著作紹介 「生き方としての独学」

   

 本書は、行動しない知識、口舌の徒を否定し、明治以後の日本の教育が一貫して誤っていたことを示す。無力化した知識を再生させ、主体的知識を獲得するには、独学の姿勢が不可欠である。独学なしには、学問は自分のものにならない。

 

          <目 次> 

 

序 再び独学をすすめるわけ

1 知識の持つ本来の意味 体験のすすめ

   体験は生きた知識への出発点 
   体験としての知識の重み 
   創造性を失った学校教育のひずみ
   欲望の解放と変革思想の再生 
   現代知識人の虚妄と責任 
   大学は偽知識人の養成所 

2 主体的学問への模索 体験の意味 

   死の淵から得た決意 
   戦争体験を生かす道 
   吉田松陰における知識と行動 
   大西遷に学んだ中国共産党 
   誰にでも開かれている知識人への道

3 変革を志向する思想の創造 真の知織人とは

   知識人は庶民の中から生まれる 
   まず、工作者、教育者でなけれはならない
   統一的、全体的でなければならない 
   意識そのものを変えなけれはならない 
   実感を重んずる知識でなけれはならない 
   行動にふみだす知識でなければならない
   生きて働らく知識を得なけれはならない

4 人間性回復への歩み 体験と思索  

   人間性を回復する思想の原点 
   行動を生みだす原動力としての欲望 
   行動を左右する感覚と意識 
   見失われた感性の復権 
   知識と行動の止揚と統一 
   実践を通しての独自性の獲得 
   独学をつらぬく自立の精神 

5 生き方を問直す独学 価値観の創造 

   教えられる者から学びとる者へ 
   生涯教育の必要と独学の姿勢 
   個性的知識の価値と効用 
   実践的知識の体得と応用 
   思想的営為の持続と発展 
   自身との格闘と自立への道程 
   試行錯誤を通しての思考力の養成
   大学への挑戦と自己変革 

6 真撃な行動と真理の追求 生の原典 

   死を賭した学問への問いかけ   高野悦子『二十歳の原点』
   荒廃した教育体制の告発     むのたけじ『日本の教師に訴える』
   行動することと人間存在     A・モロワ『初めに行動があった』
   真理を認識する弁証法      毛沢東『実践論』

7 私の独学時代 苦闘の記録 

   独学の必要性を感じた時 
   教師への不信と古典への情熱
   戦中の試練と信念への自負 
   時代への不信と教育者への道
   既成の学校教育の中での苦闘
   真の知識人像と未来への希望

 おわりに 

 

 

        <以下抜粋>

 

「今日、私達は知識が非常に無力なことをいろいろの面で思い知らされている。昔、ペンは銃剣よりも強いと言われた時代からみると、隔世の感がある。時とともに、学校教育は普及し、進学率も非常に伸びていながら、反対に知識のカは低下しているようである。社会を変革する力も自己を実現する力もともに後退している。その理由は、一言にして言うと明治以後の教育が一貫して誤っていたということである。暗記力に集中した教育が人間本来のあるべき知識をゆがめたということである。」

「…言いかえれば、自己の体験を出発点とせず、自己の体験に裏づけられない観念的知識だからである。明治以後、学校教育は盛んに、客観的といい、論理的というあまり、主観的なものをのりこえ、実感的なものをのりこえたところに、客観的なもの、論理的なものがあることを忘れ、単に主観的なもの、実感的なものを排除する傾向にあったということである。」

「…今の学校教育の中でこそ独学の姿勢をもつことである。普通に言われている独学とちがって、学問するということが本来独学であり、独学なしには、学問は自分のものにはならないのである。自分の主観、実感を尊び、それらを客観的なもの、論理的なものに育てあげるのも、独学の姿勢があってはじめてできることである。今日、思想の自立ということが言われながら、そうならないのも、独学の姿勢がないためである。」

「知識というものは、本来全人間的なもので、人間そのものを動かすものである。」

「行動をともなわない知識はないのもおなじで、知識の名のみであって、実のないものである。」

「単に記憶された知識というか、脳活動だけを通してたくわえられた知識というものは、観念的で空虚で、実体のないものであるが、体験に出発し、体験に裏づけられた、体験としての知識は具体的、実体的であり、それ自身の中に行動力、意志力、判断力、決断力などの綜合的力を含んだものである。…人間の行動をみちびかないものは、人間にとって無関係であり、無いに等しい。」

「体験としての知識は現実をふまえたものであり、決して現実から遊離することもない。常に現実をリードして、現実を変革するものである。知識というのも、行動というのも同じである。いってみれば異語同義である。ただ知識というときは、知識の方に比重がかかり、行動というときは、行動の方に比重がかかっているにすぎない。…知識のないところに行動はなく、行動にでない知識というものはないということである。両者は車の両輪のように必要不可欠の関係にある。」

「体験にもとづき、体験に裏づけられた知識を問題にする者には、知識の要素として先述した行動力、意志力、判断力、決断力、胆力などが重要であり、それを無視しては少しも作用しないことに気づくであろう。ということは、学校教育の中でこれらの諸力が重要であり、無視できないことを知るはずである。だが今の学校教育は、そのような諸力をゆがめ、抑えることに一所懸命である。ただわずかに、過小評価する所があるだけである。これでは学校にいけばいくほど、成績がよければよいだけ、人間としてはだめになる。そのだめな人間に指導されているのが、今の世の中である。世の中がいつまでも希望がもてないのは当然である。」

 

「普通、人間の生命力といって、生命力を重視し、尊敬する傾向がある。しかし、その生命力といっても、要は人間の本能であり、性欲、食欲、睡眠欲の綜合された力でしかない。だからこそ、人間はそれらの欲望を満たすために、力の限り行動する。」

「欲望と知識は一つになって、欲望を満たすし、行動があって、はじめて満たすことができるのである。その意味では本来、欲望、行動、知識は三位一体のものである。」

「欲望と感覚の振起、それは人間が人間をとりかえし、知識の質を変える。」

「単に独立してある知識というものは、悟性だけで成立するものもあるが、人間の知識というときは、悟性と感性の統一の上に成立し、それ自身に実践性、行動性の要素をすでに持つものである。実践性、行動性のない知識は人間の知識ということはできない。」

「昔から知識は死んだものであり、智慧は生きたものということが考えられた。そして人が尊び、価値あるものとしたのは、知識でなくて、智慧であり、人間は知識のある人でなくて、智慧のある人を目標にしたのである。…智慧は、人間というものを知りぬき、社会というものを残りなく知った上で、おのれ自身を、さらに他者を幸福にすることのできるものである。自分自身が、他者がいかに生きればよいかを教えてくれるものである。いってみれば、智慧とは人間の在り様をしめしてくれるもので、生活知といってもよい。しかし今日の生活知は狭く、浅くて、そこには今いう所の政治的知識、経済的知識、社会的知識、文化的知識などの一切を欠いている。生活知は、本来政治的、経済的、社会的、文化的諸知識をもった綜合的、統一的知識である。」

「欲望を制御できるのは知識だけであり、欲望を制御できないような知識は偽である。」

「欲望こそ行動力を生みだす原動力であり、その行動は非常に逞しいものとなる。」

「この平等感覚、自由感覚、平和感覚、人権感覚、善的感覚、美的感覚などは、欲望と同じく、鋭く激しい。それが満足するまで、達成しようと努力をする。しかも欲望のように満足したら消滅するというものでなく、永遠にあるものである。ただ欲望のように誰にでもあるものでなく、知識を媒介として、自分自身でつくらねばならないものだし、各人によって平等感覚、自由感覚、平和感覚、人権感覚、美的感覚、善的感覚などには違いがあるし、常に磨いてたかめなくてはならないものである。他から与えられたものでなく、自分自身が磨いていなくてはならないものである。高度の感覚を持つ者は、たえず独学しているものである。」

「知識が生きた作用を始めるのは感覚になってからである。」

「知識は意識になったとき、はじめて作用し、行動をおこす。」

「意識となった知識は主体的、実感的知識である。意識、感覚、欲望は知識を考える時、きり離せない問題である。」

「欲望が行動をうながし、感覚が行動を左右すると言ったが、行動を決定するのは意識である。」

 

「この頃、生涯教育ということがよく言われるが、独学の姿勢を身につけた者は自分のために、自分自身の発展のために、常に学びつづける者となる。所謂学校時代が学ぶ時代でなく、学校に入る前も卒業後も生涯を通じて学ぶことの必要を知る。それを教えてくれるのが、独学という行動である。しかしそればかりではない。学ぶことの楽しさ、喜びを教えてくれるのも独学である。卒業して学ぶことをやめるのも学ぶことの楽しさ、喜びを知らないで、単に成績のために、入学のために、親のために、しかたなく学んでいたためである。」

「独学ということは、独学の主人公は自分であり、自分が自分に教え、考えることであり、教師も、親も、大人も、教科書も、環境も、書物も単に自分を助けるものでしかないということを知り、見究めることである。独学の主体は自分自身、人間自身であることを知ることであり、独学を通して、日々新たなる自分をつくることである。一つ一つ確実に自分のものにし、自分を変えることだということを知ることである。」

「若い時期にたまたまある思想に出会い、それを記憶しても、ある障害にあって放棄するような思想はまだその人の思想とは言えないし、その人の身についた思想ということはできない。多くの人間が転向するのもそのためだし、若い人間がたまたま自分の出会った思想を自分のものと思いこみ、他の思想を省みないのもそのためである。いたずらに思想をくっつけたにすぎない。自分の思想とは、その思想のために生き、その思想のために死ねるものである。独学によってはじめて自分の思想となる。自分自身が思想そのものとなるのである。

 欠落する思想や停滞する思想は思想とはいえない。…途中で捨てるような思想は、途中で後退するような思想はまだ本当の思想ではない。」

「民衆一人一人が独学の姿勢を身につけ、人間と社会を変えていく「実践論」を自分のものにした時、日本にも本当の革命が訪れる。」

「知識は人間の行動のためにあるものであり、その行動は人間を幸福にするためのものである。だから人間の幸福を離れて、知識というものは存在しない。人々は行動しない知識、単に口舌の徒にすぎない人の知識を本物の知識と区別しなければならない。それを見分ける能力をもたなくてはならない。」

 

                    <1973年、大和書房刊>

 

 

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