宗教があった。だが今ではそのような似而非的宗教は否定されて真に人間のための宗教が求められているのである。まだまだドグマ的宗教は多いが、それは真に学問が皆のものとならず、学者だけに専有されているためである。いいかえれば国学が真の国学として発達し、普及しなかったためである。国学が日本学となり、更には世界学に発展しなかったためである。
 隆正の国学にはそうなりうる要素をもちながら同時に日本の古道を世界唯一のものとする面をももっていた。その後の国学者がそれを批判し、のりこえようとする者がいなかった。そのために亡ぶしかなかったのである。彼のいうように真に儒学を仏学を洋学をとりいれるという格斗はしなかったのである。格斗のない所には内容は細っていくしかあるまい。もう一度蘭学神道といわれたことを考えてみる必要がある。

 

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