『大地』(2)(藤園塾発行の雑誌)

 

第二巻 第一号(1951.2.1発行)〜

   <目次>

 『檄……続・人間募集……』

 『年頭に當り未見の友に訴う』 池田眞昂(池田諭)

 『現代超克の道』 池田眞昂

 『最高智研究所設立案』

 『人間研修所設立案』

 『人間教育所(藤園塾)の教育』

 

             < 目 次 >

 

 

       『檄……続・人間募集……』

 諸君!今ここに、我々が、人間社会を良心的な眼を持って、考察する時、そこに於いて映示するものは、あまりにも暗澹たる現実、自滅的なる現実、観念的なる現実、そしてあまりにも虚偽と矛盾との存在する現実ではないか?……と結論づけざるを得ないであろう。
 諸君は、この悲劇的なる現実を如何なる眼を持ち、そこから、如何なるものを感じ、そこに如何なる判斷を呈せんとするか?……
 我々は、そこに無限の悲哀と恐怖とを痛切に味わうだろう。併しその裏側には、若い青年の使命として熱火の如き、憤怒と、不満と意気と理論と実践が存在し、且つ、暗示されなければならぬと信ずるのである。その悲惨なる現実の下に於いて、真に人類社会の永遠の発展、福祉を強く、その願望とし、そこに自己の一生を無条件に提供し様とする人間が一体幾人居る事であろうか?
 我々こそ、自分こそ、この人類に福祉を持たらす所の大なる使命者とならなければならぬと思うのである。すなわち、それは“我々の現代の生活を、より価値あるものとせよ”と云う事なのである。その偉大なる目的達成の前提条件に於いて我々が先ず、その事業とするにたる所の「人間」になると云う事でちる。何故ならば、「人間」に福祉を持たらすことは、「人間」以外の動物に不可能だからである。当然そこには、「人間」以外の如何なる道をも歩む事は出来ないのである。
 諸君、我々は、教科書を勉強すると同時に、「人間」なるものを、勉強し様ではないか。我々は教科書のみの勉強が学問の全てでないと云う事を認識すべきである。唯教科書のみに満足感を味わって居ては、それは結果として、不満足なものになるのではなかろうか?又人間は、教科書のみに依って、人間の価値が左右される如き愚かな動物ではない筈だ。教科書のみの試験に依って、その人間の尊い人生を云々し様とする現代の教育制度を最も軽蔑したいのである。この様な教育制度が、その国の教育として、存在する限り全人類に幸福を招く様な、慈悲と知を充分に持った「人間」は先ず先ず育成されないと云う事が、予想出来ないわけではない。
 諸君!我々は、「人間」なる名称がある以上「人間」としての健全なる使命を認識し、追求しようではないか!勿論そこには、難関が待ちうけている筈だ。しかも多くの難関が。
 諸君!我々は立ち上ろうではないか!豊満せる青年の意気と情熱を持って、あらゆる難関を突破し、あく迄も我々の目標に向って前進し様ではないか!
 我々は、あく迄も「人間」なる理想の下に生きるのである。
 人間としての「人間」の幸福と平和を欲する事は云う迄もない事である。
 若し諸君にして、平和と幸福を人間として欲するならば立ち上ろうではないか!
 パスカルは云っている。「人間」は葦である。併し、それは考える所の葦であると……。人間は思考しなければならない。勿論それは、人間としての思考であると云う事を忘れてはならない。「人間」は追求しなければならない。「人間」なる物を。「人間」は理想を持たなければならない。「人間なる理想を」……
 「夢こそ創造の母である」と哲人エマーソンは云っているではないか?諸君!我々は「人間」なる理想を追求し様ではないか?「人間」なるものを追求する諸君!「夢」を追求する諸者!「人間なるもの」を追求せんとする諸君!そして「人間」たらん事を欲した時諸君よ来れ!我等の「人間たらんとする者の集いに……。共に等しい偉大なる無限の理想の下に強力なる切磋琢磨、強力なる自己批判、自己反省を媒介とし、常に最上の境地を得んと努力する我々の集いに……。「人間」たらんとする諸君よ来たれ。

 

                  <「大地」2 目次>

 

『年頭に當り未見の友に訴う』

              池田眞昂 

 新しい時代、新しい世界の胎動を齊しく感じている現代の私達は輝くばかりの期待と希望に胸を高鳴らせている一方に、重苦しいばかりの不安と虚無に滅入り勝ちであることも否定できない事実であります。二十世紀が古い時代から新しい時代への大転換点に立ち、今迄のものでは、立ちゆかなくなっていることを感じている人々も、次に来る時代の内容と其れへの道は如何であるかを尋ねられる時は、その殆んどが無気力と無定見のために、躊躇する中に、此の道、此の内容こそ、それに通ずるものであると断言、主張更にそれに基づいて実践している人達もあります。それは又色々の立場に分れて、相対立しているのであります。
 その中に最も強力な思想と武力の持主がソ連的勢力とアメリカ的勢力の二つであり、而も両者は相互に否定し合っており、その間に第三勢力的存在としての動きも色々ありますが、此の二つの強力な勢力の前には、余りにも微弱無力であります。ここに第三次世界大戦の殆んど不可避的傾向があると共に、原子兵器による戦争の残忍性とイデオロギーの対立に基く全地球上が戦場の渦中におかれると言う悲劇性に第三次世界大戦の恐るべき呪われた性格があります。
 以上の見方は平面的で、少くとも歴史的発展的に見ていないとの批難があると思いますが、現代の世界を支配する二つの勢力を経済的に保守と進歩とに一応分け得ると思いますが、人間の幸福、人間そのものの、立場から見ると、幾多の問題が残されていて、簡単な分類は困難でありましょう。非常に抽象的な甘い判断に基く表現となりますが、両方とも人間の要求、幸福の一面のみに主力を置き、相互に他を否定し、批難しあって、ともすれば人間そのもの、人類そのものを忘れ、人間、人類のためのイデオロギーが逆に人間に奉仕を強要しているとも言えそうであります。かかる情勢の前に、失われた人間の自主性、主体性をとり返えし、ともすれば美言に終わって忘れられ、或は利用されている全人類の幸福への意欲をとり返えすことを中心として、他の諸改革を断行せんとして生れ、推進されている第三勢力がありますが、先に述べた様に現代の所、まだまだ微弱無力であります。少なくとも、世界の二の支配勢力は相互に不満なものを発見し合い、又事実何れにも不満なものがあり、而もこのままで推移するなら第三次世界大戦は必至であり、それにより全人類の蒙る残忍悲劇が未曾有であることも否定できないでありましょう。ここに私達が新しい時代のための、よりすぐれた新しい指導理論の創造に努力すると共に、刻々と迫り来る第三次世界大戦の防止に、若し不可能であれば、せめてそれをきっかけとして生れる全国民の被害を最少限に喰いとめるために、最善の努力を傾倒せんとするのは当然であります。而も現在日本人の自主性自立性なく、偏狭固陋且つ利己的な保守主義者か、卑怯な日和見的傍観者である限り、戦後の無秩序、混乱に数倍する世の中の出現となり、国民の蒙る被害は絶大でありましょう。先ず日本人は政治的社会的経済的奴隷状態より解放され様と思えば、何よりも現在の日本人の精神的奴隷性を自ら超克すると共に漸進的に各自の住む社会の不備矛盾を改善発展してゆく所から出発し、更に国家人類の不自由不平等を改善してゆく知性と生活態度を体得することが先決であります。全人類のための全人類救済の意識を全国から、全世界へと昂揚拡大してゆくことの現代的意義を痛感するのであります。
 私達青年は純粋な情熱と至情を東亜諸民族の解放と道義的世界の樹立に捧げてきました。それが当時の指導者に誤られ、利用されていたとしても、そのスローガン、それに対する私達青年の気持は真実でありました。勿論私達は今東亜に熾烈に擡頭している、ナショナリズム運動を契機として、当時のままを思い出し、復活させようと言うのではありません。私達自身発展成長しなくてはなりませんし、又現在のアジアのナショナリズムも成長しているのであります。私達は全人類を生かすことを通して、初めて民族を生かし得ることを知って、此の歴史の大転換点に立って、不安と絶望におびえる人々のために、今こそ再び往時の情熱と至情を喚起して、世界人類救済の大業に邁進せんとしているのであります。
 武力に変えうるに理性と勇気を以て!
 権力に変えうるに勇気と愛情を以て!
 すばらしい理想であればある程、それの担い手である私達人間の問題が先ず第一であります。そこに何よりも先ず私達自身をその理想を追求し遂行するにふさわしい人間として資格づけることに努力すると共に、更にそれを同憂の青年に拡大するのであります。私達個々人の自己教育自己形成を目的とする教育国家としての日本の段階から、連んで理性と愛情と勇気の横溢した新しい宗教国家としての日本の誕生を夢みその実現に進んでいます。その内容については別に論述致しますが、国民個々人が、宗教性を持つと共に、国そのものが宗教性を持つことによって、あらゆる国家間の不平等不自由、あらゆる階級間の不平等不自由を排除するため、進んで苦難に飛び込んでゆく喜びを持つ、国民国家に育てんとしているのであります。
 以上の目的達成のために、巻末の三つの角度より進もうとしています。
 皆様の御批判御協力を御願い致します。

 

                  <「大地」2 目次> 

 

       『現代超克の道』

         池田眞昂

一、序

 私は先に「世界黎明の道」に於いて、あるがままの人間と世の中を前提にして人類の到達できる最上の世界とそれに到達する道を略述したのでありますが、それは生成発展してとどまる所を知らない歴史的世界に即して、何時の時代にも亦如何なる場所に於いても通ずるものを見究めんとしたのであります。其の為に非常に抽象的色彩が強かったと思いますが、そこでは、あくまで絶対的なものと同時に相対的なもの、窮極の問題と同時に目前の問題を見究めて、歴史的現実に於ける至上至高の生き方を、行動の最高指針をとらえようと試みたのであります。
 勿論此れは或る人から言わせますと、笑うべき書生論であり、亦他面から言えば、通り一遍の平凡な俗論以上のものではないかもしれませんが、古人の「道は近きにあり」を強く感ぜられている方達には理解と共鳴を戴けることを確信しているのであります。私は名論、卓説を試みんとしたのではなく、唯真摯に先輩諸士の言葉に、そのまま耳を傾けながら、人間と世の中を観察して、人間としての最もすばらしい生き方と同時に、全ての人に最も好ましい人生とそれを可能とする世の中を究朋しようとしたのであります。ここに現代超克の道と題して述べんとすることも同様に新しい卓見を企図しているのではなく、現代を一歩前進せしめるために、どうしても必要なこと、大切なことを考え而も単に考えるに終わらないで、それをそのまま生き創造開拓してゆこうとするのであります。現代超克の根本道は此れによって果して可能でありましょうか? 
 皆様の忌悼のない思いきった御批評をお願い致します。

 

二、本論 

 1 私達は先ず「ありとあらゆるものは、人間それ自身のためのものである」ことを知らねばならない。
 現在各分野、各部門に於ける問題は無数に山積みとなり、それらの問題の解決策も、相互に対立しており、而もその対立は簡単に二つに分け得る様な単純なものではなく、一つの問題をとりあげてみても幾通りにも分裂し、対立しており、更に問題と問題は相互に相関連して、本当に複雑多様であります。
 かかる状態の前に、世間は如何に一面的な判断や一方的論議に満ちていることでありましょう。それについて、具体的に記すことは省略させて戴きますが、等しく世の中の諸事象を世界的規模に於いて、綜合的に観察し、事物の真相に肉薄しようとしている人達は、相互に無理解な一方的な、ひとりよがりの意見が如何に多く充満しているかに驚くことでありましょう。
 特に日本人に於いて、その状態は強く、食わず嫌いが非常に多いのであります。その好き嫌いも自ら料理し咀嚼しての結果でなくて、他人の料理や咀嚼に委ねて何の疑いも懐かないと言う姿であります。以上の様な状態に対する批評はともかくとして、相錯綜する諸問題の前に立って、私達が夫々の問題と相対決して、一方的一面的な不完全さはあるとしても、その問題を解決してゆこうとして、意味や解釈や解決策を與えてゆくのは私達自身の存在を問題とする所に始まり、私達自身の存在を問題とする所に終わっているのであります。たとえ観念論であり、唯物論であろうと、亦主観的観察であり、客観的観察であろうと、それは人間に於いて始めて意味をもち、問題となって提議されてくるのであります。人間の生存以前のことであろうと、又人間の消滅後のことであろうと、それは全て私達人間の存在に於いて意味をもち、問題となってくるのであります。勿論直接間接の差はありましても、私達人間の存在に関与しないで単独に成立する、如何なるものもなく、全てが私達人間の存在を支えているものであります。
 此れは簡単な道理であり、素朴な人間主義、人間中心主義の再確認でしかないかもしれませんし、亦全ての存在するものに意味と価値を見出してゆく所は同じく素朴な自然主義の容認でしかないかもしれませんが、全ての思索行為の出発点に於いて忘れてならない根本的本質的なものでないかと考えるのであります。歴史を通じて何時の時代にも見出し発見できるのは此の人間主義と自然主義の精神であります。(勿論変化と相違はありますが)ここに於いて私は一切は私達人間の存在のためのものであり、私達の生を支えるものであることを充分に感得してから先の問題にかえりたいと思います。
 即ち相手に無理解な一方的ひとりよがりの意見を横行させ、世の中を対立と混沌に落し入れ、少くとも普通人の常識では好ましくない所の状態を惹起していることを考えてみたいのであります。これは全てのことが人間それ自身のためにあり、人間そのものを支えているということを知らない所の無知から生ずるものであり、そこに自然に思いあがった不遜が出るのでないかと考えます。人間の能力には限界がありますから視野の狭さはやむを得ないとしても、若し此の事を知っていれば、人間それ自身のためにある夫々の意見を綜合し、活用して現代に到達できる最高智を真摯且つ謙虚に創造し、それに基いて進んでゆこうとする態度が生れてくる筈であります。たとえそれが不可能であり、至難の道としても、此の事を知ったものはその道を進まないではいられないでしょう。だからとて此の事は単なる折衷主義、妥協主義を意味していないことは言う迄もありません。何故に人間のためにある夫々の意見を綜合し活用してゆくことを強調するかと申しますと、全ての人が夫々に生きんとしていること、強弱の差はありましても全ての人が一様に自己の心に生きようとしているからであります。

 2 私達は「全ての人間が一様に自己に生きんことを求めている」ことを知らなくてはならない。
 ありとあらゆるものは人間それ自身のためのものであり、人間は全て一様にそれらの中の何れかを通して、自ら生きんことを求めています。私達は此の簡単な道理、即ち全ての人間が、一様に生きんことを求めていると言うことを相互に再確認する必要があるのではないでしょうか。然し此の様な要請は児戯に等しい希望かもしれませんが、私は此の事を真摯に考えてみたいのであります。
 佛陀が「自他一如」による自利利他を説いてから三千年、基督が「自己自身の如く汝の隣人を愛せよ」と説いてから二千年になりますが。此の道を歩む人は果して時代と共に増加しているでしょうか?
 此の言葉こそ本当に自己を生かす最大の導きであると考える人達は時代と共に増加しているでしょうか?
 それは、どの視角よりみても増加を考えられない様です。確かに此の教はすばらしいものであり、その境地は崇高でありますが、常人のよく到達し得る所でありません。あくまで少数の特殊な人達の歩む世界の様であります。ここに私は此の様に厳しい道でなくて、如何なる人でも考え、到達できるものとして次の事を言いたいのであります。
 「私が生きんことを求め、私の要求の達成や救いを願っている様に世の中の全ての人が同様にそれを願っている。それを求めているのは私一人でなく全ての人である。永遠に他人の要求を抑えて、それを苦しめ悩ませることは出来ない。抑圧されている人達は必ず抑圧している人達を打破して、反対に其の位置につくであろう。全ての人の救われない限りは如何なる人の幸福も満足も危機にさらされ、崩解の可能性をもっているものである」と。
 此の様に考えることは必ずしも難しいことではありません。然し現実に此の様な心を以て、全人類のことを考え、全人類の為に生きることは難しいことでありましょう。でも、「私と同じく全ての人が……私だけでなく全ての人が……」の自覚に立つことは先述の佛陀や基督の教に先行すべきものであり、教育を通して全ての人に此の事を考えさせることは大切であります。佛陀や基督の道は神佛のの道でありますが、此れは凡人の道であります。而も今迄に此の様な考え方が強調され、教えられてきたかと申しますと疑問であります。個人主義民主主義の本義はここにあると思いますが、実際にはその方向に向っていないものを感ずるのであります。此の簡単な道理が全ての人にわかっていない所に亦徹底していない所に愚な相互の対立による混乱と悲惨が生起しているようであります。それと共に逆説的性格の持主である人間が、それの対立、混沌に一段と拍車をかけているのであります。一方に於いて平和の増進に努力する人達があると思うと、その同一問題に対して、他方に於いては破裂に導く様な言動をなしている人達があります様に個人の中に於いても此の対立分裂が強く作用しています。
 人間の行動を導き支えている要求は、人間一般の基本的要求として抽象化して考察すれば容易に統一出来ますが、現実に作用する具体的要求は種々多様な形をとるのであります。
 知識は生命の副作用であり、生命の原動力ではありませんが、その知識が生命の要求を整理し、指導してゆく所に現代知識の複雑化が自然に要求の対立を惹起しているのであります。而もその要求そのものが逆説的に作用する所に愈々真相の把握を困難にしています。確かに見透しのききにくい簡単にかたづけられない世の中でありますが、先の相手に無理解な一方的ひとりよがりの意見を固執し、それを相手に押しつけようとする態度は此の道理を辨えない所の自分だけのことを考えている所から生じたものであり、そこに反って相共に夫々救われんことを求めながら現実には相傷い、相奪い、果ては共に破滅に陥っているのであります。全ての人が救いを求めているものであり、全ての人が救われる必要があると思う者は、換言すれば全人類を対象とし、全人類のことを考えることに出発点をおいているものは意見に於いては対立する所の相手とも語りあい相互に理解しあって、共通の目標である自己の救済、それを可能にする全人類の救済のために協力する筈であります。此の様な考え方は理想論であり、現実を離れるかもしれませんが、厳密に言えば夫々の人が言い掲げている所の窮極の目標は一であり、唯その方法論、過程の相違でありますから、若し本当にその目標の達成を希求しているとすれば、相互に語り合い協力できない筈はないのであります。ここに協力できない筈はないのに実際には協力していない事実を直視し、何故であるか、それは決して超克できないものかどうかを究明する心要があります。若し全ての人達が先述の様な「私が求めていると同じ様に全ての人達が求めているのであり、全ての問題、全ての解決策は唯人間それ自身のために存在する」と、いう簡単な道理を身につけてくれば相互に傷い奪い合って、相共に自滅する様な愚な状態を脱して協力して、共通の目的達成のために最も賢明な効果的な対策が生れて来る筈であります。(此れは現状維持的な協調論でないことは言う迄もありません)
 要するに、もう一歩深く考え、純粋に要求するならば協力できる筈のものが実際には協力していないし、協力しようとしている人達はいますがそれは少数であり弱いのであります。
 何故少数かと申しますと、その様に考ることに導かれ訓練されていないからであり、何故に一歩進んで協力しないか亦弱いかと申しますと、これらの考え方を生みだし、支えているものが殆んど知識であり、先にも述べた様に知識は生命の副作用であってもその原動力でなく、生命の根柢に於いて人間を支配しているもは案外に単純な衝動、意欲であり更には人間の逆説的性格が時として理性で判断できない様な分裂反逆をおこすためであります。以上より私達はこの結論に到達します。その一は全ての人達を充分に長い忍耐力を以て「私だけでなく全ての人が……私と同じく全ての人が……」の考え方を身につける様に教育することであり、その二は強い衝動と弱い知識を一致させて、豊かな知性に裏づけられた強い衝動とすることであります。果たしてそれが可能であるか、それは如何にして可能であるかは後述致します。
 若し、此の二が可能となれば相手に無理解な一方的ひとりよがりの意見を横行させ、世の中を対立と混沌に落し入れ、果ては自分の目的を破壊し、自分の生存さえも危険に陥し入れる様なことをしないでしょう。然し他面人間というものは時として自己の破滅を知りながらその方向に歩み、反ってそこに壮快味を感ずる曲者でもあることを忘れてならないでしょう。甘い人間観察は警めるのでありますが、これらのことを考える時、「何故に人間はもっと賢明にならないのであろう。本当に自分の救われんことを求めているのであろうか。本当に自分を愛しているのであろうか。」と疑問を懐かされるのであります。

 3 私達は「本当に私を愛しているのであろうか。」と、自問しなくてはならない。
 バートランド・ラッセルは「我々の世紀は今迄の所、理論と実践の異常な対照を示してきた。理論の領域では以前の全ての時代を凌駕する驚くべき大功績をあげたが実践の領域では知能的欠陥のある少年犯罪者に於いても殆んどみられない様な怖ろしい惨忍行為がいくつかの強力な国家に於いて行われた」と言っています。人間と世の中を如何にして、一歩前進せしめるかという立場よりの私の今迄の研究に於いても彼の意見を痛感させられると共に、先人の今迄の研究や意見が強力に亦広範囲に実践されてゆくなら、それだけで可成りの程度に世の中は立派に人類は幸いになるだろうと言うことを知ったのであります。勿論その様にならなかった所に猶研究の余地があるというよりも研究の中心課題が残っていると言えましょうし、そこに先の「世界黎明の道」に述べた様に徒らに空想や夢に憧れることなく、現実に基盤をおいて歴史の足跡を現代に於いて超克せんとして、歴史的にみて、実現の可能性のある最上の世界とそれを実現する道を究明する意味があるのであります。未来に於いて実現の可能性のあることを夢み、その実現に進むことも大切でありますが、なんといっても人間は未来的存在であるよりも、より現代的存在であり、未来も現代の中に現代との関連に於いて始めて意味をもつものである所に現代に於いて全人類を最大限に生かす道を考究することが何よりも第一義でありましょう。未来の見透しの下にあくまで現代に於ける最上の道を究明し、それに生きるべきでありましょう。ラッセルの言う様に理論の世界は非常に進歩しながらも、実践の世界は説明の心要もない程に非常な立ちおくれを示しています。「世界黎明の道」に於いて述べた様に知能の発達、科学の発達は決して一方的に人間に善として作用せず、與えたものは必ず他の角度に於いて、異った形で奪っているものでありますが、此の事を考えてみましても、科学の、発達に対して将来にのみ、美しい夢を懐くことは児戯に等しいと言えましょう。勿論だからとて、それを否定したり、感傷的なペシミスムや相対主義に立たんとするのではありません。人間は前進するものであり、退くことも停滞も出来ません。要するに各時代には各時代の生きる道があり、夢や希望は未来にのみあるのでなく、各時代にも夫々ある筈であり、それを発見し創造して、その時代にある所の意見や対策を強力且つ効果的に広範囲に実践してゆけば結構そこにその時代としての好ましい世の中が生れ、全ての人がもっと人生を謳歌し、生きる喜びと生き甲斐を感ずることが出来る様になったのではないかと考えるのであります。
 理論の発達に対して、実践が併行して発達する様に何故対策を施さなかったのか、施したとすれば何故にもっと強力に効果的に施すことによってそれが実現する様に努力しなかったのか?それについて今少し考えてみたいと思います。
 確かに理論の面が長足の進歩をなし、昔は一部の人達の所有物であったものが、現在は非常な速力で広範囲に拡大していっています。然し先述の様に私達の人間行為を導き支えているものを観察すると案外にそれは単純なものであることを知るのであります。知識は無限に複雑化して、けんらんたる様相を示しても、生命の根柢に於いて、人間を支配し、決定的ならしめているものは常に単純な衝動と意欲であります。人間の行動を支配し導いている理論も単純であります。単純ということに於いては未開人も現代人も同じであります。勿論未開人の単純と現代人の単純とは質を異にし、前者は全くの無知より来るもの、後者は諸々の複雑な思索的過程を経て、統一された所のものであります。三千年の先人賢人の言葉が今猶人間倫理に関する限り、殆んどそのまま通用することは倫理的道徳的実践面に於いては古代人も現代人も同一段階に立っていることを示していると言えましょう。然しそれから倫理的なもの道徳的なものについて、唯単に理論的に知ることに於いては彼等先人賢人にまさる現代人は無数に存在するでしょう。断片的であった彼等の意見は体系化され、整然と統一されています。これは学問的には理論の世界の成長と言えましょうが、倫理的道徳的な生きた現実の行為的世界に於ける限りは成長とも進歩とも言えないでしょう。ここに問題となるのが倫理的道徳的な、生きた現実の世界に於ける理論と実践の問題であり、そこに始めて先述の先人賢人の思想を強力に効果的且、広範囲に生かすという課題に向うことになるのであります。三千年の昔の先人の倫理的教えが現在も殆んど同じ形で通用していることは悲しいことであります。何故にもっと、それらの教えが強力に効果的且つ広範囲に実践されなかったか、それによって各時代の人が何故にもっと人生を謳歌し、生きる喜びと生き甲斐を感ずることのできる様な好ましい世の中が作られなかったかについて考えることがここの課題であります。
 此を日本史にてらしてみると、今迄に経済的なもの、現実的なものが軽視され、否定されながら実際にはそれが人の心を支配し、その憧れの中心をなしていたのであります。この事が人間を偽善者にし、ごまかしと要領を身につけた巧言令色の人を育てあげたのであります。佛教と儒教の真髄は巷間に云々されている様な低俗のものでありませんが(説明省略別に論述)その低俗でないことが普通人のよく到達し得る境地でなくなり、そこに其の美しい形骸のみを追い求めて身に粉飾し、宛もそれを体得しているかの様に振る舞う似而非者の横行を招来することになったのであります。佛教儒教は一方に於いて大きな使命を果たしながら、他方に要領とごまかしと巧言令色の人間を育てることに大きな役割を果したと言えましょう。知行一致、霊肉一如ということも一片の美辞令句と化し、心と言草は愈々分裂したのであります。明治以後の知識の発達、教育の普及は愈々それに拍車をかけました。即ち先述の様に知識は行為と離れて、単独にいくらでも複雑化し発展してゆくものであり、その追求発展は、その人に非常に大きな自己満足と喜びをあたえるものであるからであります。学校教育の影響力を考えてみますと、生命と分離し、肉体と遊離した知識を以て、生徒の観察、成績判断の基準となし、その多少を以て人間の優劣を決した事であります。それが何のための知識であるかということは没却されているのであります。勿論これに対して徳育の強調もありましたが此は従来の無味乾燥な、お説教教育の復活であり、具体的実践智、理論的生命智の性格を欠き学校も家庭も社会もお説教教育でぬりつぶされ、果てはそれによって青少年の創造的発展的な萌芽をつんでしまったのであります。ここに於いて私達は空虚な美しい言葉で充されたお説教教育に終止符をうち、今迄の紛飾やごまかしを投げ捨てて裸の生の人間として、もう一度人間の本体に復帰すべきではないかと思います。偽君子、偽善者としてでなく、裸の生の人間として、換言すれば、あるがままの人間として大部の人間の行為を支配している所の衝動や意欲を否定したり、抑圧することなく、それを出発点に於いて、再出発すべきではないかと思います。然し人間の根本的衝動や意欲の肯定と、それにもとずく出発には、非常な不安をもつ人もありましょうが、抑圧し否定してきた過去三千年の歴史が虚偽とごまかしであったこと、そしてそれによっては好ましい世の中が生れなかったと言う事実を、よくよく考えていただきたいのであります。今迄にしばしば述べてきた様に人間行為を殆んど決定的にしている人間の根本的衝動や意欲を従来と同じ様に否定し抑圧してゆこうとする空虚な夢を捨てて、今後は此を肯定しながら、如何にして、それに、よりよい方向を辿らせるかに私達の究明はむけらるべきであり、亦そこにこそ歴史を知る者の姿があり、歴史を現代的に超克せんとする人の態度があると言えましょう。人間の本性を否定し、抑圧しないで、それを如何にして人間の至上至高のものを追求してゆく方向に導くか、亦それを如何にして創造してゆく原動力とするかを究明することが、新に生起する重要な課題となりましょう。
 此では人間の根本的衝動や意欲を肯定し、それを出発点に置きながら、その衝動や意欲をして、人間の至上至高のものを追求せしめ、理論と実践のすばらしい統一を生みだすには如何にしたらよいか、亦それは果たして可能であろうか?私は先ず次の様な自問自答から出発したい。
 「私達は要領や虚偽やごまかしが多いために、若し他人に見抜かれはしないかと常に不安に満されている。此の様な心で日々を過していることは果して賢明なことであろうか?真実が暴露された時自分の位置は再び取り返すことは出来ないのではないか。此は本当に愚なことである。然しそれを知りながら猶私の心の中には、他人によく思はれたい、よく見せたい、敗けたくないという心が作用してそれを抑えることは出来ない。でも此の様な生活のつづく限り、将来には不安と行詰りはあっても、安心と開拓はないのではないか。私達は今迄に余りにも人の心に生き、人の眼を恐れてきた。私が今迄通りに不安と行詰りの一生を過すか、進んで安心と開拓の世界に入るかは私の好むままである。私は現在の不安と行詰りと言う惨めな情ない状態に満足しているのだろうか。此の虚飾、此の要領が一体私に何を與えているのであろうか?こんな状態で私は本当に自分を愛しているのであろうか。愛していると言えるであろうか」此は一例であって、此の外に自分の日々のことを考えてみると此に類することが如何に多いことか!
 本当に自分を愛していると、自分にも亦他人に向っても断言できる人が幾人あろうか?
 客観的にみて、私は本当に自分を愛し生かす道を進んでいると言われる様な人が幾人あろうか?美しい自分、立派な世の中を希求しながら、その様な自分と世の中を育てあげることに努力しないで、不満と愚痴の日々を送っているのは本当に自分を愛していると言えようか?過去の先人賢人の道を賢明に強力且広範囲に実践して、よりよい自分と世の中を形成することに努力していないのは真に自分を愛していると言えようか?全人類の救われない限り如何なる人の救いも危機にさらされている時、得々と自分一個人の救いに満足している人は本当に自分を愛していると言えようか?」と。私達は若し誰かによって「貴方は自分を愛していますか?」と問われて、「愛する」と答えないものはないでしょうし、亦「貴方は自分を愛していない」と言われると、屹度「そんなことはない」と断言するでしょう。然し果して世の中に「自分は真に自分を愛している」と断言出来る人が幾人いましょうか?特に客観的にみた時如何でしょう。私達は愛するということを余りにも軽々しく考えてはいないでしょうか?佛陀は自利利他を説き、基督は「汝等己の如く、汝等の隣人を愛せよ」と教えましたがここに於いても先の「私と同じく全ての人が求めている」といふ簡単な道理を知ることを先決と致しました様に「私は本当に自分を愛しているのであろうか?若し自分を愛するなら、先ず自分自身を愛し抜く人になろう」と言うことより出発したいと思います。此の愛こそ、人間の根本的衝動であり、意欲であり、最も強烈なものであることを否定するものはないと思います。そして全ての衝動や意欲は自己保存という要求に統一出来、自己保存の要求は換言すれば自愛と言うことになります。然し現実には此の自愛が否定され抑圧されると共に他方には無知のために此の自愛の愚行が自滅を招来しているのであります。普通一般には愛には愛が、憎しみには憎しみが、剣には剣がかえってくる事を知るものは自分を真に愛し生かさんとすれば、自然に他人を愛するでしょうし、すぐれた批判力、判断力、洞察力なしには、自分を幸福に守ることが出来ないことを知る者は批判力、判断力、洞察力の養成に心然的に向いますし、自分を真に愛さんとする者は当然に全人類を愛するに至ります。先の理論と実践の分離も虚偽やごまかしも全て自己の愛し方の不充分より来ているのであります。此の様に考えますと、愛を出発点とする所に不安がないばかりでなく、強い衝動と弱い知識を統一する道も開け、理論と実践の統一に希望をもてる様であります。

 4 強力な実践智、生命智は如何にして可能か。
 以上に於いて、愛衝動を出発点とし、それを導き支えとしてゆく所に実践智、生命智への希望を持ったのでありますが、ここではその愛衝動を益々自覚的に強烈にすることと併行して、その実践智、生命智に具体的と現実性を與えると共に、その憂に方向と内容を與えてゆくことを考えてみたいと思います。
 今迄にしばしば述べてきた様に、生命の副作用であっても、生命の原動力でない所の知的作用が生命以上のものでないこと、生命以上の働きをしないことは余りにも明白のことであります。生命の一面的部分的作用であり、生命の所産である知識が生命を支配し、包含することは出来ない。生命を支配しているのは衝動であり、知識は、それを指導したり、それを警告する位置しか與えられていない。然し此の様な知識が衝動と一になり、生命そのものになって作用し活動することも可能であります。これが信仰の世界であり、信念の世界であります。普通インテリゲンチャは弱いと言われていますが、それはまだ生命と遊離する知識の段階に立つからであり、宗教家や主義者の強さは信仰や信念から生れたもの、即ち生命衝動と知識が統一し融和された所より生れたものであります。無知や狂信から来るものは多いのですが、何れにせよ、強いことは否定出来ない事実であります。ここでは無知や狂信から来る強さについて述べんとするのでなく、強力な具体的実践智、理論的生命智への可能性を考察したいのであります。それには先ず「私達は私達自身の中に探求の旅を始めるのです。そして私達は私達の要求、私達の希望の根源を深く探り、私達の心の最も至深所から根をはっている要求と希望をさがし、それなしには、それを抑圧される時には生きる心地も失せる様なものを発見するのです。誰に向ってでもなく、自分自身にむかって、ひとり静かに質問しながら深く強く答を求めて、自己の中へ中へと掘り下げてゆき、私のゆく道は、これ以外にはない、私は此の要求の達成に生きないではいられないと言う所の、内なる要求を発見し、それに全身を委ねるのであります。青年期の読書は此の未知の内なる要求を発見する所に第一義があります。此は忍耐を要する至難の道でありますが、生命智、実践智の第一歩であり、自己を愛し生かすために、生命智、実践智の不可欠を知るものは此の至難の道に堪えてゆくでしょう。此の様にして生れた所のものは私達の生命の延長であり、必然的要求であります。此の生命の延長として、必然的要求から出発するものは、如何なるものよりも強力であり、永遠であり、絶えざる発展をつづけるものであります。私達は智的作用を媒介として、此の要求希望を発見し、再び知的作用によって此の要求の希望を、より豊かに、より立派に育てあげてゆくのであります。その要求希望が単なる自己満足や独断に終わらないで、真に自己と他者を最大限に生かしてゆくことの出来る様に育ててゆくのであります。然し、それは、厳しい困難の道であり、早急に解決を求めようとしても不可能ですし、私達はあくまで忍耐強くごまかすことなく、逃避することなく、その解決を探しつづけるのです。而も単に観念的でなく全心身的に追求するのです。そして私達の心の至深所に於いて発見した要求や希望に則して、何時如何なる時も此を出発点とし、此を肯定しながら生きてゆくのです。他人は非難し軽蔑しても、それを恐れてはなりません。私達は此の内的要求、生命的必然的要求の自覚的成長が必ず次第に深く広く豊かな認識を生みだすものであることを知って、勇敢に忍耐強く、其の道を進むのです。そこに始めて知識の成長が同時に私達自身の成長となるのです。即ち知識が自己自身と遊離して、外からいくらでも、たくわえられるのでなく、深い内面から私達の要求衝動と共に成長し深化してゆくのであります。私達は静かに忍耐強くもちこたえ、内部から充実し成長してくるのをまたなくてはならない。而も内部からの必然的要求であるところに、その前途が如何に不安であり、障害が横たわっていても、たとえ亦始めは畏怖が伴っていても、それに突入しないではいられないでしょう。如何に見透しのききにくい不可能に見える事にも突入してゆくでありましょう。かかる要求はそうすべきである、そうしなくてはならないと言う義務意識からでなく、そうせずにはいられない、そうしないではいられないと言う生命活動となるのであります。此の様に考えるとき、現代の知性に対する不信、或は知が反って人間を弱くし怯惰にするという見方は反省の余地がありましょう。然し此の様に内的必然的要求に出発し、その要求を深く広く豊かな知性によって、醇化し深化させ、真に自他を最大限に愛し生かす道を進もうとすることを、とどめる人達があります。成程、その進み方は、不完全であり未熟かもしれませんが、彼等と共に歩んで、それが成長深化する様に援助する理解と愛情はなく、常に危険視し、抑圧するのであります。果ては若いと言って軽蔑し嘲笑するのであります。新しい見透しのききにくいことに対して、何でも始めから、不可能と思い込んでいる畏怖と遅疑が常に世の中を旧態依然としているのであります。前代末聞のことさえ可能であり、歴史は常にその内的必然的要求とその要求に猛進する勇気によって創造発展してきたのであります。何ものに対しても覚悟のあるもの、何ものをも恐れ拒まないものだけが常に人生を創造し、自らの独自の人生を残りなく味わうことが出来たのであります。そこに畏怖があるとすれば、それは私達自身の畏怖であり、そこに深淵が感じられるとすれば、その深淵は私達の生みだしたものであります。勿論私は青年の無暴をそのまま肯定しようとするのでなく、そのために叡智の体認を強調すると共に、他方、生きる力、一切を味わい生かしてゆく力、運命を超克してゆく力を身につけることを第一としたのであり、此の叡智と此の力を身につけたものは、如何なるものにも恐れ拒む心は消滅するでありましょう。青年の単なる客気は、警められなくてはならないとしても、否定され抑圧されてはならない。青年は真摯に先輩諸氏の忠告や見解に耳を傾けながら、歴史の足跡を徹底的に見究めて、世の中の発展を阻害しているものに鋭い観察を與えて、強力に効果的な対策を遂行しなくてはなりません。甘く浅い観察の下に軽率な判断をなし、それの超克に一時的瞬間的情熱のとりことなることは愚なことであります。それと共に先輩も彼等への指導協力を惜しんではなりません。青年時代には大人の無気力と無理想を非難し攻撃していた青年が、大人になると、曾つて非難し攻撃していたと同じ言葉を次の青年よりうけており、曾つて亦青年時代に大人達によって投げかけられた言葉を悲哀のうちにうけとった彼が逆に次に来る青年に対して、同じ言葉を浴せかけている事実は何を意味するのでしょうか?青年は人間的堅固さの体認に努力し、大人は青年性の復活につとめ、両者はもっと相互にあゆみよることが大切と思います。要するに私達現代人はもっと賢明になるべきであります。青年は強力な実践智、生命智を体認するために、自己の内的必然的要求に出発して忍耐強く前進し、周囲の大人達は、長い眼を以て彼等の成長を見守り、根気強く育てあげなくてはなりません。然し現在では逆に抑圧し否定しているのであります。即ち彼等青年の理想を或は狂愚と言い、或は世間知らずの若さであると軽視し侮蔑さえするのであります。そこに青年の一部は無気力と化し、理想を追求する意欲を喪失し、その変わりに自分一個人の立身出世を求める様になります。それを親達や社会の人達が欲し求めているからであります。反対にあくまで理想を追求してゆく青年は、その理想の不完全故でもありますが温い理解とすぐれた指導をうける変りに世間の白眼と侮蔑をうけて、そこに反逆性や反抗性を激化し、或は熱狂的追随者や盲目的指導者になってゆくのであります。そして少数の真の理想主義者達は苦難と孤独の一生を涙の中に送り死後始めて讃美されるというのが歴史の示す事実であります。私はここに更めて、「我々はもっと賢明になるべきでないか」ということを繰返したい。私の自問自答は依然として同じであります。「我々人間は心の底より、自分を愛し、幸福を欲しているのであろうか?本当に私達は世の中の前進を欲しているのであろうか?」と。
 私は此の質問の前に一ヶ年間約二百名の青少年を対象にして調査してきましたがその結論は寂しいものでした。そして此の寂しい結論の生みの親は大人達の無気力、無理想であり、青年への無理解であることを知りました。世の親達は自分の子供の事しか考えない、子供の目先きの事しか考えない、無智なエゴイストでした。青少年にとって最も恐しい敵は現在の世の中に充満している所の「正直者は馬鹿をみる」「私一人一生懸命にあくせくしても、どうにもなるものではない」という考え方、而もそれを自分のことだけにとどめているのであれば、まだよいのですが、世の親達は「お前だけその様に、やっきになってもどうにもなるものでない」と言い、世の中の人達は、「あれは夢想家だ、一体あれがいつまでつづくか見ものだ、あれは青年時代の一時の夢だ」と言い、友達は「あいつは馬鹿だ、要領を知らない、変人だ」と言う態度であります。青少年の良心や理想性は成長と共に社会の雰囲気の中に次第に消滅してゆくのであります。亦消滅しないまでも、まひさせないと生存できがたい世の中でもあります。では何故に、正直者が馬鹿をみる世界であれば、馬鹿をみない様な世界に、一人でどうにもならないなら協力してゆく様につとめないのでしょうか?此の質問こそ世間知らずの青年の甘さであり、若さかもしれませんが尊い気持ではないでしょうか?
 だからとて此に無理解な人達に理解を求め、此の道に進む青年に対する協力を求めると言う消極的態度に終わらないで、積極的に青年は協力して、此の道を断乎として進むべきであり、そこに現代社会の重圧を超克して、あくまで世の中の前進向上を生みだそうとすれば、実践智、生命智の体得が先決となります。実践智、生命智への道については述べましたが実際に現実の世界に於いて、此を可能にする道は至難以上の至難であり、此を可能にする対策こそ現代の最緊要の課題ということも過言でないでしょうし、亦そこに始めて、今迄に述べた第一、第二、第三の考え方、態度も実際に生きてくるでありましょう。では、それは如何にして可能でしょうか?

 5 人間育成の道
 以上色々と述べた所のものは結論すれば、新しい人間を新しい構想の下に育成しなくてはならないのではないかと言うことであります。換言すれば、今迄のものではいけないと言うことにもなります。此の事は先に私が今迄の意見や対策が強力に効果的且広範囲に実践されるなら、それだけで結構可成りに好ましい世の中が実現されるだらうと述べましたことと相反する様ですが、今迄のものがいけないというのはその意見や対策が強力に効果的且広範囲に実践されていないことを意味し、新しい人間新しい構想とは、普通に使用されている様な別個の新しいものを意味するのでなく、今迄のものを充分に綜合的効果的に活用してゆくことを考えているのであります。言いかえれば先人が血と涙を流して創造し開拓して私達に残してくれたものを尊重し、真にそれを生かしてゆこうということを企図するのであります。
 先ず第一より第四迄に述べた所の新しい人間というものをまとめてみますと、
 第一はありとあらゆるものが人間それ自身のために存在しているのであり、夫々の人は夫々の立場からその中の何れかを追求しながら、同時に一様に全ての人が自己の心に生きんとしていることを相互に再確認した人間。
 第二は「私だけでなく全ての人が、私と同じく全ての人が」の考えに到達した私達は更に進んで「他人を抑圧して自分のみに生きんことを欲することは果して真に自分を愛しているといえるのであろうか、その様な状態で本当に私の幸福は確実であり、永遠であろうか」との反省に立って、そこから全ての人を対象とし、全ての人を最大限に生かす所の叡智の必要を痛感してその方向に進む人間。
 第三は強力に作用する生きた実践智は人間の内面的必然的要求に出発しそれが自覚的に成長したものでなくてならないことを知悉してその方向に忍耐強く、どんな障害にも困難にもうちかって前進してゆく人間ということになります。然しこれが現実の問題になると至難以上の至難さをもっていることは今迄にしばしば述べた通りであります。ここでは「世界黎明の道」の中で人材教育について述べた以外のことに主としてふれてみたいと思いますが、あの論述が前提になっていることは申す迄もありません。如何にして以上の三点を身につける方向に進むか?実践智生命智は各自の創造物、各人の独占物であって決して他人に移したり與えたり教えたりすることのできないもの、若し実践智生命智を体認しようとすれば各人自らの精進と探求を通して創造する以外にないことを先ず私達は知る必要があります。先人の他人の如何なる卓越した解決も、単に知識面に於ける暗記であれば問題でありませんが、唯それだけでは自分の解決にはなりません。
 知識が生命の一面的部分的作用である限り、知識の上の解決で生命そのものの解決の訪れる筈もないのは当然であります。私達は今迄に余りにも学校生活を通じて唯生命の一面的部分的作用である知識の習得に追いまわされ、而もそれが全てでありました。私達はそれを疑うことも知りませんでしたし、亦教えられませんでした。私達が容易に遭遇致しましたのは極端な知識の否定論者であり、無用論者でありました。此の用な時代錯誤的なものが問題にならないのは言う迄もありません。勿論これら両者の何れにも属しない実践智生命智の流れがありましたが、学生の多くは接する機会に恵まれませんし、恵まれてもその方向に進む限り、親や教師や一般社会人の好まぬ学生となったのであります。それは学校智学問智と実践智生命智の分離対立にもとづきます。果してこれらは分離し、対立以外に道のないものでしょうか?否と明瞭に断言できます。学校智は、学問智は勿論実践智生命智を創造してゆく根柢となるもの、そして学校智の成長である学問智は実践智生命智に裏づけられることによって始めて生きた知識となるのであり、逆に実践智生命智は学問智に導かれて、真に自己と全人類を最大限に生かしてゆく最高の実践的叡智にまでたかめられるのであります。然し現状に於いて此の智が対立し、此の対立に悩んでいる学生があり、此の学生こそ真に生きた学問智、生命智の方向を辿っているのであり、将来性ある学生でありますが、反って親や教師や一般社会人の無理解と抑圧により、此の真摯な魂は仆れてゆくという傾向でありました。
 学校の成績で人間の一切を判断する世の中を恐れます。勿論それを全面約に否定せんとするのでなく例外をみとめない画一主義を恐れるのであります。それは常に優秀な魂が此の例外に属するからであります。学校の成績で人間の良心や真摯さをも決定する世の中を恐れます。成績通りである場合もありますが実際にはそうでないことが多いからであります。要領や虚偽や真に生きた力のない空虚な力を身につけて社会に送りだしたのは親であり教師であり一般社会人であります。学校の優等生は必ずしも社会の優等生でなく、学校の劣等生を必ずしも社会の劣等生でなくしたのは親であり、教師であり、一般社会人でありました。学校社会と一般社会を分離させたのは親であり、教師であり、一般社会人でありながら、学校教育への不信を言っているのは彼等自身であります。性格的破産者は別として、世の中に反逆的とか不真面とか、厄介な困り者とか言われている青少年の多くが最も良心的であり、正邪善悪に最も鋭い感覚をもっている人達であること、而もその青少年を其の様な世界に落ちこませた原因が自分達自身にあると考えている親や教師や一般社会人は幾人いましょうか?
 青少年を彼等自身のために愛し、世の中の前進向上を欲している人達は真に生きた学問智、生命智の方向に進んでいる青少年に深い理解と温い愛情をもって戴きたいのであります。世の親達は自己満足的の感情からでなく、子供そのものへの愛情に生きて戴きたいのであります。親や教師は此の生きがたい現実界に生きてゆく生徒に対して、真に役立ち、為になるものは何であるかを考えて、それを基にして終始生徒に当たって戴きたいのであります。勿論此等は希望であり、現実には無理かもしれません。然し青年は世の中の前進向上のためには世の中の此の様な障害をのりこえて、あくまで実践智、生命智の体得に進まなくてならないのであります。ここに「世界黎明の道」に於いて述べた様な三種類の青少年を対象としてその徹底的深化成長を助長し援助する人間道場を考えるのであります。良師良友を必要としている青少年には良師良友を温い愛情と深い理解を必要としている者には理解と愛情を静かな休息と自己沈潜の時場を必要としているものには休息と孤独をあたえ得る道場の設立を考えるのであります。要するにここは人間として、自己に真摯に生きることを通して、自己の進む道をそのまま真理と法則にまでうちたてるべく、血みどろに精進してゆく青少年の自由自在な人間道場、自己形成道場であります。青少年が無理解から来る無視と嘲笑と侮蔑の中に猶一人敢然と健やかに豊かに生きてゆくことは至難であり、大抵途中で仆れるものであります。亦仆れない迄も一人進むために、その深化成長はかたよる傾向と共に充分な成長を生じないのであります。彼等は相互の理解と協力により世間の無理解と侮蔑をのりこえて、弱い心に鞭うち、仆れんとする心を支えあって一歩一歩と自分を育ててゆくのであります。彼等の成長を殆んど決定的なものにするのは良師良友であります。亦現代の殆んどの日本人に見られる一方的一面的な狭い視野と他者への無理解な態度は早く自己の立場を決定して、その研究にのみ終わって他の面を見ることが出来なかったためでありますが、そこに此の道場に於いては、あらゆる方向に進みつつある青少年が相集って、相互に相手の真摯な意見に耳を傾けて、ひとりよがりにならない様な広く豊かな視野をもつ様に切磋しあうのであります。彼等は意見を異にしても相互に相手の真摯さと情熱にふれ、「全ての人が夫々の立場から真摯に夫々の問題を追求しているのだ」と言うことを知ることによって、ひとりよがりの自惚や無理解を警めて、相手の意見に謙虚に耳を傾け進んで協力しようとする態度を身につけるでありましょう。此の道場に学ぶ人達はたとえ相互の意見や進む道は異っても全人類を対象として、全人類を最大限に生かそうとする心、その心を実際に強力且効果的に進めてゆくためにありとあらゆる意見や対策を綜合的に活用してゆこうとする態度に於いて志を同じくする人となるのであります。彼等は相共に学び生活することを通して、新しい人間としての三の条件を実際に体得することにつとめると共に各自の理想を愈々益々純粋にし、個人的感情を超克する態度を学ぶのであります。かくて青少年時代に相共に全人類光明の道をひとすじに進んだ経験は将来道を異にしても協力と友愛への可能性をもつでしょうし、新しい人間の前には相手に無理解な一方的ひとりよがりや、自惚はなく、自分を愛することにもっともっと賢明になり徹底致しましょう。
 今迄に人間の示した足跡は余りにも狂愚でした。自己を愛し生かさうとする共通の目的の前に立つ人間達が逆にわずかの意見や方法の相違、一寸した感情の対立で、相傷い、相奪って、相共に滅んでゆくという愚を繰返してきたのであります。若し現代人が従来の様な共に滅んでゆくと言う様な自分の愛し方を嫌って、自分を出来る限り生かしてゆこうという要求を真に懐くなら、此の辺で愚な繰返しをやめて、もっと賢明になるべきでありましょう。亦賢明になる様な対策をなすべきでありましょう。
 今迄に此の様な教育が対策が強力且効果的に広範囲に企図され、実施されたでしょうか?
 歴史に学び、歴史を現代に於いて超克することに果して充分に真摯であり賢明でしたでしょうか?
 私達は本当に自分を愛し生かす道を教えられてきたでしょうか。
 私達は何故にもっと自分を愛することに真剣にならなかったのでしょうか、
 過去のことはさておいて今後私達は依然として今迄通りの道を歩むか、それとも此の様な進み方に終止符をうつために全智全能を傾倒するか、私達は現在その岐路に立っています。而も現在に於いて為す狂愚は従来の如き、かりそめと、かたづけることの出来ない恐しい時代になっていることは説明の必要もない程に明瞭な事であります。
 要するに一切は人間に於いて意味をもち、問題となり、それによって解決されてゆくもの、社会改造にしろ、宗教改革にしろ、或いは私の考える最上の世界の実現にしろ、全て其の人を得て始めて可能となる限り、その様な人間を育成することが第一歩となることは余りにも明白であります。そこに此の道場の目標はそれらのことについての上手なおしゃべりのできる人間を養成するのでなく、これらのことを出発点とし、実際にその様に生き、其の様に行為する人間を育成するのであります。実践智、生命智の体認は自己の内的必然的要求を発見し、それを出発点とし知的作用を媒介としながら静かに忍耐強く内から充実してくるのをまち、而もそれが単なる独断や自己満足に終わらないで、深く広く豊かな認識を生みだすためには、それにふさわしい自己発見と自己形成の場が必要であります。
 早急な自己発見も自己形成も不可能であり、其の上に亦現在の学校の授業と社会の喧噪の前に愈々それを困難にしています。特に現代に役立つ様な人間でなく、次代を背負って、その方向を指示しながら導いてゆく人間の育成を企図する以上、長い眼と強い忍耐力を以て彼等青少年の育つのを見守り援助しなくてはなりません。人間改造、人間革命は一年や二年の短時日では不可能であり、数ヶ年を費して必ずしも可能と断定できないものであります。其の上に次代を指導する識見の把握が益々困難さを要しています。そこに此の道場が特殊の性格と環境をもたなくてならないのであります。特に自己沈潜による内的要求の発見、それを出発点とする漸進的成長を可能にするためにとるべき処置は最も大切であります。今そのために次の三つが考えられます。それは人間と書物と体験の豊富さであります。如何なる人間と書物と体験が最も効果的であるかについて考えてみましょう。人間に内面的自覚を喚起し、大きな変化を與えるのは傑れた人間の魂であり、生き方であります。その人の深さ、豊かさ、逞しさは自然にその接する青少年に豊かさ、深さ、逞しさを感得させます。深い理解と温い愛情に並行する激しく厳しいものが青少年を強く育てあげ、途中で挫折させないで最後迄追求してゆく支えとなり、依り所となります。此の道場の特色は一の理想と一の生き方を教え與えんとするのでなく、塾生自身がそれらの人達の思想と生き方を媒介として、常に新しいもの、常によりよいものを自己にふさわしく創造体認してゆくのであります。そこに教育を直接に念頭に置く人でなく、唯々各自の理想をもち、その理想に憧れながら、日々其の向上実現にむかって全情熱を捧げている人達が本道場に於ける最もすぐれた教師であります。
 塾先はかかる人達に接することによって未だめざめない魂をその根柢よりふるいたたせ、あくまで理想を追求して生きる人間の尊さ、偉大さの前に或は感激し或は決意するでしょう。
 次に書物では何よりも先ずすぐれた伝記、日記、手紙、手記、自叙伝に接し、大いなる魂、大いなる生き方にふれるのであります。
 現代の青少年が人間としての在り方、生き方を人生の最も重要な問題として、真剣に探求し、体得していないことは恐しいことであります。私達は何よりも先ず人間としての最もすばらしい、最もすぐれた生き方の探求、体得に向わねばなりません。それには伝記、日記、手紙、手記、自叙伝に接することが最もよく、それと並んで人間成長の過程をとりあつかった成長文学であります。成長文学が青少年の魂を育てあげる感化力は絶大であります。かかる文学によってすばらしい人間革命をやった幾人かの人を知っています。(それらの書物が何であるかは別に「人間形成の道」の中で述べます)
 次は体験でありますが、知識が実践智、生命智として体認されるのは体験を通してであることは余りにも周知の事であります。然し体験が必ずしも生きた体験として好ましいものになるとは限らないこと、体験の重要性を強調しながら、世人の多くは危惧していること、亦その危惧が体験の必ずしも生きた体験となるとは限らないことを示していること等を考えなくてならないことを言うと共に此の前に立って青年は畏怖することなく、その体験を真に生かしてゆく様に精進し、周囲も援助すべきであります。青少年にとって最後の依り所、最後の非難所として、周囲に誰かを発見していれば如何なることも彼等を亡ぼすことなく、その過程に於いて非常に無暴な危険に見えることでも反って最後には、すばらしい体験は常にきわどい危険な体験の後にのみ得られるものであります。私達は何よりも体験の此の厳しさを知らなくてはなりません。然し私達は此の至難の道を克服して現代超克の先達としての自己を育てあげるのです。愛の行者ペスタロッチの次の言葉は経験の尊さを教えるものであります。
 「私は当時人民の幸福ということを措いて外に私の一生の目的として何事も望願しなかったし、又今日でも其の通りで変わらない。人民は私自身の愛するところであり、それは私自身が既に彼等と同じく貧窮に苦しみ、これに堪えてきたのであるから彼等を悲惨なるものとして自ら感ずるのである。」と。

三、結び
 以上色々と述べましたがこれは現代超克の道としての新しい人間の育成を新しい構想の下に考えたのであります。
 現在各方面のどの意見に耳を傾けましても教育を第一義とし、教育にのみ希望のもてることを強調しているのであります。その様な性格の最も一貫して、強く出ているのは「ここに希望あり」の書物でありましょう。然しこれは強調であり、現在の所その様な教育の行われていないことを示しているもの、ここにも此等の意見を単なる意見に終わらせないで強力に具体化することが必要であることを痛感致します。
 此の教育の成否に現代超克の成否がかかっていると断言することは果たして過言でありましょうか?
 皆様の御批判をお願い致します。
 皆様の御協力をお願い致します。

            昭和二十五年五月五日

 

                <「大地」2 目次>

 

 

         『最高智研究所設立案』

 

 (1)研究方針
(イ)常に現代の直面する問題の具体的研究をすることによって、当面の課題を解決する最高度の叡智の創造を企図する。
(ロ)その為に各部会、各種研究会を開き、更に綜合研究会を開く。
(ハ)他の学会、研究所と密接に連絡をとり、その指導、協力を仰ぐ。

 (2)活動方針
(イ)一切の活動、一切の研究の中心的推進力、亦一切の対立の発展的調停者として活躍。
(ロ)全ての人、全ての主義を無視否定することなく、夫々の人、夫々の主義をそれらに則して、成長発展させ、生かしてゆくように活躍する。
(ハ)そこに現代社会の道開きと共に後詰の役割を果たす様に活動する。

 (3)研究所員の資格
(イ)人間教育所に於いて、人間性の根柢を確立し、人間研修所に於いて、現実の世の中と人間の中に磨かれぬいた人道主義者であること。
(ロ)人間を愛する為に、社会の不正、不義、矛盾、混乱を悲しむこと、亦悲惨な人達に涙すること最も深い人。
(ハ)世の中の発展法則を知る故に、固定化と権威化を最も恐れ、永遠に進歩向上を期する人。

 (4)当研究所の使命を永遠ならしむる条件
 釈迦の真精神を没却したのは、釈迦の徒であり、親鸞の南都北嶺への批判を、自らの宗教に対する批判にしてしまったのはその徒であり、人間解放を念じるマルキシズムが逆に人間を奉仕せしめているのはマルクスの徒である。
 恐るべきは、その真精神を知らない追随者迎合者である。当研究所がその様になりかけたときは、直につぶすべきである。

 

                  <「大地」2 目次>

 

         『人間研修所設立案』 (四月開設の見込)

 (1)研修所の目標
 当研修所は、教育活動の広範囲な多面的性格と教育の独立改造のためには、広く多方面の協力が必要であるとの見解の下に、所謂学校教師のみでなく、広く教育の何たるかを知って、教育を愛し、教育の向上を念願する人達が集まって、人間と世の中を研究しながら、何よりも先ず自己自身を人間に育てることを念願とする。勿論教育の直接の担い手は、教育家である所に、教育家の研修の目標を略記しておく。

 (2)教育家研修の目標
(イ)子供の心理的発展についての専門的知識と技術を体得し、真に子供の理解保護の人。
(ロ)人間と世の中に対する豊かな見識をもって、子供の生き方、進み方に周到な助言の出来る人。
(ハ)人間性に対する絶対的信頼をもって、子供の永遠の協力者となれる人。
(ニ)子供を衷心より愛するのみでなく、世の中の全ての人を理解し、彼等の如何なる悩み、苦しみをも理解し、彼等の如何なる罪、誤りをも許し、更にはそれを自己の罪と感ずる人。
(ホ)人間育成に、更に理想社会建設に捨身の情熱を以て、直往する人。
 然し以上を貫くものは、唯一の最も人間らしい人間と云うことである。もはや教育家に聖人君子を求めない。唯求むるは自己に忠実に生きる人間である。

 (3)研修の方法
(イ)教授法の研究は従であり、教育精神の体認を主眼とする。
(ロ)土、日曜日にかけて、起居を共にし、相互の切磋琢磨によって、自己の深化拡大を期す。
(ハ)宗教、文学、映画、演劇の研究を通して、世の中に於ける人間の真実の生き方の追求体認を期する。
(ニ)宗教、哲学、美術、音楽を通して、豊かにして深い人間性の確立を期する。
(ホ)勇敢に広範囲に現実の社会の探訪を志し、人間の実体と世の中の実相を把握感取する。

 (4)研修の目的を達成する外的条件
(イ)教育家と教育学者と教育行政官の綜合的研究、統一的施策の方向に強力且つ広範囲に進み、一般の積極的協力後援を可能ならしむるに足る運動を推進する。
(ロ)教育界の独立、地位の向上が不可欠、現在迄教育家は余りに悲惨であり、軽蔑されている。教育家が悲惨であり、軽蔑されている限り、子供は幸福にも豊かな人間にもなれない。
(ハ)教育家を過去の過大な要求から解放し、人間としての位置を與えなくてはならない。教育家に対する過大な要求、非人間化的要求が教育家を無気力と偽善に追いやったのである。
(ニ)研究所員は藤園会員と一致して「教育こそ一切に先行するもの、教育こそ一切の母胎である」との自覚の下に一般の啓蒙運動を通じて、教育意識の向上に邁進しなくてはならない。

 

                  <「大地」2 目次>

 

 

       『人間教育所(藤園塾)の教育』

                (第二藤園友愛塾四月大阪に開設の見込)

 (1)教育の対象
 本塾に於ける教育は、十四才より、二十才に至る、第二の性格形成期に当たる、あらゆる層の青少年を対象として学校職場の相違を離れて、実施する。

 (2)教育の目標
 巻頭に記した通り。

 (3)教育の方法
(イ)塾生と起居を共にし、躬ら右に示す真人の生活を追求且つ行じ、その間に塾生をして感得体認させる。
(ロ)人間性に対する絶対的信頼と青少年に対する深い理解と温かい愛情を以て塾生に当たり、塾生に対する如何なる抑圧も固定した規則をも廃し、塾生自身をして徹底的に諸学問と諸生活を通して自覚的に創造体認させる。
(ハ)塾生活は学校生活、職業生活、其の他あらゆる一般の生活との密接な関連の下に成立させ、これら諸生活を統一的全体的に味わい生かし、体得させることによって人間生活の基盤を確立させると共に、特に人間性の覚醒、深化、拡大、確立のために一般教養を中でも先人の伝記、日記、手記、手紙、成長文学、其の他あらゆる宗教、芸術に親炙させる。
(ニ)共同生活を通じて、人為的集団の生活に堪え得ることを学びながら、其の生活を含む所のあらゆる諸生活の直面する問題の科学的究明をなして、その問題と取り組み、それらの諸生活を更に形成発展する能力を体認させる。
(ホ)塾生の辿る道は如何なる道であっても、勇気と忍耐を以て彼と共に歩み続け、彼等の感情の自然的充実の日をまつ。
(ヘ)塾生相互の切磋の機会を出来るだけ多くし、多面的広範囲にする。此と並んで見学旅行を最大限する。
(ト)あらゆる方面の人材に親しく接して、人間的感化を受ける機会をつくる。

 (4)入塾の資格
(イ)塾生の認める限り如何なる人でも入塾できる。
(ロ)入塾機会均等のために各自は食費の実費のみ負担する。

 (5)青少年の相互の切磋啓蒙の為に機関雑誌「大地」を発刊、本号は第二巻第一号。

 (6)附属道場設立の計画中
 良師良友を必要とする青年、温かい愛情と深い理解を必要とする青年、静かな休息と自己沈潜の時場を必要とする青年達の要求を満たす条件を具備した道場。 

 

                 <「大地」2 目次>

 

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