『大地』(3)(藤園塾発行の雑誌)

 

 第二巻 第二号(1951.7.1)〜

     <目次>

 『檄……人間募集(3)……』

 『現代日本の悲劇……明治維新の精神に学ぶ』  池田眞昂

 『人間変革の道』  池田眞昂

 

 (「BA」〜)

 『文学者の使命を生きるについて』  池田眞昂 

 

                  < 目 次 > 

 

 

       『檄……人間募集(3)……』

 

 諸君!諸君は現代世相を如何に判断するか?賢明なる批判能力を有する諸君、世相を考察してみたまえ。諸君はそこに何を見出すか?諸君の目に映じたる現代世相……それは余りにも悲惨であり、自滅的ではないか?終戦と共に激しくなったインフレの波、デフレの現状、この経済の不安定、思想界の対立闘争、宗教界の分裂、教育界の無信念等々余りにも無統一、無秩序な現状ではないか!
 人類出でて幾万星霜、その間に出でたあまたの偉人は、全人類幸福のため、世界平和のため、そして社会の発展進歩のために全力をつくして戦って来た。しかし今なお暗黒である。歴史は暗黒の世相を次から次へと記しつつある。この混沌とした世相、血なまぐさい風のやむ所を知らない現実の中に、人々はどうして本当に幸福を把握することができよう。暗黒は大陸に、或いは大洋にただよい、光はどこにも見出されない。斯様な対立、矛盾に満ちている不合理な現状は、そもそも何がもたらしたか?諸君!諸君は現在何を求めて、如何なる希望を持って、学生生活を営んでいるのか?我々は単なる学生の名称より離れて、人間であることを自覚しなければならぬ。一旦この地球上に人間として呼吸を開始した限り、人間としての生涯を歩まねばならない。人間にして人間らしい生き方を持たない者は、人間の形をした動物にすぎない。現代が混沌としているのは、我々の近視眼的無智と、人間らしい生き方を忘却し、利己的、打算的な考え方を持って、動物的生活をしているためとである。しかも現代「人間」又は「人間」たらんとする者が何人いるであろうか。余りにも少数であることを肯定せざるをえない。諸君!我々は新時代人として、新しい道を発見しなくてはならない。現在は各分野各部門総て改革しなければならぬ時代である。これをなす者は、人間しかも我々青年を除いては存在しないのである。我々青年の将来に課せられた大事業である。現在はその準備期なのだ。どうして貴重な時間を無駄にすごすことができよう。
 諸君!立ち上がろうではないか!我々以外に誰が我々の幸福を実現してくれるのだ?しかしそれは生死をも超越した苦難な道である。創業には必ず困難がともなうものなのである。しかし諸君!我々は青年だ!如何なる難関をも突破するだけの勇気と忍耐と、情熱を所有している筈である。今こそ、その秘めたる若き力を発揮する時だ!
 諸君!諸君があくまで「人間」を追求せんとするならば、来れ!我等人間たらんとする者の集いに……。各自の歩む道こそ異れ、同じ「人間」という目標のもとに、相互の烈しい切磋琢磨を通して、自己錬磨する青年の集いである。人間たらんとする諸君!よき思想を持つと共に、強力なる実践力を養いながら自己反省、自己批判を媒介として永久に「人間」を追求する我等の集いに来れ!

 

                 <大地(3)目次> 

 

      『現代日本の悲劇……明治維新の精神に学ぶ』

                         池田眞昂

 未曾有と云う言葉に殆んど食傷している現代日本人に向って、今更此の様な刺激的言葉を以て呼びかけようと思わない。私は唯々未知の諸兄姉と共に「私達自身は、私達の生命は、私達の誇りは、私達の自由と幸福は一体どこにゆこうとしているのか」を真摯に考えそれに基いて行動を起したく思う。
 現代日本の諸勢力の配置は宛も江戸末期のそれの如く、当時の幕府勢力と新興勢力の対立、幕府勢力の分裂、新興勢力の乱立は宛も現在の保守と革新の対立、保守勢力の対立、革新陣営乱立に似ている。更にその勢力の背後に英彿の二大外国勢力があった如く、現下の二勢力に、二つの強大なイデオロギー勢力が作用している。かかる勢力関係は歴史の変革の前には常道であるかもしれない。然し特に江戸末期の変革を回顧するのは、そこに現代日本人の学ぶべき多くのものを見出すからである。
 ではそれは何か?
 先ず対立乱立する新興勢力を一本にまとめるために啓蒙的統一活動を血みどろに強力且広範囲に推進し、それを成し遂げたこと。
 次は、更に困難な旧勢力と新勢力との間の解決点を見出すために同じく血みどろの精進をする人達が居り、而も再勢力の指導層にそれを理解し受入れる人達のいたこと、換言すれば歴史の推移を見透し革命の必然性とそれが真に誰人のものであるかを知悉していたこと。
 第三には当時の二大外国勢力の前に毅然とした態度をとり、自主的独立的に私達の問題を処理せんとし、又処理したことである。
 此前に現代日本人は如何であるか?
 勿論乱立する革新陣営の一本化の為に努力はなされている。然しそれは充分であるか?、現代のそれが、当時のそれと比較にならない程困難であることは言を俟たない。然し其の統一が最後の目的を達成するために不可欠の段階であり、又お互いに企図するものが窮極に於いて誰人のものであるかを知れば此の深刻であり、困難であるものをなしとげなくてはなるまい。同じく保守と革新との間の問題の解決も、真に歴史の推移を知り、それが誰人のものであるかを知悉すれば可能の筈である。
 更に第三の点についても、往時の如き誇りと覚悟と実践力をもって対処し得る筈である。勿論私は此の言葉の前に「我々はそうでない」と断言する人達の存在することを知る。然しそれに対して共に考えてみたい。
 江戸末期は藩から日本に膨張発展する時代で、総ては世界的基盤に於ける日本の展開であった。そこには藩至上主義の人達多く、その人達にとっては日本に於ける藩を考え、日本的統一等夢にも想像しなかった。世界的基盤に於いて、民族国家を単一の統一体として動き始めた当時、藩を固執することは自滅を意味していたにも拘わらず、而も歴史は更に発展し日本は当時の藩に、当時の日本は世界に、当時の世界は宇宙に進展した。そこに徒らに今日猶民族至上、日本至上の夢を追うことは曾つての藩至上、藩絶対の愚盲を追うことであり、歴史の発展に無智な人達と云える。現代は民族の時代から人類の時代へと飛翔する。
 だからとて民族、日本を否定し軽現せんとするのでなく、当時藩を生かさんとすれば日本に於いて生かす以外、道のなかった如く、総てが世界的展開をする今日、民族国家を生かさんとすれば世界に於いて生かす以外ないことを知るべきである。民族を無視することも固執することも同じく私達を生かす道ではない。
 此の様に考える時、現代日本の状態は当時の一藩のそれに等しい。現代の世界が当時の日本の国情に似ている。私達先輩が藩意識を超克した様に現代日本人は日本を世界に迄拡大発展すべきである。そして、今こそ私達は活眼を開いて歴史大変革の事実に思いを至し、そこに於ける私達青年の課題を表明すべきである。私達現代の青年にも、往時の夢と情熱に支えられた青年の誇りと識見と実践力は脈々と流れている筈だ。
 文字通り歴史未曾有の全人類の悲劇の刻々と迫り来る時、全人類救済の大悲願の下にそれを可能にする具体的科学的方法を究明し、その実現に私達の情熱と識見と勇気と実践力を結集し、出来る限り速やかに曾つての藩の内訌にも等しい日本の内部的対立を処理し、進んで国際政局の処理に向って進むべきである。
 青年とは理想の権化、情熱の炬火、実践の根源、真理の使徒である。
 私達の眼を開いて隣国中共の青年をみれば、曾つての支那青年の姿は発見できない。
 彼等は理想社会建設に向って、希望に双眸を輝やかせながら捨身の情熱を以て進んでいる。自ら進んで苦難におもむいている。其の時私達日本の青年は如何?野球とダンスの中には祖国再建更に全人類救済の光明が輝やくであろうか?現状では日本は曾つての明治維新に於ける薩摩、長州はおろか、水戸会津の役割りを、現代の国際政局の危機に果すことは出来まい。
 中共青年は既に出発している。インドも、其の他アジア、アラブ十二ヶ国も……
 現代日本は諸兄姉の蹶起をまっている。「我共に全人類救済の大悲願に従わんと答うる者はいずこに?」

 

                  <大地(3)目次>

 

       『人間変革の道』

                    池田眞昂

 

 序

 現在迄に人間革命、人間改造の意義や必要性について、亦夫々の立場からの人間革命、人間改造の内容や方法について論述したものは数限りなく多数あります。然しそれは猶強調の段階であり、実現は今後にあると云えましょう。私も亦、ここで「人間変革の道」の題目の下に新しい人間育成の道を究明してみたいと思うのであります。私の予想している人間像は、別に事新しいものでもなく、簡単に云えば、独立人、自由人と云うことになります。然し、ここで、とりあげる独立人、自由人は現実的具体的人間として、必要な能力の半面を捨てて、一応先ず時代と場所を超えて存在し成立する抽象的普遍的人間として、唯人間として生きる活力の面を主として対象として考えてみようとしています。これは既に生きた人間を問題としていないとも云え、厳密には成立しないとも考えられます。独立人、自由人として生きてゆくには、最も現実的具体的なものを処理し解決してゆく能力が大切であり、その能力を得て始めて生きてゆく活力を得るとも云えますが、その処理し解決してゆく能力を得て後の、生きる活力でなく、その問題そのものをあくまで処理し解決してゆこうとするために源動力となる「逞しい生命力」とも云うべきものを如何にして、全ての人のものとするかと云うことを考えてみようとしているのであります。
 此の様なとりあげ方を何故するかは、既に掲載した所の、「世界黎明の道」と「現代超克の道」を参考にして戴ければ明白でありますが、簡単に申しあげますと、限りなく問題を包含し、終局的解決のない相対的世の中に住む人間として、亦人間の外なる如何なるものも全ての人に同一の作用を、個人に同一の作用をしない、それ自身無色であり、それに直面する人間によって如何にでも変ずる世の中に住む人間として、時代と共に限りなく進み、自己を常に世の中の変化発展の中に生かしてゆくことの出来る人間、換言すれば、時代と場所を超えて、永遠に自由に独立できる能力ある人間を、抽象的非現実的人間ではありますが、一応理想的人間像として考えたのであります。而もかかる独立人、自由人が非独立的追随的現代日本人の最も欠けている所であり、そこに必然にそれが現代の求むる人間となるのみでなく、人間それ自身の内的自然的要求でもありながら、従来は色々の障害のためにその様になり得なかった点であります。ここに独立人、自由人の問題は、超時代的問題であると共に現代的課題であります。
 此の力を得た者にとっては、此の世の中も嫌な厭しいものでなく、反って好ましい魅力のあるものとなり、個々の具体的現実的問題の解決能力も自然にそこから学び把握されてきます。既に「世界黎明の道」に於いて述べた様に一部の人達が独立人、自由人であることは勿論でありますが、問題は全ての人間が独立人、自由人になり得るか否かにあります。ここで「人間変革の道」と題して、究明せんとすることは、決して学問的業績をねらったものでなく、既に皆様の御存知のことであり、唯その中で人間変革のために、是非必要であり、大切であると考えるものを現在私のなしつつある教育と平行して述べることによって、皆様の御批判、御指導を戴き、少しでも人間変革の可能性の確率を深め、それによって此の教育をより効果あらしめたいと思うのであります。皆様の御批判をお願い致します。

 二、本論

 1、独立人、自由人は人間の自然的要求に基く本然的姿であるにも拘わらず、従来の教育はそれを抑圧していたこと。
 独立人、自由人は人間の内的自然的要求であり乍ら、(後述)今迄の社会制度や教育は独立心、自立心を抑圧し、発展させることを阻んでいました。曾つての権威的命令的、道徳教育が非自律的、非独立的、追随的、隷属的、人間を作り、人間性の発展法則に無知な所の抑圧的指導と、通り一遍の訓誡が積極的、自発的意欲を消滅させ、要領と偽善に追いやっていたのであります。或は今迄の教育は無理な一定以上の要求をすることによって、人間を人間以上に育てあげんとした一方、他方には、人間以下に抑圧し放置する面が強く、その結果は、何れも人間がその人間性に則して、自然に伸々と振舞うことを、阻げたのであります。
 要するに今迄の教育は、人間のなす教育を信頼しすぎ、余りにも作意的となり、その結果人為的指導が度を越し、而も其の上、人間性の発展法則に無智な指導が加わりすぎて、反って、人間を変なものに育て弱虫にしてきたと云えるのであります。子供の周囲をよくみると、彼等は全く禁止と抑圧の牢獄の中に住んでいるとも云えます。此の様な中に、どうして子供の自然的要求が強く逞しく育つことが出来ましょう。過去の道徳教育、人間教育をみると、知性と意志に偏りすぎて、感情、感覚、衝動は等閑視されています。而も我々人間の行動を支配しているのは単純な感情衝動であり、我々人間の存在を支えているのは感情、衝動であります。そしてこれが先述の逞しい生命力の内容であり源動力であります。
 全ての人を独立人、自由人にする道は今迄殆んど禁止と抑圧の中におかれ、恐れられ、継子あつかいになっていた自然的衝動、本能をそのまま自由に伸張させ、而もそれが個人としてと同時に社会人として生きることに障害とならないで、反って好ましく豊かな感情感覚として、換言すれば道徳的となることによって、先述の逞しい生命力となり得るとき、始めて可能となるのであります。
 果してそれは可能でしょうか?

 2、独立人、自由人は人間それ自身を幸福ならしめるための根本条件であるに拘わらず、それに無智であること。
 独立人、自由人が人間の自然的要求に基く本然的姿であるにも拘わらずそれを否定、抑圧し、而もその否定と抑圧が、人間を無力化し、世の中を非独立的隷属的に生きることを余儀なくさせ、全て自分の幸福を貴方まかせの危い生き方をさせたのであります。私達は今迄余りにも私達の運命や幸福を他人に委ねすぎ、その結果は全く惨めなものを繰り返し享受してきたのであります。
 自分を愛し、幸福になろうとする者は身慄いを禁じ得ないでしょう。
 今迄に私達は本当に自己を愛し生かす道を学び教えられてきたでしょうか?道徳的訓誡でなく、亦人間の能力以上の聖人君子的生き方でなく、本当に私達の能力の可能の範囲で私達の生きてゆくために最も必要であり、大切である所の第一義的なもの、換言すれば生きる力を学び体得する様に教えられてきたでしょうか?
 逞しい生命力に支えられてあくまで生き抜く力を学びとる様に教えられ、指導されてきたでしょうか?
 我々は現実に生きてゆくために、必要ではあるが殆んど二義的三義的なものにより多く労力を費して、人間として限りなく生きてゆく力、唯生きるのでなく、積極的に生き甲斐を感じながら生きてゆける力を体得することに主力を置かなかったのではないでしょうか?
 私達は自分を愛することに抜目なく、血みどろになっている様で、実は大局からみると、その逆の生活をしていることが多いのではないでしょうか?
 私達は近視眼的無知のために、本当に自分を愛する所か、逆に亡ぼす様な生活をしていると云っても過言ではないでしょう。ここに今後の教育は先ず本当に自分を愛し生かす道を真に体得する方向に進まなくてはならないでしょう。それは自然に、自分の運命や幸福を他人まかせにしないで、自分自身で背負って生きてゆく独立的、自由人の道を辿ることになります。それには先ず今迄余りにも労力を費していた第二義的第三義的なものから、第一義的なものに転じて、本当に自分を愛し生かす道を換言すれば、自己愛の心を深め強め、それを可能にする知慧を体得させることであります。
 それは如何にして可能でしょうか?

 3、独立人、自由人は世の中を秩序と平和に満ちたものにする根本条件であるに拘わらず、それへの努力が払われなかったこと。
 独立人、自由人は人間の自然的要求に基く本然的姿であると共に、此の世の中に在って幸福になるための不可欠の条件でありますが、更に世の中を秩序と平和に導くための根本条件であります。
 勿論全ての人が幸福にならない限り、厳密には如何なる人の幸福も危険にさらされていますし、亦世の中の人の不幸の前に無関心と忘却のない限り不安と悲哀は消えないでしょう。そこに個人の幸福と世の中の秩序と平和は同一となり、全ての人が独立人、自由人となって幸福になることによって、始めて世の中の秩序と平和は生れ維持されましょう。
 然し私達は此の点に余りにも従来無智であり無関心でありました。亦その結果それへの努力を払いませんでした。
 非独立的隷属的人間が個人的にも幸福になれる筈はなく、此の様な人間が形成する世の中に向上と前進がある筈はなく、向上と前進のない所には、自由と平和は訪れないし、自由と平等の招来しない所に秩序と平和がないのは明白であります。ここに私達は従来の近視眼的な自己愛の段階を脱して、全体的綜合的にみる能力を身につけて、真に世の中に住む人間としての自己を愛し生かす方向に進まなくてはなりません。私達が、あらゆるもの、相互に深く広い関連性のあることを体得すれば、自然に自分一個人でなく、全ての人が独立人、自由人となることの必要性を痛感するでしょう。
 要するに今迄の教育は社会や国家や人類の為に生きることを義務の如く、亦特別の如く教えてきたのであります。然し実際には自分の本当の幸福の為に、自分一個人のみでなく、社会全体、国家全体、人類全体が幸福になることが必要であり、それは決して義務でもなく、特別の事でもなく、当然の生き方であります。そして其の為には全ての人達が先ず、独立人、自由人なることであります。
 そこにこれからの教育は社会、国家、人類を自分自身の中に見出し或は自己の延長に於いて体得し、自分を生きることがそのまま社会、国家人類を生きることになる様な人間を育てる方向に進むことが大切であります。
 その道は如何でしょうか?

 4、独立人、自由人への道
 以上三つの問題の前に、独立人、自由人の道が自然であり、亦当然進まねばならないことを再確認して、次に夫々の問題について、検討してみたいと思います。
 先ず第一の問題でありますが、教育を沢山受けその提出される問題に忠実な人間程、正規の学校教育でなくても、家庭や周囲から人為的教育を受けすぎた者程、弱々しく、もろい姿、逞しい強靱な生命力を欠く姿を見るのであります。(此の事実の前に文明、文化の問題、生理学的医学的な問題、政治、経済、社会的な問題更には各人の不可抗力な運命の問題は一応切り離して考えてみたいと思います。勿論此等を無視しての解釈は無理でありますが、ここでは主として狭い意味の教育的見地の範囲内で考えてみたいと思います。)
 人間は元来如何なるものでしょうか?
 現在見る様に弱々しく、もろかったのでしょうか?
 それは教育の為でしょうか?
 そこに何よりも先ず、人間の特に幼少年時代の心理並びに心理的発展の姿を究明することから出発する必要があります。先ず子供の世界が子供の世界として大人の世界と離れて成立し存在していることであります。そこに当然大人は子供の世界を子供の世界に則して理解し認めることが大切であります。
 教育と云う名目の下に、大人が子供に施している教育を仔細に観察してみると、子供の心理に全く無智のため、大人の判断によって、子供を判断し、大人の世界の大人の要求をそのまま子供に対して要求し、そこに無智が生じ反って子供を傷め、そこなっている事実に遭遇するのであります。人間を育成すると云う名目の教育が逆の結果を生じているのであります。以下少しく、大人が如何に子供の心理に無智であり、その為に如何に子供をそこなってきたか、幼年期少青年期に於ける代表的な而も根本的な二つの心理的発展傾向をあげて説明してみましょう。
 先ず幼年期をみると、幼児は創造的本能が強く、所有的本能が弱いものであります。此に対して、大人は普通反対で所有的本能が強く、創造的本能が弱いものであります。勿論此の相違は肉体的精神的社会的相違より来るものが多いのでありますが、大人のその傾向に拍車をかけているのは、幼児期に強い創造的本能が抑圧されて、伸々と生長できなかったことが大きく影響していると云えるのであります。幼児の創造的本能が強く、所有的本能が弱いことは少しく幼児の行動を注意探く観察すれば明かでありますし、亦大人の逆の傾向が幼児期の創造的本能の抑圧に影響されることが大であることは抑圧的禁止的な教育指導をうけたもの程そうであり、逆に幼児期から少年期にかけて伸々と育ち、抑圧されることなく自由に育ったものは、大人になっても所有的本能よりも創造的本能が強く作用して積極的発展的自発的であり、行為そのものに興味をもって、ぐんぐん進んでいることを見ても明白であります。
 子供をよく観察すると、子供は常に自ら何かを追求し、興味にあふれて活動しています。勿論その内容が常に好ましい筈もないのは当然であり、その際忍耐強い指導善導をすることなく、世の多くの大人達に見る様な子供の年令、子供の世界を認め、考えないで、大人に対する要求、而も自分は勿論普通の大人でさえ殆んど出来ない様な要求をそのまま子供になせば、その内容が満足できる筈はなく、而もそれが大人の自分に不満だからとて、直に禁止と抑圧をすれば、子供の創造的本能を助長して、積極的発展的自発的性能を養う所か、逆に抑えてゆくのは当然であります。如何なる子供も、その始めより、消極的停滞的であり、因循な者はないのであり、それは全てある原因に基くのであります。
 即ち親や、兄弟や、近所の彼等をとりまく人達の心ない態度が子供の自然の発達を阻害したのであります。(既に述べた様にその他多くの外的原因については、ここでは一応省略致します。)
 要するに子供の創造的本能、積極的、発展的、自発的性能を自然に発達させて、それに好ましい内容を與えてゆくことの出来ない自己教育の無力と、その様に自然に伸ばしていると我儘で、移り気で、仕様もない人間、換言すれば人間としての道に反する様な人間になると云う、人間への不信が禁止と抑圧を金科玉条の唯一の教育方法と考えるに至ったのであります。
 最も安易な教育方法を採用した結果は、人間の生きてゆくために最も尊い大切な性能を代償としたのであります。若し創造的本能を豊かに発展させ、積極的発展的自発的態度を体得して生きるならば、地位とか富とか其の他現状維持的なものに固執することなく、常に生成と行為そのものに喜びを見出して前進をつづけ、たとえ如何なる状態に置かれようとも、亦陥ろうとも、それを超克し開拓してゆく勇気と意欲を持って進むことが出来ます。
 逞しく強い創造的本能を所有する者にとっては、此の世界は少しも恐怖と不安と絶望をあたえるものでないのであります。私達はかかる役割りを占める創造的本能を禁止抑圧することなく、益々助長発展させ、若しその興味が活動が好ましくない時には彼の興味と活動の対象となるものに好ましいものを自然に漸進的に忍耐強く與えることによって、彼等の興味、活動そのものを好ましく豊かなものに育てることであります。既に述べた様に人間の行動を窮極に於いて支配し、人間の存在を支えているのは感覚、衝動、本能であります。
 此の逞しい創造的本能と併存する、否一致する諸感覚、衝動、本能そのものを好ましく豊かなものにするのです。即ち知的意志的に人間の興味行動を好ましく豊かにするのでなく、換言すれば道徳的にするのでなく、興味行動の根源をなし、それを導き支えている所の人間の諸感覚、諸衝動、諸本能そのものを好ましく豊かに、換言すれば道徳的なものにするのです。
 我儘や移り気なのは、実は自然にぐんぐん成長し発展してくる所から来るのでなく、停滞し中止し、より好ましい、より豊かなものを與えられない所から来るものであり、問題にするに足らないのであります。
 亦既に其の興味と活動の意欲を失っているとすれば、彼に全くの自由を與えそこに何か彼の心をとらえるものを注意深く忍耐強く観察発見し、そこから徐々に好ましい方向に導くのであります。子供を子供そのものの本性に則して発展させること、それがたとえ困難な忍耐強さを必要とするとしても、独立人、自由人となるためには不可決の過程であり、逞しい創造的本能に基く強い生命力、生活力が独立人、自由人の根本條件であると云えましょう。
 先述の人間の諸感覚、諸衝動、諸本能そのものを如何にして好ましく豊かにするか、換言すれば道徳的にするかは後述致します。
 次に少青年期をみると、最も問題になるのは独立人、自由人の根柢となる独立心自立心であります。
 普通十三、四才から、子供は今迄の親の保護、親への依存から離れて、独立し自立してゆこうとつとめ始めます。此の時子供は全てのものに対して批判的となり、疑惑的となります。これは一本立を始めた証拠であり、彼自身の中に貪しいながらも彼自身のものが芽生え始め、独立人、自由人としての第一歩をふみだしたのであります。然し子供の世界に無智な大人達はここでも先述と同様に子供の心理的発展傾向を理解することが出来ず、自己の感情と相俟って、生意気になったとか、反抗的になったとか云って簡単にかたづけて、それの芽生えを喜ぶ所か、逆に抑圧するのであります。
 せめて此の独立的、自立的意欲が自然に正常に伸びてゆく様に助長しない迄も、放置してくれるとよいのですが、逆にきりとってしまうのであります。或は抑圧し、きりとってしまわない迄も、余りにも子供の心理、個性に則しない指導が多すぎて、結局抑圧と云う結果となって、創造的発展的本能を抑圧し、独立的自立的方向に向わないで依頼心を強め、消極的追随的隷属的人間を育ててきたのであります。次に此の様に子供の独立心、自立心を抑えて、依頼心を強め、追随的隷属的人間を育てることに拍車をかける役割を果している原因の中の重なものを二、三とりあげて説明してみましょう。
 あらゆる恐怖、あらゆる規則、あらゆる賞罰がそれであります。
 如何なる恐怖、たとえ親への恐怖でも、それは子供を不正直にし、不誠実にし更に抑圧して消極的な弱虫に致します。母親の子供に云っている言葉をよく注意して聞きますと、子供に恐怖感を懐かせる様な言葉にいくらでも接するのであります。それは人間に対し、思想に対し或いは自然に対し、幻想に対して懐かせられ、一度幼児期から少年期にかけて懐かされたものは何時迄も続き、たとえ大きくなって理性で解決することの出来た後も、その感じは依然としてつづくものであります。ここに自然子供を消極的にし、伸々と生き伸々と色々のものに親しむ態度を失わせ、無気力な弱虫にし、亦虚言を吐く人間を育てることになるのであります。
 亦如何なる立派な規則でも、それを外的な規則としてそれに従って生きている限りは、独立的自立的となることをさまたげます。成程規則は大切でありますが、唯規則の中に無理にあてはめてゆく行き方が如何に人間を無力にし、形式的な空虚な人間にしたかは恐しい程であります。規則はあくまで各人の中に作られ育てられなくてはならないものであり、その様になって始めて規則も強力に生き、確立しますし、更に形式的道徳人の段階を脱して強く逞しく且伸々と生きながら、それがそのまま道徳に合致した人間となるのであります。うるさい規則づくめの中の人間が如何に消極的で弱々しく偽善的であるかは明瞭の事であります。人間のための規則に逆に人間がしばられ奉仕することの惨めさ不幸は悲しい程に大きいのであります。
 賞罰も同じで、たとえ罰によって、一応その目的は果たし得ても、それは恐怖から来るもので前述の通りになります。賞に於いては良心の喜び、行為そのものの喜びが消失し、目的と結果が転倒するに至ります。勿論賞罰の前に人間がとる態度を導き支配するものは其の他色々あるにしても、結局は賞罰によって指導される子供が如何に賞罰の奴隷と化し、打算と要領と偽善を身につけてゆくかは、少しく注意すれば明瞭であります。試験も結局は賞罰の形を変えたものであり、学生は試験の奴隷迎合者以上のものでなくなり、此の事が卒業と同時に学問を中止する動機をも作っているのであります。然し大人は勉強しないよりは良いと考える人達が多いかもしれませんが、それによって最も尊い良心の喜び、良心に従って生き、良心の満足を追求してゆく生活から来る喜び、自己の判断によって生き、自己の判断によって行動する生活の喜び、そこから生れる強さ、確実さを消失することの損失の大きなことを考えないのであります。而も大人が騒ぎ問題にする所の学校の知識がそれほど決定的な価値をもっているのでしょうか?何れが人間として生きてゆく上に、より根本的、より大切でありましょうか?
 然し大人が子供の教育に必ず恐怖、賞罰、規則をとりいれるのは、先述の禁止抑圧と同じく、此によってのみ子供を道徳人として一人前に育て得ると考えている無智から来る錯覚であり、此の様な安易な教育法の採用はこれが人間として生きてゆく上に最も尊い熊度、性能を失わせていることを考えず、亦それに変る教育法を発見していないか、若し発見しているとしても、それを実現し得ない所から来るのであります。
 然し人間を独立人、自由人に育てあげようとすれば、独立心、自立心がその根柢である以上、従来の様な恐怖と規則と賞罰に依存して、独立心、自立心そ消失させる様な教育法を捨てて、亦それを廃止しない迄も、もっとそれの特質を考慮して、子供の心理に則して活用してゆける能力を持つと共に、他方此等にもとづかないで好ましい豊かな人間、道徳人を育てる道を究明すべきであります。どんなことがあっても子供の独立心、自立心だけは抑圧せず阻害しないで助長しなくてはなりません。
 独立心、自立心をそのまま発展助長させながら、而も恐怖と規則と賞罰でなしに、子供を好ましく豊かな独立人自由人に育てる道は後述致します。
 以上要するに子供の創造的本能を抑圧することなく、独立心自立心を育てあげるならば、逞しい強い生命力、生活力のある人間になれることを述べておきます。
 次に考えられる第二の間題は、独立人、自由人となることが人間それ自身を幸福ならしめる根本条件であるに拘わらず、それに無智であったこと、そこに全ての人が独立人、自由人となる道、その根源をなす所の本当に自己を愛し生かす道を学び体得させるには如何にしたらよいかと云うことであります。
 既に述べた所によって、独立人自由人が自己を幸福にするための根本条件であることは明かでありましょう。ここでは如何にして、全ての人に自己を愛し生かそうとする心を深め強め、更に自己を愛し生かす能力を体得させるかと云うことを中心に考えてみましょう。
 私達人間行動を支配し、存在を支えている所の愛の感情、衝動、本能の存在を否定するものはないでしょうし、亦此が人間の重要な要素、最も大切な要素であることを否定するものもないでしょう。然し此の様に全ての人が肯定し、更に強く求めている愛が、真に好ましく作用し、私達自身を生かし、幸福にし、愛の感情、衝動、本能の要求を満し、充足させているかと考えると疑問であります。私達の行為生活を観察してみると、時として愛衝動の弱さ、もろさを見、時として愛の感情のあきらめ的なのに遭遇致します。要するに愛衝動、愛情の弱さ、もろさを考えるとき、それを強く逞しく熾烈にすること、亦無智のために、反って愛情を亡しているのを考えるとき、智に導かれることを思うのであります。此の事は先述の強い生命力を把握すると云うこと、その根柢をなす所の愛衝動、愛情に出発して、それを好ましく豊かにすると云う問題と同じになります。
 先には独立人自由人となることが人間それ自身を幸福ならしめる根本条件であるに拘わらず、それに無智であったと述べたのでありますが、如何にして独立人自由人になるかということ、その根柢をなす所の自己を愛し生かす能力を如何にして体得するかと云う、寧ろその前提となるものに無智であったのであります。ここに私達は智に導かれる愛の問題、換言すれば如何にして自己を愛し生かす能力を把握するかの問題を考えてみましょう。然し私達は直にそれを阻む、二つの大きな障害に遭遇するのであります。
 それは劣等感と卑屈感であります。
 此は先の創造的本能を逞しく発展させ、更に独立心、自立心を自由に自然に成長させ、たとえ愛衝動を熾烈にしても、猶自己を愛し生かす心を抑え、弱くし、無力化してしまうものであります。愛衝動が如何に強く働いても、その対象である自己自身を肯定し認めることが出来なければ熾烈な愛衝動は変なものになります。愛衝動が自己を生かす能力として作用するためには、自己を自己に則して生かしてゆくことを知っていることが大切であります。然し此の劣等感、卑屈感が自己を生かしてゆこうとする心を台なしにしてしまうのであります。而もそれが如何に下らないものであり、問題とするに足りない所から来ており、それは唯自己を愛し生かす道に対する無智から来ていることを知らなくてはなりません。此の劣等感卑屈感を今少しく考えてみましょう。
 私達が子供を仔細に観察してみると、此の劣等感の持ち主、或いはそのきざしを持ち始めている者が案外多数なのに驚くのであります。そして此の劣等感が更に卑屈感となって人間を消極的因循にして、人生を暗く寂しくし、或はなげやり的、否定的にし、更には此が反抗心、憎悪心、嫉妬心ともなって現われているのであります。既に子供でありながら、自分の能力にみきりをつけて、全く投げ出している数は可成りのものになります。此によって楽しい筈の子供時代、学生時代が如何に暗く陰惨なものであるかは想像以上ですし、亦此が前進成長の道を阻み、人生への逞しい生命力、生活力をも喪失させ、更には独立的自立的生活への自身を捨てさせ、其の結果、世の中の大部分の人達に見る様な、積極的自主的な努力を忍耐強く払ってみることなしに、「私は馳目だ」との結論の下に「仕方ない」何とかなるだろうと云う様な無気力で消極的な貴方まかせの生活態度をとらせているのであります。では此の様な劣等感が、どこから萠し始め何によって拍車をかけられ、終には無気力な消極的人間にしているかを考えてみましょう。
 子供に劣等感を持たせるきっかけとなるものは幼児の時代から始まって、肉体的、心理的、環境的條件、或は彼を取り巻く周囲の人達の心ない態度や言葉等(一つの環境的条件である)限りなく多いのであります。私は今それを具体的に列挙しようとは思いません。唯一般には知られておりながら、ともすれば忘れ勝ちとなり、人間の独立、人間の幸福に殆んど決定的要素をなしているものでありながら、不注意に扱われているものが如何に多いか、特に子供を愛し、可愛いいと言っている親達の不注意の言葉や態度が、子供達に劣等感をうえつけ、健やかな豊かな心を傷め害っていることの如何に多いかを強調し、一般の注意を喚起し、ここでは、あくまで今迄の立論の立場を守って狭い教育見地の範囲で特に問題となるものを一つだけあげて考えてみたいと思います。
 (先に人間を弱く、無気力にするもの、今亦人間に劣等感を與えるもの、結極は同一に近いもので、唯前者は感性的立場から、後者は知的立場から、此の問題をみているにすぎない。然し、何れも私は肉体的、心理的、環境的條件を問題とすることを一応さけていますが、実際には、此が最も重要な要素、決定的要素をすら占めていること、そこに生理学的、医学的更に社会科学的立場からの究明、対策が不可避の事になります。
 然し此の問題の究明、対策は後日に護りたいと思います。私自身人間変革、人間改造の道の根本策は、狭い従来の意味に於ける教育的立場からのみすることによって可能でなく、生理学、医学、社会科学的立場からの対策と平行して始めて可能であると知り始め、研究中であります。)
 それは成績の問題であります。
 一般の大人や教師が決定的問題として、子供に要求し、子供への判断の基準としている所の成績に対する過大評価、過大要求が如何に子供の劣等感の媒介となっているかは恐しい程であります。勿論成績は大切でありますが、特に現在の学校のなしている様な評価に基づく成績のみが、社会人として、夫々の面に生きてゆく上の絶対不可欠の唯一の条件であるかと言うことを考えると疑問であるにも拘わらず、此の様な成績を以て、子供の評価に決定的要素をもたせることは警むべきことであります。ましてそれによって多くの子供に劣等感を懐かせ、先述の様な人間にしてしまうことは、何よりも考え直すべきことであります。先に恐怖、賞罰が人間を追随的、隷属的人間、不正直と偽善にすると述べましたが、成績の過大評価、過大要求から生ずる恐怖、賞罰が、同じ結果をもたらし、更に子供から独立性、自立性を奪い、自発性、積極性を失わせるのであります。換言すれば、全く去勢された人間を作るのであります。成績評価のための試験は形を変えた一つの鞭であり、殆んどの子供が此の鞭によって、追いまわされていることは、卒業と共に勉強をやめることによっても明かでありましょう。多くの大人や教師達は此の鞭をなくすれば勉強しなくなると考えている人が多い様ですが、果してそうでありましょうか?
 成程教育論の世界では、子供の心理に則してなす所の子供中心の学問、生活が論議され、コア・カリキュラム、ガイダンスが強調されながら、実際には彼等をとりまく社会制度や周囲の要求は、それと離れて、大人中心のものとなっているのが実情であり、学問そのものも、彼等の生活感情に切実に必要不可欠であるとの実感をもって迫ってこないことが問題であり、若しそれらの解決がなされるなら、此の鞭をなくすことが出来ましょうし、亦現実問題として、試験の結果としての成績が必要である所の社会であるとしても、試験を本来の試験の使命に昇華させて、現在の様な鞭の性格を持つ悪い反面をなくすることが出来ましょう。
 子供に真に自分を愛する心、自己を愛し生かす道を体得させることによって、自主的積極的に学問させることは困難でないでしょうし、亦、その為にも成績に対する考え方も今一度検討し直すことが必要であります。即ち現在の学校のなしている様な評価に基づく成績のみが大人になって、社会人として生きてゆく上の絶対不可欠の唯一の条件であるかと云う検討に始まる所の、従来の通り一遍の画一主義的、形式主義的成績評価の方法に対する反省であります。ここにも教育論の世界では各人を各人に則して判断し、評価することによって、各人を生かしてゆく個性伸張教育が強調されながら、現状はまだまだ縁遠く、時に個性伸張教育はなされていても、それに優劣段階の差別をつけておるのであります。単に個性尊重のかけ声でなしに、本当に夫々の人間の占める位置と役割について、明瞭に存在の意義と価値を見出して、そこに全ての人間に、社会人として生きる所の存在の意義と価値について感得させると共に、他方自己以上でも、自己以下でもなく、真に自己を自己に則して社会に生かすことの尊さ、幸いについて感じとらせることが大切であります。教師や大人達は子供の世界の延長である大人の世界が、如何に多方面にわたり、広く多岐にわたり、而もそれらの併存する所に始めて成立する世の中であり、その前に個々人のものが如何に重要で不可欠の存在となっているかを知って、従来の如き固定した所の職業貴賎論や能力優劣論を捨て、社会そのものの構成の上に占めている各種業各能力のもつ役割をみとめることによって、子供達の将来進む世界の広さ深さを再認識して、如何なる子供にも、伸びてゆく分野、活躍すべき分野のあることを知り、その為に援助し希望をもたすべきであります。如何なる子供の劣等感も無用であり、超克すべきもの、亦超克し得るものであります。
 私達は今迄に欠けていた所の、人間そのものを社会との関連に於いて見つめ、人間そのものを生かす態度、本当に人間を尊重し、愛する態度を以て、個性尊重論、個性教育論でなく実際の個性尊重、個性教育を強力に進めなくてはなりません。劣等感は個性尊重、個性教育のない所に、換言すれば人間そのものを愛し生かそうとする心のない所に生じるのであります。
 私達が子供を注意深く且つ忍耐強く観察すれば必ずそこに全ての子供に生きてゆける社会而も仕方なしでなく、積極的自発的に生きてゆける社会があるものであります。自己が生きることの社会に於ける意義と価値の発見は希望と勇気と自信をあたえます。
 此を可能にすれば劣等感、即人間が自己を愛し生かそうとする道を阻む所の障害を超克できるのであります。ここには弱さともろさとあきらめは消滅し、あくまで自己を愛し生かそうとする態度が維持されるのであります。
 以上は普通の人達にとって独立人、自由人となる上に最も障害となっている所の劣等感の超克を中心に述べたのでありますが、これによって自己を愛し生かす人間となって、そのまま一本立ちして独立人、自由人となり、更に幸福な人間となるのであります。
 次に第三の問題でありますが、第一第二に於いて、個人の問題として全ての人間が独立人、自由人となる道については簡単に述べたのでありますが、猶此等の成否は、親と教師如何にありますが、それについては、稿をあらためて論述いたしましょう。ここでは独立人、自由人の問題を単に個人の問題として終わらせないで、社会全体の問題としてとりあげる必要のあることを述べてみたいと思います。
 既に問題の提起の所で述べた様に、全ての人達が独立人、自由人とならない限り、社会の秩序と平和の訪れる筈もなく、秩序と平和のない所に個人の幸福は保持されないでしょう。勿論保持する幸福でなく、創造し、発展させてゆく幸福を求めているのでありますが、たとえ永遠の秩序と平和が訪れないとしても、それを求むるのは人間の至情であり、それを絶えず求めるでしょうし、其の為には、全ての人が独立人、自由人の道を辿ることが大切であり、そうして始めて実現の可能性もあり、一歩前進するのであります。亦他面、たとえ自分が独立人、自由人となり得ても、他の人達がそうでなく、惨めな生活をしているのを見るのは、人間の至情として嫌なものであり、自分自身をすら惨めに感ずるものであります。特に人間の美的感情は美的世界を限りなく追求し、創造してゆこうとする所迄生長し、発展してくるものであります。
 以上の三つの点からみても、私達は是非とも、全ての人達を自由人、独立人にすることの必要を痛感するに至りますし、亦自分自身を本当に愛し生かそうとすれば、自己と関連すると云うより、自己の延長であり、自己の包含する所の社会、国家、世界を好ましいものに育てあげなくてはならないでしょう。
 ではそれは如何にして可能でしょうか?
 今迄の教育が本当に対社会的に自分を愛し生かす道を教えなかったこと、其の為に社会、国家、世界の動きを観察する場合、相互の深い関連性に眼をそそがないで、近視眼的な視野を以て、直ぐに行き詰り、馳目になる様な、亦直ぐに衝突する様な態度で活動しているのであります。
 余りにも大局から、ものを見る眼を持たない為に常に惨めな状態を繰返しているのであります。而も此の様な態度をとる所には、個人的にも独立人、自由人の道が開ける筈もなく、此の様に考えるとき自己の独立人、自由人の道と他者の独立人、自由人の道とは同時に開かれ通じていることが知られましょうし、ここに当然自己を独立人、自由人に育てようとすれば全ての人を独立人、自由人にすることが付随してくることが明かとなりましょう。
 社会、国家、世界を生かす事が同時に自己を生かすことであり自己を生かすためには社会、国家、世界を生かさなくてはならないものであると云うことを如実に教えられ、示されることは今迄の教育には余りにも少かったのであります。今迄それらに対して、どれだけ真剣な努力と真面目な注意が払われてきたかと考える時には、全体的にみて殆んど無に近いのであります。若し将来此の方向に、即ち広く深い視野を養う方向に真剣な努力が払われるなら、全ての人が独立人自由人となることの必要を痛感する人が増加し、亦それによって独立人自由人となる道に進んでゆく人達がふえてゆくことでしょう。
 以上に於て一応全ての人が独立人自由人となることが、人間の自然性から見ても、幸福を追求する点から見ても、社会の秩序と平和の保持の点からみても、必要不可欠であること、そしてそれを可能にする道を簡単に述べたものでありますが、最後に今迄の論述に於いて残された問題である所の人間の諸感覚諸感情そのものを如何にして、好ましく豊かな人間、換言すれば道徳的にするか、亦独立心自立心をそのまま益々助長発展させながら、而も恐怖と規律と賞罰なしに、如何にして好ましく豊かな人間、換言すれば道徳人に育てるかにふれてみたいと思います。
 人間の行動を支配し、人間の存在を支えているのは感覚、衝動であり、而も従来此の感覚衝動を醇化し、豊かにすることに最大の注意と努力が払われないで知性と意志に主力がそそがれてきたのであります。勿論それは大切であり、これまで述べてきた所をみても、如何に知的なものが欠けていたかは明らかでありますが、而も猶知的なものは、現実の実践力、行動力と云うことに、はなはだ弱くもろいものであり、意志をみても従来の意志の作用の仕方は殆んど知に導かれ、義務に導かれるものとして、非常に、りきみかえったものが強く、故意と無理があって、自然でないのであります。その行動を導き、支配しているものをみると、禁止と抑圧、当為と義務に満たされているのを発見するのであります。今迄の多くの道徳的行為を見ても、それはその人自身の感覚感情そのものが道徳的な所よりの自然の発動でなく、義務意志に導かれたものが多いのであります。そこに曾つて意志の鍛錬が重視され、強調されてきたのであり、禁止と抑圧と恐怖と規律と賞罰による道徳教育が推進されて来た所以であります。然もかかる教育が窮極に於いて如何にもろいものであるか、更には、かかる生き方が如何に其の人の生命力、生活力を弱め、無力にするかは、戦時戦後の道徳的崩壊の姿をみても、既に論述した所によっても明かであります。
 今後の問題は如何にして人間の諸感覚、諸感情をそのまま自由に伸張発展させ、而もそれにもとづいて行動したものが、そのまま道徳に合致する様な人間を作るかにあります。
 結論を先に申すなら、それは唯々美的教育にあります。
 諸感覚諸感情そのものを美的にすることによって道徳的にするのであり、知と意志は益々それにより美的な方向と方法を示しながら、それを推進し、発展させることに拍車をかけるのであります。この美的教育が芸術を媒介としてなされることは勿論であります。
 今それがどの様にしてなされるかについて、簡単に述べてみましょう。
 どの芸術も、その対象を通して、芸術家の自己表現、内的生命の表出、更には人間性の血みどろな再現であり、而もそこに夫々特有の映画美、彫刻美、音楽美、絵画美、建築美、演劇美、文芸美の追求を通して、創造される芸術美としての、完全美、調和美、自然美、造型美、創造美、個性美、模写美、装飾美と取り組み、対決することによって、それに接する人間の諸感覚、諸感情に食い込んで、じかにそれを刺激し影響している間に、徐々にそれらを美化し純粋にしてゆくのであります。耳は妙なる音を聞くことになれ、目は美しきものを見るになれ、鼻は豊かな香りを求め、その反対のものには、たえられない状態になります。人間の諸感覚諸感情は限りなく美しいものを求め、憧れる様になり、彼等が欲する所を行うことが、そのまま自然に道徳に合致した所の人間になってゆくのであります。
 勿論、永久に完全なものに到達することの出来ないものである所に、その過程に於ける不充分、不完全に基く危険性を恐れる人もあるかもしれませんが今迄の様に、人間に人間以上を求めて不正直不誠実にしたり、窮屈な弱虫にしたり、而も結局は道徳人となり得ない様なものに、いつまでも執着をもつことなく、徹底した思いきった美的教育をほどこすことによって、人間性そのものの改善変革をなしてみたいものであります。勿論幼年期の判断の基準を全くもたないものには、それを示してやることが大切でありますが、これとても従来の様に絶対唯一のより所として與えないで、その限界を守るべきであります。
 人間にとって、唯美的なものを、あくまで追求する態度こそ最も好ましく美的であると云えましょう。然し此の美的教育で、私達が何よりも忘れてならないことは、既に述べた子供の世界の存在を知って、子供の心理の発展法則を知ることでありますが、ここで美的教育に基く感覚感情教育を考える上に於いて、最も大切な点をあげてみますと、人間の感情の発達は不可避的な順序をふんで発達するもので、其の過程を早めることものりこえることも出来ない事、感情は教えることにより生ずるものでなく、生長と共に生ずるものであることであります。換言すれば、好ましく豊かな感情は與うることによって出来るものでなく、全て人間の諸感覚諸感情は自己主張、自己発揮の過程に於て成長発達するものであります。諸感覚諸感情は一足とびに発展することも出来ませんが、逆に如何なる抑圧も、永遠に人間を抑圧することは出来ないものであり、それが健やかであるか、畸形的であるかは別として、どこかに其の突破口を求めて、徐々に其の段階をすすめてゆくものであります。
 そこに美的教育による美的感覚、美的感情を養成するに当たり、忘れてならない第二の点は、以上の点から必然的に忍耐と寛容であります。今迄早急な要求、解決が常に人間教育を失敗に導いた最大の原因であります。最近の新教育不信反対の声は人間心理の発展法則に対する無智から来るものであり、人間の教育をこんなに甘く考え、こんなに早く効果を求める態度こそ、新教育の是非論よりも、もっと反省すべき点であり、警しむべき点であります。
 子供の自然的充実成長を忍耐強く見守り、育て待てる人間こそ最もすぐれた人間変革の教育者と言えましょう。
 以上美的教育により、人間の自然的成長を益々強めながら、而も人間の諸感覚、諸感情を美的にすることによって、禁止と抑圧と恐怖と規則と賞罰なしに独立人自由人に育てる道を一応簡単に述べたのでありますが、更にここで私は芸術教育の中では、恐らく最も低い位置しか與えられていない、厳密には其の中に入れられない所か、危険視され、否定されているかもしれない所の映画が感覚教育、感情教育に占める位置と役割について述べてみたいと思います。映画が現在の所、未だ教育的に高く評価されていないのは事実でありますが、映画が綜合芸術として、あらゆる要素を含んでいることは勿論、すぐれた技術と観察によって人間と世の中のあらゆる要素を殆んど其のあるがままの姿に於いて表現しており、而も其の鑑賞に於いては、視覚と聴覚とを通して迫って来る所に、その演出が卓越しておればおる程、其の雰囲気の中にとけこむことによって、宛も自分自身が其の作中の一人であるかの如き錯覚すらも懐き、あらゆるものが実感的に把握されるのであります。
 たとえ、無意識的であるとしても、映画の持つあらゆる要素によって刺激され、影響されることによって、諸感情諸感覚は徐々に充実発展してゆくのであります。特に感情教育感覚教育に於いては此の無意識の中の充実発展こそ、最も大切な役割りを果しているのであります。
 即ち感情感覚そのものは無意識裡に作用し、活動するものであり、此の無意識裡に作用し活動してゆくものが、好ましく豊かであること、換言すれば道徳的美的であることは、諸感覚諸感情そのものが美的道徳的であることを示しているのであります。だから感情教育とは無意識教育であるとも言えるのでありますが、現実には無意識的生活を恥じ、其の様な活動、行動を軽んじ、亦人生の損失であるかの如く考え、絶えず意識的であろうとして、そこに知と意志を表面に大きく打ち出し、反って意識過剰に陥入り、苦しむのみでなく、弱くもろい生活、行動しか出来ないのが実情ではないかと思うのであります。かかる意味に於いて、私はもう一度、ルソオの「自然にかえれ」の意味を再検討する必要を認めるのであります。勿論それは未開野蛮の自然でなく、現代の芸術を通して洗練され、醇化され、高められた所の自然でありますが。少し横道にそれた様ですが、要するに芸術、今は映画についてでありますが、此の映画が普通には無味乾燥な学校教育、特に最近復活を云々されている道徳教育よりも、子供への影響力、浸透力、感化力は多いのであります。
 題材は勿論それを取りまく環境条件は、生きた現実の人間と世の中であれば、益々実感をもって迫って来るでしょうし、反対に又全く現実と遊離して、お伽噺的な内容や、全く未知無関係の事であれば、夢幻的空想的である子供の感覚感情を刺激し導いてゆく演出の妙味があり、或いは探求慾、知識慾の旺盛な子供の心を掴んでゆくものがあるのであります。更に映画の鑑賞を通して、直接体験ではありませんが、間接の体験をなすことによって、自己と自己の住む社会を、大きくは自己の住む世界を知ることによって、人生や世の中への眼を開いて、人生の美と価値と真実の何たるかを徐々に知り始め、そこに人生の在り方、生き方を発見して、自分自身を其の美と価値と真実に向かって、間接体験を通して試み、更には実際の体験にまですすめてゆくのであります。世の中にはそれを恐ろしく危険だと思う人がありますが、私達はもっと人生に対する厳粛な気持ちを以て、従来の様な考えを捨てて、子供を本当に強く逞しく、何時如何なる時と場所に於いても、自己の運命を背負って生きられる所の人間を育てたいと思います。
 以上全ての人を独立人、自由人に育てる道について述べてきたのでありますが、文中至る所説明不充分の所があり、それについては他日に譲りたいと思います。
 最後に、現在私が以上の論述に基いて、実行しつつある教育について簡単に述べてみましょう。
 先ず最初に、第二の性格形成期である十四才より二十才位迄の青少年を対象にして、完全な自由の下に彼等のみによって、彼等自身の共同生活を致させます。此の教育は彼等の人間性に対する絶対的信頼と、其の教育の効果にあせることなく、最少限三ヶ年をまつことの出来る忍耐とを以て出発するのであります。此の彼等のみによる彼等自身の共同生活の意味は普通の家庭が大体に於いて、親中心になっていとなまれる家である所に、子供達に好ましくない所の、特に本論で問題とした所の独立心、自立心の成長を阻んで依頼的生活が自然いとなまれることによって、追随的隷属的人間になると共に子供そのものによる子供そのものの持つ子供の行動、子供の独自の世界が形成されないで事毎に子供の行動、子供の世界が、大人の大人としての要求判断によって制約されて、自然な伸々とした子供が子供としての喜びの生活を享受することを阻むことを防ぐのであります。子供の喜び、興味の生活は常に心ない大人の子供に即応しない無理な要求判断によって、損なわれています。或人達は鍛えないで放置すれば、鍛えても、あの位であれば猶更いけないと思っているかもしれませんが、鍛えることがその子供を奴隷的に鍛え、それに対して受動的消極的である限り、此の鍛錬は人間を不誠実な偽善者、一時的な追随者に育てるだけで、それ以上の者に育てることはなく、それのなくなると同時に、それと全く縁のない人間と化してしまっている事実は、色々の場合、色々の例によっていくらでも説明できます。
 一例をあげれば戦時中の鍛錬の戦後に於ける姿、学生時代の試験勉強と卒業後の姿を見れば明瞭であります。然し『やらないよりはやる方がよい。やればその時に何かを掴み学ぶから』と云う人達もいるかもしれない。成る程普通にはやらないよりはやる方がよいと思うかもしれません。然しやって効果の出たのは、その人が能動的積極的に出た場合であって、其の他の場合に於ける所の益々隷属的追随的にすること、或は不誠実な偽善者にすることは、少しの収穫よりずっと恐しく悲しく、大きな損失であります。何故なれば、何よりも人間の独立、自由を尊び、亦それを何よりも尊い宝と信じ、それを失うことは人間であって、而も人間をやめて動物となることであり、更にはそれこそが人間を幸福にする最上の原動力、永遠の原動力と思うからであります。
 鍛えなければ人間が出来ない。果たしてそうでしょうか?
 今迄普通には鍛えると云う場合は常に外部からのそれを考えていました。然し外部からのものは前述の様な弊害がありますし、亦鍛えると云うそれ自身にも外部からのみでなく、内部からの自己自身による自主的積極的になすものもある筈であります。外部から鍛えるのでなく自己自身によって自己をきたえさせる。此の様な指導教育が今迄に真剣に強力に広範囲に研究され実施されてきたとはどうしても言えない様です。
 此の様な教育は人間への信頼と忍耐のある所、特に人間への追求が深く厳しい、表面的なうはっすべりでない所に実を結ぶのであります。日本の教育界は明治以来今日に至る迄、最も流行を追い表面をうわすべりに進み、その弊は今日も猶続いています。日本の教育界は何よりも先ず此の問題と取り組み解決すべきであります。
 始めにかえって、完全な自由の下に、子供達のみによる子供達自身の共同生活をいとなませることは決して、放置を意味するのでなく、今迄以上の細心の注意と深い理解と温かい愛情を以て見守りながら、彼等の最もよき相談者、信頼者、後援者として彼等のために最大限の條件を協力して準備することが大切であります。
 此の教育に当たる者は、何よりも先ず自己を教育することを通して、独立人自由人に向って前進している人間であることが大切であります。自ら独立人自由人の道を歩まないで、独立人自由人を育てんとすることは滑稽でもあり、亦不可能でもあります。此の生活の中に彼等の良き相談者、保護者、後援者であるとの気持ちが、その人に対して自然に湧くと共に亦実際相談するに足る人、信頼するに足る人、後援者であることが大切であります。
 此の間接の教育感化こそ、信頼と忍耐を必要と致しますが、自己教育による自己形成を感得させる根本の未知であります。彼等を自己自身によって自己自身を鍛えて行く人間の傍らに置く事に依って、彼のかもし出す雰囲気、彼からにじみ出る雰囲気の中に浸らせることによって、それを内感させるのであります。
 教え語るのでなく、唯々生きてみせるのであります。独立人、自由人の道を精一杯に生きてゆくことが何よりも大きな教育であります。此の教育の過程には非常にしばしば疑惑と絶望の気持ちが萠すことでしょう。然し愛と祈りと理解がその危機を超克してくれましょう。此の教育には一片の甘さも楽観もありません。唯ひとすじに理解にもとづく愛と信と祈りの生活が、厳しい自己否定と自己精進と併行して存在するだけです。信じようとしては、信が崩れ、亦信じては進む生活の中に人間に対する不断の信が生れるのであります。此の様な態度、生活をなし得る者のみが、亦此の方向に努力する者のみが能く、此の教育をなし得るのであり、効果もあげるのであります。
 かかる指導者先達を得て、彼等は完全な自由の下に彼等のみによる彼等の共同生活をいとなみ、そこには何等の規則も賞罰も義務もありません。彼等は必要に応じて規則を作り、彼等の成長と共に改善してゆくのであります。彼等の生活は彼等の思想と共に進み、彼等の思想は彼等の生活と平行して進むのであります。彼等は常に内なる自己の良心に従って生き、良心の満足によって行動し、其の結果その好み、その内容が貧しく低い時は、如何に惨めで面白くない嫌なものであるかを知って、その好みその内容を豊かに充実してゆくのであります。そして過程に於いてはともかくとして、虚言の偽善の方向に向わないのであります。一片の美辞麗句や大言壮語のみじめさ下らなさは彼等自身の研究会や生活を通して常に悲しい迄に思い知らされるのであります。
 亦偽善や虚偽が如何にもろく、自己をみじめに不幸にするかを如実に体験するのであります。彼等は卓越した聖人君子の生活をいとなまない代わりに偽善者虚言者の未知も進みません。彼等はありのままを精一杯に生きて、彼等以上でも彼等以下でもないのであります。彼等は思想、生活共に創造的発展的であり、常に前進して自己と共に自己の住む社会に適応しながら、同時に自己と社会を無限に改善し発展させてゆくのであります。亦その生活を通して自己の住む共同生活との深い関連性、相互の影響力を体認することによって、自己を徐々に拡大し自己の中に次第に隣人、周囲を包含して、将来人類世界を包含する第一歩を歩み始めるのであります。其の他共同生活を通じて如何に社会の構成、成立には種々の仕事があり、亦そのために夫々の人間が必要であり、夫々に秀でた人間によって、成立する社会であることを知って、各人の存在、役割を認め、尊ぶ態度を学ぶと共に、劣等意識の萌芽を防ぎ、指導者も各人の長所、持ち味を発見しそれに自信と希望を持たせる様に努力しています。亦彼等には決して何も強制しないし、唯自覚をうながす様に極力各方面各角度よりつとめ、其の効果も急速に求めません。これでは徹底的に自主自発的生活を通して独立自由人を育てようとするのでありますが、次にはもっと積極的に企図している対策について、一、二述べてみましょう。勿論色々の機会而も自然に生れた機会を利用して、自然な語らいの中に暗示を與えたり、反省の材料と機会を與えたり、更には相互の語らいの生活の中に生ずる刺激も影響も大きいのであります。積極的なものとして新聞、ラジオ、映画、書物各種研究会、各方面の青年或いは識者との交流旅行等色々ありますが、ここでは書物と研究会について略記しておきたいと思います。書物の中でも特に文学、日記、手記、随筆、手紙類が如何に人間を内的に覚醒させ、豊かに育て、自立的、自主的人間に育てるかを考えてみましょう。
 今迄私自身の身近かな中に読書を通して顕著な人間革命をなした者を知っています。其の他これに近いものは多数あります。
 すぐれた文学書の影響力感化力は恐しい程であります。その文学作品が人間と世の中の赤裸々な追求、人間と世の中への血みどろの肉迫から生れたもの、特に筆に托して、自己の内的生命の表現をなし、書くことに生命をけずり、書くことによって救われた様な作品でありそれに対する読者も世の中の実相と人間の実体を全心身的に追求している場合、そこに奇跡的変化が生ずるのは当然であります。読者の魂をゆすぶる作品は多くないけれども、あります。著者の心をそのまま表現告白している日記、随筆、手紙、手記類も亦その真実其の実感が読者の心にぐんぐんと迫ってくるのであります。(此の様な書物の一覧表は別に発表したいと思います)
 次に各部研究会でありますが、各研究会を作り自由に参加することによって、広く深い共同研究をなし、そこに自然と色々の他の部門に対する視野をもち、亦夫等の間の関連性を知ることによって、視野を広め深めるのであります。将来は是非どれかの研究会に中心的参加することによって、そこに自主的、主体的態度を身につけると共に一つの依り所を作り、そこから一の自信を得て、真に独立人、自由人の道を進むのであります。

 三、結び

 以下簡単ながら独立人、自由人育成の道、換言すれば人間変革の道について述べました。説明不充分の所は亦の機会にゆずります。唯私は日本人の独立人、自由人を育成する時代の出現の心要を痛感しますし、特に最近人間の主体性自主性が組織科学、イデオロギーの前に益々危機に陥りつつある時、此の教育活動を広範囲におこしたいのであります。既に第一歩をふみだしています。皆様の徹底した御批判と御参加を願ってやみません。既に語る時代、あげつらう時代、批判のための批判の時代は去りました。問題は如何に変革して、危機に立つ人類、不安と焦燥と貧窮と対立に苦しむ人類に可能な光明と救済をもたらすかにあります。
 私達青年の蹶起の時は参りました。
 皆様の御協力をおまちしています。

             昭和二十六年五月十八日

 

                 <大地(3)目次>

 

 

『文学者の使命を生きるについて』

                 池田眞昂

 

 この文章は『大地』に掲載されたものではないが、藤園塾生も関わっていた同人雑誌に掲載されたものである。当時の様子を知る上でも参考になると思うので、ここに載せることにした。   (池田諭の会)

 

 (『BA』 第一巻第三号 昭和二十七年六月一日発行)〜

 

 BA編集部より「文学者の使命」ついて何か書くようにとお話があった時、日頃からBAの諸君の真摯な現実直視とそれにもとづく理想追求に私なりの畏敬と共鳴を払っていた者として、おことわりすることも出来ず、さればとて諸君の成長の糧ともなり得る様なものを書ける自信もありませんでしたが、これを通じて諸君にふれ、出来れば諸君と共に一ときでも共通の問題に立ってみたいとの私の子供らしい念願が筆をとらせました。
 さて提出された問題は全く一般的初歩的なものであり、社会一般にそれが如何程理解され普及しているかは別として、既に論じられ又考えつくされており、一応の結論が出ていると言っても過言ではありませんし、更にBAの諸君はそれに対して一通りの研究をされて諸君なりの解決と見透しを以て研究創作をすすめられているのを同人雑誌を通じて知っている私としまして、今更此の問題を一般論として論述する必要と意義をみとめないのであります。そこで私はここでは少し角度を変えて考えてみたいと思います。
 御承知の様に「文学者の使命」について、特に論議と対立の多い過渡期に於ける現在の文学者の使命についても、色々の立場に立つ文学者評論家によって一応の結論が打ちだされておりますが、一体それが如何程文学者の中に生かされ、貫かれているかと申しますと誠に疑問であります。事実それは猶抽象的論議の段階に終わっているのであります。此の時、文学者の使命について研究し語る事も大切でありますが、それ以上に、或いはそれと同じ位に必要なことは、如何にして文学者の使命を自分のものにするかと言う課題であります。
 特に1934年、魯迅に「日本の左翼作家は今でも転向しないものはたった二人(蔵原と宮本)だけです」と言われた日本の文学者、勿論魯迅はそれによって日本の文学者を責めているのではなく、その当時の官僚機構の強さを言っているのでありますが、最近の激しい右旋回の前に誰もその再現を否定できない時、依然として戦後に於いても、主体性や実存主義が一の流行的論議に終わり、唯物論すら観念的にしか把握できない日本人の知性の低さを思うと、これから文学という最もきびしい困難な道を進もうとされている諸君には同じ様な誤謬を犯して戴きたくないために、文学者の使命云々以上に、或いはそれと並んで如何にしてそれを自分のものにするか、文学者の使命をそのまま生きる人となるためには現在の諸君は何を心がけ、何を為してゆくべきかに究明の手をさしのべて戴きたいのであります。
 以下少しそのことを中心に文学者の使命について考えてみましょう。
 先ず諸君を含む君達学生と文学の関係から考えてみよう。本のよみ方には大別して次の二つが考えられます。その一つは唯文学をよみ、文学にひたるおもしろみ、たのしみ、喜びを求めてよむもの、別にそれに対してかたぐるしく、むつかしいものを求めない読み方、唯よみたいから、好きだから読むと言う軽い読み方があります。これに対して、現在の社会に生きる自分の姿、在り方、生き方を書物に求めてゆく読み方があります。換言すれば今迄父兄に教師に周囲に何の批判も疑問もなしに付随して生きてきた少年達が漸く自我にめざめ始め、両親から分化して、一本立ちの道を歩もうとしかけた時、先ず彼等が遭遇するのは自分自身を始めとして自分達をとりまく周囲に対して全く無知であり、批判し判断し行動する所の主体である自分自身が何ももたないと言うことを知って戸惑いし、迷うことであります。ここに彼等は、その解決充足を書物に求めてゆくのであります。勿論二つの立場に共通なものは未知への興味であり知識欲であります。そして少年達が読書を始めた頃は全て最初の読み方でありますが、少年から青年への過渡期に当たって、其の一部が後者の読み方に移ってゆくのであります。
 若し人間と人生が如何なる者であり、如何なる生き方に意義と価値があるかを考えれば、特に、青年期の読書が両者の何れを択ぶとき最も好ましい結果を青年に與えるか、更に好ましい好ましくないの段階をこえて、自己の生き方の決定を求めて血みどろになって追求してゆく姿を考える時、すぐれた読み方、本の読み方は両者の中の何れであるかと言うことは明らかでありますし、すぐれた文学とは此の様な要求と疑問に対えてくれるものでなければならないことも明らかになってくるでしょう。然し文学が文学であるためには亦無条件におもしろく、たのしいもの、我を忘れて没頭できるもの、而もその中に自然に読者の問題を解決してくれるいとぐち、解決してくれる能力を附與してくれる作品であることが必要であります。すぐれた読み方、すぐれた作品が如何なるものであるかは分明でありながら、現実によまれている態度は殆ど前者で後者が少ないのは如何でしょう。而も少年期より青年期の過渡期には強弱の差はあっても、一度は必ず人間としての生き方在り方を求めるものでありながら、殆どの人がいいかげんにごまかし妥協しているのは如何でしょう。一言で言えば、すぐれた作品と読み方の指導がないからであり、以上の点から、文学者の使命が奈辺にあるか明らかであります。
 諸君並びに諸君の周囲の学生は青年期に於いて対決しなければならない種々の問題、或いは現代社会に於ける青年の在り方生き方の究明等無数の問題而も現在価値観の対立、判断の基準の動揺から殆ど未解決に等しい諸問題の前に放り出されているのであります。諸君が若し自己と学問に忠実で真摯な限り、迷い苦しまないのは嘘である世の中、而も迷い苦しむ青年が軽視され無視されて、最も自己と学問に不忠実に利己的勉学にのみあくせくしている学生が歓迎されている世の中、要するに諸君の前には解決しなければならない問題が無数に横たわっているのであります。
 諸君の文学の素材はここにあるし、文学者としての使命も亦これを諸君自身が作品評論を通じて解明してゆく所にあると言えるのであります。諸君の厳しいリアリズムの眼は先ずここに向かって発せられるべきであり、ここに諸君の最初の亦現在の課題が諸君の戦いの対象があると言えるのではないでしょうか。
 私は諸君が諸君自身の現実から、現代に生きる青年の現実から出発して、そこに問題を発見し、更に世代の共通の課題と感覚を通じてその問題を発展させ、展開させて戴きたいのであります。與えられた問題、教えられた問題からでなしに、諸君の日々の生々しい生活の中からにじみ出るもの、諸君の純粋な心にぐんぐん迫ってくるもの、じかに感じられるものこそ、諸君の文学の素材であり亦課題であります。而もこれはまだまだ未開拓であり、更には其の為には、多くの青年、純粋であり新しい世の中の形成者でなければならない青年が其の線から脱落するのみでなく、妨害者となり、反対者となっている現状を直視する時、諸君の文学者としての使命は何よりもここにあると言えるのではないかと思います。青年作家島田清次郎の「地上」の如く諸君自身がそれらの諸問題に真正面より取り組み、諸君の共通の言葉と感覚と要求を以て、精一杯の解決をすすめてゆく所から生まれる文学こそ、生命をもち、諸君は勿論諸君の周囲の学生に新しい希望と感激と情熱を注入するのであります。そして其の様な文学は諸君が全心身をもって実感的に感じとることの出来るもの、知識的であるよりは、より感覚的にうけとったもの、換言すれば君達が放置しておけないもの、如何なる時でもそれと取り組む以外にどうにもならない様な問題から出発してそれを忍耐強く知慧の眼を媒介としながら育てあげてゆく時、生まれて来るのであり、その様にして生まれて来る作品が始めて諸君自身の作品であり、諸君の生命の延長、諸君の存在を支えるものとなり、それを否定することも中止することも出来ないものとなるのであります。
 以上の様な文学活動生活態度を血みどろにすすめ展開してゆく所に将来諸君が大きくなった時に亦、現代人の課題と真正面から取り組み、それとあくまで対決し、解決してゆこうとする態度、いかなる迫害と障害にあっても、逃避と妥協のない文学者本来の厳しい道を歩みつづける態度が生まれるのであります。特に現代の様にきびしく相対立している世界の中にあって、大衆が明らかにしてくれることを求めている所の現代人の最も好ましい生き方、在り方、換言すれば、夫々の職場、地方、階級、民族の立場から新しい世界像人間像をうちだすと共にそれに通ずる道を示すことは最も厳しい困難な仕事であります。然しそれをあく迄遂行してゆかなくてはならない時、私の知り得た範囲より、BAの諸君の戦いの内容を考えてみますと、多くの学生が唯その日の生活に追われ、大人の虚偽と利己をそのまま肯定して自己の安寧と成功にのみ、うつつをぬかし、或いは現代の危機の前に無感覚に逃避的に生きている大人達と異なって、真剣に歩む態度に私は心の底から尊さを感じますが、諸君の戦いが何に対して、何を目標としているか明らかである様でぼやけているのを感ずるのであります。
 特に諸君の叫び、言葉が諸君自身の生活と行動から生々しくにじみ出、じかに打ち出されているか、或いはその叫びと言葉がどれ程諸君の生活の中に打ち出されるべく戦いが進められているかについて不安を懐いているのでありますが、それは私のひがめでしょうか。
 諸君が青年の感激性と理想性のおもむくままに社会の真面目な声に、直接の反応を示していることに尊さを認めながらも、何かBAの諸君の言葉の中に諸君自身の生の言葉を感じとれない寂しさをもつのであります。感受性強い諸君が、現代の矛盾に示した反応、然しそれが観念的にとらえられて、諸君自身から諸君自身の生の思想と生活から、浮きあがり、ずれている感じ、諸君のものになりきっていない感じ、そして諸君の先輩達が学生時代とった態度、そこから当然生ずる所の逃避と転向と妥協に通ずる様な問題のとりあげ方、受取り方に相似たものを発見して身慄いを感じているのは私の誤りでしょうか。
 諸君はその研究会に近く魯迅をとりあげられる様でありますが、その際、魯迅の立場が日本の文学者思想家の様な自己自身に出発しないで、唯有名なもの、一流のものに幻惑されてそれをとりあげることに急になりすぎて、その結果それにひきずり廻されて、本当にそれを咀嚼して自分のものにすることの出来ないのと異なって、常に自己と民族に本質的なものを丹念に忍耐強く一歩々々とりいれて、自己と民族を徐々に然し確実に成長発展させた態度には十二分の注意を払って研究して戴きたいと思います。唯彼の立派な活躍や、すぐれた作品にのみ眼を奪われないで、そのようなことが如何にして彼におとずれたかについて研究して戴きたいと思います。
 繰り返しますが、諸君が諸君をとりまく問題を諸君自身に則して、どれだけ真正面から取り組んでいるか、君達をゆがめ曲げているもの、人間の尊厳をうちこわしているものに対して如何程全心身をぶつけているかと言うことを考えるのであります。文学者の使命を諸君のものにするために此の点をはっきりと掴んで出発して下さい。そして此の様な生活態度を通じて打ち出された諸君の強さを更に強固にし、永続的にし而も一般的な価値あるものにする他の要素を考えてみたいと思います。
 結論を先に申しあげれば諸君の抵抗線、基盤を先述の様に諸君自身の中におくと同時に学生一般の中におく、換言すれば、諸君の問題、諸君の生活を諸君の周囲の学生のそれと一致させ、その上にたたせることによって、客観的な妥当性と共に全体的要求態度を打ち出すのであります。若しこれが可能になれば、強力な線が出てきますし、そうなれば孤独に陥ったり、各個撃破されたり、孤立して前進出来なくなる様なことは生じません。そのためには諸君の文学活動を学生の中心的動きとするための学生そのものの研究を通して、それを可能にする最も細心で忍耐強い計画的な組織活動が必要になってきましょう。
 学生一般の要求、而も心の奥の奥で欲している要求、真に内なる要求を発見して、それに則することは、自己一個人に則するよりも、もっともっと困難な道であります。然しそれを可能にしなくてはならないし、個人の能力の限界をこえて、諸君の目的をあくまで貫き達成してゆく最も確実の道であります。そして従来、これに対する考慮と対策が如何程なされたか疑問であります。現在大衆運動庶民運動と称されている運動が常に大衆庶民から浮きあがり、遊離しているのであります。
 それをのりこえるためには何よりも強い忍耐と広量と知慧が必要になりますが、此の最も難しい道、日本に於いては全く未開拓に等しい此の道に真正面から取り組む勇気と気魄をもって進んで戴きたいのであります。
 然し此の面から考えてみましても、先に述べたと同じことが再び言える様であります。即ち問題のとりあげ方が諸君自身から浮きあがっていると同じ様に学生一般から浮きあがって、学生一般の問題が真っ向からとりくまれていない。或いは学生そのものの現状が問題の対象としてとりあげられていない。諸君は諸君の眼は大人の姿、大人の現状に向けられてそれの批判と攻撃に急なあまり、諸君の周囲の学生の姿を放置され、閑却にされています。
 勿論諸君の大人への批判はあくまで正しいし、亦あくまで厳しい批判をすすめてゆく必要があります。然し、今日の大人の姿の渕源は殆ど其の青年時代にありますし、極論すれば、此の大人達を啓蒙するには限界があり、一般的に見て、日本人の様なものの見方、考え方、生き方をしている大人のそれを変革することは不可能に近く、私達が出来るのはせいぜい彼等の妨害を抑える程度でありましょう。それに対してものの見方、考え方、生き方を決定する以前の青年がそのまま大人の悪弊に影響されて、それにそまりつつあるのが放置されているのは、何よりも考えなくてはならないことであります。諸君が嫌悪し痛憤している大人の姿は、諸君の周囲の学生にすでに濃厚に其の要素を発見できるのであります。諸君が文学者の眼をみがく上からみても、此を直視していないことは何よりも反省しなくてはならないことと思います。
 そして此と取り組む諸君に、何よりも大きな教訓を示してくれるものは、御承知の中国の五・四運動でありましょう。文学革命を通じて、全学生の意識革命を生みだし、それによって学生運動への基盤を育成し、ついに大衆運動にまで発展させた五・四運動の研究は、諸君の研究と活動に大きな収穫と成長をもたらすでしょうし、更に現代日本の各運動の新しい光明をもたらすでしょう。諸君が学生諸君と一体となって学生諸君と共に進む限り、諸君の要求は学生の要求となり、諸君の抵抗は学生の抵抗となり、そこには諸君の孤立はなく、当然、諸君への抑圧も歪曲も制約されてきます。
 勿論そこには諸君の要求、諸君の抵抗を、ぎりぎりの線までさげることによって、学生一般の要求と抵抗に一致させるために、華々しい発展ぶりは見えなくても、従来の表面的な進歩前進とは異なる所の確実な一歩々々の前進となるのであります。そして現代日本に求められているのも、従来の様に近道ばかり焦って進んで結局何度も繰り返して前進していない進み方とは異なった所の確実な歩み方であります。「急がば廻れ」の俗諺が痛感されているのであります。諸君の文学者としての使命を生きるために必要であると同時に無視できない、学生運動と一体となる文学活動の在り方を追求してゆくことを忘れないで下さい。
 最後に諸君が諸君の運動を広く逞しく積極的行動的にすすめる時必ず直面する所の、外部の無理解と制約について考えておきたいと思います。案外これが未解決に放置されている所に、其の進み方に無用の疑惑と動揺がおきている様であります。
 さて諸君が諸君の問題に忠実となり読者の疑問要求に対えんとすれば、そこには当然、現代の矛盾に真正面から取り組むことがおきてまいります。而も現代が如何なる時代であるかは少しく考えているものにはわかりすぎる程価値観が対立し、判断の基準が動揺しており、その中に生きて逃避と妥協とごまかしのない限り、何れかの立場に立つ筈であり、そうすれば反対の立場からは勿論、同じ立場からも或る時はゆきすぎと解釈され、或る時は不充分であり、なまぬるいと攻撃され、更に両方から攻撃されることもありましょう。若し猶中立の立場を維持しようとして折衷の名の下に逃避と妥協の道を択ぶならば最も文学の精神に背くものであって、問題外であり、或いは純粋芸術の名の下に歴史的現実的背景を無視した抽象的観念的な追求に終わるとすれば、同じ様に逃避妥協であります。万一その様な文学の立場が肯定されるとしても、それは低い段階であるのみでなく、読者の要求に対えない不親切な文学であり、現実をみる眼をくもらせることによって日本人の奴隷性、盲目性を放置することになるのであります。元来純粋芸術とか、文学のための文学の立場はより多く政治的社会的制約の下に生まれたものであり、一つは政治社会の圧迫からの自己弁護として、一つは政治に偏向し政治に追随しすぎる立場から、文学の純粋性独立性を守ろうとして生まれた以上、前者の立場は論外となり、亦後者に立っても、その純粋性と独立性を保つために、より積極的に現実の問題と取り組み、それを可能にしなければならないのであります。
 此の様に考える時、周囲の心ない批判、根據のない批判におびえ、おそれるのは寧ろ滑稽であり、それにおびゆることは自己自身の無智とそれにもとづく不信を暴露するだけであります。普通無理解と制約の名で言われているものは、その実無理解制約と言われるべきものではなくて、反対者の反対意見と妨害であることを知る必要があります。勿論中には、日本人の通弊である所の何等の研究も理解もなしに、唯一般の声に支配されて諸君を批判するものもありましょう。反対者の反対意見と妨害に対して、相手の無理解と制約位に考えているのは甘い態度であり、根據のない附和雷同者の声に影響されるのは自己の不勉強を示すだけであります。そこに生ずるものは、何よりも先ず君達の戦いが、諸君の絶対的な自己確立に向かって挑まれる必要があり、此の戦いは如何程激しく、厳しくても、激しすぎ、厳しすぎることはないのであります。勿論それが観念論者の主観的空転を意味しないことは明らかであります。
 私が繰り返して諸君にお願いしたいことは、諸君の文学者としての厳しい道を強烈に而も永続的にすすみ得る人間に諸君自身をきたえて戴きたいこと、其の為には何を注意し、何を心がける必要があるかを研究し実践して戴きたいのであります。
 私は最近ますます拡がりつつある日本人の日和見主義と空念仏を見出す時、諸君にはせめてその様になって戴きたくない為に、少し酷で失礼な意見を述べてきました。私の意のある所を理解して下さって、文学者の使命を語る人でなしに文学者の使命に文字通り生きる人になって下さい。現代日本人の求める文学者はその様な人であります。諸君の御健斗を祈ります。

 

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