池田諭と塾創設について

                     山本克己(1999年10月)

 

1 池田諭との出会い
2 池田諭の思想
3 池田諭の塾構想
4 塾創設について 

 

   1 池田諭との出会い

 私が池田諭のことを最初に知ったのは、新潟日報という地方新聞の記事(私の仕事……「人間変革の思想」を書いた池田諭氏)を読んだときであった。当時、私は高校二年生であり、人間とは何かについて悩み、学校教育にも疑問をいだき始めていた。その記事の「教育国家の理想を追う」という表題が、私の眼に飛び込んできた。記事の中の「日本の教育は明治以後、百年の永きにわたって現状を維持し社会常識を守って暮らすような人間をつくってきた。社会が前進せず公害で苦しむようになったのも当然です。」「……教育国家、いわば人間の理想を追う国家であり、産業国家、富国強兵の国家を否定する新しい国家であった。そして教育国家は、教育が政治から独立し、教育が自由に自立の道を歩む、歴史上いまだ存在しなかった国家である。」という言葉や、「塾生たちの一日は朝のご飯炊きと掃除から始まる。……そして夜はマルクス、エンゲルスをはじめ釈迦、親鸞、日蓮、キリスト教、回教、政治、経済、歴史等々の学習をし、塾生の一人ひとりが自分の世界観、人生観をもつことを目標に日々を送った。」という塾教育の様子などに私は興味を引かれたのだと思う。そして学校教育への自分自身の疑問が間違ってはいない、その疑問に答えてくれる本かもしれないという期待があったのだと思う。私は早速、書店で「人間変革の思想」を注文し、図書館で池田諭の本を探した。
 そして「人間変革の思想」を読んで、私は感銘を受けると共に池田諭に対して疑問も持った。池田諭は、この本の中で口舌の徒を厳しく批判していた。そして、塾教育をかえりみて、「許されるならもういちど、の念願も強く働く……」と言うと共に、「私は、生命あるかぎり、書きつづけるつもりである。」とも言っていた。もう一度塾をつくるということと、本を書き続けることとは、その時の私には矛盾することと思われた。私には「どんなにたくさんの本を書いても、この今の教育は変わらないのではないか」という疑問が強くあったのだと思う。私は池田諭に手紙を書き、塾をつくるつもりがあるか否かを問うた。
 池田諭の返書には、「三年後の目標に再建します」と明記されていた。脳血栓で倒れ、まだ歩けないし、しゃべれないということ、自分の信念を訴えるためにも書きたいということも書かれてあったが、当時の私の脳裡には「三年後の目標に再建します」という言葉だけが、飛び上がらんばかりの喜びと共に焼きつけられた。もしも、その言葉がなければ、私は池田諭に関わりを持つことはなかったと思う。「生き方としての独学」や「吉田松陰」などもこれと前後して読み、自主性、主体性について、実践、行動について、また、今何をなすべきかについて考えていく内に、私は自分も塾をつくらねばならない、つくるべきだという思いを徐々にふくらませていった。
 池田諭との手紙のやりとりは、主に高校三年生の秋頃までの一年にも満たないものだった。私は高校で受験体制を批判するビラをまいて、受験体制に流される生き方を否定していた。それは大学を受験せず、そうした流れからドロップアウトすることだと思った。高校を中退することを考えたこともあったが、高校を出た後は、働きながら大学の聴講生になろうと考えていた。池田諭からは、高校での働きかけも必要だが、まず大学に入って自分自身をつくることであるという手紙が来たが、私は反論の手紙を書かなかった。書けなかったのかもしれない。書かずに自分を閉じてしまった。私は自分の決心を持ちこたえることで精一杯で、その決心をさらに他者との討論の場にのせる余裕はなかったのだと思う。「親を納得させえない者に真理を行ずる資格はない」という池田諭の言葉も耳に痛かった。振り返れば、その時池田諭に対して反論をぶつけなかったのは、大きな失敗であった。その後の私の生きる姿勢、他者に対する姿勢に不徹底なものを残し続けることになったように思う。
 その後、池田諭に実際に会ったのは、二回だけであった。会って初めて、池田諭が病床にあることを驚きと共に認識し、裕子夫人の通訳により、わずかな言葉を交わしたにすぎなかった。ただ、その部屋の蔵書の多さにびっくりした記憶だけが残っている。二回目は、入院して酸素テントの中に横たわる池田諭を見舞った。そして、1975年6月9日に、池田諭は亡くなった。遺稿となった「国学、儒学、洋学
……時代に対決する学問……」の完成をも見ずに他界してしまった。
 その年の春から私は親元を離れて、住み込みで新聞配達の仕事をしながら、大学の聴講生を始めていた。
 かつて池田諭の手紙には、「貴方のような青年が全国に二十人、三十人といるので、私も大変うれしいのです」と書かれていた。私は、池田諭が亡くなった今、その人達と連絡を取り、塾設立を目指さねばならないと考え、6月の下旬か7月に入ってからか、裕子夫人を訪ね、そうした人達の連絡先を教えてほしいと話した。当時の記憶はあいまいであるが、おそらく私はその時、新聞店も聴講生もやめることを決心していたのだと思う。8月には佐賀と名古屋の読者有志に会いに行き、また山口県を自転車で周り、塾舎として間借りさせてもらえないかと幾つかのお寺を訪ねたこともあったが、せいぜい教育問題について話を聞く程度に終わった。そして8月下旬には、裕子夫人のお世話により、池田諭の会を開催して、読者有志で塾設立について話し合うことになった。呼びかけの葉書も、裕子夫人にお願いしたのだと思うが、次のようなものであった。

「池田諭の生き方、思想、志をあとに続く我々が如何に継承し、発展させるかは、残された者としてまともに考えなければならない課題です。なかでも塾の再建は、池田諭の最後の悲願であっただけに、どうにかして我々の手で建設しなければならないと思います。その塾をどう考え、どう創っていくか、共に考え、共に語り合おうと、読者有志が左のように会場その他を決めました。ふるってご参会を願います。
   日時 八月二十四日(日)午後一時より六時
   場所 私学会館
   会費 千円  出欠のお返事は八月十五日まで」

 しかし、当日集まった人々の中で、塾設立を今この場から考えていこうという者は、佐賀と名古屋の読者と私の三人だけであった。その三人もそれぞれの状況や考え方に違いもあり、またいずれも、18、9才であった。私は当日、すでに失意に沈んでいた記憶だけがある。塾をつくらねばならないと考えてはいても、実際に一人からでも始めようという決意も、そのために協力を依頼するという発想もなかった。その会合では、とりあえず第二回目の会合を開こうということを決め、散会した。その後の会合の中から、「羅針盤」というミニコミ誌を出し1978年までの2年半にわたり続いたが、その後私自身の生活も転々とし、「羅針盤」を続けることができなかった。そして、ついに池田諭の会から塾創設へと発展することはできなかった。「羅針盤」の巻頭言は、「羅針盤は、1975年池田諭氏没後、76年に彼とのかかわりを通して出会えた人々の連帯、学びあいの場として創刊された。池田諭氏は、教育、人間、社会の理想を追求した人であるが、我々の問題意識もそれらの変革を、基点としている。人間としてより充実した生を築いていくために、自身を変革しつづける独学を深めつづけていきたい。我々は現代を生き抜き、その方向を追求しつづけようという、この羅針盤を共に創っていこう。」というものであった。
 ふりかえれば、私が、他者に呼びかけ、共に塾をつくろうという人を募り、その活動の内容を討議し、塾舎を準備してゆくという実際の塾の創設を試みたのは、全く不十分であったにせよ、1975年の一夏に動きまわった時だけであった。その後もさまざまに呼びかけもし、未熟ながら提案もしたが、それは、塾建設そのものではなく、共に学び合う関係性をつくろうということに終わっていた。
 やがて、25年が経つ。

 

    2 池田諭の思想

 池田諭の思想について語ることに、私は今も躊躇がある。語れば一面的になってしまう恐れがある。自信がないとも言える。随分と逡巡したあげくに、なおも逡巡しつつ、ここに提出する。
 池田諭は、人間が人間として生きるということは反逆者、求道者、革命家として生きることだと断言する。既成の価値、倫理、秩序を否定して、新しい価値、倫理、秩序を創造することが生きることであり、自分を変え、人を変え、社会を変えて、生生発展させることであると言った。前世代の思想、信念そのままに流され、それを踏襲して生きることは、単に存在しているだけで、人間として生きたとはいえないと言い、全ての人が反逆者、求道者、革命家を志さなくてはならないと言う。池田諭の人生論の根幹はここにある。
 それは、どのような生活を営もうとも、その根底に生きる姿勢として変革がなけばならないということであり、時代情況に流される生き方や事大主義を克服し、民衆一人一人が思想的に自立しなければならないということである。
 そのために最も基本となるのが独学の姿勢であり、それは自分自身の問題意識に基づいて学び考え行動していくことである。独学の姿勢を持つということは、何のために自分は学ぶのかと自らに問うことであり、さらに自分自身がどのように生きるのかを問い、自分自身の人生論を追求し確立していくことである。それは、今この時代に何をなすべきか、どんな実践をしていくかを自問自答することでもあり、そのためには人間・社会・自然をトータルにとらえ、専門化し分化した科学を統一し、人間が全的人間として生きる必要があることを主張した。
 そして独学していく上で、感性の重要性を池田諭は説いた。欲望に根ざした学問、実感を重んずる知識、感性と悟性の統一の上に成り立つ知識と池田諭が繰り返し主張したのも、行動に結びつかない知識、学問が世にはびこり、日本の学校教育を覆い、知識を習得すればするほど口舌の徒になってしまう現状を変えていくためであった。暗記的知識、観念的知識に終わっていては、知識は死んだままであり、人間の知識としては十分に機能することができない。学問はあくまで人間自身のためにある。人間が幸福を求め、行動するためにこそ知識が必要なのである。
 また、池田諭は、教育は革命でなければならないと断言し、教育は徹頭徹尾自己教育であると言った。そうした教育の原型を松下村塾に見出し、今日の学校教育全体の現状に反対し変革していく塾教育を興そうとした。それは、教育環境、即ち社会の変革をも含むものであった。それが、池田諭の実践論であり、人生論から出てくる根本的な一つの答えであった。
 そしてもう一つ、池田諭は、近代日本の歩んだ道は、西欧諸国の侵略の道を追随するものであり誤っていたと言い、武力国家、経済優先の産業国家を否定し、平和国家、道義国家、教育国家の道を進むべきであると考えていた。それは富国強兵の政策を否定し、理想を追う国家であり、教育が政治から独立して自由に自立の道を歩む国家である。教育が政治から独立するためには、文部省を廃止し、政治や経済に従属しない自主的な民間機関が設立されるべきであるとも述べている。また、道義国家とは一切の侵略を否定する国家であり、政治、経済が美意識に貫かれた国家でもある。資本主義であろうと社会主義であろうと、経済優先の産業国家の道を歩む限り、それは公害を認め人間の幸福を犠牲にする道であり、必ず第三の道を発見しなくてはならないと言った。そして岡倉天心を通し、それは美と宗教の国家への道であることを提起した。ここで言う美とは、政治的、経済的意識の中にも貫かれた生活意識としての美意識であり、宗教とは現在ある宗派宗教ではなく、政治、経済、社会、教育等の諸学の原点であり到達点であり、かつ人間の霊性、人間の尊さを知らしめるものであると言う。人間は、悟性と感性を統一した理性的存在以上の霊的存在であることに目覚めなくてはならないし、人間の霊性が発現されなければ、真の平和は実現されないと言った。ここに、池田諭が目指した世界観が表れている。ただ、池田諭の実践論はあくまで民衆一人一人の立場からの具体的な変革であり、それぞれの現実から出発することを強調している。
 以上、私は池田諭の思想の骨子は「反逆者、求道者としての生」「独学の姿勢」「行動のための学問」「塾教育」「富国強兵の否定と美意識、霊性」にあると捉えている。

 さて、しかし、私は池田諭の思想に対して肯定できない所もある。
 池田諭は、「反逆者、求道者の生」を提唱し、全ての人が反逆者、求道者、革命家として生きるべきであり、それは人間が理想を追って生きんとするときの自然の帰結であり、そこに無限の喜びがある筈であると言った。前世代の思想、信念そのままに流され、それを踏襲して生きることは、単に存在しているだけで、人間として生きたとはいえないとまで言う。それは池田諭が戦中派として戦中を生き、そして敗戦を体験する中で痛烈な思想的格闘をせざるを得なかった所から出てきた結論でもあったと思う。戦争に巻き込まれ、時の権力に組織されていった人間の生き方への痛切な否定があるのだと思う。それだけに池田諭のこの人生論は徹底している。しかし、私は池田諭の「全ての人は」「ねばならない」という全体論的かつ絶対論的発想を肯定することができない。たしかに人間の本質には、既成の物事をつくり変え、新しい物事をつくり出すという「変革」の要素があると私も思う。そしてその本質をつきつめ、ふくらませていけば、人間は理想を追って生きることに帰結していくとも言える。しかし、全ての人が激しく厳しい人生に充実感をおぼえ、それを求めるわけではない。燃えるような情熱的な生き方よりも、ゆったりとした安らかな生き方を欲する人もいる。全ての人間が生きる上で、変革に最も重い価値を見る訳ではない。しかし、このように考えると、「それではダメだ」という声が聞こえてくる。特に政治権力の問題を考えると、民衆一人一人が思想的自立を獲得しない限り、事大主義に流されるのは目に見えている。しかし、あえて「全ての人は」というならば、人間はどのように生きてもいいのだと言う以外にないと私は考えている。むしろ全体論そのものから発想する限り、結局は個々人よりも全体に重きを置くことになり、支配被支配の関係性を生み出すことになるのだと思う。
 池田諭は、あくまで民衆一人一人の主体的な人生を求めた。しかし、「反逆者、求道者の生」を主張する時、全体論的な論調が出てくるのは、池田諭の痛切な思いが込められているからであるとも思うが、同時にその社会観が統一指向を持った全体論的社会観であったからではないかと私は考える。
 池田諭は、富国強兵の国家、産業国家を否定し、道義、平和、調和の社会をつくらねばならないと主張した。そして、権力に頼り上からの改革を図るのではなく、一人一人の現実に根ざした主体的な変革によって、そうした社会を目指そうとした。しかしどのように理想的な国家や社会であろうと、「国家」や「社会」を目指す限り、支配や抑圧の関係性は存在する。社会変革という発想自体を問い直さなければならないと私は思う。社会を変革するという時には、社会が一つの総体であり、全員が参加し、帰属しているという社会観を前提としている。
 「社会」という言葉は、日本において近代国家の成立の過程で訳語として流布された。「社会」という概念には、統一された全体という意味が込められている。一つのまとまりとして捉えられる。全体論的発想を支えているのは、この社会観である。社会変革を考える時、理想の社会像を提示しそれを目指せば、そこには全体を統一しようという指向性が内在する。統一指向がある限り支配の関係性は存在し続ける。現在の民主主義も全体論的社会観に基づいており、個々人の帰属を前提とし、時には帰属を強要する。多数決という方法自体が、統一を求める全体論に基づいたものであり、支配的な方法である。分散的なあり方や多様な選択肢をつくり出していくことは考えられていないのが、多くの現状である。
 池田諭は、「無関係な人はいないのである。それが、人間は全て政治的、社会的、歴史的存在であるということである」と言っているが、私は、人間が政治的、社会的、歴史的存在である前に、まず、人間を独立した個的存在としてとらえるべきではないかと考える。個々人が社会の構成員であるとか、国家や民族の一員であるという通念を問い直さなければならない。個々人の生活が、その社会の政治、経済の体制を支えるという認識も、全体論的社会観から出てきたものである。政治も社会も歴史もこの世の中の全てをおおい包んでいるかのように受け取られてきたのが、全体論としての政治観であり、社会観であり、歴史観である。まず社会全体があるのではなく、まず個々人があるのである。個々人の参加により、はじめて社会的なさまざまな関係が成立するのである。実際においても、個々人がその人生において関係できる範囲は限られている。間接的な関係の糸をたぐりよせれば、一人の人間の衣食住に関係することは、世界中に広がっているだろう。しかし全てに関係している訳ではない。まして個々人の生活の中で、積極的に関係していける範囲は限られている。この街に住んでいると言っても、この街の全てに関係している訳ではない。社会とは、そうした個々人の関係が混在している場である。そのさまざまな人間の関係の全てを、「社会」という一つの言葉で表すのが、全体論的社会観である。その社会観からは、結局は個々人よりも社会全体に比重を置く考え方が生み出されていく。
 人間が存在する上で、国家や民族という枠組みは永遠不変のものではないが、個々人の日常生活は人間が存在する限り営まれていく。私が、まず個々人を独立した個的存在として捉えるべきであると考えるのは、人間が集団として生きることを否定しているのではない。むしろ人間が集団として生きることを捉え直さなければならないと考えるからである。日常生活の関係性、例えば家族で暮らしているとか、学校へ通っているとか、会社で働いているとか、休日に旅行に出掛けたとか、そうした関係性の中で生きている実際にこそ立脚し、そこから、政治、経済、歴史等を捉え直す必要があると考えるのである。
 統一指向、全体論的発想は、個々人一人一人が、それぞれの人生を歩んでいくという発想と本質的に対立するものであると思う。理想を追う国家なり、社会を目指そうと考えれば、全ての人が反逆者、求道者、革命家として生きるべきであるという人生論も出てくる。しかし、私は全体論的発想とその基にある社会観を肯定することはできない。全体論に対して個別論からの政治、経済、社会、歴史等についての実践論が生み出される必要があると考えている。
 人間は一つの人生論で統一できないほど多様である。望むべきことは、多様な人生が、それぞれの自由意志に基づいて開花してゆくことである。個々人が思うままに生きて、むごい争いのない状態である。

 もう一点は、「富国強兵の否定と美意識、霊性」についてである。これは、「平和」の実現という人類の課題に直結する問題である。
 私は単に戦争のない状態が、「平和」であるとは考えない。経済侵略も「平和」ではない。受験戦争といわれる状態も「平和」ではない。人間が抑圧されたり支配されたりする関係性を変革できないうちは、「平和」は実現されないと考える。「平和」を実現していくこととは、権力や武力、さらには勢力による支配、抑圧の関係性をいかに無くしていくかということである。
 戦争の反省から、人命尊重や核兵器廃絶、武力削減の主張が生まれたことはよい。しかし、それだけでは「平和」は実現できなかったし、その主張も十分に実行されていない。戦争の反省は全く不十分である。戦争の反省は、なぜ、政府の存在や政治そのものを問い詰め、そのもの自体の変革に向かわないのだろうか。戦争を決意し国民を組織し命令したのは政府である。どんな政府も、いつか必ず戦争をするものだと何故考えないのだろうか。そして政治そのものを変革しない限り、支配被支配の関係性は残り続けるものだと考えないのだろうか。さらに、戦争行為に組織されていったのは、国民であり民族であったことを問い詰め、国家そのもの、民族そのものの存在自体の変革を何故考えないのだろうか。「平和」の実現を考える時、人命尊重の思想に頼ったり、人間の善意に期待することは誤りである。問題は人間の関係性にあると私は考える。
 池田諭は、もはや人間が理性の段階にとどまる限り、真の自由、平等、平和の実現は難しく、人間の美意識を喚起し、人間の霊性が発現されなければ、真の平和は実現されないと言った。人間の内面は制度そのものがいかに合理的となり、平等化しても、それに比例してはよくならないと述べ、人間の内面の倫理をたかめる以外にないのであると言った。しかし、私は、問題は人間の内面にあるのではなく、人間の関係性にあると思う。
 人類は、少なくともこの2000年ほどの間に限って見ても、イエス・キリストや仏陀をはじめとして、さまざまな人々が、人間が平和に暮らせる道を説き、実践もしてきた。それでも人類は戦争を繰り返してきた。人類は、あと何年、道を説き実践すれば、戦争や侵略行為を無くすることができるのだろうか。あと何年、道を説き実践すれば、美意識に貫かれ霊性に目覚めるのだろうか。果たして、戦争及び侵略行為の原因は、美意識や霊性の欠如によるのだろうか。美意識に貫かれ霊性に目覚めている人は、たしかに戦争や侵略行為はしないだろう。しかし、そういう人は、権力の座にもつかないのである。覇道(武力による侵略、権力支配)を否定することが、何故、王道(道義、仁徳による政治、善政)をも否定することに結びつかないのだろうか。善政とはお伽話である。善政が行われる時は、すでに政治をする必要がない状態が生まれている時だからである。人々がそれぞれの生活を営み、その関係が自由で平和的に進展していく状態である。そうした状態でなければ、王道を行おうとしてもすぐに覇道に変質してしまい、権力による政治の必要に迫られるのである。美意識に貫かれ霊性に目覚めた人は、権力による政治を行うことなどできない。故に覇道、王道ともに否定する結果とならざるを得ないのである。王道とは権力の座を消滅させることである。2000年間、道を説き、それでも「平和」をつくりあげられなかったのは、一面では王道幻想にとらわれていたからではないか。善政を夢見続けていたからではないか。民主主義の政治においても、いかに投票を重ねても善政は来ない。政治そのものに現れる人間の関係性こそを問わねばならない。
 人間が美意識に貫かれ霊性に目覚めていくことは必要なことだし、またすでに初めから全ての人間に原形として備わっているとも言える。人間は日常生活を営む個々人の立場からは、戦争を起こそうなどとは思わないのである。戦争や侵略行為を無くしていくことと、美意識と霊性を喚起することは、直結しない。覇道を克服することに直結するのは、人間の関係性の変革であると私は思う。政治的、経済的な関係性を変革していく実践論を生み出さなくてはならない。
 以上、私が述べたことは、観念的な空論の域を脱していないと認識している。私には変革の実践論が必要である。私はそれを生み出すために、全体論ではなく個別論の視点から追求しようと思っている。

 

   3 池田諭の塾構想  

 池田諭の実践は、藤園塾、新しい風土、著述活動、そして教育環境をつくりかえる会であった。著述活動で、二十数冊の著作を世に問うたことは大きな比重をしめているが、池田諭の変革の具体的方法は、その塾構想にあったと私は思っている。
 池田諭の構想した塾は、私塾ではない。藤園塾時代においても、後援会さらには教育科学研究会、社会科学研究会、日本コスモス会をつくったように、「教育環境をつくりかえる会」は塾を経済的に支えるとともに教育環境、即ち社会をも徐々に変革していくことを目指していた。教育を学校の中だけのことに終わらせ、政治、経済、社会との関連の中で追求しないことが、従来の教育の限界であると池田諭は言っている。塾がそこでの生活に根ざした独学と相互切磋の場であり、それを支える「教育環境をつくりかえる会」が教育変革の研究と実践を進めていくという所に、池田諭の塾構想がある。塾と「教育環境をつくりかえる会」は、一つのものとして捉えねばならない。「教育環境をつくりかえる会」無しには塾は考えられないのであり、また、塾無しには「教育環境をつくりかえる会」も考えられないのである。
 晩年の手紙などには、「教育環境をつくりかえる会」の呼びかけ人を30人位、会員を1万人つくり、塾は全国に10位つくりたいと書いている。会員が1万人というのは、10位の塾と会を運営していくためには、それくらいの人の会費が必要であると考えたためであろうか。また、同時に社会的な広がりを持つ運動として考えていたことも示していると思う。また、呼びかけ人に有名人は入れずに実質的にやってゆきたいと言っていたことは、一人一人の主体的な行動として会を組織し、運営していこうという姿勢に徹していたことを示しているし、それは、いわゆる上からの変革や権力、権威に依存しないやり方でもあったのである。さらに、会費は一口千円以上、五万円以下と考えており、一部の人々によって塾教育が独占されないための注意もはらっていた。そしてこの運動は永遠につづけなければならないと言っている。
 池田諭の構想した塾がいわゆる私塾でないということは、塾の建設費、維持費は後援する会によってまかない、入塾する者は塾費(教育の費用)がいらないという所にも表れている。池田諭はそうした理解者により塾が支えられていくことによって、社会環境、教育環境を徐々に変えていくのがねらいであったと言っているが、教育が徹頭徹尾自己教育であり、塾教育が独学に基づいた相互切磋の場であることを考えれば、塾費を必要とする発想自体が無くなるのは当然であると私は思う。池田諭は、塾は社会のものであると言い、教育を本人だけのもの、国家のものだけにしたくないと言った。それは、自分一人の出世にのみ取り組むということを無くしたいためでもあった。
 それはまた、塾には志をもつ青年のみを選んでいれると言い、志の有無を重視していたことに関連しているが、志を問うことは塾が塾として成立する最も基本的なことであろう。何のために学ぶのかという問題意識や独学の姿勢のないところには、共に学び合い切磋琢磨してゆく関係性は生まれない。教育環境をつくりかえるという困難な活動もできない。容易に崩れないものをつくろうという池田諭の姿勢がここにも表れていると思う。
 塾そのものについて、池田諭は、塾生と塾長が起居をともにし、諸生活を塾生で担当すると言い、それによって塾生の創意と行動を尊ぶ精神が育成されると述べている。藤園塾においても、炊事、掃除等一切の日常生活の仕事を塾生に課したのは、「どんな日常的なこと、些事でもそれを重んじ、尊重し、ゆるがせにしない態度を養成することを考えたからである。とくに、日常的生活のすみずみにまで、頭脳が働き、知識が作用するように求めたのである。最近、ともすれば日常の生活を軽視し、観念的知識の修得のみを重んずる傾向があるが、私は日常の生活を重んじ、そのすみずみにまで知識が働くとき、はじめて、国家、社会を動かすような大知識も生まれてくるし、はじめて人びとを本当にだいじにする人物になれると信じたからである。」と述べ、輪読会における塾生の言葉が、「それが単なる思いつきの発言や、単に頭の中だけで考えた発言でなく、全身からにじみでた言葉であるかどうかをたしかめた。具体的に日常生活をともにしているから、嘘か本当かは、塾生相互にも一目瞭然であった。」と述べている。さらに「行動的知性とは、全生活的知性のことであり、私たちの日常生活を含めて、政治生活、経済生活、社会生活のいっさいを変え、発展させてゆく知性である。庶民大衆の全てが、ことごとく、このような知性をもつとき、世の中ははじめて変わる。」と述べたことを考えあわせれば、塾が生活の場であるということは重要な要素であると思う。
 池田諭は「教育とは本来、危険な作業であり、生徒に革命をおこす作業である。……教育とは遊びでなく、教師と生徒の生命がけの行為なのである。」と言ったが、池田諭の塾構想には、そこに参加する者に、その日常生活のすみずみにまで行きわたる自立した思想をあくまで、主体的にたたかい取らせようとする厳しさがある。そして塾における切磋琢磨とは、各自がそうした変革の思想を生み出していけるか否かのかかった危険な相互作業である。

 

   4 塾創設について

 私は今も塾はつくらなければならないと思っている。それは教育国家を目指すという発想からではないし、池田諭の構想した塾と同じものがつくれる訳ではない。私は今「教育環境をつくりかえる会」を組織することもできないし、塾生を募集することも、起居を共にした生活をすることもできない。教育の現状を変えていく具体的実践論も持っていない。
 塾創設について考えようとすると、私はこの20数年間のさまざまな失敗、敗北を振り返り、自分には塾をつくり、運営していくことは不可能に思えてくる。それは、相互切磋の関係をつくり、継続することができなかったこと。共同生活における日常茶飯事や関係性のトラブルを解決できなかったこと。生活変革の実践論を持てていないこと。そして他者にどこまでも関わり共に生きていけるのかという自分自身に対する疑問などがある。
 しかし、私は塾創設の課題から離れることができない。ついに塾創設の志を捨て去ることができなかった。塾とは、独学と相互切磋の場であり、生活の場であり、教育変革の拠点となる場である。この三つの要素を、日常の生活の中につくっていくことこそが、変革の基本であると私は思っている。と同時に私が生きていく上で、他者との関わりの中に求めるものは、今何をなすべきなのか、どのように生きるのかを共に追求し続けていく関係性である。変革の実践論を討議し続けていくことのできる、共に実践していくことのできる関係である。私は人間が他者との関係の中で生き、生活変革を求めていこうとすれば、自分自身が思想的自立を求めて独学し続けることと、共に学び合い相互切磋し続ける関係をつくることは、一つのことでなければならないと考えている。それは、まさに塾なのである。しかし、現実の人間関係は日常生活の茶飯事にとどまり、その意味と方向性を追求する関係をつくり続けていくことは難しい。それはまた、自分は他者にどこまで関われるのか?どこまでも他者に関わり共に生きていけるのか?といった問題にもつながる。変革の実践論を求め共に学び合っていく関係には、そうした厳しさがあり、私はその前で逡巡したり逃避してきたことも事実である。
 かつて私は、自らの実力及ぶ限り近代化された生活を排し自給の生活を営もうと試みたことがあった。近代日本の侵略的な歩みの上に成立している現代の生活に甘んじていては、覇道は無化できないとかたくなに思っていた。その時は、自分一人でも塾であると思えた。そこが起点となる可能性があると思えた。しかし、その生活は芽も出ないうちに潰えてしまい、塾は形成されなかった。私は、塾を創設するには、まず、自らがどのような生活を営むのか、これこそが変革実践としての生活なのだという生活を営むことが必要だとも思っている。人間変革も社会変革も、実際には生活変革でなくてはならないと考えている。やはり、まず塾をつくる者が、変革行動をはじめていなくてはならないとも思う。しかし、私はそうした実践論を未だ持てていない。
 今の私には、塾創設という課題が20数年前に考えていた時よりも、もっと遠くに感じられてしまう。しかし、私は内容の貧しさを覚悟の上で、私自身の現状から出発する以外にない。たとえそれがマイナスの地点からでも始める以外にない。私にできる所から始めていこうと思っている。

 

            

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