「人間変革の思想 塾教育実践の記録から」(全文)

 “いま”“ここに”生きている人間そのものを変革せずに、なんの社会変革か?
 自己変革をとげることのできないものが、なんの人間変革か?
 人間変革という困難なテーマにとりくまずに、なんで思想か?
 真理に生きる思想をもたないものが、なんで教師か?
 価値崩壊の時代に、いちはやく独自の塾教育を実践し、塾生と勉強・起居をともにして、たがいの人間変革……真の教育……を志した著者は、その理想追求と挫折の体験から、口舌の徒をきびしく批判し、安易に教育を語るものに抗議する。
 ここに展開されるのは、ひどく細分化され“専門化”されて、現実に対してはなんの力ももたない“学問”の否定であり、行動し、生きるための知識……真の人生論知の提唱である。
                         (表紙より)

 

                            

     まえがき

 藤園塾が私の未熟が原因で崩壊したために、私は山口県T市を捨てて東京に住むようになった。そのとき、竹内好氏は私にその体験記をまとめるようにいわれた。だが、そのときはまだ塾のつぶれた直後であり、私の中で整理できていないために、それをことわる以外になかった。しかし今はあれから二十余年もすぎて、私の中で十分に熟したし、まとめておきたいという一念もたかまってきた。大学闘争のあと、塾教育の必要が叫ばれ、それを試みている者もいるが、まだ不十分であり、私のかつての塾の理想は今日も実現されていない。それ故になおいっそう藤園塾教育のことをまとめておきたいという思いもおこった。
 私がここにまとめようとしているのは、人生論的教育論である。人びとは人生論といえば、宗教を政治、経済、社会、教育、歴史等と並列的に考えるように、政治、経済、社会、教育、歴史等と並列的に考え、このごろやっと人生論という一ジャンルが成立するかのように思っている者も多い。しかし宗教が政治、経済、社会、教育、歴史等の根本にある本質的、普遍的なものを示し、それらの総合的、統一的な考えをしめすものであるように、人生論とは決して、それらと並列するものでなく、それらを総合した結論としての行動知、実践知のことなのである。だから、人生論というときには、政治、経済、社会、教育、歴史等の知見がふくまれているだけでなく、その知見は単に言葉としてでなく、行動知、実践知として作用するものをふくんでいるのである。
 私が人生論的教育論というのも、教育に最も強いトーンを置くだけで、そこにはおのずと政治、経済、社会、歴史等がふくまれており、それをふまえたものである。しかも、すぐれて行動的、実践的教育論を展開してみたいと思うのである。
 この塾教育の実践は、私の若き日、その全情熱をそそぎこんだものだが、今日も教育改革の道は、この路線の上を歩まねばならないと思っている。今の私の著述活動も、この路線の上を走っているにすぎない。
 人びとは普通、教育といえば学校教育だけを考えがちだが、教育には家庭教育、社会教育ありで、しかも三者は決して別々のものではない。生涯教育の名のもとに、この三者は統一しなくてはならないものであり、それを明らかにしたのが本書である。文部省的教育観も日教組的教育観も、ともに誤っていると指摘するのが本書である。教育とはいかにあらねばならないかを、本書をてがかりとして、ぜひ、読者一人一人が考えてほしい。

 

      <目  次>

  序 章 人間革命の教育を!            

  第1章 教育の原点
    1 現在の危機のはじまり 
    2 近代をこえ未来を目指す
    3 まちがいだらけの学校教育
    4 塾教育にかける夢

  第2章 学校教育に挑む
    1 学校のガンをさぐる 
    2  改革への努力と敗北 
    3  差別された生徒とともに
    4  “生徒の家出”という成果

  第3章 人間の変革
    1  問題児はつくられる
    2  未来を創造する者 
    3  教育を正す条件 
    4  人間を変えるもの 

  第4章 理想と情熱
    1  父兄の説得から 
    2  理解者、協力者づくり
    3  理想の実現におののく
    4  入塾の宴 

  第5章 藤園塾の人間像
    1  広がってゆく塾活動
    2  塾生と松陰門下の人びと
    3  真実に生きる者たち 
    4  師とは何をするものか

  第6章 塾教育が目指すもの
   1  行動のために行動に学ぶ
   2  松下村塾の教育とは何か
   3  真の知識と人生観 
   4  生きる知識、死ぬ知識

  第7章 藤園塾の学習と生活
   1  労働しながら学習する
   2  思想を創る読書と講演
   3  志をかためる旅 
   4  自己発見に散歩と坐禅

  第8章 塾の崩壊
   1  戦後史の波にもまれて 
   2  警察の妨害と父兄の脱落
   3  塾の閉鎖 
   4  塾の心は生きている    

  終 章 塾教育をかえりみて

 

                           < 目 次 >                          

 

   序 章 人間革命の教育を!

  学校が劣等感をうえつけている
 真の教育は、今の学校教育のように、一握りの学校秀才と大多数の落伍者をつくるものではない。今は、その一握りの学校秀才も、せいぜい大学教授になるくらいが関の山で、彼らは大学という社会では通用しても、その他の社会ではほとんど使いものにならない。
 学校秀才はいわゆる一流大学に入学する権利を確保するが、在学中に学んだ学問によって社会に役立つというよりも、どこかの大学を出たということが役に立っているにすぎない。その例外があることを認める点では人後に落ちないが、大学教授といってもおしなべて、口舌の徒であり、行動とは無縁に存在している者が多い。
 学校教育制度、なかでも大学制度が今ほど充実したことはないのに、今ほど人類の危機、地球の破滅が叫ばれ、世の中が乱れていることはない。これを一言でいえば、学校教育が一握りの口舌の徒をつくり、大多数の落伍者、劣等者の養成機関になりさがっているためである。教育という名のもとに、なにもしていないのが今の教育であり、極言すれば、教育の中でいわれのない劣等感をもたされているのが今の教育である。こんな教育なら、ない方がましである。
 だが、日教組も進歩的という名の教育学者も、ともに教育の原点にたちかえって考えることをせず、わずかに文部省のかかげる文教政策に躍起となって反対しているにすぎない。多くの教師はそれに無批判に追随し、世の中の親たちは何も考えず、今ある教育制度を必死に利用しようとしているにすぎない。
 教育の理想はどこにもなく、教育制度が充実すればするほど、教育の実はいよいようすれてゆくという有様である。

  感性、情念の教育をとりもどせ
 教育の実は、学級の人員をへらしたり、教師の雑務をなくしたり、その月給をあげたりすることで生まれるほど簡単ではない。もちろんそういうことは必要だが、それによって教育の実があがると考えるのは早計である。
 教育はまず、どういう人間をつくるかということが明瞭にならなければならない。今のように、学校秀才になればなるほど、頭でっかちの人間になり、行動と無縁になり、行動を軽視するような人間を、いいかえれば口舌の徒をつくるような教育を、あらためなくてはならない。
 いわゆる金もうけのうまい人間、社会的地位の高い人間を尊ぶことをやめ、それらを得た人間を出世したという考え方をやめるべきである。とくに、学校の中にそういう考え方があるのは最低の教育環境である。
 今こそ真理に生き、真理を実現しようと思う人間をつくろうとすべきであり、無限に真理を発展させようと心がけるべきである。金も地位も、そのためにこそ必要であり、そのためにこそ尊いのである。
 真理に生き、真理を実現しようとすれば、今の学校教育で重視されている悟性とならんで、感性、情念が必要であるとすぐに気づくはずである。人を行動におもむかせるものは感性であり、情念である。明治以後、この感性、情念の教育を軽視したために、教育がゆがんだのである。
 今日、美的教育といい、音感教育といって、絵画や音楽の教育を主としてやっているが、美は絵画や音楽の中にのみあると思って、この社会そのものを美的にすることをまったく考えようとしない。絵画や音楽の美は社会の美を実験的に追求するものでしかない。このことを知らないからこの社会がいよいよそれから遠ざかるのである。社会科教育はあっても、人びとの社会性、社会的意識はまったく深化しないのである。要するに、教育そのものを考えなおすところにきている。それでなければ、すばらしきもの人間、とは言えないところにまでおいつめられている。

  教師は先頭に立って生きよ
 学生、生徒を教育する教師も、あまりに軽々しく教師になっている。資格さえあれば、誰でも易々として教師になれる。それこそ、吉田松陰の「学生、生徒に教えたいものがあって、はじめて教師になれる」し、「訓話がよくできるからとて、優秀でも何でもなく、今の時代に何をすべきかを十分に知ってそれを行なおうとする者こそ優秀なのであり、教師はそれに助言できる者である」という発言はきびしい。
 学生がアルバイトに軽々しく家庭教師をするというのが誤っている。それをたのむ親も誤っている。それが真の教育をゆがめるのである。
 教師はなによりも学生、生徒の先頭にたって、真理に生き、真理を実現しようとする者でなくてはならない。そこに教師と学生、生徒の間に格闘があるし、切磋もおこるのである。さらに、学生、生徒への感動的影響もあるのである。今日、教師と学生、生徒の人間的接触をいう者がいるが、真理に生きない教師との接触は学生、生徒にただ絶望だけを与えることに気づかない。真理に感動する教師のみが学生、生徒に、真理に感動し、それに生きようとする精神を与える。
 教育という作業が学生、生徒を革命し、新たなる人間をつくりだすものであることを考えれば、教師はまず革命家でなくてはならない。教育が革命であることを知る者は、革命を云々することを恐れてはならない。だからとてその革命は、社会主義的革命、共産主義的革命を意味しない。
 教師というものは、単に学生、生徒を革命するのみでなく、その親を革命し、彼らの生きる社会を革命すること志すものでなくてはならない。いってみれば、教師にとって、学生、生徒は革命家という同志である。同志をつくろうとするのであるから、自然に情熱も湧くのである。
 親鸞、道元、日蓮のように、自らも真理に生き、真理に生きようとする同朋の士をつくらんとするところに、本当の教育がある。今日はあまりにも、彼らの精神が教育の中から消えている。今こそ、彼らの精神をとりかえすときである。資格が教師を殺している。学生、生徒の先頭にたって、これこそが人間として生きることだと言い得る教師が、あまりにも少なくなっている。
 感性や情念の教育を忘れた教育とともに、教師らしき教師を排除しているのが、今の教育制度である。
 教師が学生、生徒とともに真理に生きんとするようになる日はいつか。教育がそのように変わる日まで、私の教育正常化の闘いは続くことだろう。

 

                 <「人間変革の思想」目次 >  

 

   第1章 教育の原点

1 現在の危機の始まり

  無思想、無節操の“方向転換”
 戦後教育の状況は、一言にしていえば混乱の極にあり、方向のきまらぬままに、なげやりの教育に終わっていた。昨日までの戦争讃美の教育、戦争肯定の教育、さらには死ぬための教育が、一瞬にして、それらの否定の教育となり、平和の教育に変わったのである。昨日までの教科書はすみで黒々と消されて読める字が少なくなったのである。
 はたして、教師の中の幾人がそのような教育を恥じ、その責任を感じて自殺したであろうか。辞職をするぐらいでは、その責任は果たせるものではなかったが、せめて、意思の表示としてでも、辞職した人間が幾人いただろうか。その多くは、再び誤りをおかさないという“誓い”のもとに教職にとどまった。一度取り返しのつかない誤りをした者は往々にして、二度、三度と易々と誤りをくりかえすものである、という深い反省もないままに、教師はその言葉のかげに身をかくしたのである。
 彼らは戦争中、易々と日本帝国の教育政策に追随したように、戦後は日本占領軍の押しつける平和と民主主義を、同じく易々と受け入れ、批判するところがなかったのである。無節操というか、無思想というか、事大主義というか、日本の教育界をおおう黒い霧であった。それが大学をはじめとして、小学校、中学校の教師群のおおかたの姿であった。
 そのような教師たちに教育される学生、生徒に、ある一定の方向がなかったのは当然ともいえよう。彼らは一般の社会常識に従って、金を得、地位を得ることを窮極の目的として生きてきて、今世界各国の人びとからエコノミック・アニマルといわれるようになったのである。

  与えらた思想をうけいれるだけのオトナ
 要するに、日本人に内在する莫大なエネルギーは、戦後の日本政府の与えた産業国家の方向のままに費され、その結果エコノミック・アニマル以外なりようがなかったのである。教育そのものは、学生、生徒に方向を与えぬままに終わったのである。わずかに一部の教師が、その教育に理想を与えんとしたが、それさえも、日教組や自称進歩的学者とともに、占領軍の押しつけた教育を無批判に踏襲するものにすぎなかった。その他に、共産主義的教育をおしすすめるものもいたが、それは外国の教条主義的教育から一歩も出たものではなかった。
 こういう教育状況と同じように右往左往したのが、世の中の大人たちであった。彼らのほとんどは、「今は民主主義の世の中だから民主主義に従って生きねばならないし、子どもたちにも接しなくてはならない」といった。それはちょうど戦争中、天皇主義に無批判に従ったのと同じことであった。天皇主義が民主主義に180度変わっただけである。教師も大人も、まさに正反対のものに易々と変わってみせたのである。そのように変わることは大変なはずなのに、見事にやってみせたのである。そこに、教師や大人は口舌の徒として堂々と振舞い、世の中に通用したのである。
 戦争中の天皇主義に従ったのが演技なのか、戦後の民主主義に従ったのが演技なのか、それともその両方とも演技なのか、それはわからない。いずれにしても、世の中の教師も大人も大ゆれにゆれていたのであった。
 その中で、戦争中から民主主義をいい、社会主義を唱えていた者は、わが世の春を謳歌するだけで、戦争中、天皇主義に民主主義、社会主義が敗れたのは何故かという鋭い分析、批判をする者はいなかった。単に弾圧の激しさをいうだけで、自分の側に、それに敗れた弱さのあることを指摘するものはいなかった。

  学校秀才とは二枚舌人間のことだ
 こういう教育環境、社会環境の中におかれた感受性の鋭い子どもはみじめである。彼らはその中で絶望ということをとことん味わわされた。教師をふくめた大人たちへの不信だけを経験した。彼らの多くが、なるようにしかならないという、出たらめの人生観、世界観に身をゆだねるようになったとしても不思議はない。彼らの中の一部が、決して大人のようになるまいと決意したとしても無理はない。当然この“大人たち”の中には自分自身の親もはいる。それが親子の断絶といわれるものである。親子の断絶があるのは、その子に鋭い感受性があるためで、それがないのは、その子が平凡か、その親がまともに時代に生きているためである。
 今ではひどく反民主主義的な男、反平和的な男が、戦後の時点では不思議なほど民主主義的、平和的な言論を吐いていた。とくに文部官僚ほどそれが強い。時代状況の中で、何とでもいえるのが口先の言論であり、そのような男が指導する教育政策だから信用がおけないのである。
 学校秀才とは、いかにうまく国民をごまかすことのできる人間か、ということでもある。現に学校秀才であった官僚出身の政治家、大学教授、弁護士、医者、会社重役ほど、二枚舌を使うのがうまい。すべて今までの教育制度の中で生産されたものである。いかに上手に二枚舌を使うか……そんな彼らに学校秀才という名前を与えたにすぎない。
 二枚舌を使うのが最高にうまい大学教授、理論と生活が遊離しているのを何とも感じない大学教授を、ほとんどの小学教師、中学教師、高校教師は見習い、尊敬し、自分もそのようになりたいと思っている。だから自分の生徒たちも、大学教授のようになることを目標にして教育している。二枚舌のうまい人間を育てようとしているといってもよい。

  自立性のない者が人を教えられるか
 戦後、教師の免許状書きかえとか、免許状取得のためとか言って、文部官僚の安直に計画した講習会に、教師はわれさきにと参加した。文部官僚はもちろん、その講師の多くは、まったく民主主義と平和を血肉化せず、ただ書物をうのみに講義をしたし、聴く者もそれをうのみにしただけである。しかも、どこからも、そのことを批判する声はあがらなかった。教育がいよいよ混乱したのも当然である。
 数年前、教育闘争が起こり、大学や高校で、戦後の民主主義は虚妄だと学生、生徒が全身で怒りをぶっつけたのも、戦後的教育状況からは起こるべくして起こったものである。戦後の教育は大学といわず、高校、中学、小学校すべてのところで問われているのである。小学校、中学で騒ぎが起こらなかったのは、子どもたちにそれを批判する能力がまだないためにすぎない。
 小、中、高の教師は大学教授の方を向き、大学教授のほとんどは、米、ソの学会の方を向いて、一様に自立的ではない。自立的でない教師が自立的な学生、生徒を育てられるわけはない。戦前は小学校の教師の中に、教育の理想、信念を求めて親鸞、道元、日蓮にいたり、自らの教育理想と信念を自分で確立し、それをさらに他の教師たちに普及しようとする動きがあった。だが戦争中、師範教育は専門学校となり、戦後は大学になったが、かえって教師の中の自主的研究心はうすれ、事大主義的となり、時代に流される存在となってしまったのである。
 戦後は、アメリカの資格主義というか、形式主義というか、制度主義というか、とにかくそれに習って制度、設備だけは充実したが、教育の実はいよいようすれたのである。今では日教組の指導する教育政策がますます技術主義、観念主義に堕し、教育そのものの実体主義を失わせているのである。教育がすぐれて教師と生徒の全人間的格闘であることを忘れさせ、単なる機械主義に終わっているのである。

  世界は悪化の道を歩みつづけている
 日教組の教育思想は、学生の安易な家庭教師というアルバイトを認める思想と同じである。教師が専門家であるということは、いかなる意味でそうなのか不明のまま、ますます教師は非専門家化している。専門職としての教師の地位を確立するために、日教組はその労働条件の改善とともに、真の教育の確立に、真剣に取りくまねばならない。
 敗戦とともに、日本の教育は教師の手を離れたのである。しかも今日なお、その教育は教師の手を離れたままである。できる限り早急に、教師の手に教育をとりかえさなくてはならない。そのためには教師がまず自分を革命家にし、革命家を意識することである。
 彼らは誰よりもまず革命家として、時代と社会を発展させ、歴史の現在に生きるものでなくてはならない。そのときはじめて、歴史の未来に生きる学生、生徒をよく教育して、無限に歴史を発展させる人間を育てることができるのである。教師である者は、現代から未来への移り変わりを最も正確に知り、未来の課題を正確に教えるものでなくてはならない。
 教育は明治以後、100年の長きにわたって、ただ単に現状を維持し、社会常識を守って暮らすような人間をつくってきた。この100年間、教育は眠りつづけ、何もしていない。それどころか、地球を破滅にみちびき、人類を危機にもっていくような教育しかしていないのである。世の中は少しも進歩していないのみでなく、ただ危機だけを深めているのである。これでどうして、教育があったといえるだろうか。

  大学の教養部はたいせつだ
 戦後の大学には教養部が生まれ、そこで自然と社会と人間を総合的に考え、人類を真に発展させる統一的、全体的考え方を全学生にもたせようとした。その教授も円熟した人びとをあてて、学問の真髄を摘んだ人に講義させようとした。だが、その目的も大学教授たちに徹底しないままに、教養部の教授は専門部の教授より駄目だという、なんとなしの風習のもとに、学生たちは自然と社会と人間を統一的、全体的に把握する視点を欠いて、エコノミック・アニマルになるしかなかったのである。自然と社会と人間を調和的に発展させようとする面は、大学教授にも学生にもほとんど育たないままである。だから公害がおこるのである。
 小学、中学の教師は、すべての人に卓越した老練の教師でなくてはならない。大学において教養部の教授が専門部の教授より卓越し、その学問の全貌を知る者でなくてはならないように、小学、中学の教師こそ、高校、大学の教師にまさつっていなくてはならない。そうしてはじめて、批判力も十分でない小学生、中学生に、真理とは何であるかの基礎を教えうるのである。高校、大学と進むにつれて、学生、生徒の批判力もまさり、教師とともに真理とは何かを追求していけるようになるのである。大学では教師は学生とともに、真理を追求していけばよいのである。

  今こそ信念と行動を
 今はその反対であるところに、教育の混乱が生じている。小学や中学の教師が常に自らの真理をたしかめつつ、真理に生きる世の中になれば、教え子はもちろん、その親たちもおのずと真理にあこがれ、真理に生きるようになろう。今の小学校の教師ほど、その反対に、真理に無縁な人はないのである。大学教授ほどでないにしても、二枚舌の上手な人間である。そういう教師が道徳教育を口にすればするほど白々しくなってくる。
 一億の人が皆教育評論家とまで言われる現在、教育の実はいよいよ遠ざかっている。戦後の教育はゆがみっぱなしである。戦前の教育もゆがんでいたが、それに拍車をかけたのが戦後の教育である。教育をゆがめたものは、信念のない迎合である。行動と分離した観念的言辞である。今こそ信念と行動をとりかえすときである。大人たちが迎合の態度をやめるときである。
 といっても、自分になにもなければ迎合するしかない。せめて、その子どもには迎合を強制しないでほしい。

 

                  <「人間変革の思想」目次 > 

 

2 近代をこえ未来を目指す

  教育の恐ろしさを知る
 私が学徒出陣したのは、神宮皇学館大学の予科のときであった。その頃の私は、将来法学部に学び、弁護士となり、できるだけ悲惨な人を少なくしたいという夢をいだいていた。それは中学校の三年生以来いだきつづけた夢であった。
 だが、その頃の私が同時に、吉田松陰の革命的教育、政治的教育に深く魅了されていたのも事実であった。彼が弟子たちを政治的人間として最高度に教育するとともに、彼自身が政治的人間として精いっぱいに生きた姿は、青年である私の心を強くとらえていた。
 私はさらに、フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』にも深い感動をおぼえていた。フィヒテはドイツの教育学者、哲学者として、フランスとの戦いに敗れたドイツの復興を、フランス兵の軍靴の音をききながら烈々と述べた男で、この本はそのときの演説をまとめたものである。
 その当時の私は、日本がこの戦争に敗れるのではないかという予感があったので、この書を他人事としてみることはできなかった。そのために、あえて兵営に携えて行ったものの中にこの一冊があった。暇のあるとき、この書を読むのが生きている喜びであった。
 その後、台湾に三ヵ月間滞在している間に、私は毎日のように図書館に通い、そこでペスタロッチの書いたもの、ペスタロッチについて書かれたものを、手当り次第に読んでいった。なぜそれらを読んだかは自分ながら明らかではないが、たぶん『ドイツ国民に告ぐ』に魅せられて、教育というものをより深く理解しようとしたためであったろう。その後、日本内地に帰ってきた私は、できるだけペスタロッチの書物を集めはじめ、初年兵教育や小隊教育を担当するに及んで、彼の教育原理を活用してみた。すると驚くほどに、兵たちが変化するのを発見した。私が教育というものに全身で魅せられ、教育というものの恐ろしさを知ったのはそのときである。

  教育者になろうと決意する
 私が想像したように、日本は完全に敗けた。私はそのとき、『ドイツ国民に告ぐ』をこなごなにやぶり、それを全部のみこんでしまった。その本を持っていることにがまんできなかったのと、その本を完全に血肉化せんとする思いからであった。私の決心は、弁護士になることから教育者になろうとすることに変わっていた。フィヒテには及びもしないが、彼にならって、できるかぎり教育立国の道を歩みつづけようと、深く自分に誓った。
 私のいた神宮皇学館大学は占領軍の命令で廃校ときまり、私たち学生は他の大学に分散して吸収された。そのとき、私はちゅうちょなく、広島文理科大学に学ぷことをえらんだ。長田新から教育学を学ぶためであった。私は教育者になろうとしたとき、教材としては、人間学でもあり、総合の学、発展の学でもある歴史学をえらび、教育者になる最低の条件として教育学をマスターすることを決心した。
 広島文理科大学での三年間は、歴史学の研究を通して私の人生観、世界観の確立に全力をそそいだ。他方、長田新教授の「教育学概論」の講義をきいたが、それほどに満足するものではなかったし、長田のいうペスタロッチの教育は、ペスタロッチの精神を殺しているというのが私の下した結論であった。ペスタロッチを正しく理解しているかもしれないが、そこではペスタロッチは死んでいた。そこに、私の不満があった。所詮、長田新教授は大学の先生で、教育者ではないと思った。ただ長田教授は「つまらない教育学の講義をきくより、すぐれた文学書を読んだ方がよい。文学書の方が人間と人間のからみあいと、人間というものをもっと鈍く教えてくれる」といった。私が文学書を読みだしたのはその言葉のせいであり、そのことがあって以後、私は長田教授の講義をきくのをやめた。 

  高校生のころ、人は決定的に変わる
 私の卒業論文は、「釈迦、親鸞、道元、日蓮を通してみた現代の課題とその解決」というものであった。その卒論にとりくむ中で、卒業までに、私の教育的心情、教育的信念を確立したいと願った。もしそれが確立できないときは、労務者となって生活し、それが確立するまで教育者になることを延期しようと思っていた。だから、私が歴史学にそそぎこんだ情熱とエネルギーは、教育学に注ぎこんだものと等しい。当時、教育学科の教授から転部をすすめられるほどに、教育学に一生懸命であった。
 国史学科の教授からも、「卒業論文の路線で、その歴史学を完成させてみるために、研究室に残ってはどうか」とすすめられたが、私の関心は教育者になることであり、歴史学の完成や大学の教授になることではなかった。日本の教師の中にも、一人ぐらい、大学教授の職をけって、一教育者になることに誇りを持つものがあってもいいではないか、というのが、当時の私の満々たる自信であった。
 当時の私が教育者としてえらんだ実践の場は、中学校と高校が併存している私立学園であった。ぼんやりと技師になることを考えていた私が、弁護士となり、少しでも悲惨の人を少なくしたいとの大野心にとりつかれていったのは、中学三年生のときである。私はそのとき、明らかにそれまでの自分とは別人になり、理想に生きる人間の一人になった。こんな自分の体験をかえりみて、私は、人間が自我にめざめるこの若いときが、人間を変える教育をほどこす一つのチャンスであると考えたのである。チャンスは中学二、三年から高校一、二年にかけて人びとに訪れる。だから、中学、高校と連続した学校でなくてはならないと考えたのである。公立の中学校や高校のように別々であったら、その機会を生かすのに不十分だと考えたのである。

  新しい人間による新しい国を
 そのときの私は、あくまで自我のめざめの時を生かして、人間そのものを新しい人間に変えることを目指していた。新しい人間、理想に生き、理想を追う人間をつくることによって、まったく新しい国家をつくるということであった。教育国家をつくるということであった。当時いわれた道義国家も文化国家も、その中にふくまれることであった。そして教育国家をつくることは、明治以後、常に教育が政治に従属し、戦後も同じく政治に隷属している状態をあらためることであった。
 反体制の立場に立つ者も考え方のパターンでは体制側の者と同じく、社会党や共産党に従属する教育しか考えていない状態に対比して、教育国家とは、教育が政治から独立し、教育が自由に自立の道を歩む、歴史上に未だ存在しなかった国家のことであった。
 その意味では、フィヒテの唱えた、教育による国家復興より前進したものであった。彼の考えた国家が産業国家であり、富国強兵の国家であったのに対して、私の考えた教育国家とは理想を追う国家であり、産業国家、富国強兵の国家を否定する新しい国家であった。道義国家、文化国家を単なる建て前としない国家であった。
 日本は、産業国家として、富国強兵の国家としてアジア諸国を席巻しようとしたために、この戦争にも敗れたのである。新しい国家として、もう一度アジア諸国の独立と発展のために、その力をつくすことはぜひとも必要であった。これが私の教育立国案であった。

  まず情熱あふれる教師を
 そのためには教師を革命家として自己革新し、革命家として生き抜く確信を持たせることが最低必要であった。革命家に変えるためには、今までのように、文部省のきめた講師から一時的に話をきくなどというのでは駄目で、教師自身、自ら革命家になる必要を痛感した者が自主的に集まり、相互の研鑽を通じて、自分が革命家として育つように努力するのである。私にはそのための夢もあった。
 まず、私の塾で全国から100名から200名の教師をえらぴ、自己研鑽と相互切磋によって、観念的知識をはらいのけ、革命的教育者になるように自覚させるのである。一ヵ月、二ヵ月間の合宿生活もそのためには必要だろう。何名かの講師は、その相談相手になればよいのである。それが終わったら、次の100名、200名をえらび、それを無限にくりかえすことによって、教師の全てを改造するのである。全教師の自己研鑽がいちおう終わっても、またはじめからやりなおし、常に前進し、停滞することのないようにつとめる。これが、教育立国にかける、私の夢のひとつであった。
 このことと平行して必要なのは、今までのような迎合的教師を排除して、本当に教育者になりたいと思っている情熱の人を教師に採用し、なるべく入れかえることである。人びとはともすれば資格を云々し、学力を云々するが、教育の情熱あるものは、必ず一定の学力を自分でつけるものである。逆に、学力はあっても教育の情熱のないところに教育は育たない。
 今までの教育の悲劇は、教育の情熱のない者に教育がゆだねられてきたことにあった。学歴に関係なく、教育に携わりたいという情熱のある者すべてに道をひらき、論文と口頭試問によって新鮮な教師を採用するべきである。小、中、高校のどこに配置するかは、当人の意志によってきめればよい。こうすれば、教育界の雰囲気は一新され、学歴主義や形式主義も一掃されるだろう。

  文部省は廃止されなければならない
 この理想を実現するためには、まず文部省を廃止しなければならない。そして、文教委員会ともいうべき、政治から独立した、自主的な民間機関が設立されるべきである。教育は、政治や経済に従属していてはならない。政治的な“保守”と“革新”の抗争の具になってもいけない。だから、この文教委員会の独立性は、現在の裁判所の独立性ていどのものであってはならない。完全な独立性があってこそ、今のような、文部省機構から発せられる誤りを正すことが可能になるのである。
 日本の教育界は抜本的にあらためられる必要があったし、このときはじめて、教育者というものが学生、生徒の師であるのみでなく、同時に一般の大人たちの範ともなり、史上未だかってない教育国家、道義国家、文化国家をつくれるのである。
 戦後一時期、道義国家、文化国家ということがいわれた。だが、道義に生きる者、文化に生きようとする者を育てようとしないかぎり、早晩それは消えると想像したように、その後の日本は道義国家、文化国家に最も相反する産業国家、公害国家となったのである。歴史の未来に生きる青年を、未来にふさわしく育てるのが教育である。その教育が現状を維持するためになされているとしたら、これほど悲惨なことはない。
 私は大学三年間に、これだけの考えをもって、教育者として巣立っていった。その夢は限りなく大きく、その意欲は歴史そのものに挑戦するということで戦いていた。どんな不可能も可能にみえた。そんな青年教師であった。そんな青年教師として出発した。

 

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3 まちがいだらけの学校教育

  人は何のために学ぶのか
 日本の学校教育は明治以後、一貫して充実し、世界に誇る就学率を示すにいたったといわれるが、充実したのは制度だけで、教育の内容は必ずしも充実せず、かえって低下した面すらある。学校教育の名のもとに悟性教育にのみ偏り、感性教育が軽視されたからである。
 かつて松下村塾に学んで、感性を中心とした教育をうけてきた人びとの一部が、その後、明治政府の要人となりながらその教育を忘れ、西欧の悟性教育を形式的に取りいれたところから現在の学校教育が出発したのである。そのために、理性が感性と悟性の統一であることを忘れて、はては理性を悟性と誤認する始末であった。その誤謬は今日も依然としてつづいている。
 感性の教育が軽視されたために、それに平行して意志の教育、行動力の教育が軽視され、理性の原点ともいうべき志の教育が軽視されてしまったのである。人は何のために学問をするかを考えないために、目的の定まらない学問と教育は自然に混乱することになったのである。
 今では教育の普及とともに、ますます二枚舌の人間、口舌の徒がふえ、この世の中をいよいよ混乱させ、浮薄にしたのである。学問、教育は本来、人間の行動、実践を導くためにあるのに、今日ではあたかも学問と実践が別々のものであるかのような雰囲気である。人びとは学問そのもの、知識そのものにそれほど期待していない。教育が長年にわたって、知識と行動は別のものであるかのような印象を与えてきたためである。教育の普及とともに、いよいよ行動する人、人間らしい人が少なくなってきたのである。

  知識と行動は一致しなければならない
 この点では、体制側の人も反体制側の人も同じ誤ちに陥っている。そしてこのことに今も気づかない。日教組もその誤謬の上をつっ走っている。つっ走ったままに、今の教育制度は“充実”している。この教育の誤りを知って、その教育のアウトサイダーになることは、よほどの勇気ある者でないとできない。しかし今、早急になさなくてはならないことである。
 王陽明の知行合一説をあげつらうだけではだめである。王陽明の知行合一の説を否定することは、反対に、知行分離の説が成立していることを肯定しているようなものである。王陽明の知行合一の説そのものが、世の中のすべての考えでなければならないのである。彼はただ知識と行動が一致しなくてはならないことを説いたにすぎない。毛沢東が「実践論」で、王の思想をうけつぎ、理論と実践の統一を説いたのは、そうでない者が多いのを歎いた結果である。感性と理性を分別して言う学者、感性を忘れた理性だけを強調する学者がほとんどである今は、最も悲惨な世の中である。この根本的誤りに気づかない学問、教育は、ない方がましである。

  ヨーロッパ合理主義のあやまちを見よ
 もう一つ、明治以後の教育は基本的なところで誤りをおかしている。それは、一貫して西欧化を目標とし、西欧の近代主義、合理主義を無謬のものとして、それを無批判にうけいれたことである。それに従って教育したことである。その結果が今日の危機である。西洋の学問、教育を批判的にうけとっていれば、こういうことはなかったはずである。
 産業国家を目的とする限り、資本主義となり、さらに帝国主義となり、やがて社会主義、共産主義になろうとも、ちがいがない。たとい、共産主義社会になって、富が平等となり、人間の自由が最大限に保障されたとしても、物質を基調とする産業国家の道を歩むかぎり、地球の危機、人類の破滅はまぬかれない。
 明治以前、吉田松陰は道義国家を説き、西郷隆盛はアジアを侵略するヨーロッパ帝国は文化国家ではないと明言した。明治以後、日本の歩む道はむしろ西欧諸国に“待った”をかけ、別の道を歩むべきではなかったか。教育の中で、西欧の近代化を疑い、真理とは何かを昔日の親鸞、道元、日蓮のように問うていたなら、正しい道がわかったはずである。西欧の近代化の道が人類の歩むべき道だときめつけ、西欧諸国にならってアジアを侵略するという暴挙はしなかったであろう。明治以後の教育の誤りというのは、そのことである。
 戦後も、性こりもなく、その誤りを繰り返し、押しつけられた民主主義と平和を無批判にうけいれ、疑ってみようとしなかった。

  “生涯教育”は当然のことだ
 この二つの基本的な誤りに、さらにつけ加えるなら、学校教育の中で、知育と体育を統一的にとらえていないこともあげなければならない。文部省の機構で初等中等教育局と体育局が分離しているのがなによりのしるしである。あるいは、また、学校教育と家庭教育、社会教育を別々にとらえていることも同様である。本来それらは総合しなくてはならないもの、そうしてはじめて教育の実があがるものである。しかし今は、社会教育といえば学校教育をうけていない者を対象に考えているにすぎない。
 最近、西欧諸国で生涯教育ということが言われ始め、日本にもいちはやくその言葉が輸入されたが、本来、生涯教育の必要は明らかなことで、生涯教育の視点にたてば、今のように、学生時代は必死に勉強しても、卒業すればまったく勉強しないような、おかしな慣習に教師自身が疑問をもつわけだし、頭脳の訓練にのみ役だって、卒業後はほとんど役にたたない今の教育の内容にも、疑問がわくはずである。

  「デモ、シカ教師」
 今の教育ではいたずらに、優越感、劣等感を与えられるが、そこで用いられる優劣の規準は、実社会ではまったくといってよいほど関係がない、作用するとすれば、大学という世界でであり、近親、コネというものが幅をきかす世界、学歴という肩書が通用する世界でである。いずれにしても、駄目にされる者の多いのが、今の教育の結果である。
 今の教師の中には、教師にでもなろうか、教師にしかなれない、というような人びとも多い。そういう人たちによって教育される子供は悲惨である。しかも、教育のイメージを一般の人びとに与えているのは、このような「デモ、シカ教師」である。教育者自身による教育界の浄化運動がおこらなくてはならない。それなのに、現実には教師同士ということでお互いにかばいあっている。教師がお互いに「先生」と呼びあっているのも、教師自身に、強烈な個性、自立性を失わせている原因である。名前を呼びあえばよい。先生という言葉ほど、蔑視されている言葉はないのである。

 

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4 塾教育にかける夢

  互いに鍛えあうための塾を
 このような状況のもとで教育立国の理想を追求することは、夢のようなものである。今の文部省や日教組のもとでは至難である。でも、やらなくてはならない。私は一時期、文部官僚になり、文部官僚たちを変革することを考えたが、保守政府の文部大臣のもとでは、それは不可能に思えたし、さらに上からの教育改革は本物にならないと考えて、やめることにした。
 その結果、思いついたのが、吉田松陰の伝統をうけついだ塾を建設することであった。塾教育の中で、今の教育の問題点を解決した教育を実施し、あわせて、全国の教師に呼びかけて、その塾の中で夏休みを利用して、教師の自己改革を忍耐づよく実施してみようと思った。
 塾教育はどこまでも知行合一を目標として、塾生の体験を基礎にして知力を高めることをねらうものであった。だから、炊事も掃除もその他いっさいの生活を自分でするとともに、農場で労働に従事し、道場での柔剣道や弓道、拳法を通して肉体の鍛練をしなくてはならないと考えた。さらには輪読会を通じ、知行の分離を鋭く指摘しあわなくてはならないと思った。
 もっと大切なことは、この塾教育では、真理とは何かを究明する姿勢とともに、常に先人の知識を疑い、自分でたしかめた以外の真理には決して従わない態度を求めなくてはならないと考えた。だから、自分で発見し、自分で確めた真理は、自分の生命をも賭して実践し、その真理が実現されるまではやまないという心がまえをつくらなくてはならないと考えた。そして、その実現のためには、吉田松陰の教育のように、塾生相互がその短を補い、その長を生かすように、協力しあわなければならない。いわゆる転向などは最大の恥と感ずる塾生を育てなくてはならないと、思ったのである。

  私の塾教育構想
 最初、塾を私のつとめる私立学園に付設し、ついで塾長にふさわしい人を得たときは次々に他の私立学園にも付設して、将来は何十、何百の塾で真の教育とともに、真の教師をつくり、ついには教育界を改造し、教育国家をつくるというのが、私の夢であった。これならば、私の力でもできると思ったし、私の力がたりなければ、その力をたかめればよいと思った。塾教育の実が十年二十年であがるならば、あとは一気に猛進すればよいと思った。
 私は大学三年生の終りに、日本の教育の実状を考え、教育立国の夢をもち、そのために塾教育を始める以外にないと思ったのである。
 最近は、書道塾、珠算塾、学習塾と、やたらに“塾”が多くなったが、私が塾の中でやろうとしたものは、もちろん、それとは達う。大学闘争の後、いくつか構想された塾に、私の構想する塾と相通ずる点があった。しかし、それにも決定的な相違があった。私の構想は、塾の建設費、維持費のいっさいは塾教育の理解者の浄財でまかなうということであった。それは大人たちの、未来の子どもに対する奉仕であり、義務であるという考えからきていた。塾生に対する期待と信頼からであった。理解者たちは塾生の協力者として、彼らの実践を助けなくても、最少限、邪魔をしない人びとにするというのが私のねらいであった。塾生の真の教育を助けているという誇りと自信だけで、十分なはずであった。
 入塾したい者は自分の生活費を支払うだけで、だれでも入塾できるように構想した。生活費はどこにいてもいる。だれでも入塾でき、塾費がいらないのが特徴であった。あるのは、多くの人びとの期待と信頼であった。そうすることによって、社会環境、教育環境を徐々に変えるというのがねらいであった。

  “本当のもの”に生きる人間
 塾には、あらゆる方面の書物、雑誌、新聞を置かなくてはならないと思った。戦争中のように、政府のしめす方向の書物だけを読んで埋没してゆくことをあらためなくてはならないし、一つのイデオロギーにのみとらわれて、他の思想に無知であった、当時の状況もあらためなくてはならないと思った。危険なのは、一つのことにのめりこんで、他のことに無知なことである。転向もそれ故におこる。現象、事象にまどわされることなく、歴史の核心にじっくりと追っていく人間をつくるのが私の願いであった。
 人は現象、事象にしばられ、それらと取りくむことにあくせくするあまり、歴史そのものを変えるような実践をあまりにやらない。人間は常に生きてきたし、今も生きている。世の中の深淵を一度のぞきみた者でなくては、とうてい歴史そのものと向きあうことはできない。必要なのは、歴史そのものと向きあう人間を塾教育の中でつくることであった。
 今日でいうならば、テレビ、新聞などのマス・コミにおどらされることなく、どこまでも自分の道を自分のペースで歩みつづけてゆく人間をつくることであり、そこに最大限の満足感、幸福感を味わう人間をつくることにあった。言いかえれば、古くから東洋で言われてきた「富貴も淫することができず、威武も屈することのできない大丈夫の士」をつくることであった。
 塾教育によって、よく大丈夫の士をつくり、歴史そのものに向きあう人間をつくるならば、塾生の中からも第二、第三の塾が生まれるし、塾生そのものが将来、塾の強力な理解者、協力者になるはずであった。
 私はこの理想に、できれば、吉田松陰の松下村塾ゆかりの地、山口県でとりかかりたいと思った。幸いに、友人の父親が、自分の経営する中・高校併設の学園に私を迎えたいと言ってくれた。いわゆる戦後の学制改革で私立学園の中等部に生徒が殺到したときである。公立の中学校はだめであるという理由のもとに、親のエゴイズムがむきだしとなったときである。校長も息子もそういう状況を最大限に利用しようとして、私を招いたのである。しかし私は私で、塾教育への夢を秘めて、その学園に就職した。教育界を必ず改革してみせるという、なみなみならぬ抱負をいだいた。それが当時の私であった。あたるべからざるほどの情熱を全身にたぎらせていた青年教師であった。

 

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   第2章 学校教育に挑む

1 学校のガンをさぐる

  教師として旅立つ
 私が山口県T市にある私立S学園につとめたのは、昭和二十三年、広島文理科大学三年生の十二月一日であった。週一日、大学の講義をききにいくという条件で、正式につとめたのである。卒論を十一月半ばに提出して、その足でつとめたことになる。(卒論のテーマは、その後の体験と思索でさらに深め、死ぬような大病をふまえて、昨年「親鸞、道元、日蓮」と題して出版した。私は今、重い脳血栓の発病以来三年になるが、まだ歩くこともできず、言葉も明瞭でない。その中で、生活者としての彼ら、反逆者としての彼らの生を明らかにできたと思う。)
 私は多くの友人の祝福をうけて、十一月二十九日に広島を去って、T市に向かった。しかし私の主任教授は、私がS学園のY校長にこれまで経済的援助をうけていたのであろうと曲解した。その頃は広島文理科大学の卒業生が、私立学園につとめるということは、とうてい考えられなかったことであるから、主任教授がそう思ったのも無理はない。とても私の夢を理解できなかった。
 広島駅を去る汽車の中で、これで永遠に学問と縁がきれるのではないかと思って、今の学問には嫌悪をいだきながらも、自然と涙の出てくるのを抑えることができなかった。
 いずれにしても、研究室の職をふりすて、一教師の道を歩むように私の運命はきまったのである。Y校長の家に寄宿した私は、さっそく翌日から学園の内外を調査して歩いた。生徒のおかれている教育環境、社会環境を正確に知るためであった。生徒がどんな教育をうけ、生徒がどんな期待のもとにおかれているかを知ろうとした。街の図書館、書店、古本屋、喫茶店を歩いて、彼らの読書傾向、本の利用傾向、話題の内容を具体的にしらべていった。
 兵学家であり、教育者であった吉田松陰が、生徒のあらゆる現実を正確に知って、彼らの理想像を確立したように、私もまた生徒をとりまいている、あるゆる正、負の状況を正確に知ろうとした。そうすれば、教育は必ず成功すると思った。すでに述べたように、私が教育したいのは、観念的知識でなく、すぐれた生活者、歴史にとりくむ社会人を養成することであり、学校時代にだけ通用する知識でなく、社会人として通用し、必要なところの態度を養うことにあった。

  “禁止事項”が生徒をダメにしていた
 私がわずか二日間で調査したところでは、生徒は図書館を利用し活用することを知らず、書店や古本屋とも無縁であった。生徒の話していることは愚痴であり、学校や家庭への不満であった。彼らの関心をひくものは、生徒の立場を忘れさせてくれ、どんな可能性でもあるように感じさせてくれる、大人一般の生活であった。
 生徒のまわりには、重圧が十重二十重にはりめぐらされ、あれをしてはいけない、これをしてはならないという禁止事項ばかり目につき、彼らを自然にに行動しない人間に、何もしない人間に育てていることを知った。教育とは、泥沼のような社会の中で、その泥沼にうちかってゆく強い人間を育てるところにあるのではないか。そう思ったとき、生徒は何も教育されていないことを知った。とくに、生活者としては何も教育されていないことを知った。知識にしても、それは行動ときりはなされて教えられるために、優等生ほど口舌の徒になるようにされていることを知った。
 このような教育は完全に狂っている。これを本来の姿になおさなくてはならないとあらためて思った。

  大切なのは惰性的教師群と戦うこと
 教師をみるとき、一般的に次のようにいえる。新任の教師は未熟であるが、それなりの夢をもって教師となる。しかし一年もすれば、その夢はすでにある教師たちのよどんだ空気のために駄目にされ、その夢はうせる。こうしてはじめて、その新任教師は教師群の仲間入りする。こういうことを繰り返しているのが教師たちである以上、そういうことを知りつくして、それに染まらないことであると思った。
 大切なのは、生徒の教育に全情熱をそそぐ以上に、このように惰性的になった教師群と戦うことであり、教育情熱を今なおもっている教師と統一戦線を組むことである。個々の教育方針はどんなに違っても、教育情熱という一点で統一戦線を組めると思った。
 はじめて、全生徒に紹介されたときの私の就任の挨拶は、次のようなものであった。「本日ただいまより、僕自身は諸君の先頭にたって、人間のありようを追求し、生きる。諸君は僕を批判的にのりこえてほしい。学校時代だけに通用する優等生になることは、今日ただいまより忘れてほしい。実社会にでて、実社会の優等生になるための基礎を、学生時代に身につけてほしい。僕自身、頭だけの優等生は最大限に軽蔑するであろう。大事なのは、一人一人社会人として立派に生きられるようになることである。」
 私のこの言葉がどれほど正確にうけとめられたかわからない。ともかく、そのことによって、私の教育活動は始まったのである。私はこの学園を改革してみせるという満々たる情熱をいだいていた。
 私はまもなく、学園の教師たちの中に、公立学校の教師に対して劣等感をもつ者があり、それ故にいちだんと生徒たちに、いわれのない差別をしている者がいることに気づいた。そのような教師こそ、わが学園のガンであることを痛感し、これではとても本当の教育はできないと思った。かくていよいよ彼らを敵視するようになった。それ故にいちだんと真の教育を推進できると思った。私は前途には、何も障害がないように思われた。

 

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2 改革への努力と敗北

  感情教育を中心にカリキュラムを立案
 昭和二十四年三月末まで、私は校長宅に寄宿していたが、四月一日に校内の一室に移った。それからは宿直をかねて全心全霊を教育につぎこむことになった。これまでの観察で教師一人一人の気持も大体のみこめたし、学年があらたまって、今までのように毎週一度広島の大学に行くこともなくなった。
 四月になると同時に、私はカリキュラム編成委員の一人にえらばれ、図書係、生徒会係、クラスの担任も命じられた。カリキュラム編成委員として、さっそく私の教育方針をカリキュラムの中に生かすように、他の委員を説得し、強引と思えるようなやり方で実施した。そこには校長の暗黙の了解と許可があった。
 私のおしすすめたカリキュラムの基本は、音楽、図工、体育を中心にして、社会、国語を助けとして、英、数、理をそのまわりにおくというものであった。英、数、理、国を非常に尊んで、音、図、体を軽視するそれまでの教育をあらためて、心身両面の一体的発達を志す教育をするということであった。悟性と感性の一致を志したといってもいいし、知識と体験の一致を志したといってもよい。要するに、これまで忘れられていた、感情、情念の教育に主力をおこうというものであった。
 どの教師も、私のかかげる大義名分に面とむかって反対するものはいなかった。彼らも大なり小なり、知識と行動の分裂を感じていたのである。ただそういう教育が成立することを危ぶんだ。

  感性と悟性、行動と知識を結んで
 私は不眠不休でカリキュラムを作成した後、音楽、図工、体育を中心にして、各教科の関連性について、毎日のように説明した。教師には今までのように自分の教科だけでなしに、全教科を勉強し、その展望のもとに自分の教科を教えるように求めた。
 音楽、図工ついても、これまで以上に鑑賞を重んじ、感情、情念の育成にカをそそいだ。体育ではこれまで以上に悟性の教育に重点をおき、心身の円満なる発展を志した。社会科ではことに行動的知識を重視し、行動にでない知識を軽視した。こういう方向は、教師自身がまず自分を変える行動にふみだすことを意味したのだが、音楽、図工、体育の教師は私の考えを積極的に支持してくれた。彼らは一日にして、日のあたる場所にでたのである。反対に英、数、理、国の教師は不満そうであったが、私は全生徒が生き生きと学習し、行動するようになれば、彼らの気持も変わると思った。

  読書をすすめ、生徒会に生気をそそぐ
 図書係となった私は、市立図書館長とも連絡し、在庫図書名をしらべ、生徒にさっそくそれを利用するようにすすめるとともに、公立高校の図書委員と交流するようにつとめた。それと同時に、広島市にでかけて良書と思われるものを購入し、可能な限り図書の充実につとめた。生徒会係としては、これまで形式的であった生徒会を、生気のある自立した生徒会にすることにつとめた。そのためにはなんといっても生徒の自覚が主であったため、さっそく読書会をはじめた。
 読書会を通じて、生徒の自覚をたかめようとしたが、そこではあくまで知識と行動の一致する人間を育成することを主目標にしていた。私の教科の「一般社会」と「歴史」の講義では、教科書を離れて独自の教材をつくり、社会の中に生きる人間として知らねばならないこと、日常行動のうえでぜひ必要なことを教えるようにした。とくに「歴史」では歴史的事実を記憶させるよりも、歴史的思考法がどういうものかを把握させるように努力し、歴史的意識を身につけるように指導した。現実に作用しない知識は知らない方がましであるとさえ断言した。教科書は、ねころんで一挙によめば結構面白いし、重要なことは頭にのこるものであるともいった。
 生徒会の指導にはとくにカをそそぎ、市内のほかの高校の生徒会との交流をさらに積極的にすすめ、隣の市にある高校の生徒会とも交流し、そこからどんどん刺激をうけるようにした。

  あえて“できない”クラスを担当する
 私がどのクラスの担任になるかということは、大きな問題であった。
 S学園は、昭和十年ごろに創設された四年制の女学校であったが、敗戦後の占領政策で、昭和二十二年に六・三・三・四制という新しい学制がしかれたときから、中等部、高等部併設の男女共学学校になったのであった。旧学制のころには、公立学校の受験に失敗した者が集まるところのようにも言われていたが、このころから事情は一変した。当時、公立の新制中学は、教師や設備が充実せず、まだ名ばかりであった。それに比べて旧制中学や旧制女学校であったところは充実しているとの世評を得、いわゆる小学校でできた子が殺到した。S学園もその例にもれなかったのである。
 私が担任をもつことになった年、すでに中等部には“できる”男女生徒が集まっていたのに対して、高等部には、旧制女学校からの“居残り”の女生徒が、しかも一、二年生だけいるという変則状態であった。
 その結果、学内では、ことあるごとに上級生を軽視し、下級生を優遇するという風潮が生まれていた。はなはだしい教師は、中等部の生徒の前で、「上級生を相手にするな。君たちとは別人なんだから」とまでいうありさまであった。PTAの役員は中等部の父兄が占めていたが、彼らも、教師のそのような言葉を疑ってもみなかった。
 こんなわけだから、彼らは当然のように、私が中等部のクラス担任になり、彼らの子どもの教育にあたると信じていた。ところが私は、こういう空気に心底から反発し、(もうひとつの理由もあって)あえて“上級生”の高校一年生の担任になったのである。中等部の生徒の父兄には、「上級生が信頼、尊敬されていないところでは、すぐれた教育はできない」という大義名分を明らかにしておいた。事実、私はそのように思っていたのである。

  生徒に自信をもたせるための試み
 私はその年の秋に、他の私立学園のよいところを学ぶため、生徒の代表六人による調査を行なおうという計画をたてた。その六人の代表は、生徒会主催の校内弁論大会を開催し、そこから高二、高一、中三から各二人をえらぶのである。えらばれた六人は全額PTAの費用で、東京の自由学園、玉川学園、成城学園を調査し、帰校後報告会をひらくというものであった。もちろん私が引率して、精細な調査をするという手筈であった。
 私がこの計画案を出したとき、費用が臨時支出になるうえに、はたしてそれだけの効果があがるかということで、だれ一人として賛成する者はいなかった。私はさっそくその晩から役員の家を個別訪問して説得してまわった。
「この計画が、全校生徒の上にいかに心理的効果をなげかけ、生き生きとした雰囲気をあたえるか。ことに、弁論大会の出席者、出演者は、学内の問題点を冷静につかみ、さらに外部からそれを客観的にみる目を養うとともに、今後はその理想に全力でとりくむ態度を身につけることになる。六人の誇りと自信は必ず学園に小波をおこすにちがいない。この機会を利用して、上級生が上級生らしくなることにも利用したい。教師たちも変わってくるだけでなく、県下独自の私立学園にも発展することになり、その費用は決して高くない」と説得した。
 はじめ不承知であった者も、徐々に賛成にまわり、ついにこの計画を実施することになった。そのとき、全校生徒の上に起こった昂奮と意欲は、予想した通りであった。

  生徒の家出事件が待っていた
 私は軽視されている高二、高一の生徒たちに、とくに強力にこの計画に参加するように説いていった。それによって、一挙にこれまでの不信をはねのけるようにというのが、私の言葉であった。出場者は、どういう所を調査し、それをどのように本学にとりいれるか。その場合の自分の抱負は、ということを中心に草稿をねった。
 えらばれた六人は、軽視されている上級生、高二と高一から四人、重視されている下級生、中三の中から二人であった。重視されている下級生は本学の高校に進学する者という条件であったにしろ、上級生はよくがんばった。代表が全校の期待をうけて、T市をたったのは十一月のはじめであった。
 私たちが一週間にわたって調査したものを携えて帰ったとき、思わぬ事件が私を待っていた。それは生徒の一人、中学三年生のT君が家出しているという事件であった。しかも彼は、私の言葉に刺激されて家出を決行したと、書きのこしたのである。そうなると、報告会どころではなく、その善後策をめぐって、大騒ぎであった。
 しかし私は終始おちついているようにふるまい、「生徒の自由にまかせたらよいのではないか。駄目と思ったら帰ってくるにちがいない。中学三年生になってその分別が働かないのはおかしい」と主張した。ただ「彼の居所は調べるとよい」といいそえた。この私の落ちついたような発言はT君の父親の非常な反発をかった。実は、私自身一睡もできなかったことは、誰も知らない。

  失敗と逃避のあとに
 T君は京都の街を徘徊しているところを警察に保護され、まもなく帰ってきた。それから私の処分をめぐって、臨時の職員会議が開かれた。私の教育は強引すぎる、誤っている、と結論づけられた。二、三の教師の理解ある言葉はあったが、結局、私は即座に担任以外のいっさいの職務を剥奪された。担任はなぜ剥奪されなかったのか、今もなお不明であるが、とにかくカリキュラム編成委員の職と生徒会係の職を失ったというショックは大きかった。
 私がその悲しみをいだいて二週間の旅に出たのは、それからまもなくのことであった。数か月間の活動でようやく光が見えはじめたとき、この大鉄槌をくだしたT市、私の教育の形骸しか残っていないT市に身をおいておくことに、やりきれないものを感じて、私は山口市にむかった。そこには、私の良き理解者がいたのである。旅といっても、一種の逃避だったのかもしれない。そうであったとしても、とにかくT市を去って自分の来しかたをふりかえらずにはいられなかった。
 私の中に塾教育の夢が具体化したのは、この旅行中のことであった。そこにしか、私が教師をしてゆく意味はないと思った。塾ができなければ、教師をやめるか、他の私立学園に変わるしかない。幸いに、この数ヵ月で他に招いてくれる学校があるという予想はついた。しかし今はただ塾の建設に全力をつくすことしか考えなかった。塾ができるならば、私の教育立国の夢に一歩近づくと思った。たとい、S学園での教育に成功したとしても、教育立国の道は依然として遠いみちのりと思わずにはいられなかった。そうとすれば、今S学園から放りだされたような姿こそ、私にとって幸いであったかもしれない。そう考えると、私の教育への情熱は、T市にのりこんだときに数倍するのを感じて、身ぶるいするのを抑えることができなかった。

 

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3 差別された生徒とともに

  教師の差別がダメな子をつくる
 S学園で私が、“上級生”といわれて軽視されている高校一年生の担任となったのは、先述したように、理由のあることであった。担任になる前年、着任してからはじめて彼女たちの教室にいって、私は驚いた。中学三年生にもなっていながら彼女たちにはまったく学習の意欲がなく、ただがやがやと騒いでいるだけであった。
 ある日、無記名で、なぜ学習の意欲をなくしたのか、学校への要望は何か、と書かせてみた。すると言いあわせたように、「教師が私たちを馬鹿にし、信頼しないので、やる気がなくなった」とか「教師の差別待遇がひどいので、やる気がなくなった」と書いていた。そして学校への希望は「社会人となって恥ずかしくないような教育をしてほしい。 差別待遇をやめてほしい」と記していた。

  生徒たちの底知れない絶望
 私には彼女たちの気持が痛いほどにわかった。教師が、勉強のできる者は真面目、できない者は不良ときめつけて、差別待遇したことに、全身でその無知を感じ怒った、自分自身の中学生時代を思って、彼女たちが怒るのはわかったし、彼女たちの要望もあたりまえだと思った。
 私は、きっと諸君の担任となり、諸君の希望を達成するであろうと約束した。そして「自分を最後に生かす者は自分しかないのだから、自分を大事にしてほしい。諸君を馬鹿あつかいする者は相手にしなければよい。そのうち必ず、相手にするようになろう」と断言したのである。
 それから毎日のように彼女たちをよんで、高校に進学するように説得した。しかし私の説得も未熟であったうえに、彼女たちの絶望もあまりに大きく、100名余の生徒のうち進学した者はわずか四十余人にすぎなかった。私の説得で十名か二十名を進学させたかもしれないが、彼女たちの絶望がいかに底知れないものかを感じさせるとともに、教師の言動が本人の知らないところで深く生徒に影響していることを知って、ぞっとした。教師は無意識のうちに、大悪人になっていたのである。親鸞が、人間は皆悪人であると言った理由もわかるように思った。進学後も、そのうちの何人かは転学していった。私はそれを阻むだけの自信がなく、ただそれを見ていた。
 とにかく新学期は四十余人の高校一年生のクラス担任として出発した。私は自分のクラスが高校二年生からは圧迫され、下級生と教師からは軽視されているのを知って、まずそれを取り除こうとした。学制変更期のためその年S学園には高校は二年生までしかいなかった。 その二年生たちも教師からは軽視されていたが、高校一年生のようには、その蔑視を表面にあらわにされていなかった。二年生は最上級生ということで、種々に利用されていた面もあったのである。

  高校生に異例の家庭訪問
 私は高校二年生のクラスにいき、「今後、高校一年生を蔑視するような言動をやめ、文句があったら直接私に言ってほしい」と強く要求した。中学三年生と全教師にもそのことを宣言したことは、もちろんである。
 私は、暇さえあれば生徒を公立図書館や書店など、街のいろいろなところにつれだし、文学の話などをした。そのことによって、彼女たちに自信と誇りをもたせ、とくに公立高校生に対する劣等感をなくすることに努めた。
 それとともに、家庭での彼女たちの立場に思いを致し、家庭訪問をつづけた。小学校児童の家庭訪問と違って、高校生の家庭訪問は異例であったが、断行した。 汽車通学の多い高校生だけに、大変であったが、教育のために実施した。
 予想したように、ほとんどの家庭で、彼女たちは公立高校に落ちたことで馬鹿扱いされ、のけものにされていた。あるいは、そのことによって期待されない存在になっていた。私はそのような親に向かって、「今の教育は主に記憶力を中心に頭のよしあしをきめているので、真に人間としてどうなのかはわからない」と説得した。そして「お嬢さんは社会人として恥ずかしくないような人間になりたいと強い希望をもっている。私も彼女を尊敬し信頼したいと思う。彼女が自信と誇りをもって行動できるようになるためには、両親からまず信頼され、尊敬されなくてはならない。どうか私の教育を信頼して、私に協力してほしい」と説きつづけた。
 父親の場合があるし、母親の場合もある。しかし両親のみでなく、家庭をあげて私の教育に協力してくれるように説得してまわった。その結果、五月末、私が担任になってはじめての父兄会にはクラスの四十人のほとんどの父兄が参加するという異例のことさえおきたのである。

  読書指導で、見ちがえるほどの意欲をひきだす
 その父兄会には、私から新提案をした。生徒各自の自発的、内発的発展をはかるために、それに役だつような書物をクラスに設けたいが、そのために毎月寄付をお願いしたいということであった。全員の協力を得たことは涙のでるほどうれしかった。各家庭をまわってみて、一般に公立高校に通う生徒の家よりも貧しいことは知っていた。それが高い費用をだしてこの学園に通わせているのである。 それなのに、さらに出費のかさむ私の無理な注文を喜んでうけいれたのである。 私のそのときの感動がオーバーでないことを知っていただけよう。親たちの切実な願いがわかった。それ故に真の教育をおしすすめねばならないとの決意を私はさらにかためた。
 さっそく学級文庫をつくる段取りをきめ、徐々に書物の数をふやしていった。それと相まって、「一般社会」の授業の一時間を読書する時間にあてたのである。この時間には何を読んでもよいし、要するに一般社会人となっても読書する習慣を身につけさせるためと言った。一般に、学生時代はたくさん読書していても、大人になってそれをつづける者はほとんどなくなり、はては読書を軽蔑する者まででる始末である。私はなんとかこの悪弊をあらため、読書する人間を一人でもふやしたいと思った。
 それより先、新学年の開始とともに、クラス全員に生活記録を毎日つけるように求め、それを毎週一回私が点検するようにしていた。はじめはせいぜい四、五行書くのが生徒一般の実力であった。それが読書時間を設けるようになって、生徒の書くものは週ごとに分量がふえ、その内容も確実になっていった。十月ごろには、三、四ページ書くのをなんとも感じない生徒も幾人かでてきた。

  ダメな生徒は私のすぐれた教師だった
 だから、前節に記した私立学園調査の代表者をえらぶ弁論大会には、私のクラスから何人もが自ら進んで出場した。出場した者はみんな好成績であった。高二、高一、中三から各二名選出するということであったので、大会一位と二位を占めた者だけ採用したが、その結果は、教師はもちろん全生徒の偏見を完全にくつがえすことになり、にわかに高一のクラスヘの評価はたかまった。
 だが、学園調査の旅から帰ってみると、先述のような事件がまちかまえていた。重要な職務からその任を解かれた私は、すぐに学園をやめようとも思った。 しかし生徒との約束もあるので、生徒の意見をきくことにした。「担任のほか、全職務を解かれた私は、どうしたらよいか。諸君との約束をまもって、あくまで留任すべきかどうか」という私の質問について、生徒に無署名で意見を書いてもらうことにした。
 生徒の中の幾人かは血書して「私たちが先生の教育を少しも疑っていない以上、初一念を貫いてほしい。場合によっては全校ストによって先生の留任を実現します」と書いていた。 彼女たちには全校ストを行なう自信が十分にあるようだった。その他の生徒も「教育活動をつづけるのは先生の義務です。約束を破るような破廉恥な行動をとらないでほしい」というようなことを、それぞれの文章で書いていた。
 私は頭をどやしつけられる思いで、あらためて、留ることを生徒の前に誓い、全校ストだけは思いとどまってくれるように歎願した。この生徒との約束のもとに、私は二週間の旅にでかけたのである。
 私は彼女たちが高校二年生になるとともに、担任も解かれた。教育によって彼女たちを自律的人間にしていくつもりであったが、私の教育の挫折で、彼女たちに自信と誇りをうえつけたにとどまった。一生懸命やればどんなことでもできるという自信だけを、野放図にうえつけたままに終わった。しかし、その後も彼女たちを精いっばい守ることだけはしてきたつもりである。
 彼女たちをここまで教育したことで、私の塾教育への確信はいよいよたかまったといってよい。彼女たちこそ、私のすぐれた教師であった。

 

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4 “生徒の家出”という成果

  教育は生命がけの行為
 T君は私の教育の最も大事な時期に、私の運命を狂わすようなことをしてくれた。その親は私の教育を怒り、私の態度に不満をもち、校長以下、教師の多くが私の教育の“行き過ぎ”に不安をいだいたが、私自身はかえって自分の教育に確信をいだいたのである。
 教育とは本来、危険な作業であり、生徒に革命をおこす作業であり、予想のできない作業である。成否は、その生徒の死後にはじめて評価できるものなのである。危険な作業をやるのでなくては教育とは言えない。むしろ教育か否かを決定するのは、危険な作業をよくおこせるかどうかにある。教育とは遊びでなく、教師と生徒の生命がけの行為なのである。
 私は自分の言葉が単なる言葉でなく、生徒の心をうち、家出という危険な行動にふみきらせたことを喜んだ。私は口舌の徒でなく、人の心をうつ言論をなせる者であるという自信をもった。また生徒の中に、私が全身で訴えた、行為にも等しい言葉を、その全身でうけとめ、行為に移してくれる者のいることを知って欣喜した。そうすると、人びとの批難の声も耳にはいらなかった。しょせん教育観が違うのだと考えた。
 T君の家出の成功を心秘かに念じていた私は、同時にT君の将来はたいへんだろうと考えた。ぬるま湯のごとき高校の環境と違う厳しい環境を予想した。しかしその厳しさの中で困難な自己教育をするだろうとも思った。その結果は全てかゼロかというほどにたいへんだと思った。でもそれをやってみることによって、はじめて教育が成立するのだと思った。しかしT君は、まもなく保護されて帰ってきた。彼の姿をみたときに私の中におこった落胆は、どうしようもなかった。 それほどに、私はT君を信頼し、その家出に期待していたのである。

  何が教育であり、何が教育でないか
 数日後、私の処分をきめるために開かれた職員会議で、私は私の所信をのべた。
「教育とは本来、生徒に革命をおこす行為であり、革命は安全な所におこるものではない。私の言葉によってT君に家出を決行する決意がおこったということは、高く評価されてよい。この家出を、いわゆる家出と同一視してはならない。T君の場合は自己教育のための家出である。皆さんはルソーの『エミール』を読んだことがあるだろうか。そこには教育が危険な探険であると書かれている。私はT君とともに、その苦難を背負うつもりだったが、T君が帰ってきたのでその必要がなくなった。皆さんの考えに従って、処分を甘受する」
 だが私の言葉は多くの教師にうけいれられないまま、担任以外の私の職務は解かれ、私の教育は否定されたのである。彼らは、私が教科書の通りに教育をするならば私を認めようというのである。彼らは私が最も非教育的だと考えていることを教育と思い、私が教育だと思うことを余分なことだと考えて、私を処分したのであった。私は日本の政治家が、何もしないのが政治だと考えているように、教師たちは、何もしないのが教育だと思っているのかと考えた。私の教育への情熱は、こういう中でいよいよ熾烈になっていった。

  生徒の家出にうながされて
 T君の家出があってからちょうど一年目に、A君の家出がおこった。T君と同様にA君は中学三年生であった。A君も私の言葉に共感して家出したというのである。A君は、この日本の地を脱して、広いアメリカに行こうと企てて、横浜港にいく途中で保護され、送りかえされてきたのである。
 A君に密航を決意させた私の言葉は、「青年は何ものにもしばられることなく、自由な天地で自由に振舞うべきである。自分でこの大地を自由にするためにあばれまわることである」という一句であった。この平凡な一句にそれほど感激するというのは、その言葉を吐くときの私の情念に魅せられたからだと思うしかなかった。私はますます情念のたいせつなことを痛感するとともに、情念を軽視、無視する教育は誤っているという確信を深めた。
 同時に、自我にめざめる中学二、三年生から高校一、二年生の間に情念を最大限に刺激すれば、人間をまったく革新できるのではないかという確信をもあらためて深めた。人間はこの時期の教育如何で変えられるという確信であった。
 その意味では、二人の家出事件は私の教育者への再出発をうながし、私を教育してくれた、最大の事件であった。彼らがその後どのようになってゆくかはわからない。だが、あきらかに、その事件で最高に学んだのは私自身であった。私を塾教育に向かわせたのはT君の家出であり、塾教育に対する確信を深めさせたのはA君の家出であった。今日の私を育ててくれたのは彼らであった。

 

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   第3章 人間の変革   

1 問題児はつくられる

  素直でないのは悪いことか
 先天的な問題児は別として、後天的な問題児は多くの場合、家庭や学校の中でつくられている。先天的問題児は数も少ないが、後天的問題児は数が多い。それが教育の名のもとに、家庭や学校でつくられているとすれば恐ろしい。しかも親も教師もそのことに気づいていないのだから本当に恐ろしい。
 ふつう、頑固な子どもは、素直でないといって嫌われる。しかし、かつてすぐれた革命家の教育をなしとげた吉田松陰は、高杉晋作の頑固な性格を矯正しようとしなかった。「それこそ、将来事をなすうえでなくてはならないものであり、十年後事をなすときは高杉こそともになす人間である」と言いきった。
 いわゆる“ひねくれている”と一般に言われる者も、多くは、ただ目上の者に言われたことには無批判に従うというのでなく、自分なりの考えのもとに意見をききとる態度を持っているにすぎない。考え方によれば、“素直”に命令をきく者よりも自主性があり、たのもしいということができる。だが世の中では、このような頑固なひねくれ者をいやがり、とんでもない人間だと思いこんでしまう。そして、このような人間をよく生かさず、逆に、事をなすにあたってあまり役にたたない人間を、愛すべき人間だと思っている。

  “ひねくれ者”が真理を発見する
 学校の中では、頭のよい生徒、頭の悪い生徒という区別をして、彼らの中に理由のない優越感、劣等感を植えつけ、俗に頭の悪い生徒をだめにしていることが多い。
 今日、頭のよしあしの基準にされているのは記憶力の早さ、正確さが中心であり、あとほんの申しわけていどに理解力、判断力、創造力が考えられているにすぎない。記憶力が遅くても、正確なうえに理解カ、判断力、創造力を十分に発揮している生徒もある。しかし遅いという理由だけで評価されない。自発的な理解力、判断力があるために、かえって記憶の遅いものもある。しかし、それが今の教育では評価されないのである。まして、実行という視点はまったく欠けている。だから今日のように、学校秀才といわれる人の中にこそ、口舌の徒がふえたのである。しかも、その正確さとは教科書的正確さであり、それが単に常識的正確さにすぎず、それ以外にも真理があるということを知らない。したがって、学問的真理を発展させることもないのである。
 家庭の中で頑固なひねくれ者として嫌われている者は、学校の中では最も頭の悪い子とされ、不良と目される。しかし学問的真理は、何かの偶然で彼らが学問に従事したとき、彼らによって発見されることが多く、いわゆる学校秀才は、ほとんどの場合、旧来の学説の踏襲者に終わるしかないのである。

  “問題児”というレッテルを貼るのはだれか
 要するに、問題児とされている者は、家庭や学校の中で、親と、その影響下にある兄弟によって“つくられる”のであり、教師と、その影響下にある同級生によって“つくられ”ている。本来、問題児などというものはないばかりか、今日、問題児の属性とされている諸点も多くの場合、その家庭と学校を離れたらなくなるようなものなのである。見方、考え方を変えると、その欠点こそが長所とさえなるものなのである。
 いわゆる問題児とは、客観的に問題があるというより、むしろ親にとり、教師にとり、厄介で始末にこまる存在という場合が多い。親や教師が、問題児をつくりあげているのである。

  真の反逆児を育てることこそ教育
 教科書的真理、教師的真理に疑問を持つのは、まともな生徒なら当然だし、学校の規則に疑問を持つのもこれまた当然である。親や教師は自分たちの常識をあまりにも無謬として、未来に生きる子どもたちにおしつけている。子どもたちは疑うことによってこそ、未来を発展させるのであるにもかかわらず、ふつう、人びとは歴史の現状を維持し、それにあてはまる人間を育てようと考える。しかし本当の教育とは、未来に生きる人間をつくることであり、現代を発展させて新しい未来を創造する人間をつくることでなくてはならない。
 未来を創る者は現代の反逆児として、現代を否定する者である。だが反逆児といえば、親も教師も動転する。したがって反逆者らしき者は問題児として否定し、彼らを真の反逆者として育てないのである。そのために、彼らはゆがめられ、奇妙な人間に育ち、本当にだめになるのである。実は、彼らのように反逆者らしき者を、真の反逆者に育てることが真の教育であり、教育によって人間を革命することであるのに。

  反逆者を疎外する社会は野蛮である
 単に観念的知識だけを持っていて、実行しようとしない人間をよしとするとともに、現状維持のために危険でない人間を優秀と見なす、今の教育は誤っている。親と教師にとって厄介な子どもを問題児と考える、今の教育は狂っている。親と教師にとって危険な子どもほど、将来は求道者となり、真理の実践者となる可能性を秘めているのである。ただしそのための教育は至難である。今はその至難の教育をさけて、まったく安全で危険のない教育に専念しているのである。
 あるいは、問題児として、反逆者らしき者を危険視することは当っているのだともいえる。真の教育は、そのような問題児にこそ、とりくむものであるから。そうであるなら、教育を本当に危険で至難なものとして考えるべきであり、今のように問題児にとりくむことを教育の例外とすべきではない。問題児教育をこそ教育の本道とすべきである。
 今はただ、反逆者らしき者を問題児の名で、教育から疎外している。社会から疎外している。将来、殺人者となり、強奪者となる者は、ほとんど教育から疎外された者、社会から疎外された者である。今の教育の何と無力なことか。
 教育が未来を創造し、未来に生きる者を真に教育して、それを社会が求めるようになったとき、はじめてその社会は民主主義的だといえる。反対に、今のように、“現状維持”に反逆する者を教育的にも社会的にも次々と疎外している社会は、真の意味で野蛮である。西欧を先進国とみなす風潮が一般化してから狂いはじめたのである。教育はその原点にたちかえって出発しなおす時である。人びとをどのように育てれば真に幸福になるかを考える時である。

 

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2 未来を創造する者

  悪をなすほどの者でなければ
 「百匹の小羊の中に一匹の病気の小羊がいる場合、健全な九十九匹のためにはその一匹を泣いて放逐する」と、よく言われる。しかし教育の場では、むしろ一匹の病気の小羊のために、九十九匹の健全な小羊を放逐すべきである。ところが今の教師は、問題のある生徒を無残にも放逐するのである。問題のない生徒なら放置してもよいはずであり、問題児をこそ教育すべきであるにもかかわらず、このように教師が問題児を放逐するのは、学校に教育というものがないことを意味している。
 かく言う私も、中学生時代に問題児として放逐寸前まで追いこまれながら、ある偶然が幸いして放逐だけはまぬかれたことがある。もしあのとき放逐されていたならば、今日著述業者になることもなく、社会の裏街道を歩く一人になっていたことであろう。
 ふつう問題児とされる者は、先天的疾患をもつ者をのぞいて、実は親や教師にとって都合のわるい者、親や教師の命令に服さない者を言い、その保護下、指導下をはなれて、大人になったときにはほとんど問題にならない者でしかない。むしろ問題児といわれる少年、青年は、感情の起伏の激しい人間、正や悪の感情の激しい人間であり、それが一時期、不安定であるにすぎない場合が多いのである。親鸞は、悪人こそ救われる者の中心であり、悪人こそ悪を知り、正を本当に知ることができると言ったが、まさにその通りで、悪をなすほどの者でなくては、正をも実現することができない。
 さらに言えば、親や教師の命令に素直に従わないのは、多くの場合、自分というものがあって、その命令に疑問を持つからである。納得できないから従えないのである。

  なぜ人びとは幸福になれないか
 このようにみてくると、問題児のようにみなされている生徒こそ、本当に生きているし、将来革命家として、求道者として、生きてゆく可能性を多分にもっているということになる。頑固や意地っぱりはいやがられるが、それは革命家、求道者の必要な条件なのである。
 親や教師に歓迎される、素直でおとなしい子どもこそ、将来革命家として、求道者として最も不向きの者である。すでに述べたように、人間が現代に生きるということは、新しい真理を実現して生きるということであり、さらに時代をのりこえて生きるということである。時代をのりこえて生きるためには、子どもはその親や教師に反逆しなければならない。反逆するくらいでなくては、単にその時代を維持、継承するだけで終わるのである。
 今の学校では、単にその時代、その社会を維持継承するだけの子どもを優秀とし、むしろその時代、その社会を発展させる可能性をもった子どもを問題児として放逐するのである。社会が前進せず、人びとが幸福にならなかったのも無理はない。公害で苦しむようになったのも当然である。
 真の教育とは革命家、求道者になる可能性のある者を、真の革命家、求道者にすることである。だが現在の学校教育は逆に、行動や実践に生きることを喜ぷ正常の子を、徐々に行動を軽視し、実践を蔑視する片端者に育てるのである。しかもその片端者のうち、最もひどい者を学校秀才として褒めたたえているのである。世の中の人びともこの悪弊に従っているのである。学校教育がいよいよ人間、社会をだめにしているのである。
 学校にゆけばゆくほど、人間の感情は枯渇し、人間らしい行動の意欲は無くなるのである。学校維持のための、あまりにも多い禁止条項の中で、何も感じず何も行なわない人間になってゆくのである。学校秀才になるためには、何も感じない人間、何も行動しない人間になるしかないのである。

  “学校秀才”こそ問題児
 何かを感ずるということは、行動したくなるということである。しかし学校という所は、その行動をさせてくれない所である。させたとしても、それは一定の枠の中でのみである。だが実際の社会はもっと多面的でもっと複雑なのである。
 もし本当に問題児というものがあるとするなら、むしろ今の学校秀才といわれている片端者こそ、それである。彼らを教育しなおすことこそ教育である。
 先天的に知能指数が低い子どもの数は少ない。少ないにもかかわらず、安直に検査して特別学級にいれて、ますますだめにしている場合が多い。知能指数にひきずられるより、その指数いっぱいに、あるいは指数以上に、子どもの能力を発揮させることが必要なのだし、そのための十分な教育が必要なのである。ただ単に知能指数が低いとか、いいかげんな教育の結果生まれた“不成績”ということで、問題児として放りだされたら、たまったものでない。
 今の学校教育での優劣評価には、学校時代にしか通用しないものがあまりにも多い。そんなものに、一喜一憂していては、すぐれた人間になることなど思いもよらない。それなのに、親も教師も子ども自身も、それに一喜一憂し、子どもすべてをそのようなものを基準に評価して、それ以外の能力ある人間をみようとしない。そのために、真に革命家といい、求道者といわれるほどの人間は育ちようもない。それをつくる社会の土壌がまったくないのである。

 

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3 教育を正す条件

  この悲惨な現実から教師が何を学ぶか
 学校教育が正常化せず、教育の効果があがらないのは、一に教育者らしい教師が少ないためである。一見、文部省は教師養成に力をそそいでいるようにみえて、実は少しも努力していない。教育者の条件は、まず子どもをどのような人物に育てるかという目標をしっかり持ち、その実現にたぎるような情熱を持つ者で、障害には全力でぶつかる者であるということである。そして教師自身、時代と社会に生きるとはどういうことであるかを知りぬいて、自分自身そのように生きることに自分の全存在をかけている人間であることである。
 このように考えると、文部省は本当の教師を少しも養成しようとしていないことに気づこう。いたずらに資格だけをやかましく言っているにすぎない。
 教師自身が子どもの師表となりえないで、子どもをどうしてすぐれた者に育てることができよう。教師が自分の生き方を学び取り、子どもに、それをのりこえよと言うかわりに、自信のない生活、誇りのない生活を送っていて、何を教えようというのか。だから教科書にたよるしかないのである。教師は全国津々浦々にいても、少しも世の中を浄化できないのである。
 教師にこのような自覚をあたえる刺激がないのではない。この悲惨な現状こそ刺激なのである。問題はむしろ、教師がこの現実から学ぷ能力を欠いていることである。常に書物からのみ学んで、現実から学ぶことをしなかった教師は、再びその誤りを子どもたちにおしつけ、その誤りに気づこうとしないのである。

  「みだりに人の師となってはならない」
 教育の原点とも言える吉田松陰は、かつて、「妄りに人の師となってはならない。本当に教えなくてはならないものがあって、はじめて人の師となりうるのである。また妄りに人の弟子となってはならない。師を求める前に自分の心や目標が定まって、それに答えてくれる師を求めなくてはならない」と言っている。この信念の故に、あのような教育の成果もあげたのである。
 今日では軽々しく人の師となり、人の弟子となる者が多すぎる。そんなことを言っては、学校は成立しないではないかと、人は言うかもしれない。たしかにそうだ。だが人間をだめにする学校や教育は、ない方がましである。今の学校は、体制の求める方向に人びとを歩ませているにすぎない。体制にとって都合のよい人間を養成しているにすぎない。親と教師に都合のよい子どもを秀才というように、政府も、政府に都合のよい人間を養成する教育を、よい教育と言っているのである。
 吉田松陰はさらに、「生徒のために、句読を解釈してやるだけで、その本当の意味を教えようとしない。書をよく読み、書をよく説明できる者を才能ある者と評価して、そうでない者を、心が純朴で誠実であっても、それをせいぜい付随的にしか認めることのできないような教師、智も勇気の裏づけなしには力にならない程度のことさえ理解できないような教師は、その資格を欠いている」と言いきっている。松陰に言わせると、今日は、なんと教師の資格のない教師が多いことか。
 真に教師らしい教師、革命家として求道者として自ら生きんとする教師があれば、自然に子どもを自分の同志として育てようと思うし、子どもを革命家、求道者に育てようと全力をつくすに違いない。教師としての義務で子どもを教育をするのでなく、内発的な心で、やむにやまれない心で、教育するに違いない。
 今日、教職は聖職ではないとしても、崇高で使命の重い革命的行為である。教師は歴史の発展ということに対して、尊い使命をもつ者である。神と真理に向かいあっている者である。それを自覚しない者は、さっそく教師をやめたがよい。

  我が身を打つ覚悟ある教育者こそ
 教育の名を守る使徒がいなくてはならない。現在の教育委員会の委員のような政治の使徒に、教育をいう資格はない、政治から独立した本当の教育委員だけに教育をいう資格があるのである。
 そのときはじめて、真の問題児とは何かも見極めることができるし、いま言われている問題児はまったく問題児でないことも知りうるのである。そして問題児でない者たちが問題児のように扱われ、そのために子どもたち自身が問題児と信じこんでいる場合には、その子どもたちからその偏見を取り除き、親や教師や一般の人びとからもその偏見を取り除かねばならない。たとい、何ヵ月、何ヵ年かかろうとも、そのような偏見と戦わなくてはならない。
 そして規則、規則と、規則づくめの教育をやめて、殺人と泥棒以外のいっさいの禁止事項を取り去るべきである。泥棒にしても、泥棒をしなくては生きられないような社会をつくっている為政者が悪いのである。
 新島襄のように、一人の泥棒がでたら、我が身をたたくというような為政者が一人ぐらい出てもよいのではないか。新島は教育者として、罪をおかす者が出きたとき、我が身を杖でたたいた。しかもその罪とは神の定めた掟に照らしてのものであり、いわゆる人間の定めた規則に照らしたものではなかった。

  教師自身の意識革命を
 今日、問題児でない者が問題児とされ、真の問題児である頭でっかちの子どもを秀才としているのを矯正すれば、教育の大分の使命は終わろう。二、三の学校秀才でなく、多くの革命家、求道者を育てようとする教育に専念すればよい。それには、全国数十万人の意識革命が必要である。それは単に、共産主義革命で達成できるような簡単な革命ではない。共産主義革命はかえって、真面目な教師の間に、その意識革命の重要性を忘れさせるかもしれない。少なくとも、今の日教組は私のかかげた二つの要素に遠ざかるような方向を向いている。赤い日教組と言われる今の日教組でもだめである。
 吉田松陰は、人間の感情、情念を知性よりも重視し、感情教育に主力をそそいだが、今の教育はその感情をないがしろにし、知性にのみ全力をそそぐ。その結果、多数の片端者を生産することになったのである。そのような片端者でなく、歴史をまともに発展させるような人間を育てるには、今の文部省はもちろん、日教組でもだめである。教師自身が、自ら自己革命にとりくむようにならなければだめである。自称教育学者にリードされたような教育革命、日教組に守られてやるような教育革命では本物でない。
 教育が教師自身と子どもたちのもとに帰る日はいつのことか。教育が政治家にリードされ、教育学者にリードされている間は、教育は本物でないし、問題児という言葉はゆがめられたままである。今のような問題児がなくなるときこそ、教育が本物となるときである。そのときには、問題児教育は先天的問題児だけに留意すればよいのである。それ以外は教師自身のような人間になるように教育すればよいのである。教師自身がすぐれた生き方をしている限りは。

 

<「人間変革の思想」目次 > 

 

4 人間を変えるもの

  絶望と不信と自己変革
 学校教育は従来、現代を生きるに必要な諸知識を正確に与えるものだと思われてきた。だれ一人として、そのことを疑うものはなかった。しかし今日では、教育とは未来に生きる者を育てることであり、革命家として、求道者として、絶えず自己と社会を変革し、発展させる人間をつくるものであることを知った以上、あくまでも人間そのものを変革するものでなくてはならない。
 教育に必要不可欠のことは、その子どもを変革して、未来に生きられるようにすることであり、単に親や教師の生きている現代に通用する人間を育てればよいのではない。その時代を変革して、新しい時代をつくり得る人間を育てることである。自分自身を無限に変革してゆくことのできる人間を育てることである。
 人間がよく自己変革できるのは、絶望におしひしがれ、不信にさいなまれたときである。知識をいくらふやしても、人間そのものは変わりようがない。しかし、漫然と絶望と不信を経験して通りすぎるだけでも、人間は変わりようがない。それらに至らしめた理由をとことん考えきって、それをのりこえようとするときにのみ、人は変わるのである。言いかえれば、古い価値観を徹底的に疑い、嫌悪して、新しい価値観を模索し、創造し、それに全心全霊をゆだねて生きるようになるときである。それは単に新しい価値観を知るということでなく、常に、日常的にその価値観に従って生きるということであり、全生活がその価値観に支配されるということである。

  革命的言辞をもてあそぶ者たちよ!
 人びとは往々にして、革命家と言うときに、単に革命的言辞をもてあそぶだけで、全生活的に革命的でない人を言う場合が多い。ことに感情、情念が古い価値観に支配されたまま、言辞だけ革命的な人を言うことが多い。このために転向ということも容易におこるのである。感情、情念まで新しい価値観に支配された人間は、古いもの、否定したものを、そうやすやすと再びうけいれることはできない。死か沈黙があるだけである。あまりにも革命家ということを知識的に考える傾向がある。
 絶望や不信ということを軽々しく言う者は、本当に絶望や不信においこめられたものではない。絶望と不信においやられた者は、奈落と向きあった者であり、自分が自分一人によって立つしかないことを、とことん感じとった者である。
 吉田松陰は、「一度は国を捨て、親を捨てるくらいでなければ大丈夫にはなれない」と言っているが、真に独立した革命家、求道者になろうと思えば、いちど時代を離れ、国と親を捨てて、それらを客観的に冷静に見得るようにならなくてはならない。そうしてはじめて、真に時代をも、国をも、親をも生かし得るようになるのである。今日、人びとはあまりにも、時代の中にとっぷりとつかっているし、国や親となれあっている。これではとても、それらを生かせるものではない。

  絶望の淵から立とうとする者を助ける教育を
 絶望と不信を、とことん全心身に感ずるのは、中学生から高校生にかけての年齢のことが多い。いわゆる自我のめざめるときである。このとき、親や教師の常識を深く疑い、絶望と不信に陥り、自分で立とうと決心する者は多いが、そんな彼らを助けるものが少なく、反対に彼らの決心を押しつぶすもののみ多いのが現状である。彼らのほとんどは、その迫害の中にあって、自分の決心をあくまで押し通すこともできず、その道も至難のため、つい親や教師の言うままに安易な道ににげこみ、ついにはいわゆる大人になってしまうのである。
 真の人間と呼ぶにふさわしいのは、このような絶望と不信の後に、至難の戦いをへて、自分で立った者のことである。
 私が中学生、高校生を対象にして、教育しようとしたのは、その機会を最大限に利用して、人間を変革しようとしたためである。私自身は中学生の時代に自分を根本的に変え、理想を追い求めて生きる人間になった。周囲の友人の中にも、その機会をもった者を数多く見た。このときを最大限に生かすならば、教育によって人間に革命を起こすこともできるはずだし、その体験が次の革命を起こすことも可能だと考えたとしても、不思議ではない。
 かくて私は、絶望と不信を経験することは、人間にとって決定的に必要なことだと思いはじめた。私がいわゆる学校秀才をだめだと思うのは、行動に無縁な知識をもつ者であるというだけでなく、この絶望と不信に最も縁の遠い存在であるからである。そして世の中で問題児といわれている人間を私が最も高く買うのも、彼らが彼らなりに、この絶望と不信に近い所にいると考えるからである。
 私はむしろ、教育の中で絶望と不信を進んで味わわせ、そこから立ちあがれるように、力をかすのが教師の仕事だと考えている。だが、世の中の親と教師の中には、絶望と不信から生徒を守るのが仕事だと考えている者が多い。まったく私と反対である。だから生徒を変革できないのである。

  真理を説かず、真理に生きる
 絶望と不信を体験した生徒は、たしかに危険な位置にたっているし、転びやすい。だがそのときこそ、彼は、現代に通用している常識と、いまだ見ぬ真理との間にたっているのである。危険で転びやすいのは当然である。そのたいせつなときに、近い欲な心で、親や教師がその危険から早く遠ざかるように力を貸すなら、その生徒は俗人となって終わるのである。生徒をつきはなして、むしろその危険な状態に長くおき、生徒自身の力で、その状態をのりこえさせようとするなら、生徒は真理と向きあい、真理に生きる人間となるのである。
 大事なのは、真理をいう者でなくて、真理に生きようとする者である。真理に生きようとする者をつくることは困難だが、教師が真理に生きようとしていれば、自信をもって生徒にそれを求めることもできるのである。
 いちど絶望と不信を克服した者は、次の絶望と不信をのりこえることができる。絶望や不信でなく、壁であっても障害であっても同じである。壁や障害をのりこえて、はじめて本物となるのである。今日の青年は、第一の壁や障害にぶつかってゆく姿はまことに雄々しい。しかし、その壁や障害があまりに頑強なために、ついには腰くだけとなって終わる。そして第二、第三の壁や障害にぶつかることをしなくなる。青年である以上、雄々しく壁や障害に向きあうのはあたりまえである。壁や障害にぶつかってゆかないのは、年齢だけ青年であって、青年の特権を放棄した者であり、真の青年ではない。本当に大事なのは、壁と障害に何度でもアタックしてみて、本物になることである。
 この精神を与えるものこそ、本当の教育である。

 

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   第4章 理想と情熱

1 父兄の説得から

  教育国家の原点をつくるために
 S学園で担任以外のいっさいの重要職務を解かれた私は、二週間の旅の中で塾の建設を考えた。そのときはまだ塾の名称までは考えていなかったが、私がかつて広島文理科大学に籍をおいたのも、広島が松下村塾の地に近かったことが一つの理由であったし、山口県T市のこの学園につとめる決心をした理由の一つも、松下村塾の地に近いということであった。それに、塾の建設によって子弟の育成と教員の再教育をはかり、教育国家を建設しようとすることは、大学三年間に学んだ私の結論でもあった。 かつて、政治的実践を阻まれた吉田松陰が教育によって子弟を育成し、自分に代わって政治的実践に突入することを願ったように、今私は、学校教育を通して私の理想を実現することを阻まれたことにより、塾教育を通して私の理想を実現しようとした。その意味は異なるかもしれないが、その気持においては相通ずるところがあった。松下村塾は幕末当時の藩校、寺小屋に対して、真の教育とはこういうものであるということを明瞭に示したが、私もまた、学校教育制度のある中で、真の教育とはこういうものだということを示したかったのである。

  毎晩父兄を説得に歩く
 昭和二十四年十一月末、二週間の旅から帰った私は、さっそく、クラスの父兄の中で最も私の教育を信頼し、認めてくれ、その協力者となってくれていたF氏を訪問し、私の夢を語りかけた。それは毎夜のことであり、二週間つづいた。私は吉田松陰の教育を語り、今の学校教育と彼の教育がどのように異なるかを言い、松陰に及ばずとも、彼の精神を今に生かすように全力をつくすことを繰り返し述べ、塾の建設に協力してくれるように頼んだ。F氏はさすがに山口県の人であり、松陰のことは比較的よく知っており、その教育を慕う心も強かった。だがはじめは、松下村塾を今日に再現しようとすることに不安を感じた。ことに、今の学校との関連をどうするかということで疑問をいだいたが、それに対して私は、知識の教育は現行の学校にいちおう一任し、塾では生きる姿勢、どんな学問をするか、さらに、学問する姿勢などを自得させるように指導しようと思うと説明した。
 同時に私は、現行の学校教育では行動する知識を与えないために、知識はいよいよ観念化し、口舌の徒ばかりが養成されていることを説いた。さらに教科書的真理を唯一のものとして信じこませるために、発展的な知恵を身につけることができないことを、強く主張した。先の戦争を指導したのも、最高の学校秀才たちであり、国民を今のように苦しめているのも彼らである。今この教育をあらためないかぎり、再び誤りを繰り返すことになろうと、説得した。
 私の繰り返しの説得は、ついにF氏の重い腰をあげさせ、次の夜から毎晩、見込みのありそうな父兄を一緒に説得してくれるところまで動かした。

  至難な協力者づくり
 塾の建設に賛成してもらうこともたいへんであったが、その塾の経営のいっさいを理解者たちの力でやろうとするために、費用を分担して貰おうということが、至難であった。だが、私はどこまでも、塾の理解者、協力者は、真の教育を守り、推進するという誇りに生き、さらに進んで塾生を見守り塾生に期待し、あわせて自分たちの周囲の環境を教育的に改造することに意欲的であることを求めた。私が理解者、協力者をつくるということは、世の中の人を徐々に教育的人間にすることであったし、その人たちの塾生に対する信頼と期待が、塾生の自覚をもたらすと考えていた。
 入塾したいと希望する者はだれでも入塾できるように、塾生に負担がかからぬことが必要であった。それこそ、働いている者も入塾できる所であり、それをむしろ歓迎する所にしたかった。塾生に必要なのは、学問し、世の中を良くしたいという希望だけである。だから、塾の設備も運営費もすべて、理解者の協力でまかなおうと考えたのである。塾の設備の主なものは書物であるが、それはあらゆる方面のものを広く備え、小さく、一つの思想にかたよることをさけようと思った。塾生を現実的に刺激する新聞、雑誌も広く集めようと思った。

  はじめての協力者と入塾者
 毎夜、F氏は私と行をともにしてくれた。クラス内の見込みのありそうな人をあたった後は、学年の違う人たちにもあたった。こうしてI氏、A氏、Y氏、N氏、Y氏、F氏、K氏、O氏をつかんだ。彼らはともに、私を支持し、力になってくれることを紛束してくれた。
 それと同時に、入塾生を募集した。入塾しそうな生徒自身にあたり、その父兄にあって、私の教育について語り、塾をつくる以外に道のなかったことを説明した。
 もちろんその段階では、塾の実現はまだ確実なものではなかったのだが、塾ができたら、入塾させるという者五人の確約を、いちおう得た。さきに家出した少年の一人は、親を説得して入塾することにきまった。おそらく、入塾を許可しなければ、その少年が何をするかわからないのを親が恐れたためであろう。しかたなしに許したというのが本当であろう。

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2 理解者、協力者づくり

  教育都市づくりを考える
 父兄のあいだに十名近くの理解者、協力者を得た私は、次にT市の有力者を訪れて、理解者、協力者にすることを考えた。そうすることによって、塾生の自覚はいっそう高まるし、教育の実もいっそう高まると考えた。私はまずT市を教育都市にし、その成果をもって徐々に、山口県を教育県にし、それを全国に及ぼすことを考えた。
 私たちが、目をつけたのは、S学園の理事の一人であるU氏であった。氏は高杉晋作の崇拝者、研究者としても県下で有数の人であった。だから、意外なほど簡単に、理解と協力を得ることになった。そればかりでなく、U氏は市長、助役はじめ、多くの人びとに積極的に働きかけることも確約してくれた。学園長にも摩擦をおこさないように話してくれるということであった。 
 U氏は一年間の私の教育実践をみており、私が塾によるしか、今の教育を是正できないという意見をもっていることを全面的に支持してくれたのである。すでにU氏は六十歳余であったが、明治の志士的風格を多分にもった、感情と意志の人であった。U氏の協力があったればこそ、その後の私の事業もすすむことになったのである。
 だが、その後さらに幅広い、理解者、協力者を得ることはまったく至難のことであった。市長に会おうとしても、なかなか会えない。やっと会って理解者にはしても、おいそれと協力者にはなってくれない。市長の立場としては無理もないことだろう。何度かアタックして、やっと協力者になってもらった。

  警察署長を協力者にする
 警察署長に会うことも容易でなかった。彼は当時の自治体警察の署長であったが、非常に忙しい。やっと会えても、すぐに塾建設の理解者、協力者になってくれるように求めることはできない。十分な説明もしないまま、いちど拒絶されれば終りである。まず私という人間を評価し、私の考え方、生き方を認めてもらわなくてはならない。私は何度か署長に会い、時間の浪費とならないよう心をくばって話をした。
 戦中、戦後の悲惨に話がおよんで、「なぜかくも国民が悲惨となったか。それは国民が時の政府のいうままに、一つの主義だけを盲信し、他の思想に心を及ばす余裕がなかったためである。敗戦後の今日もその態度はかわらない。この警察署をみても、アメリカの民主主義を知る資料はあっても、ソビエトの共産主義を正確に知る資料はない。これでは、誤りを繰り返すだけである。アメリカの民主主義をとるか、ソビエトの共産主義をとるかは、まず、正しくそれらを理解して後に選択すればよい。研究の後に第三の道を歩みたいと言う人も出るかもしれない。いずれにせよ、ただちにソビエトの共産主義を知る本もそなえるように」と説いたこともある。
 だが数日して署長の戸棚に、それらの本がそなえられていないのを見た私は、「あなたは戦争中の軍部のようなものだ。軍部は、敵性語だと言って英語まで排し、相手の国を研究しなかったために、相手について無知となり、けっきょくは敗れるしかなかったではないか」と言って、さっそく係りを呼んで、本を注文させたこともある。こんなやりとりの後、はじめて塾建設のことを語り、塾教育の抱負を語り、理解者、協力者の一人になってもらったのである。

  人間革命は社会革命よりむずかしい
 かつて検事であった弁護士を理解者、協力者にすることはもっとたいへんであった。私が「塾教育によって、人間を革命する」と言ったとき、彼は言下に「共産主義的教育をしようとするのか。それなら私は賛成できない」と拒絶した。私は全身汗びっしょりとなりながら、人間を革命しなくてはならないという私の真意をいろいろと述べた。ただ違った考えを注入するだけでは、必ずしも人間を革命するということにはならない。私は人間そのものを根底から変えようと思うのだと説明した。それは必ずしも、その弁護士を納得させなかったが、U氏の助言でようやく納得し、協力者の一人になってくれた。
 私は、戦争中、共産主義者やその同調者に数多くの転向者のあったことをきいていた。そのような者しか育てられなかった教育は、本当の革命教育ではなかったのだと思っていた。革命の教育とは、人間を沈黙か死においやるもので、単に“革命的”な考えを観念的に教えることではない。人間の感覚、情念を革命したとき、はじめて人間を革命したと言えるのだ。だから人間の革命は社会の革命よりむずかしい。そのような人間の革命に導かれて、はじめて社会も徐々に進展し、変わるのである。
 しかし、はっきりと資本主義社会の撲滅をいうことは私には言えなかった。私は当時、資本主義社会は早晩ほろぶとは思ったが、その後にどういう社会が成立するかは、はっきりしていなかった。共産主義社会が成立したとしても、その共産主義社会がさらに革命を必要とすることはたしかであった。それはわずかに、当時のソビエト社会の現実を研究しての結論であったのだが。

  あらためて松陰の偉大を思う
 私の考えは、表面的には必ずしも一貫していなかったと言えるだろう。そのためもあって、資本主義社会に何ら疑問をいだいていない人びとに私の真意を語ることはむずかしかった。そこに、私が理解者、協力者を得ようとする作業をすすめるうえでの限界があった。しかし、私の言う真の理解者、協力者になり得るものが、かんたんにはいなかったのは、むしろ当然のことであった。もしあるとすれば、それは、今後塾教育の中で育つ人びとの中にあるのだと思った。それまでは、可能の限り、説得の努力をする以外にないと思った。
 私があたった人の中では、幾人も説得することができず、失敗を繰り返したが、それでもU氏の協力を得て、三月末までには、市長、警察署長、弁護士をはじめ、市助役、消防協会会長、市会議員、新聞社社長、医者、僧侶、父兄たち、合わせて五十人ほどの理解者、協力者を確保した。わずか四ヵ月ほどの間に、これほどの人を説得できたのは、U氏の協力があったからこそである。
 U氏のような人がいたのも、五十人もの理解者、協力者を得ることができたのも、山口県という場所柄であったからだろう。吉田松陰以来、人びとの心のどこかに、教育を重んじ、そのために努力する風習が伝わっていたためであろう。あらためて、松陰の業績の偉大さを思ったものである。
 三月末には、後援会を組織した。会長にはU氏を互選し、毎月百円ずつ(今日の金額にすると千円余であったが)会費を出すことにきめ、塾教育のいっさいは私にまかすという会則がきめられた。あとは、どこに塾舎を建てるかということになった。さいわい市が家を提供してくれると言い、市会の承認をとるまで待つことになった。そこで、さしあたって、それまでの間、どこで、どのように活動するかということが私にとっての重要問題になった。私としては、市の塾舎提供を待たずに、四月開塾にもっていきたかった。塾生になる者もすでにきまっており、その時機をのがしたくなかった。ことに塾生のやろうとする志気をそのままにしぼませることを恐れたのである。

 

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3 理想の実現におののく

  開塾の用意ととのう
 市がいつ塾舎を提供してくれるか、はっきりしないまま、私はただいらいらして、何らなすすべもなく、四月開塾をあきらめかけていた。しかしU氏は私の希望を達成するために、その間も積極的に奔走していた。そして、ついに家を提供してくれる人がでたのである。いうまでもなく、U氏に対する好意なのだが、市が家を提供してくれるまでの間、何ヵ月いてもよいと言うのである。それも無料でよいと言うのである。この人はT市のA市会議員であった。自分の二人の子どもたちが使っている自宅の二階二間を提供しようというのである。私はよろこんでU氏とともに、その家を訪れてみた。S学園とT高校の中間にある家で、提供されたのは三畳と八畳の二間であった。私はただちに、塾生の机五つと食台をつくってもらうように依頼し、開塾の用意をととのえた。塾の顧問として、文芸評論家の新島繁氏、中国文学者の竹内好氏、哲学者の山田坂仁氏、教育学者の岡本重雄氏、教育学者の荘司雅子氏の五人を依頼し、私自身が直接にその人たちの指導をうけるとともに、塾生たちも間接的に指導をうけるように配慮した。この五人は私が日頃から尊敬し、教えを乞うていた先輩であったし、この人たちのそれぞれの長所、特性を統一したところに、私の理想的人間像を定め、塾生の具体的目標としたのである。そして、いつかはこの塾のために話しに来てくれることを信じていた人びとなのである。

  はじめて塾生をむかえる
 さらに、戦争中に私がめぐりあい、その後一質して私を育て、私の思想的肉づけに大変力のあったF女史には、私の同志として相談役を依頼した。F女史は山口県に住む人であり、私の相談役になってもらうには都合がよかった。そのほか、私の友人には、理解者として正式に名前をつらねてもらった。広島県のW氏、東京都のS氏、大阪府のE氏、島根県のK氏というぐあいに。
 一方、塾生は、先述の五人に加えて、S学園の女子高校生を外塾生として登録し、九大生、早大生、高校生など各地にいる友人、知人も幾人か外塾生に加えた。私はいつかはこれらの人びとが実っていくと確信した。そのときの私は勇気百倍し、自分の夢と理想におののいていたものである。もちろん、うれし泣きに一人涙したものである。
 S学園の校長も、U氏の説得で、塾のことは一言もいわなかったし、私はそのままS学園の教師をもつづけることになった。私としては、自分の生活は自分の力ですすめたいと思う以上、それはやむを得なかった。
 昭和二十五年、こうして、塾は形をととのえ、塾生五人は四月四日までに、全員入塾したのである。

 

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4 入塾の宴

  春雷の中で決意をかためる
 昭和二十五年春。四月五日は入塾式の日であり、宴を持つことになった。朝から、外塾生であるS学園の女子高校生十数名が集まり、夕の宴の準備をした。酒こそなかったが、ご馳走をつくり、飲み物も用意した。
 この日は朝から晴天であったが、宴の始まるころから曇り空になり、急に雷がなりだした。四月の雷雨はたいへん珍しい。だれも一言もしなかったが、やがてはこの塾が雷のごとく光彩をはなつであろうことを、たがいにひとしく感じあったものである。
 宴にはU氏、A氏も出席し、塾生、外塾生とともに、二十数人で、和気あいあいと会食をした。U氏は「この塾が将来大きな力になるように、全員で努力してほしい。A氏のご協力には心から感謝したい」と祝辞を述べ、A氏は「この塾が松下村塾の再現になるように」と、励ましの言葉を述べた。
 次に一言することを求められた私は、「今後塾長として、諸君の先頭にたって、これこそ現代に生きている人間だという見本をしめすつもりでがんばる。諸君は相互に切磋してぜひ私をのりこえて成長してほしい。私も諸君に学ぶ。諸君も全力をつくして私から学んでほしい。私を師と思うより、先輩として、兄貴分と思ってつきあってほしい。塾が求道者の集合場所となることを願っている」と挨拶した。
 塾生は入塾の動機や今後の覚悟を一人一人述べ、外塾生は、入塾することはできないが、塾生にまけないつもりだと、これまた一人一人が決意を述べた。
 塾生はすべて、高校一年生で、S学園の生徒が三人、T高校の生徒が二人であった。私の望んだ、市内にあるJ高校の生徒も、働く少年もいなかった。今後は次々に、そういう少年たち、大志をいだく少年たちを集めたいと思った。
 塾生たちの言葉は、とても私があの年頃には口にできなかったほどに、内容のあるものであった。その言葉に耳を傾けるU氏もA氏も、大いに満足しているように見えた。午後六時過ぎまで、宴はつづき、話もつきなかった。やがて先刻までの雷雨もうそのようにやんだころ、外塾生はみなかえっていった。

  炊飯、掃除に始まる共同生活
 翌日から、私を中心として六人の共同生活が始まった。飯を炊いた経験など一度もない者も、当番で、まきを割り、飯を炊いた。残りの者は蒲団をあげ、掃除をした。家にいれば、そのようなことは母親まかせにしていた者たちが、全部を自分でするというのはたいへんなことであった。
 はじめの間こそ、新しい興味であっても、長い間には疲れ、さぼりたくなる。だがそうした中でこそ、私は彼らを頭でっかちの人でなく、実践の人、行動の人に育てようとした。そのような日常的なことが、人間にとっていかに重要なことかを感じとらせようとしたのである。

  塾生は、日に日に彼ら自身になっていった
 週一回、私を中心に輪読会をもった。テキストは、顧問の一人である岡本重雄氏が旧制高校生の手記を集めて、その解説をした本であった。それは旧制高校生たちが、どのようにして自分にめざめ、社会にめざめていったかという、内面の生活記録であった。
 私はこれによって、塾生一人一人の自覚を本物にし、確固としたものに育てようとした。塾生一人一人の言葉は、真剣に耳をすましてきき、それが単なる思いつきの発言や、単に頭の中だけで考えた発言でなく、全身からにじみでた言葉であるかどうかをたしかめた。具体的に日常生活をともにしているから、嘘か本当かは、塾生相互にも一目瞭然であった。
 こうして塾が発足してからも、私は相変らず、毎夜外出して、理解者、協力者をつのっていった。対象となる人は県会議員など、全県的に活躍する人たちであった。それは将来、塾を全県的なものにするための布石でもあった。山口県の教育長にも好んで会い、塾教育の宣伝をし、その理解を深めるように努力した。県の教育研究所を訪れて、塾についての理解を深めるようにも努力した。
 約七十人の協力者を組織したとき、私は協力者をつのることを中止した。それで今の塾の運営は十分にできるし、私が力をそそぐべきは塾教育そのものであることを感じたためである。
 一学期間、塾生たちは弁当をつくり掃除をし、洗たくをし、それぞれの学校によく通った。毎週土曜日から日曜日にかけては、塾生はおのおのの家に帰ったが、彼らは目にみえて変わっていった。彼ら自身になっていったのである。

 

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   第5章 藤園塾の人間像

1 広がってゆく塾活動

  塾舎の建設と命名
 昭和二十五年七月、ようやく市役所から塾舎のための建物を提供された。それは名ばかりの公園の一角に建てられた茶室で、六畳、三畳、二畳の三室を備えていた。この建物をどのように使うともよいというのである。私たちは非常に喜んだ。一戸建ちの家なら、堂々と塾の看板もかけられると考えた。
 F氏が器用で、大工でもないのに、私の住む部屋をそこに増築してくれた。材木をいっさいF氏が提供してくれたうえに、畳まで寄附してくれた。
 こうして、八月末には塾生はここに移り、そこで新しい生活が始まったのである。塾はU氏によって、藤園塾と名づけられ、氏が達筆をふるって看板をかかげた。藤園とは山口県の生んだ偉材、陸軍大将白川某氏の号ということであった。
 私としては、そこに柔剣道場と野菜園とを併設したいと考えた。その柔剣道場では心身を練り、知行一致の人間をつくりたかった。野菜園では労働の尊さを体得させるとともに、知識と体験の一致を感じとらせたいと思ったのである。しかし、それを是が非でも実現したいとまでは、わがままを言えなかった。

  転向しない思想を身につけるために
 塾生たちはこの新しい環境を心から喜び、その自覚と抱負はいよいよたかまっていくようにみえた。一戸建ちの家となったために、だれにも遠慮せずに、塾の設備をととのえることもできた。新聞の種類も徐々にふやし、雑誌数もどんどんふえて、ついには十数誌になっていた。書物も塾生の希望に即して可能なかぎり月々購入していった。その内容は一方にかたよることをさけ、プラグマチズムの本から実存主義、共産主義、仏教、キリスト教などあらゆる方面におよび、しかもそれらの思想を根元的、原理的に正確に理解できるように配慮していた。
 私は、やがて塾生たちがいずれかの思想によることになるとしても、それ以前に、いろいろな思想を正しく理解しておいてくれることを願った。そのうえで自分の個性にあった思想をえらぴ、弊害にあったときにも、自分の無知から生ずる転向がおこらないだけの基礎を確実に掴んでおいてほしいと願った。他の思想を批判するために書かれたような書物を読むだけで、自分自身の判断なしにその思想を云々し、それをのりこえたと盲信しているような者を、私は最もにがにがしく思っていた。だから自分の塾生は、真に思想に生きる、真に思想を理解できる人間に育てたいと思っていた。敵対する思想を理解して、それを許しながらも、自らの思想には厳しく、その思想を発展させずにはおかない態度をもつ人間を育てようとしていた。

  誓いの言葉
 私たちは毎食前に誓いの言葉を皆で口誦した。「すべての人を最大限、最高度に生かす思想を創造する人間になることを誓います」「そのような思想を創造するために、すべての思想、すべての事実を疑い、安住することのないことを誓います」「惰性的生活と、全身で疑わないような態度は、私たちの憎むべきものです」「いかなる権威にも全身で抵抗することを誓います」……この誓いはどんなに忙しくても、空腹のときでも、省略したことはなかった。
 昭和二十六年四月、それまでの塾生はそれぞれ高校二年生となり(その中の一人は転校していったが)、新たに高校一年生が六人入塾してきた。S学園生二名、T高校生四名で、それ以外からの入塾は相変らずいなかった。
 六名の新塾生を迎えた旧塾生のはりきりようは、まったくめざましかった。私は六名の新塾生のために、私の部屋をあけわたし、近くのT市立体育館の宿直室に移った。そのため、新塾生の指導は完全に旧塾生にまかせたので、新塾生がどんな指導をうけたか、くわしくは知らない。

  県下に知れわたった塾の名
 このころから、塾を訪れる人も急にふえてきた。なんといっても、T市で私が知りあった人びとが圧倒的に多かったが、遠く九州、関西からきた人もいた。いろいろな人が、いろいろな空気を運んできたのである。私はその人たちに、できるだけ来塾して、塾生をいろいろと刺激し、自覚を深めるように話しあってくれることを願った。
 私のつとめるS学園の教師仲間も、何人かは常に出入りしてくれた。その中の二人は旧制専門学校の卒業生であったが、逆に塾の熱気に影響されて、向上心を高め、新制大学の三年に編入学するために上京するということもあった。塾生たちの真剣な求道的な態度がよく、デモ・シカ教師に近かった二人を決起させたのである。
 同じころ、藤園塾主催の講演会を、中国新聞社のK論説委員を招いて開催した。テーマは「現代と教育」であった。そのK論説委員のすすめで、私は「塾教育と学校教育」と題する小論を書いた。そして二、三の新聞に塾の紹介記事と塾生全員の写真が掲載された。その記事は、「藤園塾は今の学校教育の限界に挑戦するもので、有志の人の援助で運営されているところに独自性がある」という内容のものであった。この記事のためもあって、今や塾のことは県下の心ある人には、まったく注目に価するものとなった。これがさらに塾生の自覚をたかめたことはいうまでもない。

  教育科学研究会を組織
 そのころから、私は塾生をかこむ教育環境をととのえるために、小学、中学、高校の教師を中心にした教育科学研究会を組織することに力をそそいだ。塾の教育は旧塾生にまかせ、彼らの自主的な学問に信頼していた。相互の切磋琢磨による独学で、塾の目標とする理想的人間像に一歩一歩近づくと確信できた。それに、塾長自身が自分たちの教育環境をととのえるために捨身の活動をしているということこそ、なによりも彼らへの間接的な教育になるとも考えた。教育科学研究会の設立は、塾による教師自身の自己改造の第一歩でもあり、さらに第二、第三の藤園塾を生むための布石でもあった。
 教育そのものを問い、現行の教育の不備を究明する教育科学研究会が軌道にのるとともに、私はさらに、働く者を中心にした社会科学研究会を組織した。そこでは社会科学がマルキシズムと同義に解釈されることなく、社会の前進のための知恵を自主的に深めつつ、実践し、あわせて教育環境の是正にとりくむことを会員に要請した。

  限りなく発展するかのごとく
 私にはいくつ身体があっても足りないありさまであった。だが塾教育の完成のためには、どの一つを欠いても十分ではないと考えていた。教育というものが、学校の中だけのことに終わり、政治、経済、社会との関連の中で追求されないことが、従来の教育の限界である。とくに、家庭との関連で追求しない教育など、まったくナンセンスに近い。あのペスタロッチすら「学内の教育には成功したが、その親たちの教育ができなかったために、結局その教育は失敗するしかなかった」といわれていた。
 今日では、教育は家庭のみでなく、政治、経済、社会との関連が、きわめて強い。それを考えようとしない教師、政治、経済、社会のことにまったくといっていいほど無関心な教師、学校以外の社会に通用しないような教師は、教育を云々する資格を欠いている。これが、私が社会科学研究会まで組織しなければならなかった理由であった。
 しかしながら、塾生を信じ、私自身が現代に生きる者にふさわしく生きることが間接的教育になると信じても、このために塾生への配慮が徐々に欠けてきたことは事実であった。柔剣道道場や野菜園を確保することよりも、教育科学研究会や社会科学研究会の結成維持に全力をそそいだことが、後に塾教育を失敗させた原因の一つになったことはたしかだろう。しかしそのころ私には、塾は限りなく発展していくかのようにみえていたのであった。

 

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2 塾生と松陰門下の人びと

  E君……久坂玄瑞
 塾生が五人から十人になり、もはやこれでいっぱいになって、そこからさらにふやせる見込みはなかった。柔剣道道場や野菜園の併設のことも後援会に依頼はしていたが、私の精力的な努力なしには、それが形となることはなかった。私はその努力を欠いたし、塾がそれ以上に量的に拡大することを、ほとんど欲しなかった。当時の私は塾教育の真価は質にあると思っていて、その実績さえあげればいいと思っていた。
 このような環境のなかで学ぶ塾生たちには、それぞれの資質があり、私も、それに即した期待をよせていたのであった。
 E君。彼はお寺の息子として育った。中学校の成績が優秀であったにもかかわらず、友だちがT高校にゆくのにも無関心であり、親のすすめにもかかわらず、断固として、私のつとめるS学園の高等部に進学した少年である。父親はなかばあきらめて、私にその身をゆだねたようなものであった。松下村塾の久坂玄瑞にも匹敵する男で、玄瑞のような人間にもなり得る可能性を秘めていた。
 彼は玄瑞のようによく学んだし、学んだものを頭の中にしまいこんでおくような男ではなく、確実に一つ一つ実践する男であった。私は彼の成長を楽しみにし、将来日本の思想界をリードしてくれる人間に成長することを望んでいた。真宗の寺の子として、今日の親鸞として、800年前の親鸞の思想を発展させて、親鸞のごとく生きてほしかった。親鸞が現代に生きたら、どう生きるかを徹底的に考えてほしかった。私の期待が強いだけに、彼に接する私の態度もきびしかったが、おそらく、彼は当時の日本の“オピニオン・リーダー”にみられるような、口舌の徒になることはあるまいと思った。
 そのころのオピニオン・リーダーの一人は清水幾太郎であったが、私は彼が戦争中どんな生活をしていたかを、当時清水と行をともにしていた陸軍の参謀Kから親しくきいていた。Kは常に「清水のような人間は、けっして本物になることはなく、必ず失敗しよう」と語っていた。戦争中の清水の生活がK氏の言う通りであったか、擬装であったかは知らない。しかし私はE君を、自分の力いっぱい生きて、自分の志のために死ぬ人間に育てたいと思った。性状もおとなしく、素直であったが、ひとたび決心すれば断固として行なう頼もしい少年であった。

  T君……高杉晋作
 E君とは対照的なのが、T君であり、この二人は文字通り、藤園塾の龍虎として、自他ともに認めていた男たちである。T君は高杉晋作になり得る可能性をもつ男で、ことに識見の秀でた男であり、自分の思うことを断行する意志の少年であった。さきに家出を敢行したのも彼である。父親の徹底したすすめで、T高校に進学したが、同時に塾にはいることを頑強に通した男である。父親もやむなく承諾したというところである。
 かつて、彼を教師のFは次のように語ったことがある。「彼にじっと見られると、私が言っていることが誤っているのではないかと、ドキッとする。彼の目は教師の私の心を射抜くような鋭さをたたえている」と。
 私が彼に、異常に期待したことはいうまでもない。その識見が確実な学問に支えられたとき、鬼に金棒だと思った。ただ彼には慢心する心が時々きざすかと思えば、逆にいわれのない自信喪失におちいることもある。その点でも、高杉晋作に非常に似ていた。

  藤園塾の龍虎
 私は、吉田松陰が久坂玄瑞と高杉晋作を競争させることによって、お互いが相手の長所を自分のものにして、大きく成長するように指導したのにならって、E君とT君が互いに競って大いに伸びるように指導した。とくにT君には、E君の学問に熱心な態度を好んで吸収し、そのことを軽視しないようになることを求めた。
 この二人が成長し、やがて日本の言論界、思想界を席巻するようになることを信じた。だからT君が日本共産党の大物F氏に手紙をだし、F氏がそれにこたえて「一生懸命にパンフレットを読み、すぐれた実践家、細胞になるように」求めた手紙をくれたとき、それを前にして、私は断固として、その不可を言った。「マルクスを思想的に正しく理解しようと思ったら、ヘーゲル、フォイエルバッハを正確に理解し、マルクスの著書を正確に読み、彼がその時代に新しい思想を創造しなくてはいられなかった真意を深く知ることが必要である。今の実践より、将来の実践のために、大いに勉強する必要がある」と説いた。
 しかし、私の言葉がどれだけ、T君の心を動かしたかは、あやしい。このことは、私に、後に雑誌『新しい風土』を創刊させ、人びとの事大主義的な態度と戦わせた遠因の一つとなった。
 名もなき私の言葉より、日本共産党の大物F氏の言葉を、T君が重くみたのも、無理はない。そこで私は、T君に私の大学の卒論を読ませて、彼の決意を促した。卒論は『釈迦、親鸞、道元、日蓮を通してみた現代の課題とその解決』というものであった。それは岡本重雄氏にも読んでもらい、それなりの評価を得たものであった。それをあえて読ませたということで、私がいかにT君を信頼し、その教育に心血をそそいでいたかがわかろう。

  S君……吉田栄太郎
 S君は吉田栄太郎になりうる可能性をもっていた。吉田栄太郎は久坂玄瑞、高杉晋作に先だって死んだために、大きく伸びるところまでいかなかったが、玄瑞と晋作が忠実に師の思想を継承し、実践したのに対して、師の思想をさらに発展させる可能性をもった珍しい存在であった。彼は自分を信じて、師と鋭く対立することを好み、それによって師の思想をのりこえたのである。その意味では、玄瑞、晋作以上の男ということができ、私が玄瑞や晋作以上に愛着をもつ男である。S君にはその可能性があると思った。
 彼は寡黙であり、なにを考えているのか、わからないこともしばしばあった。 一日、彼に吉田栄太郎の人柄と生涯をくわしく語り、吉田という男は尋常の人物でないと説き、S君に彼を目標にして、自分でも彼のことをくわしく研究してほしいと願った。
 S君は商人の息子であった。その父親は代表的明治人であり、明治人のよいところをすべてもっているように見え、骨っぽいところがあった。この親の子であるなら、師の思想をのりこえるという至難の仕事を甘受して、黙々と忍耐強く、はげむのではないかと思った。輪読会などで、目をつむり、黙して語らないS君の姿は、自分自身と語りあっている姿であり、非常に頼もしく感じたものである。

  もう一人のS君……入江九一
 もう一人のS君は、勉学しだいで入江九一のようになれる男だと思った。入江九一は晩学であった。学問を始めたのは、同塾の者よりかなりおそかったが、いちど学問にめざめてからは、その進歩もいちぢるしかった。吉田松陰が彼に大学を設立するように依頼した事実からも、彼が並々ならぬ人間であったことは明らかである。
 S君は不幸にして、小学校、中学校の間、師に恵まれずに、学問にめざめることもなく、それまでは学問では劣っており、強い劣等感に悩まされる一少年であった。しかし入江のように、いちど学問する喜びを知るならば、ぐんぐん伸びると考えられた。
 それに彼の長所といえば、性情が素直で、誠実であったことである。これだけでもE君の学問、T君の識見と併存する価値のあるものであった。だが、学校教師はその資質を非常に価値あるものと認めることができないために、いたずらに劣等感に悩む少年をつくりあげたのである。この資質こそ、いったん実社会にでると、すぐれて光彩を放つものなのである。あとは学問にめざめて、行動を伴う学問をするだけである。
 久坂玄瑞、高杉晋作、吉田栄太郎、入江九一の四人は松下村塾の四天王であるが、このE君、T君と二人のS君は、どうしても藤園塾の四天王になってもらわなくてはならない諸君であった。その自覚と自信と誇りに生きてほしいと思い、そのように指導した。

  K君……前原一誠
 高校一年生の終りに転校していったK君には、前原一誠のように、誠ひとすじに生きる人間になってほしかったし、そのようになれると思った、性格にどことなく、共通するところがあり、なんといっても、一途に生きるところが相通じていた。

  内・外塾生の熱気
 新たに入塾してきた六人の塾生には、それぞれ村塾の野村靖、品川弥二郎、増野徳民、岡部富太郎、馬島甫仙、尾寺新之丞になるように努力してほしいと思った。彼らが村塾の彼らといかに競争してもいいし、現在の自分とどんなに激しく争ってもよい。全塾生はよりよい社会、よりよい人間をつくる同志として、仲良くしてもらいたいと思った。
 外塾生の十数人は、一戸建ちの塾となってからは、週に一度やってきて、輪読会に参加し、書物を借りだして読むようになった。輪読会とならんで、そのときどきにきめたテーマをめぐって、夜おそくまで討論することも多く、その意気ごみは、すごいという一語につきた。

 

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3 真実に生きる者たち

  苦しみを背負う志を問う
 吉田松陰は、松下村塾に入塾したいという希望のある者には、まずはじめに、どんな志があるのかをたずねるのを常とした。志のある者の学は必ずものになるが、志のない者はいくら学問をしても、その得たものを実践しようと思わない。学者といわれるような人びとが多数おりながら、世の中が混乱しているのは、志のない者が学問して、少しも実践しようとせず、そういう人びとが学者として通用しているためであるというのが松陰の考えであった。だから高杉晋作、久坂玄瑞、吉田栄太郎たちの入塾の動機を開いたときには、彼はわが事のように喜び、彼らを同好の士として、信頼し、尊敬し、遇したのである。彼らを知人、友人に紹介するときは、自分だと思ってくれていいというまでに信じたのである。
 松浦松洞が吉田松陰に、詩文を習いたいという志を述べると、はじめ松陰は、私はその任でないとかたくことわったが、その後たびたびの依頼で、ついに、それでは一緒に学んでいこうと答えている。いかに松陰が軽々しく人の師にならなかったか、弟子の志をいかに重んじたかが、これらの事実でもわかる。
 藤園塾でも、志の有無を最も重視した。学校教育の盛んな時代に、好んで苦難を自分に課する。しかもその成果がどうなるかは不明である。それを知悉したうえで、私とともに、この実験に参加してみようというからには、それだけで志のある少年といわなくてはならない。その父親も、自分の子どもを塾にいれるということで、志のある者ということができる。私はこの志が確固としているかぎり、塾教育は成功するに違いないと思った。

  物質文明の落し穴から人間を救う
 塾生の彼らが現代に精いっぱい生きるということは、彼らのもっている社会的能力を最大限に伸ばして、物質の豊富化という名の西欧の近代主義に抗して、未だかつて史上に実現したことのない教育国家、道義国家を実現することである。
 第二次大戦直後に叫ばれた平和国家、道義国家は、単に戦争中の反動として叫ばれたにすぎなかった。したがってそういう国家の内容を究明し、いかにしてそれを建設するかという真剣な論議はなかった。その道を全存在を賭してさぐった人もほとんどいなかった。
 松陰が平和国家、道義国家の道こそが西欧の近代主義の陥った落し穴から人びとを救う道であると明言してから100年、今こそ、その道を歩みはじめるときであり、松下村塾の道統をつぐ藤園塾の塾生が声を大にして、全力で生きるときである。それが藤園塾生の大志であり、抱負となるべきものであった。

  雑誌『大地』の発行
 昭和二十六年には、塾生の大志を形にすべく、雑誌の発行が計画された。広く塾生の志をしらせ、同志をつのることが目的であった。雑誌の名前は一塾生の発案で『大地』とされた。虚構の論議でなく、大地から生まれたように、その人の全存在と一つになった真の論議で誌面をおおうというねらいであった。今日あるような、気のきいた論文、表現のみうまい論文、著者そのものの生とは無関係に、ただ発想だけがよい論文は最も軽蔑された。いわゆる気のきいた論文を載せる日本のジャーナリズムの否定という、悲壮な志に貫かれた雑誌であった。
 表紙は、第一号が現代の聖者といわれたシュバイツァの写真、第二号は『大地』の著者パール・バックの写真であった。私は第一号に「世界改造論」をのせ、第二号には「教育改造の道」をのせた。塾生はそれぞれ、自分の日記の一部をのせたり、塾生活を報告したり、夢や覚悟を語ったり、自分の研究の中間報告などをした。書評にも鋭いものがあった。雑誌に対する評価と期待の声は徐々に高まっていたが、印刷、製本を山口の刑務所に依頼するなどの経費節約にもかかわらず、経済的負担が意外に重く、やむなく二号でうちきらねばならなかった。

  塾生による講演会と成果
 しかし、この雑誌発行で、塾生の志気はいよいよ高まり、確固としたものに成長していった。吉田松陰の言った、志気のさかんでない者、勇気や忍耐心のない者は、いくら学力があっても、障害にぶつかったとき、その意見をまげるか放棄するという言葉をいましめとして、その胆力や忍耐力や意志力を養うことにつとめた。このために、たとえばS君は徐々にその劣等感を克服していったかのように見えたし、新塾生のF君のように、はじめはただ学校の成績がいいだけだった男が、そのことを塾生の間で最も馬鹿にされることによって徐々に変わっていったというような成果もあがったのである。
 塾生は雑誌をやめたあと、それに代わるものとして、T市の人びとを対象にした講演会を計画した。それは、彼らの塾生活の中間報告をするとともに、人びとの自覚をうながし、社会にめざめさせることもねらっていた。
 その講演会で、塾生は次々にたって自分の信ずるところを述べた。ある者は「日本のあるべき道」を、ある者は「マルキシズムと実存主義」を、さらにある者は「プラグマチズムについて」述べた。多数の参加者は、いまだ少年である者の堂々とした所論に圧倒され、感歎した。

  志は高く、行為はやさしく
 塾生のこのような大志にもかかわらず、常に私は満足したとはかぎらない。しばしば塾生の生活態度にあきたらないで、一時的に彼らに絶望することがあった。そんなときに常に私をはげまし、塾生をただ信じてあげることの必要を説いてくれたのは、F女史であった。至難のことであっても、そのように努力することで、自分自身も次第に成長するというのであった。
 思えば吉田松陰が、当時の藩校、寺小屋の群生する中で、真の教育とはこういうものであると信じて松下村塾の教育を行ない、しかもそれを村塾内だけにとどめず、一村の人びとを教育することによって将来必ず松下村の存在を日本中にひびかせ得ると確信していたように、私もまた、この藤園塾の教育をT市全域におよぼし、日本中に広げることを考えていたのであった。それが、塾生の大志に相応ずる私の大志であった。塾生の大志と私の大志は相通じていた。
 そのころの私の情熱と覚悟、全塾生の情熱と覚悟は、文字通り、あたるべからざる勢いであり、日本を呑むほどの気概に満ち満ちていた。だからとて、その大志は高く無鉄砲に見えても、単に大言壮語する少年たちではなく、いつも現実の自分を厳しくみつめて、それを着実に実行できる自分自身に育てようとしていたのである。塾生たちが脚下照顧を合言葉にして、非常におとなしく、女性のようにやさしかったということは、それを示している。

  行為によって真理を鋭く
「いつもおしゃべりしているものは、大事なときに唖のようになるものだ。いつも大気炎をあげている者は、いざというとき火のきえたようになるものだ。平時は用事の外は一言もいわない。一言するときは婦人のように静かに語る。これは気魄をつくるもとである。言葉や行動をつつしみ、低い声で語るぐらいでなくては、いざというときに大気魄はでてくるものではない」。松陰がこのように語っていたのを、塾生全員が真理なりと認めていたためである。真理はその人の全存在、全行動で示さなくては、ほんとうに説いたことにならないというのが、塾生の信念であった。真理をただ真理として言うだけでなく、しみじみと言い、行動する自分自身にすることが彼らのねらいであった。
「志が一度かたまれば、人に求めたり、世の中に願ったりすることもなく、断固として、一人でも楽しみながら実行する」と松陰はいった。私もそういう人間になりたかったし、塾生をもそういう人間に育てようとしていたのである。そういう人間が現在いく人いるかと考えるとき、いよいよ彼らの決意はたかまっていった。

 

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4 師とは何をするものか

  “参加”によって自覚がたかまる
 藤園塾では、はじめの一年間は、私が後援会費を徴収していた。それというのも、会費徴収を機に、私が後援会の人びとに直接会って政治論、教育論などの意見をたたかわせるとともに塾の現状を話し、人びとに少しでも変わってもらい、塾への関心をたかめてもらいたいためであった。
 しかし、二年目になると、私は塾生に後援会の会費を集めさせるようにした。私自身が教育科学研究会や社会科学研究会の結成、維持で忙しくなったこともあるが、私の真意は後援会の人びとに塾生たちをみてもらうことより、塾生たちに親しみをもってもらい、さらに自分たちが教育事業に参加しているということに誇りと自信をもってもらうことをねらっていた。あわせて、人びとが生活の中でつかんだ生きた知恵を、塾生たちに話してくれることをも願ったのである。
 塾生たちに会費を集めさせるようになってから、彼らの自覚は目にみえてたかまってきた。

  塾長としての生活にすべてをそそぐ
 そのころから、私は自分の身体が弱ってきたことを感じていた。塾の食事は、用意に苦労するためもあって、概して粗末なものであった。それでも塾生は毎週土曜、日曜と家に帰り、栄養を補給していたからよい。私はその二日間は、塾で一人きりになるため、かえって大変で、そのために栄養不良になったのだと思われる。
 塾生が家に帰った後の私一人の生活は、非常に不安であった。もともとあまり頑健でない私は、塾生の帰った後で、風邪にかかり、月曜日に塾生がもどって来るまでの二日間を苦しみぬいたことも一再ではなかった。医者を呼びにゆくこともできない私はただ不安であり、不気味であった。たまたま訪れた外塾生に救われた思いになったことも、何度かあった。
 一人住まいになったときをねらわれて、二度も泥棒にはいられ、金銭そのほか何もかももっていかれた経験もある。金銭的に余裕のない私は、そのために苦労した。一度は盗られた物が質屋にいれられているのがわかり、それを買いもどすために思わぬ苦労をした。すべての金銭を塾教育にそそいでいた当時とて、それはたいへんなことであった。しかし、すべての金銭、すべての生活をそそいでこそ塾教育はできるのだし、塾長として塾生の先頭にたって生き、行動できるのだという信念は、変わらなかった。

  教師はハダカで教育する
 今の日教組のように、教師の生活をまもるという名のもとに、教師が課外のサークル活動にたずさわる時間を少なくしようというのは、あまりにも教育を知らなすぎる。単に教科書的知識を付与することを教育と考えるのは納得できない。
 真の教育は、教師という“人間”と、生徒という“人間”の接触から生ずるものであり、人間と人間との出会いがもたらす感動から生まれるものである。教師がその生活、行動から生徒に感動を与えられないようなら、教師たる資格がない、今はあまりにも非教育的教師の、身分をまもることに切実である。教師の身分保障は教育のためであり、生活のためではない。それを理解していないところに、今の教師の底知れない堕落がある。
 教師にとっては、毎日の全生活が、教育活動なのである。その意味で、放課後、一人間にかえった教師は何をしてもいいではないか。それを非難することはない。にもかかわらず、教師であるというために、ごくありふれた行為までを教育的でないと非難する傾向がなお残っている。だから教師は欲求不満となり、二重人格的な人間が多くなるのである。
 私の軍隊生活の経験からいうと、聖職者といわれる教師、僧侶、警察官の三者ほど偽善的で二重人格の多い者はいなかった。聖職の名のもとに、あまりにも、あれをしてはいけない、これをしてはいけないという禁止事項が多すぎるのである。殺人と泥棒以外なら何をしてもよい。その他の事は何でも人をふとらせるものである。禁止事項にとりまかれて育ったものは、いろいろな経験を自分にプラスできないために、もろいのである。教師も、殺人と泥棒以外は堂々と何をしてもよいということを知るべきである。

  何が美しく何が醜いのか
 私の中学生当時は、書物は勿論、エロ本を読むなどもっての外という時代であった。だが私は『実話雑誌』の記事で自覚しはじめ、社会への目をさまされたのである。このために、私はエロ雑誌が塾生の目にふれるようにも心掛けた。当時の一般的な空気に圧されて、さすがに直接にそれらの難誌が目にふれるようにしむける勇気はなかったが、塾生の好奇心が働けば、いつでも目にはいる所においた。それによって、彼らが私のように社会にめざめるとともに、本当の世の中、秘密のない、人間の本当の姿をつかんで欲しいと思った。しかもそのことによって、自分をだめにすることなく、この世の中を浄化することにますます情熱を強めて欲しいと思ったのである。
 世の中で醜いとされていることのほとんどは、実は人間の本性をあらわしたものにすぎない。だいじなのは、醜いといわれることの実体を明らかにし、それに人間の誠を裏づけることである。本当に醜いのは、心にもないことを言い、人間の心をゆがめたもので、それ以外は何でも美しいのである。だから教師は全生活が真実であるならば、その生活のまま、その行動のままで生徒の規範になり得るのである。
 その意味では、私は無理なく、誇張なしに塾生たちの師となった。私の全生活を彼らの前にさらけだしたのである。そして同じ意味で私にとっては塾生は師であり、私は彼らから学んだのである。おそらく彼らが私から学んだより多くのものを、私は彼らから学んだであろう。

  「師も弟子もひとしく真理の弟子」
 親鸞や吉田松陰は、自分には一人の弟子もなく、私たちはみな同朋だと言ったが、私も塾生もともに、真理の弟子であり、その真理を求めつづける者同士でしかなかった。ただ言い得るとしたら、私は先輩であり、兄貴分にすぎなかった。
 師が弟子に学び、師も弟子もひとしく真理の弟子だという自覚をもたなくてはならないと広く言われだしたのは、さきの大学闘争のときからであるが、このごろはまた、師が師の位置にのほほんとおさまって、弟子に学ぼうとする態度をなくしている。古来よりすぐれた教師といわれたほどの人は、弟子を一人ももたないと言ったものである。この事実をよくよく考えるべきである。
 藤園塾の後援会の人びとがすべて、塾生の師となり、反対に塾生一人一人が後援会の人びとの師となったとき、はじめてT市に教育都市ができあがり、断々固として前進することになるのである。そうなることを、どんなに私が待望したことか。

 

<「人間変革の思想」目次 > 

 

   第6章 塾教育が目指すもの

1 行動のために行動に学ぶ

  “理性”を誤解している
 明治以後の日本の学校教育は、ヨーロッパ諸国の教育を表面だけ取りいれて普及したために、人間の全心身的、全生活的、全行動的教育をなおざりにして、単に観念的な知識を記憶することに重点をおいた。このために、体験を通して、行動を通して、感覚によって学ぶということがほとんどなくなった。いいかえれば、具体的現実から学びとって、具体的現実を変えてゆくということがまったくと言っていいほど、なくなったのである。
 元来、ヨーロッパでは、カントをはじめ多くの哲学者が、人間の認識は悟性と感性から生まれるといい、その悟性と感性が一致したものが理性であるといった。しかし、今日の日本人の多くは、理性すなわち悟性であると誤解している。そのために、悟性的認識だけを重視する風習をつくり、感性的認識をなおざりにするようになった。
 知識は感性的認識をへて、はじめて人間自身のものになり、行動する知識、行動せざるを得ない知識となる。行動しない知識は、ないに等しい。悟性的認識だけでは、単に頭の中に観念的知識をたくわえるだけで行動にでない。悟性的知識だけを重んずるようになったために、今日のように口舌の徒が多くなり、行動しない人びとが世の中に満ち、しかも彼らが知識人の名のもとに、世の中を指導する位置を与えられるようなことになったのである。世の中が少しも前進せず、ますます悪化しているのも、一つにはここからきている。

  日本的知識人を見かぎる動きが
 吉田松陰は、全心身的な知識、行動する知識、生活的な知識を、自分の全存在をかけて追求した。それによって、不十分な面をもつにせよ、日本唯一の革命ともいうべき明治維新をなしとげたのである。私は松陰たちを見なおす動きに積極的に力をかしている者であるが、最近のマスコミでは、それを「松陰ブーム」とか「一輝ブーム」とかの名でよんで、これを総称して「日本回帰」とよび、それが危険な風潮であるという意見である。もし本当に「松陰ブーム」とか「一輝ブーム」といわれるものが現出したのなら私としては喜ばしいが、実は必ずしもそうではない。まして「日本回帰」の名のもとに、他の現象と松陰や一輝をひとまとめにすることは、今日の松陰、一輝再評価の動きを正確に把握していない。とくに松陰を再評価しようという動きを一面的にみる誤謬をおかしている。
 マスコミの論調では「日本回帰」の動きは明治二、三十年代、昭和十年代、昭和二十年代、昭和四十年の四つの時期におきているという。それはたしかである。しかし、吉田松陰を見直そうという動きには、「日本回帰」をめざすものとそうでないものとがある。
 今日、松陰を見直すという動きは、明治以後の日本の知識人が陥っていた誤謬を正確にみつめようとする動きである。これまで転向を繰り返すしかなかった日本的知識人の姿に見切りをつけるところから起こったものである。

  逆境の中で発展する知識を
 吉田松陰の言ったように、己自身のものになった知識は全生活的であり、行動的であり、障害にぶつかり、弾圧される中でいよいよ鋭くなるものである。転向でなく、死か沈黙か、他の知恵によって、その障害、弾圧をのりこえるものである。松陰の知識とは、志にもとづいた知識であり、感性と悟性の両方で真に己自身のものにした知識であり、どんな逆境の中にあっても転向せず、ますます発展してゆく知識である。
 日本的情念といい、心情、信仰の名で言われる「日本回帰」と吉田松陰、北一輝の再評価を同一視すべきでない。「日本回帰」の一環としての松陰、一輝の再評価には私は反対する。松陰を再評価する私の態度は戦争直後に始まり、その二十数年間、一度もゆるぎがなかった。私は今のいわゆる知識人、口舌の徒になりさがっているほとんどの知識人、しかもいわゆる知識人仲間だけを対象にして発言し、庶民大衆にはほとんど無関係に存在し、お互いになれあっている知識人を改造するために、吉田松陰のことを言わなくてはならないと考えた。庶民大衆の中から、真に知識人だといわれるような人がでなくてはならないと考えた。知識人は、学校秀才のなれのはてであってはならないのである。

  あまりにも安直な“知識人”
 徹底的に、自分の体験、行動から学び、再び体験と行動に還元してゆくことのできる人、具体的現実から感性と悟性で学びとり、己自身の体得したものを再び具体的現実に還元して、現実の変革、向上につくすことができる人が真の知識人である。己自身の知識をもとにしてさらに創造的知識を生みだし、その知識で自分という全存在を支え得る者が、真の知識人である。
 今いわれる知識人には、学校を優秀な成績で卒業しさえすれば、あとは少し辛抱していれば、だれでもなり得るのである。だが真の知識人とは、現実の中から問題意識をつかみ、その解決のために己の全存在、全人生をかける者のことである。吉田松陰の言うごとく、教師になることが難かしいように、知識人になることも難かしいのである。にもかかわらず今日では、人びとはあまりにも安直に教師となり、知識人となっている。

  真の独学の実現を目指す
 私が藤園塾の塾生に求めたことは、吉田松陰のような知識人、革命児になることであった。全存在をあげて行動するような知識をもった人、全心身で体得した知識をもつ人、転向するどころか常に発展してやまないような知識をもつ人、思想の発展のためには常に相互に学びあうような人、書物からでなく、書物をなかだちとして、常に現実から学んでゆくような人になることであった。
 そのためには、塾生一人一人がじっくり、自分自身で学び、考え、生きて、学んだものを自分のものにしてゆく独学の姿勢こそたいせつであった。ふつう独学とは、学校にいけない者の学習方法だと思われているが、実は学校にゆく者にこそ独学の姿勢が必要なのである。学校にゆく者は、ともすれば教科書や教師におんぶして、そこに書いてあることや、いわれたことを記憶することで終りだと思いがちである。真の学問は、そこで終わるのでなく、そこから出発するものだということを学生、生徒のみでなく、教師もほとんど知らないのである。
 口舌の徒である知識人が多数生まれたのは、人びとに真の独学の姿勢がないためである。口舌の徒というべきは、知識人のみでなく、一般の人も同様なのである。学校教育制度の整備がかえってそういう人間を多数つくりだしたのである。その意味では、藤園塾は学校そのものへの挑戦であったということができる。
 行動、体験から学ばないで書物から学ぶ故に、その知識は行動、体験と無縁なのである。そこで読まれている書物も、行動、体験をふまえたものは少なく、多くの書物は、うまいことを言っただけのものにすぎない。行動、体験に学ぶ者の知識は、刻々に変化し向上するはずである。だから、その知識に支えられた次の行動は刻々に変化、向上するはずである。後からきたものは前人をのりこえられるはずである。にもかかわらず少しも変わらず、向上していないのが現状である。とくに知識人の場合、公的に発言していることと日常行なっていることがまったく異なる場合が多い。そうであることに何の反省もないのである。

  なぜ過去の人を評価するか
 北一輝の思想も、単に悟性的認識から生まれたものでなく、悟性と感性による統一的認識から生まれた全心身的思想であり、彼そのものであった。行動を離れて彼の思想や知識は存在しなかった。私はそのような北一輝の思想を明らかにしたい。さらにいえば、あの時代に生きた彼の思想でなく、時代の課題と全身で対決した彼の生そのものを評価したいのである。
 彼の思想の中で今日に通用するもの、いまだ実現されていない、有効性のあるものを評価するにしても、その主な目的は、彼の思想、行動、生そのものがどのようにして生まれたかを明らかにし、今日に生きる人びとが北の生き方、思想を自分のものにし、さらに現代に通用する思想、行動を生みだしてほしいからである。それ以外に歴史上の人物を再評価する意味はない。単なる過去の事実なり、人物のことについて物知りになることが目的ではない。
 私が北一輝を評価するのも、革命家として最高の生き方をしたからであり、それ以上の人物があまりにいないためである。今日からみれば、その思想や行動には、不十分な面が多々あるにしても、彼は彼の考えた革命のために自らの全存在を投入し、死んでいったのである。
 思想に己が全生命、全人生をかけられる人であってこそ思想家ともいえ、知識人ともいえるのであり、そのときはじめて、そこに思想があったと言い得るのである。今日のように、浮遊しているようなものは思想でもなんでもない。今日、思想でない思想、思想の仮面をかぶった思想のみが氾濫し、いたずらに人びとを迷わせ、苦しめているのである。

  松陰や一輝をのりこえるとき
 吉田松陰、北一輝を求める声は、本物の思想を求める人間の内なる声である。日本的情念といわず、単に人間の情念といい、感情や感覚や心情を意味するなら、むしろ情念を自分の中にとりこんで、知識がそれに支えられたもの、情念そのものの論理化というべきであり、逆に人間を情念から解放したり、情念を無視してはならないのである。
 明治以後の知識人が観念化し、行動しなくなり、さらに行動できなくなったのも、情念を軽視したためである。知識を単なる知識に終わらせず、行動する知識、実践する知識にするものこそ、この情念であり、感覚、感情、心情なのである。
 人は感覚といい、感情、心情というとき、ややもすると、その否定面、消極面、マイナス面だけを考えがちである。しかしそれらには肯定面、積極面、プラス面があるのである。これまでは前者のみを見ることに終わって、後者を生かすことにあまりにも怠惰であったのである。後者をみて、それを生かしたのが、吉田松陰であり、北一輝である。だから私は彼らを評価しようとするし、彼らこそ代表的知識人だとみるのである。戦前の彼らへの評価は、その重大な点がわかっていなかった。今はじめて彼らは正当に評価されようとしているのである。
 彼らに学び、彼らをのりこえることはたいへんである。しかし現代に生きようとすれば、どうしてもそれをやりぬかねばならない。そうしてはじめて歴史を発展させることができるのである。本当の発展を実現することができるのである。
 私は、藤園塾の中から育つ真の知識人が、将来、偽知識人を堂々と敵にまわして、それらを改造するという、あるいは不可能にも近い作業に大勇猛心をふるってほしいと思った。無理と知りつつも、なおそのように願わずにはいられなかった。

 

<「人間変革の思想」目次 > 

 

2 松下村塾の教育とは何か

  現代人の怠慢が松陰を生かしている
 藤園塾は、松下村塾を理想とし、その教育の伝統を今日に継承し、発展させんとした。松下村塾は、教育にたずさわる者にとっての原点である。それは明治の元勲を数多く養成したとか、明治維新の原動力のひとつになったとかいうことでなく、そこに教育のモデルがあるからである。明治の元勲も明治維新も、その教育の結果であり、教育はすべからく、村塾のようでなくてはならないのである。
 松下村塾は、何故に教育のモデルであり、すべての学校が目標としなくてはならないか。
 戦争中、吉田松陰が大いに宣伝され、全集をはじめとして、多くの書物が出て、当時のべストセラーになるほどのブームを起こした。しかしそれは、松陰がたまたま日本の中でのみ思想を発展させ、その結果、天皇思想をもつことになり、それに相反する幕藩体制を変革する力になったという歴史的事情を少しも配慮しない動きであった。形骸化した天皇思想を補強し、宣伝するために、松陰を利用したにすぎなかった。だからその毒にあてられた者は、今もアレルギー症状を起こしている。
 松陰の思想のある部分は、今日、厳密な検証をへて生きるし、通用する。しかしその大部分は、すでに死滅したものである。また死滅させるのが、後世の人のつとめである。それによって、歴史は真に発展するのである。だから彼の思想の一部分が生きているということは、後世の人間の怠慢をあらわしているのである。明治以後の教育は今日まで、ゆがみにゆがみ、そのため、彼の思想がそのまま今日に有効性をもちつづけ、生きているのである。

  “教育思想”でなく教育そのものに学ぶ
 私が吉田松陰の思想、というより、生そのものを再評価しようとするのは、時代の課題と真正面から取りくんだ彼の生き方、考え方が今日の時代に生きる私たちの大いなる参考となるからである。私たちが自分自身を形成し、彼のようになること、できればそのように生きた彼をのりこえる必要があるからである。私たちは松陰の思想や生に多くのものを学ぶ必要がある。それはあまりに、私たちが松陰に及ばない人間だからである。
 中でも、私たちが学び、考え、継承しなければならないのは、彼の教育そのものである。教育思想でなく、教育そのものである。
 一口に、松下村塾とはなんであろうか。それを言い得る者は少ない。これを私流にまとめてゆくと、次のようになろう。

  革命者が同志を育てる教育
 第一。人間は生まれながらにして、各人が尊厳をそなえている。にもかかわらず、その時々の権力者は、自分の利益のために人びとの尊厳を生かせないようにしている。多くの人びとも自分自身の尊厳に気づかず、抑圧を甘受している。松陰はそれに気づき、社会を変革して、四民平等とし、各人が自らの尊厳を知るような社会と人間をつくらなくてはならないと思った。彼が思想家となり、革命家となったのはその結果である。しかし思想家として革命家として行動すべき松陰は、牢獄の人となり、手足をもがれたと同じになってしまった。彼が行動できたのはほんの暫時で、その人生のほとんどは牢獄の人か、禁足をうけた身としてすごした。
 そこから彼の教育がはじまった。彼自身の手足となり、彼に代わって行動してくれる人間を育てようと決意したのである。革命家としての彼は、革命家を育てる革命的教育者になろうとしたのである。同志としての革命家を、仲間としての革命家を育てようとした。人間を変革して革命家に育てるという革命的事業は、その教育を通して一貫したものとなる。教育が革命でなくてはならないことを最も深く知っていたのは、彼である。
 革命家として、常に教え子の先頭にたち、革命的行動とはこういうものだと示し得たところに、彼の真骨頂がある。革命に参ずるものは、常に生命がけである。だから、その教育も生命がけである。自分の生命をかけた教育が、実らぬわけがない。自分の欲する革命を成功させるために、生命がけで同志をつくるか、同志を発見するしかない。しかも革命に参加することは、勝つか負けるしかなかった。今日のように、敗北しても刑務所にはいるだけというのとは異なる。敗北は死を意味していた。だからおのずと真剣にならざるを得ない。今日の革命家が真剣でないと言うのではない。真剣さが違うと言いたいだけである。
 同志としての革命家をつくるという点が、彼の教育の大前提である。今の教育にはこんな考えはほとんどない。権力に弾圧されて、そんなことは思いもよらないというのが教師の大方の意見である。だが今日と比較にならぬ状況の中で、松陰は敢行したのである。革命家として生きぬこうとしない教師なら、それはどうなるものでもない。彼らに求めるのが無理であり、革命家でない教師に革命家を育てることはできない。

  弟子を愛し、弟子を知りつくす教育
 第二。松陰はもともと兵学者であり、兵学者あがりの思想家であり、革命家である。本来思想家といい、革命家という者は、兵学者でなくてはならないと言ってもよい。兵学者でなくても、兵学的知識をもち、兵学的姿勢を持つ者でなくてはならない。
 その兵学者である松陰は、師として弟子に対するに、兵学者的な目をもっていたといえる。それは常に自分を知り、相手を知って戦うということである。この場合、弟子を正確に知るということは、弟子の現状をはじめとして、その志がいかなるものか、彼が欲しているものが何か、また彼には何が必要か、的確にとらえて、それらを満たしてやることである。自分を知るとは、自分が弟子に与えるものが何であるかを正確に知ることである。こういう人間には誤りがなく、常に活人剣をふるえることとなる。
 松陰は弟子に接するとき、敵に対するごとく正確無比であり、敵をたおさなくては自分がたおされるということを知りぬいて、真剣であった。ここにも彼の生命がけの姿勢があらわれていた。だから彼の教育は実効があらわれたのである。デモ・シカ教師など、彼には理解できなかった。彼は自分を愛すると同じように塾生を愛した。今の教師は自分を愛するために生徒をなるべく愛さないようにし、生徒の面倒を最小限にしかみないようにする。これでは教育の実はあがらない。私が松陰の態度を思わずにはいられないといっても、不思議ではないだろう。

  人間解放のための政治教育
 第三。松陰は塾生をすべて政治的、経済的、社会的存在と見なすと同時に、歴史的、精神的、個性的存在として、彼らの全性格、全能力を最高度に発展させようとした。塾生たちがよく明治維新の原動力となり得たのも、そのためである。とくに農民・商人出身の人間を政治的、精神的存在として育てたから、彼らが武士以上の人間として自覚をもったのである。
 どんな人間も等しく尊厳をそなえていると考える松陰には、下級武士、農民、工民、商人の尊厳を認めようとしない幕藩体制は真底から憎むべきものであり、変革しなければならないものであった。
 今日よく“一般市民”などという表現をつかって、社会に起こっていることと無関係な多くの人びとがいるかのごとく言う者がいるが、人間がすべて政治的、社会的存在であることを知れば、社会の動きと無関係の者はなく、いずれかの政治的立場にたたされていることを知るはずである。
 明治以後、学校で、本当の政治教育をした例はまったくなく、特定の思想なりイデオロギーを押しつける教育があっただけである。すべての人に必要な政治的意識の教育をしたことはまったくない。それに対して、松陰の教育は、すぐれた政治教育であったと言うことができる。
 政治的意識を与えようとするだけでも、人は大きくめざめるものであるし、政治的行動を起こすものである。どの政治的立場に立つかは各自の自由であるが、松陰流の教育をうけた者は、どの立場にたっても、その立場を発展させるものとして、その立場の亜流にはならないであろう。日本人のほとんどは、政治的活動をする者であっても、せいぜいいずれかの亜流にすぎない。真の政治教育の後に思想教育なり、イデオロギー教育をしていないためである。私が進んで松下村塾の教育をとりいれようとしたのは、無理もないことであろう。

  現実を直視する思想発展の教育
 第四。松陰は自ら革命家として、思想家として、死の一瞬まで時々刻々とその思想を発展させつづけた。けっして固定化し退化させる人ではなかった。だから塾生たちにも厳しく、そういう態度を求めた。それ故に彼は日本の思想と輸入された中国思想を学んだだけで、あれだけの独自の思想を創造できたのである。
 問題の多い現実を直視するなら、非常にすぐれた思想を創造することは可能である。人びとはあまりにも書物から学ぶことになれて、一番たいせつな、現実から学び、現実を師とすることができなくなった。書物だけから得た知識は現実から遊離してしまい、現実を変革するうえでは空論になるのである。今の知識人が空論家になっているのも、そのためである。

  行動するための感情教育
 第五。松陰は感情教育を教育の中心においた。だからとて知識教育を軽視したのではなく、それを重んじた。ただそれ以上に感情教育を重んじたのだ。それは感情の発露によって、知識と感情が結びついてはじめて、行動が生まれるということを知っていたからである。いくら知識があっても、志や胆力のないものは、意志や決断力、忍耐力のないものは、現実に作用し、働くことはないということを、痛いほどに知っていたからである。
 彼の時代にも学者といい、思想家といわれる者の多くは、口舌の徒であり、行動しようとしない人びとであった。その中で彼は、行動する知識人、人間そのものが思想であるような人を求めた。この感情教育は、明治以後の学校教育の中では、まったくと言ってよいほど無視されてきたのである。だから口舌の徒、節操のまったくない知識人を養成することになったのである。単なる観念的な物知りをつくることになったのである。このことを知れば、いよいよ松下村塾の教育を思わずにはいられないであろう。

  自分の足もとから変革をはじめる具体的教育
 第六。松陰は自分の中に流れているものを正確につかむために、まず自分自身が属している長州藩の歴史を学び、それが日本の歴史の中でどのように位置づけられるかを明瞭に学ばなくてはならないと言った。彼は自分自身をよく知り、下級武士は下級武士の立場から、農民は農民の立場から、医者は医者の立場から、あらゆる人が各自の立場から、全力をつくして生きることを主張した。そのために、自分の位置するところのものを歴史的につかむ必要があると言ったのである。
 今日でいえば、自分が属する労働組合の歴史を学び、企業の歴史を学び、地方の歴史を学び、さらに世界の歴史を学んだうえで、世界の方向の中に、労働組合、企業、地方の、あるべき姿をはっきりとつかまねばならないと言うのである。言いかえれば、いきなり日本の変革とか、世界の変革などという巨視的なことを考えず、各人が地方、労働組合、企業の変革という、微視的なものをはっきりつかんで、それらを確実に変革する行動をもたなくてはならないと言うのである。彼はあくまでも具体的であり、現実的であった。

  決して転向しないための教育
 第七。松陰は塾生を三人一組にして教育し、その三人の間でそれぞれ長所を学びあわせ、短所を補いあわせて、決して転向しない革命家を育てようとした。彼は、大きな壁をのりこえて、はじめてその思想は彼自身のものになり、自分のものだと言えるようになるのだと考えた。試練をへない思想など、思想とは言えない、まして彼の思想などとは言えないと思っていた。
 今は、あまりも易々として思想を口にし、青年をあまやかしすぎている。思想というものは、もっと厳しいものだということを教えるべきである。大人が思想に甘いから、青年が甘く考えるのも当然である。転向しない思想を自分のものにするために、松陰はいかに苦労したか。それを考えるとき、私は頭がさがるのである。

  自分の死をもって導いた教育
 第八。松陰は、自分自身が死ぬことによって、その教育を完成したのである。塾生たちは、権力の弾圧の激しさの前に、師の行動についてゆけないばかりか、師の行動をもっとゆるめてほしいと言った。そのとき彼は「この激しい弾圧は自分の招いたもので、私が行動をゆるめれば弾圧もゆるくなろう。行動を強めれば弾圧もまた強くなろう。しかし一度はこの弾圧の壁をのりこえなくてはならないのだ」と言って、行動をゆるめなかった。そして彼は死んだ。
 彼の死によって、それまで動揺していた塾生たちの志はかたまり、不動のものになったのである。文字通り、死によって、革命家の生き方を教えたのである。革命を言うことの厳しさを本当に彼は知っていた。彼は自分自身に革命家を求めたように、弟子たちにも革命家になることを求めたのである。
 人間が人間として時代に生きるということは、単に動物的存在として存在することでなく、時代を発展せしめるような生き方をすることである。それは革命家として、求道者として、社会と人間を前進させることであり、人間が動物と異なるゆえんである。人間が人間として生きるということは、厳しいことである。

  偏見によらず各人の持味を生かす教育
 第九。松陰は、人間が革命家、求道者になるためには、各人の何が長所であり、何が短所かということを常に見きわめていた。その判断にはいわゆる社会常識をとりいれなかった。だから、高杉晋作の頑固さを諸友があやぶみ、松陰に忠告するように求めたとき、その言葉をしりぞけ、頑固さこそ革命家になる重要な条件であると言ったのである。普通ならその頑固さを矯めようとするが、彼はそんなことをしなかった。ただ彼は高杉に、友だちのすぐれた意見だけは素直にききいれる度量を求め、頑固さをためることはないと言ったのである。

  今は非常のときであるという教育
 第十。松陰は、ちょっとの暇をおしんで勉学しなければならない、今はそれほどに非常のときであり、切実なときであると言うのを常とした。非常のときを見て、志の定まらないのは人でないとまで言いきった。だから、品川弥二郎が、正月といって塾をやすみ、父の社会的出世を祝って祝宴をはるといって塾をやすんだとき、そんなことにうつつをぬかしている暇はないはずだと叱咤し、塾生の一人が意味もなく常識的な挨拶をしようとするのをみて、そんなことは無用で、ただ勉学しろと言った。だが思想のゆきわたった日常的な生活は、大事にした。
 以上の十点は、私のみた松下村塾の教育の要約である。この他にもいろいろな特徴もあろうが、主なものは以上の諸点であろう。なんと、今の学校教育と異なっていることであるか。私が松下村塾の再現をねがって藤園塾を構想した意味が理解されるだろう。
 これに加えて、大学時代に親鸞、道元、日蓮の生き方を研究してきた私としては、そこから学んだものを藤園塾の教育に加えた。それは、親鸞が民衆の中にはいって、自分と民衆がともに高まることを切実に求めた果敢な実行力であり、道元が座禅の中で自分になりきり、それによって、自分はもちろん、人びとを生かしきろうとした生き方であり、日蓮がすべてのものを疑い、すべてのものを否定して、自分自身の信じ拠り所とするものを生命を賭して創造せずにはいられなかった精神である。ことに道元の座禅にとりくむ真剣な態度、座禅の中で数息観をへて無念無想になり、時には座禅の中で自分の本心をつかみ、それになりきる生活の仕方は、私が好んでとりいれたことである。要するに、親鸞たらんとし、道元たらんとし、日蓮たらんとしたのである。

 

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3 真の知識と人生観

  学者は専門を知るが学問を知らない
 ……学問の教師は学者であるとともに教師でなければならないのに、今日の多くの教師は学者であるが教師ではない。研究所の研究者は自己の好む問題や他から命ぜられた問題について既存の研究の水準を維持しなければならない。発展させればそれですむであろう。……しかし学者は研究者ではない。彼もまた研究者と同じく専門学科の特定の題目を研究せねばならないが、学者たるの特徴は学問の全体系における自己の専門の位置を明らかにし、隣接した専門との連関をあざやかに意識していることである。それをするには彼は学問の価値である真理を熟知して真理に至る道程の分化を理解しなければならない。
 かくて専門学科の統一とこの統一を通じて相互の有機的連関が把握される。さらに彼は学問を越えて人格の陶冶における学問の意義を知らねばならない。ところが、今日の学者の多くは専門学科を知るが、学問を知らない……
 ……資本主義という組織の中で、それと運用するために必要な部分的知識を要求され、自ら知らざるうちに知識的部分労働者に転落し、いつか大学は専門科学の研究と教育をする所となり、人間と社会の指導原理、いいかえれば世界観を追求する所であるという考え方をなくしてしまった……
 これは今から三十数年も前に河合栄治郎が、『学生に与う』の中で述べたことである。
 河合はさらに次のようにも言う。
 ……特殊科学が漫然として、併存するだけで、その間に有機的連関が欠如していることになり、民法を研究する者は民法のみ、経済学を研究する者は経済学しかしらない……
 ……大学教育とは一般教育と特殊的教育があって、前者と後者とは対等に並列するものでなく、またいずれを選びいずれを捨ててよいというものでもなく、一般的教育は必然不可欠の根本的条件であって、これなくしては特殊的教育も存在の意義がない。一般的教育とは人間自身を形成すること、また人間を人間自身たらしめるものであり、特殊的教育とは一般的教育を前提にして学問、道徳、芸術等を教育することをいい、特珠的教育と一般的教育とは枝葉と根本の関係にある……

  教養課目は学問の結実
 河合の言う一般的教育と特殊的教育は、後の大学制度の改革によって、教養課目と専門課目とよばれるようになったものにあたる。本来教養課目は、自然と人間と社会についての根本的、総合的理念を与えようとするもので、そのうえで専門課目によって専門知識を与えようとしたものであった。すなわち、教養課目とは、人間としての原点になるもの、学問の前提になるものを与えようとするもので、最も円熟した学者が担当すべき課目であった。学問の出発点であり、終点となることを教えるものであった。
 だが、大学当局も教授も、この関係を明らかにしないまま、ぜひ必要な課目であるという認識をもたずに、教養課目を一段低いものとみなし、教養課目を担当する教授を冷遇し、さらに学生もそれにならった。その結果、大学をまったくだめにし、学問そのものだけでなく、教授その人までだめにしてしまったのである。
 河合栄治郎のように、心の底から、今の学問の不十分さを痛感したものでなくては、どうにもならなかったのである。やむを得ずであろうとも、あの第二次大戦に協力し、真理を権力にゆだねた者たちには、どうすることもできなかった、というのが真相であろう。

  人生観をもたない専門馬鹿
 いずれにせよ、河合が人間と社会の指導原理と言い、世界観と言ったものは、すなわち自然と人間と社会についての総合的、全体的知識であり、世界観、人生観というものである。現代人はあまりにも、自然と人間と社会についての総合的、全体的知識を無視し、世界観、人生観なるものを軽視している。学者はあまりに専門馬鹿になりはて、マスコミもそれに流されている。
 河合よりもさらに古く、H・G・ウェルズは、今日のように細分化してしまった科学を統一して、本来の科学にたてなおさなければならないといった。しかし今日、たとえば医学は極度に細分化、専門化され、“手術は成功したが患者は死んだ”などということが、平気で言われるようになってしまったのである。
 数多くの公害も、結局は専門馬鹿たちが原因になっている。この重大な危機に直面しながら、なお専門家が水俣病を“民法”で裁判して、ケロッとしているのも、自然と人間と社会についての総合的、全体的知識を欠くためである。総合的、全体的視点を欠くためである。
 いかに、今の学校や大学が堕落しているか明らかであろう。極言すれば、今の学校や大学は大悪人を養成していると言ってもよい。学校秀才ほど大悪人であり、人非人である。それを知らずに、世の親たちは、子どもの尻をたたいて、有名校に入れ、学校秀才にしようとしているのである。今こそ、学校も大学も変わらなくてはならない。その知識観も教養課目観も変わらなくてはならない。

  あらゆる学問の到達点……人生論知
 人びとはともすれば、人生論知というとき、他の政治、経済、歴史、哲学、教育等よりも一段低いとみて、軽視する傾向がある、しかし人生論知こそ政治、経済、歴史、哲学、教育等を総合した行動知、実践知、統一知であり、政治、経済、歴史、哲学、教育等の到達したぎりぎりの知識である。
 また人びとは一般に宗教を政治、経済、歴史、哲学、教育、文学等と並列させているが、真の宗教とは政治、経済、歴史、哲学、教育、文学等を総合したものであり、それらが到達した最高のものであり、世界観と言い、人生観と言ってもよいものである。
 人生論と言い、宗教と言うものは、人間として生きてゆくための出発点であり、終点である。人は限りなく、人生論の深化を求めて、宗教そのものの前進を求めて、摸索していると言ってもよい。摸索のない宗教は迷信であり、漠索のない人生論はにせものである。
 政治学を中心に、他の専門科学を統一してもよいし、歴史学を中心して、他の専門科学を統一してもよいし、哲学を中心にして他の専門科学を統一してもよい。しかし今までのように、人文科学といい、社会科学といい、自然科学といって、その範囲内の統一をはかるだけではだめである。それらの縄ばりをとりはらって、人間と社会と自然を統一的、総合的にとらえなくてはならない。それは不可能に近いことかもしれないが、努力はつづけねばならない。そういう方向だけは向いていなければならない。
 個人でやるにせよ、共同研究でやるにせよ、それ以外に人類の危機を救う道はない。かつては、レオナルド・ダ・ヴィンチやゲーテのような統一的、総合的存在は、天才として仰ぎ見ればよかったが、今はそれが至上命令として、私たち人間の前に課せられてあるのである。
 個人でなそうとすれば、永遠に自己否定を繰り返すしかない。徹底して自己の立場を否定して、少しの自己肯定も許されまい。

  自分の課題をもち、自分の足で立つ
 もう一度、河合栄治郎の言葉を引こう。
 ……大学教師は、何よりも教育者でなければならない。彼は自ら悩み、苦しんで人生を生きるものでなければならない。彼は人生を生きるがために、学問と真理との価値を体験したものでなければならない。彼はかつての自らと同じく、人生の門出にたつ学生に同情と愛をいだくものでなくてはならない。しかしこの名に価する教師は今や何処に姿をかくしてしまったのであろうか。大学の教育と学問が危機にひんする時、晏如として拱手傍観している教師、学生の師表として、我が如くなれといい得る自信と誇示を失った教師は最低である……
 ……諸君はすべからく、大学制度の欠陥を補充すべきである。それが諸君のつとめである……
 ……現下の社会に要望せられるのは、人間と社会に対する指導原理を明確に把握することである。吾々は何であらねばならないか。これと当然に接続して、社会はいかにあらねばならないかという問題が諸君自身の焦眉の急を要する問題たることは、一度諸君が自らに問うたならば、云うをまたない。この混沌たる社会において旧来の因襲や伝統が権威に失ってあらゆる者が帰趨に迷う時、愚者でない限り、自己及び社会の動向を指導する原理を模索するのは当然である……
 ……諸君の不幸は、数限りなき受験生活の中で、知らざるうちに諸君の中に育てたものは、他人のあたえた課題をいかに答うべきかということのみを考えさせて、自己が自己に課題をあたえてこれをとくことの慣習を忘れさせたことである。諸君はおよそ自己の問題なるものをもたない。常に他人の投ずる問題を追って奔命につかれている。諸君は問題を自己によって解決しようとしない。他人の教えた解答を暗誦して手際よく自己の解答なるかの如くに装う戦術にのみなれてきた。かくて、諸君は一つも自己のために自己の足でたとうとせず、他人のために他人の足で歩もうとする……

  批評のための批評ということ
 当時に比して何倍もの受験生活の中にある今の若者は、当時と比較にならぬほど他人の知識の中に生きている。若者の知識が死んだ知識であるのは当然である。吉田松陰もすでに同じようなことを言っている。
 河合栄治郎はすでに、今日の大学闘争を予見していたようだし、大学闘争を積極的に評価していたようだ。今日の大学教師の中には大学闘争を肯定する者がいても、せいぜいそれに便乗するだけの者が多い。一体これまで大学教師として何を考えていたのか。
 私は第二次大戦後の大学の現状に不満のあまり、早くから大学闘争を夢見ていた。だがそのころ、だれ一人として応ずるものはなく、ただ私を狂人扱いにした。だから私は大学に絶望して、塾教育に活路を求めて全力投球した。塾の中で、河合栄治郎の言う知識を追求する青年をつくらんとしたのである。
 三木清も河合栄治郎と同じころ、「知性の改造」と題して次のように言っている。
 ……抽象化した知性は単に批評的となった。もとより、批評的であるということは知性に本質的な機能である。けれどもその批評が地盤を失うとき、批評はただ批評のための批評、批評の批評、批評一般となる。知性の名において行われるのは、かような批評一般である。そのとき人は合理性の名において抽象的な可能性のなかに彷徨する。かかる抽象的な可能性の立場においては、一切のものを批評することができる。これが今日わが国の多数のインテリゲンチャの陥っている精神的状況である。かような抽象化から脱却するためには、知性はまず歴史的にならなければならない……

  創造的知性には何が必要か

 ……今日要求される知性は歴史的知性でなければならない。しかるに歴史的知性とは行動的知性でなければならない。歴史といわるべきものは本来、行動的現実としての歴史である。知性の抽象化は行動から歴史から遊離することによって生ずる。批評的知性が創造的知性となるためには行動と結びつかねばならない。しかるに行動には具体的なもの、感情的なもの、パトス的なものが必要である。知性が創造的になるためには、パトスの中を潜ること、直観と結びつくこと、直観をふくむことが大切である……
 吉田松陰の言葉を聞くようである。藤園塾生たちがこのような知識を求め、このような知識を自分自身のものにするために、捨身の修業をしたことはいうまでもない。師から教えられたものを単に記憶するのでなく、自分自身で学び考え、自分のものにしようと努力したのである。独り学んだと言ってもよい。親鸞、道元、日蓮、吉田松陰から河合栄治郎、三木清にいたる系譜こそ、藤園塾生たちの志向した知識なのである。

 

<「人間変革の思想」目次 > 

 

4 生きる知識、死ぬ知識

  学問は観念によらず事実による
 現実から学ばなくてはならない。書物は現実から学ぶのを補助するものであるにすぎない。しかし、今の学校教育、大学教育は、それを転倒させているのである。
 矢内原忠雄も述べている。
 ……学問研究に際し、ある真理に近づけば必然に研究者の思想及び感情に迫って、実行的努力に向わしめる。これを如何にコントロールするかは人々の性格及び判断によるが、人々の心を動かして実行に傾むかしむるだけの力がないものは、真の学問でなく、また学問を研究するものといえない。学問は遊戯でもなく銭勘定でもないのだ。研究と信念と実行は本来きりはなすことの困難なもので、殊に在学中は研究、卒業後は実行という風に使いわけることは余程むつかしい。それ故純真で勤勉な若い学生が理想にもえて実行方面に携わることあるもむしろ自然の事柄である。社会は批評によって進歩するというが、実は批評的実行によって進むのだ。旧き革袋をいつ迄も維持せんとする程、社会に対する暴行はない……『学問は遊戯でない』
 ……学問の対象は世界であり、世界は具体性をもつ実在であるから、学問による世界の把握即ち真理の探求もまた、具体性をもつものでなければならない。観念的なる論理の遊戯は学問的でない。勿論、学問は論理的であることを必要とするが、学問の生命は観念の論理よりも寧ろ事実の論理にある。たとえ、観念上の論理に於いては、不備と矛盾を残していても、事実の論理を正しく把握するならば、それは正しき知識であり、かかる知識の基礎の上には何時かは観念上の論理の不備を克服して、正しき学問が樹立されるのである。これに反して、事実に対する具体的認識を誤る時はいかに観念的なる論理の体系が隙間なく網羅的でも、それは全体として虚偽の学問たらざるを得ない。……『学問は遊戯でない』

  社会と共に闘うのが学問
 ……学問の正当なる態度は戦闘的である。戦闘的とは遊戯的でないとの意味である。蓋し学問の対象は世界であり、世界は国家、社会、人間等の生きたる実在の基礎たる根本的実在であるから、学問は必然に人間の生活に関するものであり、従って、おのずから実践的たらざるを得ず、実践的たるとはおのずから戦闘的たることである。即ち学問は人間の住む現実の世界を如何に完成するかについての認識であり、この実践的目的を離れては学問はないのである。世界について、また世界における人間の価値と目的について人々のもつ認識を世界観という。この故に、学問は正しき世界観を得るための激しい肉迫であり、正しき世界を実現するための強烈なる戦闘である。現実の世界を完成せんとの倫理的目的なくしては、正しき学問はあり得ず、虚偽と誤謬に対する激しき戦闘を経ずしては正しき学問は発達しない……『学問的精神と大学の使命』
 そして彼は最後に言いきる。
 ……大学は社会の一部である。故に社会の波動は大学にも及び、大学は社会とともに苦悶し、社会とともに戦闘すべきである。大学が政治の奴隷とならずして、真理の権威を擁護すべしという立場は大学が社会の苦しみを外にして思想の遊戯にふけるということとは全く異なる。大学は社会の苦しみを最も深きところにおいて苦しみ、これに対して一時的なる間にあわせの解決でなく、永遠的意味を有する合理的解決の道をしめし、苦闘する社会の希望となり良心となるべきものである……『学問的精神と大学の使命』

  大学闘争が目指したもの
 矢内原忠雄は、知識とは、行動におもむくものであってはじめて真の知識であり、その知識は観念の論理でなくて、事実の論理だと言うのである。そして、それは社会の矛盾を照す光でなくてはならないと言うのである。彼はまさしく大学闘争を予見し、肯定したということができる。大学闘争は観念的知識をもてあそんでいる学者を否定して、矢内原の言うような、真の学問の府にしようという闘いであり、社会の光となる大学をつくろうとする闘いであった。
 少しも行動しようとする意欲のない学者たちのたむろしている場所から、行動に情熱をもつ学者のたむろする場所にしたいというのが、大学闘争をおしすすめた学生たちの願うところであった。それも人間の全生活において、真理を実現しようとする学者たちのたむろする所にしたいと考えたのである。そのとき、学生たちも、そのような学者のあとにつづく者となると考えたのである。
 吉田松陰が、みずから革命家として、革命家しての弟子を育てたように、真理の使徒としての教師だけが、真理の使徒としての弟子を育成できるのである。真理の使徒となり、革命家になるということは、単に観念的知識をおぼえるということでなく、感性、悟性の統一した、具体的知識を身につけることであり、全心身的に知識を把握することである。感情を論理化した知識と言ってもよい。

  なぜ三島由紀夫は死んだ
 今の学校教育、大学教育は、少しも全心身的把握の知識を求めず、感情の論理化をはかろうとしない。単に頭脳の訓練にしかならない観念的知識のみを問題としている。これでは、人間も社会も自然も、よくなるどころか、ますますわるくなるだけである。
 学者は、書物から得た知識を再び書物に返してゆこうとする。それ以外は考えようとしない。事実や現実から学んだ知識であれば、再び事実に、現実に、返そうとするにちがいないし、それによってはじめて、現実は前進し発展するはずである。行動を考えようとしない知識は、知識として虚偽である。その虚偽の知識が横行している。
 今日、批評家という者、評論家という者が、尊ばれているようで最も軽蔑されている。単に口先だけ上手な発言をして、少しも自己の責任において、自己の生活の中で、それを証明し実行しようとしないものが、蔑視されるのも無理はない。私自身、今はその批評家、評論家の中の一人だと人びとから見られているが、私は、そのような批評家、評論家になることを衷心いましめている。
 かつて三島由紀夫が批評家、評論家といわれる学者、知識人の多くを心の底から嫌悪したのも、自分では少しも実行しようとせず、自分をも社会をも少しも変えようとしない態度を嫌悪したのである。また人間と社会を変えるような意味の発言はしたとしても、自分は安全なところにいて、危険なものには少しも自分をさらさない態度を憎んだのである。だから彼は好んで、自分にとって、人びとにとって危険なものを書き、自己否定をしつづけたのである。安住の位置を求めず、常に変化しつづけたのである。しかも最後には、自分の身をも危険にさらすほどであったのである。その死は壮烈であり、その思想、知識は彼そのもの、行動そのものであったのである。

  “地方”でこそ本物を学べる
 人間として生きるためにぜひ知っていなくてはならないことを書いている人間と、人間として生きるうえにはどうでもよいようなものを書いている人間とを、弁別する能力をもたなくてはならない。その能力も、人間として不可欠の能力なのである。
 自分自身にも人びとにも変化をおこさせないようなものを書く学者、知識人、自分にも人びとにも危険でないようなものを書く学者、知識人は、本当の学者、知識人ではない。今は民衆そのものに向かって、発展のための渦となるようなものを書く学者、知識人はあまりに少ない。仲間うちともいうべき学者、知識人だけに向いて書き、彼らに歓迎されることで満足し喜んでいるのである。これでは、単なる職人と変わらない。職人の中にも歴史的人間、社会的人間、政治的人間として、精いっぱいに生きようとしている者がある。あまりにも、職人以下の学者、知識人が多い。
 人びとはともすると、地方は、東京や大阪などの“中央”に比して、刺激が少ないと言う。ほとんどの者がそう言い、そう思っている。それも自分の怠惰の理由にしている。それは、これまで書物から学び、他人から聞くことによって学ぶ習慣をつけ、それを学問だと思う傾向が一般化したためである。しかし、むしろ、地方の現実こそ、往々にして、東京や大阪などの“中央”よりもひどいし、矛盾も激しく、人間の自由も抑圧されている。この事実をみれば、地方の人びとは、“中央”の人びとよりも正しい学問ができるし、進んだ学問ができるはずである。地方の現実から学び、それを変えてゆくとき、はじめて日本の変革はできるのである。

  中国革命は延安の山中に発した
 東京や大阪などの“中央”から変えてゆこうとすることは、あたかも上からの革命のように、革命を“中央”から地方に押しつけることである。にもかかわらず、言葉のうえで上からの革命を不可とする者が、一様に、中央からの押しつけ革命をやろうとしているのが現実である。中国の革命が延安から始まったことを、もう一度よくよく考えるべきである。
 各地の学生が東大闘争を見習っている間は、大学闘争は本物ではない。だから、今まではあっけなく敗れたとも言える。行動的知性とは、政治的知性だけを意味せず、全生活的知性のことである。私たちの日常生活を含めて、政治生活、経済生活、社会生活のいっさいを変え、発展させてゆく知性である。庶民大衆のすべてが、ことごとく、このような知性をもつとき、世の中ははじめて変わる。私たちは、そうなるように努めねばならない。行動に踏みださないような知識は知識でないことを、確認しよう。クイズ的知識を憎み、軽蔑しよう。そこから真の知性人が誕生しはじめるのである。

 

<「人間変革の思想」目次 > 

 

   第7章 藤園塾の学習と生活

1 労働しながら学習する

  大知識は炊事、掃除から
 藤園塾では毎日の塾生たちの生活はご飯たきと掃除から始まった。食事の用意は二人ずつの当番で一日三食のおかずの準備をし、それを食べられるようにしなくてはならない。当時はすべて、薪をつかったが、はじめはうまく火が燃えないこともあり、一時間も二時間も悪戦苦闘した。だがそのうちに一時間たらずで、すべての用意ができるまでに熟練した。主婦でさえ、毎日のおかずを考えるのが一番気が重いという。たとい交替とはいえ、それを毎日考えるということはたいへんであったろう。
 朝は、朝食と、皆のひるの弁当を用意しなくてはならなかった。夕方には、他の者があるいは雑談し、あるいは勉強しているあいだに、当番は買物にゆき、夕飯の用意をしなくてはならなかった。それが雨の日も風の日も雪の日も嵐の日も、一日も欠かせない日課であった。
 朝、食事当番でない者は、塾の内外をきれいに掃除する。家にいれば家事など何もしない塾生たちが、朝早くおきて、その仕事に従事するのである。それがすんだら、軽い体操のあと、各自、朝の自習を始め、朝食の用意ができるのを待つ。
 このような仕事を塾生に課したのは、どんな日常的なこと、些事でもそれを重んじ、尊重し、ゆるがせにしない態度を養成することを考えたからである。とくに、日常的生活のすみずみにまで、頭脳が働き、知識が作用するように求めたのである。最近、ともすれば日常の生活を軽視し、観念的知識の修得のみを重んずる傾向があるが、私は日常の生活を重んじ、そのすみずみにまで知識が働くとき、はじめて、国家、社会を動かすような大知識も生まれてくるし、はじめて人びとを本当にだいじにする人物になれると信じたからである。

  労働は具体的知識を育てる
 さらに言えば(これが最もだいじなことなのだが)どのような食事をどのようにとるかは、人間の活力の源にかかわることであり、私たちが重視するところの実践も、知識修得も、その活力いかんに深く影響されることから、ことのほかだいじに考えたのである。そのようにだいじなことは他人にまかせず、自分で管理する態度を身につけさせたいと考えたのである。
 食時の用意をしたり、掃除をすることは、すなわち労働することでもある。現在の中国では、すべての人に労働させる。労働するということは、労働の尊さを自得させるだけでなく、肉体を動かすことによって、ともすれば観念的、抽象的になりがちな知識を、主体的、具体的知識にする作用をもっているのである。だから、中国では労働を尊び、皆にさせるのである。
 労働するということは、一種の実践であり、行動である。しかも労働する中で自発性、主体性を自分で感得することにもなるのである。自発性、主体性を感得することはむつかしい。いちど感得した者も、時がたつと忘れてしまう。それを、忘れないで、常時感得しつづけるために、食事の用意も、掃除もさせたのである。
 塾生たちがこの労働をいちばん苦痛に感じたのは学校の試験の時期であったらしく、そのうち、試験のある者は、ほかの者に臨時に代わってもらう方法を発見した。だが全員が試験の時はそれもできない。そういうぎりぎりの生活の中で、日常の生活の価値を体得したのである。

  脚下照顧
 塾が発足した当初、私は塾に農場と柔剣道道場を併設したいと考えた。これによって心身の統一した人間をつくり、すぐれた識見を実行する強健な身体をつくりたいと思ったのである。すぐれて強い身体を持つ者は、意欲的であり、何かをせずにはいられないものである。自分のものにした識見を実現せずにはいられない人間をつくるというのが、私の目標であった。
(しかしご飯たきと掃除を実行する生活の中で、このような人間をつくり得ると考えた私の怠惰によって、農場と柔剣道道場の併設は実現しなかった。)
 いずれにせよ、私は塾生たちに向かって脚下照顧ということをくどいように言い、浮わついた学校教育を全否定してみせたのである。学校でいう秀才は、実は秀才でもなんでもなく、凡俗の人たちよりもよほど劣っていると言いきったのである。そして、誤ってもそのような人間になろうとは考えないように求め、そのような気持がおこるのは、今の社会の常識に敗れ、それに屈したも同然で、恥と思うべきであると強調したのである。
 私の生ある限り、社会と戦い、新しい人間と新しい社会をつくるために精いっぱいがんばるから、諸君もどこまでも私の後からついてきてほしいと要望した。そのときの私の決意と情熱は、吉田松陰にも劣らないという思いがあった。この教育をつづける限り、塾生たちは一人一人が行動する人間となり、塾生そのものが知識となり、行動するだろうと確信した。塾生一人一人が親鸞となり、道元となり、日蓮となり、吉田松陰となり、久坂玄瑞となり、高杉晋作になると考えたとき、私の胸はいかにおののいたことであろう。
 私にとっては、私が存在するということが藤園塾であり、私が生きるということが藤園塾であり、私が行動するということが藤園塾であった。文字通り、私は藤園塾と一体であり、別のものではなかった。それほどに、私の若き日の全情熱をそそぎこんだのが藤園塾であった。

 

<「人間変革の思想」目次 >

 

2 思想を創る読書と講演

  ヨーロッパ諸国は先進国か
 輪読会と講演会は塾の主要行事であった。輪読会のテキストには、岡本重雄をはじめとして、新島繁、竹内好、山田坂仁などの著者を好んでつかった。彼らの問題意識をつかみ、塾生自身のものにすることを特にねらった。
 講演会では、私は時には、ヨーロッパ諸国が帝国主義的侵略の手をアジア諸国にのばし、日本もその標的となっていることを知った吉田松陰が、日本およぴアジア諸国の生き得る道は道義国家、平和国家のほかにないといったことなどを話した。
 松陰は「理由なく道義国家、平和国家を攻略するような国家の為政者は、きまって邪悪な者で、その国内でも善政をしていないに違いない」と言うのである。だから侵略をうけたときは「その国の跳梁にまかせ、国民の被害は最小限にとどめ、決して手向かいをしない。もし非常に乱暴するときには、断乎としてその非を責める」と言うのである。そして、その間に「その国の正義の士と連絡協同して、邪悪な為政者をたおせばよい。しかし、このことは大決断の人でなくては到底できず、はじめそのような政策をとり、途中で変えるようなら、害はもっとひどいものとなる」と言っているのである。
 松陰はこれによって、ヨーロッパ諸国が産業国家への道をとり、その帰結として、資本主義的政策、帝国主義的政策の道を歩んでいるのをあらためさせる必要があると考えたのである。そしてヨーロッパ諸国を先進国とみなし、アジア諸国を後進国とみる考え方に反対したのである。道義国家、平和国家をめざす国こそ先進国であり、文明国だと言いきったのである。

  その松陰は100年過去の人
 自らそのような評価をくだしたヨーロッパ諸国にわたり、学びたいと松陰が思ったのは、ヨーロッパ諸国には産業国家としては進んでいるという一面があったからであり、決してヨーロッパ諸国の歩む道を学ぼうとしたのではなかった。その意味で、明治の元勲となり、日本の歩む道を西欧化した村塾の弟子たちは、松陰の理想を矮小化した者といえる。師の思想を発展的にとらえることの厳しさを知らされるのである。
 私は、このように語りながら、帝国主義的侵略をなしつづける国を断固として否定し、その道を変えようとした松陰の大識見を、いまさらのように、塾生とともにかみしめるのであった。しかも、その松陰は百年前の人である。現代に生きる私たちは、その思想を発展させて、現代の課題にこたえ得る思想にしなくてはならない。それが塾生諸君と私の仕事であった。私の言葉に耳を傾けたときの塾生たちの輝いた目を、今も忘れない。

  マルクスは仏法をのりこえていない
 エンゲルスの『フォイエルバッハ論』をよみながら話したこともある。そこでは、エンゲルスの中には、哲学を中心にして、政治、経済、社会、教育学等の諸科学が総合され、統一されていることを述べて、私たちは今日に生きるものとして、諸科学を大胆に積極的に総合統一し、今日の世界観、人生観をつくりだす任務があると説いた。さらにエンゲルスが『フォイエルバッハ論』で言っている観念論と唯物論を正確に把握し、俗に使われている観念論や唯物論という言葉の内容を拒否するようにも強調した。
 しかし私の願うところは、塾生たちがマルクスやエンゲルスの亜流の徒にならず、あくまで百年前に生きたマルクス、エンゲルスのように、現代の課題と向きあって、その思想的解決にとりくむ者になってほしいということであった。
 マルクス、エンゲルスの思想には、そのまま現代に生き、通用する部分ももちろんある。だが、たとえばマルクス、エンゲルスは、キリスト教を研究し、キリスト教をのりこえ、発展的に生かそうとはしたが、仏教については無知であったというような面もある。にもかかわらず、キリスト教をもって宗教一般であるかのごとくみなし、キリスト教をのりこえたと同時に、マルクス、エンゲルスが仏法をものりこえたなどとみなすのはあやまりである。だいいち、俗に仏法は唯心論であるかのようにいわれているが、マルクス、エンゲルスのいう唯心論とは同じでないことも、よくよく知ることがたいせつである。私はこのようなことも、熱心に語りつづけた。

  思想の原点をうけつぐ
 さらにある時は、そのような仏法に対する、人びとの無理解と、仏法界の誤解を前提にして、仏法そのものの研究をなすことが必要であると断言した。とくに、その場合は、釈迦や親鸞や日蓮が既成の思想をすべて否定し、自分で考え、たしかめたものだけをもとにして、新しい思想としての仏法をつくりださずにはいられなかった態度を今日に生かすことがたいせつで、釈迦、親鸞、日蓮がいかにすぐれた人であろうとも、その存在に感謝しつつ、その存在をのりこえようとしないかぎり、仏法は時代とともに発展するものではない、と強調した。
 キリスト教がまがりなりにも発展してきたのは、キリスト教の原点にたちかえって、それを発展させる者がいたためである。仏法の場合、釈迦を絶対化し、各宗祖を神秘化し、大胆にそれらをのりこえようと思想する人が少なかったために、矯小化するしかなかったのである。釈迦が生きたように生きることが、親鸞や日蓮が生きたように生きることが、たいせつなのである。思想が重要なのでなくて、その生き方が重要なのである。
 人はともすると、その思想をあきらかにすることに汲々として、その思想を生みだした生き方そのものを明らかにすることに熱心ではない。思想は新しい思想を創造するためにこそ必要なのであって、それ以上ではないのである。

  第二の宗教改革を!
 私は仏法史を研究した結果、今日、親鸞、日蓮等が宗教改革をなしたのにならって、第二の宗教改革が必要なことを切実に感じてそのことを語った。
 今日、宗教なしで、宗教とは無縁に生きている者が多い。宗教をもたないことを誇りにしている者さえいる。しかし、宗教とは本来、世界観、人生観ともいえるもので、政治、経済、教育、歴史等を総合し統一した信念といってもよいものなのである。
 人はだれでも、世界観といい、人生観といい、信念なしには何も行動できないし、一日も生きることはできない。だからこそ、今日、すべての人に必要で不可欠な世界観、人生観としての宗教をつくらなければならないのである。その点では、マルキシズムは、内にキリスト教をのみこんだ宗教であり、世界観、人生観ともいえるのである。
 あらためて庶民大衆のことを考えて、庶民大衆が幸福になる道を考えなおすためにも、第二の宗教改革が必要なのである。今の宗教は、一部の庶民大衆のことだけを考えており、そのため一部の庶民大衆に独占されている。すべての庶民大衆を包含できるように、再検討が必要なのである。同じことが、キリスト教、回教、マルキシズム、実存主義、プラグマチズムなどについても言えよう。

  みずから“狂”を名のろう
 かつて吉田松陰が「わが松下村より天下に名がとどくであろう」と言ったとき、人びとがその大言を笑ったように、今この夢のような発言をする私をみて、人びとは狂人とみなすであろう。だが進んで狂の字をその名につけた松下村塾の塾生もある。私たちも進んで狂の仲間入りをしようではないか……このような話をするときの私は、全情熱がこの一言の中に集中したように、全身でしゃべり、語るのが常であった。言葉そのものが私自身であり、私の全存在を塾生たちにぶっつけた。塾生一人一人がそのようになることを願い、それを求めて深く決意するように欲した。
 かつて私が塾生たちと同じ年齢のころ、藤田東湖の『弘道館記述義』、会沢正志斉の『新論』、頼山陽の『日本政記』を熟読することによって、志をかためたことも、高い山にのぼって、できるかぎり大きい声をだしてそれらの本を読んだことも話した。一字一句、自分の全身にやきつけるように読んで、非常に感動したことも話した。
 塾生たちを一人ずつ、変えずにはおかないというのが、当時の私の覚悟であった。事実、塾生一人一人がその存在をゆさぶられ、変わってゆくようにみえた。教育は人なり、信念なりということをしみじみと感じたのが、そのころの私であった。

 

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3 志をかためる旅

  教育は施設ではない
 塾生たちは年一回、吉田松陰の命日である十月十七日に近い土曜日、日曜日を利用して、松下村塾への旅をし、松陰やその弟子たちのことをしのび、自分たちの志をかためることにしていた。土曜日、各自の学校からもどると、全員で山口駅にゆき、そこから、バスで萩にゆくのであった。塾生たちだけの旅であったし、その晩はE君の知りあいのお寺に一泊させてもらうから、塾生たちはのびのびと旅行を楽しんだ。その日は萩の地にいるというだけで、心踊る気持であったらしい。
 翌日曜日は朝食をすますと、さっそく松下村塾にいたり、藤園塾とほとんど変わらない松下村塾の狭さに一驚しながら、教育とは建物でなく、人と人との出会いであることをあらためてしっかりと胸にきざみこむ。そのあと、松陰が幽閉されていた一室を見、ついで松陰が米をつきながら弟子たちを教育したという石臼を見る。働くことによって、知識を自分のものとし、労働即行動にもっていった村塾教育を思い、藤園塾の教育の原点がここにあったことを知る。
 それから、松浦松洞の屋敷跡を訪ね、松下村塾の塾生たちの中で、画家松洞が第一番めの殉難者であったことを思い、一画家から革命家に成長するような教育をうけた彼を心からなつかしむ。
 次は吉田栄太郎の家をおとずれる。松陰の意を体して、村のチンピラ三人を村塾に伴ったのも彼だし、松陰にならって、“部落民”を武士、町人、農民と同じにみて、彼らに内在する革命力とエネルギーをもとに、彼らを組織しようとしたのも彼である。彼は若くして死んだが、もし生きていたなら、松陰の思想をさらに時代とともに発展させたかもしれない。そう思ったとき、塾生たちのほほにおのずと涙がおちた。師の指導をうけつつも、頑固に自己に固執し、自分が納得するまで、師の言葉であっても頑強に拒否して、自分の心に忠実に生きた男、それ故に一度そうだと思いこむと断々固として実践した男であった。

  松陰をゆがめた伊藤博文
 その近くに、明治の元勲、伊藤博文の生家があり、今なお人が住んでいる。ともすれば、博文を松陰の弟子のように思っている者も多いが、博文自身はそれを否定している。また事実として、博文は四、五度村塾を訪れたにすぎない。松陰も周旋家としての博文は非常に買っていたが、識見、力量については、吉田栄太郎などとは比較にならないと思っていた。博文は、松陰の弟子の中で、胆力だけは人にすぐれていたと言われる山県有朋とともに、松陰の思想を倭小化した両巨頭である。その手助けをしたのが、品川弥二郎であり、野村靖である。その博文の生家が、いかにも村塾と関係のあるかのように保存されている。それこそ、真理の使徒としての吉田松陰にとっては、世俗的出世などは無関係であったことをあらためて私たちに教える反面教師のようなものだ。
 そこから、しばらくゆくと、松陰の叔父であり、先生でもあった玉木文之進の家がある。萩の乱の後、切腹した男である。このことから、松陰は、もし存命していたら、この乱にくみし、反革命的分子になったかもしれないという歴史学者がいる。しかし、松陰は生前とっくに、師の文之進をのりこえ、日々思想的発展をなす人に成長していた。かりに存命していて、明治政府の西欧化、帝国主義化に反対したとしても、それはあくまで永久革命を求める者として、そうしたはずである。反革命など、まったく彼の思想の発展をみない者の発言といえよう。
 松陰の発展のためには、文之進の存在は必要であった。それだけに、彼の存在は、精進と求道の精神を失った者は時代にとり残されるという反省を、塾生たちに感じさせるのであった。

  松陰の家、晋作の家
 さらに山の方にのぼってゆくと、いよいよ松陰の生家跡がある団子岩につく。ここからの眺望はひろく、萩の街並みをこえて、日本海まで達する。その家屋跡は半農半士の家にふさわしく、いかにも狭い。しかしここで松陰は日日萩城の天守閣を見下しながら育ったのである。そして萩城主よりも歴史的巨人となり、今なお年々百数十万人を萩の地に招きよせているのである。
 松陰はおそらく、ここで、人間はだれしも尊いもの、それなのに城主の子として生まれた者は城主になり、半農半士の子として生まれた者は半農半士になるしかないという差別社会は不当であると思う心をめばえさせたのであろう。後年、革命家として、差別社会を憎悪する人間に成長した、その第一歩を歩みだしたのが、この地だと思うと、塾生たちの心はおのずと高鳴った。そばに松陰の墓があり、それをまもるように、玄瑞、晋作などの墓がある。
 一転して市内にはいると、高杉晋作の生家であり、その後育った家が残っている。明治以後に建て直しをしたというが、主なものはそれ以前のままである。吉田松陰は「晋作は夜になって村塾にやってくる」といったが、彼は父親の寝しずまるのをまって、村塾に通ったという。だがどうみても、父親がその物音に気づかないほど大きな家ではない。おそらく、村塾に通うことを名目のうえでは禁止しながら、暗黙のうちには許していたのであろう。咎人である松陰の塾に通うことは、公には許せなかったのであろう。このような父親の理解があったればこそ、晋作の異常なほどの成長があり、維新回天の大事業もできたのである。

  野山獄と岩倉獄
 その近くに、久坂玄瑞の屋敷跡がある。玄瑞は両親を早く失った後、傑物の誉高い兄玄機の指導をうけていたが、その兄も過労がもとで早逝した。そのために、玄瑞は十歳余で孤児となった。松陰の名を知ったのは、彼の九州旅行中であり、それ以後、松陰との激しい手続のやりとりをへて弟子になったもので、松陰の妹を嫁にもらうほど、信頼をうけていた男である。その信頼にこたえるように、すばらしい生を送ったことはいうまでもない。
 その他に、前原一誠の旧宅、品川弥二郎の誕生地、山県有朋の誕生地から、萩城跡をみてまわる。木戸孝允の旧宅、周布政之助の旧宅地をみたとき、おのずと彼らと吉田松陰や塾生たちとの関係が思いだされた。
 野山獄と岩倉獄は、せまい道路を間に、むかいあうように跡を残している。岩倉獄は、松陰とともに海外渡航の夢を実現しようとした金子重輔が、恨みをいだいたまま獄死した所であり、野山獄は、松陰が革命的教育家に変貌した所として、とくに感慨深かった。
 吉田松陰が野山獄に入牢したとき、そこには、すでに十一人が入牢していた。そのほとんどはこれというはっきりした罪もないままに入牢させられたもので、後に松陰の片腕となり、村塾の師となった富永有隣のごとく、単に親戚から忌避されて入牢したも同然などという者が多かった。しかもそのときすでに在獄四十九年という者を筆頭に、平均して十年というありさまであった。だから、彼らは自暴自棄となり、絶望と孤独のあまり酒を飲み、酒の力をかりて怒り、喧嘩することでわずかに自分の生きていることを確認して、自分の心を抑えているのであった。

  罪人らしい行為に人間らしい心をみる
 松陰はこの人たちを教育して、人間らしい心をとりかえさせようと決心したのである。それというのも、「自分は教育されたことによってここまで来たのだ。だからたといこのまま、牢獄の人として終わるとしても、けっして彼らのようにはならないであろう」という自信があったためである。しかも自暴自棄にみえる彼らの中に、狂愚に似て狂愚でない、人間らしいものが脈々と流れていることを知ったためである。酒をのみ、酒の力をかりて喧嘩をし、自己の存在をたしかめようとする心こそ、人間らしい心であると信じたのである。救いをもとめる、声にならない声を聞いたとき、松陰は同じ罪人の一人として、この難事業に敢然ととりくんでみようと決心したのである。
 絶望しかないような人たち、再び太陽をみることを許されていないような人たちに、希望の灯を点じ、道を求める喜びを感得させることは、普通の教師にはできない。しかし、兵学者であり、革命家でもあった松陰は、兵学者の態度をもって、人の心に革命をおこさんとしたのである。兵学者の態度とは、相手を的確に知りぬき、勝つか敗けるかのぎりぎりの覚悟をもって、相手に対する態度のことである。いいかえれば、生命がけで教育にとりくむことであり、教育とは人間を革命することだと思いこむことであった。

  獄中の人間革命
 まず、松陰は富永有隣に目をつけて、その心をゆさぶる挙にでた。彼は有隣に書く。終身刑をいいわたされた者にではなく、あたかも同志の人に対するように語りかける。
「靖献遺言の一書は読む者を感奮興起させ、道理を求める心をおこさせて、僕は思わず傍に人のいるのを忘れて、声をあげて読むほどに興奮し、感動した。この本を試みに貴方に送る。きっと貴方も私のように感動するに違いない。日頃、貴方と言葉をかわすことがあっても、まだ胸の中を披瀝して心を通いあわせたことはない。しかし幸いに、この書によって貴方の意見をきくことができたら、僕にとってまことに喜びである」
 このとき、有隣は三十六歳、在獄四年の猛者であった。彼の返事があったかどうかは明らかでないが、おそらく、なしのつぶてであったろう。しかし、松陰は反応のあるまで、彼の心を叩きつづける。つづいて、有隣に送った手紙は、彼がなぜ獄中の人となったかという面に鋭くきりこんでいった。
「貴方は見識があるために、そうでない人をみるときには敵人をみるようになる。このため周囲から斥けられたが、見識のある者は必ず、はじめは独善になるものである。それに、才ある者は才なき者に忌まれ、能ある者は能なき者にやかれるものである。だが、隣人なくば何事もできないし、徳がなければ隣人を得ることはできない。今や貴方と僕は相許す間柄となった。徳か不徳かは知らないが、獄中に友を得た。貴方はもはや友人がいないことを歎く必要はなくなった。なんといっても、貴方は獄中に死すべき人ではない」

  学ぶことを喜びとする
 この手紙を受け取った者は、心秘かに喜ばずにはいられまい。有隣にはそれなりの自愛自重の心もおこった。松陰の手紙はその後も何度かとどき、ついに有隣の心に希望の灯をともすことに成功するのである。
 その後、松陰は新入りとして、ある時は小豆がゆをつくって皆で食べるなど牢獄の先輩たちに食物のふるまいをした。またわざわざ医学の研究をして、治療法を教えたり、相互扶助のための月掛貯金をするなど、直接皆に役立つことをはじめることによって、ぐんぐん皆の中にはいっていったのである。そして、入獄半年目にして、講義のできるところまでこぎつけたのである。もちろんそこには、野山獄を取り締まる福川犀之助に対する松陰の感化があったのである。
 松陰は『孟子』の開巻第一頁を講ずるに先だって、皆に向かってきっぱりと言った。
「諸君といっしょに学を講ずる私の意見を申しあげたい。私たちは囚人として、再び世の中にでて太陽を拝することはないかもしれない。たとい、学んでその学が大いに進んでも、世間的には何のききめもないといえるかもしれない。しかし、人間として必ずもっているものは、人としての人の道を知らず、士として士の道を知らないことを、恥ずかしく思う心である。この気持があるとすれば学ぶ以外にない。それを知ることがどんなに我が心の喜びであるか」
 このようにして、我がためにただ学ぷという態度を、囚人皆のものにしたという体験をふまえて、後に松陰は、革命家として、その手足をもがれたとき、自分にかわって革命的行動に挺身してくれる人間を養成しようとしたのである。革命的教育者になったのである。
 これらのことを深く思うことによって、この旅は非常に有意義であったといわなくてはならない。年一回、このような旅を塾生たちは自発的、自主的にもったのである。(だが、それも、塾の閉鎖で、二回しか実現していない。)

 

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4 自己発見に散歩と坐禅

  薪を拾いつつ気力を養う
 塾生たちは夕食の後、好んで山野を歩きまわった。それには理由があった。一つには、薪を拾うことが目的であった。炊事のための薪はいくらあっても足らず、買っていたが、なるべく拾った薪でおぎなうためであった。もう一つは、山野を歩きまわる中で、自分の心をたしかめ、自分の心に徹しきろうとしたのである。かつて、吉田松陰が「山野を跋渉して、気力を発動し、気力を充実させるのもよい」といったことにもとづいて、自分の心をたしかめ、気力の充実をはかったのである。そして、単なる物知りに終わるのを極力さけようとしたのである。
 また松陰が、「静座して外物におおわれない自分の本心を発見するか、行動の中で自分の本心をはっきりつかむようにするとよい」と言ったことに学んで、塾生たちは毎夜、就寝前の三十分から一時間、道元の教えるところに従って坐禅をした。道元は私の心の師であり、私自身、学生時代から数年以上も座禅にとりくんでいた。だから初心者の指導はそれなりにできた。

  坐禅の根本義
 ……参禅即ち坐禅をするには静かな所がよい。食物は適当にするのがよい。従来のひっかかりを捨てて、万事をとりすてるのです。心とそのはたらきをやめて、心であれこれとおしはかるのをやめなさい。仏になろうと願ってはいけません。仏は行住坐臥と関係なく、坐禅することそのことで仏になれるのです。
 本式に坐禅する所は、厚く敷物をしき、その上に蒲団をおきます。結跏趺坐でもいいし、半跏趺坐でもよく、各人の身体に応じて、その形をえらべばよい。結跏趺坐とは、まず右の足を左の腿の上にのせ、左の足を右の腿の上にのせます。半跏趺坐というのはただ左の足で右の腿をおすように重ねるのをいいます。
 きものも帯もゆるやかにしますが、きちんとととのえます。次に右の手を左の足の上にのせ、左のてのひらを仰向けて右のてのひらの上にのせ、両手のおや指は爪の面を平らに向きあわせ、互いにささえあうようにします。
 そこで、姿勢を正して、左に片よったり、右に傾いたり、前にかがんだり、後にそり返ったりしないようにします。横から見ると耳と肩が垂直線になっており、前から見ると鼻と臍が垂直線になっているようにします。舌は上あごにつけ、唇も歯も上下ぴったりあわせなさい。目は必ずあいて、鼻からの息は静かに通うようにします。
 身体の姿勢ができたら、口から吸って口から吐く呼吸をし、背骨を軸にして左右に動かすのです。そして山が不動であるようにどっしりと坐して、おもいはからないようにします。これが坐禅の根本義です……。
 ここにいう坐禅とは、人間として最も安楽の姿勢です。そして坐禅する者には、世にいうところの智識があろうが、愚であろうがまったく関係ないし、利口かそうでないかということも関係なく、各人がただ一生懸命につとめれば、人間の道に必ず到達するのです……
 道元が「普勧坐禅儀」の中で言っていることを私が説明してきかせる。

  菩提心と道義国家
 道元は菩提心をおこすことを強調しているが、それは松陰が理想の社会をつくろうという志をもつことが学問する上でいちばん重要であるというのと似ている。
 私は道元が次のように言っていることを塾生たちに説いてきかせる。
 ……菩提心ということは、いろいろありますが、ただ一つの心です。竜樹は、「ただ世の中のものはすべて生滅してとどまるところがないのを観察する心が菩提心である」と言っていられます。そのように、世間の無常を観ずる心が菩提心というものでしょうか。
 まことに、世間の無常を観ずるとき、この私に執する心はおこりません。社会的地位や利益を追い求める心もおこりません。ただ時日がたいへんすみやかに過ぎ去るのをおそれるばかりであり、無常でないところの真実の道を求める心ばかりが熾烈におこります。だから、釈迦の心をもって、ひとすじに真実の道を求めるのです。
 たとい、多くの仏典を読了し、万巻の書物を読んだとしても、学者、政治家、大僧正の地位を得ようとも、名誉や利益を追い求める心のある限りは菩提心を求めているとはいえません。真実の道を求めている人とはいえません……
 第二次大戦を体験した今、私たちは、名誉や利益はもちろん、生命すらも無常なことを知ったはずである。痛いほどに知ったはずである。それなのに性こりもなく、今まで以上に名誉と利益に執し、地位と生命に我欲をはたらかす世の中をみるとき、人びとは狂っているとしか思えなかった。目をさまさない人びとが多いのを歎じ、これでも日本人はめざめないのかという思いがしたのである。
 それ故に私は、ただ一つの真実の道、道義国家、平和国家をつくろうとした道元、吉田松陰の道に深い感動をおぼえたのである。道元、松陰の遺志をつぐことを志したのである。

  経済的平等だけでは幸福になれない
 当時多くの知識人の心をとらえていたコミュニズムでさえ、経済的平等をもたらすことによって、人間の窮極の幸福が得られるように言うのには、我慢ができなかった。たしかに、経済的平等と人間的自由を与えることは、なににもまして緊急の課題である。しかしその道は産業国家の路線の上をひた走ってゆくのである。私はそれとは違う世の中を理想と見、浄土だと解したのである。
 コミュニズムにせよ、仏教、キリスト教にせよ、プラグマチズム、実存主義にせよ、すでに市民権をもち、不十分ながら、それぞれの路線を歩んでいる。しかし、教育国家への道、道義国家への道は、明らかにされていないばかりか、その内容さえ判然としていない。その道を究明しようとする塾生たちの前途はまったくきびしい。コミュニズム、仏教、キリスト教、プラグマチズム、実在主義を把握し、それらを実現した後に、さらにふみださなくてはならない道である。私が塾生たちに対して、絶大な信頼と期待をよせたことは理解していただけよう。覚悟を求めることがいかに切実であったことか。
 それこそ、吉田松陰の言ったように、寸暇を惜しんで勉学して欲しかった。いかに勉学し、学問しても、しすぎることはなかったのである。昭和二十七年当時の塾の雰囲気は、それを裏づけるように、熱気をはらんでいた。

 

<「人間変革の思想」目次 > 

 

   第8章 塾の崩壊

1 戦後史の波にもまれて

  警察に目をつけられる
 教育科学研究会と社会科学研究会を昭和二十六年に組織したのは、あくまで藤園塾教育の一環として考えたもので、藤園塾をとりまくT市の社会環境を教育的に向上させることをねらっていた。もちろん人びとの経済的平等と人間的自由を実現して後に、はじめて教育的環境をよくすることができるのであって、まずそのための戦士をつくることに主眼がおかれていた。私は自分の力をほとんどこの組織の結成と発展に投入していた。
 藤園塾はT君とE君を中心に、その目標にむかってたゆみなく歩んでくれるという自信があり、むしろそれを助けるものとして、教育科学研究会と社会科学研究会を通して二十代、三十代の大人たち、先輩たちが、理想を求めて行動する姿がどうしても必要であった。塾生たちの志をかためるためには、大人たち自身も、己のために、それに向かって捨身の生活をすることが必要なのであった。
 朝鮮戦争を直接の契機にして、当時、T市の日本共産党の組織は、はげしい弾圧をうけてちりぢりの状態であった。もともと県下でも有数の組織であったために、集中的に攻撃をうけたのである。
 社会科学研究会は地味な研究会をもち、地域の現状から浮きあがらないように極力つとめていた。しかしその主旨に賛成する者は何人といえども歓迎するという会の原則を幸いに、活動の場を失った若い共産党員が、なだれをうってはいりこんできたため、自然に警察の注目をひくようになった。共産党員をアカと称して、危険視する風習が、人びとのあいだにも濃厚であったから、なおさらである。

  地方から中央への変革を
 しかし、多くの人びとは共産党員に接してみて、彼らが自分たちとも別に変わらないことを知り、社会を発展させんとする意欲が普通の人より熾烈なだけであることを知った。普通の人たちよりずっとまともであり、人間らしいことを感じないではいられなかった。ただ当時の共産党中央の指導に条件なしに従っていることが果たしてよいか、わるいかという問題だけが残されていた。
 共産党員とも交流することで注目された私たちが、さらに決定的にマークされ、藤園塾そのものまで妨害をうけるようになったのは、他の理由によってであった。
 私たちは教育科学研究会と社会科学研究会の組織をもとにして、日本コスモス会を昭和二十七年にT市に設立した。地方の現状を尊び、それを出発点にして地方そのものをかえ、それを日本中におよぼし、さらに世界にまでおよぼそうという運動の会で、まったく“気違いじみた”夢をもって出発した。会員は百数十名、県下に数か所の支部をもち、全国に数十か所の支部をもっていたが、県外の支部は、すべて支部員が一、二名という有様であった。しかし気概だけはさかんで、それを基盤にして会員をふやせばよいと考えていた。
 当時は、東京でいろんな団体が次々と生まれ、それらの団体は地方に住む限られた人びとの争奪戦をめぐって一喜一憂している有様であった。地方に住む活動家こそ、まったく有難迷惑で、一人の人が数種の新聞、パンフレットをかかえこんで困りはてているという状況であった。そのために、地方に即した、地味な忍耐強い活動はほとんどできない状態であった。
 東京の指導者たちは、地方の実情をまったくといっていいほど知らず、いたずらに口先だけで激しいことを言っていた。その姿に私たちはがまんがならず、心から嫌悪をいだいていた。そこに日本コスモス会結成の意味があったのである。

 「人間のための革命か、革命のための人間か」
 私たちは機関紙『コスモス』を発行した。そこには、地方の現状をふまえて、革命を実現しなくてはならないと述べ、頭の中で観念的に考えた状況から出発することの不可を強調した。革命というものは地味な忍耐強い活動を必要とするもので、人びとに喜ばれ、歓迎されるものでなくてはならない。いざというときは、強い決断力を要するものであるが、そのような時はめったに訪れないし、革命のために、ただ一回しかない人間の生命を、いたずらに犠牲にしてはならない。最近ともすると、革命を至上とし、革命のための人間ということが考えられがちであるが、人間のための革命に徹しなくてはならない。人間の生命を犠牲にすることも許されるのは、いよいよの時だけである。これが私たちの主張であった。
 しかし、東京在住の会員からは、さっそく、なまぬるいという批評がかえってきた。朝鮮戦争の最中であり、戦後史の決定的転換期を迎えて権力も左翼も、互いにカッカとしていたのである。私たちはそれに対して、これが地方の現状であり、東京の人間だけが勝手に革命的状況をつくりだすなどと思ってくれてはこまると反対した。各地方の現状から出発し、それをふまえた革命的プログラムが多数になったとき、はじめて日本全体の革命も達成できるのである。そうでないかぎり、東京の人たちがいくら勝手に革命的状況はできたと怒鳴っても、日本に革命はこない。
 私たちは、日本コスモス会によって、日本の観念的思想状況を変革し地方から出発する、地に足のついた変革への道をうちたてようという野心に燃えていた。地方から中央に革命を移行させてみるという野望に燃えていた。

  意外な“理解者”国警
 しかし、意外なところから“理解者”があらわれ、私たちの動きを非常に危険視するようになった。それは、そのころ再発足したばかりの国警であった。東京の革新陣営には一顧もされなかった私たちの動きが、国警には非常に危険なものと映ったのである。
 戦後、全国の警察が自治体警察となり、国家警察は一部にしかなかった。いわゆる戦後の民主化政策に沿った、警察制度の改変であった。それが、世界の政治情勢の変化にともなう“路線変更”のために再び国警が生まれ、その頃は国警と自治警の二本立てになっていた。山口県にも国警の出先機関があり、その出先機関ににらまれることになったのである。聞いたところによると、その出先機関は、はじめ日本コスモス会についての報告をしなかったために、中央の国警から、ひどく叱られたそうである。
 すでに述べたように、T市の警察署長(自治警の)は私と知りあいであり、藤園塾の理解者、協力者の一人であり、教育国家、道義国家をつくる上の同行者であった。教育国家とは、人びとを教育的人間にし、教育環境をよくするために全力をつくそうとする人たちの国家であり、道義国家とは、単に政府がその目標をかかげるのでなく、人びとが道義で武装し、道義を実践する人びとの集る国家である。しかもだいじなことは、常に教育とは何か、道義とは何かを追求する研究機関をもつ国家であり、人びとが疑問をもつときは、いつでもどこにでも答えうる人がいる国家である。

  警察の手は学校にも
 署長は国警から日本コスモス会に関する報告を求められ、それについて、報告しなかったことを責められたとき、私たちのために、種々弁解してくれ、ついには論争にまで発展したこともあるという。しかし結局署長は国警の出先機関の前に屈し、私たちの協力者、理解者であることもやめ、私たちをつきはなした。私たちの協力者でありつづけるためには辞職以外なかった。署長の転向である。
 署長の転向とともに、私がつとめているS学園にも、毎日のように自治警の警官が通うようになり、校長に面会しては私のことをいろいろと聞き出していた。そのために校長はほとほと参って、どうしたらよいかと、私にきく始末であった。私は「悪いことをしていないのだから、そんなことは無視するように」とすすめた。そして私は私で、その警官をさそっていっしょにコーヒーを飲み、「朝日新聞」の購読を禁止している警察官の上司の方針などについていろいろと私の意見を語ってみた。
 当時、「朝日新聞」は左翼的色彩がこい新聞として、T市の警察内では購読を禁止していた。それは戦時中の言論統制と同じで、必ずそこから破綻がくるのではないか。むしろ警官も左翼的新聞を読み、正しい情勢分析をなすべきだ。戦時中の過ちをあらためずに、いまだにそういう情報をめかくししているのは一番おそろしいことである。これが私の考えであった。私は、社会科学研究会に出席して、私たちが間違ったことを言っているかどうか調べて上司に報告してほしいと言って、一、二度研究会にその警官を出席させたこともあった。(その後、その警官は病気を理由に警官をやめ、学校の書記になったということである)。
 しかし、私の努力にもかかわらず、校長はたびたびの警官の訪問を理由に、再び私に「どうしたらよいか」と聞くのであった。ぜひにと言って、私を自分の学校の教師に招いた校長としては、自分から私の首をきるとは言えなかったのであろう。私はその困りはてたような校長の顔をみて、つくづく愛想がつきて、つい「やめます」と言ってしまった。

  ローカル新聞の記者になる
 こうして、私が学校をやめたのは昭和二十七年六月中旬という、まったくへんな時であった。藤園塾も日本コスモス会も、まだこのときには無事であったが、行く先どうなるともしれなかった。
 学校をやめた翌々日には、私はT市のローカル新聞の記者として採用された。私は学校教育は社会教育と並行して進められるべきだと考えていたし、社会と離れた学校の存在に非常に疑問をもち始めていたから、私はむしろ、学校をやめて新聞記者になったことを喜んだ。
 そして、ペスタロッチは子どもの教育には成功したが、その親たちを教育できなかったため、結局彼の教育は失敗の連続であったということを思いだした。親たちを教育しようという配慮のないままに、学校教育を勝手におしすすめているのが、教育の現状である。戦後、PTAが生まれて、親の自覚をもたらそうとしたが、現実にはPTAは学校に対する経済的後援会の域を出なかった。
 私は新聞記者となり、新聞を通じて、社会の人びとを覚醒できることを、この上なく喜んでいた。しかし、藤園塾と日本コスモス会への妨害はそれから意外に早く訪れた。自分が心血をそそいで築いてきたものが、こんなにも、もろく崩れ去るとは予想もしなかった。何故に、かくももろかったのであろうか。

 

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2 警察の妨害と父兄の脱落

  塾生に光る国警の目
 ある日、塾生のS君の父親が「お話があるから、つごうのよい時にきてほしい」と言ってきた。さっそくでかけてみると、「警察の人がきて盛んにいや味を言う。私としてはあなたを信類して子供の教育をまかせていますが」と言う。他の塾生たちの家にも、次々と警察がいっているということもわかった。
 当時、自治警にも警備課が生まれ、課員は、ブラック・リストにあがっている地区内の人間のカードを各自もって、それらをねらいうちに監視していた。一人一枚のカードで、裏には調査報告を記入していた。これではたまったものではない。多少でも革新的なことをしようとする者は、一人残らず槍玉にあげられ、行く先々で、その活動はつぶされていたのである。彼らの手足はがんじがらめという状態であった。
 ついで、S君の父親が訪ねてきて、「警察が、今度は私の老父母をねらっている。藤園塾にはいっていたら、本人の就職もむずかしいし、家の商売もむずかしくなろうと言っておどしている。昔風の老父母は警察に弱く、孫が可愛いので、私を盛んに説得してこまる」ということであった。私は熟考してみると答えて、その場はいちおうひきとってもらった。
 私は、こういうことがおこるとは予想もしていなかったので、このときまで塾生たちの親と必ずしも十分に話しあっていなかった。入塾者を得るのに急なあまり、私の教育方針に賛成してくれると思われる父兄の子どもは、無条件に歓迎していた。

  父兄の反対にあう
 ふりかえってみれば、もっと親と話しあい、私が育てようとするのは新しい人間であり、その誕生を喜ばない人間たちに、邪魔をされることもあるということを、お互いに徹底して理解しておくべきであった。そのために塾をはじめるのが半年、一年おくれてもよかったはずである。現状維持、保身に汲々たる人間は、時代と人間の発展を志し、歴史の進歩を実現しようとする人間の妙害をするということを予想しなかったのは、私の最大の失敗であった。
 真の教育を達成するのは容易なことではない。囚人・吉田松陰の塾に通うには、親子ともに並々でない決意が必要であったのだ。高杉晋作の親のように、見て見ぬふりをする以外になかった者もいたのだ。その塾生たちは失うものは何もなく、もし失ったとしても、そんなものは投げ捨てて何とも思わない者たちであったのだ。まさに、道元のいう菩提心のある者、世間的な地位や富を投げ捨てて、ただ菩提を求める心の熾烈な者たちであり、松陰のいう道義国家をつくることだけに烈々たる野心をもつ者たちであり、それを妨害する者はすべて菩提の敵、道義の敵だと思って迷わない者たちだったのである。私にはその覚悟が足りなかったのである。私があれこれ迷っているときに、それに追いうちをかけるように、地区の小・中・高校のPTA協議会で「今後、池田という人間に子どもを近づけない」ということが決議されたと、私に耳うちしてくれた人がいた。それが事実であったかどうかわからないし、私自身、それまで地区のPTA協議会などというものがあるとは、聞いたことがなかった。おそらく、一つの謀略だったのだろうが、この話をきいたとき、私は万事が終わったと思った。

  協力者の熱意もうすれる
 T市はもともと排外的空気のつよいところで、よそ者を心底から信頼するということが少ないところであった。たいていの地方都市はそうだが、T市はとくにその傾向がつよく、明治維新のときも、長い間右顧左眄して、なかなか態度をきめなかったのである。その意味で、よそ者の私が自分の教育活動の場にT市をえらんだということは、結果的には失敗であった。
 塾後援会長のU氏をはじめ、主な人びとも、私のために進んで弁護してくれるという熱意はなくなっているようにみえた。私たちが吉田松陰の生き方に学び、さらにそれを発展させて現代を生きねばならないと考えたのに対して、彼らは、松陰の生きた時代環境を無視して、その思想を、その生を、そのまま現代に再現しようとしていた。私は松陰を最高の革命家とみ、彼らは松陰を熱烈な尊王家とみる。そこに、私と彼らがいつかは別れる運命があったのである。いずれにせよ、塾生たちの考えと意志にもとづいて、塾の存続、廃止をきめよう、彼らの考えと意志に従うしかない……これが私の結論であった。しかし、もし塾生たちが閉鎖ときめたらどうしようという不安は強かった。塾が滅びるということは塾を拠点とする日本コスモス会がついえるということでもあった。私の生命であり、存在そのものであり、全情熱をそそいだものが、心なき人びとの妨害のために崩れ去るということは悲しかった。
 こんななかで、ありがたかったのは、市役所が塾舎をとりあげるとは言わなかったことと、私の新聞記者としての地位は安泰であるということであった。

 

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3 塾の閉鎖

  塾生の断ですべては終わった
「今は非常にむずかしい時である。警察の妨害もある。諸君の家では、父兄たちに動揺があり、老人たちもおびえている。今後、塾をどうしたらよいか。私は諸君の考えに従ってどうでもする。忌憚のない意見をきかせてほしい」
 私の言葉に対して、塾生たちはしばらく考えていたが、やがて一人が口を開いて、
「情勢がそこまできているなら、この際いったん塾を閉鎖すべきだと思います」
 と言う。そうすると、他の一人が、
「二年余の指導で塾の精神は私たちの中に確固として根づいたと思います。たとい、この塾がなくなっても、私たち一人一人が塾として残ると思います。私たちは誓って塾の精神を体得して、それに生きるつもりです」
 と、はっきり言った。そのほかには発言がなく、座の空気は二人の言葉に暗に賛成のようであった。
 私はこの言葉を耳にしたとき、他の塾生から断固反対の声がでることを望んだが、だめだった。私は奈落につきおとされたような感じになり、私の理想の灯もついに消えるかと、悲痛になった。だが、諸君の考えに従うと言った以上、いっさいは終りである。

  閉塾の夕食会
 吉田松陰の行動があまりに激しく、一歩も退かないため、村塾生たちのほとんどがしりごみして、松陰のもとを逃げだしたことがある。それに対して松陰は狂人のごとくなり、「諸君は功業をなす者。だが私はあくまで我が心に生きるつもりである」と叱咤し、「この激しい弾圧も松陰が招いたものであり、もし松陰の攻撃がゆるくなれば、自然弾圧もゆるくなる。しかし一度は弾圧の嵐をくぐりぬけなければ、何事もできない」と言った。そして、村塾生たちの心のゆらぎをかためるために、最後には自らの生命をささげ、死の教育をしてみせたのである。「私が死ねば君たちの志もかたまろう」……その死を契機として村塾生たちの志はかたまり、あの大事業をなしとげる端緒を開いたのであった。
 しかし、私は今死ぬこともならず、死ぬ決心もわかない。私は塾生たちの言葉に従って、塾を閉鎖するしかなかった。そして、塾生たちに向かっては、ただ「よろしくたのむ」という言葉しかなかった。それからは、塾の書物を塾生たちの希望によって安くわけ、残りのものを整理した。
 閉塾のための夕食会は七月某日にさびしく行なわれた。後援会長のU氏も外塾生も、開塾の宴のときのようには出席せず、内塾生と私だけでひっそりと、終始沈黙がちに行なわれた。だれ一人として、「塾はなくなっても私たち一人一人の中に脈々として生きており、これから私たちの本当の生活が始まるのである」と言うものはいなかった。
 翌日、塾生たちは一人二人と去っていった。残された私の胸に熱い涙が流れた。私はそのとき、いつかは、再び崩れないものをつくってみせると心に深く決意した。

  失地回復の努力もむなしく
 塾が滅び去ってからも、日本コスモス会も、教育科学研究会も、社会科学研究会も、形だけは残っていた。だが、私の情熱はそれまでのように熾烈ではなかった。また、私自身が新聞記者として多忙であったことと、私が勤めはじめて、まもなく、新聞社に二ヵ月余もつづく労働争議がおこったことが重なったりして、時間をさくこともできなかった。そんなことを反映してか、会はいずれもやがて衰えていった。
 こうして、私の若き情熱をそそいだものは跡形もなくきえ、私がわざわざ山口県のT市をえらんで、のりこんだ意味はまったくなくなった。だからとて、私は絶望しきってはいなかったし、挫けきってもいなかった。以前同様に市の体育館の一室で超居し、いかにして復讐戦を展開するか考えつづけていた。そして、いつかは失地を回復し、今まで以上に強固なものを作りあげてみせるとの野心で満ち満ちていた。私自身は新聞記者となり、学校教育を社会教育、生涯教育、家庭教育の連りの中でとらえられるようになっていたのである。
 私は新たに新聞記者として、T市民の研究を始め、仲間の、それも真の仲間の発見につとめた。それをもとにして再出発しようと思った。以前のように高校の教師という特権を利用するのでなく、私自身が裸となって、ゼロから再出発しようと考えた。
 それには、ローカル新聞の記者は新聞ゴロといわれて、食いつめた者がする仕事だと思われていることもいいと思った。街のダニのように思われている新聞記者から始めて、信用と尊敬をかちとるようになれば、本物だと思った。私は吉田松陰が罪人として行動をおこしたことを思いうかべていた。本物を発見しようと、私は全力をそそぎはじめた。
 しかし、敵は思わぬところにいた。新聞社の労働組合の中にいたのである。このことがなかったならば、私はあくまでT市にとどまり、塾の再建に努力し、今のような著述業者になることもなく、教育事業に邁進していたことだろう。
 だが今では、当時の私の考えは幾多の面で不十分なものをもっていたと思いながら、基本的には正しい道を歩んでいたという確信を年とともにますます深めるのである。
 人間と社会を変え得るような人間をつくるという“塾”は、大学闘争以後、見直されて、それをつくろうとする人びともいるが、まだ、私の構想し、実現した塾にはとても及ばない。まして、多数存在している学習塾などは、誤った学校教育をいよいよ誤らすもので、とうてい塾とはいえない。
 封建体制下でもっとも権威があるとされ、その実は空疎な教育をしていた藩校の誤謬を訂正しようとして生まれたものが、本来の塾である。今日、大学教育をふくめた学校教育全体の現状に反対し、それを正常化しようとして生まれたものにこそ、塾という名を冠すべきである。

 

<「人間変革の思想」目次 > 

 

4 塾の心は生きている

  いまだに固い結束
 私の勤めはじめた新聞社では、ちょうど編集権の独立、市民のための新聞という目標をかかげた労働組合が、会社と争議をおこし、ストライキをふくむ、その後二か月の闘いの結果、組合の勝利となり、会社首脳部は経営権まで組合にまかすことになった。この渦中で、私に対する決定的な打撃が加えられたのである。
 新聞再建のための資金調達方法をめぐって、私と組合長は真向から対立した。私は労働金庫から借りようとし、組合長は衆議院議員立侯補のK氏から借りだすことを主張した。そのような、私欲のからんだ、労働組合らしからぬ方法に納得しない私に対して、彼はただ資金のことはまかせてほしいと繰り返すだけであった。大方の組合員の空気がこのような組合長についていると察したとき、私は心の底からの絶望につきおとされ、山口県T市を去ることにきめたのである。昭和二十七年秋のこと、東京でゼロからやりなおすためであった。
 それから二十一年。今、当時の塾生はそれぞれに、あるいはサラリーマンとして、あるいは自営業者として生活している。私の最も信頼したE君は高校教師となり、教育の正常化のために地味に努力しており、もう一人のT君は自営業者となり、かたわら健筆をふるっている。S君はサラリーマンとして生活し、もう一人のS君は自営業者として生きている。
 そのほかは、それぞれにサラリーマンとして、各地で生活している。彼らは今でも不思議なほどに仲がよく、強く結束している。その結束ぶりは驚歎するほどである。

  オピニオン・リーダーこそ出なかったが
 今のところ、私の期待したように、日本の思想界、言論界をリードするようになったものもないが、私のみる限り、日本の思想界、言論界は依然として混乱、低迷し、現象に流されているにすぎない。これでは彼らも働きようがないともいえる。しかしこのごろ私は、彼らがオピニオン・リーダーになるよりも、それぞれ庶民の中にいて、確実に庶民の光になるような生き方をしてくれるほうが良いのではないかと考えだした。教育の成果は、その者が死して後でなくては、最終的な評価はできないが、今では彼らがオピニオン・リーダーとして拍手喝采をうけるよりも、庶民の一人として、庶民の光になることを私は求めている。この期待は、塾生の誰もが裏切らないように思う。私自身、中学時代には、人間社会の一隅を照らす人になりたいと念願していた。その念願が、無意識のうちに、塾教育における私の態度となって現われていたのだろう。
 私が考えていた卓越した人というのも、すぐれた平凡人になるための、一道程であったかのように思う。私がこれからの塾教育に期待したいのも、この偉大な平凡人であり、民衆の中に渦をまきおこせる人である。今いわれているような、出世した人、自分だけが卓越した人ではない。
 たしかに、藤園塾は滅び、藤園塾は生きている。

 

<「人間変革の思想」目次 > 

 

   終 章 塾教育をかえりみて

  拠点は守るべきだった
 青春の情熱のすべてをかけた藤園塾の教育をふりかえって、私は今、いろいろの反省をしている。とくに、許されるならもういちど、の念願も強く働くので、その思いはさまざまである。
 第一に、「たといこの塾がなくなっても、私たち一人一人が塾として残ると思います。私たちは誓って塾の精神を生きます」という塾生の言葉に軽々しく従って塾を閉鎖したのは誤りであった。教育改革の基点であり拠点である塾は、生命あるかぎり守るべきであったと思う。「警察のいやがらせや、祖父母の言葉、父母の言葉がこわいという者は、塾を出ていってほしい」と、私は決然と言うべきであった。
 その場合、一人も残らなかったかもしれないし、二、三人は残ったかもしれない。吉田松陰が「自己に徹して生きんとする者は、一度くらい親を捨て、国を捨てる程でなくては、大丈夫たる人になることはできない。そうしてはじめて、親を一個の人間として愛敬するようにもなるし、国をあるべき国としてあらせたいという真の愛情もわいてくるものだ」と言っていたことを、私はその当時は十分にわかっていなかった。たとい、一人になっても、塾を守るべきであったし、新たに塾生になるべきものをさがすべきであった。女子でも塾生にしてよいのである。当時の私は夢にもそんなことを考えなかった。

  自分にできないことを塾生に求めるのはむり
 第二には、人間が人間として生きることは、求道者として革命家として生きることであり、それ以外は人間として生きているのではなく、単に存在しているのだということを、当時はまだ徹底して考え、生きていなかったということである。
 だから、私自身の生については責任をもち、学生時代から自己の信念にあくまで生きようとしたことで親の勘当をうけ、ついには親を最も深い理解者、協力者にし、さらに兄弟の中の何人かを理解者にすることはできたが、私自身、親、兄弟を一人として、求道者、革命家に育てることはできなかったのである。
 人を求道者にし、革命家にするというのは、私の信条を押しつけることでもないし、その型にはめてしまおうとすることでもない。人間が人間として理想を追って生きんとするときの自然の帰結なのである。
 私自身ができないことを塾生たちに求めることは、無理である。しかし、当時、この考えに徹底していたら、塾生たちに、少なくともそれに向かって努力するようには、求めたことであろう。そして警察のいやがらせがあればあるほど、己の教育の正しいことを証明し、いよいよ勇気がわいたことであろう。
 当時、日蓮を研究していた私であったが、彼が妨害をうけるたびに自分のやろうとしていることの正しさをいよいよ確信していったことを知りながら、そのことを自分の身にひきよせて考えるということはできなかった。私は日蓮の生き方を読みとることもできず、自分の根拠地を進んであけわたしたのである。過去の人の生き方を読みとることのむつかしさを、あらためて感ずるのである。

  再出発の名目での逃亡
 第三には、私がさっさとT市に見切りをつけて、再出発という名目で東京に逃げてきたことである。「どこにも逃げるところがないから、なかなか立ちあがれないのだ。どこにも逃げるところのない人が、土着して生きている人なのだ」という言葉があるが、私は、知識人をまねて、逃亡したのである。
 その当時は、しかたないと考えた。真理を求めるわが心を貫くためには、それが必要なのだという理由のもとに、さっさと自分だけの活路を求めて逃亡した。しかし今では、それではいけないし、それだから人びとが心からついてこないのだと思っている。逃げ場所を用意してものを言う知識人を憎悪し、自分は決してそんな人間になりたくないと思っている。
 たしかに、真理を求めつづける心を貫くことはたいせつである。とくに、吉田松陰が真理を貫くために、わが身を殺したことは特筆されてよい。彼はその死によって、動揺する弟子たちの心をかためるという、最高の教育をなしとげたのである。松陰はその死に際して、「諸君はすでに僕の志と考えをよく知っている。だから、僕の死を悲しまないでほしい。僕の死を悲しむということは、僕の志と考えを知ることであり、僕の志と考えを知るということは僕の志と考えを達成してくれることである。それ以上になにものもないことを、しっかりと悟ってほしい」と言い、さらに「僕が死ねば諸君の志もきっとかたまるにちがいない。僕が死なないかぎり、その志はふらふらしつづけるだろう」と言った。
 松陰の言ったように、その死を契機として、高杉晋作、久坂玄瑞たちの志は確固と定まり、今まで以上の猛勉強を始めたし、これまで師の蔭にかくれていた彼らが、たよるべき師をなくして、各自自分の心に生きる以外なくなり、大成長をなしとげたのである。しかも彼らが師の敵を討ちたいという願望は、文字通り熾烈であった。
 私はその例にならうこともなく、易々と後退し、再出発をはかった。塾生たちを真の意味で叱咤しなかった。それが、この教育を中途半端なものにした原因であろう。

  不足していた協力者との話し合い
 第四に、私の今の思想は明確で、吉田松陰と松下村塾に対しても、私なりにはっきりした評価をもっている。しかし、当時はどこまで明確であったか、あやしい。だから、どこまで徹底して塾生たちを教育できたかも疑問であった。
 第五には、塾生たちの父兄を説得する上に十分な配慮をし、十分に徹底していなかったことである。そこから塾は崩れはじめていたのである。十分に説得して敗れたならあきらめられようが、十分説得していなかったとなると、悔いが残る。
 第六には、塾運営についての理解者、協力者をつのることを急ぎすぎたということである。そのため、吉田松陰とその弟子たちに関する考え方を徹底的に論じあわないで、そのほとんどは常識的理解の上におんぶして、人びとの理解と協力を得たことである。十分に論じあっていれば、理解者、協力者の数は半減しても、その力は強くなり、どたんばでもっと協力してくれたはずである。
 歴史的人物を尊敬し、現代にその人を生かすということは、その思想を創造した人の生き方を学び、自分のものにすることだということを、もっともっと議論すべきであった。歴史的人物の伝記とか歴史的読物がよく読まれるほどには、それらが今日に生きない理由は、その尊敬のしかたにある。吉田松陰のような人は本当に現代に生かされねばならない。その点でも私は怠ったといえる。

  自分自身に思うこと
 第七には、文部省の指導も日教組の指導も、単に観念的知識のつめこみにのみ、努力していることを心から否定し、自分の進める、知識と実践の統一を志向する教育のみが教育の名に値するのだと、もっと思い知るべきであった。
 この信念があれば、もっと確信をもって、塾生たちを革命家そのものに、アウト・ロウそのものに教育できたはずである。アウト・ロウこそ人間であるという確信で、親たちにも接することができたはずである。
 以上、多くの点で私自身が不十分であり、徹底していなかったために、藤園塾は中途半端なものに終わるしかなかった。だが、私は今になっても、その教育の成果は今後に発揮されるだろうと確信している。私はやはり、塾生の一人が言った言葉を今も信じているのである。その信頼は時とともに深まりこそすれ、浅くなることはない。それは「塾は私たち一人一人の心の中に生きている」と言った言葉である。

  山口県脱出後の仕事
 東京にでてきた私は、職をいくつも転々として変えた後、数年たってはじめて、雑誌『新しい風土』をはじめた。その目標は、事大主義を排して、日本の庶民大衆が自立性と自発性をもつこと、地方の現実を重んじ、そこから出発する態度を養うこと、民衆自身を変え、民衆を動かす理論をつくることの三つであった。
 かつて、塾生の一人が、著名な共産党員の言葉をききいれて、身近にいる私の言葉をきかなかったことが、この雑誌をつくる一つの遠因であった。それに、知識人仲間だけで言論を独占し、一般民衆はそれに無関係に生きていられるような今の世の中の姿を変えたいためだった。もう一つは、地方を本当の意味で重視し、人びとに地方ですぐれた生き方ができるということを知らせたいと思ったからである。
 新島繁はこの雑誌は十年早すぎるといったが、その後数年たって、ようやく大学闘争がおこり、私の発言も正当性をもってきた。大学闘争は、現在までのところ実りないものに終わっているが、私のかかげた三つの目標はそれなりに定着した。
 雑誌『新しい風土』は二年間で印刷所に借金を残したままつぶれた。つぶれた一つの理由は私自身が書けないことにあった。そのために、その後三年間の勉学をへて、著述業者として、道義国家、教育国家に挑戦する三度めの戦いをはじめたのである。しかも、私は戦中、戦後の死の経験、三年前からの大病の経験をへて、今やっと奈落に向きあって、私の最後の情熱をもやすことができるようになった。
 これまで私は『吉田松陰』『松下村塾』『高杉晋作と久坂玄瑞』『親鸞、道元、日蓮』『牧口常三郎』などを書き、他方で『現代学生運動論』『独学のすすめ』『生き方としての独学』『女子大学』『女子学生の生き方』などを書いて、塾教育を通してやろうとして果たせなかったことを、言論ですすめている。
 私は、生命あるかぎり、書きつづけるつもりである。

 

                <「人間変革の思想」目次 > 

 

               (1973 大和出版刊)

 

   < 目 次 >

 

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