坂本竜馬(FM放送)原稿

 

 テープは、第一回の「時代と生い立ち」しか残されていなかったが、原稿は六回分すべてが残されていたので、ここに掲載します。

              1999年7月  池田諭の会

 

   <目次> 

一 時代と生い立ち
二 竜馬の人間形成
三 竜馬と勝海舟
四 薩長同盟
五 大政奉還
六 生きている竜馬

 

 

                       < 目 次 >

 

   一 時代と生い立ち

 今日から、六回にわたって坂本竜馬について、お話いたします。竜馬といえば、既に皆様もよくご承知の通り、大政奉還を演出した男であります。また、その前には、犬猿の仲であった薩摩と長州の二藩を、薩長同盟へと導いた、陰の立役者でもあります。彼は、数え年わずか三十三才で、明治新政府の成立を目前にして、中岡慎太郎と共に京都で暗殺されたのですが、当時の人物の中では、特別にスケールが大きかったうえに、すぐれたヴィジョンと逞しい実践力の持ち主であったことから、「もし竜馬が生きていたら、どんなことをしたであろうか」、という言葉が、後の人々から常に吐かれ続けてきました。
 同じ土佐出身である板垣退助をこえる自由民権運動の指導者となって、自由民権運動をあのように挫折させはしなかっただろうという意見をはじめ、薩摩出身の山本権兵衛以上の役割を日本海軍創設に果たしたのではないかという意見、さらには、三菱財閥を築き上げた岩崎弥太郎以上の大実業家になったに違いないという意見など、さまざまであります。そして、そのどれもが、竜馬にとって可能であったと見ることができます。生前の竜馬が既に、自由民権の思想をよく理解し、体得していたといえますし、海軍の創設に対しては、最大の情熱を傾けていた竜馬です。また、岩崎が実業家になるきっかけを与えたのは竜馬であり、竜馬自身が、実業家的手腕をふるっていた時期もありました。
 このように、多くの人々に、「竜馬が生きていたら」と云わせるのは、如何に彼が沢山の人から愛され、その死を惜しまれているかを物語るものといえます。けれども、そこには、単に竜馬ほどの男を若くして死なせてしまったという愛惜の情以上に、「そんな人物が今、いたら」という待望の気持ちが働いているとはいえないでしょうか。明治維新前夜にも似た、現代という過渡期に生きる人々の、痛切な願望の現れだと、私には思えるのです。
 維新以後、竜馬の存在とその意味が鋭く問われたのは、何時も、そういう時でした。今また、竜馬が大きく問題にされているのも、明治百年が来るというようなこととは関係なく、彼の存在の意味を問わねばならない時にさしかかっているからだと思うのです。
 自然、これからのお話も、そのことが中心となってくると思いますが、まず、竜馬の少年時代のことからお話しましょう。

 竜馬は天保六年の十一月十五日、高知城下の本丁に住む、郷士坂本八平の二男として生まれました。坂本家は、戦国時代に江州から、土佐の国、才谷村に移ってきた、明智光秀の一門といわれています。江州は今の滋賀県です。はじめは農業を営んでいましたが、四代八兵衛の時に、高知城下に移って酒造を始め、富を築いたということです。その富の力で町人郷士となったのが、七代の八平の時で、竜馬はそれから数えて四代目にあたります。
 ところで郷士という身分でありますが、これは武士の中の最下級に属する階級で、一般には帯刀の百姓といったものであります。しかし、土佐藩には、ちょっと他とは違う事情がありました。といいますのは、土佐は豊臣時代には長曽我部家の領地だったのが、徳川時代になって、関ヶ原の戦いの功績が認められて山内家の所領に変わったところです。そのために、旧藩主に仕えた者に対する徹底的な弾圧政治が行われ、上士、下士の階級の差別が特に厳しかったのであります。土佐藩の郷士は、そんなわけで、ひどくしいたげられていたし、また、上士に対して、単なる身分差以上の憎しみや怒りを、内に秘めていたということがいえます。
 竜馬には、権平という兄と、千鶴、栄、乙女という三人の姉がいました。五人兄弟の末っ子というわけです。権平は誠実でおとなしい人であったようですが、お姉さん達は、何れも、なかなか気性の激しい女性であったようです。なかでも、下の姉の乙女は、坂本のお仁王様と呼ばれるような大女だったとのことですが、三つ違いの弟である竜馬を積極的に鍛えたといわれています。中の姉は、婚家先を不縁になったのが理由か、竜馬の脱藩が理由か、ともかく自殺をしています。
 こういった強い気性の姉達に囲まれて育った末っ子の竜馬が、甘えん坊の上に弱虫で泣き虫であったということは、よくわかります。普通、こういう場合には、非常に負けん気の強い子供に育つか、ひどい弱虫になるかのどちらかです。竜馬は後者になったのです。
 おまけに、竜馬は、何時までたっても鼻を垂れ流しにしており、寝小便も十一才ぐらいまで治らなかったといいます。近所の悪童連にとっては、いじめるのにかっこうの相手だったわけです。「坂本のハナタレ」とはやされ、「寝小便たれ」と罵られて、竜馬は泣くだけでした。そこで「坂本の泣き虫」というアダ名まで頂戴することになりました。
 いかに郷士とはいえ、武士のはしくれです。その武士の子が、泣き虫と、はやされるのですから、この上ない恥辱ですが、そんな竜馬にとって、さらに決定的なまでの屈辱が襲いかかってきました。
 十二才になって、やっと通い始めた楠山庄助の塾を、この子は教えようがないと云って閉め出されてしまったことです。京都で一緒に殺された中岡慎太郎は、四才の時から、寺の和尚について学び始めたということですが、竜馬は十二才になって通い始めた塾を放り出されたのであります。
 母はこの前後に亡くなっていましたが、父や兄、姉たちが、この竜馬の退学にどれほどがっかりしたか、想像できます。しかし、一番ショックを受けたのは竜馬自身であったに違いありません。
 でも、竜馬が塾から放り出されたことは、彼にとって、かえって幸いだったともいえます。今の教育も似たようなものですが、当時の教育は、今以上に徹底した暗記教育、記憶教育でした。学んだこと、教えられたことを本当に理解しているかどうかということにはおかまいなしに、四書五経といった中国の古典を暗誦することから始まって、とにかく暗記、暗記です。そして、それが、早く正しくできれば、優秀とされたものです。
 竜馬には、こういう勉強が最も苦手であったようです。少なくとも、眼から鼻に抜けるというような神童的聡明さは、彼には無かったのです。先生の云うことを、そのまま真似るということに、彼は嫌悪を感じていたのかもしれません。
「ハナタレ」とはやされ、「泣き虫」と馬鹿にされながら、それに耐えるしかなかった竜馬は、その屈辱のなかで、弱虫な自分自身になりきるほかはないと感じていたのかもしれません。同時に、一人が「泣き虫」「ハナタレ」と叫び出すと、我も我もと付和雷同する悪童たちに対して、憎しみというより軽蔑を感じていたのかもしれません。軽蔑することで、僅かに自分の屈辱感をはね返そうとしていたのかもしれません。彼の生涯を通じて、付和雷同に類するものは、強く排除されています。
 要するに、彼は人並みな人間ではありませんでした。先程、私が、彼の退学はむしろ幸いだったといいましたのは、竜馬が、そこいらに転がっているような、いわゆる学校秀才にならず、また秀才的な勉強に、ついてまわりがちな、単なる物知りともならずに、自分自身の道を自分のペースで歩む人間になったということであります。彼のゆったりとして寛やかな、柔軟な心や、まっとうな人間性、鋭い直観力と、総合的な立場に立っての的確な判断力の芽生えが、もし子供のうちからあったとすれば、それが教育の場で破壊されずに逞しく育つ方向に進むことができたということです。
 だが、友達から馬鹿にされ、軽蔑されることに、竜馬が、子供ながら、言葉には云い現せなくとも、強い怒りと悲しみを感じたことも当然であったと思われます。弱者の悲しみ、苦しみを、身にしみて感じたことでしょう。自分が馬鹿にされ、軽蔑されることから、藩内では下士としてしいたげられ、上士には軽侮を受け、めったに出世することもない郷士の身分に対しても、激しい怒りと反撥を感じたに違いありません。
 土佐藩の郷士は、衣服その他にも厳しい制限を受けていました。別宅構えは禁止、城下を通行するにも、頭巾、日笠、下駄、杖つきを禁じられ、父母の喪に服するときでも、欠勤は許されぬという有様だったのです。大変な差別待遇です。竜馬は、自分の置かれている立場から、郷士の身分のことが、心にずっしりと、きたはずです。自分自身を郷士の身分と重ね合わせて受けとめられたでありましょう。彼は、そこから脱出したいと、痛切に思ったと考えられます。
 こういった場合、弱いといわれる人間ほど、力に対して強い憧れを抱くものです。楠山塾をしくじった竜馬が剣術を習い始めたのは、単なる力への憧れであったかどうかはわかりません。しかし、当時十四才にもなっていた竜馬には、もう、これしかなかったということも云えます。彼は日根野弁治について、小栗流の剣術を習い始めました。
 筋がよかったとでもいうのか、この方の上達は、なかなか早かったようです。もっとも、剣術は、言葉や文章を暗記するのとは違って、身体で理解するというか、身につけることが第一です。会得するという言葉通り、彼は自分にあったやり方で、木刀を振りまわしながら、彼なりの術を自分のものにしていったと云えるかもしれません。剣の道のなかで、彼は彼自身になりきることを知ったということになるでしょう。
 こんな話があります。その頃、竜馬は水練も始めていました。ある雨の日、傘をさして出かけて行く竜馬を見かけた知人が、不思議に思ってたずねると、「どうせ水に入れば濡れるのだから」と答えて、さっさと行ってしまったというのです。雨が降ったら水泳のけいこはやらないというのは、一般の常識です。けれども、竜馬にとっては、そんなしきたりなど、一向に気にかからないのです。既製の、物の考え方の枠を破って、自分自身の考えで生きていこうとするのです。後年の竜馬の姿がうかがわれる逸話だといえましょう。
 剣術を学ぶなかで、竜馬の変貌はめざましいものがありました。もう、弱虫でも泣き虫でもありません。竜馬自身になりつつあったのです。希望が生まれ、それが自信へと変わりつつある日々。それは充実した毎日でした。勿論、姉乙女の指導も、大いにあったということですが、とにかく竜馬は、十八才で目録を与えられるまでになったのでした。
 行く末を案じていた弱虫の息子が、意外にも剣術で頭角を現したのですから、父親は大喜びでした。「どうせ竜馬は次男坊だ。江戸に修業にやって、一人前の剣士にしてやろう。城下町に道場でも開けば、一生食うには困るまい」というわけで、竜馬を江戸に出すことにしました。江戸行きにあたって、父親は次のような訓戒を与えています。「一、片時も忠孝を忘れず、修業第一の事。 一、諸道具に心移り、銀銭費やさざるの事。 一、色情に移り、国家の大事を忘れ、心得違いあるまじき事。 右三カ条胸中に染め、修業をつみ、目出度く帰国専一に候」。云うまでもないことですが、この中での忠とは藩主に対するものであり、国家の大事という、国家とは、土佐藩一国のことを指しています。つまり、藩への忠誠と親への孝行、そして剣術の修業という枠からはみ出ないのを当然のこととして、戒めているのです。
 こうして、十五カ月のお暇をもらって江戸に出発したのが、嘉永六年三月、竜馬十九才の時でした。
 嘉永六年といえば、アメリカのペリーが率いる艦隊が浦賀沖に現れた年です。長い鎖国の夢をむさぼっていた日本に対して、強引に開国を要求してきた黒船の出現は、日本国じゅうの人々を驚かせ恐れさせると同時に、江戸三百年の幕藩政治、封建体制を打ち破る大きな楔ともなったものです。
 明治維新の功労者というと、普通、一口に薩長土肥といわれますが、これらの四藩の果たした役割がそれぞれに違うように、その置かれた立場も違っていました。藩内の状況もまちまちでした。土佐藩は、薩摩や長州とは違って、幕府とは深い関係にあったことや、経済的、地理的な関係もあって、薩摩や長州に比べて、多くの点で遅れていたのです。たとえば、長期にわたる幕藩体制の矛盾が表面化して、各地に一揆が起こったのは、だいたい竜馬の生まれた天保年間のことで、長州では天保二年、つまり竜馬の生まれる四年ほど前に大一揆が起こり、その後、播州一揆、美濃一揆と続いて、竜馬の生まれた翌年の天保七年には、大阪での打ちこわし、八年には、いわゆる大塩平八郎の乱が起こっています。大塩は幕府の与力で、その与力が叛乱を指導したということで、幕府側にも一般の人々にも非常にショックを与えました。これに対処しようとしたのが水野忠邦の天保の改革です。薩摩や長州では、この天保の改革が比較的うまくいったのですが、封建色が濃厚で、身分制の厳しく要求される土佐では、ことははかばかしく進みませんでした。長州などでは、身分制の枠の中で人材登用を行うために、養子の制度を利用して、有為の人間を抜擢しようという積極策がとられたのに、土佐では身分制にがんじがらめになったままだったのです。産業を興し、育てることも進んでいませんでした。大政奉還の少し前、薩摩の西郷隆盛が、はじめて土佐を訪れて、城下のたたずまい総てが、いかにも古くさいのに驚いたという話もあります。
 こんなふうでしたから、土佐藩の心ある人々が尊攘倒幕といった一連の運動に立ち上がるのも、時期的にいえば大分遅れていました。土佐藩の運動の口火を切って、土佐勤王党を組織した武市瑞山は、未だ高知城下で剣術の修業に余年がありませんでした。この武市瑞山というのは、お芝居でよく出てくる武市半平太のモデルになっている人です。これからも度々出てくると思いますが、この瑞山も、剣術修業を目的として江戸に出るのですが、それはずっと後のことです。土佐藩は、いろいろな矛盾を含みながらも、表面上は平穏無事だったのです。ですから、竜馬も、父親の訓戒に何の疑問もさしはさまず、忠実に守る決心でこれを肌身につけ、一人前の剣士になる希望に胸をふくらませて、故郷をあとにしたのでした。

 

                  <坂本竜馬FM原稿 目次>

 

   二 竜馬の人間形成

 竜馬が入門したのは、北辰一刀流千葉周作の弟、千葉貞吉の道場でした。竜馬が江戸に着くと間もなく、アメリカ合衆国の東インド艦隊が、ペリーに率いられて浦賀沖にやってきました。幕府をはじめ、各藩とも、上を下への大騒ぎです。血気盛んの青年武士たちは、国難がきたとばかり、けんけんがくがくの論議に熱中しました。信州の佐久間象山とか、長州の吉田松陰などは、じっとしていることができず、その日のうちに浦賀へ向かうという熱心さです。勿論、その対策を考え、幕府や藩府に意見を具申するためでした。ほかにも、そのしり馬に乗って、ワイワイと騒いでいる連中も多くいました。
 しかし竜馬は、藩命によって警備の任務についたものの、そういった声や動きに巻きこまれることもなく、ただ剣道のことだけを考えていたようです。「吾関せず」という姿です。「戦いも間近いと思います。その時は、異国人の首でも打ち取って帰国しましょう」と父親に書き送るほど、当時の竜馬は呑気でもあったのです。アメリカの軍艦が来たという意味を、深く考えてみようともしませんでしたし、また、考えることができるほどの知識も無かったのです。付和雷同しなかったというのが、彼らしいところといえるでしょう。
 彼がアメリカの軍艦を見て、何を感じ、何を考えたかということは、はっきりわかりません。ただ、後の竜馬が、商船に対して、海軍に対して、異常なまでの興味と関心を持ったことを考えると、このアメリカ軍艦に魅入られていたということが云えるかもしれません。
 しかし、アメリカ軍艦が引き上げ、海岸警備の任務がとかれると、竜馬は、まるで何もなかったかのように、ただ一筋に剣術に打ちこんでいきました。攘夷も開港も、一切、当時の彼には無関係のようです。竜馬には、「坂本の泣き虫」「ハナタレ」という嘲罵の前に、何も云えなかった自分、学問から見離されたに近い自分、そういう自分と取り組むことしか念頭になかったようにみえます。剣の道に取り組むことは、それこそ彼自身に生きることであり、そこにしか、自分の自信と希望は、つかめないという判断でした。自然、必死な修業が続きます。こうして、竜馬の腕は、メキメキと上達しました。
 翌年の三月に、ペリーはまたしてもやって来ました。この時も、竜馬は沿岸警備にひっぱり出されましたが、依然として、それらに対しては関心を示そうとはしません。彼の目の前にあるのは、剣術だけとでもいうようです。竜馬としては、何としても自信を持ちたかったし、強い自分になりたかったのです。
 この竜馬の痛切な願いと、その願いを達成するための必死な努力が実を結ばぬはずはありません。竜馬はしだいに、自分の中に、剣に対する自信が、そしてさらに人生に対する自信が芽生え、日に日に確かなものになっていくのを感じるようになりました。十五カ月の修業期間は、こうして過ぎ、一度めの江戸遊学は終わりました。
 竜馬は、もう一度江戸に修業に出たいと考えましたが、折悪しく、父親の健康がすぐれぬため、しばらく機会を待たねばなりません。その間に、彼にとっては画期的なことがおこりました。というのは、河田小竜に出会ったことであります。小竜は絵師でしたが、安政元年には、藩命で大砲鋳造を学ぶために薩摩に派遣された砲術指南役に随行しているという、かわった人物です。漂流中をアメリカ船に救われ、アメリカ生活十年を経験して帰国した中浜万次郎とも、親しく往き来していました。
 竜馬は、その小竜に面会を申し込んだのです。江戸にいた頃には、海岸防備のことなど、全く無関心であるかのような生活をしていた竜馬ですが、土佐の静かな雰囲気には、逆に不安や物足りなさを感じたのかもしれません。だから、小竜に会って、そんな話でもしたくなったのでしょう。
 小竜は、初対面の竜馬を前にして、こんな話をしました。
「この頃は、攘夷、開国についての意見がいろいろと盛んです。しかし、私が思うに、攘夷ということはできない相談です。といって開国するのだから、攘夷の備えは要らないということではありません。だが、これまでの軍備、ことに海上の備えは全く駄目です。現在、各藩で使っている軍船など、子供だましのようなもので、外国の大艦を相手にすることなど到底できない。このままでは、何時か外国のためにルソンのようになってしまいます。
 私としては、何か商売でも始めて金を貯め、一隻の外船を購入し、志を同じくする者を集めて、その船に乗せ、旅人や荷物を運びながら航海術の修得をやればよいと思っています。これは、盗人をつかまえて縄をなうようなものですが、今始めなければ、ますます取りかえしがつかなくなりましょう」
 小竜は竜馬にこのように話しました。聞いていた竜馬は深く感動して、
「私は、これまで剣の道を学んできましたが、これはせいぜい一人の敵を仆すものに過ぎず、到底、大業をなすことはできません。先生の言葉には私も大いに賛成です。今後は手を携えて、そのために頑張りましょう」と答えたのです。その時、竜馬の心の中には、横浜沖で見たアメリカ軍艦の威容が思い出されていたに違いありません。同時に、軍艦や大砲には、剣で立ち向かうことはできないということを痛感していたのです。外国の大艦には、大艦で対抗する意外にないと痛感させられていたのです。
 数日後に、竜馬は再び小竜を訪れました。そして、
「あれから、いろいろ考えてみましたが、船や機械は金さえあれば手に入ります。しかし船を運用するには適任者が要ります。それについて先生のお考えを教えてください。私には、どうしても妙案が思いつかないのです」
とたずねたのでした。これについては、小竜に確信がありました。ですから、
「君の云う通り、船の運用には適任者が要る。しかし、それほど心配することもあるまい。たしかに、これまで飽食暖衣していた上層武士には期待できないが、下層人民の中には、何かをなさんとする志に燃えている者が結構沢山いるものだ。こういう者達を養成すればよかろう」と即答したのです。
 たしかにそうだと、竜馬は共感しました。現に竜馬自身が、下層人民のなかの一人です。竜馬はここで、小竜には同志の養成を改めて頼み、自分は船を用意することを誓ったのでした。
 後に、竜馬の率いた海援隊の隊員となって、大いに彼を助けた近藤長次郎、長岡謙吉、新宮馬之助たちは、みな、小竜が見出して竜馬の許に送り届けた青年達でした。そして小竜が云っていた通り、長次郎はまんじゅう屋の子でしたし、謙吉は町医者の子、馬之助は百姓の次男坊だったのです。
 といっても、これは、まだまだ後のことです。土佐で江戸に行く機会を待っていた竜馬は、今度は一か年の暇をもらって、再び江戸に剣術修業に出かけることになりました。安政三年八月のことです。
 安政四年になる頃には、竜馬の剣にはいよいよ磨きがかかり、剣士として第一級の人物であるという評価が通用しはじめるようになります。幼年時代に受けた屈辱感や劣等感から、彼はようやく解放されることになるのです。自らを信じ、自らに期待できる、そういう竜馬にもなっていました。一か年の遊学延期を願って、竜馬は安政五年九月、土佐の高知へと帰ってきました。
 竜馬が帰国の途につく頃、世にいう安政の大獄が始まりかけていたのです。アメリカの軍艦が浦賀に現れてから五年の間に、国内に沸き起こった攘夷論と開国論は鋭く対立したまま解決できずにいました。ところが、彦根藩主井伊直弼が大老になるにおよんで、問題は一挙に解決の方向に進むことになりました。つまり、四月に大老に就任した井伊直弼は、六月には日米通商条約にさっさと調印してしまったのです。それは、湧きたっている攘夷論に止めを刺すというような勢いでした。そして、この挙に反対した水戸斉昭、徳川慶勝、松平春嶽などの大名を謹慎あるいは隠居謹慎の処分に付し、さらに、梅田雲浜、橋本左内、頼三樹三郎たちを次々に逮捕するという弾圧的な態度に出たのです。
 徹底的な打撃を受けた水戸藩の人たちは、各藩の人々と語らって反撃に出ようと、早速、あちこちに遊説隊を派遣しました。土佐藩には、住谷寅之助、大胡聿蔵が乗り込んで来ました。だが、当時の土佐藩には、彼らと会って話のできるような者はいなかったのです。それに、幕府の眼をかすめて、土佐にもぐり込んだ住谷たちですから、うっかりした人には会わせられないということもありました。結局、その役は竜馬にまわってきました。
 竜馬が住谷たちと会ったのは、伊予と土佐の国境いでした。会ってはみたものの、竜馬には、住谷の話が一向にピンと来なかったのです。彼らの話が十分に理解できないのです。僅かに「現在の水戸藩は大変な状況に追いこまれている。それは幕府の迷妄と専断から出ていることで、このままにしていては、日本はおっつけ西洋列強に侵略されてしまう」という情熱的な言葉がわかった程度でした。
 住谷たちは、がっかりして帰りました。竜馬も何もわからないために、がっかりです。土佐勤王党の創始者武市瑞山でさえ、まだ、何もしていなかった時期ですから、竜馬が何もわからなかったとしても、無理もありません。
 しかし、この会見は、竜馬の心に鋭い痛みを与えたようです。この頃から、彼は熱心に読書を始めました。かつて小竜に、剣は一人しか仆せないと語った時、彼は未だ、万人を仆せるものが何であるかを掴んではいませんでしたが、住谷との会見で、それは学問であると掴んでいたのです。
 塾から放り出された竜馬は、二十五才にもなって学問をしようとする自分に、恐怖のようなものを感じたことでしょう。しかし、やらずにはいられなかったのです。竜馬が主に読んだのは歴史書でした。
 竜馬が勉強しだしたといううわさは、周囲の人々や友人達を驚かせました。学問をする竜馬の姿など、考えられもしなかったし、また、一流の剣士となった今、何を好きこのんで勉強するのかと思ったのです。彼の勉強ぶりを見て冷やかしてやろうとやって来た友人たちは、そこでもう一度びっくりさせられてしまいました。竜馬は漢文を棒読みにしていたというのです。当時の人々にとって、それは考えられもしないことでした。漢文、それは中国語であるはずですが、それを日本人は、返り点、送り仮名をふって、日本語として読む習慣を持ってきました。そうした読み方が、あたりまえのものとされてきたのです。竜馬はそれを無視して、上から順に読んだものと思われます。人々は呆れました。そんな読み方をして、意味はわかるのかというわけで、意味を聞いてみると、竜馬は完全に大意をつかんでいたのでした。
 竜馬は、日本流の正確な素読ということに心を煩わせることもなく、その書物の中に分け入り、書物の中の主人公と、心ゆくまで語りあっていたといってもよいでしょう。巧みな説明で、上っ面を撫でるのでなく、直接歴史の中に生き、歴史を作り、歴史を動かした人々の生き方、考え方を、自分なりに深く考えていたともいえるでしょう。
 また一方では、蘭学者の許に通ってオランダの法律概論も読みました。例によって、竜馬はオランダ語を学ぶのが主目的ではなく、オランダの法律を知るのに重点をおきました。この時に、オランダ憲法を読み、選挙によって選ばれた人たちが政治をするという議会制度のあることを知ったのです。竜馬の驚きは大変なものでした。将軍や藩主のための政治しかない日本のことを考えると夢のようでした。竜馬にとって、この思想的開眼ほど大きなものは無かったといえます。
 竜馬が学問に没入している間にも、時代は刻々と動いていました。安政六年になると、水戸藩の安島帯刀がまず切腹となり、橋本左内、頼三樹三郎、吉田松陰などが、つぎつぎに死罪となります。安政の大獄の断罪です。これに憤激した水戸藩士たちによる井伊大老暗殺が、翌万延元年三月三日に行われ、その知らせは、眠りこけていた土佐藩の志ある人々を揺り動かしました。
 一方、不平等条約である通商条約のために、貿易は盛んになりましたが、日本の商人は、あらゆる面で歩が悪く、外国商人のためにひどい目にあっていました。輸出商品、なかでも生糸の値段は急激に上昇し、生産もふえましたが、国内の需要は不足し、織物業者は深刻な状態に追いこまれることになります。
 こういう情勢の中で、土佐も、少しずつ変わり始めたのです。
 万延元年七月に九州諸藩を視察した武市瑞山は、翌文久元年四月には、二度めの江戸行きをしますが、この頃から、瑞山の動きは急速に活発となってゆきます。土佐勤王党を結成しようという計画が芽生えたのは、この頃のことです。高知に帰って早速その結成にとりかかった瑞山の許に、はせ参じた同志は192名。勿論、竜馬も中岡慎太郎も参加しています。
 文久二年正月、竜馬は瑞山の命を受けて、長州の萩を訪れました。ここで竜馬は、久坂玄瑞から、
「もはや、諸侯はたのむに足らないし、公卿も頼むことはできない。この上は、無位無冠の志ある者が団結して立ち上がる以外はありません。失礼ながら、土佐藩や私の藩が滅亡したとて、正しい道を行うためには何でもないことです。もし、両藩が存在しても、道が行われないなら、どうにもなりません」と云われて、ドキッとします。久坂玄瑞は吉田松陰門下の逸材です。彼はそこまで考えていたのです。萩を去った後も、竜馬の心から玄瑞の言葉は消えません。
 帰国した竜馬が何度説得しても、瑞山はあくまで、藩をあげて勤王の道を進もうとする一藩勤王の路線を変えようとはしませんでした。一藩にあくまで固執する瑞山と、藩を越えて有志の結合と行動を説く玄瑞の二人のなかで、竜馬としては、玄瑞の意見に賛成するほかありませんでした。こうして竜馬は、土佐藩を脱藩することになるのです。

 

                  <坂本竜馬FM原稿 目次>

 

   三 竜馬と勝海舟  

 昨日は、竜馬が土佐藩を脱藩するに至るまでお話いたしました。竜馬の脱藩を知った武市瑞山は、「到底、土佐の国ではあだたぬ奴だ。放っておけ」と云ったとも、「土佐の国には到底あだたぬ奴ゆえ、広い所に追い放ったのだ」と云ったとも伝えられています。あだたぬとは、包容しきれぬという意味の方言であります。瑞山は、自分では一藩勤王を頑固に主張していながら、竜馬のスケールの雄大さや自由闊達な思考を、深く理解していたのかもしれません。
 土佐をひそかに脱け出した竜馬は、先ず長州に行きました。それというのも、薩摩藩主の父、島津久光の京都入りをきっかけとして、久光を倒幕の盟主に仰ごうという計画が、尊攘派の人々の間にあり、竜馬もこの動きに参加しようとしたものと思われます。しかし、竜馬が長州に着いた時は、既に人々の出発した後でした。やむなく彼は、九州各藩の様子を見て歩き、そこから一転して大阪に向かったのです。やっと大阪にたどり着いた時は、二か月にわたる旅で金をつかい果たし、刀の縁頭まで売って金に換え、刀の柄には手拭いを巻きつけていた程の窮乏ぶりでした。しかも大阪では、彼が出発直後におこった吉田東洋暗殺の下手人容疑者として、役人が竜馬の行方を探していました。驚いた竜馬は、一旦京都に逃れ、そこから江戸へと旅立ちました。
 脱藩という思いきった行動をとって江戸までやって来た竜馬でしたが、何か不安な気持ちもありました。自分の尊王攘夷論に、今ひとつ納得のいかないところが感ぜられたからであります。
 開国論者の勝海舟を斬ろうと決心したのには、その不安を打ち消したいという意味もあったろうと思われます。勝海舟といえば、万延元年に咸臨丸を指揮して太平洋を横断し、アメリカをその眼で直接見て来た男であります。彼に対する評価は実にまちまちで、売国奴と罵る男があるかと思うと、大傑物だという者もいました。軍艦奉行並という職にある、れっきとした幕臣です。売国奴か傑物か。それを直接、海舟にぶつかって、ためしてみようと竜馬は考えたのです。そして本当に売国奴だったら、海舟を斬ることによって、自分の攘夷論を強固にしようと思ったのでしょう。
 この時、竜馬に同行したのは、千葉道場の貞吉の息子重太郎であったとも、岡本健二郎だったとも云われています。
 案内されて対座したとたんに、海舟はこう云ったのです。
「君達は私を殺しにやって来たのであろう。それもよかろう。だが、僕の意見を聞いてからでもよいではないか」
 海舟の言葉に、竜馬はびっくりしますが、もともと開国論を聞いてみる気もあったのですから、じっくりと、その話を聞くことになりました。海舟は世界の大勢から説き始めて、日本の後進性を語り、そして、こんなことを云いました。「どんな力で攘夷をやろうとするのか。日本の今の力で、そんなことができると考えるのか。今、最も大切なことは、外国のまさっているところを学び、日本の足りないところを補うことではないのか。そのためには国交を開く以外、ないではないか」その言葉を聞いた時、竜馬はもう、すっかり海舟の意見に共鳴している自分を発見したのでした。河田小竜との話し合い、黒船を見た時の感動などが、改めてはっきりと思いだされたに違いありません。
 そうなると、竜馬は、もっともっといろいろなことを海舟から聞きたい、教えてもらいたいということでいっぱいです。早速、その場で海舟に入門を申し込んだというのも、竜馬らしいことでした。海舟もまた、自分を斬りに来た奴だからなどと云ってこだわるような男ではありません。刺客は一変して、その弟子となったのであります。それも、最も卓越した弟子になったのです。
 海舟に会ったことは竜馬にとって二つの収獲をもたらしました。その一つは、海舟の意見によって、新しい世界の動きに大きく眼を開いたことであります。もう一つは、人間についての世間の評価というものが、滅多に信じられないということでした。評価というものが、一人の人間の一部だけを見て爲されていることを知ったし、人間の姿を本当に知るには、それ相当の知識と見識が必要だということを知ったのです。それに加えて、かつては攘夷論者であった自分が、今は開国論者になっているということから、思想というものは、変わり、発展するものだという発見がありました。ある時期のある思想の故に、人は殺すべきではないと知ったのであります。
 竜馬は、自分が海舟の門人になると、今度は次々に知人友人を説きつけて、海舟の門下に引き入れていきました。甥の高松太郎をはじめ、近藤長次郎、千屋寅之助、望月亀弥太、新宮馬之助、安岡金馬、沢村惣之丞などです。
 当時、竜馬が姉の乙女に送った手紙には、この頃の竜馬自身の様子を、こんなふうに書いています。「今は、日本第一の人物勝麟太郎という人の弟子になり、日々、かねてやりたいと思っていたことを一生懸命学んでいます」。また、「この頃は、天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生の門人となり、ことのほか可愛がられて客分のようなものになっています。近々、兵庫という所に、海軍の技術を教える所をこしらえ、また、四十間、五十間もある船をこしらえ、弟子も四、五百人、地方から集まってくることになっています」
 こんな手紙を読むと、竜馬の得意げな様子が、よく想像されます。と同時に、彼の率直で明るい性格が、ありありとわかるように思われます。
 この頃、すなわち文久三年三月、海舟や越前の前藩主であり、幕府の政治総裁職の松平春嶽の口ぞえもあって、竜馬は脱藩の罪を許されています。竜馬が脱出した後、土佐藩内の様子も随分変わってきていました。先ず、吉田東洋の暗殺をきっかけに、藩内の勤王党が、ぐっと頭をもたげ始めたのです。それに他藩の動きもからんで、土佐藩が薩摩、長州に次ぐ尊王攘夷の第三勢力にのし上がることになったのです。ここまでくるのに、一藩勤王の旗じるしをかかげて、武市瑞山が大活躍をしたことは、いうまでもありません。
 しかし竜馬は、脱藩の罪が許されたことにも、かくべつ喜ぶふうもなく、土佐藩の動きにも、あまり関心をもつ様子も見せずに、神戸海軍操練所の建設に大きな夢と期待をかけて、その準備に奔走していました。神戸海軍操練所は、かねてから海舟が考えていたものでしたが、攘夷論がさかんになるにつれて、海防策についての関心もたかまり、設立のチャンスをつかむことになったのでした。竜馬は文字通り、海舟の片腕となって、越前に松平春嶽を訪ね、建設資金として五千両を出してもらっています。
 こうして神戸海軍操練所は、専属船として観光丸、黒竜丸の二隻を持ち、幕府から年額三千両の補助金も出ることとなりました。研究生には、各藩の子弟を入れるという段取りです。十月には察舎もできて、竜馬は塾頭にあげられています。研究生の総数は四、五百人にも及んだと伝えられていますが、その中には、後に海軍大将となった薩摩の伊東祐亨や、外務大臣となった陸奥宗光なども入っていました。
 竜馬が海軍操練所の建設に没頭している間に、一旦、尊王攘夷に統一した土佐藩の藩論は逆転してしまいます。そうなると早速、竜馬や竜馬と行を共にしてきた土佐藩の人々に帰国命令が下されたのであります。竜馬は断然、この命令を無視することにしました。海舟も、そんな命令に従えとは云いません。帰国するとすれば、獄に放りこまれるくらいはよい方だと考えなければならないのです。けれども、帰国を拒んだということで、竜馬は再び脱藩という形になりました。名前をかえたりはしていますが、彼らが海軍操練所にもぐり込んでいることは察しがついているのですから、追捕の手は、次第にその塾にまで、伸びてきます。
 翌元治元年の四月、竜馬は海舟の使いとして、熊本に横井小楠を訪ねました。小楠は、橋本左内の死後、松平春嶽がわざわざ越前に招いたほどの傑物であり、相当に先進的な思想の持ち主でもあり、ずっと後のことですが、明治二年に、共和思想の持ち主だとして暗殺されたほどの男です。竜馬はここで、小楠から「海軍をおこすことも必要。しかし朝廷はわからず屋だし、諸藩も否定しているからなかなか無理であること。一般に日本人は近視眼的であるのに対して、外国人は時代への展望を持っている」などということを、いろいろ聞かされています。竜馬は既に、何回か小楠に会っていますが、この時は熊本に一週間も滞在して、小楠の思想と行動をたっぷり吸収して帰ったようであります。
 この時、小楠が竜馬に、「乱臣賊子になるな」と忠告したと伝えられています。小楠が何を以て、そのような心配をしたかは明らかではありません。竜馬の思想がよほど時勢に先がけていたということでしょうか。小楠の心配はともかくとして、この当時の竜馬の、人並みはずれた一面を表しているものと考えられます。
 禁門の変がおこったのは、元治元年七月でした。前年の文久三年八月、攘夷一辺倒だった朝廷の方針がガラリと変わり、長州藩の禁門護衛の任が解かれて、長州に追い落とされたことが発端でした。藩主の冤罪を訴えるという名目のもとに大挙して京都に押し寄せた長州軍と、会津、桑名、薩摩の連合軍である京都守備軍との間に戦いが繰りひろげられたのです。長州軍はここであっけなく敗れ、竜馬の旧知であった久坂玄瑞をはじめ、多くの人達が死にました。そして、この戦いをきっかけとして、幕府の浪人追求は、ますます厳しくなってきました。尊王攘夷の運動家を排除するためです。
 幕府が浪人を追いまわしている最中に、幕府の役職にある勝海舟が、それを庇っていたのでは、お話になりません。海舟は、とうとう、十月に江戸に呼び帰えされてしまいました。そして海軍奉行の職も奪われて、謹慎を命ぜられたのです。海舟は、自分のような庇護者がいなくなったら、どうなるかわからないと案じて、江戸にかえる時に、竜馬の身柄を薩摩の小松帯刀に頼んでくれました。このことが、竜馬の行方を大きく変え、新しい光をあてさせることになるのです。
 こうして、竜馬ほか数名の者が、大阪の薩摩藩邸に、数か月間もかくまわれることになりました。その間に、こんなことがあったということです。
 ある日、千屋寅之助、高松太郎と共に京都嵐山に出た竜馬が、会津藩の浪人狩りの一隊に、パッタリ出会ってしまったのです。思わずハッとなった二人をかえりみて、竜馬は「どうだ、あの行列を突っきれるか」と云いました。何も云えずに顔を見合わせている二人に「見ろ、こうやるのだ」と云うと、道ばたの仔犬を抱き上げて頬ずりしながら、スタスタと行列を突っ切ってしまったというのです。白鉢巻きに長槍を持って興奮した様子の会津藩士たちも、一瞬毒気を抜かれたように道を開けて、竜馬を通してしまったそうです。
 これも、竜馬らしい逸話だと思います。竜馬には、人の心の機微に触れる何かがあったようです。それが天性のものなのか、弱虫として過ごした少年時代に自ら体得したものなのかはわかりませんが、それが、相手をさりげなく自分のペースに乗せてしまうことになるようです。
 薩摩藩邸にかくまわれて、きゅうくつな日を送っていた竜馬たちは、慶応元年四月、帰国する西郷隆盛と小松帯刀に同行して、船で薩摩に向かいました。鹿児島に十日ばかり滞在した後、小松が長崎へ行くのに随って、今度は長崎に行きます。既に通商条約に従って、この頃は横浜、函館が開港されてはいましたが、やはり貿易の本場は長崎でした。竜馬は此の長崎の亀山に、亀山社中を設立したのです。
 社中の仕事は、海運と貿易ということですが、一方では船を動かして、航海の知識や技術を習得しようと目論んでいました。昔、河田小竜に語った夢が、ここで実現されようとしていたのです。航海の技術習得の面では、神戸海軍操練所の延長ということもできます。参加したメンバーも、近藤長次郎、高松太郎、新宮馬之助など、操練所時代からの人がほとんどでした。この社中を全面的にバックアップしたのは、薩摩藩です。西郷、小松の両人は、社中の面倒を何くれとなくみていましたし、社中の人々の生活費として、薩摩藩が月々一人あたり三両二分を支給していました。一方、薩摩藩も、物質輸送の便宜を得ていたのです。そのほか、社中が船を購入する時にも、薩摩藩が後援をしています。翌年の慶応二年三月、社中は薩摩の援助で洋型帆船ワイル・ウェフ号を購入しました。船価は六千三百両でした。ところが不幸なことに、この船は、命名式を挙げるために鹿児島にいく途中、天候が悪くなり、肥前の五島沖で転覆、沈没してしまったのです。この事件で新しい船を失うと共に、大切な社中の同志と水夫、あわせて十二人を失うことになったのでした。この痛手にあって、社中は経済的にも苦しくなり、一時は竜馬も社中解散を決意したのでしたが、竜馬を慕い、社中に愛着をもつ水夫たちは、解散を受け入れようとはしませんでした。
 慶応二年十月、竜馬はまた洋型帆船を購入しています。これも薩摩藩の援助によるものでした。竜馬はこれで諸国の物産を回漕することを考えて、その準備も整えていました。
 社中はこのほかに、長州藩の武器購入、洋船の購入にも一役買って、大いにその役割を果たしていますが、このことは、明日お話しする薩長連合ともからみあっているので、後にゆずることにいたします。
 長い間の夢を実現すべく、竜馬は亀山社中をつくりましたが、切迫してきた国内の諸情勢は、竜馬を社中にだけ引きとめておくことを許しませんでした。設立の直後から、社中の仕事は同志たちにまかせて、西へ東へと奔走するのが、竜馬の日常生活となっていたのです。

 

                  <坂本竜馬FM原稿 目次>

 

   四 薩長同盟

 今日は、坂本竜馬の功績の一つとして、大きくたたえられている薩長同盟についてお話いたします。
 薩摩と長州の二つの藩は、幕府の政治に対する批判勢力として、早くから頭角を現していました。と同時に、幕府に対する発言権を強め、幕政改革に対する主導権を握ろうとして、お互いにはりあうという間柄でもあったのです。
 たとえば、長州藩が長井雅楽の航海遠略策を藩の意見として採用し、これをもって朝廷と幕府の間をとりもとうとすれば、薩摩藩の方は、藩主茂久の父久光を中心として、長州藩とはちょっと違った角度から幕政改革をすすめて幕府と朝廷の間をとりもとうとして動き始めるという具合です。ですから、長州藩は、過激な尊攘運動に走って藩主から処罰されていた薩摩藩士を許してやるように朝廷から命令を出してもらうというようなことまでしています。だが、尊攘運動に動いていた薩摩藩の人々と、長州藩の人々とは、気脈を通じていて、長州藩士は薩摩を一応、同志として考えていたのです。
 ところが、昨日もお話しした通り、文久三年八月十八日に、突然、朝廷の方針がクルリとひっくりかえり、尊攘運動の中心となって、運動を進めていた長州藩が朝廷から閉め出されるという事件がおこりました。長州藩は、当時、朝廷の勢力を握り、さらに幕府をも巻きこんで、諸外国と結んだ通商条約を破棄して、完全な攘夷行動をくりひろげようとしていたのですが、これに反目していた薩摩藩が、京都守護職についていた会津藩主と手を組んで、一大クーデターを起こしたのです。この時は、長州藩士ばかりでなく、長州藩の意図にくみしていた公卿たちも、朝廷から閉め出され、三条実美ら七人の公卿が、雨の中をミノカサをつけて京都から、長州に落ちて行きました。
 翌元治元年九月に起こった禁門の変は、長州藩がその失地回復を求めて、大挙して京都に押し寄せたところから起こりました。戦いはあっけなく長州軍の敗退に終わり、長州藩内の有為の人たちを多く死なせる結果になったことも、昨日お話いたしました。
 長州藩を京都から追い出したのも薩摩なら、禁門付近で、大切な仲間を殺したのも薩摩だということで、長州藩士の薩摩藩に対する憤りは非常なものがありました。同じことをした会津藩は、もともと対立する考えのもとにあるのですから、敵として当然とも思えるわけです。しかし、少なくとも同じ目的の側に立っているとみていた薩摩のやり方には、腸が煮えかえるような思いをさせられたことになります。薩摩の裏切りと、長州藩士は考えざるを得なかったのです。
 そのうえ、禁門の変の結果、長州藩は、朝廷に対して発砲し、戦いを挑んだということで、朝敵という汚名を着せられてしまいました。代々、勤王の志あつかった毛利家としても、尊王運動の中心として自負していた長州藩士にとっても、思いもかけぬ恥辱です。しかも、幕府からさしむけられた第一次長州征討軍の参謀は、薩摩の西郷隆盛でした。かさねがさねの恨みと、長州藩士が怒ったのも、無理はありません。西郷隆盛は、どんな意図からか、徹底的に長州を攻めつけることはしないで、適当に講和の談合をまとめて兵を引きあげてしまいましたが、そのかわり、長州藩では、三人の家老と四人の参謀を処刑にし、山口城の破却という条件をのんでいます。
 長州藩士たちは、こうして薩摩と聞いただけで顔色が変わるほど、薩摩に対して敵意と憎しみを抱いていたのです。「薩賊会奸」つまり薩摩は賊敵、会津は奸敵だという意味の文字を下駄に書いて、踏みつけていたというほどでした。
 しかし、薩摩と長州という二大勢力が、何時まで互いにそっぽを向き合ったままでいることは、時代が許しません。竜馬が帰国する西郷や小松に同行して、一緒に薩摩に向かった慶応元年四月の頃が、薩長二大勢力の結合が要求される時点にさしかかった時期でもありました。というのは、先に行った第一次長州征伐で、西郷の穏便なはからいから、長州を潰滅に追いこまなかったことに大きな不満をもつ幕府が、この頃になって第二次長州征伐の動きを起こし始めたからです。薩摩は、この二度目の長州征討には全く反対でした。西郷たちが帰国したのは、この線にそって藩論を決定するためだったのです。
 やはり土佐藩を脱藩した中岡慎太郎は禁門の変にも参加し、負傷したのですが、既に長州藩士の中にくいこんで、相当の発言力をもっていました。また、同じく土佐藩の郷士で土佐勤王党の一員でもある土方楠左衛門は、脱藩して、長州に落ちていった三条実美らのために奔走していました。一方、鹿児島から長崎に行って亀山社中をこしらえた竜馬は、その月のうちに太宰府に三条実美を訪ねています。三条たち公卿は、長州征伐後、此処に移されています。この時、竜馬の胸の中に、ある企てが温められていたことは当然でした。
 太宰府から下関に行った竜馬は、ここで土方楠左衛門と会い、薩摩と長州をむすびつける具体的な方策について話し合います。土方は薩摩の船に乗って京都からやって来たのでした。その船には中岡も乗りこんでいて、中岡はそのまま西郷を引っぱり出すために薩摩に行ったというのです。つまり、土方が長州側を説得し、そこへ西郷を連れて来て会談させようという筋書きです。竜馬は手を叩いて喜び、その実現のための努力を誓いました。
 翌日から、竜馬と土方の二人は、長州藩士の説得を始めました。彼等の怒りや憎しみを国家の大事という大目的のためにやわらげさせ、新しい局面を開くという仕事は、忍耐のいる困難な仕事でした。やっとのことで、ともかく会うだけは会ってみようという所まで漕ぎつけるのに、たっぷり三日間の根気よい説得が続きました。
 ところが、来るはずの西郷は、待てど暮らせどやって来ませんでした。十日以上も経って、西郷と会うことになっていた桂小五郎が、いらいらしてきた頃に、中岡が一人で現れました。西郷は京都の状況があわただしくなったので、急遽、大阪に向かったため、下関には寄れなかったというのです。桂は怒りました。またしても薩摩にだまされた。薩摩は信用できないというのです。中岡と竜馬は、プンプン怒っている桂を懸命になだめて、なんとか西郷と会うようにと、もう一度、説得します。
 二人の誠意あふれる説得に、桂は一つの条件を出しました。第二回征長軍が攻めて来るという事態を前にして、実は長州藩は武器の購入に頭を痛めていました。勿論、鉄砲弾薬などを外国から買い入れたいのですが、幕府の妨害に会って、思うようにいかなかったのです。それで薩摩藩の名を借りて武器を購入してほしい。そうすれば、あとの処置は二人にまかせようというのです。
 竜馬は桂の申し出を引き受けて、この仕事を亀山社中にまかせました。長州からは、井上馨と伊藤博文が長崎に出向き、社中の尽力で小銃四千三百挺を買い入れ、さらに汽船の購入までやっています。一方、竜馬は中岡と共に京都に行き、西郷たち薩摩側の説得にとりかかりました。
 長州再征には反対し、征討軍に参加しないと表明している薩摩ですが、一足飛びに、だから長州と手を結ぼうということにはなりません。藩内の情勢も、そこまで踏み切れるほどではなかったのです。竜馬たちが説得工作を続けているうちに、幕府の願いで二度目の長州征伐の命令が朝廷から出されました。こうなると長州の方も放ってはおけません。中岡は再び長州に向かいました。薩摩は、この事態の中で、国許から軍隊を京都に送ることになったので、その食料を下関で買いつけることにし、その交渉を竜馬に依頼しました。長州から食料を購入することによって、薩摩の誠意を示そうというふくみがあったのです。
 薩摩と長州の連携は、一朝一夕にゆく問題ではありませんでした。桂が西郷との会見のために、やっと重い腰を上げたのは、この年慶応元年の十二月末でした。西郷が黒田清隆を送って、五月に下関ですっぽかした非礼をわび、また高杉晋作や井上の、たってのすすめや、竜馬の懇請によるものです。
 桂たち長州藩の一行が大阪に着いたのは、慶応二年一月七日でした。すぐに伏見の薩摩藩邸に着き、わざわざ伏見まで迎えに出て、初対面の挨拶をした西郷と一緒に京都の薩摩藩邸に入りました。薩摩側は桂たちを手厚くもてなし、お互いに、これまでのことをいろいろと話し合いました。しかし、肝心の両藩で統一戦線を組むという話は、どちら側からも切り出されず、桂の滞在は十日あまりにもなりました。ちょうどこの頃、竜馬は京都を留守にしていたのですが、大いに気にかかっていたのでしょう。一月二十日、京都の藩邸に着くとすぐ、桂の部屋を訪ね、ことの成果を聞こうとしました。
 桂は、この問題は当然、薩摩側から切り出すべきだと思っていたので、竜馬の顔を見るとすぐさま、その非を訴えました。桂によれば、現在、征長軍の攻撃を目前にして、苦しい立場に置かれている長州の側から、薩摩に統一行動を求めることは、援助を乞うようなもので、これでは、長州の面目が立たないというのです。優位に立っている薩摩の方から口を切ってくれるのがあたりまえだというのです。
 それは、竜馬にとって、あまりにも心外な言葉でした。「自分はめったに怒ったことがないが、あの時ばかりは激怒した」と、竜馬は後に語っています。両藩の統一を現在の状況の中での急務と考え、国家全体の方向という枠の中で考え行動しようとしている竜馬です。藩の体面などというちっぽけなものにこだわり、ベンベンと十日あまりを空費したというそのことに対して、竜馬は心の底から怒ったのでした。竜馬の怒りの前に、桂は一も二もなく頭を下げました。竜馬はすぐさま西郷の部屋に行き、桂の長州藩としての立場を代弁して、西郷の側から問題を切り出すことを約束させたのです。こうして、十数日間も白紙状態にあった薩長二藩の連携問題は、急転直下、すらすらとまとまることになりました。
 お互いに頑固にそっぽを向きあっていた二つの藩を一本にまとめるという難題を前にして、仲介者の竜馬は、こんな論法を使っています。すなわち両者の意見は、それぞれに国家、社会のことを考えて生まれたものであり、そこに話し合いの共通点、一致点がある筈だということです。そこを基調として、時間をかけてじっくり話し合うこと、さらに話し合いの中で、自分の方だけを義であり真であるとして相手側に押しつけようとしてはならない。それより、お互いの一致点を見出そうとする態度こそ大切であり、またそうすれば、必ず一致点は見出せるという確信があったのでした。
 翌日、西郷と桂の間で、話はスムーズに進み、薩長同盟の盟約は成立しました。桂は数日後、これを文書にして竜馬に送り、立会人である竜馬の裏書きを求めています。
 二度目の長州征討軍が、今にも出発しようという時期にあたって、強力な軍事力を持つ薩摩藩が、征長軍に参加しないだけでなく、長州軍に協力の体勢を組む取り決めをしたということは、この時点において重大な意味をもっていました。さらに、この規約では、一橋、会津、桑名の藩が、現在のように朝廷を擁して正義に反し、朝廷への周旋尽力の道を妨げる時には、戦いによって決するほかはないとして、二藩の立っている立場と決意を確認しています。新しい時代を迎えるための、一つの布石は、こうして敷かれたのでした。
 一仕事すませた竜馬は、伏見の寺田屋に帰りました。一月二十三日のことです。寺田屋は薩摩藩士の定宿となっており、竜馬も数回泊まった、なじみの家でした。当時、竜馬は薩摩藩の通行手形を持ち、月代なども薩摩ふうに剃るなどして、薩摩藩士をよそおっていたそうですが、幕府側からは完全にマークされていたものと見えます。
 伏見奉行の配下と新撰組は、その夜、竜馬が京都から戻ったことを確認して、踏みこんできました。薩長同盟をなしとげた竜馬への怒りであったかもしれません。
 この急を知らせたのが、寺田屋の養女お竜でした。お竜はもともと頼三樹三郎や梅田雲浜などの同志で、医者でもあった楢崎という人の娘でした。父親の死と同時に落ちぶれ、家族離散というめにあい、食べるのにも困っているのを竜馬が救って、寺田屋に託したもののようです。それはともかく、とっさの間に、竜馬は大小を差し、ピストルをかまえました。このピストルは、この間、高杉晋作からもらったばかりのものです。この時、一緒にいたのは、竜馬が今度京都に来る時、長州から同行した三吉慎蔵です。三吉は槍をふるい、竜馬はピストルを撃って、暗い部屋の中での乱斗が始まりました。そのうち、竜馬は右手の指を切られ、ピストルに弾丸をこめることができなくなって、三吉と共に逃げ出します。二十人余りの人々に、不意に襲われたのですから、命からがら逃げたというところでした。しかも手傷を受けていましたから、途中で動けなくなり、三吉が伏見の薩摩藩邸に救いを求め、藩邸の川舟で引き取られるという有様でした。
 寺田屋の養女お竜は、騒ぎが治まった後、すぐに伏見の薩摩藩邸に、このことを知らせ、竜馬が藩邸に着くと、三吉と一緒に、つきっきりで看護しました。右手の親指と人差し指の関節に受けた傷は、動脈を切っていたとかで、出血が多く、なかなか止まらないため、三日ぐらいの間は、起き上がるとふらふらしたということです。
 傷がだいたいよくなると、竜馬は京都の薩摩藩邸に移りました。勿論、三吉とお竜を同伴して行ったのですが、その時、西郷や小松に、お竜を妻として紹介しています。
 一か月ほど京都で養生した竜馬は、薩摩に帰る西郷、小松たちの藩船に便乗して鹿児島に行き、さらに霧島や塩漬などという温泉を廻っています。妻お竜も一緒です。まあ、云ってみれば新婚旅行のようなものと云えましょう。妻は国許で家を守るというしきたりが、厳しく守られていたこの頃は、妻を同伴して藩船に乗り込むなど、想像もできない時代でした。しかし、竜馬にとって、そんな習慣や体面など、まったく無意味なものだったに違いありません。それよりも、竜馬は、竜との関係そのものを大切にしたかったし、それを妨げる何ものもないと信じられたと思われます。九死に一生を得た直後の、竜馬の愛情生活のなかで、人の生命の意味が、強く問い直されていたのでした。

 

                  <坂本竜馬FM原稿 目次>

 

   五 大政奉還

 一昨日お話した通り、竜馬の作った亀山社中は、ワイル・ウェフ号の沈没以来、苦しい経営を続けていました。そこに、思いがけないことには、土佐藩から救いの手が伸びて来たのです。土佐藩の内情も、多くの犠牲者を失ったあげく、次第に変わってきていました。元治元年八月の政変直後に捕らえられた土佐勤王党の志士たちは、ひどい拷問の果てに刑死したり、自殺したりして、中心人物の武市瑞山も慶応元年五月、切腹を命ぜられたのでした。それが皮肉なことに、その直後から、尊攘派の運動に曙光がさしはじめ、藩内の空気も目にみえて変わり始めてくるのです。この頃、薩摩藩は長州再征軍への出兵を拒みましたが、土佐藩もまた、これを拒んでいるのです。それは、藩内の長州に同情的な者たちが蜂起する恐れがあったからでした。勤王党に同情していた一部の上士や、旧吉田東洋の一派と目されていた人々の間に、次第に討幕が浸透しつつあったのでした。これには、中岡慎太郎の指導が、大きな役割を果たしていました。
 吉田派の領袖とされていた後藤象二郎も、中岡に教育されて、逆に藩論転換のために積極的に動き出した男の一人でした。後藤は吉田東洋の甥で、東洋が殺されてからは、ずっと江戸に行っていましたが、後に山内容堂に抜擢されて、藩内の産業振興のために腕をふるっていた切れ者です。しかし武市瑞山を切腹に追いやった張本人として、勤王党の連中は後藤を仇として見ていました。その後藤が、出張を命ぜられて、長崎に来たのが慶応二年七月でした。幕府の衰えの目立つこの頃、藩府の政策も転回せざるを得ず、新しい事態に適応する爲、遅まきながら、軍艦購入や藩貿易の拡張に乗り出そうというわけです。土佐藩は経済面でも政策面でも、大きく脱皮しようとしていたのです。
 上海に足を運んで船舶三隻の購入に成功した後藤は、貿易拡張のために竜馬の能力を使いたいと考えました。後藤からの招待を受けて、竜馬は少なからず驚いたようです。亀山社中の連中は、後藤が長崎に来たと聞くだけで、眼をつり上げ、暗殺しかねない有様でしたが、結局、竜馬は招待に応じて、ノコノコ出掛けます。名前こそ知っているが、全く面識の無い間柄です。
 会ってみて、竜馬は大いに後藤という男にほれこみます。この日をきっかけとして、竜馬は後藤と密接なつながりを持ち、その後、長崎に出て来た福岡藤次たち土佐藩の実力者たちに、次々と会うことになったのでした。この頃、竜馬と後藤が手を結んだことを「お国の奸物役人にだまされたそうだ」と云って来た姉の乙女に対して「私一人で五百人や七百人を率いて天下の為に尽くすよりは、二十四万石を引きつれて国家の為に尽くす方が、はるかによろしい」と書き送っています。表面上はともかく、土佐藩を率いて一仕事やるという確信といえるでしょう。
 窮乏にあえぐ亀山社中を土佐藩の丸がかえにしようという案は、亀山社中にとっても有り難かったのですが、土佐藩としては、このような組織が、是非とも欲しかったと思われます。同時に中岡慎太郎を隊長とする陸援隊の構想も生まれ、慶応三年四月、後藤、福岡、坂本、中岡の間で、正式に規約も定められました。もっとも、亀山社中のように、もとになる組織の無かった陸援隊の編成は、ずっとおくれ、七月になっています。
 こうして、竜馬は再び脱藩の罪を許されて、海援隊長に任命されました。「隊の事業は基本的には土佐藩が応援する。基本的には独立採算性でゆくが、不足の場合は土佐藩の長崎出張官から支給を受ける」と決められ、また隊そのものは藩に直属するものでなく、暗に長崎出張官に属することになっていました。
 海援隊の目的は、通運によって利益をあげること、戦争に参加すること、さらに他国の様子をさぐることなどがあげられています。隊の修業課目には、機関、航海術、語学に至る学課が見られますが、当時、伏見の寺田屋に送った手紙に、竜馬は「長崎で一局を開き諸生の世話をしています」と書き、一局という所に「学問所なり」と注釈を加えているのです。つまり竜馬は、海援隊を日本海軍の創生期にみたてて、その教育活動という意味を重視していたように思えるのです。常に、時代の要求に合致した形で自分の抱負の実現にあたろうとしていた竜馬のことですから、海援隊は彼の描いた未来の日本という大きな構図の中の一布石だったといってもよいと考えます。
 海援隊の隊士は無論、千屋寅之助、安岡金馬、長岡謙吉、新宮馬之助といった、亀山社中の同志たちです。それに水夫、火夫を加えて五十人ほどでした。隊士のなかの小谷耕蔵は、一人頑固な佐幕論者でした。他の隊士たちが、それを嫌って、小谷を除名しようとしましたが、竜馬は「たった一人の異論者を同化できないでどうする」と云って取りあわなかったということです。ここにも、竜馬の生きる姿勢、人間関係に対する態度が、はっきりとうかがえると思います。
 海援隊がスタートするより大分前にさかのぼりますが、慶応二年六月、第二回の征長軍は、わざわざ長州まで攻めて来て、長州軍に敗れました。亀山社中が長州藩のたのみで購入したユニオン号も幕府側の海軍と戦いましたが、竜馬は高杉晋作にたのまれて、これに参加しました。竜馬がたった一回体験した戦斗というものです。将軍家茂が死んだのはその直後でした。征長軍は、その死を理由に、うやむやのうちに兵を引き上げました。徳川家を継いだ一橋慶喜は、なかなか将軍の座につきません。こうした政治的空白期の中で、竜馬は長崎にいて、情報を集め、事態を見つめていました。竜馬の胸のうちに、政権交替の腹案は、いろいろと描かれたに違いありません。
 竜馬がまず第一に働きかけたのは、越前の前藩主松平春嶽でした。竜馬は長崎出張中の越前藩の下山尚に「春嶽に政権奉還の策を告げてもらいたい。公が一身を投げ打ってやれば、うまくゆくかもしれん」と説いたのです。下山が横井小楠に会って、この件を報告すると、小楠も賛成し、「これのできるのは春嶽のほかにはいないだろう」と答えました。下山が春嶽に政権返上のことを献言したのは十月の末でしたが、春嶽に一身を投げうつ決心がつかなかったのか、時期尚早と見たのか、ことはそれ以上発展せずに終わってしまいました。期はまだ熟していなかったのです。
 一方、幕府側のこの虚をついて、一挙に幕府体制を雄藩体制に切りかえようと策したのは、薩摩の西郷、大久保利通らでした。彼らは洛北に隠栖中の岩倉具視ら公卿たちと謀って、動き出しました。早くもこの動きを察知した慶喜は、先手をうって公卿たちの動きを抑えて処罰にもちこみ、十二月五日、将軍の椅子についてしまいました。孝明天皇は、その直後の十二月二十五日に亡くなっています。
 機先を制せられた西郷、大久保たちは、明けて慶応三年四月、慶喜が大阪で、英、米、仏、蘭の代表と会うのをきっかけに、雄藩会議をおこし、幕府が勅許を受けずに兵庫の開港を宣言した責任を追求して、将軍を大名の列に引きずりおろそうとはかりました。雄藩会議には、土佐前藩主山内容堂、宇和島前藩主伊達宗城、越前前藩主松平春嶽、薩摩藩主の父島津久光の四侯を引っぱり出す計画でした。会議は五月上旬に開かれましたが、意図に反して不成功に終わり、西郷、大久保、小松たちは、このうえは武力にかけても徳川政権をうち崩すほかはないということを確認する結果となってしまいました。山内容堂に呼ばれて江戸から京都に出てきた乾退助や、谷干城、毛利夾助、中岡慎太郎ら土佐藩の有志は、会議の不成功を見こすと、早々に会合して、薩摩、土佐の討幕の密約を結んでいます。これまで、むしろ幕府に対して協調的であった薩摩、土佐の両藩が、今や武力革命の道に雪崩れこもうという段階に入ったのでした。この趨勢に「待った」をかけ、大政奉還という新しい解決策を掲げて登場したのが後藤象二郎でした。その陰に、この策を授け、精神的支えともなった竜馬がいたのは勿論のことです。
 四侯会議に出席のため京都に上がる際に、山内容堂は、長崎出張中の後藤象二郎に、急遽上京するよう命じていました。命令を受けた後藤は、竜馬と共に長崎を出発しましたが、彼は既に竜馬の意見に促されて、容堂に大政奉還の具申を説得する決意を抱いていたのです。長崎からの船中で、竜馬が後藤のために書き記したのが、いわゆる船中の八策と呼ばれているもので、大政奉還、公議政体の新方針を盛りこんだ天下一新の策でありました。後に明治新政府が発表した五か条の御誓文は、これをもととして、福岡藤次が修正を加えたものといわれています。
 意気ごんだ後藤が京都に着いた時は、四侯会議が失敗して、容堂はさっさと土佐に引きあげたあとでした。しかし後藤は、福岡藤次と語らって、大政奉還を土佐の藩論にすることを申し合わせ、また竜馬や中岡の紹介で、薩摩藩と同盟を結ぶことにも成功します。これは薩長統一戦線につぐ薩土統一戦線でした。この時、二藩の盟約に土佐側から出した草案は、竜馬の船中の八策を基にしたもので、そこにははっきりと、徳川家を大名の列に引きおろし、議会制の採用をうたっていました。
 後藤はさらに安芸藩の賛成協力を得て土佐に帰り、容堂を説きました。薩摩、長州による武力倒幕をおそれ、島津久光に先手を取られてはならぬとあせっていた容堂は、大政奉還を自分から建言することによって、主導権も握れると考えて、この案に賛成します。こうして、大政奉還は藩の方針として決定し、建白書が作られました。この建白書を持って後藤が京都に着いたのは九月二十一日でした。
 大政奉還の策を後藤に授けた竜馬は、九月十五日、土佐藩のためにライフル銃千三百挺を買っていました。大政奉還の建白を云い出してから、その実現の日までに、あまりに日数が経ちすぎていたし、これまで土佐藩の藩論がくるくる変わってきたことから、武力倒幕を主張する人々からは幕府のために、けんせいする策ではないかと疑われはじめていたのです。それに、土佐藩の中にも、武力倒幕を頑固に押し進めようとしているグループもいました。万一、大政奉還の建白が成功せず、武力倒幕の線が強くなった時、土佐藩は、薩長に比べてあまりにも武器が足りない。その時のことを考えて、打った手です。そればかりか、その銃を土佐に運ぶ一方、海援隊の船に石炭を満載して神戸に運び、また、兵隊輸送のために必要になるからと、多量の石炭購入を命じてもいるのです。
 このように準備万端整えて、竜馬が京都に駆けつけたのは、十月九日でした。早速中岡を訪ねて、その後の京都の様子を聞くと、陸援隊は既に武力抗争の準備をほぼ完了したという返事です。それに、薩長の共同出兵の盟約、長州、芸州の共同出兵盟約も生まれ、武力討幕の態勢は着々と進んでいることも知りました。
 すぐさま後藤を訪ねると、老中に建白書を出したのだが、急の返事は無理だと云われ、既に六日も経っていることがわかりました。このようにもたついていたのでは、何時、如何なる事態にならないとも限らないのです。もう、一刻のゆうよも許されない時に来ていると、竜馬は感じたに違いありません。
 翌日、竜馬は若年寄の永井尚志を訪ねました。永井は将軍慶喜の側近として、慶喜の相談に預かる人です。竜馬は初対面の永井に向かって、「失礼ですが、あなたは幕府の兵力を冷静に観察して、薩長芸の連合軍に勝てるとお考えですか」と切りこみました。永井は勝つ見込みはないと答えるほかなかったのです。「それでは建白を採用するほかはありますまい」と、竜馬はたたみこむように云って、永井の眼をじっと見つめました。竜馬は、どうかして、この男の気持ちを建白採用に向けさせたかったのです。
 中二日おいて、十三日は、慶喜が二条城で各藩の重役から大政奉還についての意見を聞くことになっていました。後藤は、福岡や、薩摩の小松たちと一緒に意見を述べることになっていましたが、その後藤が出かける直前に、竜馬は、こんな手紙を送っています。「大政奉還のことが万一行われない時は、必死の覚悟のあなたであるから、おめおめと城から帰ることはなさるまい。その時には、僕は海援隊を率い、慶喜の帰りを待ち伏せるつもりです」
 竜馬は自分も死ぬ覚悟で、後藤にも同じ覚悟を求めたのでした。いざという時は慶喜と刺し違えて死ねというのです。オポチュニストの後藤に対して、それは必要な叱咤でもあったのです。
 この手紙の前の手紙では、「うまく行かなそうだったら、将軍職はそのままにして、幕府の造幣局を京都に移すことにすれば、経済的な裏づけは無くなり、将軍とは名ばかりになるから、心配はいらない。うまく行かなそうだったら、話をこわさぬうちに、土佐から兵を呼ぶことだ」と、大政奉還の建白も、決して一本調子にやる必要がないことを教えています。
 竜馬の万一という心配は、しかし杞憂に終わりました。慶喜はこの時、既に大政奉還の決意をしていたのです。勿論、竜馬のつきつけた言葉で、永井は観念してしまったし、片腕ともいわれていた策士原市之進が殺されてから、慶喜は斗志を失っていたのでした。それに、幕制改革に郡県制度を進言し、その達成のために力を貸してくれるはずだったフランスも、本国の国内事情から、力を貸してくれるどころではなくなっていました。ここで大政奉還をしなければ、徳川家も、その一身も危ないという瀬戸際にまで追いつめられていることを、慶喜は知っていたのでありましょう。
 下城した後藤から、直ちに竜馬あての報告が飛びました。平和のうちに政権の返上を行いたいと切望していた竜馬が、この報告をどれほど喜んだかは、想像できるような気がします。これで、新日本の構想の第一段階は終わったのです。これから、竜馬はかねてからの考えに基づいて、早速、新政府の具体的方針、有能な要員の抜擢といった問題にとりかかることになるのです。

 

                  <坂本竜馬FM原稿 目次>

 

   六 生きている竜馬 

 薩長同盟と大政奉還。この二つは、普通、竜馬がなしとげた最も偉大な業績であると考えられています。しかし、竜馬のなかでは、この二つは、別々のものであるというよりは、一つのものとして、受けとめられていたと考えられます。それは、竜馬にとって、薩長同盟と大政奉還は、あくまで新しい日本をつくるために、どうしても必要であり、新しい日本の布石として、是非とも必要であったということであります。だから、新しい日本という場合に、当然、新しい政府の構想と、その政府による新しい政策というか、日本の新しい方向を定めることも、同時に、想像されていたわけであります。
 ということは、竜馬にとって、薩長同盟と大政奉還と新しい政府の樹立ということは、三位一体として、一つのものにとらえられていたということであります。でありますから、竜馬は、大政奉還の演出をやってのけると、早速、新しい政府への樹立と構想にむかって、行動を開始するわけであります。
 即ち、慶応三年十月十四日に、慶喜が大政奉還した翌々日の十六日には、三条実美の側近である尾崎三郎と、新政府について話しあうと共に、中岡慎太郎への説得工作を始めます。
 中岡への説得工作というのは、中岡があくまで、武力で討幕することを考え、岩倉具視の命をうけて、長州、薩摩と密接に連携して動いていたのに対して、中岡を武力革命から、竜馬の考える平和革命の路線にひきいれるためでありました。
 昨日もお話ししましたように、竜馬は、討幕には武力革命への路線を堅持しつつ、あくまで平和革命の線を進む。しかし、どうしても平和革命の路線で、幕府権力が朝廷に移らないときに、幕府があくまで拒否するときに、初めて武力革命を行使するというのが、竜馬の考えでした。
 しかも、竜馬の願った通りに、幕府は権力をなげだしたのです。だが、竜馬が心から、そのことを喜んでいた同じ日に、朝廷から薩摩と長州に、討幕の密勅が下ったのです。
 竜馬としては非常に心外であります。だから、密勅降下に一役買った岩倉具視、その信頼を強くうけており、薩摩、長州に発言権をもつ中岡の説得となったのであります。
 勿論、竜馬と中岡は、平和革命と武力革命についても、それ以前より論じていました。そして、中岡としても、平和革命が良策であるということを認めましたが、それは、本当に、英雄創業の人でないとできないと考えていました。それに、旗色鮮明でない者達、何時もうやむやな態度をとりつづける者達は、非常に沢山いて、戦争でもやらないと、世の中は本当に変わらないとも思っていました。
 しかし、今、竜馬が、大政奉還をやりとげた後に、積極的に、新政府の新政策を論ずるのをみて、中岡は、竜馬こそ英雄創業の人であり、佐幕的人間をも再教育して、明治新政府に協力させることをやってのけうると思いはじめたようです。
 竜馬としては、長州、薩摩が密勅を中心にして動きはじめるのを予想しながら、その動きの前に明治新政府を発足させ、長州、薩摩の動きを封ずる以外にありません。竜馬の働きかけが成功したかどうかはわかりませんが、その密勅も、十月二十一日には、実行をしばらく見合わせるようにという命令が、長州、薩摩に下ったのであります。少なくとも、竜馬の構想には、明るい見透しがたったということもいえます。
 竜馬が、次に眼をつけたのは、越前の松平春嶽です。春嶽以外に、毛利敬親、島津久光と互角にわたりあえるものはないという確信です。勿論、山内容堂には、後藤象二郎を通して、工作したということが考えられます。
 十月下旬、京都をたって、竜馬は越前への道を急ぎました。おそらく、道中、竜馬は、尾崎三郎を通じて三条実美を説き、中岡慎太郎を通じて岩倉具視と長州、薩摩を説かせ、後藤象二郎に山内容堂を説かせ、自分が、松平春嶽を説くなら、薩長の武力革命を抑えて、自分が願望する平和革命は達成できるのでないかと考えたに違いありません。
 西洋列強の侵略を前にして、日本内で争うことの無意味を更めて感じたに違いないのです。
 竜馬は、春嶽に会い、上京させることに成功しました。難局にとりくむ覚悟を、春嶽は竜馬に約束したと思われます。さらに、藩士の由利公正とも面会しました。由利が最もおそれていたことは戦争であり、朝廷と幕府が戦うことであったのですが、竜馬が「戦うつもりはない」と断言するのを聞いて、由利は非常に喜んだということです。竜馬と由利が話し合ったことは、主として新政府の財政政策でありましたが、由利の意見を聞いて、竜馬が由利を新政府に登用する必要があると考えたのは此の時であります。
 竜馬が京都にかえったのは十一月五日。彼はその翌日から、エネルギーのすべて、情熱の限りを投入して、新政府の樹立へと努力していったのであります。岩倉具視にあって、由利を新政府に採用するようにとも頼みました。それは、薩長同盟から大政奉還、そして新政府樹立と、最後の段階に到達したともいえます。
 しかし、新政府樹立のコースは、意外なところから狂ってしまいました。それは十一月十五日の夜に、竜馬が中岡慎太郎とともに、幕府の見廻組のために暗殺されたことであります。竜馬と中岡を暗殺したのは、渡辺吉太郎、高橋安次郎だとも今井信郎と高橋安次郎ともいわれています。だが、問題は、竜馬が誰に殺されたかということでなく、竜馬の描く新政府の構想がここで、大きく狂ったということでした。挫折したということであります。
 即ち、十二月八日の朝廷での会議で、岩倉具視と大久保利通の線が、松平春嶽や山内容堂、後藤象二郎の意見を抑え、徳川慶喜を新政府から除外し、慶喜が武力蜂起にふみきるようにしむけるのです。そして翌年一月三日には、慶喜軍は、薩長軍のために敗れるという順序になるのであります。その後に、江戸攻撃、北陸征伐、会津征伐、奥羽征伐と続くのは云うまでもありませんし、明治になってからは徳川幕府にかわって長州、薩摩の藩閥政府が、明治年間を通じて日本を治めることが続いたということは、皆様も御承知の通りであります。
 私は、竜馬の存在ほど、長州と薩摩の人々のゆく先に、高く、しかも邪魔な存在として、たちはだかった人間はいなかったと考えるのであります。長州、薩摩の武力革命にまったをかけ、自分の平和革命コースをぐんぐん進める竜馬という存在ほど、いやな存在は長州、薩摩にとってはないでしょう。しかも、竜馬をふみつぶして進むことは、長州や薩摩には出来ないのです。というのは、竜馬の世話になっているからであります。それも非常に世話になっているのです。長州と薩摩の人々にとって、竜馬がいなくなるということは、暗殺されるということは、本当に喜ばしいことであったに違いありません。
 当時、薩摩の大久保利通などは、盛んに近藤勇の新撰組が竜馬を殺したのだと言って、少しも見廻組のことを言っていません。また、かつて薩長同盟をやりとげた後に竜馬が襲撃されたとき、それを聞いた西郷隆盛は非常に怒り、薩摩の一小隊をつれて新撰組をおそおうとした程ですが、今度、竜馬が殺されたときには、それほどの怒りをしめしていません。私には、こういうところから、竜馬のかくれ家を、見廻組にさせたのは、長州や薩摩の人達でなかったかという疑問さえ残ります。竜馬がいなくなることで、長州と薩摩は、藩閥政府をつくり、政権を壟断することもできたのですから。
 というのは、此の時すでに竜馬は、憲法を制定することと上院、下院をつくることを、新政府の根本にしています。しかし、長州と薩摩を中心とする明治政府は、二十二年まで憲法の制定と上院、下院を設けることをさぼっているのであります。こういうことは、竜馬にとっては、許されないことであり、がまんならないことである筈であります。
 しかも、思想的に、竜馬に深い影響をあたえた横井小楠までが、明治二年一月、共和思想の持ち主ということで暗殺されたことにより、明治新政府の中で憲法の制定とか、上院、下院の設立を強くおしすすめようとした者は全くなくなったということもいえます。
 長州の勢力、薩摩の勢力を、明治政府の中に拡張しようということを考える人達に、国民の権利、義務や自由の精神を拡大しようという考えがおこらないのは無理もありません。竜馬が生きていたらという設問をする時に、板垣退助、山本権兵衛、岩崎弥太郎以上という声は、いろいろの人から聞かれるのですが、明治新政府の性格を変えたのでないか。もう少し、国民のための政治をする政府になったのではないか。長州閥、薩摩閥をあんなに跋扈させなかったのでないかという声は殆んど聞かれません。
 だが、竜馬に、本当にやりたいことをやらせ、そしてそれが出来た時には、そういうことになったのではないでしょうか。その意味では、竜馬は一番やりたいこと、やらねばならないことには、殆んど手をつけず死んだということがいえます。しかも自分のやりたいことは、その後二十数年もやられなかったということ、それも出来た時には形式的なものに終わって、竜馬自身が夢想し期待したこととは、全く違っていたということになったのであります。
 これでは、竜馬は死にきれません。此の世に未練が残ります。その意味からも、竜馬は現代に語りかけ、囁きかけているということが云えるし、現代にその魂は生きているということも云えます。
 歴史が飛躍と発展を求められるような時に、竜馬の意味が更めて問われたのもそのためでしょうし、今また竜馬への関心がたかまっているのも、そのためであります。
 私が、竜馬を問題にし竜馬の研究をするのも、やはり同じ目的であります。私は、不思議と現代と幕末という時代に共通点を見出します。それは変革期であり、過渡期にあたっているということであります。多くの問題を変革しなければ、どうにもならない時にきているということであります。
 そして当時、長州と薩摩はお互いの利権を求めていがみあい、土佐や肥後は甘い汁を長州や薩摩に独占されないことばかり考えていたし、桑名や会津は自分達の権利を守ることに汲々とし、その他の多くの藩は傍観するだけでした。
 これが、今日の事情と非常によく似ているとは考えられないでしょうか。そして、新しい時代を招来するために武力によるか平和的手段によるか、意見が分かれているということも今日と同じです。その時、薩摩と長州を結びつけ、平和革命のコースで新しい時代を招来した竜馬の見識と行動ほどに、今日私達に強く語りかけているものはないと思います。これほど、大きく呼びかけているものはないと思います。
 私達が歴史上の人物の意味を問うということは、ある意味では現代に最も多くのものを語りかける人物を問うということであります。その点、竜馬ほどに現代に語りかけるものはいないといっても過言ではありません。
 徳川家康が、二、三年前から非常に多くの人から知られ、家康の小説や評伝が読まれました。しかし、家康はあくまで古い秩序の中で、秩序を作り秩序を守った人であります。
 竜馬は、家康と対照的に、古い時代をこわし新しい時代を準備した人間であります。家康を多数の人が肯定し、竜馬をそれほど多くの人が肯定しないということは、それだけ今日、古い秩序の中で精一杯うまくやろうとしている人が多くて、今日が変革期であり過渡期であるということを認識している人が少ないということを意味しましょう。
 家康熱が強くて、竜馬熱がおこらないことを悲しむものであります。それに、明治百年がこようというのに、明治維新を招来した人物はあまり歓迎されていないようであります。
 これは、全くおかしいというしかありません。たとえ不十分であったとしても、少なくとも古い時代をこわし新しい時代をつくったのであり、そのために多くの若い生命が投入されたのです。その血の代償として明治維新は獲得されたものです。
 今日、変革を願う者は、まず第一に明治維新の変革を考え、どこが好ましくどこが不十分であったかを学ぶことであり、国民の中に何よりも変革的伝統を定着させることであります。国民の中に変革の意識を定着させることであります。また、そのために明治維新ほど、いい材料はないと思います。
 ここで注意しなくてならないことは、明治維新を絶対化し、モデル化しないということであります。それは、歴史を固定化し、歴史を連続と発展の中でとらえるという、歴史を学ぶ根本的姿勢を欠くということであります。
 竜馬に即していうならば、竜馬があの時代をどのように見、どのように生きたかということを知るということは、竜馬の知識の内容と具体的行動を知って、それを模範とし、それにしばられるということではありません。竜馬がその時代を考えたように、現代を考え、竜馬がその時代の中で生きたように、現代の中で生きるということが、竜馬に学ぶということであり竜馬の精神を継承するということであります。
 御承知のように、竜馬は百年前の人であり、百年前の思想を最もすばらしく生きたかもしれませんが、その時代の制約をうけています。その時代の思想の制約をうけています。
 いいかえると、竜馬の思想と行動は、無限に発展するということであります。発展しているということであります。発展において、とらえようとしない限り、竜馬はとらえられないし、死んでしまうということであります。
 世の中には、歴史上の人物を絶対化し、その思想と行動を固定化し、その人物を神のようにあがめる人が非常に多くいますが、これほどその人物に失礼で、その人物を馬鹿にしたことはないということであります。
 それは、歴史上の人物を尊敬するだけで、その思想と行動を現代的に生かそうとしない者と同じように、歴史上の人物の気持ちに全く遠いところにあるということであります。竜馬が今日に生きているということは、竜馬の如く、過渡期の今日に生きている者が多いということであります。第二、第三の竜馬が生きているということになるのであります。

 

                  <坂本竜馬FM原稿 目次>

 

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