「生き方としての独学 学ぶことの意味(全文)

 

  まえがき

 先に『独学のすすめ』を出してから、約十年になる。それは私が著述業者として独立して最初のものである。今なお売れ続けている本である。その間読者から勇気づけられたとか、自信をもったとか、私の人生コースを変えたとかといろいろの手紙をうけとった。私としては非常にうれしい。今後もなお読まれてほしいと念ずるが、今ここに『生き方としての独学』をさらに皆さんに送りたいと思う。
 本書では体験と思索の関係を可能なかぎり追求し、それよって行動しない理論あるいは口舌の徒で混乱している世の中を正したいと思っている。いいかえれば民衆の一人一人の幸福と無関係に理論が論じられ、理論がもてあそばれているのがやりきれないからである。今ほど理論が軽視されている時はない。理論の価値を新たに提唱したいのであるが、そのためには理論の取得の仕方を根本的にあらためなければならない。それと同時に民衆が誰でも知識人になろうとすればなれるし、むしろ知識人になることの主流は民衆にこそあるという自覚をもたせることによって、今の偽知識人を追放したいのである。いうなれば、日本的知性にきりこむことによって、日本的知性を改造したいのである。
 独学の姿勢こそ、それを行う道である。今や、体制の人といわず、反体制の人といわず、ともにその人々の知識は空虚となり、死んでしまっている。それを再生させる道こそ独学である。私は今度の大病でそのことを痛感した。今なお歩けないし、しゃべれないが、このことだけは、どうしても言わずにはおけなかったのである。『独学のすすめ』同様よろしくお願いしたい。
 民衆一人一人が自分で学び始め、自分の生を自分で管理するようになったら、どんなにすばらしいことであろう。

 

         <目 次> 

 

序 再び独学をすすめるわけ

1 知識の持つ本来の意味 体験のすすめ

   体験は生きた知識への出発点 
   体験としての知識の重み 
   創造性を失った学校教育のひずみ
   欲望の解放と変革思想の再生 
   現代知識人の虚妄と責任 
   大学は偽知識人の養成所 

2 主体的学問への模索 体験の意味 

   死の淵から得た決意 
   戦争体験を生かす道 
   吉田松陰における知識と行動 
   大西遷に学んだ中国共産党 
   誰にでも開かれている知識人への道

3 変革を志向する思想の創造 真の知織人とは

   知識人は庶民の中から生まれる 
   まず、工作者、教育者でなけれはならない
   統一的、全体的でなければならない 
   意識そのものを変えなけれはならない 
   実感を重んずる知識でなけれはならない 
   行動にふみだす知識でなければならない
   生きて働らく知識を得なけれはならない

4 人間性回復への歩み 体験と思索  

   人間性を回復する思想の原点 
   行動を生みだす原動力としての欲望 
   行動を左右する感覚と意識 
   見失われた感性の復権 
   知識と行動の止揚と統一 
   実践を通しての独自性の獲得 
   独学をつらぬく自立の精神 

5 生き方を問直す独学 価値観の創造 

   教えられる者から学びとる者へ 
   生涯教育の必要と独学の姿勢 
   個性的知識の価値と効用 
   実践的知識の体得と応用 
   思想的営為の持続と発展 
   自身との格闘と自立への道程 
   試行錯誤を通しての思考力の養成
   大学への挑戦と自己変革 

6 真撃な行動と真理の追求 生の原典 

   死を賭した学問への問いかけ   高野悦子『二十歳の原点』
   荒廃した教育体制の告発     むのたけじ『日本の教師に訴える』
   行動することと人間存在     A・モロワ『初めに行動があった』
   真理を認識する弁証法      毛沢東『実践論』

7 私の独学時代 苦闘の記録 

   独学の必要性を感じた時 
   教師への不信と古典への情熱
   戦中の試練と信念への自負 
   時代への不信と教育者への道
   既成の学校教育の中での苦闘
   真の知識人像と未来への希望

 おわりに 

                     

                      < 目 次 >

 

 序 再び独学をすすめるわけ

 

 今日、私達は知識が非常に無力なことをいろいろの面で思い知らされている。昔、ペンは銃剣よりも強いと言われた時代からみると、隔世の感がある。時とともに、学校教育は普及し、進学率も非常に伸びていながら、反対に知識の力は低下しているようである。社会を変革する力も自己を実現する力もともに後退している。その理由は、一言にして言うと明治以後の教育が一貫して誤っていたということである。暗記力に集中した教育が人間本来のあるべき知識をゆがめたということである。学校秀才とは暗記力に秀でた人間のことを言い、その人達が日本民族を破滅させるような戦争をやってのけたばかりか、彼らが指導者になり得たのも、彼らの知識が権力に弱く、盲目的であったためである。人間のための、平和のための知識であることを忘れていたばかりか、その知識そのものも観念的知識におわり、主体的知識には程遠いものであった。それというのも、その知識は暗記的知識であり、具体的な自己を出発点とせず、具体的状況をふまえて、その延長の上に確立された知識ではなく、単に頭の中で勝手に考えられた抽象的知識であったからである。言いかえれば、自己の体験を出発点とせず、自己の体験に裏づけられない観念的知識だからである。明治以後、学校教育は盛んに、客観的といい、論理的というあまり、主観的なものをのりこえ、実感的なものをのりこえたところに、客観的なもの、論理的なものがあることを忘れ、単に主観的なもの、実感的なものを排除する傾向にあったということである。一般に、明治生まれの老人が個性的といわれるのも、まだ学校教育が普及せず、江戸時代の主観的なもの、実感的なものを尊重する教育の名残りの下に成長したためである。今日の言葉でいえば、全人間性の教育が重んじられていたということである。今日は全人間性の教育という名があるだけで、その実、全人間性の教育はどこにもない。青白きインテリといわれるのも当然だし、所謂大学教授の多くが頭でっかちであり、現実社会をリードするような発言をなさないのもそのためである。さらには、自然科学者たちによってリードされた日本が公害で悩んでいるのも、その知識に欠陥があるためである。
 今こそ、自然科学的知識をもふくめて、知識そのものを問い直すときである。暗記的知識をやめて、自己の体験から出発し、自己の体験に裏づけられた知識にかえるときである。そうすれば、知識が力をもってくるだけでなしに、今の学校教育のために落伍者となった人々が生きかえるし、今日の社会は、もっともっと個性的となり、生き生きしてくる筈である。
 どうすれば、そのような知識を自分のものにできるかといえば、今の学校教育の中でこそ独学の姿勢をもつことである。普通に言われている独学とちがって、学問するということが本来独学であり、独学なしには、学問は自分のものにはならないのである。自分の主観、実感を尊び、それらを客観的なもの、論理的なものに育てあげるのも、独学の姿勢があってはじめてできることである。今日、思想の自立ということが言われながら、そうならないのも、独学の姿勢がないためである。独学することが大事であると知る者は個性的になるなと言っても個性的になる。知識も自然に力をもってくる。それこそ、知識をもつことが生きることであり、生きることがそのまま知識をもつことであるからである。自分の体験を方向づけるものが知識だからである。
 普通に言われている独学者の場合、学問をしようとすれば、自分で学ぶしかない。わざわざ独学と言う必要もない。学校教育の中でこそ、独学ととくに言わなくてはならないのである。学校教育が普及したからこそ、今日とくに、独学を言わなくてはならないのである。自分の学問とするために、言わなくてはならないのである。
 学校教育の中で、独学の姿勢が必要であることが自覚されるようになるなら、知識は弱いものから一転して強いものになろうし、人々は個性的になろう。多くの落伍者は生き生きと活躍するようになろう。そうすれば、世の中はどんなにかよくなろう。
 青白き知識人が指導者となっている故に、理論と実際は違うということが言われる世の中となるのである。実際と違う理論、現実をリードできないような理論は真の理論ではない。今はあまりにも、似而非なる理論が真の理論であるかの如くに、のさばっている。似而非なる理論のみでなく、偽知識人を追放することが今日の責務である。
 偽知識人とは、今の学者というか、大学教授の多くである。彼らがいなくなり、彼らを尊敬する人々がいなくなれば、どんなに世の中はよくなることであろう。道元の昔より、真の知識人にあうことはかたいと言って、偽知識人の多いことを口をきわめて攻撃している。私の力の及ぶ範囲で、そのことをあきらかにしたいと思う。

 

                <「生き方としての独学」目次> 

 

 1 知識の持つ本来の意味 体験のすすめ

 

 体験は生きた知識への出発点

 人間は幼いとき、どのようにして、知識といえるものをはじめて身につけていくかについて、牧口常三郎は次のように言っている。
「児童は生まれ落ちて以来、永い期間、毎日刺激され、心意に固着してはなるべからず、忘れんとして能わざる郷土に関する知識」とか、また
「試みに、子供ととんぼさしの競争をしてごらんなさい。わずか六歳の子供が、とんぼの種類を八、九種は列挙します。近所の事柄の精細な観察はわが子にさえも及びません。」
 このことは、幼児がその感覚というか、目、耳、鼻、口、皮膚などを通して、徐々に知識をたくわえることを言っている。人間の行動を離れて、知識はないということでもある。しかも、知るということは、人間が行動するために、どうしても必要なことで、知るということを離れては、何の行動もできない。知るということは、人間の行動のためにあることで、本来知と行は一つのものである。
 原始の人間にとって、最も必要であった食べること、眠ること、着ること、交接することなどのどの一つをとっても、この知るということを離れては成立できないものである。それが次第に、世の中が多岐になり、複雑になってきて、いつか知るということが、単独にあるかのように思われてきた。事実、人間の見、聞き、考える能力はどんどん発達することによって、知識は知識そのもののために存立するかのように思われるようになったのである。だが、そのような知識でさえも、究極には、人間の行動に役だつことをねらったものであり、人間の行動とは無関係ではないのである。
 陽明学が知行合一を提唱するのも、ともすると世の中の人々が、知識のための知識、行動にまで出ない知識を知識であるかのように考えるようになったためである。知と行は本来きり離すことのできないものである。
 自我のめざめにしても、今まで、子供が親や教師、近所の大人たちの言うことをただ聞いて、それを知識として、自分の行動に役だたせていたのが、段々と自分の行動を自分の知識にもとづいて考え始めるようになったことをいう。人間はその時、自分の感覚をとおして、自分自身をみつめ、自然をみつめ、人々をみつめはじめる。そうして、次第に、自分についての、自然についての、世の中についての知識をかためる。ある程度の知識がかたまるには数年の年月がかかる。それがかたまるまでは、人々は不安にさらされる。青春時代の不安と言われるのもそのためである。しかし、自分の感覚をとおして掴んだ知識はたしかで強い。
 幼少年期の知識は自分の感覚をとおして掴んだものとはいえ、多くの場合、まだ疑うこともないし、考えきるということがないから、それはまだ本当に自分自身の知識と言うことはできない。自分自身を対象化して感じ、考えることもできない。だから、今日大人になっている者も、自分を対象化して感じ、考えることのできないもの、自分自身の感覚をとおして考えることのできない者はまだ自我にめざめていない者と言える。そうなると、如何に多くの自我にめざめていない大人がいるかということになる。
 いずれにせよ、この自分自身を対象化して、感じ、考えるということは、人間にとっての経験であり、行動だということである。体験のつみかさね、行動のくりかえしが知識となるのである。知識は体験や行動の延長であり、単に脳活動でおぼえこんだ知識でも、この体験や行動と結びついた時は、人間そのものを動かすものとなるのである。
 体験や行動の延長にある知識と結びつかない、単に脳活動だけで得た知識が真の知識として、今日横行しているのである。知識というものは、本来全人間的なもので、人間そのものを動かすものである。人間そのものが逞しく、強いように、知識も本来逞しく、強いものである。
 知識が弱くなったのは、人間そのものから遊離したためである。人間の一部になったためである。全人間的で、人間の行動を支配する知識そのものにしなくてはならない。
 人間が本当に人間になる。すなわち自我のめざめの時、知識はどういうものであったかを思いおこすことである。自分自身の知識というものは、本来どんなものであったかを思いおこす時である。自分の感覚から遊離した知識が知識そのものであるかのように思われてきた。この迷妄から眼をさます時である。だから、今日、子供が大人より勝っているとも言われるし、大人が子供になりたいとも言うのである。子供はあくまで子供であり、今日、多くの大人が停滞しているのである。時には、子供より後退しているのである。
 知識の核になるのは、人間の感覚であり、体験や行動である。
 青春時代に、真に自我にめざめた者が、その後大人になるにつれて、いよいよ自我にめざめたとしたら、この世はすばらしいものとなろう。その多くは自我の芽をつまれ、多くの人間は自我を明確にめざめさせないままに終わっている。
 今日孤独に悩み、物いわぬ青年が多く育っているのも、彼らが真に自我にめざめつつある証拠である。それなのに、中年層の多くは彼らをあわれむ。自分達が自我にめざめず、孤独を味わなかったことを誇るかのように。中年層の多くは、あまりにもおめでたいのである。真の連帯は孤独のなかより生まれる。
 人間がその感覚をとおして、知識をつくりだしたことを、もう一度知りなおすことが必要である。感覚をとおさないでは、どんな知識も生まれなかったことを知るべきである。感覚をとおして知識を獲得したという、体験そのものをもう一度省みることである。感覚や体験を通さずして、知識は得られるが、そんなものは、人間の知識から程遠いことを知るべきである。本来の人間の知識からみれば、半端なものであることを知るべきである。
 自分の体験より出発した知識とは幼少年の知識であり、幼少年の子供は、それを基調にしながら、大部分の知識は親や教師や近所の大人達の知識で補っており、まだ明確には自分自身の知識とそれらとの違いに気づかない。気づき始め、抵抗しはじめたときが、自我がめざめた時である。それは、人によって異なるが、四、五歳から十八、九歳までつづく。この年齢の間に、人間は自分にめざめ、自分とは、社会の中の自分とは、現代の中の自分とは何かを自分に即して考えはじめる。自分の可能性は何かと言ってもいい。人間の体験が非常に特珠なもの、ただ一回限りのものであるように、その体験から生まれる知識も全く特殊で個性的である。幼少年の子供は特珠で個性的にしか考えることができないとも言っていい。だが、親や教師や大人達の共通している知識と自分独自の知識をつきあわせていくことによって、次第に、一般的知識になっていく。そして社会常識に身をゆだねるのである。しかし、非常に特殊で、深刻な体験をもった子供は、その意味を考えぬくことによって、いよいよ、自分独自の考えを育て、深める。そうして、非常に個性的思考をするようになるし、さらには、親や教師や大人たちの共通の知識を吸収するよりも、その知識とつきあわせていくことによって、ますます、自分の知識の独自性をたかめていくのである。そういう子供は、親や教師や大人たちの知識を自分の知識と異質でないとみきわめた時、はじめて、自分の知識としてとりいれていく。
 人間は多くの場合、一度は自分について、社会の中の自分について、現代の中の自分について、考えようとするが、それが大変な作業なので、そのことをやめて、社会常識に身をゆだねていく。社会常識に流される人間となって、所謂大人になっていく。所謂大人にならないで、あくまで自分の体験を大事にし、自分自身をふとらせていく人、その人が独学をつづける人である。
 自分の体験にもとづく知識とは、常に具体的事実を尊重し、具体的事実から学んでいく人の知識である。ここには事実をはなれて、どんな知識もなく、ただ事実をリードしていく知識だけがある。事実に即した知識というものが、いかに知識としての力を発揮するかということは、ここにあらためて説くまでもないことであろう。

 

              <「生き方としての独学」目次> 

 

 体験としての知識の重み

 普通、家庭の主婦のみでなく、女性一般は自分の体験に固執し、自分の体験ばかりを語るといって軽蔑される傾向がある。たしかに、今日の主婦のように、自分の体験に固執してそれから一歩も出ないことも、こまったものである。しかし、男性のように、自分の体験を省みることもなく、ただ単に、客観的、論理的という言葉にたぶらかされて、自分自身から遊離した、観念的論理をふりまわすのも、同じようにこまったことである。だから、自分の考えを実行できなかったり、困難や弾圧にぶつかったときに、転向したり、あれは若い時の誤りであったと平気でうそぶいていられるのである。
 行動をともなわない知識はないのもおなじで、知識の名のみであって、実のないものである。ただ主婦のように、自分の体験のみに終わるのをやめて、脳活動を通してえた知識を自分の体験をもとにしてえた知識とかかわらせて、自分の知識をかぎりなく、豊かにすることは必要である。その時、その知識は強力なものであるだけでなく、現実をリードし、現実を変える知識となる。実際と理論はちがうと言わないでもすむような、行動をリードする知識になる。
 主婦の体験にもとづく知識は多くの場合、男性の大言壮語的知識と異なって、責任をもって着実に実行できるものであり、確実にこの世を動かし、支えているものであることが多い。地味だが、たしかなものである。男性は、あまりにも学校教育の弊害をもろにうけて、単に観念的知識をふりまわしている。そういう傾向は、上級の学校をでた者ほどはなはだしい。その代表は大学の先生であり、政治家であり、弁護士であり、医者である。あたかも、彼らはいかに上手に大衆をまるめこむかということが知識の豊富さであると誤解している。率直にいえば、学校教育をなるべく少なく受けた者ほど、人間らしさというか、童心をもっている。今の社会は、学校教育を高度に受けた者ほど価値があると考える傾向にあるが、これは全く狂っている。毒のある者ほど、尊いとする社会は狂っている。
 主婦の体験にもとづく知識を尊び、そこから出発することが大切である。勿論、先述したように、それに終わっているのは駄目である。どのようにして、主婦の自分の体験にもとづく知識と男性の観念的知識を結びつけ、具体的、主体的知識にするかということが大事である。そうして、知識そのものの質を変えることである。鶴見俊輔の思想の科学研究会は、戦後一時期、今までの観念的知識を具体的、主体的知識に改造しようと試みたが、その意図もプラグマチズムの名でかたづけられて、その雄図も今日空しく終わっている。私もまた思想の科学研究会の一員として、残念でたまらない。その雄図が何故挫折したかについては色々と考えられるが、その一つは、独学の精神があまりにも自明なため、学問の世界で、強く提唱しなかったためである。思想の科学研究会は、主婦の中の、女性の中の幾人かを所謂知識人に育てたが、育てられた彼女たちは、主婦の、女性の特性である、自分の体験にもとづく知識という立場をすてて、従来からの所謂知識人の仲間入りをしてしまったのである。そうなることが、彼女達にとって進歩、前進するということであった。彼女達自身、新しい知識人、真の知識人になることもなく、今までの知識人をそのまま認めることになったのである。誠に残念な試みであったと言うしかない。一会員として、その問題を追いつづけることは、全く徒労かもしれないが、私としてはどうにもならない所である。幸いに、先の大学闘争以来、学生の中にも私の『独学のすすめ』を読む者が次第にふえ、大衆と同時に学生の中に、新しい人民というか、新しい知識人を志す人達がわずかに出はじめた。彼らは今ある知識人を目標とせず、その知識人と全的に戦う中で、新しい人民になろうとしている。
 大事なことは、今の知識人になることではなく、大衆も学生もともに、一直線に新しい人民になることを志向していくことである。
 主婦の自分の体験にもとづく知識を重視することは、なによりも大切なことである。そこから出発することは重要である。
 本音とたてまえの二重の意見がこの世に通用しているかぎり、この世は変わらない。本音の意見のみが通用するようになって、はじめてこの世は変わりはじめる。
 自分の体験を核にする知識・思想のみが知識・思想であり、知識・思想の名に価する。これまでの日本の思想風土の悲劇は、体験は体験としてあり、論理的、観念的知識はそのようなものとして、別々にあったことである。それを結びつけようとする努力がほとんどなされなかったことである。たしかに自分の体験にもとづく知識は、そこに体験があり、知識があるというだけで、それだけでは人を生かし、人を幸福にする知識・思想にはならない。人間を生かし、幸福にする知識となるまでには、人間自身の平和感覚、幸福感覚、生存感覚をもとにして、今一度考えぬくことである。そうしない知識は、人間の行動をリードする知識になり得ても、人間を生かし、幸福にする知識にはならないということを知るべきである。
 自分の体験に出発し、体験に裏づけられた知識は、今ある知識と異なって、力あるものとなり、具体的、主体的になる。しかし、それだけでは不十分ということを知るべきである。
 今日、自然科学的知識は、その実、人間の感覚より出発し、その延長線につかまれ、本音とたてまえのない唯一の現実的知識だが、公害の名の下に人間を不幸にし、殺している。知識が何のための知識であるかを問わなくてはならない理由である。ここにも、あらためて、主婦の、女性の知識が今一度省みられなくてはならない理由がある。声を大にして、主婦の、女性の知識よ、健在なれと言わなくてはならない。
 その意味でも、女性が家庭から広い社会に出て、責任ある大切な仕事につくことは非常に重要である。その時、女性が単に男性の観念的、論理的知識をまねて、女性の特質を失ってしまえば終りであを。女性がその特質を発展させ、男性の知識を変えるなら、この世にも希望がもてる。ただ残念なのは、女性の体験にもとづく知識を否定して、男性の観念的、論理的知識を謳歌する風潮である。要は今日の男性の知識、学校教育のあたえる知識では、不十分だと言う人間が多くなることである。
 大学闘争の意味の一つは、そういう疑問を大学教授になげかけたものだが、学生自身にそのことが十分にわかっていなかったために、不発に終わるしかなかった。良心的な教授はその意味を学生以上にうけとめ、自分自身の変革を始め、知識の変革にのりだしたが、そのために従来の知識にそのまま安住する教授達との断層を深めている。その断層は世代間のそれよりもなおはなはだしいと言える。が、まがりなりにも、そのような新しい知識人が生まれつつあるということも事実である。希望のもてるこの世といえる。
 勿論、男性のもつ知識は本音とたてまえの知識があると先に述べたが、その本音の知識は一見すると、自分の体験に出発した知識であるかのように見えるが、実際には全くちがったものであるということである。男性の多くは、単に本音という社会常識にその身をゆだねているだけで、自分の体験にもとづく知識は社会の中に出るとともに捨ててかえりみないのである。ただ社会常識という、空疎な知識だけが横行し、人間としての自分は死んだままである。今の男性中心の世の中は、たてまえの知識と社会常識という本音知識で幾重にもとりかこまれて、人は生きてもいないし、幸福でもないのである。
 また、今は大学卒の主婦も多いが、彼女達は一度家庭に入ると、中学卒の主婦と少しもかわらず、自分の体験しか語れないようになる。もし語ることができるとすれば、男性の多くと同じに、自分とかかわりのないことを単に観念的に語るだけである。今の大学教育というものは、人間そのものを変えることもなく、体験にもとづく知識を肥えふとらせることもなく、単に人間の附属物としての知識を増大させるだけである。だから、附属物としての知識が不必要になったときは、単に自分の体験しか語れぬ女性になるのである。大学卒というレッテルはきれいにはげるのである。男性のように、たてまえの知識が一応成立しているのと違って、女性にはそんなものはどこにもない。あるものは、ただ自分の体験に発する知識だけである。そこに女性の体験に発する知識の悲哀と希望がある。
 男性の常識的知識が通用しているものの、それが男性自身を生かし、幸福にしているものであると言えないのは言うまでもない。要するに、今の女性の自分の体験に発する知識は、そのままでは男性の知識にまさっているとはいえ、全く不十分なもので、今この世には知識の名に価する真の知識はほとんどないのである。それを知るところから、人間ははじめて新しい世の中を作り始める。このことを知りつくさないところに、理想の社会の建設はない。
 その意味で、理想の社会といい、浄土といい、共産主義社会といっても、単に砂上に楼閣を建設しようとしているにすぎないことを、明確に知ることである。理想の社会、共産主義社会という美名から、まず人々がめざめることである。

 

              <「生き方としての独学」目次> 

 

 創造性を失った学校教育のひずみ

 単に記憶された知識というか、脳活動だけを通してたくわえられた知識というものは、観念的で空虚で、実体のないものであるが、体験に出発し、体験に裏づけられた、体験としての知識は具体的、実体的であり、それ自身の中に行動力、意志力、判断力、決断力などの綜合的力を含んだものである。
 マルクス主義、実存主義、プラグマチズムの諸知識でも、それが知識に価する限り、すべて体験の知識であり、単に抽象的、非実体的知識というものはない。人間の行動をみちびかないものは、人間にとって無関係であり、無いに等しい。
 だが、これまでそのような知識が横行し、そのような知識をもつものを、知識人として呼んで尊敬した。少しも現実を指導できるかいなかを問わなかったし、いくら現実と遊離していても、問題にしなかった。知識があればあるだけ、現実から遊離するものだと思われていた。これほど奇妙なことはない。
 単に記憶された知識、主体的に働きかけない知識を知識とよんで疑わないから、知識をもっていることが一つの飾りであり、金と時間があれば、誰にもたくわえられるものだと思うのである。主体的に働かない知識は死んだ知識であり、ないのと同じである。
 私達に必要で、大事なのは、生きた知識であり、それは体験としての知識である。
 体験としての知識は現実をふまえたものであり、決して現実から遊離することもない。常に現実をリードして、現実を変革するものである。知識というのも、行動というのも同じである。いってみれば異語同義である。ただ知識というときは、知識の方に比重がかかり、行動というときは、行動の方に比重がかかっているにすぎない。知識と行動の閑係については後述するが、要するに知識のないところに行動はなく、行動にでない知識というものはないということである。両者は車の両輪のように必要不可欠の関係にある。
 これまでの学校教育は、知識がともすれば書物を通して、単に脳活動だけで得られることから、なんのための知識かということを忘れて、あるいはまた知識とは人間の知識であることを忘れて、そのような知識を知識だと思いこむようになり、ついに観念的で空虚な知識を知識として通用させたのである。
 そこには、自然科学的知識がそれなりに有効であったことから、疑問をおこさせなかったのであるが、そのために人文科学的知識、社会科学的知識はこの百年間、ほとんど進歩のないままに終わったばかりでなく、人文科学的知識、社会科学的知識の停滞が自然科学的知識をもゆがめ、今日の公害をつくりだすことになったのである。現在の人文科学的知識や社会科学的知識は、これまで研究されなかった分野に知識をひろげただけで、真の進歩とは言いがたい。
 体験にもとづき、体験に裏づけられた知識を問題にする者には、知識の要素として先述した行動力、意志力、判断力、決断力、胆力などが重要であり、それを無視しては少しも作用しないことに気づくであろう。ということは、学校教育の中でこれらの諸力が重要であり、無視できないことを知るはずである。だが今の学校教育は、そのような諸力をゆがめ、抑えることに一所懸命である。ただわずかに、過小評価する所があるだけである。これでは学校にいけばいくほど、成績がよければよいだけ、人間としてはだめになる。そのだめな人間に指導されているのが、今の世の中である。世の中がいつまでも希望がもてないのは当然である。
 ここで今一つ忘れてならないのは、体験としての知識の中には、同時に美的感覚、善的感覚、平和的感覚、幸福的感覚なども作用していることである。だが今日、知識のある者ほど、その多くはこのような感覚が欠如していることである。ここにも今の知識として通用するものを再検討してみることが必要になってくる。
 理論と実践の統一を説くことも大事であるが、もっと大事なことは、知識をはなれて行動がなく、行動にでない知識は知識でないことを、もう一度、原始の人間にかえって、知識そのものを考えることである。
 今一つ言っておかなくてはならないのは、唯物論者の知識が必ずしも具体的、実体的でなく、観念論者が必ずしも観念的、抽象的ではないことである。観念的、抽象的な知識をふりまわす者はどちらにも多いということである。ことに、今のように現実をリードできないような唯物論者すなわち社会主義者、共産主義者は自称唯物論者であっても、真の唯物論者ではないということである。大切なことは、その言葉にまどわされないことである。
 現実をリードできない知識をふりまわすのは、自称唯物論者だと言ってもいい。私の言う体験としての知識から、ほど遠いものである。
 いつのころか知らないが、知識と行動が分離して、それぞれに独立してあるものとなったが、今こそ知識そのものに、人間の行動そのものにかえる時である。その時、地球の危機が叫ばれ、人類の破滅と言われているのをきりぬけることも出来るかもしれない。
 三千年の昔、釈迦は地球は永遠かと問われたとき、何も答えていない。すでにそれだけの知識をもっていた。地球の危機をのりきれる、のりきれないの二つの答えをしたのが彼である。
 この危機をのりきれるのは、人間がその知識の質をかえてもっと賢くなる時だけである。
 今の学校教育が死んだ知識、観念的知識を重視するのに反して、江戸時代の代表的教育者であった吉田松陰は、私の言う知識を教えようとしたし、それによって日本で唯一の革命とも言える明治維新をなしとげるほどの原動力を教育によって生みだしたのである。しかし、それ以後ヨーロッパの教育を観念的に輸入したため、その本来の実態を失い、日本の教育を空疎化してしまった。これはヨーロッパの教育の罪ではなくて、その教育を輸入した者の責任である。その後、死んだ知識の詰め込み教育に対して、全人間性の教育とか、人間教育とかということが提唱されたが、知識そのものの検討にまでいかず、死んだ知識を知識そのものとして通用するにまかせたのである。
 その意味で吉田松陰の教育といい、さらにさかのぼって石田梅岩の教育といい、江戸時代の代表的教育に、明治以後の教育、とくに戦後の形骸化した民主主義教育は遠く及ばないといってもよい。明治的人間にいろいろの欠点がありながら、土性骨があると言われるのも、彼らが多くは江戸時代の教育の影響が残っている時代に生きて来たためである。
 私の言う体験としての知識にしても、事新しいことを提唱するのではなく、単に江戸時代のものを復興させようとしているにすぎない。今の学校教育からみると異質であっても驚くことはない。
 第三の教育改革だと言っている中教審の教育案もこのことに気づかないし、それに反対している日教組の教育案にしても、いまだこのことに気づいていない。単に制度をめぐる改革案にすぎない。どちらもどちらである。
 また全人間性の教育というか、人間教育といわれても、十分に私の言った諸能力を育成し、強化するということが考えられていない。諸能力を育成強化するという点では、放置されたままに近い。これでは人間性の教育の名が泣いていると言っても過言ではない。
 単に脳活動で得た知識は知識の一要素をみたしたものにすぎない。知識が真の知識であるためには、すべての要素をもったものでなくてはならない。その時はじめて、生きた知識、知識そのものとなるのである。
 体験としての知識だけを、今後、知識の名で呼ぶことであり、それ以外は呼ばないことである。そのようになれば、今知識人だと言われている人の多くは偽知識人となり、たてまえと本音ということもなくなる。

 

             <「生き方としての独学」目次> 

 

 欲望の解放と変革思想の再生

 人は普通、知識を客観的、普遍的なものと考えることによって、欲望や感覚から切りはなそうとする。普遍的、客観的であろうとすることはよいとしても、思考する主体が主観的、個性的で、本来思考そのものが主観的なもの、個性的なものであることを忘れている。だから私達人間にできることは、いかに主観的、個性的なものを超えて、客観的、普遍的なものに近づくかということである。もし、そのことを忘れてしまうと、今の知識のように実態のない、空疎な知識、無力の知識になってしまうのである。主体のない知識が当然おちいる世界である。いかに客観的、普遍的知識になろうとも、主体のない知識は画いた餅と同じように、餅そのものではない。
 とくに人間は欲望といい、感覚というものをきらって、知識を欲望や感覚と切りはなしたところに成立させようとする。それというのも、客観的、普遍的な知識を求めすぎるためである。
 たしかに欲望といい、感覚というものは、人間のいやがるほどに、あるいは人間の自由にならないほどに、いやらしいものといえる。それは一言にしていえば、人間の自由にならないほどに強烈であるからである。これまで本能の名で呼ばれてきた性欲にしても、食欲にしても、睡眠欲にしても、今まではほどほどに満たすことがいいとされて、それらを十二分に満たすことはいけないこととされていた為に、それらを抑えることがすばらしいとされていたし、感覚にしても、平和感覚、人権感覚、幸福感覚、平等感覚など、そのほとんどを認めないような社会にあったために否定していたのである。
 そのような風潮は、今日もつづいており、欲望や感覚はいけないものという道徳が支配し、大胆に欲望や感覚と知識を結びつけようとする試みがほとんどないのである。結びつけば、人が思っている以上に、自然に知識は強力になる筈である。これまでのように、ただやみくもに抑え、禁止しようとするのではなく、欲望や感覚をそのままにして、単に方向づけを考えたり、どうすればよりよく満たせるかということになってくる。そうすれば、身体のためにもよいことになる。精神のためにもよいことになる。
 今まで、ともすると仏法では、欲望を断つことを教えていると誤解されてきたが、そこには決して断つことを教えておらず、単に欲望を処理し、解放することだけを強調しているのである。それを誤って、断つことだと早合点したのである。
 欲望や感覚と知識を結びつけることだと考えだせば、従来欲望の熾烈なままにそれに身をゆだねたために、不良学生のレッテルの下に学校から放逐されてきた人達こそ、むしろ見込みのある学生として、見なおされるようになるし、落伍者はいなくなるのでないか。
 普通、人間の生命力といって、生命力を重視し、尊敬する傾向がある。しかし、その生命力といっても、要は人間の本能であり、性欲、食欲、睡眠欲の綜合された力でしかない。だからこそ、人間はそれらの欲望を満たすために、力の限り行動する。人間はこれらを満たすために、いろいろの活動をしているといってもいい。名誉欲、財産欲、所有欲にしても、これらの欲望をより効果的に満たすことでしかない。
 ただ人間の性欲となったとき、それがいろいろの副産物をつけ、複雑多様になるだけである。食欲、睡眠欲の場合も同じである。知識はもともと、これらの欲望をいかに上手に満たすかということでおこったもので、元来、別々のものではなかった。それが行動と別のものと思われ、欲望が別のものだと思われるようになっただけである。
 欲望と知識は一つになって、欲望を満たすし、行動があって、はじめて満たすことができるのである。その意味では本来、欲望、行動、知識は三位一体のものである。それがいつのころからか、別々のものとなり、知識だけが非常に重視されて、行動と欲望は軽視されるようになってしまったのである。あまつさえ、欲望は人間に敵視されるようになったのである。
 今日の人間は、ともすると原始の人間を忘れることにより、多くのものを得たかもしれないが、それらの一切を失ってしまうようなしっぺ返しを今うけようとしているのである。欲望と感覚を知識に結びつけるという作業は独学の中でしかありえない。多くの知識を単におぼえこみ、たくわえるという作業からは生じない。
 私達が一つのことを徹底的に考えぬき、それを直接に、間接に、行動をしてみることである。行動の中で自分の体験から生まれた知識と結びつけ、その知識を徐々に豊かにしていくのである。自分自身の知識を徐々にひろげ、深めていくのである。
 私達は私達の知識になっていない知識をあまりに多くたくわえている。私達自身のものになっていない、飾りの知識が多い。だから大学卒の主婦も家庭に入ると、中学卒の主婦と変わらないのがほとんどである。そんな知識をふりすてて、自分自身の知識だけを大事にすることである。私の附属物としての知識を増加するのでなく、私自身をふとらせることである。その時、知識も欲望も行動も一つになるのである。
 昔から、共産主義国でみずから鍬をもって働くということを非常にすすめているが、その意味が今度はじめてわかった。知識を単なる知識におわらせないために、どうしても必要なことであった。知識と欲望と行動を一つにするために必要なことであった。
 知識が生きた知識として、作用するためには、ぜひとも行動が、労働が必要であった。
 ただ死んだ知識を知識として、あくまで重視する人達はそれでもよい。そういう人達は相変わらず、多いことであろう。私は生きた知識を求めている人達に語っているにすぎない。
 さて、欲望を育てるということであるが、欲望はそのままではどうにもならない。人間が発展するように、欲望もその中のある欲望はますます育てなくてはならないし、ある欲望は淘汰されなくてはならない。ともすれば、人が欲望をいみきらうのも、好ましくないと思われるような欲望が熾烈に活動していることが多いためである。        、
 たとえば、今日生かされ、活動している欲望は、それほどに活躍し、満たされるものでない方がよいことが多い。消費欲、地位欲、財産欲、競争欲、あるいは虚飾欲などはほどほどでよいし、それに対して生存欲とか、人間らしく生きたい欲望、すべての人を人間らしくしたい欲望や知識欲はもっと熾烈であってもよい。とくに生かされたいという欲望より、自ら生きたいという欲望は誰にも強烈であってほしいものである。
 人間らしくありたいという欲望と自ら生きたいという欲望は、あまりにも弱すぎる。胆力を養う方法をいろいろ工夫したのは吉田松陰であるが、このような欲望を育てる方法を今日はもっと工夫しなくてはならない。
 芸術教育を通して欲望をたかめることができようし、困難な環境の中に身をおくことによってたかめることもできよう。要は欲望を断たないことである。欲望の強い子供の性格をゆがめないことである。
 吉田松陰は、高杉晋作の頑固をいろいろの先輩が心配し、その点をあらためるように松陰に忠告したとき、「頑固こそ、革命家として必要なもの、学問をすることによって、その頑固さはすじの通ったものになるし、将来不可欠のものになる」と答えて、その点をなおそうとは少しもしなかった。まさに高杉を知る者の言であり、教師としてどのような人間を育てようかということを知りつくしていたといえる。教師とは、すべてこのようでなくてはならない。
 欲望と感覚に根づいた知識が通用するようになれば、今のように本音とたてまえの二つの知識が通用し、現実から遊離した知識がわが物顔をしてのさばるような世の中ではなくなり、ずっとすっきりするはずである。理論と実際はちがうといって、悲しまないでもすむようになろう。欲望と感覚の振起、それは人間が人間をとりかえし、知識の質を変える。
 今の社会主義的思想、共産主義的思想がともすれば現実的でないといわれ、観念的、小児病的であるといわれるのも、それが理想的であるよりも現実をリードできない抽象的思想であることに起因しているし、社会主義を本音で信奉していない者が多いという不信からきている。その証拠に、自民党の代議士も社会党の代議士も日常的には、ほとんど変わらない。現実をリードできないような社会主義的思想は、思想でもなんでもないのである。このことを、あまりにも一般人は考えようとしない。もし社会主義的思想が真に現実にもとづき、現実をリードして、現実を変革できる真に生きた知識となるには、知識そのものがまず観念的、抽象的であることをやめなくてはならないし、人間そのものから遊離しているような、今の状態をやめなくてはならない。頭の中だけで考えられたものから、なによりも現実のものにならなくてはならない。
 だから一般の人々は、言葉としての社会主義的思想にいつまでも不信をいだきつづけるのである。社会主義的思想は今のところ死んだままで、どこにも生きていない。これほど不幸なことは、日本人にとってのみあることである。
 知識を再生して、それによって社会主義的思想をよみがえらせなくてはならない。

 

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 現代知識人の虚妄と責任

 今日の知識人に対して、一般に人々は彼らが知識を豊富にもっているということには、ある程度の尊敬をいだいているが、その知識が多くの場合、現実に役だたないということで大変軽蔑している。いってみれば、敬して、これを遠ざけるという有様であり、せいぜい知らないより、知識のある方がよい位のものと考えているし、所謂知識人をほとんど信頼していない。
 こんな風潮がいつごろからのものか知らないが、すでに鎌倉時代の道元は在世中から、所謂知識人を嫌悪し、所謂知識人に対して、真の知者というか、人間を真に生かす者を善知識とよび、所謂知識人と厳しくわけて、所謂知識人ほど始末にこまる人間はないとみていた。彼は所謂知識人ほど、人間らしく生きることのできない厄介な人間とみたのである。それは所謂知識人というものは、知識という附属物を沢山もっているので、それにたぶらかされて、その飾りをふりまわすだけで、逆にそれだけ人間らしく生きることがむつかしいというのである。
 観念的、抽象的知識にふりまわされて、もう一つの生の人間として自分自身はそのまま未熟なままに在るということである。人々はともすれば、学問という名の客観的、観念的知識が自分自身とは別に成立しているということを忘れて、学問のある者は一様に主観的、具体的知識をもつことによって、人間それ自身を変え、豊かにしていると考えがちであるが、客観的、観念的知識を豊富にもつということと、人間そのものの変革とは無関係である。ただ主観的、具体的知識だけが、人間そのものを変えて主体的知識となるのである。
 人間そのものを変え、人間そのものの生きた知識、行動にまでいくような知識をもつことはむつかしいのに、今日はかえって人間そのものから遊離した知識を知識として、あるいは科学的知識といって、学界、教育界では重視する傾向がある。そのために所謂知識人を一般の人々が、いよいよ敬して遠ざけるという傾向を強くしているのである。極言すれば、所謂知識人は無用の長物として、全く期待されていないのである。この世に何の期待もないのは、あまりに淋しいので、所謂知識人の知識に期待しているかのようにふるまっているにすぎない。それは、ちょうど政治屋への期待に似ている。
 それは何故かといえば、今日の所謂知識は体験としての知識、体験に出発し、その延長線に統一的、具体的につかまれた知識でなく、単なる観念的知識として独立しているためである。勿論、観念的、客観的知識が独立して成立しているということは、一般の人々にとって、大事なことであるし、知識もそうしたことによって、限りなく発展するが、知識は人間の知識となって、はじめて生きるし、有効性を持ってくる。人々はそれをごっちゃにしている。
 体験としての知識でないということは、知識そのものに原点がないということであり、原点がないということは、知識そのものに核になるものがないということである。最近、原点にかえれということがよく言われるが、原点とは哲学が無前提の学といわれ、普遍的、本質的なものを探求する学といわれるように、その前提になるもの、その本質となるものを模索する所から出発し、そこから発展したものをいうのである。戦後の風潮の特性は、この無前提について考える傾向がほとんどなく、さらに何が本質的かと問うこともなしに、それらを自明なこととして出発する傾向にあったということである。思想そのものとしては荒廃したといってもいい。今日になって、前提になるものは何か、本質的なものは何かと問われだしたのも無理はない。
 その場合、人間の生そのものが本質的なものとなるかもしれないが、まだまだ問わなくてはならない。もしかすると宇宙そのもの、自然そのものが前提になるのかもしれない。いずれにしても原点となるものを問いつづけ、そこから発展した知識だけが知識の名に価する。
 歴史が相変わらず、暗記課目だと思いこんでいる者が多いのも、原点を問わない歴史が歴史としてあるためである。
 今のすべての知識は原点を問うていないものがほとんどだし、今の知識人はほとんど原点を問うことの必要性を感じていない者がほとんどである。所謂知識人の知識は過去の誰かが原点を問うた上に建設されたものである。今日は、その原点そのものが崩れはじめている。
 世の中の価値観が崩壊し、新しい価値観が求められているということは、その原点が崩れているということである。このことを明確に認識しないままに、原点にかえれということが、流行のように言われている。これはあまりにも情ない状態である。
 原点を問うという気持になるのは、絶望したとき、それもとことん全身で絶望したときである。現実の国家の指導理念に絶望し、あらゆる先輩に、親に絶望したとき、我一人が生きつづけるために、その拠りどころとなるものを徹底的に問わなくてはならなくなる。すなわち原点となるものを求めなくてはならなくなる。たとえそれは何年かかろうと、それがどんな未熟なものであろうと求めずにはいられなくなる。
 原点になるものを問うことはゼロから出発することである。その点では戦後の思想状況は、原点を問う時であり、ゼロから出発するにふさわしかった。
 たしかに、日本人の多くは、物質的ゼロから始めたが、思想的ゼロから出発した者はほとんどいなかった。彼らの多くは、占領軍の与えたものを無批判にうけとり、原点を問うということがなかった。
 大学闘争の中で、はじめて原点を問おうとした。教授の知識の多くが原点のない知識として弾劾された。それまで大学の教授として、助教授として、原点を問うこともなく、ぬくぬくとその職にとどまっていた人が、その知識の質を問われた。その点では全共闘の学生たちと、その時はじめて対応した教授達にも、今まで学内にとどまって何をしていたかとより鋭く問わなくてならない。
 そのような教授達を、大学闘争の中ではじめてそのことに気づいて、自己変革を始めた人達より信用することはできない。しかし大学闘争は、原点を問うという意味を学生達が根底的に掴んでいなかったために中途半端に終わるしかなかった。
 だから戦後民主主義は虚妄であったかと、今なお問われつづけているのである。知識の原点を問うことのなかった知識のもつ宿命である。
 所謂知識人というものは、一般に客観的、観念的知識を盲信しているという傾向がある。彼らはその知識によって、この世のことは解決し、進歩するという信仰のようなものをもっている。知識で解決することのできないものは、不条理なもの、非合理なものとして、これまではどちらかというと否定し、避けてとおるという有様であった。
 所謂知識人の中に、すねていると思われるような人が多いのも、知識を信じながら現実は少しも変わらないことからおこっている。反対に現実を謳歌しているような所謂知識人も多いが、少なくとも思想を追う指針としてある知識であるのに、そういう知識をもたないとすれば、知識人の名に価しない。知識を理性とし、明るい光として無条件に讃美し、反対に欲望を感情の一部として闇の光として、無批判に否定してきたのも、所謂知識人のわるい考えである。人々はそれを疑うこともなしにそう信じてきたのである。
 最近、情念の名で欲望や感情に光をあてようとする傾向がでてきたけれども、まだ不十分である。人間の情念が単独に知識と離れて成立するものでなく、人間の情念は知識とかかわって、はじめて発露するものである。知識とかかわらない情念がないように、情念とかかわらない知識もない。人間の情念、人間の知識ということをよくよく考えてみなくてはならない。
 たとえば、情念の社会化ということが今日の問題であるが、それを知識を通して情念そのものを開かれたものにしようということである。しかし多くの人の情念は、情念そのままで存在している。それは動物の情念で、まだ人間としての情念になっていない。動物の情念は閉じられたもので、知識とかかわる以前のものである。問題はどのようにして、情念と知識をかかわらすかということであり、行動し、実践する人間においては自然に両者が融合するのである。
 行動し、実践する知識人のみが、両者を融合し、統一するのである。情念が欲望と感情を一つにしたものであることはいうまでもない。いずれにしても、情念といい、欲望といい、感情というとも、すべて人間の機能の一部分であり、それらをすべて健全に発達させなくてはならない。今のように知識の一部分によりかかるだけでは、所謂知識人が変になる以外にない。

 

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 大学は偽知識人の養成所

 大学は戦後急激にふえたけれども、戦前の日本人の知性と戦後の日本人の知性がどれだけ変わったかとなると非常にあやしい。この頃、日本人をエコノミック・アニマルと言うのも、日本人そのものに知性がいかにないかをいった言葉である。勿論、経済活動には、それなりの経済的知識を必要とするにしても、それは人間的知性を全面的に発展させないところに成立する活動であり、人間的知性は高まったということはできない。
 これは一言にしていうと、今の大学が学生達に真の知識をあたえていないためである。学生達は知識を認識しているし、その父兄の多くも、大学に学ぶということを認識している。もっと悪いことは、戦前の大学生の数より多い大学教授によって、知識そのものをゆがめていることを、教授自身、気づいていないものが多いということである。
 彼らはいたずらに、学生達に死んだ知識、客観的、観念的知識を科学的、学問的知識の名の下につめこみ、賦与することだけを考えている。こんな知識をいたずらにおぼえこませようとしている。それに従う学生達を真面目で、優秀な学生と思いこんでいる。
 知識が主観的、具体的知識として、主体的に作用し、創造的思考の基盤になるものであることをほとんど考えようとしない。だから棒暗記の得意な女子学生を優秀とするような試験をして、なんとも思わないのである。知識が主体的に作用し、創造的思考の基礎になるものでなくてはならないと考えている者は、今の大学教育に根本的に疑いをいだくはずである。
 たとえば、大学生が大学祭の時期に、その行事をさぼり、故郷にかえるか、下宿にごろごろしているのを、世の中の大人は講義がないのだからむりはないと思っている。所謂大人は、学生が講義の内容をおぼえこむのを彼らの学問だと思っている。大学祭の行事の中で、彼らが教室の中で学んだ知識を本当に自分のものにし、自主的に考え、行動できるようになるために必要な事とは考えない。
 あるいは大学生の休暇の長いのも、大学であるから、高校、中学、小学に比して長いのであって、大学生がその期間に、大学で学んだ知識を自分自身のものとするために考えぬくためのものであることを考えようとしない。外から与えられた知識が真に自分のものとなり、主体的に作用するためには、自分でじっくりと考え、本を読み、その中で整理されなければならない。換言すれば、独学をすることによって、はじめて自分のものになるのである。
 だから、大学卒の女性の多くが、大学をはなれるとただの中学卒の主婦と変わらなくなるのである。大学教育は知識の粉飾をする所でなく、本当に自分で考え、その考えを発展させる能力をあたえる所である。人間革命をさせる所であり、知識で粉飾する所ではない。
 だが、今の大学は大学教授も学生も親も知識で粉飾する所だと考えている者が多い。中には卒業証書をもらう所だと考えている。これでは、日本人の知性そのものがいくら大学がふえても、高まる気づかいはない。今の大学は偽知識人をつくる所であるといっても過言ではない。人間そのものを高め、変えないような大学は、大学の名のみあって大学ではない。東京大学が誤っており、それに右ならえしている全国の大学が誤っているのである。
 なかにはその誤りに気づき、すぐれた人間になった者もいるにはいる。しかしそれは大学教育がつくったのではなく、学外のいろいろの活動の中で気づき、そうなったにすぎない。あるいはたまたまその事を教えてくれる教授が大学内にいたというにすぎない。すべての人は幸福になりたいと思っているものだということを、すべての人は人間として生きたいと思っていることを感じとらせてくれるのは、大学そのものではない。むしろ大学は人々を犠牲にすることを平気でするように、しむけてくれる所である。大学にゆかない人をふみにじって、生きるように指導してくれる所である。
 人間としての理想を全身で追うことを教えてくれる所でなく、理想を捨てて、金銭や地位の奴隷にしてくれる所である。立身出世のためにだけあるような大学は消えさればいいし、なくさなくてはならない。
 今の大学はすべて偽知識人を養成し、多くの民衆に知識人をつくるという幻想をあたえ、地位取得のためにだけあると思わせたといっても過言ではない。
 大学で与える死んだ知識を生きた知識に変え、社会に生かしているのは、決して大学そのものでなく、たまたま大学を卒業した、個人の自覚である。個人の自覚を大学そのものが与えたかのように錯覚しているにすぎない。ただそのような自覚をもたらすのに、大学という環境は他の社会に比して、恵まれているということはいえる。いってみれば人は大学教育を求めて、大学そのものに学ぶのではなく、大学という環境を求めたにすぎないのである。
 大学に入学するのは卒業証書をもらうためでなく、人間としての自分を変革するためであり、あるいは人間の住んでいる社会を変革し、社会を豊かにする技術を会得するためである。人間を変革しないような大学、社会を変革し、豊かにしないような大学は大学の名に価しない。大学はあくまで生の人間、動物的人間が社会的人間になるためのもの。今の大学のように所謂学校秀才を集めて、高度の技術をあたえるところでなく、むしろ能力の劣った者、人間として未熟なものを集めて、人間らしくするのが本来あるべき大学である。高度の技術をあたえる大学も必要だが、それはあくまで大学の本筋ではない。劣った人間こそ、より長く教育を受けねばならない。
 だから自分にふさわしい大学に入学すればよいのである。受験地獄など大学を大学としない亡者たちがしているので、それはたいしたことはないし、恐れることはない。自分を変革して、自分が自分になりきる機関が大学であり、そのためには独学する姿勢が最も大事である。独学の姿勢のないものは大学生といえない。
 先年、大学内に起こった大学闘争は大学をあるべき大学にしようとして、虚偽そのものの大学教授を真の知識人にし、学生達を真の知識人に育てる大学にしようとして起こったものである。だが、それを中途半端にしか理解していなかった学生達は、そのことを全く考えていない大人達の暴力の前に、ついに屈するしかなかったのである。大学闘争を中途半端に終わらせた、その責任は大きい。そのために大学教授の知識は、本音とたてまえの二本立を維持したまま、その知識は教授そのものと遊離したまま終わるしかなかったのである。実は大学闘争そのものは、大東亜戦争直後、原点を求める知識を模索する所として当然おこらねばならなかったのである。それがおこらなかったところに、日本の思想風土の弱さがあった。
 大学本来の姿は、あくまで現代をのりこえて未来の姿を問いつづけ、未来に逞しく生きようとする所である。現代の常識が、たとえ良識であっても支配してはならない所である。いいかえれば大学に育った人間は、その教授をのりこえ、現代人をのりこえる所である。
 大学が大学本来の姿をとりかえし、真の知識人を養成するのは、何時の日のことか。それは大学教授がまず自己変革にとりくみ、学生達をその線にそって、育成しはじめた時である。だが、それを求める者は学内にも、学外にも少ない。学生達が再び、起ち上がる時があるのであろうか。その故に、私は全く新しい大学、文部省令によらない大学の建設をのぞんでいる。
 そして新しい大学の教授と学生の関係は、教えるものと教えられるものの関係でなく、ともに学びあう関係であり、教授はつねに学生達の先頭にたって、新しい価値を模索するものでなくてはならない。確信をもって、自らについてこいと言わなくてはならない。しかもそういう教授をのりこえようとはかる学生が本当に学生の名に値するのである。
 だから学生にとって、卒業論文とは不可欠のものであり、その内容はどこまで自己を変革したか、あるいは社会を変革し、豊かにすることについての中間報告である。その意味で、卒業論文とは新しい人間として歩みはじめた、あるいは新しい人間を志向しはじめた、自分自身の仲間への発言である。さらに自分自身に向かっての決意である。勿論、そのテーマは卒業後、深化され、発展させなくてはならないものだが、同時に卒業後の彼をリードするものでなくてはならない。その学生の生活に、人生に密着したテーマこそ卒論のテーマでなくてはならない。今日の卒論のように、学生自身から遊離したものであってはならない。
 そこから学生は真の知識人、新しい人間の道を歩みはじめるのである。

 

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 2 主体的学問への模索 体験の意味

 

 死の淵から得た決意

 文章を独立して書き始めて、約十年。私は四十七歳の時に脳血栓に犯されて仆れた。最初、近所の医者は軽い脳溢血であり、二十日位、休んでいれば癒るだろうということであった。続いて、頼んだ医者は三月位やすんでいれば起きられると診断した。
 最初、この病気で仆れる二週間程前、一週間位、急に足が不自由になり、言語も不明瞭になったが、まもなくそれも正常になり、今度は本格的に、片足、片手の麻痺がおこり、横になることもできなかった。その間、少しもよくなる気配がなく、そればかりか声すら出なくなったのである。そこでまた、他の医者を呼んだが、その医者はこうしたままにしておくと、いつ呼吸困難がくるかもしれないから、その場合の処置のできる病院にということで、慈恵医大病院にすぐ入院することになったのである。病院には救急車で運ばれたが、その間、一時間、医者はずっと私のそばにいて脈をとっていてくれた。
 私は不思議と意識はあった。入院したのが休みの前日のこともあり、救急室に放り込まれたが、手当てらしい手当ては受けなかった。あとで妻に聞いたところでは、助かるのは三%、覚悟するようにといわれたということである。サンソテントの中で、私はただ眼をぎょろぎょろさせていたと思う。夜はおそろしくて、眼をつぶれなかった。眠っている間に死ぬことが恐ろしかった。今死ぬことは、やりかけの仕事を放棄することでもあった。どうしても書いておきたいものも幾つかあった。
 三日日、私は鼻から管をさしこんで、流動食を通し始めた。それと共にたんがのどにひっかかり、吸引器で何度もとってもらった。たんがのどにひっかかって、死ぬこともあるという。
 書き忘れたが、妻と母は交代で、私の呼吸をみまもり、異変があったら、すぐに知らせるようにと言われ、私を夜も昼も何日間にわたって監視した。幸いに異変もおこることがなかったが、長い間、二人は生きた心地もなかったにちがいない。
 五日目から、積極的に検査が始まり、それにもとづいて治療が開始された。脳血行障害の事実をつかむために、レントゲン検査もやった。それは恐ろしいもので、動脈をきって、そこから造血剤をいれて写真をとるが、その時、頭が真赤になるのがみえるだけでなく、造血剤をいれるとき、血管が破裂して死ぬことも時にあるということであった。
 私の場合、脳血栓に特にきくという薬が、副作用がなかったために使用が容易であったが、それでも十二時間余を使って、毎日、点滴するのは大変であった。それに今一本普通の点滴をしたため、起きている間じゅう点滴をしているようなものであった。もっと大変なのは、脳の血管をひろくするためにのどに十六日間、注射をしたことである。のどを手探りしながら、注射される時の気持のわるさ。注射がうまくいったときは、頭がカッとするが、そうでない時は胸が痛くなり、手が痛くなる。それも一日から二日は痛いのである。十六本の中で、成功したのは五、六本。あきらかに失敗したのは四本。悪い時は、完全マヒとなり、永遠になおらないこともあるという。
 九月に入院して十月の終りにリハビリテーションを始めたが、その時は起きることも出来なかった。入院した時、右手、右足は完全マヒで、左足が五糎あがっただけで、左手はわずかに顔の所にくるという有様であったが、リハビリテーションを始めた時の私は、翌年の暮には歩けるだろうと楽観していた。臼井吉見さんが一年で歩けるようになったことを聞いて、希望も湧いていた。
 立てるようになったときは、赤飯をたべて喜んだ。恐らく、妻も歩けるようになることを甘くみていたのではあるまいか。しゃべることはできないが、十月終りには声もでるようになり、毎日アイウエオの練習をした。日記も書いて練習した。いうまでもなく妻による代筆である。
 マッサージの先生は、私の立ったのを見て、まだ本当に立っていないと明言した。マッサージの先生にやられる手の運動は地獄のような責苦であった。喧嘩ごしに、うちに闘志をひめていないと、到底それに堪えられなかった。日曜日ときくとうれしかったし、先生の診察と重なってマッサージの中止になるのが、心からうれしかったものである。時にはあとでもう一度くると言われたときには、つい妻をどなる有様であった。毎日やらないといけないということはよくわかっていても、どうにもならない。
 右手が上にあがるようになったのは、一年あまり後である。左足や左手はリハビリテーションしなくても、なおると言われたが、退院の時、わずかに七の握力しかなく、右手は長いことゼロであった。医者には、もはや右手で字を書くようになることは不可能かもしれないと言われた。だが私はそれをどうしても承知することはできなかった。
 入院していても何をすることもないからとて、退院したのが二月末。しかし階段を上れないので、妻の実家に一時お世話になることになった。退院当時、看護室まで杖をたよりに歩いたが、決して歩いていると言えるものではなかった。その頃、坐っているのがやっとであった。それも三十分間位坐っているのがせいぜいであった。先生から、なるべく起きているようにと言われたが、とても私には苦痛であった。
 退院してから、毎日、病院のマッサージの先生が通って下さり、三月から右手でペンをとる練習を始めた。始めは葉書に二行位の大きさの字で、それもボール・ペンそのものの重さで字を書くという始末であった。二行が四行となり、八行となり、表書きを自分でするようになった。字を書く以外、右手は何もできなかった。六月にはじめて、二枚の原稿を書いた。今日までに約六千枚の葉書を書いたことになる。
 普通、足の方が手より癒りが早いと言われながら、私の場合にかぎって手の方が癒りが早いように思う。字を書いていた努力によるのかもしれないし、どうしても字を書けるようになりたいという執念のためかもしれない。私の字をみて、京都の一読者は結婚式に出席してくれるようにといわれた。医者にもうだめだろうとまで言われた私が、読者にそんなに思われるまでになったのである。今は努めて、食事を右手を使ってやるようにしているが、二年半後の今も非常に困難である。
 はじめて戸外に出たのは五月の始め。その時の感激は今も忘れない。自然の風物の新鮮であったのも生ま生ましい。だが、一方で道路の起伏があるのは、非常に大変であることを知った。二十米から、三十米、五十米と歩くのが、とても大変であった。その状態から前進するのが大変であった。いつか私の中に、秋までに歩けるだろうという期待は消えかかっていた。ともすれば私の中に絶望がめばえた。
 わが家に帰ったのが六月。いつ頃、歩けるようになるかも全く見当がつかなかった。勿論、病院に行くのも三月に一度。妻は二週間に一度病院に行き、その間はいつも妻の姉が面倒をみてくれた。その御恩は生涯忘れない。義兄の協力も絶大であった。
 マッサージの先生は毎日から隔日となり、さらに週一回となり、とうとう最後にはやめてしまった。それというのも、いつになったら歩けるかと見通しのつかないままに、徐々に根気強く、自分自身で、リハビリテーションにとりくむ以外にないと、病気になって二年、やっと観念するようになったのである。
 この間、三度ほど再発ではないかと思うようなこともあり、もう死ぬのではないかと思うようなこともあったが、幸いにその危機をのりこえ、今ではひとすじに病気の回復に努めている。歩けるようになり、皆にわかる程度にしゃべれるようになるのは何時のことかわからない。二年後か、三年後かは誰にもわからない。あくまで自分自身との闘いであり、仕事が出来るような自分自身になることであった。私の戦いは今もつづいている。相変わらず、私のヨチヨチ歩きはつづき、道を一人歩きするところまではまだまだである。ともすれば、やけっぱちになる心に鞭打っているのが現在である。
 このような体験、九死に一生を得た体験の中におかれているのが、今日の私である。私は病気そのものの中にいる。しかも永久にその病気から解放されることはないのである。私はこのような体験そのものから、何を学びつつあるのであろうか。さらには、自分自身、以前の私からどのように変わったのであろうか。変わったと自認できるのであろうか。
 第一に私は病気の床の中で、苦しい時、痛い時、悲しい時、寂しい時などを通じて、ずっと書くことを考えつづけていた。もしかすると書けないかもしれないが、考えつづけることによって、それらの時をすごすことができたといってもよい。
 私は知識の質の改革にとりくむものとして、本書を考えたし、反逆者としての視点から『親鸞道元日蓮』を考え、さらに庶民教育の父としての「石田梅岩」のことを考えつづけた。その他にも、いろいろとある。だが、それらはすべて今度の病気の中で、私の血肉化したものであると思った。それを離れては、少しも成立していないと思った。私の肉体そのものであった。体験とともに深化しているものであった。そして、これだけはどうしても書いて残さなくてはと深く決意するのであった。だから書くまでは死ねないと考えた。それは私自身の執念であった。
 第二は、この体験の中で自分の道を歩む以外にないという思いを徹底させた。これまでは、ともすれば他人の眼を意識し、他人の批評を恐れて、思うことの何分の一も書けなかった。だが今その配慮はきれいに消え、書いたもののために死んでもいいし、どんな目にあってもいいと思うようになった。戦争中一度死に、戦後一度死んだ私は、それで十分に覚悟ができたと思っていたが、それがまだ私のものになりきっていなかった。
 このたびの死にかけた大病の中で、一人に徹する心ができたのである。これから生ある限り、歴史の方向を変えることにむかって、ただ挑戦するだけであった。病後、私の書くものは変わり、大胆にずばりずばりと対象を斬るようになったと言われる。逞しくなったのかもしれない。
 第三は、この病気のおかげで、これまで身体障害者の問題に関心を払う程度であったのが、自分自身の問題として、それらを考えるようになったことである。この病気の中で、世の中には心ない人がいかに多いかも痛感した。身体障害者として、私自身が彼らを仲間意識をもってみられるようになったことは、私の世界の拡りであった。不自由の中で、自由のすばらしさを痛感したのも一つである。自由を求める心がどんなに強くなったことか。
 以上、三点は私自身変わった面であろう。私にとっては容易でない変貌である。この変化を与えてくれた、この大病に感謝する。身体的自由を失って、はじめて自由の尊さを本当に知ったともいえる。私はあえて心の自由とはいわない。政治的自由、社会的自由など自由そのものである。
 この体験がなかったら、私のような鈍感な者には、到底わからなかったであろうし、またわかったとしても、これほど深くはなかったであろう。

 

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 戦争体験を生かす道

 日本人はこの前の戦争すなわち大東亜戦争にそのほとんどが、その力をつくして没入した。文字通りの総力戦であった。青年ばかりでなく壮年の多くが、大陸に東南アジアに転戦した。しかも、その多くが悲惨な最期をとげ、ただ一度かぎりの生命を失った。内地に残った人もその多くが空襲で死に、いたいけな子供までが疎開して、空腹になやんだ。まさに悪夢に近い体験を生き残った人々は多かれ少なかれ、味わっている。ある者は残した仕事に心ひかれながら、南海の地に消えていったことであろうし、ある者は残った者に心を残しながら大陸に消えていったことであろう。しかも、この戦争は一握りの戦争指導者に、日本人のほとんどがきれいにだまされてやってのけた戦争であった。そのやりきれない思いは多少なりとも、多くの日本人の中にある思いである。中にはそれを心からやきつけたものもあったかもしれない。
 だが今日、日本人の中のどのくらいが、だまされた戦争にしろ、戦争そのものを憎悪しているかは怪しい。多くの日本人は、戦争中の苦しかったことを単に語るのみで、逆に戦争を懐しむ傾向さえある。勿論、東南アジアまで無銭旅行をし、普通の社会では味わえないような、無私の友情を体験した者として、あの時代を懐しむのも無理はない。一つのことを盲進して、一所懸命になることは、それなりに美しいことである。この思い出が、今日自衛隊をささえ、防衛力の増強に狂奔させている要因でもある。残念ながら、戦後、日本人は単純に戦争を悪とし、戦争を否定するという風潮の中に流されてきた。そのための反撃を今うけているのである。
 だが、今日、戦争をのろい、平和を望む運動を強固におしすすめている人達も、かつて戦争を肯定し、讃美してきた同じ日本人である。同じ戦争という体験の中にいて、全く相異なる人間が生まれたのである。この違いはどこから生じたのであろうか。
 一方は戦争の好ましい一面だけをみ、戦争によって守られ、進歩する生命、科学だけをみるから、戦争の肯定者となり、他は戦争そのものが人殺しであり、人殺しを許容するものは悪であり、いかなる理由でも戦争はあってはならないという反省にたつから、戦争の否定者になるのである。現在は、条件つきで平和運動をおしすすめている者は多いが、こんな人間は真の平和主義者とはいえない。ここに平和運動の混乱がある。
 それはともかくとして、体験にもとづく知識ということを強調する私として、単に体験にとどまり、人間の体験にたかめられないで、動物的体験にとどまる限り、先にいった主婦の体験といい、日本人のこの戦争体験といい、そのままでは生きてこないといわざるを得ない。体験が生きた体験となり、人間を生かしてくるのは、その体験が人間の考えた体験となる時だけである。私が体験、体験といって強調する時の体験は、決して経験主義に終わるようなものをいっていない。知識の基礎になっても、固定化するものでなく、知識を媒介として、常に生生発展するものである。思想とならない戦争体験は全く無意味だと言いたいのである。
 あれほどの戦争体験を日本人すべてが持ちながら、全体として生きないのは、日本人のすべてがその体験を思想として高める作業をしていないためである。戦争そのものを徹底的に考え、につめていこうとしないためである。戦争を、その結果としてどのように考えるかでなく、戦争そのものについて、自分自身とことん考えるという姿勢がないということである。
 いいかえれば、独学の姿勢をもって戦争そのものと自分が向きあうということである。戦争について、教えられるのでなく、自分で自分を教育することである。
 今日、平和運動をおしすすめている人々も、戦争体験を戦無派の人々にどのように伝えるかで苦しんでいる。そして、同じ戦争体験を持ちながら、戦争について考えようとしない同世代の人々のことを全く考えようとしない。むしろ戦争の体験者でありながら、それを少しも考えようとしない人々と戦争について、徹底的に語りあうべきではないか。伝えるのは戦争体験ではなく、思想としての戦争ではないか。
 戦中派の一人として、戦争体験など早くどこかに消えてなくなれと言いたい。同世代の人々への戦いというか、戦争のことを知らせる戦いをさぼって、何が戦無派への努力かと言いたい。
 人間の本質でもあり、特徴でもある思考を放棄した大人があまりにも多い。自分が本を読み、考えないで、その子供にだけ本を読ませ、考えさせようとしている大人が多すぎる。人間らしくない大人があまりにも多い。今の学校教育はその第一歩すら、怠っている。へ理屈でなく、理屈をいう大人にしなくてはならない。そのための運動をおこすことである。そのためにも、真の知識が普及するようにすべきである。生涯教育の基礎ともなる独学の姿勢を身につけさせることである。
 戦争体験を戦無派につたえることはむつかしいと言うが、一体、何がむつかしいのであろうか。歴史学というものは、もともと過去の史実を生き生きと現代に役立たせようとして成立したものではないか。もし、わずかに二十数年前の戦争体験が伝承不可能ならば、私は全く歴史教育という徒労をしていることになるではないか。その意味からも、歴史教育をもっと信じて、より伝達可能な歴史教育をうちたてるべきではないか。また人々が伝えようとしている戦争体験が非常に独自なものとすれば、今の歴史教育が与えようとしているものは、全くその独自なものを欠き、再検討を迫られるものであろう。
 いずれにしても、歴史学がある以上、人々が伝えようとしている戦争体験は何であるかを見究めて、それを達成することである。一言でいえば、伝えようとしているのは戦争の体験でなく、戦争に対する見方である。さらに体験に出発する平和への強固な意志であり、知識である。
 戦争体験そのものは、防衛に関する強い意志になることもあり、平和への強い意志になることもある。大事なのは戦争の体験からどのような結論をひきだすかにある。ただ戦争の体験があたえるのは、強い意志であり、強烈な知識である。人々はそれを欲して、戦争体験云々ということをいっているのである。体験云々ということは、無意識のうちに体験に出発する知識、実感にもとづく知識でなければ本物ではないということをいっているのである。
 体験に出発する知識でなくてはならないと思いながら、ひとたび知識一般について論ずるときは全く不徹底になり、常識におしながされるのである。今一度、日本人は戦争体験を強調する一握りの人々がいることを考える必要があるし、戦争体験そのものも体験の中に単に流される人とその体験をバネとして、飛躍する人との二通りあるということを知るべきである。そして体験に出発する知識、行動にふみだす知識でないかぎり、人間の知識とは到底いえないことを知るべきである。
 日本人の多くがもった戦争体験、それは日本人のもっている知識観を根柢より変える意味をもっている。日本人の生活をもっと根本より、立てなおす傾向をもっている。戦後ずっと戦争体験にこだわりつづける人々も、その意味を明確にもしないで混乱したし、戦争体験を拒否する人達にも、その意味が十分にわかっていなかった。
 その点で、戦争体験は日本人を根本より変える可能性をもっていた。それがそうならないところに今日の悲劇がある。
 今こそ、体験を、知識の核になる体験をよみがえらせなくてはならない。

 

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 吉田松陰における知識と行動

 吉田松陰といえば、普通陽明学を学ぶことにより、知行合一的な人間になった人物であるかのように思われている。しかし彼はもともと、思索と体験を統一させることにその生涯をかけた人間であるといってよい。たとえば、幼い時から耕しながら学び、十八、九歳になってからは、旅をしながらその知見をひろめたのである。その知識は全心身の運動や行動を離れて、単に頭脳活動の中で養われたものでなく、常に行動の中で生産されたものである。考えるということは運動であったともいっていいし、それは常に全心身の活動を伴うものであった。
 だから、北九州を旅することによって、その当時の日本のおかれている立場を深く考えるようになったのも、また東北旅行を通して、ばらばらの日本をなんとかして一つにしなくてはならないと考えるようになったのも、旅すなわち行動を通して、その中で得た知見であった。そしてその知見は次の行動を導くものであった。行動が新たなる行動を呼び、知見が新たなる知見を呼んだといっていいし、行動が知見を生み、その知見が行動を導いたといってもよい。要するに松陰にとって、行動と知見、体験と思索は一つであったのである。耕すという行為も決して、思索と別々のものでなく、耕すという全心身的行為の中で、思索というものを全心身的行為というか、全心身にゆきわたらせていたのであるし、旅という行為の中で、その地域の風土をみたり、日本について考えたりしたのも、実感を通してその知識を単に脳活動のものに終わらせることなく、全心身の知識にしていたのである。
 だから、後になって「勇気がなければ、その知識もくもる」と言ったのであり、「知識があっても行なわなくては、知識がないに等しい」とも言ったのである。これを彼の陽明学的見解とみるが、私は彼のような生き方をした者、学び方をした者の必然の発言とみる。陽明学を学んで、彼が陽明学的になったというより、彼自身がもともと陽明学的であり、陽明学と一致したのだと思う。
 いずれにせよ、御承知のように松陰は非常に沢山の本を読んだ。その当時、彼ほどひろく読書した者はいないと思われるほどに読んだ。彼はその知識、観念的知識をすべて彼自身の体験的知識に結びつけたのである。いいかえれば、彼個人の体験を、彼個人の生きた知識を万人の体験と知識にむすびつけ、万人の体験と知識を自分自身の体験と思索にしたのである。すぐれた革命家として、万人の要求を満たしたのもそのためである。
 体験と知識を一つにみる松陰の伝統も、明治以後の学校教育の中で消滅し、今日のように学校教育が普及すればするほど、体験と知識は分離してしまった。ついには「理屈通りには現実はいかない」ということがいわれ始め、現実をみちびくのが理屈であるという考えはなくなったのである。たしかに現実そのままが理屈通りではないし、自然に放置していては、現実は理屈通りにはならない。理屈通りにするには強い意志が、逞しい行動力が、激しい決断力がいる。知識とは本来、そういうものを綜合的にもったものである。それが明治以後、脳活動で生産されるものだけが、知識となり、知識がだめになってしまったのである。知識が人間の知識でなくなれば、そうなるのも無理はない。
 松陰のような、激しい行動力を伴った知識の時に、はじめて知力という感じがする。力を持たない知識、力を感じさせない知識は、単に暇と金で生産したものにすぎない。尊くもないし、価値もない。
 しかし、今日は暇と金で生産した知識が知識として大手をふっている。せいぜい言えるのは、両親より与えられた記憶力がわずかに作用しているにすぎない。人間自身苦労して生みだしたものは少しも問題になっていない。所与のものを活用するだけでなく、ゼロから創造するところに価値がある。自然科学がこれまで、価値ありとされたのは、そのためである。創造のない頭脳活動なんてないに等しい。
 松陰の場合は、自分の体験に出発し、体験に学び、生きる限り学びつづけ、前進していった。環境そのものから学んでいく者には、これでいいということはない。文字通り、独学の姿勢をもった人といえる。だから、その弟子も学ぶことのできた人である。環境から学ぶ者は、またもっとも環境を変える人である。環境から学べる余地があるということは、環境を変えうることができるということである。
 今一度、教育そのもの、学問そのものについての考えを、松陰の時代にかえって再出発させるべきである。教育そのもの、学問そのものを考えなおす時である。そうしないと、松陰はじめ多くの人が泣いていよう。知識とはいかなるものか。いかにあらねばならないかを考える時である。
 根本であり、出発点である知識がだめな時は、教育も学問もだめである。最近、能力とは何かを根本的に考えなおそうとする動きがあるが、その根本である知識はそのままである。しかも大事なことは、その方面の学者だけが考えることでなく、民衆そのものが考えることである。
 旅という行動から、政治的、経済的、社会的知見そのものを学び、深めていった松陰の学習態度、そこからあの激しい行動力が生まれたことをもう一度考えてみよう。そして彼のあのおびただしい読書も、彼の実際的知見をたかめるものにすぎなかったことを。彼はすぐれた行動をするためにのみ学んだのである。学問のための学問などありはしなかったのである。
 学問のための学問をいうのは、政治的抑圧がひどくて、学問の自由がない時である。その時は、どんなに学問のための学問を主唱してもよい。むしろ主唱しなくてはならないであろう。
 特に松陰が書物を通して知識を得ていた時は、一党一派に偏し、固陋になる傾向にあったが、具体的事実から学び、考えるようになると、生生発展してとどまるところがなかった事実を考えてみる必要がある。書物はともすれば観念的となり、固陋になるのに対して、事実そのものから学ぶものは、事実そのものが本来無限のひろがりを持つことから、自然に全体的になり、発展するものである。

 

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 大西遷に学んだ中国共産党

 中国共産党の大西遷という名で、今日よんでいるのは、その実、総退却であった。国民党との戦いに敗れ、総退却をよぎなくされた中国共産党にとって、大西遷はまさに生きるか死ぬるかの瀬戸際にたたされたものであった。根拠地にかえってその力を保存するのが、その目的であった。もう一度そこからやりなおすのが目的であった。
 だが、中国共産党はこの大西遷の目的を果たしたのみでなく、中国共産党を生まれ変わらせ、さらに発展させ、中国全土を共産化する基礎をつくったのである。というのは、彼らは大西遷の中で、暇さえあれば党員と非党員の、所謂知識人的人間とそうでない人間との合同会議をもち、ともに生活することによって、新しいタイプの人民に育っていったのである。中国共産党は変貌したのである。
 それまでの中国共産党員は、今日の日本共産党員のように知識人的党員と大衆的党員からなっていた。知識人的党員は書物から入るために、より観念的となり、大衆的党員は自分の体験から入るために、より経験的となり、それまでの中国共産党はその間をゆれ動いていたといってよい。
 だが、この大西遷の中で知識人的党員も大衆的党員もともに変貌し、新しい人民として生まれ変わったのである。観念論と経験論を止揚した唯物論の上に、どっしり腰をおろしたのである。
 私が日本の知識人的党員から唯物論の講義を聞くと、どうしても観念的唯物論の感じをぬぐうことができなかったものだが、人々はともすると、大衆は勉強することにより、所謂知識人的となり、その後に人民というか、理想の人間になると考えている。でなければ所謂知識人になることが、理想の人間になることだと思っている。
 今日、所謂知識人の多くは大衆が学問して、所謂知識人になることが正しいと考えているし、大衆も所謂知識人になることが好ましいことだと考えている。だから、大衆は所謂知識人に理由のない劣等感をもっている。
 私はこれまでくりかえし、所謂知識人の多くは偽知識人であることを強調してきたし、大衆がならなければならないのは所謂知識人でなく、真の知識人である。その意味で、所謂知識人も変わらなくてはならないのである。所謂知識人も大衆も目標は新しいタイプの人間であり、新しい人民である。それこそ大西遷の中で生まれた新しい人民である。
 所謂知識人も大衆も、新しい人民になることでは同一地点にいる。日本人の多くが考えているように、一度偽知識人となることはない。大衆にも、直接新しい人民になる道がある筈である。
 新しいタイプの人間、新しい人民とはどんな人間のことをいうのであろうか。所謂知識人のように、観念的知識をふりまわすことでもないし、観念的唯物論を知っているからとて誇ることでもなく、常に具体的事実に学んで、自分自身で考え、さらに具体的事実を変える人間のことである。知識は本来感覚から生まれたものであり、人間の体験を離れて成立しないことを知っている者であり、さらには行動のための知識であることを知っている者である。なによりも思索のともなわない知識は真の知識でなく、人間の知識とは全人間的活動であることを知っている者である。
 大西遷の中で、知識人的党員は大衆的党員が事実から、生活から学んでいくのをみて、事実こそ、生活こそ知識そのものであること、しかも強力であることを教えられたであろうし、大衆的党員は知識人的党員が、書物から学んで、無限に知識をひろめていることに感動し、事実や生活から学ぶだけでは不十分だと感じたであろう。
 こうして知識人でもない、大衆でもない新しい人民が生まれたのである。知識人は大衆の中で変わり、大衆は知識人の中で変わるという作業は日本にはない。           
かつて雑誌『新しい風土』はそれを望んだが、大衆は所謂知識人の方向をむくだけで、自分自身をみつめてくれなかった。文芸評論家新島繁氏は、「この雑誌は十年早過ぎる」と予言したが、今、新島氏の言葉をかえりみつつ、声を大にして大衆は所謂知識人になることではなく、直接新しい人民になる道がある筈だし、所謂知識人もその新しい人民になるようにつとめなくてはならないと言いたいのである。今日では、私の言葉に共鳴してくれる者も相当いるのではないか。
 今日の中国共産党は、大西遷から生まれた。その点で大西遷のもつ意味は大きい。それに匹敵するのは、日本の場合、大学闘争である。大学闘争は大学教授の学問の質を変え、大衆の常識の質を変えるかに見えたが、中途で挫折してしまった。
 全く残念である。
 日本人の質を変えるのは、いつのことか。その日が早いことを念ずる。

 

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 誰にでも開かれている知識人への道

 私の体験にしても、日本人の戦争体験にしても、あるいはまた松陰の特異な体験にしろ、誰でも多かれ少なかれもっている。ただそのような体験を出発点にして知識は生まれ、思考作用を経て、その知識は高められることを知らないだけである。知識人は大学の過程を経たものの中から生まれると、信じているだけである。誰でも知識人になる可能性をもっており、ただ知識人にならないだけである。所謂知識人は真の知識人でなく、大衆と同じだけ真の知識人には遠いのである。ともすれば、所謂知識人は真の知識人に大衆より近いと思われているが、とんでもない誤りである。
 知識というものが、感覚から始まり、体験の中から生まれることを知る者は、今日の所謂知識人養成の方法に疑問をもつべきであるし、今のように所謂知識人の知識が無力であり、全く現実を指導できないのは無理はないと思うべきである。今日の悲劇は偽知識人が真の知識人面をして世の中を指導していることであり、所謂知識人も大衆も彼らを真の知識人だと思っていることにある。
 昔から、何が真の知識であるかを問うてきたため、知識そのものがもつ真理性は徐々に前進してきたが、逆に人間の知識としては、人間そのものを放置してきたため、ますます人間より遊離して、非常にお粗末なものとなってきたのである。人間の知識が、本来は体験の上に成立したことや思考力を離れた知識は単に死んだ知識であることを、今日の知識が厖大なものとなり、そのほとんどが書物に収められていることから、だんだん忘れてきたのである。
 しかし今、知識の危機が叫ばれ、知識そのものが危機にひんしているときには、知識そのものの原初形態にもう一度かえってみる必要がある。具体的事実から学ばないで、書物から抽象的に学ぶ知識がいかに観念的となり、事実から遊離するものかは、すでに吉田松陰の体験の所で述べたことでも明らかであろう。
 体験そのものから、知識を生産し、さらにその知識を体系的理論にたかめることの作業そのものを発展させなかったのは、明治以後の学校教育の責任であり、学校教育を盲信して、それにおんぶしてきた人々の責任である。いいかえれば、学校教育の中に独学の姿勢を失い、おうむがえしを教育だと思い違いしてきたためである。今の記憶力、暗記力を重視する傾向は、本来あるべき知識そのものから最も遠いものである。
 知識は元来創造性、思考性、実現性をもつものであり、それらのない知識は空論でしかない。所謂知識人は空論家ともいっていい。だから、所謂知識人といわれる人々は年々ふえながら、少しも人間と世の中はよくならないばかりか、かえって、低下している面もあるのである。空論はないよりあった方がいいとはいえない。空論家が尊ばれる世の中は、全くお粗末な世の中である。今の日本はまさに、そのような世界である。
 虚妄な知識をもてあそんだり、尊ぶことをやめて、今一度原始の姿にかえって、出発しなおすべきである。そうしないと、公害に人類はおしつぶされよう。公害というものは、もう一つの虚偽の知識が生みだしたものである。知識が人間の、人間のための知識でなくなったとき、人間をおしつぶす公害をつくったのである。
 所謂知識人よ、その知識を総点検して、虚妄な知識の上にあぐらをかくなと言いたい。そしてそのこと以上に大衆は虚偽の知識と真の知識を見分けるようにならなくてはならない。

 

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 3 変革を志向する思想の創造 真の知識人とは

 

 知識人は庶民の中から生まれる

 真の知識人とは、新しいタイプの人間であり、新しい人民であって、決して所謂知識人でもない。まして共産主義的知識をふりまわすものでないことは言うをまたない。
要するに、真の知識人とはその知識をそのまま実行する人であり、全身これ知識という人であり、本音とたてまえの二通りの知識を持つ人ではない。実際に行動し、生活するのはたてまえであり、おしゃべりする時にだけ本音という所謂知識人が多いから、世の中は混乱し、少しも世の中はよくならないのである。
 とくに庶民が所謂知識人を認め、尊敬し、所謂知識人になることを憧れて、自分自身から真の知識人になることを忘れてはならない。所謂知識人の知識を軽蔑しながら、所謂知識人が与えられている社会的地位にのみ憧れるのではどうにもならない。庶民が本気になって、真の知識人に憧れ、真の知識人になることが人間として生きることであり、それを欲しなければ人間として生きていることにはならないと思いさだめることである。
 従来、庶民が全身で知識人を憧れなかったのも、何が真の知識人かということがわからなかったのと、生活のために忙しすぎて、真の知識人になる余裕がなかったためである。それに、何よりも考えることの不得意な庶民には、知識人なんかになれっこないと、所謂知識人に思いこまされていたことが最大の理由である。
 頭がいいとは、記憶力、暗記力がいいということでなく、思考力があり、意志力があり、実行力があるということである。思考力、意志力、実行力を離れて頭のいい、わるいはない。庶民誰でもこれらの能力をもち、知識人になりたいと思い、それなりの努力をするならなれるのである。
 昔から、親鸞も道元も日蓮も庶民が仏になる道を模索した。彼らの考える仏とは、智慧のある人のことで、今日でいうならさしずめ、真の知識人である。彼らが異口同音に否定したのも所謂学者であり、もの知りであった。庶民が知識人になれるかどうかということが、彼らの最大の課題であった。そのことは昔も今も少しも変わっていない。
 庶民が真の知識人を求めはじめ、その中心は自分達であると考えはじめ、その能力を自分の体験をふまえて、発揮しはじめれば容易に誰でも知識人になれると思うことが必要である。それと同時に、庶民が所謂知識人を偽知識人として否定しはじめることも大切である。
 要するに、庶民が今日のように庶民のままで、にせの位置をあたえられるのでなく、真の知識人になることによって歴史の中心におどり出なくてはならない。歴史の中心におどりでるのは、庶民が真の知識人になった時である。その時、はじめてこの世が理想社会になる。この世が浄土になる。
 庶民が庶民のままで、大衆が大衆のままで歴史の中心になるかのような、幻想をあたえてはならない。庶民大衆が真の知識人になることは容易であって、その実、きわめて厳しい道である。だがなんとしても、ならなくてはならない。所謂知識人でなく、真の知識人に。職業としての学者には学者の位置を与えても、学者がそのまま知識人であるという誤認を与えてはならない。学者に人間を、人間の社会を前進させるものという名誉をあたえてはならない。
 所謂学者は物知りであり、職人である。職人がそれぞれの分野に秀でているように、単にその分野に秀でているにすぎない。学者と知識人はあくまで異なり、知識人には学者からもなれるが大工からもなれる。
 さきに真の知識人は人間を、人間の社会を前進させるものと言ったが、創造的人間と言ってよいし、造物主といってもよい。歴史の方向を変える者といってもいい。要するに神であり、仏であり、変革者であり、革命家である。それができるのは、独学の姿勢を身につけ、永遠に具体的事実から学び、具体的事実にかえることのできる人である。
 今日、必要なことは、知識人という名に正当な内容が与えられ、神や仏や変革者や革命家と同意義につかわれ始めることである。庶民が人間としての力を知り始めることである。その時、はじめて民主主義の実現された時代となるのである。庶民すべてが、真の知識人になれるという自信をもたない限り、永遠に民主主義は訪れない。

 

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 まず、工作者、教育者でなければならない

 仏、神、変革者、革命家として、人間と人間の社会をつくりかえるものとは、工作者として、まず自分自身を、次に所謂知識人を、庶民大衆をつくりかえて新しい人民にすることであり、教育者として自分自身を、所謂知識人を、庶民大衆を教育して新しい人民にするものでなくてはならない。
 従来ともすれば、革命家といえば人間の社会をつくりかえるものに与えられていたが、それは誤りで、人間そのものをもつくりかえるものでなくてはならない。それと同時に、人間の社会をつくりかえる者である。いずれが先であり、いずれが後ということはない。人間と人間の社会がつくりかえられるのは、人間と人間の社会が同時につくりかえられるとき、はじめて実現するのである。
 人間の社会が変わったとしても、人間そのものが単純に変わるものではない。変わったようにみえるのは、人間そのものでなく、人間の粉飾物である。また教育とか、工作といっても、人間そのものを教育し、工作して、人間そのものを変えることをいっていない。せいぜい人間の附加物を増やしているにすぎない。たとえば今日の教育のように、人間の附加物としての知識を増やすことをさして、決して人間そのものとしての知識の質を変えることを意味していない。
 教育し、工作するということは、新しい物を創造することであり、作ることである。何物をも創造し、作ることのできないのは、教育でもないし、工作でもない。今日では教育ではないもの、工作ではないものが、いとも簡単に教育の名で、工作の名で呼ばれている。
 しかも、教育者といい、工作者というとき、一番大事なことは自分自身を教育し、工作できることである。その時はじめて、他者を教育し、工作するという意味もわかってくる。だから今日、教育者といわれているものの多くは、教育者として失格者である。
 このような失格者としての教育者が言うから、従来革命家というものを人間の社会をつくりかえるものとか、人間をつくりかえるものとかいう一方的発言となったのである。また革命家というものを特別の人間であるかのごとく思わせたのである。人間が生きるということは、教育者、工作者となって、自分を変え、人を変えて、人と社会を変えて、生生発展させるところにある。そこにのみ、無限の喜びがある筈である。教育者、工作者とは、変革者であり、革命家になるということである。
 すべての人が志さなくてはならないのが、教育者であり、工作者であり、革命家である。革命家でないものは、人間として生きているということにはならない。革命家とは、ある特珠の生き方をした人の占有物ではなく、すべての人間が志さなくてはならないものである。ごく普通の生き方である。革命家を否定することは人間の生を否定することである。人間の存在を否定することである。
 教育者は工作者であり、革命家である。だが、今日人々はあまりにも教育者は革命家でなければならないことを知らない。そのために、子供を変えようとしない。子供そのものを変革しようとしない。子供を、人間であって、人間ではない、いたずらに動物的生を送っている多くの大人のようにすることだけしか考えていない。一千年も二千年も、少しも人間そのものを変わらないままに放置して、けろっとしている。
 その間、人間の社会は大いに変わった。変わらない人間と変わった社会をみて、社会を変える方がよいと考える人があったとしても当然である。だが、はたしてこれまでに、人間そのものを変えようとして、十分な努力をした人々があったであろうか。あったとしても、その人々は社会を無視したため、逆に社会からの反撃をうけた。さらにすべての人を教育者に、工作者に、革命家に育てようとしたであろうか。
 すべての人間が教育者であり、工作者であり、革命家であるという教育を、今まで全国民的規模で、全人類的規模で押し進めようとしたことがあろうか。私は真の知識人とは、この教育者であり、工作者であり、革命家と思うのである。一般に考えられているような物知りでは決してない。そういう人間に誰でもなれると言いきったのが、親鸞であり、道元であり、日蓮である。それぞれに異なった道があることを教えたのも彼らである。
 すべての人間が自分を教育者、工作者、革命家と自覚し始めた時、世の中は変わりはじめる。すべての人間が、その時人間らしく生きることを始める。動物的人間が人間的人間らしくなる時である。今日の学校は各種学校で教えるようなことだけに一所懸命である。

 

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 統一的、全体的でなければならない

 人間の知識というものは、なんといってもまず第一に、統一的、全体的で、人間の機能を発揮するものでなくてはならない。人々はとかく、知識というものは理性的であり、非感性的なものと思いがちである。だが理性的で非感性的なものを知識とするなら、人間の知識としては十分に機能することができないばかりか、非常に半端なものとなる。悟性と感性が統一して働いたとき、真の知識であり、あるべき知識であり、人間の知識としても、非常にまともなのである。
 たしかに、知識というものは人間そのものから離れて、単独に成立する知識も存在し、それは無限にそれ自身として発展するものである。しかし知識が知識として存在し、その価値を認められ、その価値を発揮し、その意義を認められるのは、人間の知識として作用した時である。人間の知識として、それ自身に主体的なものを持ったときである。単に知識としてある場合には何の価値もない。人々は知識と人間の知識を混乱し、混同して評価している。
 人間の知識というときは、すでにその中に、主体性のあるものという感じをもっていることは述べたが、同時に悟性的なもの、感性的なものが統一されていなければならないとも述べた。単に独立してある知識というものは、悟性だけで成立するものもあるが、人間の知識というときは、悟性と感性の統一の上に成立し、それ自身に実践性、行動性の要素をすでに持つものである。実践性、行動性のない知識は人間の知識ということはできない。
 さらに全体的でない知識が知識として、今日通用しているところに人間を不幸にし、人間を半端者にしている原因があるのである。所謂学校秀才といって、知能だけが秀でている者が、進んで公害をばらまき、法をおかす大罪人になっている者が多い。これはすべて、知能だけという人間の一部分だけを評価して、人間の全体的進歩と考えたためである。人間の知識を評価することがなかったためである。そのために本来知識そのものが持っている筈の意志力、行動力、決断力、さらに責任感などを全く、省みないために起こったことである。
 本来人間の生を豊かにし、幸福にするためにあった知識が、反対に人間を不幸にするものとなったのである。知識が全体的でなければならないということは、すべての人間を考慮におき、すべての人間のことを考えなくてはならないと同時に、知識そのものの中に、意志力、行動力、決断力、責任感などの諸要素があるということである。それが人間の知識であり、知識としても十分だということである。これまでの知識は必要条件だけを考えて、十分条件をみたしていなかったのである。
 統一的、全体的知識でなければならないことは、どんなに狭い生活をしている者でも、誰でも知っていることであるし、それが必要なことも知っている。人々はそれを最少限に知って、生活している。生活知とはそれである。だが、今日そのような生活知を離れて、学者というものが独占する知識というものが生まれ、それだけを知識と思うようになり、いつかそのような知識とは無関係に生活する人々が生まれた。もっと悪いことには、学者といわれる者の多くもその日常生活は生活知で送るというように、たてまえと本音の二通りの知識をもつ者となり、分裂してしまったのである。
 このようになると所謂学者の独占する知識は、紙の上の、書物の中のものとなり、ますます現実から遊離してしまう以外にない。今の奇妙な世の中になったのも当然である。学校というものは、この百年間、世の中がいよいよ奇妙になるように、矛盾にみちたものになるように手助けしていたことになる。
 私達はもう一度、この生活知を見直さなくてはならない。原点にかえって、知識そのものを見直さなくてはならない。そして紙の上だけの、書物の中だけの知識を投げ捨て、この生活知を発展させたものを、紙の上に、書物の中におさめなくてはならない。
 今までのように、紙の上、書物の中の知識で完全になったものだけ、無害になったものだけ、生活知に加えるのでなく、生活知そのものを俎上にのせ、検討し、発展させなくてはならない。学問そのものを素材にして、変えなくてはならない。本音とたてまえの二通りの知識から、生活知一本にしなくてはならない。これまでのように、でんとかまえて変わることのなかった生活知そのものを、日々これ新たにしなくてはならない。紙の上の、書物の中だけの進歩はもうおことわりである。
 つけ加えるなら、言葉と行動が一致したものが知識であるのに、今や知識ではない言葉だけが勝手にふるまっている。美辞麗句が、あまりにも通用して、知識を混乱させている。
 今の私は言葉をしゃべれない。その私には言葉は知識そのものであるかもしれないし、知識が非常な重みをもってくる。知識の重さを感じとるようになったのも、言葉をしゃべれなくなったためかもしれない。言葉をいとも軽々しくあやつる人間が、この頃うらやましくもあるが、それがかえって知識そのものをゆがめていることに気づいた。いまでは言葉を軽々しく言えなくなった自分を喜んでいる。
 知識を言葉でもてあそべない私自身を喜んでいる。
 統一的、全体的知識にするものは、独学である。独学をする者にはそれが容易にわかる。

 

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 意識そのものを変えなければならない

 人間の本質というか、人間そのものを変えなくてはならない。人間の本質を変えるということは、人間の意識そのものを変えることであり、人間を支え、人間そのものを根柢で支えているものを変えることである。
 今の若い者は昔と変わったというときの変わったものというのは、人間の派生的生き方であり、考え方であって、人間そのものは少しも変わっていない。教育しているのも、この派生的生き方を変え、考え方を変えようとしているにすぎない。もっと悪い教育は、せいぜいこの派生的生き方、考え方に、何かをつけくわえることだけをねらっている。人間そのものを変えて、新しいタイプの人間にしようとは考えない。いいかえれば、人間の心そのものに楔を打ち込むことによって、心そのものを変えようとはしていない。人間の社会がよくならないのは無理もない。人間の多くは、人間そのものは変わらないときめてしまっており、あきらめているのが現状である。わずかに宗教という名で人間を変えていこうとする努力が細々と続けられているにすぎない。
 このような考え方、宗教家のこうした努力を推進して、全人類が全人類の変わることを求めて、行動を開始する時である。全人類が独学の姿勢を身につけて、自分を変える教育をはじめればよいのである。これは困難のようにみえて、実際には容易なことである。今はただそれをしないだけである。
 たとえば、今日には戸締り論が横行し、武力がなければ国民の生命は守られないと考えている人々が多い。しかし今日はまがりなりにも、自由、平等、平和ということが言われ、それが通用している世の中である。真正面から、これに挑戦する者はいない。すべて他人を抑圧しようとする時は、由由、平等、平和の名の下に、行動をおこしている。もっと、具体的、全体的に、自由、平等、平和の中味を検討してみることである。もっと大切な事は、共産主義国も、国そのものが正義の国でなく、資本主義国より少しましという位である。これでは信じない人人がでてくるのも無理はない。日本がまず理想国家、道義国家をつくってみよう。理想のために、道義のために生きてみよう。それが人間が生きることだと言いきっていいのではないか。人はともすると、日本人を実験台にすることはできない、だから武力は必要だというが、理想のために、道義のために、実験台にしてもよいのではないか。いたずらに、豚のごとく存在することはないのではないか。平和国家を提唱する社会党には、それだけの覚悟がないと思う。
 福祉国家を言うより、教育国家を言うことである。教育がゆがんでいるから公害はおこるし、福祉を軽視するのである。すべては今の知識観がゆがんでいるためである。
 今日、さかんに幼児教育ということが言われ、英才教育ということが言われている。そのことは言わないよりましかもしれないが、そこで与えようとする知識はすべて、今の知識をさらに豊かにしようというだけで、人間としての知識を豊かにしようとするものではない。人間そのものを変えようとする教育に意欲的に取り組むものではない。せいぜい公害を生みだす頭脳をますます作ろうとしているにすぎない。そういう英才はもうごめんである。すべての人間の幸福を考える人であればいいのである。それはごく普通の人間でもできるのである。
 これからの真の知識人は物知りでもなく、公害をつくりだすような頭の持主でもなく、自分自身の意識を変えようと全身でもがく人間である。自分自身の意識を変えたら、次に他人の意識を変えようと全力をつくす人である。あるいは同時に、自分の意識と他人の意識を変えようと努力する人であるかもしれない。
 要するに人間をとことん変えようということを考える人である。そういう人は意外に知識人といわれていない人々の中にいるものであるが、そういう人こそ真の知識人の名に値する。人間をとことん変えるのは、人間を奈落の底につき落とし、今までのものが頼りにならないことを自分で知った時であり、人にそのことを思い知らされた時である。体験するまでは、そのことはわからない。所謂学校や大学で教え、知らせることはできないことかもしれない。
 それ故に、学校や大学はまがった知識を与えるのに汲々としているのかもしれない。そうとすれば、しかたのないことである。ただ今日の学校や大学はそのゆがんだ知識を本物の知識と思い、教育とはこれだと盲信して、真の知識、真の教育は別にあるということを知らないのである。

 

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 実感を重んずる知識でなければならない

 人間の知識は人間の実感を重んずる知識でなければならない。実感を重んじない知識は空虚で、人間そのものから遊離する。
 観念的、抽象的、客観的知識は知識としては成立しても、人間の知識としてはほど遠い。科学的知識ということを最近よく言われるが、それは体系的、系統的知識であり、知識としては好ましいかもしれないが、人間の知識としては不十分である。科学的、客観的知識が人間の知識になるためには、実感をとおさなくてはならない。実感を媒介として、はじめて人間の知識となるのである。実感的知識となって、はじめて主体的、実践的知識となるのである。
 実感的知識となって、人間の知識そのものとして、人間と不離一体になり、生きてくるのである。知識として生き生きと作用するのである。昔より、言霊といって言葉に魂があり、心があると言われたのはそのことである。言葉が生きていたのである。知識として生きていたのである。しかしそれは枯渇していないということであり、言葉が客観的に伝言できないということではない。客観的であって、同時に主体的なものであったのである。
 今日は、単に客観的、科学的であることを求めて、主体的、実感的なものであることを忘れているのである。言葉を殺し、そのもとである知識を死んだままにしているのである。死んだ知識、客観的、科学的ではあるが、死んでいる知識を生きかえらせるのは、人間の知識として主体的、実感的に作用し始めた時である。
 生活知を言うときは、人は実感ということを尊び、実感のない知を一顧だにもしない。軽蔑して見向きもしない。それ故に生活知は生き生きと作用する。しかし客観的、科学的知識をいうとき、実感をかえりみようとしない。それどころか、実感を敵視する。
 たしかに、客観的、科学的知識の発展拡大をはかるときには、実感は敵であろう。それを抑えるところにその発展はある。しかし、ひとたび、科学的、客観的知識が一つの結論として作用するときには、主体的、実感的なものにならなくてはならない。主観的であると言ってもよい。そうしないと知識としては作用しない。知識として作用しなければ、ないに等しい。
 真の知識人がこのような実感的、主体的知識を自分のものにした人間であることはいうまでもない。知識が実感的、主体的なものを言うようになれば、今日のように知識が弱いものとなることもなく、剣のように鋭いにちがいない。戦中、戦後を通して、転向者が多く出たとさわぐこともない。転向したとみえたのは、実感的、主体的知識でなく、単にそういう知識を知っていたにすぎないのである。そういう知識を知っているというだけで、自分も他人もそういう人間だと思いこんだにすぎない。早とちりしたにすぎない。
 実感という言葉は、体得という言葉に通じる。昔は体得ということは非常によく言われたし、強調もされたものである。しかし今はほとんど耳にしない。そして知ることだけが、強調される。クイズが強調され、クイズ的知識に人は単純に感動する。クイズ的知識は体系的、系統的知識を伴った実感的、主体的知識の結果としては尊いが、クイズ的知識そのものとしては、単なる物知りとして知らないよりまし位なものである。時にはかえって、そんなことを知っているために、体系的、系統的知識を伴った実感的、主体的知識をもつ上に邪魔にさえなるのである。○×式は入学試験で廃止される傾向にあるが、クイズ的知識はまだまだ幅をきかしている。学校がクイズ的知識を助長しているといってよい。
 学校の試験、会社の試験がこのようなクイズ的知識、よくいって客観的、科学的知識を問うだけで、実感的、主体的知識を問わない限り人類の危機はさけられない。学校の設備が充実し、いかに教材が発達しても、客観的、科学的知識を与えることに腐心しているかぎり、教育国家ということにはならない。教育国家という以上、教育の根本がきまった国家のことを言うのである。
 昔のように、体得ということが、今の言葉でいう実感ということが、正しく言われ始めるのは何時の事か。実感の伴わない今の知識人など、一刻も早く消えたらよい。そんなものに知識人の名を与えて、玉石混淆にしないことである。

 

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 行動にふみだす知識でなければならない

 人間の知識はなによりも行動にふみだす知識でなくてはならない。行動のない知識はないのも同じである。人間というものは、行動をおこそうと、また進んで行動をおこさないにしても、意識的、主体的なもので、何かをすることによって、はじめて人間として存在するのである。何も行動をおこさない、単に在るだけでは人間とはいえない。
 私は今、手足の自由を失い、言葉を失ってみて、そのことを痛いほどに感ずる。人間とは行動する動物であるということを感ずる。勿論、行動をおこさないという行動も、行動の一種であることにまちがいない。いずれにしても行動ということは、人間にとって決定的なことである。
 しかも、その行動をリードするのは知識である。知識にもとづかない瞬間的動作という行動もあるが、それは反射的なもので、人間の行動というものはすべて知識と深くかかわっている。知識が頭脳に働きかけて、はじめて行動となるのであって、行動を離れて人間の知識を考えることはできない。それなのに人々は行動しない知識を知識として尊ぶ傾向が明治以後とくに強い。知識人といえば、青白い人間と考える傾向が強い。いく分のニヒリズムを漂わせている人間だと思いがちである。現実にソッポをむかれている人間である。だから、非常な行動力をもち、大いなる意志力のある者は実践家と認めても、知識人とは思わない傾向があった。知識人とは頭でっかちで、行動しない人間と思われた。知識人と実践家は相対立するように思われた。そのために世の中は奇妙なものになってきたのである。世の中の親達はその子供の頭脳がそれほどでないと知った時にのみ、身体の丈夫な子供になることを求め、頭脳と身体は別々のものと考えたのである。教師もそのように親達や子供達に思わせたのである。
 しかし、頭脳と身体は別々のものでなく、一体であるし、身体すなわち行動を離れて、単独に成立する頭脳というものはないのである。あると思ったところに、今日あるような、頭脳だけの人間、身体だけを尊び、それに生きる半端の人間を作りだしたのである。
 昔は、少なくとも文武両道といい、文武一致といって、頭を働かせることと身体を動かすことを一緒に考えていた。頭を働かせないで身体を動かすことには、限度があると考えたし、身体を動かさないで、頭だけを働かしていては、やがては神経衰弱になると思っていた。
 行動にふみだす知識とは、やらずにはいられぬ思いに支えられている知識である。人として大事なのは、このやらずにはいられぬ思いである。今日の教育はほとんど、これを問題にしない。人間そのものを問題にしていないと言ってもよい。知識の量や正確さより、たとえわずかな知識でも、それを実践せずにはいられない思いの方が大事である。
 吉田松陰の教育の成功の鍵は、この思いを大切にしたことである。知識以上に大事にしたことである。彼はそれを志といい、入学試験のときは志の有無だけを調査したのである。さらに勇気がなければ、知識もゆがむといって、勇気を養う方法を工夫したのが松陰である。感情教育を軽んずる今日の教育に対して、それを最も重視したのが松陰である。それというのも、行動する知識を重んじ、知識の多少や行動しない知識は一顧だにもしなかったからである。
 大人が、子供は理屈のみを言って、少しも実行しないと歎くのも無理はない。学校がいたずらに理屈のみを言って、実行しない子供をつくっているのである。子供は知識とはそんなものだと思いこまされている。無理もない。悪いのは学校である。そのように教え込んでいる偽知識人のせいである。大学教授の責任である。
 行動と実践を尊ぶ生活知に対する考えを普及しなければならない。生活知というものは、行動や実践を離れて成立しないことを熟知しているはずである。問題はその生活知を広め、深めることである。その生活知の質を変えることである。生活知にならない知識は値打のないことを知るべきである。
 ただ生活知が固定して動かないものと思い込んでいるのを徐々に変える必要がある。学問とは本来そういうものである。現代の常識に出発して、その常識をたかめるものである。
 しかし、日本の学問はその常識をそのままにしておいて、単に書物の中だけで、その知識を深め、広めているから、それが終わるとただの人になるのである。現実そのものは少しも変わらないのである。人間の意識を変える知識でなくてはならないと言ったが、大事なことはこの常識にくいこんで、常識そのものを変えなくてはならない。
 とくに人文科学系、社会科学系の学問はそのためにあると言っていいが、実際にはそのためではなくて、学者という職業人のためにのみあるのが今の学問である。
 学問をすべての人間に解放し、すべての人のためのものにしなくてはならない。先の大学闘争はそういう意味があったのである。すべての人が独学の姿勢を身につけて、日々成長し、変わるようになれば、この固定した常識も変わり始めるかもしれない。この常識に挑戦する者だけが真の知識人である。

 

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 生きて働く知識を得なければならない

 真の知識人は所謂知識人でなく、智慧で武装した人間でなくてはならない。その時の智慧というのは、人間そのものから遊離した知識をもっているというのでなく、人間の一部としての知識であり、自由自在に駆使できる知識のことである。生きて働く知識であって、しかもその知識につかわれ、がんじがらめとなったものでなく、知識そのものが融通のきいたものであるということである。
 昔から知識は死んだものであり、智慧は生きたものということが考えられた。そして人が尊び、価値あるものとしたのは、知識でなくて、智慧であり、人間は知識のある人でなくて、智慧のある人を目標にしたのである。親鸞にしても、道元にしても、日蓮にしても知識のある人を極度に嫌悪し、智慧ある人を求めたのである。彼らのいう仏とは、悟りをひらいた人とは、智慧のある人のことであった。智慧は、人間というものを知りぬき、社会というものを残りなく知った上で、おのれ自身を、さらに他者を幸福にすることのできるものである。自分自身が、他者がいかに生きればよいかを教えてくれるものである。いってみれば、智慧とは人間の在り様をしめしてくれるもので、生活知といってもよい。しかし今日の生活知は狭く、浅くて、そこには今いう所の政治的知識、経済的知識、社会的知識、文化的知識などの一切を欠いている。生活知は、本来政治的、経済的、社会的、文化的諸知識をもった綜合的、統一的知識である。ただ政治的、経済的、社会的、文化的諸知識が生のままの知識であるために、生活知として生かされないままに終わっているにすぎないのである。
 先述した所の体得ということは、ここでも使用される。体得した知識は智慧となるのであって、体得されない知識は智慧となることはない。融通無碍に働いてこそ、はじめて人間を生かす智慧となる。
 最近の学校では知識だけを問題にして、智慧を問題にしない。知識が智慧になることを問題にしない。智慧となることを問題にするとき、はじめて人間自身が問題になり、人間全体が問題になる。感性が、意志力が、決断力が、実行力が問題になる。智慧が問題になれば、所謂知識のある者を軽視し、智慧のある者を尊重することによって、この世が奇妙な姿になることをさけられた筈である。
 智慧というとき、なによりも知識の有効性を問題にする。「百の議論より、決断と実行」というような事は言えない筈である。有効性を問わない智慧というものはないし、決断と実行のためにあるのが議論である。議論のない、議論の裏づけのない決断と実行は盲信、無鉄砲のたぐいであって、全く問題にならない。こんなことが、日本政府によって恥かしげもなく、言われているのだから、困ったものである。
 智慧を尊ぶ風習は、全くないといっても言いすぎではない。本当に情ないことである。だから知識は死んだままということになる。所謂知識人、偽知識人をいばらせることをやめて、真の知識人、智慧者をこの世に溢れさせなくてはならない。きれいごとの世の中を本当の世の中にしなくてはならない。本音とたてまえの二通りある世の中を真に一つの世の中にしなくてはならない。
 智慧者への道は独学しかない。独学を通して、一歩一歩自分で学び、自分自身を納得させ、自分自身を変え、自分自身をふとらせていくことしかない。自分自身をほおっておいて、単に頭脳だけを働かせて、知識の量だけをふやしていくような、今の学習法ではだめである。
 大事なのは自分自身にくいこんでいくことである。今の学校教育の中では、所謂知識人は育っても、真の知識人、智慧者は育たない。学校秀才の中に落伍者ができ、劣等生の中に世の中で認められる者が出てくるのも、そのためである。たまたま学校秀才と智慧者が重なるという偶然に、世の中はおんぶしているにすぎない。たとえば勇気のある者、本来胆力のある者が学校秀才の中にもいるのと同じである。
 なにも教育していないのが、今の学校教育である。政治家がいなくても、今の政治はそのままであるように、この世は全く偶然の上になりたっている。恐ろしいことである。
 要するに世の中が乱れて、人心の把握が困難になり、人間不信の時代になったのは、人々が本音とたてまえの二枚舌を使うようになったためである。口ではどんなにうまいことも言えるというのが今の時代の人の考えであり、言葉は信用できないというのである。信用できるのは実行だけといって、本来知識と実践はきり離せないものであるのに、全く知識と言葉を信用しなくなっている。今のような時代に知識と言葉を信じられないのは無理もないとしても、真の知識と言葉が通用する世の中にしなくてはならない。それが世の中を正す第一義である。
 言葉は今日、知識以上に乱れ、解体している。それはよく言われるように、きれいな日本語がなくなってしまったというようなことではない。中味のない言葉、感情のともなわない言葉、うつろな言葉、心のない言葉が横行しているという有様である。粗野で乱雑な言葉でも心があり、感情のともなった本音の言葉は、きれいなのである。きれいというのは表面的な美しさではない。
 知識のある者は専ら上手にうそを言い、智慧者はうそをつかない。所謂知識人とは上手に自分の心にもないことを言う人間の別称でさえある。所謂知識人とはそういうものであると、はっきり庶民大衆は認め、感じとりながら、それを言う勇気はないのである。また誰もそんなことを言って所謂知識人を敵にはしないのである。それは所謂知識人の管理しているのが、今の社会であるからである。医者を批判しないのと同じである。
 常識に流され、それにべったりなのが庶民大衆とすれば、所謂知識人といっても、その日常生活が常識に流されているとすれば、庶民大衆と何ら変わらない。所謂知識人でない庶民大衆は自分達と所謂知識人と同じであることを知りながら、所謂知識人と真の知識人を区別して、真の知識人を押しだす判断力と勇気は持たないのである。そのために世の中は少しもよくならない。よく人々は関係のない人をまきこんだというが、関係のない人はなく、無関係にみえる人も、この世の堕落に加担しているのである。浅間山荘事件も例外ではない。無関係といっているから世の中はよくならないのである。
 運のわるい人ということは言えても、無関係な人はいないのである。それが人間はすべて政治的、社会的、歴史的存在であるということである。智慧を持つことは、政治的、社会的、歴史的存在として、人間の最低の責任である。それを自覚しない人間は人間の皮をかぶった畜生である。思考力を持たない畜生である。

 

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 4 人間性回復への歩み 体験と思索 

 

 人間性を回復する思想の原点

 思惟はもともと経験である。思惟を人間の経験でないと思っている者がいるが、とんでもない錯覚である。これまでに知識は体験に出発し、体験にかえらなくてはならないと、くりかえし述べてきたが、知識そのものの生産する思惟作用というか、思索という行為は人間の経験というか、人間の体験そのものである。
 知識の原初的形態は人間の感覚作用であり、人間の経験である。そのことをまず人間は知らなくてはならない。そういう意味で人間の知識の原初的形態は人間そのものに密着し、人間と不離一体である。
 人間が成長するにつれて、思惟というか、思考、思索というか、それが出来てきて、人は次第に、その原初的知識をふまえて、知識そのものを拡大し、発展させることによって、判断力、決断力、意志力を生む。判断力、決断力、意志力といっても、知識の他にあるものではなく、知識そのものから派生して生じた知識そのものである。人はともすれば、これらを知識と別のものであるかのごとく思いがちだが、今のような知識観が成立するようになったのは、この思い違いに出発するといってもよい。
 それに思惟、思索というものは、はじめ感覚的経験であったものが、感覚的経験をふまえずして、それ自身成立するようになることから、しかもどんどん発展し、拡大することから、人は次第にこの感覚的経験のことを忘れて、思惟、思索そのものだけにおんぶするようになり、ついには人間そのものから、知識を遊離させ、知識が知識それ自身のためにあるかのように思わせたのである。
 昔から知識学というものがあり、哲学があって、常に知識そのものを問題にしてきたが、そのほとんどは知識そのものの真理性というか普遍妥当性を問うことに急なあまり、知識そのものが人間から遊離することはほとんど問うこともなかったのである。そのために知識は根源的、本質的なところで、その真理性を失い、空虚になってきたのである。
 知識の真理性は問われて発達したものの、人間の知識であるという、一番根本的なことを忘れたために、公害をつくり、人間を信じられないものにしたのである。知識の原初的形態は感覚的経験であり、感覚という体験が生みだしたものであることを今一度思いおこすことが必要である。知識は本来体験である。それなのに知識と体験をいつごろから、二分したのであろうか。知識そのものを発展させるためには、どうしても体験と切り離すことが必要であった。そのために、特に体験ということがいわれたのであろう。発展させるためにわざわざ言われたことが、今では別々のものであるかのように言われる。
 昔から、感覚から知識が生まれたこと、知識は本来体験であったと指摘した者は多い。しかしその指摘がなんのために必要であるかを十分に知る者は少なかった。それこそ知識の乱れを指摘し、知識を正すために必要であったのである。とくに私が大病の体験を記し、日本人の戦争体験、吉田松陰の体験を記したのも、そのような体験をふまえ、思想を生みだしたとき、その思想は剣よりも強い上に、生涯転向することなく、死ぬまで発展しつづけることを言いたかったためである。そこから生まれた思想は今の人が思いもしない思想であり、真の知識と心ひそかに思っているものである。
 このような知識だけが、真に変革力をもち、その実現までは絶対に止まることのないものである。だから吉田松陰は、日本で唯一の革命をなしとげる原動力となったし、戦争体験をふまえての平和的意志は人類に平和をもたらそうとしている。私もまたそれをふまえて、現代の生はいかにあらねばならないかを説きつづけようとしているのである。
 知識は体験といったが、知識が体験を通らないかぎり、真の知識、生きた知識にならないことは、中共の大西遷の事実が教えている。私達がいかに歴史的事実を知っても、これを追体験するという姿勢がない限り、それは単にクイズ的知識に終るしかない。クイズ的知識から、一人一人の中に生きてくるためには、独学によって自分流に考え、生きて、自分のものにする以外にない。独学とは、自分のものにして自分流に生きることである。
 独学の意味が、これまで変な意味に使われて、正しい位置を与えられなかったために、真に個性的、創造的、意欲的人間があまり育たなかったのである。知識が体験を通るようになれば、現代人も昔のように、野性的で行動的になろう。人々はこれからの人間はますます頭でっかちな人間になろうと言うが、それは人間が今の情勢に流されて、知識本来の姿にかえろうとしない場合である。
 思惟が経験であるということは、事新しく説明する必要もないと思う。人がただそれを忘れているのである。一人一人が自分の思惟について考えてみれば容易にわかることである。この原点に立ちかえることが、人間が人間を回復する道である。人類の危機は、この原点に立ちかえることで救われよう。それこそ人間がどの道を択ぶかは自由であり、それを択ぶ位の能力はあるはずである。明日ではおそすぎる。「すばらしきもの人間」という言葉はあるが、現在、真に人間はすばらしきものと言えるだろうか。
 言葉にも、また言語にも二通りあるということは、知識そのものが二通りあって、統一されていないということである。どんな統一された知識をもつかは、その人がどんな条件の下に生きて、どんな体験をもつかによる。その体験をどのように思惟、思考するかによる。今の言論は、人間の知識の根本に立って問わないで、出来た知識だけを問題にしているように思われる。言語の革命といい、言語による自己革命といっても、人間の粉飾的部分を革命しようとしているにすぎないようにみえる。
 口舌の徒は、体制側にも、反体制側にもいる。口舌の徒をなくすには、今の言論が問題にしているところでは駄目のように思う。今日、情報過多で多くの人が悩んでいるようだが、それは全く形式的、表面的なことで、実は本当の情報、真に信頼できる情報であるかどうかに悩んでいるのである。あまりにも私達のまわりには、本当らしく見える情報が氾濫していて、真に信頼できる情報は少なすぎるのである。
 本当の情報がないということは、本当の知識がみわけにくいということであり、人間が分裂しているということである。分裂しているのは、体制側、反体制側の人間もかわらない。イメージ選挙が流行するのも当然である。分裂した人間をいかに統一させるかが先決である。そうしなければ、体制、反体制の争点もはっきりでてこない。なによりも反体制を独学で択んだものでなく、偶然に択んだものであるから、自分で択んだものといえないのである。
 知識は体験であると言うことになれば、誰にも知識人への道は開かれていることになろう。これまでのように知識人がその知識を独占するために、いたずらに庶民大衆が理解できないような用語を駆使することは愚であるばかりでなく、誤っているということになろう。誰でも容易に理解される用語で語られるようになることが、知識の本来の在り方である。内容を理解することに努力するよりも、一つ一つの専門用語を理解するために、人々は苦労するのである。だから学問に無縁に生きる人々が多数出てくるのである。
 毛沢東は小学生にも共産主義をわかるように説いてきかせるというが、彼の主著『矛盾論』が日本語に訳されるとなかなか理解しにくい。若い人達の特殊用語は私達にはわからないと言ってすむが、所謂知識人の言うことは理解できないではすまされない。
 庶民大衆にわかる言葉で、知識が述べられるようにならなくてはならないし、なによりも庶民大衆に理解され、庶民大衆を変える、庶民大衆の知識でなければならない。今は所謂知識人に向かって語る知識人のための言葉でしかない。これでは世の中は本当の意味でよくならない。単に庶民大衆は上から与えられたものを享受するだけである。
 知識を庶民大衆に解放することは、庶民大衆に今の知識を提供することではなく、知識そのものが庶民大衆の作れるものだという考えを皆のものにすることである。新しい人民となって、知識を創造してみせることである。

 

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 行動を生みだす原動力としての欲望

 欲望は、あまりに激しく、ともすると人間の規制をはみだして、あばれまわるので、昔より人はこれを恐れ、いやがる傾向がある。仏法でも、儒教でも、本来は欲望の方向づけをやろうとしただけで、欲望を抑圧する方向にはいかなかったのに、欲望の激しさと制御のむつかしさから、それを抑圧するかのように言う者が出てきて、いつしか抑圧が人間社会の常識となったまま、今日におよんでいる。
 戦後一時期、欲望の解放はあったが、そのすさまじさを制御できないまま、欲望は再び禁止の方向を辿っている。わずかに人々は消費に対する欲望を肯定しているが、全体としては抑圧され、いやなものとされている。
 たしかに性欲、食欲、睡眠欲の欲望の三欲を中心に、地位欲、名誉欲、見栄欲、財産欲、支配欲、征服欲、独占欲など、どの一つをとってみても、それをそのままに放置しては、人間の社会はおさまりのつかないほどにもめるであろう。それほどに激しいものである。
 しかし、人間はこの食欲、性欲、睡眠欲、地位欲、名誉欲、見栄欲、財産欲、支配欲、征服欲、独占欲などを満たすために行動をおこすし、これらの欲望を満たすためにおこした行動は強く激しい。一度その欲望をもち、行動をおこしたら、その欲望が満たされるまでやむことがない。
 たとえば食欲の発動にしても、性欲の発動にしても、それが達成されないうちはやめない。しかも、それらは徐々に発展して高まっていく。おいしい物をいよいよ求め、より美しいものをだんだんと求めていく。芸術活動にしても、食欲、性欲を満たす手段であるときもあるし、反対にそれらを満たせないための代償行為である時もある。さらに性欲と地位欲と独占欲が複雑にからみあって、美女を求めるということになる。あるいは美女を得ることによって、名誉欲、見栄欲、独占欲を満たしていることもある。
 見合いにいろいろの条件をつけるのも、すべて財産欲、名誉欲、見栄欲を満たさんがためである。結婚そのものが、本来性欲、食欲を満たすためのものである。男性が職業に一所懸命になるのも、地位欲といってしまえばそれまでだが、性欲、食欲をみたすためのものである。
 性欲、食欲、睡眠欲を欲望の中の三欲といったが、地位欲、財産欲、支配欲などの諸欲は結局、この三欲をより効果的に満たすために派生的にできたものにすぎない。要するに、この三欲は非常に強く、人間を人間たらしめているものといえる。この三欲のないものは、ばけ物といってもいい。
 この三欲を効果的にしようとして数々の知識ができたのである。たとえば食欲を効果的に満たすために、貯蔵法が生まれ、耕作法ができたのである。加工の知識にしても、新しい食品をつくる知識にしても、よりすばらしく食欲を満たすためである。睡眠欲を満たすために夜具の作り方が工夫され、安心して熟睡するために、家が考えられたのである。性欲を満たすために、人間関係はいかにあるべきかを考えだしたのである。
 知識は欲望を満たすために生まれたのであり、この欲望にうながされて、人間の行動は起こったのである。文字通り、行動にとって、知識にとって、欲望はありがたい存在、なくてはならない存在である。そのような欲望を何故敵視し、抑圧しようとするのであろうか。制御できにくいとしても、一所懸命制御できる道を考えたらよいのではないか。
 昔、修身科は欲望を制御しようとして考えられたものであろう。しかし修身は欲望を制御できなかった。だからとて絶望することはない。まず、何よりも欲望を解放して、力強い行動をとりかえし、逞しい知識をとりかえすことである。行動が弱々しいのも、知識に逞しさがないのも、行動と知識を欲望ときり離したためである。今日、若者が勝手に行動し、社会そのものが乱れているようにみえるのも、知らず知らずのうちに、若者が欲望を解放しているためである。ただ若者も十分にその欲望を制御していないだけである。
 欲望を制御できるのは知識だけであり、欲望を制御できないような知識は偽である。そういう知識は行動をも導きだす。大事なことはそういう知識がこれまで、ほとんど考えられていなかったことである。それがどういう知識であるかは、これまでに一部述べ、これからも述べようと思うが、要するに欲望を解放し、自由に活動させることである。それが今日、先決である。欲望こそ行動力を生みだす原動力であり、その行動は非常に逞しいものとなる。
 これから欲望の激しいことを悲しむことなく、むしろ欲望をさかんにしなくてはならない。そのようなことを考えなくてはならない。そのような教育をさかんにしなくてはならない。
 先に欲望も制御できるような知識といったが、それは一言にしていうと、どうすれば大いに欲望を満たせるかという知識をもつことである。単に欲望の制御を意志の強弱にまかせるのではなく、知識にまかせて、欲望の達成のしかたを学ばせるのである。ある時は欲望をおさえることが、より大いなる欲望を満足させるために必要であることを教えることも大事な場合もあろうが、欲望を効果的に満たすことを教えることである。知識は欲望のためにあることを、とことん教えることである。
 ほとんどの人間が本能を抑圧して生きるか、あるいは本能のままに生きているのが、本能を制御できる知識を持つことが大切である。これまでのように、本能とは全く別に存在しているような知識をあたえて教育したと言って、満足しないことである。本当の意味で、人間に役立つ知識をあたえなくてはならない。
 知識欲にしても、この性欲、食欲、睡眠欲を満たすためにあるものであり、あの激しい革命的行動も性欲、食欲、睡眠欲をほどほどに満たさんがためのものであるし、革命的知識そのものが、革命的行動を効果的にせんがために生まれたのである。性欲、食欲、睡眠欲が行動を生み、行動が三欲の知識を生みだしたのである。人は知識の母が、行動であり、三欲であることを忘れている。そして知識が単独にあるように思っている。その結果が弱い、無力な知識を現前させたのである。
 性欲をいろんな形で享受しようとする願いはあまりに強い。それを禁止し、抑圧しようとしても、それはできない。それを享受しようとして、知識のかぎりをつくす。それは全く徹底している。多くの美がこの性欲から生まれ、性欲を満たすために存在する。音楽もまたそのために生まれた。それが性欲と無関係であるかのように装っているにすぎない。実際今日では無関係に成立している音楽もあるにはある。しかしそのような音楽には何かが欠けている。性欲はまた性エネルギーといって、エネルギーそのものであるかのように言うこともある。知識とエネルギーを直結させることを考えたらよいのである。
 ただ、ここで考えなくてはならないのは、性欲、食欲、睡眠欲をそのまま認めようとはしていないことである。そのままでは動物的な欲望であって、人間の欲望ではない。人間の欲望となるのは、知識や感覚を媒介として洗練されたものにしなくてはならない。だが洗練することは、禁止し、抑圧することではない。自分自身と他者を同時に生かし、幸福にするものでなくてはならない。だから欲望を制御することはむつかしいのである。
 以上が、欲望を方向づける知識を強調する所以である。欲望をリードできる知識、欲望と知識を統一することを強調する所以である。本来なら、欲望学というものがあってよいのだが、これまでなく、せいぜい最近、心理学の一部門としてとりあげられるのである。おそすぎたといえよう。

 

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 行動を左右する感覚と意識

 知識の原初的形態は感覚に始まり、感覚によって生ずるというときの感覚は、ここで述べようとしている感覚とは違って、視覚、色覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、温覚などの感覚をさしている。それらの感覚にさらに知覚が加わって、復雑に発達し、綜合的に作用して知識が生まれるのである。
 しかし、今ここでいう感覚とは、平等感覚、自由感覚、平和感覚、人権感覚、美的感覚、善的感覚、性感覚などと言われるように人間の感情をもとにして、知識が加わることによって、その感情がとぎすまされ、高度化して、人間の感情となったものをいう。感情そのものは動物なら誰しも持っているもので、喜び、悲しみ、苦しみ、痛み、怒りというように、欲望にそのまま対応してでてくる感情である。生まのものということができよう。しかし感覚となると、動物でなくて、人間だけのもちうるもので、人間を動物と区別し、人間を人間たらしめるものである。あるいは性感覚のように、性欲という欲望に、知識が加わって特殊の感情に発達したものもある。
 この平等感覚、自由感覚、平和感覚、人権感覚、善的感覚、美的感覚などは、欲望と同じく、鋭く激しい。それが満足するまで、達成しようと努力をする。しかも欲望のように満足したら消滅するというものでなく、永遠にあるものである。ただ欲望のように誰にでもあるものでなく、知識を媒介として、自分自身でつくらねばならないものだし、各人によって平等感覚、自由感覚、平和感覚、人権感覚、美的感覚、善的感覚などには違いがあるし、常に磨いてたかめなくてはならないものである。他から与えられたものでなく、自分自身が磨いていなくてはならないものである。高度の感覚を持つ者は、たえず独学しているものである。
 この感覚に行動をゆだねるとき、欲望に行動をゆだねるときと同じく、その行動は逞しいものとなる。ただ人は欲望の場合と違って、感覚に行動をゆだねることに反対する者はいないが、今度は逆にそのような感覚を育て、発達させることに真剣ではない。
 動物的欲望を人間の欲望に育て、発達させるのは知識だといったが、感情を感覚に育てるのも、同じく知識である。知識が生きた作用を始めるのは感覚になってからである。学校教育が全くといってよいほどに、このような感覚を育てようとしないのは納得できない。
 意識の場合も同様に学校ではほとんど問題にしない。知識は意識になったとき、はじめて作用し、行動をおこす。知識がどうして意識になるかと言えば、意識そのものになるように考える時、体験を媒介にする時、なると言える。意識にならない知識はないに等しい。私の考えでは、自然科学的知識は意識にならなくても成立しようが、人文科学的、社会科学的知識は意識にならないままでは死んだ知識も同じである。
 意識となった知識は主体的、実感的知識である。意識、感覚、欲望は知識を考える時、きり離せない問題である。たとえば、美的感覚の鋭いもの、とぎすまされたものには、単に絵の上の美的感覚だけでなしに、この世の中がすべての面で美的でないと我慢ができない。絵の上に美的感覚を発揮するのは初歩的段階で、窮極目標はこの世を、自分自身の一生を美しくすることである。音の感覚も同じである。音楽の世界から、この世全体にひろげてこそ、真の音楽家と言える。平等感覚、自由感覚、平和感覚も同じである。そのような感覚をもっていることはもたないよりましであろうが、大事なのは平等、自由、平和をこの世のものとすることである。
 この世を平等、自由、平和にしようとする感覚は大変よい。しかしそれらをさらに強くするのは、欲望の助けがある時である。性感覚が他の感覚よりも鋭く、しかも誰でも容易にもち得るものだと知れば、感覚はさらに欲望の手助けを得ればよいということがわかろう。このように、重要な欲望と感覚を何故今まで学校は問題にしなかったのであろう。革新という名の下に、未来をつくろうとしている人達が何故に今も問題にしないのであろう。
 今の観念的で空虚な知識が息を吹きかえし、生き生きしてくるのは、欲望、感覚の関連で知識をみることである。今までにも知識が感覚から生まれるということを言う者がいた。それは感覚論として、一部の知識人に独占されたままであった。問題は感覚論として、一部の知識人に独占されることでなく、それを皆に知らせ、皆が自分自身を知る手懸りにし、皆をたかめることである。これまで庶民大衆のことを、庶民大衆の不在のところで論議していた。たとえその論が正しくても、庶民大衆の中に生きてこなければなんにもならない。今日はそのしかえしをうけているといってもよい。これまでのように所謂知識人が知識人として、高所にいることはできなくなったのである。
 欲望が行動をうながし、感覚が行動を左右すると言ったが、行動を決定するのは意識である。数ある知識から択んで意識となり、それが行動を決定するのである。その時の意識は欲望、感覚についで強いものである。人間を人間たらしめているのは知識ではなく、知識と深くかかわった欲望、感覚、意識だということを知ることである。欲望、感覚、意識と深くかかわろうとしない知識を無視することである。知識なら、どんな知識もいいということにはならないのである。
 政治的意識があの人は高いとか、社会的意識があの人は低いとか、歴史的意識があの人は全くないというようなことがよく言われる。知識が意識になったとき、はじめて行動になると言ったが、その意識には先述の外にも、経済的意識、宗教的意識、文化的意識、倫理的道徳的意識、芸術的意識などと大体学問、知識にみあった意識がある。それは知識が意識となって、実践的性格をもち、人間の知識となってくることをしめしている。
 人は政治教育を実施すると、非常に混乱すると考える。たしかに体制的な人と反体制的な人とでは、政治教育に求めることが、大抵の場合違うから混乱がおきるのである。だが誰も人間が政治的存在であることを否定するものはいないし、人間誰でも政治的意識をもたなくてはならないと考えよう。その時の政治的意識は体制的な人にも反体制的な人にも共通するものである。では政治的意識とは何かと言えば、政治とは何か、政治とは誰のものか、政治とはなにをめざすものか、政治をそこなうものはなにか、政治はどのようにして行なわれたら好ましいかなど、政治についての本質的、根本的な考えというか、そういう意識である。本当は人が必ずもたなくてはならないものである。
 同様に社会的、歴史的存在である人間はぜひ、社会的意識、歴史的意識をもたなくてはならない。さらに経済的意識、宗教的意識、文化的意識、倫理的意識、芸術的意識などをもたなくてはならない。それは人間が政治的、社会的、歴史的存在であると共に、経済的、宗教的、道徳的、文化的、芸術的存在だからである。専門的知識はともかくとして、これらすべての意識はある程度もたなくてはならないものである。人はともすれば、その中のある意識だけをもてばよいと思っている。だから半端な人間が育っているのである。
 専門家というか、学者というか、知識人というか、そういう人達は専門的知識はもっているが、それを意識化している人は案外少ない。行動しない知識人はこうして生まれるのである。たとえば、歴史学を研究している者の立場からみると、今の歴史家というか、歴史学者はほとんど歴史的意識をもっていない。そのために歴史を暗記学問にし、歴史的事実の究明にだけ血眼になっている。勿論それは大事な事だが、それ以上に大事なのは、歴史的意識は歴史的知識を真に生きた知識にするという事である。歴史的意識とは、一言でいうと歴史は何のためにあり、なんのために学ぶかということであり、歴史を学ぶことは自分自身をよく知ることであり、より豊かな未来を創造すること以外にはないということを知ることである。
 ここでさらにつけ加えておかなくてはならないのは、階級意識であり、革命意識であり、保守意識であり、労働者意識、資本家意識である。これらに対応する知識はあっても、これらに対応する分科科学は今のところないということである。これからも今の学問は現実に立ちおくれるということである。
 いずれにせよ、私はもう一度声を大にして、尊いのは欲望であり、感覚であり、意識であると言わなくてはならない。単なる知識など犬にでも食われてしまうといいのである。

 

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 見失われた感性の復権

 私ははじめに、知識の原初的形態は感覚から出発するといった。カントによれば、受動的なもので、事物、事象を認識する能力を感性といい、これに対して悟性は能動的、自発的なもので、事物、事象を抽象する思惟能力と考えた。だから感性は基礎的能力で、悟性は概念の能力といっていい。どちらを一つ欠いてもだめである。しかも彼は感性と悟性を統一したものを理性とよんで、人間の認識能力としたのである。
 しかしいつ頃からか、理性を悟性と混合し、感性を軽んじ、人間の認識は悟性のみで、そのような理性のみで生まれるものとしてきたのである。最近人間の理性を考えるとき、感性と悟性の統一としての理性でなく、感性ぬきのものを考えるようになって、知識そのものは人間を離れたのである。死んだ知識となったのである。
 人間の認識能力はあくまで理性であり、感性ぬきの悟性では片端である。
 知性というときも、情緒面、意志面をのぞいているから十分ではない。人間の認識能力を考えるときには、情緒面、意志面も考えて、全体的、統一的でなくてはならない。情緒面、意志面をぬいた知識は片端で、感性をぬかした悟性だけと同じである。これまで知、情、意ととらえて、知を情、意と対立するものとしてとらえていたから、妙なものになっているのである。
 これからは、知を統一的、全体的にとらえなくてはならない。そうしないと、人間の知識から程遠いものとなる。情と意が働いて、全き知識にはじめてなる。
 カントの考えた感性、悟性、理性の関係を今一度考えることである。しかし私は感性を人間の認識の原初的形態であり、理性を人間の認識の到達目標と考えたらいいと思う。それはカントの分類に反するものでないし、人間の認識を人間に即して考えることになるし、カントの言う感性をぬかさないためにも必要なことではあるまいか。要するに感性を忘れることがいけないのである。事物、事象を分析、加工、綜合、抽象する思惟能力は非常に高度なものであるが、それだけを考えて、基礎的能力である感性を忘れては、元も子もなくなる。
 マルクス主義哲学が感性をみなおそうとしており、感性を認識の出発点とし、それが発展して、事物、事象を変革するものとなると言いながら、マルクス主義哲学を信奉する多くの人間が現代の常識に流され、それに埋没してなんとも思わないのである。マルクス主義哲学を正確に読みとることはむつかしい。
 問題はマルクス主義哲学を奉ずるかどうかそんなところにはない。大事なのは今の現実をみきわめ、感性の位置を正しい所におくことである。感性を見失っている人に、感性を見なおさせることである。ほとんどの人は本音の生活を感性だけでし、たてまえの生活を悟性だけでしているのである。理性はどこにもないというのが、日本人の生活である。理性の復権というか、人間の知識の復活を所謂知識人に対して叫ばなくてはならない。
 所謂知識人は口を開けば、理性といい、自分自身は理性を口にしていると思い、人間は理性的存在なのだというけれども、現実の彼らは理性の中味を知りながら、理性とは全く異なる生活をしているのである。さらに人間は理性的存在であることを理想にすべきかもしれないが、感性的存在であるのがせいぜいである。しかもその感性的存在であることすら、忘れているのである。感性が認識能力であることを忘れているのである。

 

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 知識と行動の止揚と統一

 知識が欲望、感覚、意識と結びつき、行動は欲望、感覚、意識に促がされなければ、知識はその本来の姿をとることができないし、行動は強力なものとなることはできないと、これまでたびたび述べてきた。
 ここであらためて、知識と欲望、感覚、意識と行動の関係にふれてみたい。知識が欲望、感覚、意識と結びつくということはどういうことであろうか。また行動が欲望、感覚、意識に促がされるということはどういうことを意味しているのであろうか。
 まず知識が欲望、感覚、意識と結びつくということは、相互に深くかかわっていることを知ることである。実は無理に結びつけるのではなく、本来深く結びついているのである。だが結びついていることを知らず、放置していると、結びついているにもかかわらず、別々に独立しているように思わせることもあるのである。深くかかわっているということをもっと具体的に述べると、欲望、感覚、意識に支えられて、知識が生まれるということであり、欲望、感覚、意識は逆に知識に導かれて充足し、方向づけられるということである。知識に導かれないと、欲望は動物的欲望として暴走し、人間の制御の外にはみでるし、知識に導かれないと、感覚も意識も生じないのである。ただ単に初歩的意識は生じたとしても、政治的意識、歴史的意識などという高次の意識は生まれないのである。
 欲望から知識そのものが生まれるということについて言えば、性欲から沢山の知識が生まれることでもあきらかである。性欲の充足のために、人間関係がいかにあらねばならないかという道徳的、倫理的知識が生まれるとともに、人間関係をいかにしたらよいかという政治的、社会的知識も生まれる。さらに性欲の充実のために、経済的、建築的知識も必要になるし、家政学的知識も必要になる。考えていくときりがない。すべては性欲の効果的充足のために、人間が考えだしたことである。そればかりか、人間の解放の理論という最も高度な知識ですら、性欲をいろいろと抑圧しているのに対して、その抑圧をはねのけるために生まれたのである。
 食欲を考えてみてもよくわかる。食物を生産する知識から貯蔵する知識まで、さらに加工する知識、新しい食品を生みだす知識など数えあげたらきりがない。戦争の知識すら食欲を満足させるために発展したのである。
 感覚といって先に数多くあげたが、どの感覚一つをみても知識と無関係ではなく、感覚がそのように多種多様になったのは、感覚それ自身の発展分化である。ただ知識そのものがそのような感覚を生みだしたようにみえるけれども、もとはといえば感覚の自己運動から生まれたものである。意識も感覚と同じで、意識自体が発展分化していろいろの意識になったのである。
 このようにして生まれた知識が今度は逆に作用して、ますます欲望を発達させ、感覚、意識をいよいよ育て、結局は知識そのものをふくらませることになるのである。こうして、知識が、欲望、感覚、意識が次第に育つには、独学という自分で学び、考え、育つという姿勢が一番ぴったりしている。常に人間という全体をみながら、発達させていく独学という姿勢しかない。
 反対に行動が欲望、感覚、意識にうながされておこるということも、もともと欲望、感覚、意識には行動という要素をもっているということである。行動のない欲望、感覚、意識というものは考えられない。行動そのものである。
 かくて知識と行動は一つになるものである。欲望、感覚、意識を媒介として統一さるべきものである。知識といい、行動というも、本来一つのものである。それは単に別々のものであるかのように、思われたにすぎない。一つのものは、早く一つにしなくてはならない。

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 実践を通しての独自性の獲得

 知識は体験を通して、はじめて知識として本物になるというか、知識そのものの本当の意味がわかるのであって、体験を通さない間は本当にわかったといえない。体験を通すことにより、自分なりにわかってくる。知識というものは、それほどに理解がむつかしいものであり、各人流の理解があるものである。決して知識通りに、言葉通りに、一つのものがあるわけではない。とくに社会科学的、人文科学的知識の場合、理解がむつかしく、多種多様である。最初に概念規定をするのも、理解の統一をはかろうとする人間の努力である。自然科学的知識における用語や論理が単純明快であるのも、その知識を発展させるために、とくに意を用いたためである。それに反して社会科学的、人文科学的知識の場合、その用語が複雑で、簡単に概念の統一ができないのも、その知識が復難多種であるしるしであり、自然科学のようにその知識は単純に発展しない。
 いいかえれば、自然科学が悟性の範囲内で可態なのに反して社会科学、人文科学は感性、悟性の上に成立し、多種多様な感性の管轄化にあるから複雑になるのである。だから社会科学、人文科学の場合、人間そのものがやる学問だともいえるし、人間の歴史そのもの、生活そのものでやる学問だと言っていい。いままでどちらかというと、その自覚の欠けていたところに人文科学、社会科学の停滞があったといえる。
 人々はとかく体験即実践というとき、狭義の意味につかいやすい。若い者とくに政治的にめざめた若者は、実践といえば政治的実践を考えて、他の実践を考えない。宗教的実践だけを実践と考える者もいる。反対に政治的、宗教的実践にめざめない多数の人がいて、それは常識的、慣習的実践だけに身にゆだねている人達である。いずれも間違っている。政治的実践、宗教的実践にめざめたことは尊いが、人間の他の経済的、社会的、倫理的、文化的、芸術的実践を過小に評価することは許されないし、同様に常識的、慣習的実践に身をゆだねて、政治的実践、宗教的実践に無関心なのもこまったことである。ともに人間の一部だけを生きているものである。人間として生きる以上、人間を全的に生きなければならない。
 知識は本来、体験即実践のためのもの、知識を単純に排斥して、体験即実践に走る者は先人、先輩の知識や体験を単純に踏襲しているだけで、創造的実践をしている者ではない。実践が尊く、価値があるのは、創造的実践であり、単なる実践のくりかえしは動物でもできることである。今日、政治的実践、宗教的実践が強調されるのも、あまりに実践を軽視する教育と社会のためである。だから強調するのはいいが、人間の一部の実践だけを言うのはあらためなくてはならないと思う。
 知識は創造的実践のためのもの、知識なくして創造的実践は生まれない。だが同時に、創造的実践を生むものは、知識は知識であっても、創造的知識であるということである。記憶された知識から生まれないということである。とくに政治的実践を強調している若者は知識で武装しないために、その時代を過ぎると忘れたかのように政治的実践を口にしなくなる。ある一部の者が知識で武装し、それを永遠につづけているにすぎない。偶然のようなものである。また宗教的実践をいう者も閉鎖的に宗教的知識を学ぶために、実践につとめればつとめるほど、多くの人を宗教ぎらいにする。自分達こそ宗教の敵であることを知らない。ともに体験と知識の関係を中途半端につかんでいるためである。
 私の専門の歴史学についていえば、歴史学を学び、歴史的事実に関心をもつ人は最近非常にふえたが、せいぜい頭の訓練をする位に考えるだけで、現実の実践、未来の創造のために歴史的知識をつけると考える者はほとんどいない。だから暗記課目だと考え、英、数、理より過小に評価され、それを歴史教師もあきらめているのである。あってもなくてもいいものであり、ないよりましなのが歴史学だと考えている。しかし現実の実践、未来の創造のあり方を教えてくれるのが歴史学だとすれば、軽視できない筈である。
 戦争体験を伝えることが可能であるのも、歴史学においてであり、歴史学が不可能を可能にするのである。歴史学そのものを信じている者には戦争体験を伝えられないという詠歎はない筈である。知識は体験であるということを教えてくれるのは歴史学であろう。勿論戦争体験を伝えるには、何をどのように叙述し、それをどのように教えるかという高度の問題があるにしても、歴史学はもともとそれらの上に成立する学問である。
 自主独立の思想が生まれるのも、感性、悟性の上に成立しているからであり、独自性のある思想が育つのも、感性、悟性の上に成立するからである。そしてその感性、悟性を自由に発達させることができるのは、独学においてはじめて可能だということである。

 

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 独学をつらぬく自立の精神

 心という時、それは知識や行動と無関係のように思われるが、心とは知識と行動の統一した典型的なものであるといえよう。意識というよりももっと統一されたもの、分ちがたいもので、人間においてのみ考えられることである。
 競争心、独立心、自立心、虚栄心、闘争心、恐怖心、慈善心、自愛心、公徳心、好奇心、屈従心など心のつくどの一つを考えても本能と知識、知識と行動が高度に統一されたものである。
 これらによって、人間は自己を保存し、種族を保存し、人類生活を維持できるのである。人はあまりに心ということを言葉にしながら、その実、心の内容、作用についてはほとんど考えていない。心というものを考えていたら、決して空虚な知識は誕生しない。心をよりよく生かし、充実するための知識であるということを考えた筈である。
 たとえば独立心ということが言われながら、ともすれば自立心と混同し、独学を考えない。独学する者にのみ独立心は可能だし、師について学ぶ者も独学があって、はじめて独立心を自分のものにすることができる。今日ほど、独立心が強調されながら、独り立つという姿勢がないことはない。
 独り立つ者が自立心をもてるし、正しい意味の競争心をもち、恐怖心をもち、公徳心をもてるのである。正しい意味の競争心とは、現在の自分と競争することであり、歴史上の人物と競争することであり、競争によって他人を損なわないことである。恐怖心にしても、恐怖すべきものを正しく理解して恐怖するということであり、そうでないものには、軽々しく、恐怖しないことである。公徳心にしても、人類の平和と調和のために作用する心である。日本人の公徳心はいずれにしても低い。
 その他、虚栄心にしても、それの何たるかを知って、行動を抑制することが必要だろうし、好ましい闘争心は自己を発展させ、守るためになくてはならないものであろう。
 さらに、自愛心のように自分を愛する気持の強いものでなくては、何事もできないであろうし、好奇心のない者には進歩がない。屈従心があるからこそ、人間は真理の前にひざまずき、真理を創造することができる。屈従心のあるために人間は生生発展する。
 このように考えていくと、どの心を一つとってみても知識を伴わないで、心の内容も作用もないことに気付く筈である。心を大切にしなくてはならないことは、誰しも賛成であろうが、心を大切にするとは、知識と行動を大切にするということである。精神と肉体の両方を大事にすることである。
 人は心という場合、精神のみのことを思いがちだが、心は精神と肉体の両方にまたがるものであることを知らなくてはならない。肉体のない精神というものはありえない。心を本当に大切にする風習が現実のものとなれば、人間は生かされてくる。心にないことを言うとよく言われるが、言葉に心を、知識に心を通わせることは大切である。言だまとはそのようなことをいうのである。言だまを否定する人がいるのは、言だまという意味をとりちがえている。
 今こそ、現代人は人間の原点にたちかえって考えなおさなくてはならない。人間そのものを支えている心に立ちかえらなくてはならない。心において、とらえようとする時、知識と行動は一つになり、精神と肉体は一つになるといったが、それだけではなく人間を自然の中の人間として、さらに時代の中の人間として、自然や時代をも統一的にとらえうる。自然と時代を捨象しては、どんなにこまかく人間をとらえているとしても、その人間は全体的、具体的ではない。今日の人間の悲劇はそこからきている。人間の心というものを抽象的にとらえて、全体的、具体的にとらえないところからきている。いいかえれば心が死んで、心がないのである。

 

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 5 生き方を問直す独学 価値観の創造 

 

 教えられる者から学びとる者へ

 従来は、学ぶといえば、教師から教えられることを記憶することだと考えられていた。教師から教えられたことをいかに正確に、たくさん、早く記憶するかと考えられていた。所謂頭がよいとは、そういう能力を持っているものと、一般に教師も親も子供もそう思い、少しも疑うということがなかった。奇妙な人間が育ち、公害社会ができたのもむりはない。
 今こそ頭がよいということを考えなおし、あらためなくてはならない時である。頭がよいとは、自分自身で深く考える能力があり、その考えていることが正しいかどうか反省し、見究める能力があり、自分のもった知識を活用して実践する能力があり、なによりもそれによって自分自身を変え、他者を変え、社会を変える能力をもっている人のことである。この中から、どの能力を欠いても、頭のよい人とはいえない。それなのに今、頭がよいと言われるとき、どの条件もそなえていない。たまたま頭のよいと言われる人の中に、このような能力をもった人がいるにすぎない。頭のよい人によって、この社会が発展し、支えられているのではなく、偶然によって、この世は発達してきたといってもよい。本来なら、頭のよい人間を学校というところは作るところだが、実際には学校にいけばいくほど、頭のよい人間から遠ざかり、記憶力のいい人間を識別し、育てているにすぎない。学校の中で、多くの人は劣等感をうえつけられ、そのために社会の落伍者になっている者もあるし、反対に理由のない優越感に悩まされている者も多い。ともに自分に相応しない実力評価をされて、それを背負って生きているためである。
 大事なことはこんな奇妙な事から解放され、真に正しい意味の頭のよい人間にむかって、今日ただ今から、自信をもって、着実に歩みはじめることである。教師から教えられる者ではなく、教師、先輩、親、自然を媒介として、それから自分で学ぶ者となることである。自分で学び、考えるとき、はじめて自分のものになる。自分のものにならない限り、先述した諸能力はでてこない。自分のものではなく、自分につけたしたものは生きて働かない。
 自分と切り離された所に蓄積された知識だから、口舌の徒にもなるし、所謂頭のよいとされた者が非行に走り、平気で人をだますのである。そういう人間は自分で学び、自分で考え、それを自分自身のものにしようとしたことがないのである。そういう人間を育てた日本の学校教育はまちがっているのである。学校教育の中でこそ、自ら学び、考え、自分のものにしようとする独学が必要なのである。
 自ら学び、考えるという姿勢のない者は、たとえ大学にいっても、全く学ばなかった人といえるし、小学校だけ出た者でも、自ら学び、考える人は最高に学んだといえる。大事なのは、学歴ではなくて、いかに学び、考えたかということである。学校教育がいよいよ盛んになって、人間の社会科学的、人文科学的知能はますます低下するという奇現象をおこしたのである。
 自ら学び、考えるという独学の姿勢をもつ者は、今の学校教育のように、公式的、機械的カリキュラムを万人に押しつけ、そのために多くの落伍者を生む教育にまどわされることなく、自分にあった学習計画をたて、確実に自分を肥らせ、自分を変えることができる。自分の学習計画をもつということは、自分の人生の設計プログラムを持つということでもあるし、自分の歴史プログラムを持つということでもある。この時、民族の歴史、人類の歴史と自分の歴史が重なることでもあるし、それらを同時に考えるようにもなるということである。自分の歴史を大切にするということは、非常にいいことである。自分の歴史を考え、大事にしない者は、いくら民族の歴史、人類の歴史といっても、それは生きてこない。それに自分の歴史を大事にする者が他人の歴史を大事にする。
 また、自分の学習計画をもつということは、自分以上でも、自分以下でもなく、確実に自分自身のための学習をして、自分を変える。人のため、親のため、成績のため、入学のための学習ということがない。他のための学習だから、自分のものとなることなく、自分のかざりでしかないのである。
 さらに、自ら学び、考えるということが真の教育だと知る者は自ら学び、考える人間となる。今の教育がだめなのは、自ら学び、考える人が少なくなり、そうなった時に教師になれると思っている事である。自ら学び、考えることの重さを知っている者だけが、自ら学び、考える人をつくることができる。教科書を正確に教えることが教育だと思っているような教師は最低の教師である。文部省が教師の資格をやかましく言えば言う程、いよいよ真の教育から遠ざかる。
 自ら学び、考えることは誰にでもできる。ただそれをできなくさせているだけである。知識を学者の独占物にし、そのような知識があるかのように思わせたのである。学者の観念の世界と学者の日常性をふくんだ大衆の常識の世界の二つがあるように人々に思わせたのも、学者である。この二つの世界を打ち破らなくてはならない。固定化し、絶対化している常識の世界を破るものこそ次の時代のものである。そのようなものに挑戦している学者は果して幾人いるか。価値観が変わったというが、今は混乱して、価値観といえるものがないだけである。今は価値観といえるものを創造する時である。それを創造するのは独学である。

 

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 生涯教育の必要と独学の姿勢

 この頃、生涯教育ということがよく言われるが、独学の姿勢を身につけた者は自分のために、自分自身の発展のために、常に学びつづける者となる。所謂学校時代が学ぶ時代でなく、学校に入る前も卒業後も生涯を通じて学ぶことの必要を知る。それを教えてくれるのが、独学という行動である。しかしそればかりではない。学ぶことの楽しさ、喜びを教えてくれるのも独学である。卒業して学ぶことをやめるのも学ぶことの楽しさ、喜びを知らないで、単に成績のために、入学のために、親のために、しかたなく学んでいたためである。知識を行動のために学ぶことを知った者は力強い。自分のために学ぶことを知った者は力強い。しかしあまりにも他人のために学ぶ者が多すぎる。
 独学を身につけた者は、自然に学校教育、家庭教育、社会教育を綜合的に統一しようとするであろう。生涯教育というとき、この三者を綜合し、あわせて、自分自身のために学ぶということが必要である。今までの学校教育と社会教育は全く別々のものとして存在していた。
 ことに親は子供に学ぶことを強く要求しても、自分自身、己れのために学ぶということが、全くなかった。自然、子供は大人になると学ぶことをやめるのである。それは独学の姿勢が身についていないからである。
 独学ということは、独学の主人公は自分であり、自分が自分に教え、考えることであり、教師も、親も、大人も、教科書も、環境も、書物も単に自分を助けるものでしかないということを知り、見究めることである。独学の主体は自分自身、人間自身であることを知ることであり、独学を通して、日々新たなる自分をつくることである。一つ一つ確実に自分のものにし、自分を変えることだということを知ることである。
 独学する者は、自分の種々の体験をもとにして、自分の知識を育てるから、その体験が多様であるときには、自然に多様な知識が育ち、多様な人間となる。あらためて多様であることを求めることはないのである。多様な知識、多様な人間が相互に働きかけて、ますます多様となる。
 これまでに他者の知識、他者の人間から学ぶことが下手だったのも、あるいは学んでも単に観念的知識にとどまったのも、独学の姿勢がなかったためである。自分自身を肥らせるという視点がなかったためである。独学の姿勢を尊ぶようになれば、知識と体験を切りはなすこともなく、知識を出発点とする言葉を軽視することもなく、さらには現実に作用できないような知識が知識として存在することもなくなろう。
 模倣的知識がせいぜいであるのも、独学の姿勢がないためである。いかにも日本人の欠点であるかのようにいわれている模倣にしても、実は明治以後の独学の姿勢をなくした学校教育のせいである。江戸時代までの日本人はもっと独学的であったのである。模倣的学習の根本に独学の姿勢をもっていたのである。
 生涯教育といわれるようになったのも、他国の教育学の影響であるが、日本の教育の現実をみれば、自ずとそこから生涯教育を支える独学がいわれた筈である。たとえ生涯教育がなされても、独学が死滅していたらなんにもならない。
 今こそ教育そのものを見直すときであろう。

 

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 個性的知識の価値と効用

 知識が体験を出発点とし、独学によってその知識を深め、拡げようとすれば、その知識は自然に個性的となる。自分のための知識を自分にふさわしい学習計画でおしすすめるならば、個性的とならざるを得ない。
 これまでは、科学的、客観的といわれるあまり、知識が個性的であり、主観的であることを忘れすぎており、個性的知識を無視している。科学的、客観的知識は最後の目標であるが、それは個性的、主観的知識の積み重ねの上に到達するもので、決して無性格的知識の積み重ねの上に成立するものではない。それなのに人はともすれば、最初からこの無性格的知識をあたえようとする。あたえうると思いがちである。その結果が知識でない知識となることに気づかないのである。 
最もすぐれた個性的、主観的知識がそのまま科学的、客観的知識となるのである。科学的、客観的知識は本来ないものである。知識は個性的となることにおいて、はじめて存在の意義があるのである。
 人は個性的というとき、単に性格の上のことだと思いがちだが、知識そのものも個性的になりうるし、個性的とならなくてはならないのである。そういう知識が、それをもつ人間、そういう知識に共鳴する人間に作用して、どんどん変えるのである。生きて作用しない知識は知識の名に価しない。個性的、主観的知識はいよいよ個性的となり、主観的となることにより、それに共鳴する人達の環をひろげるのである。共鳴、共感によって、知識ははじめて作用するのである。
 そういう個性的、主観的知識こそ独学の姿勢をもつことによって生まれるのである。自分自身を中心にして、自分が一つ一つ獲得する知識こそそういう知識となるのである。知識の主体が明らかであるばかりでなく、その主体が責任を負う知識となるのである。独学の姿勢のない限り、責任のある知識は生まれない。
 それと共に、独学の姿勢から生まれた知識は絶えず創造的となる。創造的になるまではやむことがないし、一つの創造に甘んじるほど、のんびりしたものではない。独学が自分自身を肥らせるものであるように、無限に肥ってとどまるところのないものである。生涯学びつづけるものであることはいうまでもないが、単に学びつづけるばかりでなく、創造を求めて学びつづけるのである。創造のない独学など一願だにも価しないのである。
 人間には、本来創造したいという欲望があるし、創造したいという心がある。それなのに、多くの人はその要求や心を満たす術を知らないのである。満たし方を知らないのである。そればかりか、創造など思いもしない人間であると思いこまされているのである。だが人間は誰でも創造的知性を働かすことができるのである。単にそういうことをしなかっただけである。創造的知性の根源である独学というものをもたなかっただけである。
 独学するようになれば、自分自身を尊び、価値ある者と思うようになる。二つとない勝れた者と思うようになる。自分自身が自分を尊ばないで、人に尊ぶことを求めるのは無理である。この頃よく、生きがいある人生ということをいうが、自分に価値、意義を見出さなくて、生きがいを見出せるわけはない。価値や意義は自分自身で作り、自分自身で発見するものである。勿論何が価値であるかは、世の中の常識に流されているものにはわからない。今日は自分で価値といえるものを見出す時だし、それができるのは独学の姿勢の中だけである。

 

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 実践的知識の体得と応用

 独学をするようになれば、独学の主体である人間が社会的、政治的、歴史的存在であるから、自然にその人間を生かすために在る知識そのものは社会的、政治的、歴史的なものになる。
 戦後は、一般教養として社会学、政治学、歴史学をほとんどの大学で教えるが、日本人の同年齢人口のうち、二、三割が大学に学ぶ今、相変わらず社会的、政治的、歴史的意識を持つ者は少ない。戦前、ほとんどの日本人が自分が社会的、政治的、歴史的存在であることを教えられなかったのとちがって、戦後そのことを教えられることが多くなったにもかかわらず、一般教養を軽視する風潮のなかで、ごく少数の人が社会的、政治的、歴史的知識を観念として持つだけで、それらを社会的、政治的、歴史的意識に発展させて、行動にふみだす者はほとんどいない。自分が社会的、政治的、歴史的存在であることを自覚している者は非常に少ない。
 歴史といえば、過去のことであり、政治とは政治家のするものと思っている者は今でも多い。あるいは政治とは何かをしてもらうものと考えている者が多い。知識が社会的、政治的、歴史的なものとなり、人々を支えないのは独学がないためである。独学によって、自分がどういうものであるかを、とことん考えないためである。教師が教えてくれることにおんぶしているためである。
 知識が社会的、政治的、歴史的なものとなれば、今の世の中はがらりと変わるだろう。公害もおこることがないし、福祉といってさわぐこともないだろう。公害をまきちらし、福祉を軽んずるのは、すべて社会性をもたない、政治性をもたない知識が横行していたためである。今までの知識はあまりにも一方的であり、人間そのものに全的に奉仕するものではなかった。
 同じように独学する者は行動的、実践的知識を身につける。人間が本来行動的、実践的動物であるから、それが身につける知識は自然、行動的、実践的となる。自分を知らない知識は知識の名に価しないし、自分を知るということはわかりきったようなことであるが、行動的、実践的自分を知るということである。人はあまりにも自明なことのために、自分が行動的、実践的であることを忘れている。
 行動的、実践的知識を志すなら、青白きインテリということもないし、口舌の徒のために苦しむこともなく、世の中は今より好ましいものとなっていよう。
 世の中が変わらないのも、いよいよ行動的、実践的知識が少なくなっているためである。独学がないために、行動的、実践的知識ではなくなるのである。独学するということそれ自身が一つの行動であり、実践である。人はただその行動なり、実践なりを強力に押しすすめればよいのである。
 知識そのものが、本来社会的、政治的、歴史的性格をもつものであり、同時に行動的、実践的性格をもつものだという知識の原点にかえって、考えてみることが必要である。それらを教えてくれるのは独学である。

 

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 思想的営為の持続と発展

 独学によって得た知識は常に持続し、絶えず発展しつづけるものとなる。今日の多くの知識はとかく、欠落しがちであり、停滞しがちであるが、独学によって得た知識はそういうことがない。それというのも、独学そのものが常に持続し、発展する性格をもっているからである。独学する者にとって、欠落し、停滞していることほど、気持のわるいものはない。自然に持続し、発展することを求める。持続し、発展することが独学だと考えるようになる。
 若い時期にたまたまある思想に出会い、それを記憶しても、ある障害にあって放棄するような思想はまだその人の思想とは言えないし、その人の身についた思想ということはできない。多くの人間が転向するのもそのためだし、若い人間がたまたま自分の出会った思想を自分のものと思いこみ、他の思想を省みないのもそのためである。いたずらに思想をくっつけたにすぎない。自分の思想とは、その思想のために生き、その思想のために死ねるものである。独学によってはじめて自分の思想となる。自分自身が思想そのものとなるのである。
 欠落する思想や停滞する思想は思想とはいえない。ということは、今思想の名で呼ばれているものは思想でないということである。若気の至りであったというように言うことも、思想そのものも真面目に考えたことがないからである。途中で捨てるような思想は、途中で後退するような思想はまだ本当の思想ではない。
 日本人の中には、若い時一つの思想だけ、与えられた思想だけを信じこみ、それを盲目的に実践し、年をとると多くはそれを捨ててしまい、常識に身をゆだねる。自分で一歩一歩思想をたしかめ、自分で思想を創造することがない。たしかめるために創造するために必要な独学という姿勢がない。どうにか、その思想を捨てず、持ちつづける者も、多くはそれを捨てなくてもいいような環境に偶然いたにすぎない。停滞し、固定化した思想を好むのは日本人の思想的風土で、創造的という言葉を好んで使用するが、創造的思想を嫌うことは徹底している。異端といい、分派といい、利敵行為という言葉で排除してしまう。
 河上徹太郎が、真剣に思想を追求しても、四十歳までは、まだ転々とするものであるというようなことを言っているが、日本人の中に、四十まで思想一筋に追求する者はほとんどいないし、多くは二十代でやめてしまう。二十代、三十代で生涯を支える思想の方向をもつ者は珍しいし、もしそうとしたら驚歎に価する。
 若者はあまりにも早く実践に走りすぎ、老壮年はあまりにも多く常識に身をゆだねすぎる。世の中に進歩のないのも、革命がおこらないのも当然である。若者こそ、目下思索中といって、実践を拒否し、老壮年はわかったといって、実践に出なくてはならない。何を実践すべきかがわかるのは、三十代後半であり、四十代である。それを各人に与えてくれるのは独学である。独学のない者は三十代後半、四十代になっても、これこそ思想だと言い得るものは発見できない。年とともに発展するのが本来の思想である。二十代を頂点とするような思想はあるべき思想の道程にあるものでしかない。
 だからとて、今の学者のように、単に年とともに知識の量をふやすものでなく、現実への有効性のない知識をいたずらにますこともできない。
 独学によって、自分を支え、貫き、発展させることである。独学はそれを自分に与えてくれる。

 

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 自身との格闘と自立への道程

 最近は何事でも人にやってもらうという傾向が強すぎる。ことに政治的なことは政治家にすべてしてもらおうとする。中には自分で考えなくてはならないことまで他人に考えてもらおうとする。人生相談というものがいよいよはやるのもそのためである。考えることを怠るというよりも、クイズ的知識が横行して、考える習慣を失ったためである。戦後そういう傾向がますます盛んになったといってよい。自分の人生まで、他人にゆだねるということはどういうことであろうか。自分で自分の生を生きていないということである。自分の生をなくしてしまったのである。独学というものがない以上、そうなってもしかたがない。しかたがないといえばそれまでだが、それでかたづけてしまうことはできない。なんとしても自分の生を自分の手にとりかえし、自分の生を自分で生きねばならない。そのためには独学の姿勢をもつことである。単に知識をつめこむことを止めなければならない。結論だけを他人に聞こうとすることを止めなければならない。
 結論というか、自分がどうすればよいかという答は、知識をもとにして、ああでもないこうでもないと思考した結果生まれるものである。大事なのは思考する過程そのものにある。結論よりも思考する過程が大切なのである。学校教育でも、この過程より、結論を重視する。ある意味で試験とはその最たるものである。だから結論だけを尊ぶ片端の人間が生まれるようになったのである。クイズ的知識とは、この結論のよせあつめである。
 独学する姿勢をもった者には、他人に、社会に依存するということがない。それを最も嫌悪して、どこまでも自分でやろうとする。自分で責任をとろうとする。知識そのものに責任をとろうとする。
 世の中のほとんどの人が、私達の生活、私達の生き方以外のところに、学問というもの、勉強というものがあるように思っている。日常的な問題を解決し、高め、豊かにするところに学問本来の課題があるのに、そういうものは放置したまま、その他に学問とか勉強があるように考えている。そのために、世の中そのものは少しもよくなることがなく、いたずらにそれらと無縁なものだけが発展し、その結果を生かすこともできない。日常的な問題には個人の責任ということが求められるし、責任においてこれらの問題は解決しているといっても過言ではない。日常的な問題を無視するところに、人は自然に他人に依存するのである。独学する者はこの日常的な問題を無視できないだけでなく、この日常的な問題を豊かにする知識と所謂学者のいう知識とを結びつけるのである。無限に可能性のある未来を提示する知識となるのである。
 独学する者は、今の自分を大切にし、今の自分がどんなにつまらぬ者、劣っている者でも、眼をそらして、背のびすることがなく、その自分を豊かにしようとする。変えようとする。今の教育はそういう自分から眼をそらさせている。自分自身を放置したまま、青年らしい夢だけを飾りとしてつけている。だから奇妙な人間が生まれるし、その夢をなくした時、ただの普通の大人、俗っぽい大人となるのである。自分自身に斬りこみ、自分自身と格闘する教育が全くない。今の学生運動家達の多くはこの類で、彼らには社会科学的知識があるだけである。だからとて、今のように社会科学的知識というものが、人間そのものに斬りこまないような、単なる知識にしてしまった社会科学者の責任は重く、いたずらに若者だけを責められない。

 

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 試行錯誤を通しての思考力の養成

 人は往々、概念や言葉を知識と思いちがいして、それらを記憶することだけに一所懸命になる。クイズ的知識が幅をきかすのもそのためである。だが知識の主力というか、中心はあくまで思考であり、判断である。思考や判断のない知識は全く不十分であり、生きて作用しないものである。思考や判断があって、はじめて作用する。
 学校教育では、ある程度思考と判断を重視するけれども、いざ試験というときには、単に概念や言葉の調査を主にし、ほとんど思考や判断を問わない。女子学生が試験で成績のよいのも観念や言葉を忠実に記憶するのが得意であるからである。そういう状況をふまえて、女性はともすればすばらしいという。しかし、その女性が世の中に出て、華々しくないとか、のびる者が少ないと言われるのも、世の中でそれなりに通用している知識は思考と判断を中心にしているからである。
 男性はそれなりに、無駄をすることで試行錯誤し、思考力を養っているのである。判断力を養っているのである。いいかえれば、わずかであるが、独学の姿勢を女性より持つことで考えているのである。今の試験をくりかえしていれば、思考力や判断力は育たないし、単に概念や言葉だけを沢山おぼえこむ人間が優秀と見做されるし、二枚舌や口舌の徒をつくるだけである。学校教育における今の試験内容をあらためないかぎり、本当に人間として勝れたもの、学者の卵として勝れた者を択びだすことはできない。せいぜい、口舌の徒か、公害をつくりだす者を養うだけである。
 独学する者は、概念や言葉は必要に応じて、おぽえようとしなくてもおぼえるものであり、中心はあくまで思考と判断であり、それを通じて何か新しいものを考えだし、創造することだと知っている。何かを考えだせない知識は、その名に価しないことを知っている。世の中には、あまりにも多く、何も生みだせないような知識が知識として横行している。
 何かを生みだし、何かを考えだすということは、それ自身一つの行動であり、実践である。行動や実践を考えない知識であろうとしても無理である。何かを生みだし、考えだす知識になって、はじめて知識である。そこに至らないものは、知識への道程であって、知識そのものではない。今の日本の所謂学者の多くはその道程にいることで満足している。学者だと自認しているし、世の中もそれで通用させている。本当の学者とは厳しいものである。作家は常に死と隣りあわせにいるものであり、いつでも自殺する可能性をもつものと言われるが、学者も創造的思考のできなくなったときは、自殺することである。自殺しないまでも筆を折るときである。
 このような覚悟が学者を支えるとき、学問は発展し、人間と社会は前進しつづけるであろう。親鸞、道元、日蓮をのりこえようと血眼になるし、北村透谷、内村鑑三、幸徳秋水を発展させようと、自分の全身全霊をうちこむことであろう。彼らの解説者に終わることを恥ずかしく思うであろう。今ではその解説者を学者としているが、そんなものは学者でも何でもない。
 学者とは自ら学ぶ者であり、創造する者、独学の姿勢を自分のものにした者である。

 

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 大学ヘの挑戦と自己変革

 独学の姿勢が皆のものになれば、大学なんか必要でなくなり、学歴主義とか教育ママとか奇妙な若者とか言って煩わされることはなかろう。大学の代りに、図書館や学習所を充実すればよくなるし、生涯教育とて騒ぐこともない。
 市民のための大学ということは過渡期のものとなり、すべての者が学び始め、考え始める。今までのように一握りの人間が考え、その他多勢は全く考えないということもなくなる。それが万人が生きるということであり、万人が責任を持つことである。もしも、大学が必要ならば、むしろ反対に能力のない者を教育して、人並に生きられるようにする大学である。民主主義が正しいとすれば、そのように大学が変質したときである。
 勿論今日、大学は特権階級をつくるものではなくなっているが、必ずしもそういう面が完全になくなっておらず、大学の特権を今なお追い求め、それに流されている者が多い。大学がなくなれば、大学教師に依存している多くの小、中、高校の教師達も自分によりかかるようになろう。自分自身で考えるようになろう。劣等感からも解放されて、専門的職業人になろう。
 なによりも大学に依存しようという、多くの人の依存心もなくなろう。人間の依存心を養っているのは大学といってもよい。自立心を養うべき大学が反対に依存心を養っている。それは戦後、大学が増加し、いよいよ依存心の強い人々が増加したことで明らかである。大学は諸悪の根源である。
 学ぶということを変えたのも大学教育である。学ぶということが単に大学で教授の講義をきくことだと早呑みこみし、考えることをやめ、書物を読むことを怠り、社会から、大人から学ぶことをやめ、いよいよ彼らの知識を観念化し、一見広くなったようで逆に狭い知識の中でのたうっているのが、今の大学生である。教授の講義をきいても、教授そのものに学ぼうとする学生はほとんどいない。
 教授自身の中にも、そういう魅力的な人は少なくなったし、教授の多くが学問と人間はちがうと考えるようになった。人間そのもののためにあるのが学問だと思っている人はほとんどいない。
 大学闘争は起こるべくして起こったものである。今の教授に自己変革をせまり、ゆがんだ学問を正常にとりもどすためには、ぜひとも必要なことであった。だが当の学生も市民も、大学闘争の今日的意妹をあまりにも考えなかった。ただ戦いの現象面だけに踊らされたのである。真の大学闘争は今後おこらなくてはならない。学生一人々々が大学闘争の今日的意味をふまえ、教授一人々々の学問的業績を的確に把握し、批判したときである。学生は感覚的認識の段階で大学闘争をすすめ、理性的認識の段階でおしすすめようとしなかったところに大学闘争はもろくも消えさったのである。
 皆が自分のために学ぶことを知り、生涯学ぶことをやめないなら、大学なんかなくてもよい。小、中、高校でそれを得ることはできる筈である。小、中、高校を卒業しただけで生涯生きつづける設計はできる筈である。今の学校教育は人間として生きる本質的、根本的なことは全くといってよいほど教えない。それではいくら知識を与えても、砂上に楼閣をつくるようなものである。益がないということになる。教育が盛んになって、ますます社会と人間はゆがむ。悲しいことには、日教組もその講師団もそのことに気づいていない。基を正さずして、単に自民党の教育政策のゆがみを批判しているだけである。同じ穴のむじなであるのに気がつかない。
 それだけでなく、教育が本来独立してあるものなのに、政治に依存させている。教育が自民党におんぶしていることも、革新政党におんぶしていることも共に誤りである。日教組はそのことに気づいていない。教育の方向を正すことは至難のことである。

 

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 6 真摯な行動と真理の追求 生の原典

 

 死を賭した学問への問いかけ 高野悦子『二十歳の原点』

 高野悦子は大学闘争の最中に亡くなった。なぜ彼女は死ぬしかなかったのか。その秘密を私は私なりに、彼女の遺した手記の中にさぐってみたい。彼女の死は大学闘争の中で殺されたもの、学生運動の中で殺されたもの以上に意味があるように思う。それは死がいやおうなく訪れたというよりは、彼女自身が死を自主的に択ばなければならなかったということにおいて、その意味はもっともっと大きかったということができるからである。まさにその死は大学の意味を問い、学問の意味を問うことにおいて、死ぬほどに深刻なことであったのである。だが、今日、人々は大学闘争の意味をもう問うことをやめて、彼女の死だけが空ろに横たわっているような感じがする。彼女はどうして敗れ去ったのであろうか。
 彼女が大学闘争の中で発見したものは、政治権力の暴力ということであり、多くの学問も多くの大人たちも自らそれを意識することなく、それに奉仕しているという現実である。それに対して、彼女はその全身でその権力にぶつかろうとしたのであり、それにぶつかっていくためには、これまでの自分自身を変えていくことから始めなくてはならないということを発見した。そうしなければ、自分はいやおうなく政治権力の暴力にまきこまれると知った。それは民青がその中にまきこまれながら、自分ではまきこまれているということに気づかないのと同じである。そして彼女が長い時間をかけて発見したことは、自分自身はひとりであり、未熟であるということであった。それが彼女のとらえた原点であり、彼女はそこから出発する以外になかった。いいかえれば、ゼロからの出発であり、小学校、中学校、高等学校の中で身につけたものはすべてはぎとり、自由で平和で平等な自分自身をつくることでしかなかった。大学での粉飾的知識や大人の常識はあとかたもなくはぎとり、自分自身の論理化、感性、欲望の論理化ということであった。
 従来の学問という学問は、少しも自分自身の論理化、感性、欲望の論理化には役だたなかった。役だたないばかりか、邪魔にさえなった。全く、新しい学問の樹立という大事業が大学闘争をおしすすめる学生達の肩にあることに学生は気づかなかった。気づかないばかりか、その事業は難中の難であることを知らなかった。知ろうとさえしなかった。彼女もその中の一人であったけれども、彼女が他の学生と異なっていた点は、誠実で、全身で自分自身をつくりかえようとしたことである。文字通り、言葉でなく、真底からゼロより出発しようとしたことが異なっていた。
 彼女が自分自身をみつめたこと、それも徹底してみつめたことはいい。人にたよることなく、自分で感じ、考え、生きようとしたことはよい。自分の世界を模索し、自分の世界を築こうとしたことはいい。今の自分自身ととことん対決し、未来の自分をつくりあげようとしたことはいい。不完全な自分からより完全なものをつくりあげようとしたことはいい。すべてを受身でなく、能動的に生きようとしたことはいい。勉強とは自分自身をつくりかえるものであると考えたのはいい。人間が本当に生きているのでなければ、友情も愛情もないと考えたのはいい。人間は自分を求めて行動しなくてはならないと考えたのもよい。甘えるなと考えたのはいい。
 これらはすべて独学の基本的、根本的姿勢である。だが彼女は独学ということを世間的に言われている以上には使用していない。ゼロから出発する者には独学しかないという認識がない。独りであり、未熟なものがそれをのりこえるには独学しかないという認識がない。たしかにひとりであり、自分は未熟であるという認識はよい。問題はどのようにしてそういう自分をつくりかえられるかということである。自分自身たよれるような自分をつくれるかということである。その時によみがえってくるのは独学ということである。彼女は独学の基本的姿勢には気づいたけれども、独学はしなかったのである。
 独学する者には、現実への絶望はあるが、きたるべき自分自身への絶望はない。自分自身への絶望から出発しているし、絶望しない自己の建設を願っているからである。自己への絶望から出発しているといってよい。
 道元が言ったように、生きるとは人生の意味を発見し、人生の意味を与えることである。それが無意味であると思う者は死ぬしかない。彼女は無意味だと思って死んだのであろうか。そうではない。直接的には自分への絶望と失恋である。彼女は自分はひとりであり、未熟だと言いながら、実はそれを観念的にしかわかっていなかったのだ。それを言う彼女はとっくに自分に絶望しておるべきであったのに、死の直前に、はじめて自分に絶望したのである。彼女自身への決定的絶望をもたらしたのは失恋という事実であった。
 たしかに彼女は人間が本当に生きているのでなければ、友情も愛情もないと言いながら、彼女は体制の中に無批判に生きている人間を愛し、それに失恋しているのである。彼女は感性、欲望の論理化を言いながら、それをなしえず、彼女という人間は分裂したままである。そういう自分に絶望したのか、失恋に絶望したのか、いずれにしても絶望している。彼女には酷な表現であるが、そういう恋愛をする彼女というものにあきれるしかない。彼女の周囲に、本当に自由で平和に生きる好ましい青年がいなかったということが彼女を自殺においやった理由である。大学での独学とはどういうことかを教える人間の存在がなかったということが致命的な理由である。それこそ彼女は死ななくてもよかったし、彼女のように全身で自分をみつめた人間が今の時代には必要であるということを声を大にして言いたい。
 彼女は大学教授が自己批判書を次々に破ったことを憤りをもって書いているが、それほどに今の大学教授の多くは退廃しているのである。その認識が甘かったということである。今まで独学のなかった彼らにはたやすく自己批判書も書けたし、たやすく破ることもできたのである。自己批判書を書かせたことで満足することでなく、それは出発点であったということを知るべきであったのである。個々の教授の学問的業績をじっくりと批判した上に自己批判書を書かせるべきであったのである。もともと学問と人間が遊離しているものに、あんな自己批判書なんていたくもかゆくもないのである。いずれにせよ、大学闘争をおしすすめた学生達は伝統的学問を簡単に変えうると思い違いをしたことである。何十年間、独学のなかった者に、それを急に求めても駄目である。
 東大の大学闘争が比較的成功したのも、大学院学生が参加し、新しい学問で対決したからである。古き学問にきりこむものがない限り、どうしようもない。
 彼女達は新しい学問を建設し、創造するという任務を自分自身に課すべきであった。死ねるほどに甘くはないのである。歴史学そのものをたてかえる仕事があったのである。それはマルクス主義歴史学をうちたてればよいというほどに甘くないのである。今までの立命館史学はマルクル主義歴史学をうちたてることだけに狂奔したのである。彼女達の任務はその歴史学を解体し、新しい歴史学をうちたてることであった。北山や奈良本の去就の問題ではなかったのである。人間が自由を求めて行動する拠り所を求めて、歴史するのである。
 彼女は歴史することの意味を真正面から、問わなくてはならなかったのである。ひとりであり、未熟な自分から脱するために、歴史するということを今一度問いつめなくてはならなかったのである。そういう彼女であれば劣等感におちいることもなく、東大、京大の歴史専攻の学生よりも使命感をもつことが出来た筈だし、下らぬ恋愛でなく、本当の恋愛も出来た筈である。死ぬこともなかったのである。誇りある人生であり、絶望することはなかったのである。
 だがあの大学闘争は彼女をおしつぶすほどに重い事件であった。その点でやむを得なかったということができる。ただ今日、重要なことは彼女の死をのりこえて、人間のための歴史学を創造しようという動きがあるかどうかということである。彼女の死をむだにしてはならない。彼女の本が売れているということではすまされない。

 

              <「生き方としての独学」目次> 

 

 荒廃した教育体制の告発 むのたけじ『日本の教師に訴える』

 むのたけじは所謂教育者でもないし、所謂教育学者でもない、一介の庶民である。だが彼の教育に対する関心は、どの教育者、教育学者よりも深いといえよう。それだけではなく、彼の所論は誰よりも鋭く、深い。教育のあるべき方向をしめしているといってよい。人々は彼のいうところに耳を傾けてみる必要があるし、誰でも彼のように真摯に長い間教育のことを考えていれば、彼のような人間になれるということである。
 彼はその著書の中で、まず教育とは教師そのものであると言い切っている。普通、人々は教育とは教科書の知識を暗記すること、理解することのように思っているが、彼はそんなことは末梢的なことで、教育とはあくまで教師そのものだとみるのである。たしかに教科書の知識を暗記し、理解することは必要なことかもしれないが、教科書の知識は一つの知識であり、今一つの知識も存在する。それがあるということを知らないと、人間は誤った行動を正しいものと信じ、他人にそれをおしつける。彼はそれを痛いほど知っている。彼にとって、そんな知識よりも生き方そのものを教えてくれる教師の人柄を大事にするのである。教師の人柄は教え子の一生を支配し、影響する。教え子の一生を支配し、一生に影響するものを与え得る教師こそ教師の名に価するものとなる。
 自分の生き方を生徒の前に示し、そこから生徒各自に多様に感じとらせ、学ばせようとする教師は少なくなった。今の教師はあまりに自分を絶対化し、自分の小モデルを生徒に求めている。その実、教師の多くは学ばない人間である。とすれば、学ぶという意味を知らない。試験のためや、入試のためにのみ、勉強のまねごとをする生徒をつくるだけである。
 全く独学しない教師が独学のない生徒を、棒暗記の生徒を、行動を軽視する生徒をつくるだけである。肉体を蔑視し、政治的、社会的、倫理的知識を蔑視し、ただ教科書的知識だけを尊ぶ人間をつくるのである。政治的、社会的、倫理的知識という人生論的知識を豊かにし、深めるために教科書的知識があることを、教師も親も生徒も全く気づこうとさえしない。
 むのたけじが教育とは教師そのものであるというとき、それは生徒の全人間そのものに影響を与える教師のことをいい、今日のように生徒の頭脳だけ、それも片寄った頭脳を育てることに汲々としている教師を否定してのことである。生徒そのものを変えるのは、生徒に独学というものを全身でつかませることであり、それ以外に生徒そのものを変えることはできない。彼は独学というものの意味をつかんでいる数少ない人間の一人である。独学という言葉はなくとも、独学に相応することを言っているのである。
 生徒に全人格的影響を与える教師の問題に関連して、親の生き方がその子に与える感化をあまりにも今の親は考えなさすぎる。彼はその事に、世の親たちはもっともっと気づくべきだという事を言っている。今の子供に理想や夢を大切にする者が少ないのは、その親たちに理想や夢を大事にする人が少ないためである。子供が功利的、刹那的となったというが、今の親ほど功利的、刹那的なものはいない。まして今の学校教育が親の求めるままに、ただ教科書的知識だけ与えることに汲々として、人間としての生き方、在り方を問題にしないとき、親の生き方を子供はまねるしかないであろう。今の子供がだらしないとすれば、親がだらしないのである。今の親たちは一度でも、自分の子をどのように育てようかと考えたことがあるのであろうか。子供を教育するとは、自分自身を教育することだと考えた親があるのであろうか。教師の中にも、親の中にも、自己教育に専心しているものは少ない。
 だから子供に本を読む運動をおこしても、その教師や親は自分のための読書をほとんどしない。大人になるとやめてしまう読書しか子供のものにならない。
 次に彼は教育とは暗示であり、予告だといっている。このことがわかるのは、今独学をおしすすめている教師であり、暗示や予告を与えることのできるのも独学をつづけている教師である。独学によって、日々自分を変えている教師である。
 さらに彼は教育とは原点であるといっている。今のように教育が体制的権力か反体制的権力に依存しているところでは、原点だということはわからない。それこそ日教組もわかっていない。体制的権力であろうと、反体制的権力であろうと、それらはともに教育をゆがめている。今こそ、教育の真の独立を闘いとるときである。
 最後に彼は教育は革命であり、革命は教育であるという。このことがわからないものは真の教育者とは言えない。こんなことをいうと、自民党員やその支持者は腰をぬかすかもしれないし、革新を支持している者も表面だっては主張できまい。ただここで明記しておかなくてはならないのは、教育は革命だというとき、社会主義的な教育を意味しないことである。私は先に『親鸞道元日蓮』で、人間が生きるということは反逆者になることであり、その時はじめて歴史は進歩するものとなるといったが、革命とは作り変えることであり、日々新たなるものになるという意味である。
 人間を作り変えない教育、人間を発展させない教育は教育の名に価しない。これまではあまりにも、発展のない、停滞でしかない教育が横行していた。今日の教育もすべてそれである。自分で学ぶことをやめた教師は生徒をよく学ばせることはできない。革命的教師が教師の名に価する。今日は社会主義的教師はいても、真に革命的教師はほとんどいない。そこに今日の教育の荒廃がある。
 むのたけじは教育について以上のように述べたあと、「農村の現実を教師はどう受けとめるか」、「アジアの中の日本の教育」、「子どもの教育を農婦たちと考える」という項目をたてて、その所論を展開する。そのことに関しては、直接、皆さんに読んでいただくとして、彼の提出した点は、文字通り、教育そのものを考えなおす原点として、非常に大切なものである。
 今日の教育の混沌は、文部省的教育案と日教組的教育案の二大潮流があって、教育そのものに即した教育改革案、たとえばむのたけじのような提案の声が一般にきこえないことにある。
 むのたけじの提案は言葉を変えた独学の提唱であり、独学によって、この提案はすべて果たされる筈である。高野悦子には、独学について曲解があり、むのたけじにはその提案がない。そこに独学の姿勢が人々の中に起こらない理由がある。悲しむのは私一人であろうか。独学の精神のないところに、学問が、教育が起こることはない。独学のないところに、学問が創造的になり、教育が革命的になることはない。原点にたちかえらせるものこそ、独学である。
 むのたけじのような人間がどんどん出てくることを願わずにはいられない。

 

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 行動することと人間存在 A・モロワ『初めに行動があった』

 アンドレ・モロワは家の織物工場の経営を続けながら、数多くの伝記文学を書いた。その伝記は非常に小説的であったが、同時に未発表の資料をもとに、大変学問的に高いものを書いた。この点では、新しい伝記文学の時代を作ったといってもよい。その主なものは、『ブランブル大佐の沈黙』、『オウグレィディ博士の演説』、『シェリ伝』をはじめとして、『ディズレーリ伝』、『バイロン』、『ツルゲーネフ』、『三デュマ伝』、『バルザック伝』等数多い。それに彼は伝記文学のみでなく、『イギリス史』、『フランス史』、『アメリカ合衆国史』などの歴史をも書いた。ここにとりあげた『初めに行動があった』という本は、彼の数多くの伝記文学と歴史研究の上に人間とは何であるかを考えて、そういう結論に到達したもので、彼の集大成ともいえる。その意味で、「初めに行動があった」という彼の言葉には非常な重さがある。
 アンドレ・モロワは、「行動することは外部世界を自発的に変えることである」という。人間はその行動によって初めて存在しているし、存在の意義をもつものだということである。行動しない人間は存在していないのも同じとみてよい。要するに行動は誰の行動でも外部世界を変えているという認識が必要である。ただ人によって、その行動は前向きに変革させるのと後向きに変革させるのとの違いがあるし、非常に変革させる行動とわずかしか変革させない行動とがある。いずれにしても、変革させるという認識が必要である。しかも外部世界の変革というとき、自然と社会だけでなく、人間をもさらには自己自身をも変革することができるということである。とくにこの頃は変革といえば、社会の変革だけを意味し、自然、人間の変革を忘れている。社会の変革といっても、人間関係の変革を忘れていることが多い。行動がありとあらゆるものの変革によって、はじめてあるということを知らなくてはならない。
 その点で、「初めに行動があった」とアンドレ・モロワが言い切ったことは大変に重要なことであるし、意味深い。とくにこの頃、思考、知識だけを尊重し、価値あるものと見る風習の中で、このことを言い切った意味は大きい。だからとて、すぐに今の人間の悪いくせで、これを行動主義とか何とかいうのはまちがっている。「初めに行動があった」というときの行動は、行動主義以前の問題であるし、経験論に先だって存在した問題である。いいかえれば人間の原点、それが行動ということである。最近はこの原点のない、ばけものが多いのである。所謂知識人はばけものである。
 だがアンドレ・モロワが「熟考は行動ではなかった。それは何ひとつ変えるものでなく、何ひとつ創造するものでなかった」と言っていることに対しては疑問を持たずにはいられなかった。熟考すなわち思考、知識はそれ自身として存在するものでなく、あくまで行動のためにあるものであり、厳密に言えば、行動のさきがけであり、原初的形態である。行動そのものといってよい。独学という視点をもてばこのことは容易に理解されよう。
 行動の原初的形態であったものが、いつの頃からか思考や知識それ自身のためにあるように思われ始めて、思考、知識を行動しないものとし、退廃したのである。思考、知識がそれ自身としてあることも出来たし、思考、知識の拡大のために、そういうことも必要であったので自然そうなった。しかしあくまで思考、知識は行動そのものであるし、その事実を忘れることはできないのである。
「動かないでいる船は操縦できない」と彼も言っている様に、行動をおこさない時には、思考、知識も生まれないのである。彼はもっと独学という視点をもつべきであった。
 彼はまた、「振り返って、ほかならぬこの力に思いを致し、この躍動を把握し、支配しようとするや否や、ブレーキをかけられたように身動きできなくなるのを感ずる」とも言っている。彼は、知識というものは、人間をがんじがらめにし、人間を不自由にするものだと考えている。しかし、知識は人間を自由にし、その行動を前向きの変革にむかわせるものである。ただ今日知識といわれている知識が人間を不自由にし、その行動をしばっているだけである。ここでも独学の視点を導入し、知識が行動とともにあり、自由であるためにあるということをとことん知るべきであった。
 アンドレ・モロワはまた、「思考と行動の間がゼロに近くなる場合がある」と言って、その例として、「論理的推理による思考ではなく、直観的思考が指揮をとり、行動と一致するのである」と言っている。しかしそういう言い方もおかしい。彼が行動を強調したのは、非常にいい。しかしここでも行動を言うあまり、思考や知識を過小に評価している。あたかも人間の思考に論理的思考と直観的思考の二つがあるように、一般の常識をそのまま踏襲している。たしかにより直観的思考に秀でている者とより論理的思考に秀でている者との差はあろう。だが、論理的思考を媒介としない直観的思考はない。要するに瞬時の間に、論理的思考をやってのけるのである。論理的思考のない、単なる直観的思考はドグマでしかない。事実ドグマにすぎないものを直観的思考の名で駆使している者も多い。
 彼の運命論もその類であり、論理的思考から生まれたのが決定論である。だが人間の行動はわずか五、六十年のことであり、決定論の範囲を超えるところにあるのである。だからもし決定論が成立するとしても、人間の行動はそういうものと関係なくあるし、自由であるのである。
「初めに、行動があった」ということだけでなしに、思考が行動とともにあったということを知ることである。そうなると知識そのものをもう少し大事にするであろう。今日の知識を大変評価しているようであって、その実、軽視しているのである。
 ついで、アンドレ・モロワは、行動そのものが有効性をもつために、いかに用心やゆとりや迅速さが必要であるかを説いている。それは今日の社会変革を言っている人が、いかに用心やゆとりや迅速さがないかを言っているようにもとれる。言いかえれば、ソ連や中国の場合、それなりに用心やゆとりや迅速さがあったと言うことでもある。今日、社会変革を言っている者はもう一度彼の説くところに耳を傾ける必要がある。たとえ彼が史的唯物論に一定の距離をおくとしても、それを読むだけのゆとりが必要である。
 それをふまえて彼は軍事行動、政治行動、経済行動、芸術行動、科学行動を述べていく。さすがに軍人、政治家、経済人、芸術家、科学者とありとあらゆる人々の伝記を手がけた人として、そのみる所は適切である。
 行動の中に生きようとしている青年は勿論、今日のように行動が軽視されている時代の風潮の中に、何の反省もなく、どっぷりとつかっている人々は、思いをあらたにしてこの本を読んでほしいと思う。そして彼の言っているように、「人間は何回となく、世界を発見しなくてはならない」と思う。あまりにも人々は固定した世界にのめりこんで、よどんでいる。新鮮さを失い、頑固になっている。これでは世代間の断絶がおこるのも無理はない。人々は前向きの行動、変革を起こさなくてはならない。歴史を生生発展させなくてはならない。人間の原点が行動であることを知らなくてはならない。
 1967年、アンドレ・モロワはなくなった。なくなった後、彼は私達に何を訴えているか。それを深く沈思してみる必要がある。彼は行動を説いた。人々はそれを知ることではなく、行動する人々になることが彼の本をよく読みとったということになるのである。
 人々はともすれば、彼が何々を説いたということだけに知的関心をしめしたがる。しかし行動しない人間は、彼の書物を読んで、その実を読んでいない事を知らなくてはならない。こんな読み方が今日は横行しているのである。

 

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 真理を認識する弁証法 毛沢東『実践論』

 毛沢東の『実践論』は、中国共産党内の教条主義的偏向と経験主義的偏向に対して共にこれを是正し、認識即知識と実践の関係を正すために書かれたものである。ことに1931年から1934年にかけて、教条主義者が多くの人達をあやまらせ、党に多くの損害をかけた。それを正すために毛沢東は精魂こめて書いた。今日、中国革命が成功したのも、このためといっても過言ではない。では毛沢東はこの書の中で何を書いているのであろうか。
 毛沢東は第一に、「認識が社会的実践にすなわち生産および階級闘争に依存する関係」を明らかにしたのである。「知識は実践を離れてはなに一つ得られない」とも言っている。しかし人々は往々にして、認識即ち知識は実践を離れた所で、単に頭脳活動として生まれると考えている。毛沢東もいうように、たしかに人の知識は直接的経験を媒介とする知識と間接的経験を媒介とした知識の綜合である。生きた知識は直接的経験を媒介とした知識を核に間接的経験を媒介とした知識で拡大したものであり、間接的経験を媒介にした知識といえども、その当人にとっては直接的経験を媒介とした知識であり、この世には直接的経験を媒介とした知識しかないのである。しかし、人間は誤って、この間接的知識だけで、知識そのものを構成しようとする。そのために自己と遊離した知識が生まれ、口舌の徒となるのである。
 実践を離れた認識すなわち知識はあり得ないことを一度ここで再確認することである。そして今の日本の知識人の多くが誤っているという認識から再出発すべきである。単なる物知りは真の知識人でないことをよくよく知るべきである。
 だから毛沢東はこういう理論の下に、認識即知識には、感性的認識と論理的認識の二つがあると、説いていくのである。感性的認識とは、「ただ、それぞれの事物の現象面を見、それぞれの事物の一面を見、それぞれの事物のあいだの外面的なつながりをみることだ」というのに対して、論理的認識とは、「実践のくりかえしの中で概念が生まれ、単に事物の一面でなく、また事物の外部的つながりでもなく、事物の本質、全体、さらに内部的つながりまでわかるようなことである」と言うのである。
 そして人の認識即知識は論理的認識に到達して、はじめて本物になるというのである。こういう認識即知識は常に人間の実践を支配し、行動の指針となり、さらに実践に奉仕するのである。知識が実践を支え、実践がより深い知識を支えていく。こうして限りなく、知識そのものが発展していく。知識が発展するということは単に知識そのものが発展するのではなく、人間と社会が発展するということであり、人間と社会が変わっていくということである。人間と社会を発展させ、変わらせない知識は、本当の知識ではない。人はこの知識を求めて、限りなく行動し、実践する。行動そのものが、実践そのものが知識の深化そのものを意味する。毛沢東はそのことを何よりもよく知っていたのである。
 人はともすると社会変革という実践にかかわっていると、往々にしてせっかちに階級闘争という実践だけを考えたがるし、言いたがる。しかし毛沢東は、階級闘争という実践だけではなく、実践には政治活動も科学活動も経済活動も芸術活動もその他いろいろあるというのである。むしろそのいろいろの実践が知識を生みだし、創造を生むような実践になっていないことを歎くのである。そこに唯物論を強調する理由もあるのである。毛沢東はまさに、行動と知識の関係を弁証法的にとらえた最初の人ということができる。
 毛沢東が「階級的な烙印を押さない知識も実践もない」というとき、彼は最も人の知識なり、実践なりを具体的に考えている。このような具体的知識や実践を考えていない場合が日本の知識人には非常に多い。だから自己自身が登場しないのである。
 こういう認識即知識の考え方は、毛沢東にいわせると、マルクス・レーニン主義だけの考え方であるというが、これこそマルクス・レーニン主義を認めようと否とにかかわらず、すべての人に共通した考え方でなくてはならない。私に言わせると、マルクス・レーニン主義を標榜している人々の中には、単にこの考え方を知っているだけに終わり、間接的知識にしている者が多いのである。ことに日本共産党員の中には、自分の行動と自分の知識の関係をこのようにとらえている人が少ない。
 私が十数年前、雑誌『新しい風土』を創刊したのも、一人一人に自分の「実践論」をもたせたかったからであるが、残念なことに人々は毛沢東の『実践論』のみあって、各人に自分の実践論があるということを知ろうとさえしなかった。毛沢東の『実践論』を読むことはいい。だがもっと大事なことは、各人の「実践論」を持つことであり、そのためには、各人がその環境に即して感性的認識から論理的認識にすすむことである。各人の生きている環境そのものに即して、その変革という実践に参加し、知識そのものをもつことである。その時はじめて、その「実践論」は具体的になるし、自分のものになるし、革命という大事業を本物にする。
 革命的理論なり、知識なりが党中央で生産され、それを個々の党員が復唱している間は日本に革命は実現しない。個々の党員が己れの具体的実践論をもち、党中央がその上にのっかかる時、革命は実現するし、その時はじめて毛沢東の『実践論』を読みきったといえる。
 毛沢東の『実践論』を読むことは易しい、しかし本当に読むことはむつかしい。本当に読める者は独学の姿勢を身につけた者だけである。自分に引きよせて、『実践論』を読む人間だけである。マルクス・レーニン主義にたつかどうかと言うことでなく、独学者のみが正しく『実践論』を読むのである。毛沢東はそのことを知っていない。このことをふまえた上で今一度、毛沢東の『実践論』を読みなおしてほしい。日本には、相変わらず、偏向がつづいているのである。『実践論』が必要なのは、日本の思想状況である。
 毛沢東の『実践論』に書いている次の言葉を引用し、この結びにしたい。
「マルクス・レーニン主義は、けっして真理に結末をあたえてはおらず、実践の中でたえず真理を認識する道をきりひらいていくのである。われわれの結論は、主観と客観、理論と実践、知識と行動を具体的に歴史的に統一させることであり、具体的な歴史から遊離したすべての左翼的な、もしくは右翼的な誤った思想に反対するということである」。

 

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 7 私の独学時代 苦闘の記録

 

 独学の必要性を感じた時

 私が独学の必要を感じとり、まがりなりにも、自分を主体にして自分で学びとり、自分自身をこえふとらせていこうと考えたのは、中学三年の時である。その時私は環境という存在に裏切られ、突きはなされて、自分自身で立つ以外になかったのである。その当時は環境という教師の存在を信じられなくなり、私の方から教師という存在を突きはなしたともいえる。それ以後、私は私の関連というか、私の延長線上に知識をつかもうと心掛けた。
 それというのも、たまたま訪問した友人の家で雑誌をみたのである。そこには経済的にも精神的にも非常に惨めな環境にある人が呻吟している報告の記事が載っていた。それが妙に強いショックを与え、その夜は一睡もできない程であったのである。それまでは、そんな事実を聞いてもそんなにショックではなかったし、厳密にはそんなことも聞かなかったと思う。私自身、恵まれて育ったといえ、私の生まれた村は寒村で、中学校にいくのは年に一、二名で、一人もいかない年が多い位で、小学校を出ると卒業生の八割がでかせぎにいくような所であったが、今まではその事実を何とも感じなかった。
 だがその時は違っていた。その夜は次々と貧しい村のことを思い出し、中学校にいきたくてもいかれなかった友人のうらめしそうな顔を思いだし、その苦しみが少しはわかるような気がした。
 それまで数学、英語が出来た私は、何のためらいもなく、技術者か技術研究員になろうと思っていた。しかしその夜をさかいに、私は何になるべきかをあれこれ考えて、一応政治家か弁護士になろうと決心した。それは180度の転換であり、理科から文科に転科することであった。私はこの決心をいだいて教師に相談した。教師は即座に私の決心の愚をいって、理科に入ること、それによって中学校の入学率をたかめるようにと私を説得した。私の教師への失望はその時から始まった。それに運の悪いことにその頃、事件が起こり、友人が退学、停学になったのである。その時の教師の言い分というのが、Aは成績が良いので誤ちであり、Bは成績が悪いので誤ちではないと言って、一人は退学、一人は停学になったのである。
 私から見た時、学業成績はその人の人格と全く関係なく、時として学業成績のよい者がかえって、悪いことさえある。教師にはその事がわかっていない。わかっていないだけでなく、平気で人の運命を左右することを知った。こんな事件があいついで起り、私はついに教師に絶望し、私は私を生かすものは自分しかない、教師の言うことをそのままに聞くより、自分で批判しながら摂取する以外にないと思うようになった。そればかりか、それらを契機にして、教師の二重人格がよくみえるようになった。彼らのような二重人格の大人にならないためには、自分で学ぶ以外にないと思い始めたのである。
 次に私が独学の必要を骨の髄にまで感じとったのは、戦後的な思想状況、人間状況の中で、私自身何もたよるものもなく、放りだされた時である。私は私なりに、この戦争は侵略戦争であることを教えられて知っていたが、戦争にまけた時、それまで戦争を讃美していた大人達が一転して戦争を否定するのに遭遇した。私はそんな大人の態度にがまんがならなかった。
 先に、私は教師の存在に一定の間隔をおいて自分で学ぶ姿勢をとったが、今度は私自身、時代、社会から放りだされ、私自身で私をたよりに生きるしかなかったのである。たよるべく何もない私は、何度か自殺しようとした。しかし弱い私は死ぬることもできず、わずかに私の生本能に支えられて存在しているだけであった。文字通り、私の戦後の三年間は笑わぬ人であり、笑いを忘れた人であり、幽鬼のような存在であった。友達の姉は、「あの人は気持がわるいから、連れてこないでほしい」と言ったということである。
 このような私には、独学によって自分自身を豊かにする以外になかった。それが私にとって生きるということであった。私以外に知識があってはならなかった。私自身以外に存在する知識というのががまんならなかった。こうして私の独学の姿勢は中学生に始まり、戦後的状況の中で深められ、徹底していったのである。その後、大学を卒業して二十数年間、私の独学の姿勢は発展しても、停滞するということはなかった。独学によって、私を発展させないと気持がわるいまでに私の性格はなっていたのである。
 以下、具体的に私がどのように独学を学校教育の中で押し進めたかを述べようと思うが、私に戦後的状況がなく、戦後の社会で放りだされることがなかったら、到底今日の私はあり得まい。その意味で私にとって、戦後体験はまさに原点である。私は戦後的状況の中で文字通りゼロから出発し、何かを築くことに成功したのである。戦後的状況は私にとって貴重そのものである。

 

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 教師への不信と古典への情熱

 先述したように、私の教師への不信はさらに学校教育そのものに発展していった。学校が躍起になって与えようとする知識は人間そのものとは無関係にただおぼえさせていることも知ったし、その結果が多くの二重人格者をつくっていることも知った。私は私との関連で学ぶしかないことを知った。それは独学ということであった。学校教育の中でこそ独学が必要であること、真の独学は学校教育の中で提唱されなくてはならないことを知った。だが相継ぐ事件の中で、教師の愚かさをとことん知った私は、ついにがまんができなくなり、農業をしている祖母の下で農業をやるべく田舎にかえった。一ヵ月間農業をしてみたが、当時の農業は単に経験をくりかえすだけのもので私を満たしてくれなかった。父親のやっている海運業を手伝ってみたが、二ヵ月間で飽きがきた。とても私の考えるような創造的行為とは思えなかったからである。当時の私にはそう思えたのである。そこでやむなく、すごすごと再び中学校に舞いもどっていった。一応、休学にしていたのでそれが出来たのである。これ以後、私は教師に求めることなく、私を主体にして可能なかぎり教師の与える知識をおぼえていった。でもその当時は、私自身の知識が直接的経験を媒介とした知識で、学校の与える知識が間接的知識で、その両者を媒介として綜合すればよいとは思いつかなかった。
 当時読書するということは禁止されていたが、教師の眼をぬすんで、書物を読み、私自身の知識をふやしていたので、私の中には二つの知識が併存していた。読書によって私自身の考え方が前進している以上、学校の勉強も同じ方法で自己のものにすればよいが、それは思いつかなかった。
 四年生の時、漢文の老教師が眼に戻して頼山陽の『楠公論』を講義するのに出くわして、何がこれほど老教師をうつのか考えないではいられなかった。私は頼山陽の『日本外史』、『日本政記』、山陽と思想的に近い藤田東湖の『弘道館記述義』、会沢正志斎の『新論』などをとりよせ、早速熟読しはじめた。そこには中学校の講義にはない情熱があり、民衆を幸福にせんとする志が脈々として流れていた。
 私の中学生生活はにわかに、生気をとりもどしていった。私は学校をしばしばやすんでは、校歌にも歌われている山にのぼって、『日本外史』と『日本政記』を大声を出して読むという生活が続いた。四年、五年の二年間、そのような生活がつづいた。その頃の私は意気軒昂そのものであった。
 だがその私にも、どんな上級学校に入って、私自身の学問を発展させたらよいかという悩みと苦しみがあった。その時、老教師は私に、「君の思想的関心、人間的関心を満たしてくれる者は山田孝雄先生の外にはあるまい」と助言してくれた。山田孝雄は当時新設されたばかりの神官皇学館大学の学長であり、幸いにその大学には予科があった。こうして私は神官皇学館大学の予科に入学することになったのである。

 

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 戦中の試練と信念への自負

 大学予科に希望をもって入学したが、大学予科は所詮山田孝雄ではなかったし、山田孝雄の人間と学問を継承する教授で充満しているわけではないということがまもなくわかった。私の学問の相手をしてくれる人はいないということがわかったときには、私は新たなる絶望につき落とされた。私がここに踏みとどまったのは、山田学長の「この大学は方向づけをしているだけで、そんな学問をこれから作るのである。君達の中から教授、助教授が生まれる時はじめてそうなる。それまでは君達は辛抱しなくてはならないし、君達自身でそういう学問を創造する覚悟をもたなくてはならない」という言葉と、落ちついて勉強を始めたと信じている父母の心とであった。
 自分で自分の学問を創造していく以外にないと思い定めた。同時に私が利用できる限り、教授の講義を活用すればよいのだということも知った。あくまで私自身が主で、講義は従なのだと知った。同時に予科の講義は、どうしたら自分自身の直接的知識に結びつくかもわかった。要するに間接的知識の摂収のし方をも掴んだのである。
 そうなると、私自身の生活が重要であった。私は三分の二の出席日数を確保するために自分で時間表をつくり、最大限に休んだし、落第点だけをとらないように工夫した。そうしないと進級できないためである。こうしてあまった時間のすべてを割いて読書した。日がたつにつれ、友人も一人二人とできた。その友人とは夜を徹して語りあかしたこともあるし、夜中の二時、三時まで読書していて、何かよいことを発見すると、その友人をおこしてたしかめるという事をたびたびやった。反対に私が友人からたたきおこされるということもあった。私の本箱はまもなく本で埋まった。
 山岡荘八の『軍神杉本中佐』という本が出た時など夜を徹してよんだ。その日、英語の試験があったが、それがすんで読むという余裕はなかった。この杉本中佐の著『大義』を通して、大東亜戦争が侵略戦争だということを知らされたのである。私の思いは、いつか頼山陽、藤田東湖、会沢正志斎から、今の日本をどうするかという問題意識に変わっていった。
 この頃から、吉田松陰の『講孟余話』の輪読会を始めていた。左翼の転向という事実を耳にしていたため、転向をしない自分を作るために、全身で読むということを繰り返した。その当時、私達は転向するのは知識を頭につめこむのみで、全身につめこまないからだと単純に思いこんでいた。輪読会は適当なチューターのいないままに試行錯誤をくりかえしたが、真剣で精一杯の討議で泣かぬ者はいないという有様であった。それは知識の観念化を問いつめられ、行動で掴んでいないことを指摘されて泣き出すという始末であった。
 一、二年を通して、私なりに学んでいくうちに、次第に山田孝雄、平泉澄にひきつけられ、彼らの全著書を読破していった。だが、読破していく間に、彼らの閉鎖的で固陋な思想に共感できないものを感じた。それでも、なお多くの部分に共鳴し、彼らこそ日本有数の思想家だと思った。
 そんなとき、柳田謙十郎の『日本精神と世界精神』を読み、日本精神を流動的、発展的に掴もうとする態度に強い感動をおぼえた。私が夏休みを利用して、五十鈴川でみそぎにとりくんだのも、また坐禅を始めたのも、すべて私の原点となるものを掴み、たしかめるためであった。
 こうして、私は学徒出陣で軍隊に入ったが、その頃の私は天皇思想で日本をつくりなおそうと決意する人間になっていた。しかし私の天皇思想は、当時単に天皇思想といって、かつぎまわっている流行分子のとは異なったものがあった。一言でいえば、詔勅、御製を通じ、私なりに天皇思想に内容を与えていた。だがその時は、心にもないことが詔勅、御製にもられているとは気づかなかった。虚像を実像と勘違いし、自分の天皇思想は本物だと確信をもっていた。だから軍隊に入るに当たって、本当の天皇の軍隊をつくってみせるという抱負で一杯であった。私は友達と「この邪悪な戦争では死んではならない。私達を必要とするのは戦後の世界であり、本物はその時になって、やっと作られはじめる」のだと誓い合って出陣した。また後に残る人達には、「私が営倉に入ったと聞いたら、池田は果敢に戦っていると思ってくれ」と言い残して軍隊に入ったものである。
 私は、フィヒテの『ドイツ国民に告ぐ』と杉本五郎の『大義』をもって、勇躍して出陣した。『ドイツ国民に告ぐ』はフランスとの戦いに敗れたドイツの状況の中で、フランスの軍靴の音を聞きながら、教育によるドイツの復興を説いたフィヒテの書物であり、『大義』は先述したように、この戦争は侵略戦争なりと予言した危険きわまりない本であった。
 入隊した私をおとしいれたのは深い絶望であった。私が考えるように、本当の天皇の軍隊をつくることなど思いもよらなかった。話し合える友を発見することも出来ず、私は演習でくたくたにつかれた。私に出来ることと言えば、軍隊の中でその重圧に抗して、あくまで、私自身として生きることであり、私自身を失わないことであった。天皇の命令という名目の下に、教官、下士官、古年兵が権勢をほしいままにしているのは、誤りであると言う位のことであった。
 それは言い易くして、行ない難いことであり、当時の全軍隊と戦うことであった。当時のインテリの中にはそれと戦うものはほとんど見当たらなかったばかりでなく、進んでインテリ出身の将校は現実の中に埋没し、「しゃばっけを捨てろ」と先頭にたってどなっていた。私はまもなく、私の手紙のことから憲兵隊の注意人物となり、一夜徹底的に下士官、古年兵の制裁をうけたばかりでなく、中隊長からは国賊というレッテルをはられる始末であった。だが、私は彼らこそ国賊だと思う信念は強まった。幹部候補生試験はうけまいと決心したが、陸軍士官学校出の将校に、「君のような人間こそ、将校になるべきだ」と言われて受験、私は最下位で合格し、予備士官学校に要注意人物の名の下に入学した。
 入学した私は、校長の下に日々つけている日記を提出するということもあった。校長は「真面目に考える青年はこうなるのも当然である」と言ったという。編成がえになった私は私のつける反省録が原因で、教官から毎日なぐられるということが始まった。そのために私をなぐる竹刀はついにこわれるという有様であった。その時の私の戦いは、知性の闘いというより、肉体の戦いに近かった。意地そのものが当時の私であった。なぐられればなぐられる程、私は軍隊の批判をやったし、反省録のインチキ性を暴露した。すなわち戦陣訓や五ケ条の誓文で自分を飾ることのごまかしを鋭く指摘したのである。
 予備士官学校時代はさながら教官と私との暗闘であった。私の心はその中でいよいよとぎすまされていった。卒業して、小隊長となった私は私の思うままに教育し、ついには一小隊で一中隊の戦力があるといわれるまでになった。だがその時の私は、小隊長の立場からすなわち上からわが同志をつくるまやかしに気づかなかった。容易ではあるが、本物でないことを思いもしなかった。
 敗戦の日、インチキな戦争は必ず敗れると予想していた私もいざ敗れてみると堪えられなかった。ことに肌身はなさず、『ドイツ国民に告ぐ』をもっていたことは、我慢できなかった。その本をこなごなに破り捨てた時のくやしさを今でも生々しく思いだす。
 戦争中のことで、今一つ忘れないのは、私が生きようとする方向に父親から待ったがかかったことであり、それは当然でもあった。父親は「お前の生き方をあくまですすめるなら、学費を送るのを中止する」とまで言った。私は早速家に帰って、「私の生き方は思いつきでなく、私の奥底から出たものである」と言って、説き続けたが、とても父親の納得する所ではなかった。学校に帰った私は、勘当を覚悟してその善後策にとりくんだ。その一方で、父親を説得するということは続いた。約半年の後、「お前の気持がふらついたものではないことはわかった。今後は父親としてでなく、一人の人間としてお前の活動を支持し、協力する。途中でいかに苦しくとも、決して挫折しないで欲しい」と言う父親の手紙を受け取った。その時の感動は今も忘れない。ついでに書いておくが、戦後その父から「経済状態が苦しくなったから、あの約束は守れなくなった。許して欲しい。お前はお前の判断で、お前の生き方をきめてほしい」と言われた。その言葉に責任を持つ父親にあらためて感動した。
 いずれにせよ、私は軍隊の重圧の中で私を守りぬいたという誇りがあった。私の青春は時代の中で最も花開いたという自信があった。私にいわせると、青春とは自分の純粋さを守りぬき、発展させることであり、戦争中に青春がなかったという一般的発言は全くとりとめもないということを思い知った。あのような時代こそ人々はその青春を生きねばならないのだと思ったものである。

 

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 時代への不信と教育者への道

 敗戦後、大人たちは全く無様であった。占領軍のおしつけた民主主義をあたかも真理であるかのように信奉して、誰もこれからの日本を模索しているようにはみえなかった。中には社会主義、共産主義を救世主のように説きつづける大人もいた。それをみたとき、戦争中にこそそれを説き、それに生きるべきだと思った。私には戦争中も戦後の日本もともに狂っているとしかみえなかった。私は徹底した大人への不信につきおとされ、何も信じられなくなった。はては私が生きているということも悪にみえてきた。そうなると一歩も行動できない。私は虚無主義に陥るしかなかった。そんな時に私は仏教に救いを求めていった。信心深い祖母の指導の下に、仏教は人間の生の問題を説きあかしているという漠然とした知識があったからである。私はそれにすがりついた。いろいろの僧侶を訪れ、杉本五郎の師山崎益舟や金子大栄に教えを乞う生活が始まった。その時の私は、真宗とか禅宗とか日蓮宗とかの違いはなく、ただ生の肯定を仏教に求めていったと言っていい。
 私の原点と思っていた天皇思想も単に私が詔勅、御製に求めただけで、実は時の権力者が天皇を利用して出したもので、実体のない虚像であることを知ったから、私はいよいよ私の拠りどころを求めて血眼であった。私はどんなことがあっても、拠りどころとなるもの、こわれないものを求めようとした。私は一ヵ月を費やして、「天皇の歴史的使命」という小論をかきあげ、私のそれまでの原点でもあった天皇思想と別れをつげた。私の無限放浪はそれから始まった。先述したように、いつか私は笑いを失った人間となり、幽鬼のような存在になった。何度か自殺しようとしたが、私には死ねなかった。
 そんな私に道元の「世の中や人生に本来意味や価値があるのではない。人がそれに意味や価値を与えるから意味や価値がでてくるにすぎない」という言葉が喝を与えた。それからの私は人生に意義と価値を与えるべく生きようと決心した。そんなとき占領軍の命令で神官皇学館大学の廃校がきまった。在校生は各大学にばらまかれた。その時私は広島文理科大学を志望した。それには理由があった。
 第一にはフィヒテにならって、教育者として日本を復興させようと決心した私にとって、広島は吉田松陰の生地に近いということであった。教育者たらんとする私には吉田松陰はあくまで教育の原点だと思われたのである。その生地の近くにいて、萩の地をたびたび訪ねたいという願いがあった。
 第二には、戦争中知りあった女性Fの住む所の近くであるという事であった。彼女は夫をなくして郷里にかえっていた人であったが、彼女の言はすべて彼女自身のものであり、どれも虚言でない珍しい人であった。その人の教えをうけたいという一念からであった。附記すると、彼女は一切経を嫁入道具にしたような人であった。
 第三には、歴史学を教科に選び、余暇を利用して教育学を身につけようとした私は、教育学者長田新の指導をうけたいと思ったからである。
 こうして広島文理科大学に転入学した私がそこで見たものは、これほどの民族の大悲劇を経ながら、歴史学そのものには何らの変化発展もなく、戦前の講義と少しも変わらないものを講義している人達の姿であった。私はあらためて戦前派の学者に絶望し、大学闘争が必要なことを感じた。しかし私の言葉に耳を傾ける者は一人もなく、ただ冷笑しか返ってこなかった。私は私の中に閉じこもるしかなかった。
 私は夏休みを利用して、歴史とは何か、歴史を学ぶ目的は何かを求めて、『歴史とは何ぞや』(ベルンハイム)、『歴史の研究』(トインビー)、『史的一元論』(プレハーノフ)、『歴史哲学』(三木清)、『転形期の歴史学』(羽仁五朗)など数十冊を読み漁った。その結果、私なりの意見を歴史とは何か、歴史における自由と必然、歴史の中の進歩と保守について持つことができたし、歴史哲学のない歴史学は死んだものという確信を深めた。
 しかし、こんな私も依然として自殺の魅力から離れることはできなかった。天気のよい時はよいが、一人で人生の意味と価値を模索する作業につかれた時はきまって自殺を考えたものである。そんな私を常に元気づけてくれたのは先述のFという女性であった。彼女がいなければ今日の私はなかったと思う。彼女は、「主人のなくなった時、私も死のうと思ったが死ねないままに生きながらえた。生の本能に身をゆだねて生きることは、恥ずかしいことでもなく、本当の生でないかと思う」と私を元気づけてくれた。私の大学時代の教師とは彼女であり、教授以上の存在であった。私は三年間の大学時代、彼女に向かって、数百通の手紙を書き、私の思索したことを十数冊の大学ノートに記して書き送った。ある時など、私が夢を情熱をもって語るのを聞いていた彼女は、「貴方が夢を語るのはいい。それは青年としては当然のことである。それのない者は青年であって青年ではない。今のその夢を十年後なおも語れる時、私はその時こそ貴方を本当に信ずる」と私をいましめるのであった。それを聞いた私はいかに思想を自分自身のものにすることが難しいかをあらためて知るのであった。文字通り、私を育ててくれた恩人である。
 恩人といえば、もう一人いた。それは竹内好であった。当時の彼は、まだ大学の一講師であり、あまり有名な存在ではなかった。その彼に教えをうけるために、毎年一度は上京して、学問する彼の姿勢を学んだものである。
 二年生頃から、親鸞、道元、日蓮を本格的に学び始め、三年生になると彼らを卒論のテーマにすることにきめた。その頃、本の奴隷になることを恐れた私は全蔵書を処分した。ある友人は私が自殺することを恐れて、その夜、私の宿にとまってくれたこともあった。私の卒論のテーマは「親鸞、道元、日蓮を通して見た現代の課題と其の解決」という題であり、それを作成するために、三年生の全夏休みを利用し、私はその間一歩も外に出なかった。
 卒論を書きあげた私は、早々に山口県のT市にあるS学園に勤めた。それは中学、高校と一貫した教育をする学園としてのS学園をえらんだということである。教育できるのは大学時代でなくて、中学、高校時代であるという確信からでたものである。その考えは今も変わらない。しかし、大学を去る時の哀感は今でもはっきりおぼえている。学問より遠ざからない自分であることを念じながら、遠ざかる自分となるのではないかという不安があった。そうなった時は、今までの自分の学問は本物でなかったとあきらめればよいと思った。
 私が山口県のT市を選んだということは、さらに吉田松陰の生地に近く、彼女の住む所にも近いという理由である。その当時の私には彼女は神のような存在に思えた。こうして私の戦後の活動は始まった。教育活動は始まった。

 

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 既成の学校教育の中での苦闘

 私の勤めたS学園は、公立のT高校の入試に失敗して入学した者達が大半であり、学制制度の移行に伴って、中学の方には所謂学校秀才が押しかけ、学園そのものはいとも奇妙な形をしていた。私の教育的関心は所謂学校秀才達の多くいる下級生よりも、T高校の入試に失敗して入学してきた者の多い上級生にむけられた。このような者達こそ教育をうけるべきものだというのが私の教育観であり、今流行の民主主義の原理からみても、そういう子供を一人前にするのが教育の筈であった。彼らに自信と希望をあたえ、社会的、政治的存在として、精一杯生きさせようとした。だが学園の中で、家庭の中で、社会の中で、彼らはいわれのない差別待遇をうけ、いよいよ劣等感を定着させられていた。私はそのような環境と戦い、彼らに自信をもたせようとした。そのためにいろいろの事をしたが、何よりも私が学問をする人間として、所謂秀才であることが人間の価値でなく、社会的、政治的人間として、それを十二分に生きてみせることが人間としてすぐれていることを、私自身生きてみせたのである。
 一年、二年と私は努力し、精一杯生きた。それが漸く実を結びはじめるかという矢先、私の授業をうけていた生徒の一人が、二年連続して家出をした。私はその責任を問われて、カリキュラム編成委員、生徒会の指導教官、図書館の指導教官という位置をはずされた。
 その頃は、学校の一偶にとまり、宿直員をかねて、全心身を学校教育に投入していたし、何よりもカリキュラム編成委員として、人間の情念をゆり動かす教育を目標として、芸術教育を中心とするカリキュラムを作り、人間を作りかえようとの野心に燃えていた。私のその頃の研究テーマは「人間は変えうるか」ということであった。だが、いろいろの職をとかれた私は私の夢を学校教育の中で生かすことはできなくなった。
 そこから、塾を始めるという昔からの夢がよみがえった。学校教育と併存した塾教育、そこで行動を通して知識を把握させ、知識を己れのものにするということをねらったものである。吉田松陰の松下村塾にならったもので、彼のように感情教育を主体にしたものをねらった。
 私は理解者を得べく、毎夜のように説得してまわった。市長、市助役、ローカル新聞の社長、弁護士、県会議員、市会議員とひろがっていった。こうして理解者の援助で、塾の設備を完成し、塾生は生活費のみを分担するようにした。私の生き方がそのまま、塾生の範であるという立場をとった。
 こうして出発した塾で、塾生はすくすくと伸びはじめたが、私はこの頃から彼らの教育環境をととのえない限り、教育は実を結ばないと思い始め、教育科学研究会と社会科学研究会を組織した。教育科学研究会は小、中、高校の先生を主体とし、社会科学研究会は働く人を中心にして作った。私達が広く深く学ぶ姿勢すなわち独学の姿勢をもつことが、何よりも彼らへの教育だと思った。
 だが教育科学研究会、社会科学研究会の発展とともに、警察の目がのび、ついに塾は閉鎖のうきめにあい、私自身S学園を首になった。そこでやむなく、ローカル新聞の記者となり、社会そのものを直接に自分で見究める生活をする事になった。私がその時代に学んだものは多い。そうこうしている間に、東京の友人が新聞社の記者になるようにという電報をよこしたので、急いで上京することになった。労働組合から推された私の就職がだめになったという事はローカル新聞をやめた直後にきいた。何とかなるだろうと言って、そのまま上京したのが昭和二十七年秋である。
 東京についた私は、友人のところに転げこみ、インチキ新聞を転々とした後、竹内好の世話で、雑誌『平和』の記者になった。だが、まもなく雑誌『平和』はつぶれ、私の放浪生活が始まった。
 その後、教科書会社につとめたが、組合をつくろうとしたことから首になり、あらためて雑誌『新しい風土』をはじめた。それこそ読者とともに、自分自身の「実践論」を持つように勉強しようというのがねらいであった。だが当時はすべての人が知識人の方に向き、自分で自分の「実践論」を模索してみようとする動きはなかった。それでも約二年間、雑誌はつづいたが、気がついてみたら、着のみ着のままで放り出されていた。生きようとする限り、私はたちあがるしかなかった。

 

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 真の知識人像と未来への希望

 雑誌『新しい風土』の失敗は時代状況がそこまでいっていなかったということと、今一つは私自身そのような実践論をもつためにどうしたらよいかを十分に書いてみせることができなかったためである。方向はわかっていても、私も皆と同じ、迷っている小羊であったのである。
 私はどん底にいる時、その協力者であった今の妻と結婚したが、妻はじっくりと学問して、民衆のいくべき方向を示す論文を書くようになることを私自身に求めた。それが私達の再起であると言った。
 私はその言葉をうけいれて勉強を始めた。妻のサラリーで生活しながら、そういう生活を三年つづけた。その間、私は体験と知識の関係を究明し、高野悦子の言うような、まがりなりにも感性を論理化することに成功した過渡期の人間像を究明した。直接的知識を核にして、どのようにして間接的知識を己れ自身のものにするかを追求したが、なによりも大切なことは、それらの知識をいかにして自分自身のものにするかということであった。毎日、真剣勝負のような日々であったが、私にとって一番苦しかったのは、妻のサラリーでぶらぶらしているという知人や親類の人達の批難であった。しかし私はそれに堪えた。妻も私達が何をしようと勝手の筈と非常に強がった。私はそれに助けられて、勉強したといってよい。
 三年間すぎた頃、友人の奨めで週刊S誌の特派記者となった。私はそれからの毎日、政治的事件、経済的事件、社会的事件を追って寧日のない日を過ごした。それは三年間も続いたが、その間事件の真相に色々と迫り、私の得るところは非常に多かった。ことに三年間の勉強でいろいろと学んでいたから、その肉づけをしたようなものであった。一つ一つの事件が私を育てたといってもいいし、私自身勉強のつもりで、事件に体当りしていった。
 だがその間一度も私の満足するような記事はなかった。デスクの手にかかると、すべての記事が嘲笑的、揶揄的となるのであった。事件をまともにみる眼はデスクにはなかった。仕事にとりくむデスクの姿勢には畏敬を感じながら、私にはがまんならなかった。それでも私の能力不足とあきらめて、いつかはデスクの姿勢をかえてみせるという期待があった。ある事件をきっかけとして、私はデスクと正面からやりあい、結局私は週刊S誌をやめ、独立した。私の力では、デスクを変えるどころか、私自身がだめになると見究めたためである。
 さきに週刊S誌時代に、『学校へ行かない人の勉強法』という第一作を出していたが、私は文句なく、著述業者として独立する決心をたてた。果して独立できるかどうか、不安はあったが、なにがなんでも独立してみようと考えた。私の中には私自身の独学で、次々と見究めたものを本にしていけばよいという確信があった。勿論、それを出版してくれるかどうかの不安はあったが、自分のどうしても書きたいもの、出版したいものを出す所に意義があるのではないかと思った。出版社に頼まれたものを書く所に、自分自身と離れたものが生まれるのではないかと考えた。
 それから十年、その間に二十冊の著書をだした。その多くは私自身の発想から生まれたもので、どうしても私自身の書きたいものであった。私は今後も学ぶことをやめないだろうし、書くことをやめないだろう。私は一冊一冊によって、変革という行動に参加していくことであろう。単なる物知りとなるために、本を書きたいと思わないし、物知りを誇示するために本を書きたいとは思わない。人間と社会を変革し、歴史が進歩するために書いてゆきたいと思う。
 三年前、重い脳血栓にかかり、今なお歩けないし、しゃべることも出来ない。医者からは右手で筆を取ることはむつかしいと言われた。だが執念で書けるようになったが、書くことの外、何一つできない。私は私自身で学ぶということはどういうことかを示したいと思う。人間が思考するとはどういうことかを示したいと思う。独学するということの価値を強調してゆきたいと思う。
 私が好んで過渡期の人間像として、親鸞、道元、日蓮、吉田松陰、坂本竜馬などを書いていったのも、彼らがその感性を論理化して、その全身でその時代の課題に対決して生きていったためである。彼らの思想というよりも、その生を指導した思想そのものに価値を見出したためである。行動のための思想を精一杯に発展させた彼らの生にこそ尊敬を感じたためである。今後も許される限り、その体験を理論化していった人々を書いていくつもりである。今の日本的知性を変えるために筆を取っていくつもりである。
 民衆一人一人が独学の姿勢を身につけ、人間と社会を変えていく「実践論」を自分のものにした時、日本にも本当の革命が訪れる。何故明治維新が不完全なものに終わるしかなかったかは、社会主義的知識の洗礼をうけなかったというより、民衆の一人一人に独学の姿勢がなかったためである。せっかくその後、日本人も社会主義的知識の洗礼をうけながら、それを間接的知識のままに終わらせ、それを直接的知識にする努力を怠ったのである。間接的知識である限り、それは借りものの知識であり、主体的知識となることはない。
 間接的知識を直接的知識にするものこそ独学の姿勢である。だがこの百年間、学校教育のどこにも独学はなく、ただ間接的知識のみが知識の本流として横行したのである。これをあらためない限り、日本に革命は到来しないし、知識は軽視されつづけよう。知識は尊敬されているようであって、その実、無視されているのである。この事実を直視し、そこから再起できる道をさがさなくてはならない。それこそ独学の姿勢である。日本の知識人はそれがほとんどないことにもっと絶望しなくてはならない。日本の知識人は再出発しなくてはならない。敗戦後はその時であったが、多くの知識人はそれを見過ごした。第二の時期は大学闘争の時であったが、これまた多くの知識人はそれを見過ごしてしまっている。それというのも、彼らの多くが敗戦を大学闘争を己れの問題としてうけとめなかったからである。それ程に彼らは退廃しているのである。論理という名の下に、間接的知識の上にあぐらをかいているからである。彼らは死ななければ、眼をさまさない。そうなれば民衆がめざめて、彼ら自身真の知識人になるしかない。わずかであるが、その兆候は出はじめている。戦後二十数年、はじめて希望のもてる時代が到来したのである。

 

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 おわりに

 知識は人間の行動のためにあるものであり、その行動は人間を幸福にするためのものである。だから人間の幸福を離れて、知識というものは存在しない。人々は行動しない知識、単に口舌の徒にすぎない人の知識を本物の知識と区別しなければならない。それを見分ける能力をもたなくてはならない。
 最近そのような言論が横行しているために、ともすると本当の言論を吐いている者も口舌の徒と一緒にし、それを棄てるという傾向がある。そういう事はやめなくてはならない。そして果敢に人間を全的に幸福にするために戦っている人の言論を認めなくてはならない。人間の幸福を求めて果敢に戦っている者にはそれを見分けることができる。たとえ一時的にだまされても必ず見分けるようになるものである。長い眼で、人を見なくてはならない。あまりに民衆一人一人の幸福と無関係の所で知識が論じられているし、幸福は民衆に与えられるものだという考えが強い。幸福は民衆一人一人が戦いとるものである。

 

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