「第三の大学……創価大学 激動の現代を生きる若者の論理

 

 本書について、池田諭氏の文章が『出版ニュース 「わが著書を語る」』に掲載されていたので、ここに紹介する。
 「今日ほどすぐれた思想革命、学問革命を必要としている時代はないというのが私の現代観、歴史観です。最近の大学革命が十分に成果をおさめることができなかったのも、それを指導する思想、学問が十分に明らかにされていなかったためと思います。そういう観点から、今後の宗教、政治教育はどうあるべきかを追求したもの、特に、それを新しい創価大学の課題と結びつけて書いたのが本書です。」(1970年8月上旬号)

            1999年9月  池田諭の会

 

 

   はしがき

 教育とは、人間にとって、また、人類にとって、永遠の課題となりつづける本質をもつものである。しかも、その教育が常に強調されながら、今日まで、全体としては、その成果をみることができなかったのは、教育そのものを、他者に対する活動とのみ考えて、自分自身に対する教育であることを考えなかったことにある。
 かつて、すぐれた教育活動をなした人々は、すべて、教育を、自分自身に対する教育と他者に対する教育とを統一的にとらえただけでなく、前者により多く比重をかけたものである。自分自身への教育を忘れた者は、教育者としての資格を忘れたものとまでいいきった人もいる。
 そのことは、小学教育でも、大学教育でも全くかわらない。今日、学校教育が混乱し、その成果があがらないのも、そのためである。たとえ、人間教育とか、人間性の教育とかをいう者がいても、あるいは、それをかかげて、教育活動に従事する者がいても、いわれるほどに、その教育が実を結ばないのもそのためである。
 人間教育、人間性の教育といっても、その出発点は教育活動に従事するその人が、人間としての自分をいかに教育していくか、人間として、自分自身、現代の中にいかに生きていくかという問題を考え、行動するということである。自己教育を忘れた教育活動ほど、教育そのものから無縁なものはない。今こそ、自己教育を、教育活動の中にとりいれるときである。
 もちろん、今日、そういう教育活動を既に、自らのものとし、それを実践しているものもいるが、それを最も大規模に、かつ、集団的に、実施しているのが池田大作を中心とする創価学会である。だからこそ、学会員一人一人の思想革命・人間革命がめざましく進んでいるのである。池田大作はもちろん、戸田城聖・牧口常三郎と歴代の会長は、文字どおり、自己教育と他者教育を平行して進めていく人、進めていった人々である。
 しかも、彼等は、仏法をどこまでも探求する人々であり、同時に、それを実現しようとする人々でもあった。だから、彼等は、仏法とともに、常に前進し、発展しつづける。前進させ、発展させることを自分自身の課題として、自己につきつける。それがまた、自己教育と他者教育を最高に厳しいものにもする。
 要するに、牧口・戸田・池田によって、教育の世紀が始まろうとしている。それは、同時に、人間の世紀、全大衆による大衆自身の世紀が始まろうとしているということでもある。
 情報化社会という二十一世紀の中で、大管理社会が実現し、一にぎりの管理者とそれにひきずられて生きるしかない大多数の民衆が出現するのではないかという不安と恐怖に、真向うから対決しようとしているのが、牧口・戸田・池田の姿勢であり、とくに、池田は、人間の世紀、大衆の世紀を実現するために、今、新しい教育活動を広範に進めようとしている。
 この本の中で、できるかぎり、明らかにしようとした、創価大学・高校・中学の教育は、池田の進めようとしている教育活動の一部であるが、その中の核をなすものである。本書を書いた理由はそこにある。私は、それを明らかにしていく中で、同時に、多くの注文や希望をも述べた。また、批判もした。
 それが、牧口・戸田・池田の立場であり、同時に、仏法の立場であると考えたからである。そのことは、本文の中で述べる。
 最後に、本書執筆の機会を、私に提供してくれた学園書房の和田吉次氏に心からお礼をいいたい。和田氏の情熱がこの本を生みだしたといってもいいすぎではないからである。

               1970年5月

 

 

   < 目 次 >

序章 現代人にとって
    宗教・政治・教育とは何か

第一章 創価教育のめざすもの

    牧口の庶民教育論
     
自由と平等のために<教授の統合中心としての郷土科研究>
     
すべての子どもに教育を<創価教育学体系のねらい>
     
幸福のための学問<美・利・善の追究>

    戸田の宗教教育論
     
人間の英知の輝き<諸科学統一の法則>
     
人間の解明<人間・社会・宇宙の統一的把握>
     
青年に期待する<人類幸福の政治理論>
     
行動で対決せよ<第二の宗教改革>

    池田の政治教育論
     英知で権力と戦う<宗教から政治へ>
     
マルキシズムとの接点<人間性社会主義の道>
     
平和のための努力<池田とコスモポリティズム>
     
人間と社会と自然と<トータルな世界観>

第二章 創価学園の理想

    池田の人間教育論
     世界平和の指導者たれ<創価学園の開校>
     
すべての人間を英才に<人間性の教育>
     
真理探求と価値創造<主体としての教師と生徒>
     
子どもは社会の子だ<家庭教育のあり方>

    創価学園の創立
     栄光の世紀のために<理想実現の教育>
     
堕落した教育に挑戦<情熱と意欲の教育>
     
自分の生を教える<二十八歳の教師陣の熱気>
     
エゴの奴隷化防ぐ<人間性豊かな実力主義>

    創価学園の教育
     芸術科教育・保健体育・国語教育・社会科教育
     数学料教育・理科教育・英語教育

    寮生活の意味
     大いなる飛躍のために<自己革命から出発>
     
爆発するエネルギー<未来にはばたくヒナドリたち>
     
新時代のための試練<革命の場としての生活>

    創価学園への期待
     真の教育とは何か<英知・情熱・栄光の若者を育てる>
     
学校教育革新を<大衆の時代のために>

第三章 創価大学の理念

    池田の大学教育論
     大学の革命は教授層から<創造的人間養成のため>
     
四権分立の提唱<大学再建のために>

    創価大学の理念
     民衆を守る要塞<開校近し創価大学>
     
現代の松下村塾たれ<実践と創造の英知を学ぶ>
     
偉大なる未来に向かって<人間主義の学をめざす>

    創価大学と新学同
     人間存在の本質に立脚<第三の学生運動>
     
70年革命の先頭に立て<人間を原点として>

    創価大学の一般教育論
     権力奉仕の鎖を切れ<大学紛争の根底にあるもの>
     
いかに全体人間を育てるか<大学革命推進の第一歩>

    創価大学の課題
     何のために学問をするか<新しい学問のための戦士を選ぶ>
     
自己の思想で立ち、生きる<英知と情熱の大学教育を>
     
能動的に統一の方向へ<創価大学に望むもの>

第四章 師を超えるもの

    日蓮に学ぶもの
     行動の論理の底にあるもの<青年日蓮の思想の遍歴>
     
苦悶と模索の上に<思想創造の原動力>

    牧口の創造性
     激しい怒り、鋭い批判<教育界への挑戦状>
     
教育の貧困を救おう<価値論の集大成果たせ>

    戸田の全体性
     人間科学としてのテーゼ<諸科学と生命哲学>
     
何をなすべきか<現代の危機にのぞみ>

    池田を超えるもの
     進め、叫べ、戦え<若き日の日記から>
     
先人の思想を超えて<池田大作の歩んだ道>
     
思想を生活の上に<師の偉業を経ぐため>

終章 二十一世紀に挑戦する
    宗教・政治・教育

     人間の世紀実現<思想と科学を志向する集団へ>
     
たとえ道は険しくとも<開かれた思想集団へ>
     
最大の敵は何か<一人一人が英知と情熱を>
     
思想の創造ひとすじに<創価大学の意義>

参考文献

 

 

                  < 目 次 >

 

序章 現代人にとって
    
宗教・政治・教育とは何か

 

 人間にとって、宗教とは、その発生当時から中世に至るまでは、人間・社会・自然をトータルにとらえた世界観であった。人間が人間として生きていくために、ぎりぎり必要な思想であったといってもよい。ということは、近世以後に発達した人間科学・社会科学・自然科学を未分化の形のまま、総合した思想そのもの、科学そのものであったということである。ただ、今日の学問・科学と異なるのは、それが単に客観的知識や客観的真理を意味するのに対して、当時のそれは、人間を支え、人間を導くイデオロギーの全体を意味していたということである。
 いずれにせよ、当時の宗教は、今日の政治・経済・芸術・教育などの全分野を包含し、当時の人間がもちうる最高の英知であった。宗教的思想は、当時の人間がもちえた最高の思想を意味し、それ以外に、政治的思想、経済的・芸術的・教育的などの思想というものは存在しなかった。
 しかし、中世から近世に入り、人間の社会が複雑になり、その役割と行動が多面化する中で、徐々に人間の思想も分化し、多面化してきた。政治思想・経済思想・芸術思想・教育思想・自然思想などが必要となり、それらが独自に発展していくことになったのはそのためである。
 こういう時代状況の中で、従来の宗教は、新しくおこった政治思想・経済思想・芸術思想さらには、教育思想・自然思想などを自らのものとして、歴史の推移・発展とともに、自らの思想を肥え太らせるということもなく、自らの思想を否定的に発展させるということもなく終わった。それが今日のように、多くの宗教が政治思想・経済思想・芸術思想などと併存する一思想に転落していった理由でもある。
 それというのも、発足当時の宗教的英知には、本来、人知の未発達、学問・科学の未発達という状況の中で、人間・社会・自然をトータルにとらえる世界観でなくてはならないことから、未知の部分に対する推理と想像が数多く含まれていた。
 その意味では、宗教は、歴史的であると同時に超歴史的、科学的であると同時に超科学的性格をもつものであった。そして、学問・科学が発達していく過程で、宗教は、いつかその歴史的領域・科学的領域を学問・科学にゆだね、超歴史的・超科学的領域のみを自らの分野としし、自らの課題とするようになったのである。
 もちろん、そこには、宗教そのものでなく、宗教を職とする者達が世俗的権威と結びつき、人知の未発達につけこみ、超歴史的・超科学的領域に進んでのめりこんでいったということとも無関係ではない。要するに、近世以降の宗教は、宗教本来の本質と使命をほとんど、失って、形骸化してしまったのである。しかも、宗教にかわって、その位置をしめて登場してきた学問・科学も、次第に、人間のための総合的・全体的英知を喪失して、際限もなく、多数の専門科学に分化していき、世界観としての統一的原理をなくしてきた。ことに、自然科学などは、人間のための科学であることを忘れ、ついには、人間そのものをその奴隷として奉仕させるところまでに堕落的発展をしたのである。
 そのために、分化した専門科学を統一し、総合するものとして、一時期、哲学に、その役割を担わせようという動きがおこったが、哲学はともかく、哲学者そのものには、そういう課題にとりくもうとする者はほとんど出なかった。とすれば、哲学がそういう学問として発展することは期待できない。
 その結果、各専門科学は、いよいよ、相互の溝を深め、分裂していくしかなかった。それが今日、エコノミック・アニマルを出現させたり、狭い意味の政治活動に狂奔する人間を生みだした理由でもある。あるいは、反対に、多数の政治的無関心者を、なげやりに生きる人間を登場させた理由でもある。人間は全的人間として生きることができなくなり、その一部をしか生きることができなくなった。いいかえれば、奇型児となったのである。
 各専門科学は、異常に発達しながら、人間とは何であり、その人間は、今、どこからきて、どこにいこうとしているかを明確に答えようとする学問・科学は、かたすみに押しやられ、そういう学問・科学は取り残されている。そこに、今日、人間は、幾重にも切り刻まれて、限りない不安と苦悩を抱かされている理由がある。それを克服するためには、人間は、全的人間として復活することが必要であるし、そういう人間になるためには、それを支え、導くに足る世界観としての学問・科学がぜひともいる。
 それこそ、今日の堕落した宗教、超歴史的・超科学的な分野にのみのめりこんだ宗教にかわって、かつてのように、人間・社会・自然をトータルにとらえようとする世界観を志向する宗教、人間の英知の極限を追求してやまない宗教が求められる理由である。そういう宗教は、学問・科学の成果を積極的に取り入れて、常に発展していく。多くの人間の疑問と要求に耐えていこうとする。
 それが、本来の宗教である。あるべき宗教である。そのためには、今日、宗教の復権に向かっての戦い、世界観を志向する宗教を確立するための戦いを果敢に進めなくてはならない。人間の情熱、人間の英知をどんなに注ぎこんでも、注ぎこみすぎることはないというのが、今日の危機的な状況である。

 人間・社会・自然をトータルにとらえようとする世界観としての宗教、人間の最高の英知である宗教を復活させようとするとき、バラバラになって併存している専門科学が総合され、生かされてくることはいうまでもないが、その場合、宗教そのものを支えるものは教育と政治である。教育と政治は宗教にとって、車の両輪のようなものである。
 そのことを仏法に即していうなら、仏法は、生命の尊厳をうたい、その生命は自由であり、平等でなくてはならないと説いている。その生命が自由であり、平等であるために、生命そのものの法則を究明し、その法則に基づいて、自由と平等を実現しなくてはならない。
 このように、仏法を考えるなら、そういう思想を一人一人のものとし、それによって武装し、人間の自由と平等を確立するには、教育がいかに重要であるかということになる。教育とは、人間一人一人に、仏法を体得させるためになくてはならないものである。
 他方、今日のように、政治があらゆる人間のすみずみまで侵入し、その権力が無制限に人々を支配しようとしている時代には、政治を離れては、生命の尊厳も人間の自由と平等も考えることはできない。政治を無視しては、それらを実現することはできない。病気にしても、貧しさにしても、さらには、人間個々の悩みにしても、その多くは政治的な欠陥からきていることが多い。今日ほど、人間は、政治的人間として生き、悩み、苦しみ、怒っている時代はない。
 だから、宗教の本質は、政治に深くかかわり合う。政治を考えない宗教は、教育を考えない宗教とともに、現実に生きている人間にとって、力強い力をもたない。全的人間としての悩みを、真に、解決することにはならない。人間の最高の英知である宗教は、当然、人間の行動の一部である教育と政治に考えが及ぶ。
 教育と政治を考えない宗教は、全く、お粗末な宗教である。
 しかし、世の中には、「宗教は人間の内面の世界で機能するものであり、政治と宗教の領域は異なる。だから、政治が、人間の信仰や良心など、人間の内面の世界に関与することを避けている以上、宗教も政治の領域にでるべきではない」というような発言が、堂々と、通用している。
 私のいう、教育と政治をふまえた宗教など、とんでもないというのである。
 だが、すでに述べたように、政治を考えない宗教は、今日から未来にかけての宗教ではない。今日から未来にかけて生きる人間の疑問と苦悩を解決する宗教ではない。政治と宗教の領域は、異なるという意見は、単に、これまでの宗教観に基づいたものでしかない。また、そういう宗教観に立ったとしても、今日、人間の内面の世界に限って機能する宗教とは、一体どんな宗教であるのか。さらに、今日の政治は、人間の信仰や良心など、土足でふみにじって何とも思わなくなっている事実を何と考えるのか。
 むしろ、政治と宗教の分離は、民主主義の原則であり、近代国家の原理などといって、その原則・原理を人々に押しつけ、本当には、政治と宗教との間に、思想の次元における戦いがなかったところに、政治も宗教も思想として、肥え太ることがなかったのである。政治が宗教を飲みこむか、宗教が政治を飲みこむかの熾烈な戦いがなかったところにこそ問題がある。政治と宗教の分離など、妥協の産物でしかない。それを、民主主義の原則とか、近代国家の原理などともちまわるのは、全くナンセンスである。
 もちろん、私は、政治と対決する宗教を、ここで強調しようとするのでもなく、政治勢力と宗教勢力が戦うことを求めているのでもなく、あくまで、人間・社会・自然をトータルにとらえようとする世界観としての宗教、人間の最高の英知としての宗教が、今日再生する必要があると説くだけである。
 教育と政治をふまえた宗教だけが、今日の危機の前に、真に有効であると説くだけである。そして、今日、仏法、とくに、日蓮正宗による人々がそういう宗教をつくりあげようと全力を注入しようとしている。私は、そのように、日蓮正宗による人々の思想と行動を理解している。それが、本書を書かせた理由でもある。

 

                 <第三の大学…創価大学 目次> 

 

第1章 創価教育のめざすもの

   牧口の庶民教育論

 創価学会の初代会長、牧口常三郎は、師範学校を卒業した後、長い間の教育体験をふまえて、彼自らの教育理論を創造した。くわしくは、拙著「牧口常三郎」にゆずるが、その教育理論を要約するなら、
「すべての人間が一人の落伍者もないばかりか、劣等感になやむ者を一人もつくらない教育とはどういうものか、それはいかにして可能か」
 ということであった。
 庶民教育の先達者は、江戸時代の石田梅巌であるが、明治以後、小学校教育が普及し、発達したといっても、言葉の真の意味における庶民教育を追求し、究明したものは、石田のあとにはいなかった。だが、その石田も、牧口のように、人間のすべてを、一人の例外もなく、社会人としての能力と英知をもちうるように教育しうるということは考えおよばないことであった。石田が考えおよばなかっただけでなく、その後、いかなる教育思想家もそのテーマを体系的に追求するということはなかった。
 それを牧口は、追求した。小学校教師なるがゆえに追求できたということもできる。というのは、小学校教師として庶民の中に生きたゆえに、いろいろの子どもに接したし、小学校教育で取り残される子ども達、劣等感に悩む子ども達に接することができ、また、そういう子ども達の存在を自分の痛みとして受けとめることができたからである。
 中学校教師・高校教師・大学教師には、とてもなしうることではなかったであろう。その点では、牧口の出生そのものが、政治的・経済的にも、また、思想的・精神的にも、とり残され、無視されてきた庶民であり、彼自身、その庶民から抜けだすことを考えず、その生涯をその中に埋めて生き抜いたところに、その悲しみと怒りがふくれあがり、それが、彼独自の教育理論をつくりあげさせたのである。
 牧口の偉さは、彼自身、庶民とともに、立ちあがろうとしたところにある。だから、彼は、庶民の思想と生活の半歩先に、常にいた。
 では、牧口は、どのようにして、すべての人間に、英知を与えようとしたのであろうか。自分の運命を自分できりひらくことのできるような英知を、すべての人間に与えうると考えたのであろうか。それに、生命の尊厳といい、生命の自由と平等といっても、人間一人一人に、それを実現し、確立しうる英知がなくてはどうにもならない。与えられた自由と平等でしかない。だからこそ、彼は、この大問題に肉迫したのである。

 

 自由と平等のために<教授の統合中心としての郷土科研究>

 牧口は、明治四十五年、その著「教授の統合中心としての郷土科研究」の中で、子どもの直観と感覚を基礎にし、それを発展させるように指導していくならば、どんなに英知が劣るように見える子どもでも、すばらしい英知を発揮できるようになると明言した。
 それを、牧口は、
「子どもが生まれおちて以来、長い期間、毎日、刺激され、心意に固着してはなるべからず、忘れんとして能わざる郷土に関する知識を出発点とし、それを発展させるべきである」
 と書いている。
 具体的には、「児童の生活に没交渉なる修身科と郷土科」と題して、
「とかく、修身科の教材は、おおむね児童の日常生活にはなはだしく懸けはなれた、したがって教師がことさらに注意し、解説して結びつけてやらないと、ほとんど彼等と没交渉な、大人むきの、しかも非常の場合の事柄をもってみたされているものが多いのであります。……
 かような、稀にあらわれる非常の場合を日常卑近の場合にあてはめ、……非常の事変に遭遇し、初めて、外部にあらわれる敬服すべき行為を、平常の場合にもかならず同様の事のあらんと推測するように心理的分析をなし、児童に感動させるような注意をなすものが、はたして幾ばくあるでしょう。修身科教授の効果のあがらない原因の大部分は、この点に存するのであります。
 この点からも、基礎的観念を整理するところのある予備的教科の秩序的作業を要求するのは当然の順序であらねばなりますまい。修身科から郷土の人生現象を直観させる必要のあることは、教授した教科目を実地の生活に応用するようにしむける点において、さらに重大なることと存じます」
 と指摘し、さらに、「理科教授と郷土科」では、
「近時、東京市内の新設の小学校等において理科教室等を設けて、特殊な設備をなし、多額な費用を投じて完全に近いという誇りをもって電気に関する教授をなしている。……
 しかし、電動機は一体いかほどの効用すなわち生産能力を有するか、また、いかなる生産価値を生みだすか、それに投じた資本はいつ回収できるか、それがいかなる影響を社会に与えるか、かつ、この電気のあらゆる業界進出は、いかなる社会状況を作るか、すなわち英国の産業革命が英国に、いな世界経済界に与えた影響を、今日本の経済界にいかに、いかなる形をもって与えるかは、単に教室の中で教えられるものではない。
 すなわち、言を換えれば、わずかばかりの電気知識を習得せる教師によって、その単なる学理や操作だけを教えられても、その能力、価値、影響はいかにして教えられますか。いかにして知りうることができましょうか。……
 ここにおいて、目をあけて環境に注意せよ、すなわち、実際に工場について見学せしめよというのであります。……農村においては、動物および植物の実物観察の材料はたくさんあり、水車、唐箕、犂、噴霧器等の物理学的教材は日常の道具となっており、肥料、殺菌剤等の化学的教材もまた卑近に備わっています。その他、風雨寒暖の変化と作物の豊凶との関係等の題目によって、天文・地理等に関する直接観察をさせることができましょうし、また、付近の市街においては、かならず多少の工業が今は大概行われているから、物理学的および化学的教授資料をうけることも、あえて困難ではない」
 と批判している。
 要するに、牧口は、郷土に育ち、その中で、めばえ、育った子どもの感覚や情念を基礎とし、出発点として、それが深化し、確立するように指導するならば、どんな子どもも一人残らず、すばらしい英知を自分のものにすることができるというのである。そのことを、彼は、次のようにもいう。
「試みに、子どもととんぼさしの競争をしてごらんなさい。わずか六歳の子どもが、とんぼの種類を八・九種は列挙します。……近所の事柄の精細な観察は、わが子にさえも時におよばぬものを。生まれ落ちると肥料の臭気になれた百姓の児に、うっかり農業の話などできるもんですか」
 だから、牧口は、この郷土科教育の中で、郷土における土地と人生、自然と社会等の複雑な関係を子ども自身に直接観察させることによって、子ども自身の感覚に、生活に結びつけようとした。それなら、どんなに劣った子どもにもできると考えた。しかも、郷土に対する生きた知識を与えることは、自らの生活と同時に郷土を豊かにし、発展させようという意欲と姿勢をもたせることになるし、それはそのまま、国家や世界についての知識をもつことに通じ、国家や世界を豊かにしていこうとする態度に発展していくと彼は予想したのである。
 牧口は、その場合、つとめて、学校の政治・経済を観察させることを心がけたし、そこから、さらに、村や町の政治・経済を観察させ、その視点、その能力を活用し、応用し、国家の政治・経済、世界の政治・経済をも観察し、認識させようとした。とりわけ、彼が子ども達に郷土の政治現象を観察し、認識させていくときに留意し、注意したのは、権力の観念・実態であり、国家権力・政治権力とは一体何であり、国民一人一人、子ども一人一人がもっている権力とは何であるかということであった。それは、人民の権利と自由の拡大を求めつづけてきた彼としては、当然のことでもあった。
 だが、牧口が郷土科教育によって意図したことはこれだけではなかった。彼は、それによって、各教科ばらばらの学習と知識、相互に何の連絡もなく、有機的に結びつくことのなかった各教科を統合し、ばらばらの教科的知識を人間の英知として統一しようとしたのである。彼が考えた郷土科とは、各教科の起点であり、終点であった。
 しかも、彼は、知識というものが、ともすれば、人間そのものから遊離し、果ては、人間そのものが、知識に使われ、知識の奴隷になることを、人間の感覚や情念の延長に知識をとらえるという立場をとることによって、克服しようとしたのである。
 それは、今日、専門化し、分化した科学、ばらばらになっている学問を統一し、人間・社会・自然をトータルにとらえる世界観を志向する学問として創造しようとするということであり、さらには、行動と知識が分離し、単なる物知り的知識に終わっている現状を克服して、人間の感覚や情念に結びついた主体的英知、行動知・生活知に高めるということであった。
 しかし、そればかりではない。これまで、科学・学問は、一部の知的エリートの独占物であり、一部の知的エリートにしかできないものだという常識を打ち破って、科学しようとする者、学問をやろうと欲する者には、誰でもできるということを明らかにしたし、科学・学問とは、本来、庶民のものであり、庶民の自由と平等を実現するためにこそ存在するものであることを強調したのである。
 牧口ほど、この三点を明確に強調したものはいない。

 

 すべての子どもに教育を<創価教育学体系のねらい>

 牧口が、すべての子どもを一人の落伍者も出さないように教育しようと考えたことは、全く執拗であった。どんな子どもも自分達の運命を自分自身の英知できりひらくように教育しなくてはならないと考えたが、彼には、それを実験してみる十分な機会はなかった。せいぜい、その奉職する小学校を東京で有数の小学校、すなわち、中学校への合格率が抜群であるというところにもっていったにすぎなかった。
 もちろん、世の中は、そういうことを求めたし、そういう小学校にした牧口の教育実績を評価した。しかし、彼の念ずるところは、そんなところにはなかった。彼の関心事は、あくまで、すべての子どもに、その運命をきりひらくだけの英知を与えることであった。すべての子どもをすばらしい社会人にすることであった。
 そうなると、牧口は、日本の教育政策について発言し、教育政策の改革を求めて書くしかない。こうして生まれたのが、「創価教育学体系」である。彼は、その中で、書く。
「大学等の高等教育は、いわゆる特権階級の独占に一任して顧みず、社会意識のようやく進んできた最近になっても、なおいまだ官公立中等学校等の教育当局者は、いわゆる中産階級以上者ならびにそれに準ずる優秀知能の学生・生徒を選択するを、当然の権利のごとく心得、監督官までがそれを誤想して平気でおり、そこに試験地獄と称する入学競争の大悲劇は絶えない。
 中等学校の発達普及が今日のごとくになって、もはや国民教育と同様の程度になり、官公立の学校は、優秀者と称して、特権階級の子弟を多く選択するよりは、社会に害毒を流す傾向のある能力劣等の階級乃至不良の生徒を収容するのが、それら本来の使命とされるまでに進んだ今日にも、なお旧習を踏襲して教育手数の一番かからない成績のよい生徒を選び、厄介なものは、私立学校に一任するという、まったく、官・公立の趣旨に逆行していることを何とも思わぬ状態にある」
 牧口は、英知の劣っているとみなされる子どもの教育こそ、金がかかるし、設備を十分にしなくてはならないと考えた。そういう教育こそ、官・公立の学校がとりくむ仕事であるというのである。そこから、彼は、さらに進んで、英知の劣る子ども達こそ、教育期間は逆に長期にわたる必要があるし、そのための公的教育機関を拡充すべきであると説いた。
 最近、生涯教育の必要が叫ばれてきたが、牧口は、以上の視点から、当然、生涯教育を強調した。しかも、それは、英知のすぐれた人達だけでなく、すべての人間に、普通教育と専門教育を受けることを義務としようとしたのである。
 学ぶ喜び、前進する喜びをすべての人間に知らせようとしたといってもいい。
 もちろん、世の中には、学ぶことを苦痛とし、学ぶ能力のない者が、相当数いるという常識が普及している。しかし、牧口は、彼等が苦痛を感じ、学ぶ能力がないように見えるのは、教育方法が教師や教科書が不備であるためだと考える。教育理念と方法が確立していないためとみる。
 とくに、小学校教師・中学校教師が大学教授の教育論、大学教授のつくった教科書を無批判に使用し、それによって、教育評価をなし、かえって、劣等生をつくることに力をかしたとみる。
 しかし、教師が、自分で、自分の教育を考え、自分の子ども達のことを自分で真剣に考えるようになるなら、子ども達が社会人になったとき、本当に必要な知識・姿勢が何であるかを考えるようになるなら、教師の子どもをみる目、子どもの能力を評価する視点は、全く変わってくると牧口はいう。彼には、教師というものが、社会人として、十二分に生ききっていない、自信をもって生きていないとみる。そういう教師には、子ども達に、社会人として必要な知識や姿勢を授けることはできない。小学校・中学校が大学の予備校化するのも当然である。
 牧口が教師の自己改造を求めて、「創価教育学会」を創設したのはそのためである。彼は、教師こそ、人間改造を進めるものであり、そのためには、まず教師の自己改造を進めなくてならないと考えた。

 

 幸福のための学問<美・利・善の追究>

 だが、なんといっても、「教授の統合中心としての郷土科」を発展させた「創価教育学体系」の中で、牧口が最も強調したものは、人間を価値創造者ととらえ、どんな人間も価値創造者になれる、ならなくてはならないということであった。価値創造に挺身することで、人間は、初めて、自由になれるばかりか、平等でもあるといいきった。彼は、すべての人に生き甲斐を与えようとしたともいえる。これほど、人間にとって、力強い言葉はないし、希望のもてる言葉はない。どんな懦夫をも、この言葉は立ちあがらせるものをもっている。
 では、牧口は、それをどのように説いているのであろうか。
 牧口は、まず、
「創価教育学とは、人生の目的たる価値を創造しうる人間を養成する方法の知識体系を意味する。人間には、物質を創造する力はない。われわれが創造しうるものは、価値のみである。いわゆる価値ある人格とは、価値創造力の豊かなるものを意味する。この人格の価値を高めんとするのが教育の目的」
 とまえおきして、
「人生が価値の追求である以上、何人でも価値問題は回避の許されないもの。いかに難解であろうとも、実生活に縁遠い哲学者などに委任して、のんきにその解決をまっていられるものではあるまい。これすなわち余が敢えて難題と知りつつも没頭せざるを得ずして、ここまで引きずられてきた所以であった。同じ理由によって、読者諸君にもこれを強いざるをえない理由である」
 と書き、人生の根本問題である価値の問題は、人間が人間として生きようとするかぎり、政治家や学者がきめ、与えた思想から独立して生きようとするかぎり、誰でも、自分なりに考えることが必要であることを人々に知らせようとした。
 価値の問題を考えようとしない人間は、人間であって、人間でないといいきった。
 こうして、牧口は、価値として、美・利・善を考え、人間の創造すべきものが、美・利・善であると考えた。そして、これまで、価値の一つとして考えられていた真は、発見し、認識すべきものであり、創造できるものではないということを同時に考えた。
 牧口は、美・利・善について、
「美の価値とは、目・耳・口・皮膚のいわゆる五官によって獲得するところの感覚的、一時的価値。利の価値は、各個人がその生命を維持発展するに足る対象との関係状態であり、善は、各個人が要素となって統一されている社会の、生成発展に寄与する人間の有為的行為を評価したもので、すなわち公益を善という」
 と述べ、それらの相互関係については、
「善悪は社会を評価主体として、利害は個人を評価主体とする。故に、評価主体たる社会に対して害を加える個人の行為は、個人には利であっても善ではありえない。また一つの社会に善の行為も、これと対立する他の社会では、善として通用せず、かえって、悪と判定される場合もある。利と善と美とは、ある程度、共通する概念である。この三者は相互間に混淆すべからざる個性を各々特有してはいるが、その裏に価値という概念に等しく包含せられてさしつかえない類似の性格をもっている」
 と説明した。
 また、他のところでは、美は審美的価値で、部分的生命に関する感覚的価値、利は経済的価値で、全人的生命に関する個体的価値、善は道徳的価値で、団体的生命に関する社会的価値という三段階の価値体系を立てている。
 それは、要するに、美・利・善の価値は、価値として統一されなければならないという主張であり、その統一された価値が幸福ということであった。個人的幸福と社会的幸福が止揚されて、一つになったものは、そのまま、審美的価値、経済的価値、道徳的価値が同時に実現されたものというのが、牧口の見解であった。
 もちろん、牧口の美・利・善に関する追求は十分でなかったし、それらの相互関係についての所論についても、彼の思想と意志を継ぐ人々が、今後、彼の思想をさらに究明し、発展させなくてはならないものである。
 それに、郷土科を諸教科の起点とし、終点とした彼の考えは、美・利・善との価値とどうかかわるのか、さらには、今日のばらばらになっている諸科学は、この美・利・善の統一的価値とどういう関係にあるかということも、非常に重要な課題である。
 いってみれば、牧口が郷土科によって、諸教科を統一しようとしたのは、人間を生活者としてとらえ、その生活者に必要な生きた知識、人間に必要な総合的英知を人々に与えようとしたもの、諸教科は、生活人としての知識に統合され、生きるものでなくてはならないと明言したものである。また、彼が美・利・善の価値を創造するものとして、人間をとらえたことは、人間それ自身に、美・利・善を追求する感覚、実現しようとする欲望があるということを見究めたということでもあった。
 しかし、今日、人間の生活・行動を導く諸科学は、人間科学にしても、社会科学にしても、利を追求することのみ急で、美・善をほとんど追求していない。自然科学は、ほとんど、利のみを追求することに終わっている。そこに、牧口は人間科学・社会科学・自然科学が人間のための学問・科学である以上、美・利・善があるはずだし、美・利・善がなくてならないと予想していたのではあるまいか。また、人間科学といい、社会科学・自然科学といっても、所詮、人間の創造的行動、歴史的・政治的・経済的・自然に働きかける行動などに役立とうとして成立したもので、そういう行動には、本来、それぞれに美・利・善がなくてならないもの、しかし、人間の諸行動も、結局、一つに統一され、一つの美・利・善を追求するということを考えていたのではあるまいか。
 そのように考えると、どんな諸科学も、人間のための学問以外にはなりようがないし、利を追求するのみで、美・善を追求しない科学など、人間の学問としては、全く失格ということになろう。しかも、牧口は、美・利・善の統一的価値を何人にも理解でき、何人にも深い関心のある幸福の二字におきかえて、人々を幸福の探求者、創造者に仕立てようとした。
 たしかに、幸福の探求者、創造者には、誰人も容易になれるし、その落伍者になる者はいない。人々は、その英知の段階に応じて、幸福を理解し、幸福を実現していく。美・利・善の統一的価値そのものである幸福を探求し、実現していくことは、人間の生涯を通じての課題である。どんな知者、どんな勇者も、もういいということが決してないのが、統一的価値の前に立った人間というものである。
 牧口は、こうして、英知の劣った者が生ききれると同時に、非常にすぐれた英知のある者も、限りなく、謙虚に生きなくてはならないことを説いた。

 

                 <第三の大学…創価大学 目次>

 

   戸田の宗教教育論

 戸田城聖は、初代会長牧口常三郎の「創価教育学」を、常に、最高に評価し、それについて、
「三十年、五十年後には、必ず驚きの目をみはるものが出るだろう。あれほど真剣に社会に立脚したものが偉大な人にみえぬはずもない」
 と語っていたが、創価学会の二代会長として、牧口の思想を、さらに究明し、発展させることに努力を払うより、むしろ、牧口がよりどころとした日蓮正宗そのものを見直し、師の思想を日蓮正宗の中に位置づけることに全力を注いだ。
 それを一言にしていうなら、牧口のいう、美・利・善の統一的価値とは、日蓮の教えそのものであり、法華経そのものであるということを解明するのに、その力を払った。それは、日蓮正宗を政治・経済・教育・芸術などと併存する一宗教の位置から、それら一切を包含し、統一するものとしての宗教そのもの、本来の宗教に再生させようという努力であった。彼が生涯をかけてやろうとしたものは、これ以外になかった。
 その意味では、戸田は、鎌倉時代の宗教改革についで、第二の宗教改革にとりくんだということがいえる。しかもそれは、危機のどん底にあえぐ現代の人間を、人間として復活させ、再生することであった。断絶と疎外に呻吟する現代の人間を全的人間として蘇生させることであった。
 とすれば、戸田が彼の宗教教育論を果敢に展開したのも当然である。しかも、彼の独自性は、それを学校教育の中に閉じこめず、進んで、これまでの教育という枠をはずして、社会教育・国民教育としての宗教教育を推進したということである。

 

 人間の英知の輝き<諸科学統一の法則>

 戸田は、まず、宗教と科学について、
「宗教と科学は、互いに対立し、絶対に相いれないように思われているのが現代の常識である。神の世界、仏の世界、それらは、科学者の望み得ない世界とし、わからないものだとしている。また、科学の世界は、宗教と没交渉の世界で、科学の研究せられた結果やその研究態度は、宗教界には用いられないものとなっている。これは、本当の事実であろうか……。
 真実の宗教は、その研究態度が科学的であり、その研究の結果は、論理的に体系づけられ、かつ科学的に実験証明がなされねばならぬ。しかして、その定理・方程式とも称せられるものは、普遍妥当性をもたねばならぬ」
 とまえおきして、科学と相反せず、しかも科学的にして、実験証明のともなう、論理的な宗教、それが仏法であり、日蓮正宗だといいきるのである。
 その理由として、
「仏教は、人間の生命、あらゆる物の生命、社会および国土の生命、いな、進んでは大宇宙生命を研究対象としている。しこうして、その宗教は、大部分、人間の生命に、研究の度をおいているがために、いかにすれば、人々は幸福な生活を送りうるであろうかという点に重きをおくことは、科学と同様である。
 科学が、純粋の真理を求めつつ、しかも、討究してえられた定理が、人間の幸福生活へ実践行動化すると同様に、純粋なる生命哲理を、最高へと組み立てつつ、その最高無上の定理は、人間の幸福生活への実践として行動化される」
 と述べている。
 戸田のこの意見は、人間の生命を主として研究し、その結果、得た法則・真理がこれまでの仏法であるが、社会の生命、宇宙の生命の法則、真理を究明するのは今後の仏法の課題ということを意味している。そうなると、仏法に関するかぎり、人間科学を包含し、社会科学・自然科学を包含するものであり、仏法の完成は、今後ということになる。だからこそ、真の宗教は、科学的宗教でなくてはならぬともいいきった。
 だが、戸田にとって、一方では、宗教とは、
「一切衆生の苦悩を救うべきもの、一切衆生に真の幸福を享受せしむべきもの、一切大衆の生命を真に浄化せしむべきもの、一切大衆に生命の真実のすがたを悟らしむべきもの」
 ということから、ことに自然科学を戦争や暴力に用いないために、この立場に立って科学を指導する必要があるということになる。さらに、政治学・経済学などの社会科学もまた、人間の幸福と平和の建設に向かって、指導しなくてはならないという結論にも到達する。ここには、人間科学・社会科学・自然科学を包含するものが真の仏法であるという考え方と、仏法は、諸科学を指導するものでなくてならないという考え方の二つがある。これは、明らかに、違う考え方である。しかも、戸田の意見の各所に、後者の意見がでて、前者の意見は私の知るかぎり、多くない。
 私は、戸田に後者の意見がより多くでてきて、前者の意見を積極的に展開できなかった理由として、戸田が牧口の「創価教育学」を机の底におさめて、牧口の美・利・善の統一的価値を追求し、発展させなかったことに起因しているのではないかと考える。少なくとも、牧口の思想には、諸科学のそれぞれに美・利・善の統一的価値があり、美・利・善を貫く真理・法則がなくてはならないということが予想されていた。諸科学は、所詮、一つの科学、一つの学問にならなくてはならないということを、また、それ以外に、人間の幸福を、人間の自由と平等を実現することはできないことを考えていた。その点、戸田は、大胆に、牧口の思想を追求し、発展させるべきであったと思う。
 といっても、戸田は、同時に、
「そもそも宗教とは、“生活の法則”であり、生活そのもののなかに存在しなければならない。それがためには、宗教のあり方を考えるときに、まず自分の立場とか過去の因習を捨てて、仏教徒は、まず、釈尊の立場にかえって、そのあり方を判断し、日蓮門下と称する数百万の僧俗は、宗祖大聖人の立場にかえって判断しなければならない」
 ということをいっている。釈尊の立場、日蓮の立場にかえるということは、日蓮の「我日本の柱とならん、我日本の眼目とならん、我日本の大船とならん」という言葉をまつまでもなく、釈尊や日蓮はともに、その当時の人間の最高の英知であったということを確認することであり、それはそのまま、今日における人間の最高の英知とは何であり、それにはどうすれば到達できるかということを考えることである。
 たしかに、釈尊・日蓮は、人間の生命や心を観察し、考えた。そして、わずかしか、社会の生命、宇宙の生命を考えていない。
 しかし、人間の生命も社会や宇宙との関連で究明したとき、より全体的・具体的に、また、より正確にわかろう。
 現に、戸田は、
「自分観・人生観・社会観・宇宙観・この四つをきちっとまとめているのが仏法である」
 とも書いているが、社会観・宇宙観をより深く、より確かに与えてくれるのは、社会科学であり、自然科学である。
 このように考えると、戸田は、諸科学を統一・総合したものが仏法であるといわなかっただけである。いずれにしても、彼が真の宗教は科学であり、科学以外に宗教はないといいきり、その宗教とは仏法であると明言したことは、はっきり、記憶しておかなくてはならないことである。

 

 人間の解明<人間・社会・宇宙の統一的把握>

 戸田は、仏法はすなわち生命論であり、人間の生命の法則であると述べたが、では、その生命論については、どのように書いているのであろうか。
 戸田は、
「生命とは、宇宙とともに存在し、宇宙より先でもなければ、あとから偶発的に、あるいは何人かによって作られて生じたものではない。宇宙自体がすでに生命そのものであり、地球だけの専有物とみることはあやまりである。……
 あるいは、アミーバから細胞分裂し、進化したのが生物であり、人間であると主張し、私の説く永遠の生命を否定するものがあるであろう。しからば、灼熱の地球が冷えたときに、なぜアミ−バが発生したか。どこから飛んできたのかと反問したい。
 地球にせよ、星にせよ、アミ−バの発生する条件がそなわれば、アミ−バが発生し、隠花植物の繁茂する地味、気侯のときには、それが繁茂する。しこうして、進化論的に発展することを否定するものではないが、宇宙自体が生命であればこそ、条件がそなわれば、生命の原体が発生するのである」
 という。そして、人間の生命とは、この宇宙の大生命の一部であるがゆえに、過去・現在・未来にわたって存在しつづけるものであり、死後の生命は、宇宙の大生命の中に溶けこんでいくともいう。
 さらに、戸田は、人間の生命そのものについては、
「日常の生命の責任が、ことごとく自分自身にあるということを知らなくてはならない。貧乏して悩むのも、事業に失敗して苦しむのも、夫婦げんかをして悲哀を味わうのも、あるいは火鉢につまずいてけがするのも、結局、それは自己自身の生活である。すなわち、自己自身の生命現象の発露である。こう考えるならば、いっさいの人間生活は、自己の生命の変化である」
 である以上、人間生命の法則を明らかにした仏法の英知によって、その生命をもっと強く、もっと輝やかしいものにしなくてはならないというのである。
 だから、戸田によると、人間生命の不可思議を解くのも仏法であり、その生命に活力と光を与えるのも仏法であるということになる。
 もちろん、戸田のこういう思想は、彼自身のいうように、釈尊の立場、日蓮の立場にかえって、彼らの思想を読み直し、考え直していった結果、生まれた彼独自のものである。ことに、自らの信ずる宗教を棄却しないために、国家権力によって、牢獄に呻吟したときに、彼がなお一層、思索をすすめて、発見したものであった。彼は、そのときの感動を次のように書いている。
「身をもって体験した牢獄の重難のなかに、断わっても断わっても、はいってくる経典から、仏法求道の眼を開き、題目をかさね、経典ととりくんで、激しい苦悶の末に、よし僕の一生は決まった。この尊い法華経を流布して生涯を終わるのだとの、強い決意を胸にきざみ、“かれにおくるること五年にして惑わず、かれに先立つこと五年にして天命を知る”と叫んだ姿こそ、一切大衆救済を願望する真の人間革命である」
 要するに、戸田は、仏法が生命の永遠を説き、合わせて、その生命を豊かにするものであると知ったとき、全身からわきおこる感動を抑えることができなかったし、それによって、彼の生命そのものが躍動し、昂揚するのを感じたのである。それはそのまま、彼の信をいよいよ深め、強めることにもなったであろう。
 戸田が、自ら到達した仏法即生命論をひっさげて、それをすべての人間のものにするために、捨身の教育行動にでたのも、ごくあたりまえのことである。おそらく、このときの戸田は、自分の中に、釈尊や日蓮がのりうつったと感じたであろうし、釈尊の思想が日蓮によって発展し、さらに、彼自身によって、日蓮の思想は発展するであろうと考えたに違いない。
 それは、釈尊・日蓮の人間生命の思想がほんのわずかだけ、社会の生命、宇宙の生命との関連のなかでとらえられているのに対して、彼の人間生命の思想は、できるかぎり、社会の生命、宇宙の生命を明らかにし、その中で初めて、人間生命も、より全体的に明らかになるということであった。いいかえれば、人間生命の法則だけでなく、社会の生命の法則、宇宙の生命の法則を見定め、その関連の中で、あらためて、人間生命そのものを見通してみるということであった。
 だから、戸田が、人間を政治・経済との関連において、積極的に発言し始めたのもそのためである。

 

 青年に期待する<人類幸福の政治理論>

 戸田は、政治について、発言する。
「仏法は、誰一人も苦しめない。あらゆる民衆の苦しみをば救うというのが根本であり、今一つの根本は、あらゆる民衆に楽しみをあたえることであり、仏の慈悲というのは、これをいうのである。……
 政治も、経済も、文化も、すべて人間が幸福になるための営みである。とくに、政治は、民衆一人一人の日常生活に、直接、ひびいてくるものであるがゆえに、政治家たるものは、よく大局観に立ち、私利私欲や部分的な利益に迷わず、目先の利益に禍いされてはならない」
 さらに、次のようにもいう。
「社会の繁栄は、一社会の繁栄であってはならない。全世界が一つの社会となって、全世界の民衆が、そのまま社会の繁栄を満喫しなければならない。それが王法と仏法との冥合である。日本民衆の幸福のために、他の民衆を犠牲にしてはならないし、アメリカ民衆のために、日本の民衆を犠牲にしてはならない。共産主義の一指導者のために、他国の民衆が犠牲になってはならない。
 世界の民衆が喜んで生きていける社会の繁栄のなかに、各個人もまた、喜んで生きていかなければならない。それが、王仏冥合の精神である」
 これに似た発言が戸田には非常に多いが、人間の幸福を求める彼が、その幸福の多くを左右している政治・経済に対して、積極的に発言したのは当然である。もし、人間から苦をなくし、人間に楽を与えるのが宗教であるといいながら、政治・経済に対して発言しないなら、さらに、政治行動をおこそうとしないなら、彼のいうところはウソになる。
 まして、現実の政治の世界は、仏法の精神を忘れ、人間に対する慈悲を忘れ、人間が本来自由であり、平等であることを忘れて、人々を苦しめ、その自由と平等を抑圧する政治・経済が横行している。タテマエとしての自由と平等を法的に認めながら、実際には、その自由と平等を少しも実現していない。
 戸田が必死になって、政治的発言をし、さらに、政治の世界に進出していこうとするのは、全く道理にかなっている。宗教を本当に知ったものと断言していい。
 だからこそ、戸田は、青年達を叱咤激励して、日本の民衆から不幸をなくせ、日本を楽土にせよと強調した。青年達を政治の世界にかりたてる。彼等に、経済の世界・教育の世界にどんどん進出していくことを求めた。
 もちろん、そのためには、どういう政治が本当に、人々に幸福をもたらすのか、現代の政治は、権力は、機構はどうなっているのかということをじっくりと観察し、認識しなくてはならない。政治についての本格的な学習、系統的な学習もやらなくてはならない。牧口の考えた美・利・善の統一的価値に裏づけられた政治観というものを、胸にはっきりと持つことも必要になってくる。
 戸田が、異常に、青年達に期待したのも、青年なれば、彼の考える宗教と政治の関係を認識し、その実現のために、果敢な行動をおこしうると思ったためである。実際に、青年達は彼の期待にこたえて、学習し、信心を深め、行動に突っ走った。
 戸田自身、
「日本においては、文部省それ自体が宗教に手をつけていない。まことにバカな話と思うが、ここに日本の政治の劣等性があるのです」
 とか、
「今、宗教の善悪、正邪をとろうとして、そうして、これを哲学的に説明しても納得できないのが、今の日本人であります。なぜならば、彼らには宗教・哲学のなんたるかもわからない。民衆に宗教・哲学の教育がないからです。ですから、いかに社会的に立派な地位をもつ人でも、宗教ともなれば、幼稚園児も同様であります。その幼稚園児の頭をもって、最高の仏教哲学をもつ日蓮正宗を批判するのは、生意気であり、彼らにはわからないのであります」
 と、日本人の宗教についての無知、とくに、知識人の宗教についての無知を歎いているが、実は、それがかえって、幸いして、戸田のまわりに青年達が集まり、彼によって宗教教育を受けた青年達が多数出現したともいえる。
 民衆の宗教的空白こそ、戸田の宗教教育が最高に成果をあげた理由である。そして、彼のまわりに集まった青年達の中に、この宗教的知識、その宗教的姿勢について首をかしげる者が出なかったのも、戸田のいう、文部省が宗教教育を指導しなかったためである。
 このようにして、戸田を中心にする青年達が宗教を根底にして、政治・経済・教育等に進みでたが、それはまだ、全くの緒についたばかりである。厳密にいえば、人間の生命のもつ政治的側面、経済的・教育的側面などに、その考察を進め始めたのみで、仏法という視点から社会の生命・宇宙の生命そのものに考察を進め始めるという点ではまだまだであった。

 

 行動で対決せよ<第二の宗教改革>

 しかし、ともかく、戸田は、宗教を従来の古い考えから解放し、宗教本来の姿にたちかえらせるために思索し、行動を開始した。第二の宗教改革にむかって果敢に、歩みだした。そして、そのとき、最も必要なことであったのは、戸田達が自らつかみ、発見した仏法=日蓮正宗を他の人々、それも、取りのこされた人々を中心に、普及していくことであった。それは、仏法の慈悲という観点からも、仏法の自利・利他という思想からも、日蓮の「大衆一同の異の苦しみは、日蓮一人の苦しみ」といった立場からも、彼等の思想・信仰を人々に伝えようとする当然の行動であった。しかも、その行動の中で、彼等は、ますます、自分達の思想・信仰を確かめ、深くすることができた。
 その行動を、日蓮は折伏といい、その言葉は、今日までつづいているが、折伏にまででていかないような思想・信仰は、真の仏法でないということになる。ほんものではない、といいきれる。だから、戸田は、人々に折伏をすすめたし、人々も折伏に突き進んだ。ことに、他人を説得し、自らの思想・信仰とほぼ同一の人間が誕生することを発見した人々の喜びと感動は、はかりしれないものがあった。自分自身に対する自信がおこり、誇りもわいてきた。一緒に考え、行動するところからくる強い感激もある。なによりも、これまで、自分自身に、そういう力のあることを考えてもみなかった人々に、全身からわきあがるような歓喜を味わせたことである。
 戸田も折伏について、
「わたしは、牧口先生が倒れても、先生の後、わたくしは広宣流布に身命を捨てている。感心せずについてこなければだめです。きみらがついてこようと、こまいと、わたしはやっていく。折伏できるのは、生命力が強くなるからです。……生命力が強くなければ、折伏はできない。女房に負けているようでは、折伏はできない。楽しめといっても、はつらつたる元気と生命力なくしてはだめです。商売もそうです。これが折伏の原因です」
 と、その決意を述べ、折伏が窮極には、自分自身のためのものであり、それがひいては他の人々のためにならなくてはならないという。
 それゆえに、戸田は、折伏にあたって、いかに細心の注意がいるかを懇切丁寧に、すなわち、
「われらが折伏にあたっては、その相手が何を悩み、何を願っているかを、よくみきわめなくてはなるまい。折伏にあたっては、各人各様、悩みと願望に相違あることを十分に意識してかからねばならない。……
 折伏の時間も、あらためて、昼なら昼、夜なら夜にいったらよいかは、家庭の状況を考えて、価値判断をなすべきである。これは、一例であるが、あらゆる折伏活動を価値的に判定して、より高い価値を創造するよう、絶えず考慮すべきである。
 座談会においても、十一時、十二時までこれをなして、むしろ座談会の価値を低下する場合もある。それがために、出席した人が夜おそく帰宅するために、物議をかもして、学会の総体活動に悪影響を及ぼす場合がある。かかることは、全体的立場から、価値ではない。かかる場合、少なくとも九時半なり、十時なりに打ち切って、故障のおこらぬ者に限って指導すべきであろう」
 と説いている。要するに、相手をみて、相手のことを考えて、法を説けというのである。折伏は、価値的行動でなくてはならないというのである。
 こういう折伏なら、たとえ、日本中、さらには、世界中におこっても、人々の顰蹙を買うことはあるまい。人々に、嫌な感じを与えることもあるまい。ここには、人々の苦を除き、人々に合った楽しみを与える折伏行動がある。
 しかし、現実には、その末端の折伏には、相手のことや立場を考えないものや、押しつけもあった。ことに、戸田が、御利益論をふりかざしすぎたことによって、その言葉にひきずられて、美・善の価値を忘れた者もでてきた。中には、美・利・善の中の利の価値だけを追求した御利益論もあった。戸田がいかに、折伏を価値的に(美・利・善の統一的価値を実現したもの)行なえといっても、それを利的価値にしかとらなかった。
 そこに、ご利益をめぐって、功徳をめぐっての混乱がおこった。だから、ご利益について、功徳について、法罰について、その思想を整理し、深めることは必要であった。とくに、今日、創価学会の力の限界が云々されるとき、その限界を超えるものがでてくるのは、戸田が考察の第一歩をふみだした人間生命の法則、社会生命・自然生命の法則についての究明を、大胆に進めると同時に、この御利益論、法罰論を整理し、発展させることにある。
 誤解をおそれずにいえば、これまでは、宗教教育の空白につけこんで、人々を仏法にめざめさせていった。今後は、むしろ、なんらかの方法で、宗教教育・イデオロギー教育を自分自身に課してきた人々を、真の仏法にめざめさせる時期にきている。宗教についても、人間の幸福、生命の尊厳、生命の自由と平等についても、それなりの明確な思想と意識をもった人々と対決する段階にきている。
 折伏の本当の困難さは、今後にある。それにどうとりくむか、それは、戸田が、その死後に遺した厳しい課題である。

 

                 <第三の大学…創価大学 目次>

 

   池田の政治教育論

 牧口・戸田の遺業のみでなく、遠く、さかのぼって、釈尊・日蓮の遺業をも継承し、今日、一千万人の先頭に立って、世界中の人々に向かっているのが、三代会長池田大作である。学会員とともに、二十一世紀に立ち向かおうとしている人間であるということもできる。それゆえに、彼の直面する課題、彼の解決しなくてはならない課題は大変なものである。とりわけ、彼は、戸田の遺した社会と自然の生命を貫く法則の究明とそれに基づく政治教育を、さらに積極的に推し進める使命の前に立たされている。しかも、この二つは、二つであって、二つではなく、前者は後者の内容をなすものである。社会の生命を貫く法則をどのように解明していくかということが、政治教育成功の鍵をにぎっている。
 一体、池田は、政治教育の内容をどのように考え、また、社会の生命の法則をいかに究明しているのであろうか。

 

 英知で権力と戦う<宗教から政治へ>

 池田は、宗教と政治について、
「いかなる政治も、宗教の土壌なくして成り立つ政治はない。宗教とは、あらゆる行動・思索・活動の底流にあって、その傾向を強く規定していく中核をいうのである」
 といい、さらに、
「仏法の慈悲は、抜苦、すなわち、生命の根底にある苦悩の根本的原因を解明し、さらに、それを解決し、その土台の上に与楽、すなわち、政治・経済・教育・科学等を通じて、幸福を実現していくとの原理であります」
 とも述べている。
 それによると、池田の考える宗教と政治との関係は、宗教は政治の根底にあるものだけでなく、政治は、宗教の一部であり、宗教の目的の一部を達成するものということになる。
 この考えは、牧口・戸田のそれを発展させ、より明確にうちだしたものということができよう。であるから、池田は、政治を人間から人間の幸福を奪っている社会状況を変革し、すべての人間に、その求める幸福を積極的に与えていこうとするものであると考える。それこそ、政治は、人間生命を社会生命との関連においてとらえ、それに生き生きとした生命力を、自由と平等を与えることを意図するもの、そして、政治教育とは、個々の生命である人間が生命の尊厳を求めて、あるいは、その自由と平等を求めて活動するようになる、行動できるようになる意識と思想を喚起するものということになる。
 その点では、たまたま、昭和四十五年三月末におこった日航機乗っ取り事件の処理をめぐって、政治的処理と人道的処理という二つの言葉が併列的に使用されて、多くの人々がそれに何の不審も抱かず、政治的という言葉はそこまで荒廃しているのに対して、池田は鋭く批判し、人間を無視し、人道を無視するところには、いかなる意味での政治も存在しないというのである。それは、彼が、今日のゆがんだ政治観に変革をおこそうとしているということである。
 そこから、池田は、現代の政治状況にアプローチし、まず、現代の最高の政治理念とされている民主主義に疑問を提出する。彼はそれについて、
「政治の理想というものは、もはや十八・十九世紀的な最大多数の最大幸福とは、質的に変わならなければならない。ここに、われわれは、一歩進んで、全民衆の最大幸福を具現すべき大衆福祉こそ、これからの時代相応の政治理念である。
 もとより、具体的な政治の手続きとしては、一つの議題をめぐって意見が対立した場合、多数決の方式によることは、当然であろう。だが、その場合にも、少数の者は無視されてしまうのでなく、あくまでも人間性尊重の理念に立って、彼らの福祉を向上する施策が行なわれなければならない。ある時点では、不平等であったとしても、時間の流れを追って、そこに必ず平等が具現されていくようでなければならない。
 このような大衆福祉の理想を実現していくには、なによりもその根底に慈悲の理念、すなわち、人間性尊重、生命の尊厳を守るという思想が確立されなくてはならない」
 という批判をする。要するに、今日、民主主義を名目とする政治は、政治理念を喪失して、民衆を人間を支配する政治技術に転落しただけでなく、人類を滅亡させるかもしれないところまできており、それはすべて、人間生命の尊厳を忘れ、すべての人間の中にある自由と平等への志向性を考えなくなったところからきているというのである。
 そうなると、あるべき政治を今日の荒廃した政治から救いだし、真の民主主義を権力者に奉仕する民主主義からよみがえらせる必要がある。そこに、池田が、耳なれない仏法民主主義ということを、あえて用いたのも、従来の民主主義の理念を復活させるだけでは、これからの民主主義には、不十分と考えたからである。彼は、それによって、今後の民主主義の内容と方向を指し示そうとした。
 池田は、その仏法民主主義について、人間生命の尊厳を根底とし、人間生命の自由と平等を志向するものであると書き、その自由については、
「生命自体のもつ自由をそのまま発揮させる思想」
であり、
「人間の生命はつねに環境との相関関係において生活を営んでいる。これを無視して、いずれか一方に片寄った考えのなかに、自由を見出しうるものではない。ゆきづまり、拘束されるのも、この環境との関連性によるものであり、環境を変え、支配しうる、逞しい生命力を本源としてこそ、初めて、真の自由をうることができる」
 といい、平等については、「価値の平等」であり、
「生命の本質に立ちいたれば、そこには、人種によっても、階級や性別によっても、本質的な差別はありえないとの平等観に立脚することである」
 といっている。
 ただ、そのとき、池田は、人間生命の自由を環境との関連のなかに、考えたのに対して、なぜか、平等については、環境との関連を考えない。本来、自由であり、平等である生命は、環境との関連のなかで実現するとき、初めて、具体的に、自由であり、平等であるはずである。人間生命の自由のためには、不自由を強いる環境を変え、支配しきるものがなくてはならないと明言した池田が、なぜに、人間生命の平等のためには、不平等を強いる環境を変えなくてはならないと断言しなかったのであろうか。
 たしかに、池田が、人間の平等を価値の平等としてとらえたように、自由も価値の自由でなくてはなるまい。人間が最終的に、実現すべきものも、価値の自由であり、価値の平等である。与えられた自由、与えられた平等ではないはずである。ただ、その準備段階として、社会的自由と平等、形式的自由と平等を実現していくのが政治の課題であるし、価値の自由と平等を実現していくのは、政治をこえて宗教の課題ということになるともいえる。
 そこには、形式的・社会的平等、与えられた平等を志向する人民民主主義との異を強調しようとするあまり、また、人民民主主義のとなえる平等が人間の平等でなく、経済的な平等に偏しているということをいおうとするあまり、こういう不徹底がでてきたのかもしれない。
 しかし、自由と同様に、平等を環境との関連のなかにとらえることは、政治を考えようとするかぎり、池田に必要だし、仏法民主主義の内容を明確にするためにも重要なことである。それが、また、公明党の政策が不鮮明とか弱いという批判がでてくる理由でもある。それを明らかにしたとき、初めて、仏法民主主義は、全人間の生命の尊厳をふまえて、自由と平等を志向する思想になるのではあるまいか。
 しかも、仏法民主主義の実現のためには、池田のいうように、一人一人の民衆が高い政治的英知を身につけ、鋭い批判力、豊かな洞察力、さらには、誤れる政治権力に対しては、敢然と戦う勇気をもつことが必要である。彼が、「もはや大衆すべてが、自己を確立した政治家でなければならない」といったことはそのことである。彼が政治教育の重要性を強調し、それに、精力的にとりくもうとするのは、そのためである。

 

 マルキシズムとの接点<人間性社会主義の道>

 次に、池田は、
「資本主義体制のもとでの利潤追求と独占の激しさのために、人々は、貧困と窮乏にあえぎ、厳しい自由競争と複雑な社会構造のなかで、生きるための基本的人権までも抑圧されている」と資本主義を批判した後、社会主義については、
「たしかに、この資本主義のもつ矛盾克服を課題として出発した。これは、社会の発展上、必然的な流れであり、資本家階級によって搾取される労働者の解放を叫び、人間としての平等を訴えたのである。マルクスの階級闘争理論が、その出発にあっては、きわめて本性的なヒューマニズムに基づく発想であったことは否定できない。
 しかしながら、その本来の目的である人間性の回復も、その理論的根拠を唯物論において、人間社会への考察を行ない、物質的な問題である経済に、そのすべての原因をとらえようとしたため、単に、社会機構の改革によって、達成しうるとの錯覚におちいり」
 ついに、
「社会主義体制の実施によって、解決されると考えられた人間性の問題も、結果的には逆となり、画一的な社会機構による平等化は、かえって、人間疎外を増大する結果をさえ招いた。……社会主義における構造の変革も、大衆福祉実現のためには、当然、必要であろう。だが、それが生きた社会機構としても立派に運用されるには、同時に、すぐれた思想・宗教によって、個々の人間性の開発がなされねばならない。今日の社会主義が、克服しえない問題は、この一点にある」
 と述べ、人間社会主義を強調する。
 池田が人間性社会主義を強調するのはよい。しかし、社会主義を以上のように理解することは、軽率という評価を受けよう。確かに社会主義を専らソビエト的社会主義においてとらえるかぎり、それによって、人間としての真の平等は実現されなかったという理解は、一応、間違っていない。ただ、帝政ロシヤ時代に比して、ソビエト・ロシヤでの民衆の自由と平等は、大いに実現されたということを別にすると、確かに、彼のいうように、革命当時のみでなく、その後のスターリン時代も、人間の価値を革命の価値以下に見、人間性の開発も十二分には意図されなかった。その点では、ソビエト的社会主義には、民衆の人間性が生かされきっていない。与えられた自由と平等は拡大したが、人間としての主体的な自由と価値としての平等は十二分に発揮されていない。」
 しかし、池田も、
「マルクスの思想はその出発にあたって、きわめて人間の本性的なヒューマニズムに基づく発想であった」
 と認めたように、マルクスが考え、志向したのは、全的人間の解放であり、人間の主体的な自由と価値としての平等の実現であった。決して、経済的平等や形式的平等を目標とするものではなかった。マルキシズムを唱え、人民民主主義とか共産主義を自称したからといって、マルクスの思想を正確に受けとめているとはかぎらない。まして、ソビエト的社会主義がマルクスの思想を正確に受けとめているということはいえない。
 あたかも、同じ仏教といいながら、多数の宗派があり、同じ日蓮の思想の流れをひくといいながら、異なる宗派を形成しているように、そして、その中から、最もすぐれたものを見分けることが困難なように、マルクスをいい、マルキシズムを正確に理解することは非常にむつかしい。とくに、マルクスの唯物弁証法を理解することは、物質という言葉に奇妙な錯覚をいだけば、なおさらむつかしい。そこに、混乱がおこるだけでなく、俗流マルキシズム・俗流唯物弁証法がはびこる。
 池田に、今、最も必要なことは、マルクスそのものについて、鋭く、正確な理解をもつことである。まず、思想としてのマルキシズ、哲学としてのマルキシズを理解し、そこから、政治としてのマルキシズム、経済としてのマルキシズムを知っていくことである。
 これまで、池田の発言の中には、全くといってよいほどに、思想としてのマルキシズム、哲学としてのマルキシズムが脱落している。彼が、戸田の遺した課題である人間生命の法則と社会生命の法則とを統一的にとらえようとすれば、マルキシズムを批判するにしても、それを正確に理解することが、ますます、必要になってくる。そうすれば、現在までのマルキシズムが社会の法則を主として、人間の法則、自然の法則の究明を怠ってきたことも発見できよう。

 

 平和のための努力<池田とコスモポリティズム>

 第三に、池田が掲げるのは、世界民族主義・地球民族主義ということである。それについて、彼はいう。
「戸田がいいだした地球民族主義の真意は、現代のさまざまな国家観に対する否定であった。否定といって当たらないならば、その止揚にあったといってよい。
 これまでの国家というものは、国民に対して至上命令の権威をもっていたが、そのような時代の終焉を早くも戸田は洞察していたのではないかと思われるのである。つまり、これまでの国家が、もはや、虚像となりつつあることを彼は見ぬいていたのであろう。……
 それは、国家の歴史的生成を考えるならば、きわめて明瞭なことといえよう。まず、部族から始まって集団形態が村となり町となっていった。封建時代には藩となり、長い年月、対立抗争を繰り返したが、それが単一国家に統合されていく。すると、藩と藩との地域競争は跡形もなくなってしまって、何の変哲もないことになってしまった。
 近代の戦争は、ことごとく国家と国家との抗争といえる。戦争は、きまってその所属する国家への忠誠のために行なわれたのである。……つまり、国家というものは、人間倫理の最高のよりどころであったのである。
 この倫理観のために、第二次大戦では、地球上の一千万の若人をむざむざと戦場で失わなければならなかった。戦争の価値観が変わると同時に、国家の価値観も大きな変化をおこしていくのは当然なことである。……
 さらに加えて、核兵器による大量殺戮は、破滅的な大惨事を予告している。その核兵器の所有者は、一握りの国家でしかない。現代のような国家の存続形態は、未来の戦争をさけうるとする保証には、全く無力である。むしろ、戦争の危機の根源は、このような国家の存続形態にあることさえ自明になっているのだ。
 戸田城聖の地球民族主義は、この意味において、極めて深刻な意義をもつものといわなくてはならない。仏法というものは、人間の原理を根本的に説いたものであって、国家の原理を従としたものである。しかし、これまでの国家観は、国家を主として人間を従においてきた。この倒錯を、戸田は看破したといってよい」
 この世界民族主義・地球民族主義の実現によって、初めて、世界の平和も訪れるというのである。これまで、こういう考え方に近いものを述べたり、書いたものは多い。しかし、それを、一千万の人々の先頭に立つ人が明言し、その実現に邁進しているというところに、従来とは違った意味がある。
 現に、日米安保条約に関係して、池田が、それの効力を失わせるには、ただ一 つ、日本が、自ら、地球上のあらゆる国々と平和友好条約を早急に結ぶことであるといい、現にそのために努力しているのも、世界民族主義実現への第一歩である。いうまでもなく、平和友好条約を結ぶ国々は、中国であり、ソ連であり、北朝鮮であり、北ベトナムである。
 池田は、中華人民共和国と平和友好条約を結ぶことについて、
「いつまでも怖れ・疑い・感情的になっていても、この民族は消えないのだ。独立国日本が、それくらいのことができないはずはない。人はアメリカの牢固とした牽制を恐れるかもしれぬ。だが、数千年来の隣国との誼を結ぶのに何の遠慮がいるものか。
 むろん、わが国には、中国敵視政策をとる人も多い。その意中がわからないではない。それは、たぶん、財界やアメリカの意向によるものであろう。だが、しかし、はるか未来の幾十年先に思いをはせるならば、今こそ、隣人の中国と手を結んでおくべきであろう。
 泥に足をとられた現実政治家達はこれを非現実的な空理空論というかもしれない。……
 一体、現実的とは、なんのことだろう。現実とは、庶民の生活意識のことである。そのような生活意識から生まれた政策こそ、初めて現実的といえるのである」
 といい、それは、長い戦争で、さんざんなめにあい、原子爆弾の洗礼を受け、戦争はもう二度といやだと悟った庶民の生活意識であると彼は断言する。彼は、庶民の生活意識をふまえ、世界民族主義・地球民族主義を実現していこうとする。庶民の中の明確でないどろどろとした意識に光と方向をあてながら、庶民を二十一世紀の社会に導いていこうとしている。しかも、庶民がそれを自らの中にしっかりと確立したとき、初めて、世界民族主義・地球民族主義は、世界中に、地球上に定着する。また、庶民は、そのときやっと、世界民族主義・地球民族主義の恩恵と功徳を受けることができる、ということを、最も深く知っているのも、庶民の中に生き、庶民とともに生活している池田である。
 池田が仏法民主主義・人間性社会主義・世界民族主義を掲げて、一千万の人々とともに、政治の世界に積極的にきりこんだのも、また、一千万の人々に、政治教育を果敢に推し進めようとしたのも、本当に庶民を知り、庶民の要求を理解したためである。庶民一人一人から、自らの幸福をかちとる英知をひきだそうと全身で考えたためである。
 しかし、池田の掲げた仏法民主主義・人間性社会主義・世界民族主義は、現代の政治を克服し、人々に真の幸福をもたらそうとするうえで、非常に適確で、すぐれた方向を示しながら、その内容には、今後の究明と考察をまたなくてはならないものがある。現に、池田自身もそれを究明するために、渾身の努力を払っている。
 人間生命の法則と社会生命の法則を統一的に追求した創価政治学・創価経済学が創価教育学の整備・発展とともに、一刻も早くできあがることを念じている。そのときこそ、創価学会の政治教育・政治進出になお一層の期待がもてよう。それが、池田を中心とする創価大学の一つの課題である。

 

 人間と社会と自然と<トータルな世界観>

 政治教育論に加えて、今一つ触れておかなくてはならないのは、池田が科学の名で呼んでいる自然科学のことである。仏法が人間生命とともに、社会の生命、宇宙(自然)の生命を究明してきたことは、これまで、度々記してきたが、ことに、宇宙の生命は、その究明を専ら直観にたよっていく以外になかった。しかし、宇宙(自然)を対象とする科学の発達とともに、当然、仏法の宇宙観は、科学の結論を大胆にとりいれた。しかも、そこに齟齬が生じなかったのは、仏法も科学も宇宙(自然)の法則を見究めようとしていたからである。こうして、仏法の宇宙観は科学の領域をどんどん吸収していったが、同時に、科学で解き明かせない部分をも依然として残した。そこに、仏法が、超科学的といわれる理由もある。
 しかも、仏法の立場は、人間生命と社会生命・宇宙生命を全体的・統一的にとらえ、近世以後の学問のように、人間科学・社会科学・自然科学をバラバラに切り離したものではなく、あくまで、人間生命の活動を十分にするために、人間生命の活動の一環として、社会生命・宇宙生命をとらえるという立場に立っている。
 いいかえれば、科学としての自然科学は、人間から独立して存在し、最近では、人間を支配し、人間に疎外感を味わせているが、仏法の一部としての宇宙観察・自然研究にはそういうことがない。その意味では、今日、科学としての自然科学を仏法としての宇宙観察・自然研究にしていくことが、人間を支配している自然科学から、人間の支配する自然科学にするために必要なことといえる。
 池田が「人間に楽しみを与える科学」といったのは、こういう科学であり、また、
「人間生命を離れて諸活動はなく、文化といっても、所詮、人間生命の所産である。いかなる科学といえども、究極において、人間生命・生活と切り離して論ぜられるものではない」
 といったのも、それである。
 序論で、私が、仏法とは人間・社会・自然をトータルにとらえた世界観、人間最高の英知であるといったのもそのことである。
 だが、なんといっても、仏法的英知の中でも、自然研究をし、宇宙観察をしていくことは、これまで非常におくれている。おくれているばかりでなく、仏典におんぶして、全く、サボっていたといってもいい。仏法の一部として、また、人間生命との関連の中で、社会生命・宇宙生命を追求していくということは、今ようやく、池田によって始められたばかりである。
 盲信・狂信を最も鋭く排除したのは牧口であったし、迷信を攻撃してやまなかったのは戸田である。盲信・狂信・迷信が民衆の中に巣食うのは、彼等の科学的無知である。科学を盲信するのも、科学についての無知であるが、その盲信・狂信・迷信を排除できるのは、人間・社会・自然についての知識であり、そこから生まれた英知である。
 かつて、牧口は、地理学を専攻とする社会科学者・自然科学者であったし、戸田は、数学を専門に追求したものであった。池田もまた、経済学・経営学を専門に学習した過去をもつ。彼等がともに、社会科学・自然科学を重視すると同時に、仏法の中の科学的思考に大きく目を開いたとしても不思議ではない。
 仏法は、科学の目をもつ者でなければ、つかまえられないともいっていい。それこそ、仏法は、人間・社会・自然の法則であるから。
 このように考えると、いよいよ、創価大学の課題は大きくなる。池田が、ここに学ぼうとする青年達に、異常なほどの期待を寄せるのも、よくわかる。すべては、これからである。

 

                 <第三の大学…創価大学 目次>

 

第2章 創価学園の理想

   池田の人間教育論

 

 世界平和の指導者たれ<創価学園の開校>

 創価学会は、池田の指導のもとに、とうとう、創価学園(中学校・高等学校)を、昭和四十三年に設立して、学校教育に乗りだした。その開校式の日、彼は、その喜びと決意を次のように述べた。
「文明といい、政治・経済・科学・産業・芸術といっても、すべて、それらを支配し、活用し、創造する主体は、人間である。しかして教育は、人間自身を対象として行ない、次代の世界を決定づける最も重要な事業である。……
 今日では、教育の重要性は、もはや、国家だけの問題ではない。世界、人類の運命、文明の未来は、まさしく、青年の教育にかかっていると、私は叫びたい。……
 しかも、教育は、一人一人、皆、異なった性格をもつ人間が対象であり、その一人一人の生命は、一瞬一瞬、微妙な活動をしているものである。ゆえに、教育ほど至難な事業はなく、これに従事し、献身する人ほど尊いものはないと思う。……
 我が創価学会の初代会長・牧口常三郎先生は、教育者としての長年にわたる、情熱こめた実践のなかから、卓抜なる教育理念を把握し、これを創価教育学体系として確立された。その崇高な理念と、科学的な学説は、欧米先進諸国の教育学に比しても、まさに、飛躍的にすぐれた内容をもつものであった。だが、当時の日本は、軍国主義のもとに、教育の尊厳は文字どおり踏みにじられ、牧口先生の独創的な主張もその功績も認められるところとならなかった。それどころか、かえって不当にも左遷され、厳しい弾圧を受けたのである。……
 創価学園の開校にあたって、私は、その創立者として、次の五項目を学園のモットーに掲げておきたい。
一、真理を求め、価値を創造する、英知と情熱の人たれ。
二、決して人に迷惑をかけず、自分の行動は自分で責任をとる。
三、人には親切に、礼儀正しく、暴力を否定し、信頼と協調を重んずる。
四、自分の信条を堂々とのべ、正義のためには勇気をもって実行する。
五、進取の気性に富み、栄光ある日本の指導者、世界平和の指導者に育て。
 ひるがえって、現今の教育界の実態をみるに、憂うべき事実は余りにも多く、改善を待望する声は、巷に満ちている。この悲しむべき現実の底流をなすものは、教育理念の喪失であり、若人の人格を軽視する風潮であり、また、指導者の次代に対する責任観の欠如である。
 こうした混乱と迷盲のなかにあって、理想的な教育の確立をめざして、我が創価学園は誕生したのである。むろん、教育の効果は、一朝一夕に実るものではない。教師も、生徒も、また生徒の父兄も深く理解を寄せられ、一体となって、この理想実現のために地道な努力を続けていくならば、やがて、混迷せる教育界の道標となりゆくことは必然であろう」
 たしかに、池田のいうとおり、教育は、一朝一夕に実るものではない。とくに、今日、学校教育の制度は、いよいよ整備され、充実しているようでありながら、教育理念の喪失や教育理念の混乱のために、その教育は、教育本来の姿を失ったまま、一体どこまで荒廃していくのか、一体どこに向かっていこうとしているのかという状態である。教育の効果は、いたずらに、上級学校への進学率で評価され、それが一体、人間にとって、また、現代にとって何であるのか、どういう価値と意味があるのかを教育的に問うということはほとんどない。しかも、上級学校の進学率という場合も、単に、○×的能力や記憶力・理解力が評価されるのみで、人間の全的能力が評価された上ででてきたものではない。将来、判断力や創造力というものが評価されるようになるとしても、人間の美・利・善の統一的価値を理解し、判断し、創造していく能力評価に、教育界がなることは並大抵のことではない。
 池田が、とくに、牧口の教育思想を問題にしたのも、彼の教育思想と教育信念を喚起することなしには、到底、この教育界を改造すること、教育界をリードする学園をつくることはできないと考えたためであろう。それほどに、牧口の教育思想はすぐれていたし、その教育信念は徹底していた。現に、創価学会の会員でない多くの人から、「こんな教育思想家が日本にもいたのか」という感動の手紙が私のところに多数きている。
 それはさておいて、教育に深い情熱をそそぎ、若者に大きな期待を寄せている池田が、その牧口思想を受け継いで、中学生や高校生に理解できる平易な言葉で打ちだしたのが、学園の五つのモットーである。
 今日、就職のために学ぶ者、自己一人の社会的出世のために学ぶ者、何もすることがないから仕方なく学校に通っている者がほとんどである中で、若者が若者らしい夢と理想を掲げて学ぶということは、非常にめずらしいことである。多くの学校では、その生徒が夢と理想をもつことを阻み、拒否しているし、若者が若者らしく生きられないのが、今日の現状である。
 その中で、池田は、進んで、学園生に、夢と理想を強く求める。しかも、その夢と理想が、真理を求め、価値を創造する英知と情熱であり、それを実現する勇気でなくてはならないというのである。
 なるほど、これまで、真理を求めることを強調した学校はあったかもしれない。しかし、価値を実現する主体になれと要求した学校はおそらくあるまい。まして、そのために、勇気が不可欠であるから、その勇気を養えと教えたものは、これまで、松下村塾しかないはずである。これは、革命家を育成する教育である。事実、彼は、「日蓮大聖人の仏法は、宗教人をつくるものではない。大政治家・文化人・立派な社会人・学生をつくるための仏法だ。そこで勝利者とならなければ、王仏冥合を実践することにはならない。根本は新時代を作るための革命児となることだ」
 といっているように、仏法が教育的に発現すると、それは、自分自身に革命をおこすと同時に、人々に革命をおこす革命家を育てるというのである。教育とは革命なりと、これほど明快に、また大胆にいいきった者はあるまい。それを標榜した創価学園には、世界の注視が向かう。

 

 すべての人間を英才に<人間性の教育>

 池田は、なによりも強く、教育の目的は、
「人を人間にまで導く、つまり人間形式である。また、人間建設であり、人間革命以外のなにものでもない」
 といい、教育の使命は、
「人間の中に秘められた、偉大なる可能性をひきだし、それを磨き、さらに磨きあげて、完成へと導くものである」
 という。そのことを、教育の現状をふまえて、彼は、
「今日の教育がとりもどさなくてはならないのは、人間性の教育である」
「ますます巨大化する科学文明の中にあって、人間はその奴隷になりかねない。あくまで、主人公として生きていくためには、それに打ちかち、それを使いこなせる全的人間でなくてはならない」
 ともいう。
 それは、今日の教育が、人間の知識だけを開発することにのみ汲々としていることに対する反対意見であることはいうまでもないが、知識が人間の能力の一部、それも重要なる一部であることを認めつつ、それだけでは、人間の主体的能力を開発する教育ではないし、しかも、その知識が単なる知識に終わって、美・利・善の統一的価値を志向する人間の英知とならないかぎりは、全く不十分、不完全な教育であることをいいきったものである。
 もちろん、これまで、「人間性の教育」「人間の全的能力の開発」をいいつづけたものはいる。しかし、彼のように、多くの人々に影響力のある形で発言し、その言葉のもつ意味が正当に理解されようとしたことはない。
 しかも、池田の主張するところが、これまでの「人間性の教育」「人間の主体的能力の開発」をいう者と根本的に異なるのは、彼自身、「健康な英才主義」「人間性豊かな実力主義」のもとに、すべての人間を英才に、実力者に育てあげようとしていることである。すべての人間を英才に、実力者に教育しうると考えていることである。そこが、大きく違う点であるし、また重要な点でもある。
 すなわち、池田は、
「英才教育とは、いわゆる天才教育やエリート教育とは根本的に異なる。児童のすぐれた才能の芽を早期に発見し、両親や家庭教師によって行なわれる天才教育では、その他の優れた能力を伸ばす機会を失ってしまう。……
 これに対し、英才教育とは、すべての青少年のうちに、次代の文化を分担する偉大な能力を内蔵しているとの事実認識に立って、その生命の宝庫の扉を開いていくために限りない愛情の手をさしのべていく教育のことである。
 一部のエリートが栄えた古き時代に、晩鐘を鳴らし、そして、万人が人材の新時代へ暁鐘を打つべき時がきた」
 と書くのである。人間性豊かな実力主義というのも、健康な英才主義の別表現であろうが、彼は、はっきりと、現代が大衆の時代であり、未来が輝やかしい時代となるためには、大衆一人一人が英才になり、実力者になる以外にはないと断言するのである。
 それこそ、同じ年齢層の八割を収容している高校で、その七割の高校生が与えられた知識に不消化をおこし、その結果、多くの者の劣等感・卑屈感・敗北感をつくりだしている教育の現実を直視すれば、池田でなくとも、教育とは一体何なのかと考え、さらには、現実の教育は、もはやいかなる意味でも、教育の名に値しないと結論をくださざるをえまい。
 大衆の時代として、すべての人間の時代として、新しい世紀が始まろうとするとき、依然として、教育は一部の特権階級、一部の学校秀才に独占されたままで、大衆の時代を実現するための大衆の教育は、その兆しすらないと考えれば、池田としても、がまんならないことであったろうし、それが創価学園の設立に踏みきらせることにもなった。
 狂った現実、理念を失った教育の前には、立ちあがって、それを是正する以外にない。そのためには、これこそが教育であると示す以外にない。それが一番遠い道であるようでありながら、一番近道である。そこに、池田の夢があり、理想があり、情熱がある。革命家池田の激しい情念がほとばしる。

 

 真理探究と価値創造<主体としての教師と生徒>

 こういう考えをもつ池田は、まず、教育者そのものに注目し、教育者の誇りと責任、教育者の思想を最高に問題にした。真に、教育者の名に値するものの有無が教育そのものの成否をにぎっていると考えた。それゆえに、彼自身は、
「教育者とは、偉大なる大哲理、そして先覚者の大理念に目を向け、かつ冷静に心を傾けて、己の血肉となし、教育信念となし得る」
 人と考えただけでなく、そういう教育者を、そういう教育者であろうと欲する人を、最大に尊敬した。また、「そういう教育者ほど尊いものはない」とも断言した。
 現に、池田は、創価学園で、教育に専心する人々をそういう教師として、また、そういう教師になろうと努力する者として、選びだし、最高度に敬意を払う。それにふさわしい遇し方をする。
 普通、教育者というものは尊敬されなくてはならない、それにふさわしい人格と教育的識見と技術をもった者でなくてはならないといわれながら、実際には、教育者の中で尊敬を受けている者はかぎられているし、デモ・シカ教師という言葉があるように、すぐれた教育的識見や技術をもっている者も少ないのが現状である。そういうところに、教育の成果、教育の効果があがるわけはない。ことに、「人間性の教育」や「人間の全的能力を開発する教育」が実現するわけはない。
 しかし、池田と創価学園の教師との間には、信頼関係が基調となっている。彼等がその期待に沿うべく、全力投入するのは、あたりまえであるし、さらには、生徒達から、深い敬意を、強い信頼を寄せられるのも、これまた、ごく自然のことである。
 しかも、池田は、とくに、教師と生徒の関係にふれて、
「仏法の師弟観は、根底は師弟不二であり、仏法の道をともに研鑽する同志であり、友達の間柄であります」
 といい、また、次のようにもいう。
「師の言葉を、ただ繰り返しているのが弟子ではない。それを応用し、発展せしめて、師の意志を実践し、師の理想を実現していくのが弟子の中の弟子である」
 教師も生徒もともに、真理を求め、価値を創造する主体であるという認識ほど、今日の教育に欠けたものはない。教師とは教える者であり、生徒とは、教師から学ぶものというところに、教師の権威化がおこり、生徒にはただ黙って聞くことが求められる。それが、今日、高校紛争がおきた主な理由である。
 もしも、ともに、真理を求める者という認識だけでなく、生徒は、教師の思想を継承し、発展させる者、単に、教師の言葉を繰り返している者は最低の生徒であるという認識があるなら、教師は、教師としての権威にあぐらをかくこともない。まして、生徒の批判を抑圧することもない。それに、教師として批判される教師は、きまって、学習をやめた教師、真理を求め、価値を創造する英知と情熱を欠いた教師、かえって、生徒の英知と情熱を抑えようとする教師である。教師としては失格した教師である。
 しかも、そういう教師が多いのが教育界の実情である。池田は、創価学園の教師には、一応最も教師らしい教師を選びだし、就任させた。
 しかし、大衆の時代にふさわしく、大衆の一人一人の全能力をひきだし、すべての人間が人間として主体的に生きていくことができるようにするためには、学園として、どうするのか、何をしなくてはならないのか、そういう課題が、創価学園の創立とは別個におこっているといっても、いいのではないか。池田には、その課題にとりくむ使命があるといえる。

 

 子どもは社会の子だ<家庭教育のあり方>

 教育活動の中で、教育者の占める役割が大きいと同じように、重要であるのは、その生徒の親であり、家庭環境である。ペスタロッチもその生徒の教育には成功したが、その親達の教育に成功しなかったために、結果的には、その生徒の教育に失敗するしかなかったといわれるように、教育とくに人間教育は、その生徒と同時に、その親達を、同一目標を求めて歩みだすように自覚させるかどうかが鍵をにぎっている。
 だからこそ、池田は、家庭教育について鋭く発言するし、また、創価学園の生徒を選ぶ場合には、学園の教育目標に深く理解を示すのみでなく、進んで協力してくれるような親たちを選ぶ。
 では、池田のいう家庭教育論とは、どんなものであろうか。彼は、
「子どもがよくなるのも、悪くなるのも、所詮は親の責任だ。それは子どもに対してだけでなく、子の親として、社会に対する責任である」
 といって、まず、親の社会に対する責任を強調する。従来、親というものは、自分の子どものことだけ考え、自分の子どもの能力だけが優秀であることを欲した。それは、他人の子どもが自分の子どもより劣ることを欲するということであり、それを疑うということはなかった。
 池田は、親のそういうエゴイズムに、真向うから反対し、子ども達は社会の子として、その親達には、子ども達に対する共同責任があるという。そういう大人達に、その親達が変わらないかぎり、子ども達一人一人がその能力のすべてを発揮し、人間として主体的に生きるようになれるとは考えなかった。
 いいかえれば、子ども達と同時にその親達を教育するということであり、その親達が教師とともに、子ども達をどういう子ども、どんな人間に育てるかということを真剣に討議するということである。親達が子ども達以上に、まず、自分自身が真理を求め、価値を創造する英知と情熱をもつ人になることを求め始めるということである。彼は、親達に、それを何よりも激しく要求した。そういう親達が初めて子の親といえると考えた。
 次に、池田は、
「親が自分の理想をもつのはいい。しかし、子どもがそれぞれの理想をもつことに干渉することは、子どもの人格を認めないことになる」
 という。親というものは、自分の体験というものをよりどころとして、非常にしばしば、自分の考え方、生き方を子どもに押しつける。その理想が絶対で、それ以上のものはないと断言する。
 子どもが自由に考え、判断し、追求することを押しとめようとする。それは誤っているとか、危っかしいとかいって妨害する。小さく、狭い世界に生きることを求める。これほど、人間生命の飛翔を、逞しい発展を、力強い自由の精神を殺すものはない。
 親の理想が、客観的にみて、偉大であったとしても、その子どもには、それを疑い、突き離してみる自由はあるし、子どもが本当に大きく伸びるためには、一度は、そういう姿勢で生きてみることは、ぜひ必要である。
 一度、疑ったことのある子どもと、親の言葉をそのまま受けいれている子どもとの相違はあまりに大きい。池田は、そのことを明確に、このように、いったのである。同じことを、教師と生徒の関係のところで述べていることは、すでに書いた。要するに、そこには、子どもをもつ親、子どもを教育しようとする親の最も重要な心構えがある。こういう考えを理解できない親は、その子どもを親の亜流にし、その子どもを二流・三流の人間にしか育てない。それが教師であろうと、思想家・宗教家の場合であろうと、そのことにはかわりがない。
 その点では、池田は、教育というものが何であり、何でなくてはならないかを最もよく知っているものといえるし、創価学園がそのような池田によって始められたというところに、大きな意味がある。

 

                 <第三の大学…創価大学 目次>

 

   創価学園の創立

 

 栄光の世紀のために<理想実現の教育>

 創価中学と創価高校は、昭和四十三年三月十六日に開校式を、四月八日には、入学式をすませ、名実ともに、中学校・高等学校として出発したが、それに先立って、関係者一同の学園設立に向かってはらった研究と努力は非常なものであった。ことに、どういう教育理念をもった学園をつくるか、その教育理念を達成するためには、どんな教育方法をとればいいかということについては徹底的な研究がなされたし、さらに、その教育理念と教育方法を学園の全教師が自分自身のものとして体得するために、最大限の努力が払われた。
 すなわち、池田は、二十一世紀を栄光の世紀として建設するためには、それを建設するにふさわしい人間を教育する学舎が必要であるという考えの下に、昭和四十年七月三十日の学会教育部会第四回幹部総会で、
「最初にご報告申しあげたいことは、創価大学ならびに、付属の創価高等学校の設立についてであります。十一月ごろ、設立審議会を発足させる予定になっておりますが、ここにおいて、二十年先、五十年先の日本の指導者、世界平和を築いていく指導者を育ててまいります。と同時に、特に初代会長の創価教育学説を、この社会で実践しきっていく教育をしたい。したがって、そのための完璧なる教育陣営・教育設備をつくりあげたいと思っております。
 当面の問題としては、正本堂の建立がありますので、それが終わってからか、また、高等学校だけを、それ以前につくるか、この点、設立委員会でよく検討してまいります。いずれにせよ、私も一生懸命働いて、全魂を打ちこんで、皆さんがたに一銭の負担をかけないでつくってまいりますから、安心してください」
 と述べ、その発言に基づいて、十一月には、「創価大学設立審議会」が発足し、学園設立に向かって全力が投入され始めた。
 同審議会は、会長に池田、委員には北条浩以下三十六人が任命され、十一月二十六日に第一回会合が開かれるとともに、審議会の中に設置基準委員会・大学専門委員会・高校専門委員会の三委員会が設置されることに決まった。
 高校専門委員会は、森田一哉委員長、柏原ヤス委員を中心に、具体的な建設にとりかかった。まず、教育課程・図書選定・経営研究・施設管理の五小委員会を発足させ、教育内容を中心に、学園経営をどうするかの討議を始めた。ついで、昭和四十一年四月に、創価高校建設委員会が発足し、校舎の設計等に具体的にとりくみ、八月には、その完成予想図ができあがった。
 創価高校の起工式が行なわれたのは、十一月十八日。この日は、牧口常三郎の命日で、それを記念して、都下小平市鷹ノ台で挙行されたのである。
 昭和四十二年四月、学会本部事務総局に教育課が設けられ、開校の準備にとりかかるとともに、六月には、学園理事長に森田一哉が決定し、学校長に小山内昇が就任した。武蔵野の面影を十分にとどめる鷹ノ台の敷地は延坪数約七万二千五百平方メートル。恵まれた環境の中に、校舎が竣工したのは昭和四十三年一月。鉄筋コンクリート四階建二棟、普通教室三二、特別教室一六、図書館・食堂・体育館・講堂・学寮などの近代的設備をもった校舎であった。ことに、特別教室は研究会を発足させて研究しただけに、それは、生徒の学習効果・学習意欲をたかめるに十分な設備であったということができよう。

 

 堕落した教育に挑戦<情熱と意欲の教育>

 だが、なんといっても、教育の成果は、教師の教育的能力いかんにかかっている。ことに、人間性の教育を強調する創価学園、そういう教育が今日最も堕落していることを歎き、現代の学校教育に挑戦しようとする創価学園としては、なおさら、教師の選択・任命が、その教育に決定的な意味をもつと考えざるをえない。
 そのため、昭和四十二年早々、学会教育部二万名の中から、数十名の候補者を選びだし、教師の特訓を始めた。教師一人一人が、教育理念と教育方法を自立的に探求し、それを各人が実践しうる教育者として自己確立するための特別研修会をもったのである。彼等は、毎月一回の研修会をもち、二泊三日の合宿研修会をやる中で、牧口の教育理論を読み直し、現代の教育について徹底的な批判を推し進めていった。中でも、彼等は、現代において教育とはどういう意味と価値をもつのか、教育活動にたずさわる自分自身とは一体何であり、何でなければならないかを討論していった。それは、彼等一人一人が教育者としての自分を再確認し、新たなる決意と覚悟とをもって教育活動に参加する情熱の振起であった。
 彼等は、それをふまえて、さらに、学園の共通目標である、「健康な英才主義」「人間性豊かな実力主義」について考え合い、また、それぞれの担当する教科とそれとの関係を究明するということをやってのけた。それこそ、単なる言葉としてでなく、「健康な英才主義」「人間性豊かな実力主義」ということが具体的な内容をもってくるためには、それぞれの教科の中でこそ、その意味がつかまれなくてはならない。
 今日の人間性不在の教育というのも、単に、教育目標が抽象的に掲げられるのみで、各教科との関連が具体的に究明され、つかまれていないということである。彼等がこういう問題に意欲的にとりくんだとしても不思議ではなかった。
 彼等は、もともと、教育に、情熱をもつ人達の中から選ばれた人達である。その情熱、その意欲はさらに、激しく、燃えあがるものがあった。その点では、彼等は、今日、デモ・シカ教師といわれる教師達とは全く異なっていた。教師になるしかないといわれる人達、校長のいうことしかやろうとしないような人達とは、本質的に異なっていた。そういう彼等を、学園の教師にふさわしく、一年間にわたって教育したのだから、彼等が人間としてもすぐれたものを志向するように、自己変革をなしとげたことはいうまでもない。
 こうして、彼等は、生徒の自主変革、人間革命を推し進める前に、彼等自身が自己変革をすすめ、自己変革の何たるかを自分自身で体験し、感得していったということもできる。それは、同時に、人間革命がいかにしてなされるか、を知ったということでもある。
 だから、初年度二十四名の教師陣が四十二年末に発表されたが、その教師一人一人が、生徒に何を与えるべきか、何を与えうるかを明瞭につかんでいた。しかも、その生徒の人間像は、二十一世紀に生きる人間として、二十一世紀を栄光の世紀として建設していく人間としてつかまれていたのである。そういう教師達が生徒を迎える姿勢は非常なものであった。興奮と期待でおののいていたといっても過言ではあるまい。
 この点にこそ、学園の第一の特色がある。

 

 自分の生を教える<二十八歳の教師陣の熱気>

 学園の教師に決まった人達の抱負と感激をみてみると、そのことがよくわかる。

 鈴木利博=もうなんといったらいいか……任命を受けたとき、これ以上の名誉はないと思って、一生懸命両膝を押えていたのですが、ガタガタ震えてきちゃって、どうしようもなかったのです。ああいうことは二度とないと思います。大事な事業の一翼を担わせていただけるという感激で、なんとしてもご期待にそいたい、ただそれだけの気持です。……
 ぼくの担当は生物ですが、生物を通して、池田会長のおっしゃる人間教育というものを実現するために努力したいと思います。……
 先輩たるもの、ことば使いも注意して、全魂を打ちこんで、自分のもっているものを、後輩に打ちこんでいかなければならない。ともに戦っていかなければならないと思っています。そういう意味からも、ゼロから出発するのですから、常に研鑽し、よき教育者であると同時に、よき研究者でありたい。欲ばった考えですけれども、そういう希望がやっとまとまったところです。
 山本英夫=いままでは、お役に立ちたいと思っていても、自分では果たしてどうしたらいいのか漠然としていたのですが、たまたま、創価高校のお話を伺って、ぜひやらしていただきたいという一念をもっておりました。お話があって、自分がここで命を捧げて、いままで学んできたこと、訓練されてきたことを、思いきりつぎこんでやっていけるということで、すっきりした気持になったわけです。……
 受験ばかりでいくと、なんとなく、高校というのは、中学から大学へいく中継点になっちゃうし、いままで、ぼく達が受けてきた教育というのは、上の方から受験受験と押しつけられてきた教育じゃなかったかと思います。それよりも、将来の自分の人生というものをじっくりと考えて、しっかり勉強して、大学へはいってすばらしい基礎を築いていくというような、生徒の内側から出てくるような受験感覚を教えていきたい。……
 生徒を教える側に立つ者は、その生徒よりも三倍の知識をもたなければ、まともな教育はできないと聞いておりますが、現在、生徒の三倍以上覚えているかどうか疑問です。まず、第一段階として、開校されるまでに、教科書、あるいは教授法を完全に消化するために勉強しているわけです。それからあとは、生徒とともに勉強しながら、自分自身が教育界の先端におどり出ていく努力をしたいと思います。……
 自分自身もこれがほんとうの教育なんだということを示していけるだけの教育者になっていきたい。
 加藤健=いまは、受験受験で、教師の方が受験ノイローゼになっているようです。しかし、生徒に受験勉強ばかりさせるよりも、みんなが本を沢山読みたいんだし、そのときに読ましてあげることが、どのくらい役に立つか。中学・高校の年代というものは、たくさん、本を読ましてあげて、受験よりももっと大事な人間性の教育を行なうべきだと思います。そのためには、教師が受験ノイローゼの教師でなくて、それを脱した立場に立たなければならないと感じます。……
 とにかく、勉強をやってやって、やりぬいて、その歓喜と情熱を生徒に移していきたい。将来は、大学教育まで一貫するはずだし、また日本の中等教育の責任はわれわれがとっていかなければいけないという気持でいきたい。
 松田富夫……ぼくの任務は、世界史ですが、歴史の教育を通してどうやって生徒をりっぱに育てていこうか、その重大さを考えただけで、感激というよりも、むしろ不安を感ずるほどです。下手をすれば、独善的な境地に陥ってしまうし、そういう自分の性格もありますので、なんとか先輩に教わりながら、りっぱな教育者になっていきたいと思っています。……
 これから一年ぐらいは、ただいま猛勉中というのがつづくんじゃないかと思います。そして、才能のある高校生をどんどんのばしていく。一人の落伍者も出してはならないということ、ぼく自身が生徒の模範となっていくような教師になっていきたい。

 こういう感激・抱負が、創価学園全数師のものとすれば、学園の将来には、非常な期待がもてよう。しかも、昭和四十五年三月現在の教師数四十三名で、その平均年齢がわずか二十八歳であるというから驚く。
 教師の一人、永村保は、「英知・栄光・情熱を、初め生徒のものだと考えていたが、それらが何よりもまず、教師自身、ぼく自身のものでなくてならないことを知った」と語っているが、若いがゆえに、すぐさま、それらが自分達のものであり、自分達のものにしなくてならないとも知ることができたのである。
 要するに、学園の教師達は、若く、生き生きしている。生徒達の先頭に立って、模範を示そうとはりきっている。人生とはこういうものであり、生きるということは、これだと確信をもって、自分の生を生徒の前に、示そうとしている。その誇り、その自信は本当に、大変なものである。

 

 エゴの奴隷化防ぐ<人間性豊かな実力主義>

 教育の成果いかんは、今一つ、カリキュラムの内容が重要な鍵をにぎっている。そのために、早くから、教育課程小委員会がその検討を始めていたが、最終的に決まった学園のカリキュラム作成にはどんなところに、配慮が払われているのであろうか。
 まず第一は、カリキュラム編成にあたって、中学・高校の六年間の枠で、授業計画を考え、普通に行なわれている中学・高校の繰返しの授業のむだを省こうということに重点がおかれている。中学で浅く狭くやり、高校では一寸深く教えるということを排して、中学・高校の時間をまとめて使い、広く深く、徹底的に授業をするという方向をとっている。そこに、一貫教育の意味を十分に生かそうという配慮がある。そのことから、教師も中学の専任、高校の専任ということを決めず、学園の教師という自分を定着させている。
 二番目は、受験体制にかたよることから、美術・音楽・体育などの教科が軽視され、ときには無視されている現状に対して、学園では、「健康な英才主義」「人間性豊かな実力主義」という観点から、美術・音楽・体育を具体的にどうするかということに、最も深い配慮がなされている。
 だから、美術・音楽・体育の教師達の自信と抱負は大変なものである。ある意味では、学園の教科の中心をなすものは、美術・音楽・体育であるといってもいいすぎではあるまい。
 三番目は、普通三期の評価をしているのに対して、学園では、五期評価を採用している。ことに、生徒間の比較、生徒間の競争を避け、全員を英才に育てるという立場から、クラスの平均点と生徒の点数を併記するという方法をとっている。それは、ともすれば、生徒間の激しい競争が友情の芽をつみとり、単に、エゴイズムの奴隷となりがちであるのを防ぐという立場から生まれたものである。
 その点では、教師も生徒の学力・能力を比較的に見るという態度を強くいましめている。そのために、五段階評価に一応従いながらも、それにあらわれない生徒一人一人の個性や内容には、特に留意する。
 四番目は、道徳という名の授業時間を設けず、それをホームルームの中に吸収し、教師と生徒との人間関係、生徒相互間の人間関係、具体的な生活そのものの中で推し進め、発展させようとしていることも、一つの特色といえる。これは、従来、道徳教育が二重人格をつくり、人間そのものを分裂させたことに対する、鋭い反省から生まれたものである。人間関係にあらわれないような、具体的生活ににじみでないような道徳は、真の道徳でないとすれば、道徳を生きた人間関係のなかで追求しようとするのも当然である。
 しかも、そういう生活が、社会生活の第一歩であると考えている。あらゆる教科からえた知識が具体的に生き、人間の英知に発展すると考えている。
 五番目には、学園の教師もいっているように、この時代にできるかぎり読書をすることが大事であるから、学園では、一人一人の生徒の読書指導を計画的に指導している。
 そのために、図書館の整備に最大限の努力をなすとともに、生徒一人一人の読書カードを作って、必要な助言、指導ができるようにしている。しかも、それは、生徒へのおしつけでなく、生徒一人一人の読書欲を導きだし、生徒の主体的な学習を助けることに主力をおいている。
 こうした生徒の読書指導がカリキュラムの一貫として考えられているところに、学園の特色がある。

 

                 <第三の大学…創価大学 目次>

 

   創価学園の教育

 

 学園の教育は、カリキュラムに即して、強力に推し進められているが、その教育の中心的位置をしめているともいえる芸術科(美術・音楽)の教育から述べてみたい。
 まず、芸術科の指導目標には、
一、人間性豊かな最高の文化を建設し、世界平和を達成する人材を育成する。
二、種々な表現活動を通じて創造力を養い、積極的・自主的な行動を培う。
三、各人の個性の発見と育成をはかり、何ごとに対しても感受性豊かな人間を作る。
四、鑑賞力を養い、芸術文化を愛好し、尊重する態度を養う。
五、協調の精神と認識力を養う。
六、人間的生活に根ざした表現技術を養う。
 と記されている。それを要約すれば、現実を見つめ、真剣に生活をとりくむ中で、豊かなヒューマニズムに満ちた生活を築いていこうとする精神と姿勢を育成するということになる。
 具体的には、美術教育を通じて、現代教育の中で、全く、おき忘れられている人間性の喪失・不在をとりもどすことに主眼をおき、そのために、美的感覚を磨き、視覚的造形的表現能力を養うとともに、社会の美的向上に寄与する態度や習慣を培うことが強調されている。
 それと併行して、共同制作の中で、生徒の協調的精神をも養うことを考えている。
 また、音楽教育では、その目標を、
一、音楽とは、自己の思想をおもに感情面に訴えてゆく手段であり、方法である。したがって、自分の考えが的確に表現でき、また、相手の表現が的確に感受できることが第一の条件である。その能力を育成し、促進することが音楽教育の目標である。
二、音楽は世界共通の言葉であり、そこには、人種の壁も国境も存在しない。ただ、生命と生命のふれあいこそすべてである。よって、高遠な哲学・思想を音に托して流布し、最高の文化建設に、人類の幸福に寄与していくことこそ、音楽に課せられた使命である。
 といいきる。
 さすがに、美的価値を追求してやまなかった牧口の、教育思想を受け継ぐだけに、絵画美と社会美を統一的にとらえ、音楽美と人類美を総合的にとらえようとする。そして、美的感覚を養い、美と醜とを見分ける能力、それも、力ある能力、行動的能力を養う上で、芸術科は、各教科にまさると考える。
 しかし、なんといっても、学園の音楽教育の特徴は、音楽の本質そのものについての考え方を全生徒につけさせようとしていることであり、その第一歩として、音楽をどの生徒にも好きにならせるということに主眼がおかれていることである。
 しかも、その場合、歌謡曲の好きなものは歌謡助曲から、ジャズの好きなものはジャズからはいっていくのである。多様な生徒の、多様な段階にあった、生徒の心に密着した指導をやってのける。そこには、劣等感もひけめも入りこむすきがない。

 芸術科と同様に、「健康な英才主義」「人間性豊かな実力主義」の教育を達成するために、重要な位置をしめているのが保健体育である。健康であるためには、生命力・行動力が旺盛であるためには、体力が充実していなくてはならない。池田は、勇気・気力・情熱を強調しているが、それとても、体力と無関係ではない。それに、体力づくりという場合には、単に、肉体活動がすばらしくなるというだけでなく、そこには、人間の頭脳活動、英知が働いて、初めて、可能になる。人間の英知が活動するときに、初めて、体力づくりも可能になる。知識でなく、英知となって働く、最も原初的な形態が体力そのものであるといってもいい。
 いずれにせよ、学園では、保健体育を重視する。
 たとえば、二時間目と三時間目との間に、毎日、行なわれている十五分の業間体操も、週三時間の体育では不十分であるというところから生まれたものである。それは、週三時間の体育の効果を四時間、五時間にまでしていく。健康上から考えても、その効果は大きい。
 また、年一回のマラソン大会は、生徒の体力づくり、生徒の忍耐力・意志力を陶冶するということをからませて、実施する。しかし、目的は、単に、それだけでなく、教師と生徒が、生徒同志が、ともに汗を流し、一緒に行動するというところに意味を見出す。そうしてこそ、教師と生徒、生徒間に、真の対話が生まれると考えるのである。だから、校長を初めとして、教師も全員、生徒とともに走るのは、いうまでもない。これは、あくまで、人間の英知の向上をねらったものである。
 さらに、土曜日の午後に行なわれるクラブ活動も、体育の一環として実施している。その欠席は、普通授業の欠席と同じようにみなされるだけでなく、対外試合も禁止されている。それは、あくまで、体力の増進と集団訓練に重点がおかれているためである。
 教科としての体育の指導では、能力別グループ制がとられる。現実にある個人差、身体の発育状況、運動能力等の違いは否定できないから、等質的グループ編成が生まれたのである。その場合、グループの活動は話し合いを中心とし、グループ間での相互の協力・指導・評価等、またグループごとの協力・競争を通し、自主的雰囲気の中で、授業を進めることによって、社会的自主的資質を養うように指導している。
 その点では、あくまで、人間として、現代人として、社会的能力・活動力・行動力を育成するのみでなく、体育の生活化、各種多様な競技に自ら参加する資勢と能力を養うことにも主張がおかれている。

 国語教育では、従来、ともすれば、国語そのものを理解させることに力点がおかれ、国語を通して、自己の知識を広め、自分の意見を発表することには、あまり、努力が払われなかった。もちろん、文部省は、読むこと、書くこと、聞くこと、話すことの指導を一応求めているが、国語そのものを理解する基礎的な学習に終わる傾向があり、書かれているものの内容を本当に理解するということがなおざりにされた。いわゆる、論語よみの論語知らず式の人間が数多く出た。
 その点で、学園の国語教育は、読解力をつけ、作文能力を育てることに力点をおく。国語科主任の永村保は、
「すぐれた教育者であられた牧口先生は、生徒の学習指導として、三つの段階をあげている。認識作用→評価作用→創価作用。現代の国語教育の課題は、この創価作用ー価値創造の学習をどうするかということであろう」
 と書いているが、生徒一人一人を価値創造に向かわせるためにも、価値創造の姿勢を身につけさせるためにも、何が価値であり、なにが価値でないかを識別することからはいる以外にはない。
 書かれたものの内容を正確に理解し、さらにそこから、新しい価値を考え、創造し、それを的確に表現しなくてはならない。そのように考えると、いよいよ、読解力の指導、作文能力の指導が重要になってくる。
 学園の国語教育が評論文を読んだり、教科書以外の多くの教材を用いて、学習を展開するのも、また、多くの古典を読ませ、それの特徴をつかませようとするのもそのためだし、あるいは、類文指導によって、基本的な文章をのみこませ、徐々に、自由な文章が書けるように、あらゆる機会を利用して指導するのも、作文教育の伴わない国語教育は、本物でないと考えるためである。
 だが、国語教育の中で最も注意しているのは、できない生徒のために、ひっこみがちの生徒のために、グループ学習を採用し、成功しているということである。すなわち、八名ぐらいのグループを生徒の学力を考慮して編成し、グループごとに課題を与え、その課題をグループで協力してとりくむという方法をとっている。それには、グループ長と教師との密接な連絡が必要だし、教師の適切な指導がないとグループ学習は必ず停滞する。グループ学習が成功するかどうかは、教師の情熱と努力にあるといってもいい。
 しかも、学園では、グループが一つの課題を終わるごとに、必ず、それに関係した書物を与えて、レポートを書かせるようにしている。教育活動を最少限にしたいと思っている教師達には、絶対にできないことである。いずれにしても、できない生徒、ひっこみ勝ちの生徒をつくらないために、可能なかぎりの努力がなされている。

 社会科教育では、牧口の郷土科教育の伝統を受けて、地理教育に最も主力がおかれているように思われる。とくに、地理とか歴史は、昔から、暗記課目として、生徒に受けとめられているだけでなく、教師の中の多くもそのように考えている。それは、地理・歴史の教育が、本来、何であるかを一度も考えたことがないということである。
 だから、学園の地理教育では、地理的事象を暗記することにその目的があるのではなく、地理教育の目的は、地理を学習することによってえた考え方、見方を、将来、生活する地域社会の向上発展に役立たせることにあることを強調している。
 もちろん、そのためには、生き生きとした野外観察、具体的な郷土の観察が、正確にできなくてはならない。それらを知ることに、新鮮な喜び、深い情熱を感ずることが第一条件である。
 生活の知恵にならないような地理教育、単に、地理的な事象について知っているという地理的知識ほど、地理そのものとは全く無縁であることを知ることが必要である。しかし、受験のための地理教育、入試のための地理教育が本来の地理そのものをゆがめたのである。
 その点では、歴史教育は、地理教育以上にゆがんでいる。歴史的事象について、過去の事件について、いろいろ知っていること、正確に知っていることが歴史だと思っていて、歴史的な見方・考え方を駆使して、新しい歴史を創造するところに、歴史教育の目的があると考える者はほとんどいない。過去を知るためにでなく、現在と未来を知るために過去を追求しているのだと考える歴史教育家は、ほとんどいない。
 社会科が暗記科目でないといいきる学園の社会科教育の前途は全く厳しい。厳しいが、学園の考えている社会科教育はまともである。ここには、人間そのものから遊離した単なる社会科的知識、歴史的地理的知識を、人間の英知にまでたかめようとする。行動力・形成力を導く英知にしようとする努力がある。社会を形成する英知にならない社会科的知識は死んでいると断言するところに、学園の推し進める社会科教育の本質がある。
 しかも、今、池田が、地球民族主義・世界民族主義を掲げて、学会員を指導していることを考えると、学園の地理教育・歴史教育のもつ意味はいよいよ重要になってくる。世界的センスを養い、人類集団の一人としての自覚を与えるのは地理教育であり、各民族、各国家の伝統とその特殊性を教えるのは、歴史教育であるからである。また、人類が世界が徐々に一つになっていることを知らせるのは、社会科教育である。

 数学教育の現状は、得意な生徒と不得意な生徒が固定していることである。苦が手意識に悩んでいる生徒が意外に多いということである。そこで、学園の数学教育が最も意を払っているのは、それを打破することにある。
 そのために、まず、生徒が数学に対して、はっきりとした自信をもつように指導していく。もちろん、その自信も、裏づけのない軽信でなく、不撓不屈の訓練に裏づけられたものとなるために、問題は必ず自分で解くというように指導している。学習参考書を利用して、十問解くよりも、自力で一間解くほうが意味があることを徹底的に知らせる。それには、社会科が暗記する学科でなく、考える学科であり、新しい社会を創造する喜びを知るものであったように、数学とは考える学問でり、考えることを楽しむ学問であることを、生徒一人一人に実感的にわからせることが必要になってくる。そのことがわかれば、自ずと、学習参考書によりかかって、十問解くより、自力で一問とくことのほうに価値を見出すようになる。
 次は、教科書を簡単にきりあげて、参考書の問題を広く浅くやらせるような入学試験のための数学教育でなくて、徹底的に基礎知識を注入する教育を考える。とくに、数学というものの性格が、前の知識が十分でないと、後の理解はできないということを生徒にとことんわからせるように指導している。
 こういう学習の態度は、自然に、自主的に学び、考え、創造することに喜びを見いだすとともに、基礎をしっかりとやること、段階的に物ごとをやっていかなくてはならないという姿勢を、身につけさせることにもなる。
 そこから、学園では数学教育の目的を、数理的知性の育成におき、その数理的知性については、厳密に論証の訓練による結果としてえられる知性、抽象的な思索訓練の結果としてえられる知性、計画訓練を通じてえられる知性というように規定している。
 とくに、数学科主任谷川勝利が、
「数学の壮麗な殿堂は、これを理解しうる者にとって、この世のものと思われぬほどの美しさである。しかし、理解しえない者にとっては、まるで頭脳にやすりをかける悪魔のごとくにしか感じられないであろう。そこで、理論の美をのぞき見うるだけの能力、数学の研究がたのしくなる基礎的な理解力、そして精神面のファイトが、数学を学ぶ者には重要となっていく」
と発言していることは、学問そのものには、美・利・善がなくてはならないといった牧口の思想とからませて、非常に、心ひかれる言葉である。
 美を忘れた数学、美の追求を怠る数学者があまりにも多いというのが現実である。それに対して、戦いを始めたのが、学園の数学教育である。

 理科教育は、小山内昇校長の陣頭指揮の下に、四つの目標を達成するために意欲的にとりくんでいる。その四つの目標とは、
一、自然現象に働きかけ、そこから問題を取り出して、これを解明し、真理を見いだそうとする積極的意欲を養う。
二、実験観察を主要な手段として用い、事実に基づいて、科学的な考え方によって結論を導き、さらに、一般性を見いだしていく。
三、個々の事象の表面的、断片的な知識でなくて、基本的な事実を理解させることに重点をおき、生徒の生活の上から見て、意義のある教材を選び、その知識を広く活用させ、また、積極的に新しいものを創造しようとする姿勢を養う。
四、自然科学の著しい成果は、さまざまな形で、生活や産業にとり入れられ、生活の向上、人類への繁栄に貢献している。その反対に、人間を苦しめ、人類を危機におとしいれているのも、今日の自然科学である。それをふまえて、理科教育は、研究の意義や重要性を認めさせるとともに、人類の福祉に役立つものでなくてならないこと、そのために役立つ自然科学にする。
 という積極的な態度を育てようとしている。要するに、単なる知識でなくて、生活の知恵として、人間の英知として作用しうる知識を与えようとしているのが、学園の理科教育である。
 そのために、学園では、小学・中学・高校それぞれに、独立して教えている理科教育、それもほとんど内容に大差のない理科教育、単に、高学年になるに従って、表現がむつかしくなるという理科教育の現状に、徹底的にメスをふるい、繰り返しを避けるとともに、理科的な考え方が生徒一人一人の全人間的な考え方にまで、たかめられるような指導をしている。また、中学校では、普通、理科一つになっているが、学園では、生物・物理・化学・地学の四コースに分け、その思考力を鍛え、深めるという方法をとっているのも、理科教育を徹底させようという配慮から出ている。
 ここから生まれる自然科学は、人間を危機におとしいれるようなものには、絶対にならないに違いない。

 最後に、英語教育であるが、学園では、生きた言語の学習に重点をおいている。世界各地に雄飛する人間を育てようとすればするほど、英語教育をふくめて、語学教育が重視されるのも当然である。
 ただ、英語教育の場合、どこの学校でも重視しているし、音声の教育からはいり、あるいは、LL(Language Laboratory=語学研究室)の授業を採用するなど、その点では、とくに変わったものは見られない。中学の段階では、LLを採用することは無理であるという常識に対して、中学で活用して成功をおさめているということも特記するほどのことではないであろう。むしろ、そういう設備を十二分にもっている学園にこそ、驚歎がわく。
 とはいうものの、学園の英語教育の他校と違うところがないわけではない。それは、他校のLL授業がおそらく、英語の力をつけることにだけ向けられているのに対して、ここでは、機械になじませ、機械に使われるのでなく、それを駆使する人間でなくてはならないということを、同時に教えようとしていることである。
 人間と機械の関係が、非常にいびつになっている今日、こういう教育は、とても重要である。

 

                 <第三の大学…創価大学 目次>

 

   寮生活の意味

 

 英知と情熱の生徒を育成しようとする学園が非常に力を注いでいるのが寮生活である。日本中から集まった生徒のために、寮を設備するのは当然であるが、単に、それだけでなく、その生活に、積極的な教育的意味を与えようとしている。自宅から通学している東京近辺の生徒に、二ヵ月間の寮生活をさせるのは、そのためである。
 では、寮生は、どのような寮生活を送り、また、その中で、何を学び、何を鍛えているのであろうか。

 

 大いなる飛躍のために<自己革命から出発>

 まず、案生は、池田の寮生活の根本方針である、「先輩は後輩をかわいがり、後輩は先輩を尊敬する」「どんなに苦しくても、つらくても、歯をくいしばって、この地で三年あるいは六年間がんばる」「みなさんは、親もとを離れて自分をみがき、親をも救っていくのです」という言葉を胸にきざみつけて、どんなに苦しくとも、それに耐え抜いていこうと決心する。共同生活、団体生活の中で、協調の精神、互助の精神を学んでいこうと覚悟する。その決心、その覚悟が、寮生としての始まりであり、これまでの生活に一つの革命をもたらすことになる。
 池田の平易な言葉の中には、自己革命と家庭革命を同時に遂行し、将来は、世界革命に猛進していく能力と姿勢を身につけることを一人一人の寮生にうながすものがある。
 こうして、彼等の生活が始まる。だから、朝六時に起床すると、全員、早速、上半身裸になり、冷水まさつにとりかかる。彼等の燃えるような情熱に満ちた生活は、ここから始まるといってもよいし、細々とした情熱の者には、逞しい情熱を注入し、奮い起こす生活である。
 しかも、寮生は、その中で、意志や、忍耐力を徐々に鍛える。生命力を深めていく。自分を鍛え抜こうと考えて入寮してきた彼等には、たとえ、それが苦痛であっても、歯をくいしばって耐え抜く以外にない。しかし、それもいつか、楽しく、爽快そのものになっていく。まさに、情熱を強調する学園生にふさわしい一日の始まりということができる。
 全員による清掃も、有志による朝の勤業も、すべて、七時十分から始まる朝食をかぎりなくおいしいものにする。健康そのものの朝食がとれる。
 夕方の午後五時半から、全員の点呼と有志による勤行が行なわれ、六時十分、食事と清掃。七時から自習時間で、最初、中学生三時間、高校生四時間であったが、現在は、中学生四時間、高校生五時間に変更されている。もちろん、この自習時間は、あくまで原則で、なお、やろうとする者には、時間が延長されている。
 この間、自由時間を見つけて、洗濯するもの、家に手紙を書くものといろいろあるが、洗濯・清掃などをすることによって、自分のことは自分でやる、自分達のことは自分達でやるという生活姿勢を身につけていく。
 さらには、友達同士で、現代の学問について、政治について、学生運動について、経済について、自分自身がどう考え、どう生きたらよいかなどと真剣に話し合う。それこそが、幼いながら、使命感を自分の身に受けとめて生きていこうとしている寮生の最も寮生らしい生活ということもできる。彼等は、そのときにこそ、全身に、その情熱を燃えたぎらせて、人類の未来を語り、各人の夢と理想を熱っぽく話す。最高に、寮生が生き生きとする一瞬である。
 ことに、土曜日の夜は、決められた自習時間もなく、寮生は、思う存分に語る。グループごとの討論会・座談会が開かれるのもこの日である。日曜の午後の自由時間を利用して、先生や先輩・友達たちから教えられた本を購入しに、神田・早稲田・本郷の古本屋街にでかける者も多い。彼等は、中学生・高校生のうちから、古本屋をあさる生活が身につくのである。
 こういう生活が、全寮生を代表する部長・副部長・書記など六人の執行部員を中心に、数部屋を統轄するグループ長、各部屋を管理する室長たちで、自主的に進められる。ときには、成績の香しくない下級生のために、上級生が積極的に指導援助するのも、執行部で考え、実施にうつしたものである。
 とすれば、寮生達がめざましく成長し、発展するのも当然である。
 彼等は、また、次のように大いなる飛躍を求めて、その決意を語り、また、常に現状に仮借のない批判を加える。
「我々の生活は、安逸のうちにひたりきっている。今こそ、この怠惰を打ち破って、逞しき新生の歓喜で、体育祭をうたいあげようではないか。“一人立つ”これを全員の決意としていかなくてはならない。それを忘れたところに脈絡は途絶え、断絶が深い溝を刻むのだ」
「寮において、体育祭に対する意識はきわめて低かった。小さな問題に終始して、ものの見方がいささか近視眼的になっていたことは否定できない。これを惰性という。
 また、ひとつには、創立者池田先生が参加されないということも低調の一因をなしていたのであろう。思い返してもみよう。学園生活のいっさいがことごとく、創立者を軸として進展してきたことを。
 しかし、ものの見方は、その人の一念しだいで、百八十度も変わってしまうものだ。我々は、ここに新たなる自覚を奮いたたせねばならない」
「寮生活が変則的になった。夕食をとると、また夕やみの中、哲学者の道を登校した。夜おそくまで、灯の消えない校舎を一種独特の気持で見あげる。深夜帰寮、楽ではないが、闘う者の充足感が心身をつつみこんでいく」
「明日、都内で反戦デーのデモが行なわれるそうで、相当の混乱が予想されているが、暴力によらなければ意見を訴えることができないようではいけない。
 もっと力をつけねばならぬ。あらゆる力をつけねばならぬ。明日から新しい出発をしよう」

 だからこそ、自宅通学生も寮生活にあこがれ、寮生活をしてみたいと考える。二ヵ月間の寮生になった彼等は、口々に、
「わずか二ヵ月でありますが、有意義に過ごし、生涯の思い出になるものにしたい」
「この機会に、自己をよく見つめて、先輩や、寮担の指導を受けて、自分を革命してゆきたい」
 と、その決意を語る。
 彼等の日課は、寮生と変わらないが、日曜日には、朝起きた後、一時間の散歩をする。玉川上水に沿った小道、茂った木々におおわれた小道を、木の間から射しこむ朝日を身体一杯にうけて歩くのである。東京に住む彼等、公害の中に住む彼等が美しい自然の中に帰っていく一時期であり、自然と人間の生命力に目をみはる一瞬である。

 

 爆発するエネルギー<未来にはばたくヒナドリたち>

 しかし、寮生のこうした生活の中で、彼等に、最高の感激を与え、彼等を最高の興奮のルツボの中におとしこむのは、創立者地田との会合であり、会食である。そして、その頂点に立つのが、栄光祭である。この栄光祭も、池田の、
「君たちは、いつもいつも勉強やその他のことでたいへんだろうから、夏休み前の一日、君たちのためのお祭りをしてあげよう。一年に一度のお祭りです。楽しいものにして、よい思い出をつくりなさい」
 という言葉から、計画・実施されることにきまったという。
 それは、とにかくとして、全寮生の思いは、この日、最高にふくれあがる。ファイア・ストームに乱舞する彼等は、情熱そのものであり、そのエネルギーは人類をのみこむほどの熱気を発散する。その中で、寮歌の大合唱が始まる。
 一、草木は萌ゆる 武蔵野の
    花の香かぎし 鳳雛の
   英知をみがくは 何んのため
    次代の世界を 担わんと
   未来にはばたけ たくましく

 二、小鳥はさざめく 武蔵野の
    草に遊びし 鳳雛の
   情熱もやすは 何んのため
    社会の繁栄 つくらんと
   未来にはばたけ 意気高く

 三、秋風荒れし 武蔵野の
    木間にたたずむ 鳳雛の
   人を愛すは 何んのため
    民に幸せ おくらんと
   未来にはばたけ 誇り持ち

 四、白雪つみし 武蔵野の
    空へ舞いゆく 鳳雛の
   栄光めざすは 何んのため
    世界に平和を築かんと
   未来にはばたけ その雄姿

 五、富士が見えるぞ 武蔵野の
    清流清き 鳳雛の
   栄光めざすは 何んのため
    輝やく友の道拓く
   未来にはばたけ 君と僕

 彼等は、燃えあがる炎にまけじと怒号しながらも、寮歌の一句一句をかみしめながら歌う。歌いながら、英知・情熱・栄光をなぜ求めるのかという言葉をかみしめ、それに感動して涙をおとす。また、それを我が身にしっかりと刻みこもうとする。
 そういう感激、そういう決意を心の奥底からひきおこすのが、この寮歌の歌詞であり、メロディである。
 彼等の歌はなおも続く。

 一、ああ遥かなり 野はあけて
   万象かそけき このしじま
   櫟林に 太陽ははえて
   真白くうかぶ 学の舎
   時流の激流 つくるべく
   ああ集いたり
   我等鳳雛 英知の士

 二、ああ果てもなし 野ははれて
   雲煙けぶる この天地
   清流つきぬ 淵の上
   王者をかたどる 学の舎
   世紀の文化 開くべく
   ああ学びたり
   我等鳳雛 情熱の士

 彼等が、その全情熱を思う存分にたたきつけたもの、それが栄光祭であった。
 つづいて、十二月二十一日は、池田との会食の日である。彼は、この日、寮生全員に、両親へのみやげものをもってきたし、寮生一人一人には、お年玉として、スリッパを贈った。
 池田は、そのとき、
「私の努力の蓄積の上をふみこえて頑張っていってください」
 といったという。
 彼の、
「師の言葉を、ただ繰り返しているのが弟子ではない。それを応用し、発展せしめ、師の意志を実践し、師の理想を実現していくのが弟子の中の弟子である」
 という言葉を、寮生の中の幾人が知っているかわからないが、彼等が師池田の期待にこたえようと、深く決意をしたことだけは確かである。
 池田は、食べながら、寮生に話しかける。
「諸君の成長だけが私のたのしみです。本当の指導者は、本当の弟子をつくり、自分のできなかったことをやってもらうものです」
「学校の勉強をすることだけが勉強でないと知ることが全体人間です」
「体の弱い人は、本当の意味での全体人間ではない」
「君たちは、二十一世紀の指導者となって、日本やアジアや世界の平和をがっちりつくるのだよ」
 さらに、寮生の質問に答えて、
「将来、南アフリカの人種問題にとりくもうとするなら、今は、語学をやることです。物ごとには、順序があり、それを忘れるものには、どんなことも達成できない」
 という。
 会食後は、寮生は、庭に出て星を見ながら、池田と一緒に、寮歌を力一杯に歌う。
 池田こそ、この寮歌を何よりも愛し、寮歌にいっていることを実現しようとして、火の玉のような行動を推し進めている男である。彼は、彼等と一緒に歌うことによって、いよいよ深く、彼等の胸の中に、そこで歌われている思想と姿勢を刻みつけようとする。
 寮生は寮歌を歌うたびに、何のために学ぶのか、何のために生きるのか、何のために情熱をたぎらせていくのかについて、考える。池田が、この歌は、将来、日本中の若者が、世界中の若者が歌うようになろうといった言葉も、決して、夢でなかろう。
 この寮歌にひかされて、学園を訪ねる高校生もで始めているという。

 

 新時代のための試練<革命の場としての生活>

 このように、学園の生徒は、寮生活の中で自分を鍛え、自分を最大限につくりかえようとしている。英知と情熱をめざす生徒として、自分を育成しようとすれば、それは全く、当然のことながら、ここで、あらためて、学園の寮生活の意味を、とくに旧制高校の寮生活との対比において考えてみたい。
 普通、旧制高校の生活を送った者、ことに寮生活をともにした者は、その間の友情の深さを讃美する。その友情が生涯を通じてかわらないことをいう。たしかに、彼等の間に生まれた友情、友人に与えられた信頼と畏敬の念は強い。それというのも、寮生活でのつきあいというものが、人間の弱みも欠点もさらけだし、全人間的交際であるからである。昼間、相互の長所・美点だけを出し合ってつきあうのとは違う。何もかも全部明らさまにして三年間もつきあう以上、そこには、知られない部分というものがない。友情が、信頼が、尊敬が生まれるとすれば、それは、お互いの弱さ、欠点を見、それをふまえた上でのものである。
 だから、裏切られるということもなければ、知らなかったということもない。もし、裏切られ、知らなかったといわざるをえないことがおこれば、それはただ、自分の不明を恥ずるしかないものである。
 まさに、寮生活を通じてのつきあいというものは、全人間的つきあいであり、それゆえに、兄弟以上の親密度・信頼関係が生まれるのである。生涯を通じてかわらぬ友情が生まれたとしても不思議ではない。
 しかも、彼等は、その時代、最も鋭く、理想を追い求める。その全存在で夜を徹して、夢と未来を語り合う。池田のいうように、学校の勉強だけが勉強でないことを最も強く思うときでもある。そういう理想を求めての学習こそ、友人との夢や未来についての語らいにこそ、学習の中で一番重要な学習であることを知る時代でもあった。
 旧制高校生は、たしかに、自分の全情熱を傾けて、夢と理想を求めたし、お互いに、論じ、つかんだものを実践しようとする気迫にも満ち満ちていた。そのために、力のかぎりをつくして、読書し、思索した。自分の全存在で、時代思潮に疑問を呈し、苦悩もした。新しい時代の潮流をつくるために模索し、新しい文化を開くために苦悶もした。
 だが、重要なことは、旧制高校生達全部がそれやらなかったということである。全人間的つきあいをしたように見えて、実は、思想する高校生、理想を追求する高校生としてのつきあいは一部の者がやったにすぎなかった。そこに、彼等の間の友情が卒業後、多くは、単なる親睦以上を出ないもの、政治活動・経済活動に利用するにすぎないものになるしかなかった理由である。
 いいかえれば、高校生がその全情熱をささげて理想を追求し、その全存在で、新しい時代、新しい文化を模索することを、高校当局も、また、多くの教授陣も求めなかったということである。むしろ、それに反対したし、高校生の中で、そういう生活をした者は、ごく一部にすぎなかったということである。
 それ対して、学園の場合は、明らかに違う。かつて、例外的であった高校生の生活、高校生の学習を全寮生に強く求めている。それだけでなく、池田を先頭に、全教師が寮生の先頭に立って歩もうとしているのである。
 それも、若者のつねとして、ともすると、夢に走りがちになり、空理空論をもてあそんで、観念的になりやすいのを強く戒めて、夢と理想はあくまで、大きく、それでいて、それを一歩一歩と実現していく道を確実につかませようとしている。新しい時代を、新しい文化を求めて進まない生徒達は、逆に、鋭く批判され、叱咤されるのである。
 夢と理想を追わない生徒達は、ただ単に、学校の教科的知識に秀でて、それが人間の英知とならないような学校秀才達は、ここでは軽蔑され、評価されないのである。
 それこそ、寮生活は、寮の共同生活は、生活を重んじ、寮生の意識と知識が生活そのものに及ぶことを求めるのである。単なる知識が生活の英知となることを求めるのが寮生活であり、その意味では、寮生活は知識革命・意識革命・生活革命の場である。

 

                 <第三の大学…創価大学 目次>

 

   創価学園への期待

 

 学園が教育革命をめざして創立されてから、今年は三年目にはいる。中学・高校も、一応、全学年を収容し、いよいよ、本格的に、教育活動を推進する状態になった。果たして、教育革命を推し進めることのできる教育を、広く日本中に示しうるかどうか、これこそが教育だと示しうることができるかどうか。そのことをここで、まとめて考えてみるとともに、私の学園への期待なり、希望なりを述べてみたい。

 

 真の教育とは何か<英知・情熱・栄光の若者を育てる>

 学園が、英知・情熱・栄光をめざす若者をつくろうと、あるいは、真理を求め、価値を創造する若者、進取の気性に富み、栄光ある日本の指導者、世界の平和の指導者を目標とする若者を育てようとすることは、明らかに、学園の教師達が、ただ単なる知識・記憶力・暗記力を中心に、せいぜい、理解力・批判力をふくめたものを、学力というように考えている今日の教育界の常識に対して、真っ向からそれに反対し、学力とは、人間の総合力であり、英知・情熱・栄光の三つを基調にするものでなくてはならない、といい始めたことを意味する。
 さらには、現体制を維持し、現体制を守るのに必要な知識を与えている今日の教育の現状に対して、教育こそ、現代を批判し、未来を創造するものでなくてならないということを強調し始めたということである。
 いいかえれば、今、学園の教師達は、あらためて、人間とは何であり、これからの人間は、どのように生き、また、どのように生きねばならないかということを根本的・総合的に考え始め、それが明らかになって、初めて、これからの教育は何でなくてならないかが明らかになってくると考えているということである。
 今日の教育が荒廃しているのも、人間の原点に立ちかえって人間を考え、教育を考えることを教師自身が忘れたところに起因している。小・中・高の教師達も、まず自ら、人間とは何か、教育とは何かを問うこともなく、与えられた教育理念、与えられた指導方法によって、教育活動に参加したところに、教育は空洞化する以外になかったのである。もしも、教師達が、常に、人間とは何か、現代における人間とは何かを問い、その中で、教育を考えつづけていれば、教育活動が死滅することもなかったし、教師と生徒の間に、人間的交流が消滅することもなかった。ということは、今日、教師達の多くは、他者によって生かされているだけで、自ら人間として生き、現代の課題に自主的にとりくみ、苦悩していないということでもある。死んだも同然の教師に、生き生きとした教育がなされるわけがない。
 その意味では、人間を鋭く問い直し、文化を問い直すところから出発している学園の教育活動は生き生きとしているし、これからの教育だということができる。学園関係者は、そのことに対して、どんなに自信や誇りを持っても持ちすぎるということはない。
 むしろ、その場合、私には、学園関係者は、まだまだ自信と誇りが足らないように思われてならない。
 その一つは、学園では、宗教教育をしないと発言していることである。もちろん、そのとき、学園のいうのは、これまでの、特定の宗教についての教義とか、行事とかを教えるという意味での宗教教育を行なわないという意味であろうが、牧口や戸田は、宗教とは、諸科学を総合し、統一するもの、諸科学の中心をなすものというように規定した。私も、また、序論の中で、宗教とは、人間・社会・世界をトータルにとらえた世界観であり、人間の最高の英知であると書いた。
 そういう意味での宗教教育、宗教とは何か、宗教と政治、宗教と教育、宗教と文化との関係はいかなるものかを追求する教育は、今日こそ必要である。学園の教師達は人間とは何かを、あらためて問うていると先述したが、それこそ、宗教の根本問題であり、宗教の視点に立つということである。
 かつて、牧口は、諸教科を統一するものとして、郷土科を考えたし、郷土科によって、初めて、ばらばらの諸教科が統一され、人間の英知として働き始めると強調したが、今日、郷土科にかわるものが、宗教であり、宗教学であると学園の教師は、明言してもいいのではないか。
 学園の教師達は、牧口・戸田の宗教論・学問論を引き継いでいる以上、それを知らぬわけはない。現に、人間とは何かを総合的・統一的に問おうとしている。その点では、彼等は、誰かに遠慮し、誰かに誤解されることをあまりに気にしすぎている。
 確かに、特定の宗教を唯一絶対なものとして、教えることは、学園の考えているような未来の人間をつくるためには、賢明でないだろう。世界的視野と展望をもつ人間を育てようとするとき、かえって、マイナスに働くということも考えられる。生徒を思う存分に飛翔させようとすれば、今あるところのどんな思想にも対決させてみることは必要である。
 しかし、牧口や戸田の考えたような宗教観は、少なくとも、高校生には、教え、学ばせ、考えさせることが、ぜひとも必要である。全く新しい形の宗教教育を、自信と誇りをもって、日本中に提唱するときであろう。今、大切であるのは、古くからある宗教教育を行なわないという弁明でなく、今後あるべき宗教教育を声高らかに強調することである。
 その二つは、学園の教師の中に、今日の学校教育について、とくに、生徒の学力というものについて、どれほど鋭い批判をもっているか、また、人間の総合的能力を開発する教育でなくてならないと徹底して考えている教師が幾人いるかということである。
 次に引例するのは、学園出発当時の二、三の教師の発言であるが、私には、非常に気になった。すなわち、
「結局、理想的な学校をつくるといっても、それを社会的に認めさせるには、現状では、進学率が創価高校の真価を示す以外にないわけですね」
「ぼくの考え方は、現実的な考え方かもしれませんが、やはり、世間が創価高校を判断するのは、どれだけ立派な、いい学校にいれたかで判断されると思うんです。“目には目を、歯には歯を”という言葉どおり、勝負は勝負ですから、やっぱりやらなければならない。当面は、それが一つの課題ではないかと思うのです」
 といっている。
 ここには、現代教育が人間の能力を評価する基準を誤り、現代を危機におとしいれている、いわゆる学校秀才であった大人たちに対する鋭い批判も激しい怒りもない。現代教育を告発する姿勢もない。ないばかりか、立派な学校、いい大学というところには、現状の大学を批判的に見ようとする視点が全くないだけでなく、世間で、創価高校が高く評価されることだけを非常に気にかけている。
 そんなところに、教育革命など、実現するわけがない。創価高校の卒業生を評価しないような大学、価値ありと見抜くことのできないような大学教授は、こちらでおことわりとはっきり、断言できるものがあっていいのではないか。今日では、一昨年以来の大学闘争以来、高校生の中にすら、有名大学なんて、たいしたものでないと考え始める者がで始めている。
 英知・情熱・栄光をめざす人間の総合的能力、真理を求め、価値を創造する人間的能力、それらと、今日の受験教育とは、全く相容れないことを骨の髄まで知るべきである。
 ここにも、学園の教師達は、世間を気にしすぎる傾向がでている。むしろ、そんなことよりも、生徒一人一人の中に、英知を求める基盤をどのようにしてつくっていくかと考えることのほうが、ずっと重要である。そういう教育がいかにして可能かは、まだまだ、十分に明らかになっていないのであるから。
 学園生の一人は、“一人立つ”という言葉を自戒にしていたが、ここで、今一度、学園の教師達は、その言葉をかみしめてみることが必要なのではあるまいか。周囲の批判を気にするよりも、教育そのものについて、深く、自問してみることが、あるいは、相互に、話し合い、討論してみることが必要なのではあるまいか。

 

 学校教育革新を<大衆の時代のために>

 牧口は、小学校教育の改革案を追求し、それの具体案を出したが、学園は、なぜに、小学校教育にとりくまないで、中学・高校の教育にとりくんでいるのであろうか。英知・情熱・栄光をめざす子ども達をつくる小学校教育はいかにして可能か、どんな教育を、どんな教科内容を提供することによって、その目的は達成されるのかという検討は非常に重要である。ことに、牧口のつくった教育理論を継承し、発展させることによって、そういう教育は、容易に成果を期待しうるともいえる。
 それにもかかわらず、学園が小学校教育に挑戦してみないということが、私には理解できない。それに、小学校教育をなした上で、中学・高校教育をなしていくならば、それだけ、教育の効果もあがるというものである。
 まさか、中学・高校の教育だけで、学園のめざす教育効果を十二分にあげると考えているわけでもあるまい。私は、できるだけ、早い時期に、小学校教育にのりだすことを期待する。
 牧口もきっと、それを欲している。大学のための高校教育、高校のための中学教育、中学のための小学校教育となっている今日の学校教育を是正するためにも、また、大学の先生は高校の先生より、高校の先生は中学の先生より、中学の先生は小学校の先生より、知能も社会的地位も高いという今日の常識を破るためにも、小学校教育にとりくむ必要がある。それこそ、小学校教育は大学教育に匹敵する意味と価値をもっており、小学校の先生は、大学の先生と同じように、専門職であり、大学の先生とは違う専門的能力を必要とするのに、これまでは、そういうものが閑却にされたから、小学校教育が大学教育に従属し、小学校教育独自の効果をあげることができなかったことを明らかにすべきである。
 池田は、二十一世紀を大衆の時代といい、人間の世紀ともいっている。とすれば、本当に、大衆の時代、人間の世紀を実現するために、一人一人の大衆が人間として自立できるようになるために、その基礎になる教育を根本的に追求してみることは、ますます必要になってこよう。
 次は、学園がなぜ、男性のみを収容して、女性を収容しないかという疑問である。もちろん、四十八年度には、大阪に、女子大学が創立され、付属女子高等学校、女子中学校が併設されるということも聞いている。しかし、そういう中にあって、私の疑問は、依然、消えない。それに、四十六年度開設の創価大学は男女共学と聞いている。そうなると、私の疑問は、いよいよ深まる。
 関係者の話によると、男性と女性の能力には差があるし、一緒に教育をすると、いろいろと不都合が生ずるという。私が大学の場合は、と聞くと、入学試験に通った以上、能力的に心配はないという答えである。
 果たして、男性と女性との能力差はあるのか。この問題に関するかぎり、学問的にも結論は出ていない。ただ、この問題に関するかぎり、男性は女性にまさっているという常識が横行しているにすぎない。
 まして、学園は、「健康な英才主義」を掲げて、全員を英才に教育しよう、教育しうるとはりきっている。その英才も、個々人の中にある能力を最大限にひきだし、開発した者としての意味に使われている。
 女性一人一人の特性、能力を発見し、それを最高度に伸ばしていくことは、男性と一緒でもできるし、今日、むしろ、女性の能力はどこまて伸びうるものか、ということが女子教育の最大の課題となっている。
 女性を男性の中に入れて、思う存分に教育してみることが、今日、最も必要なことになっている。学園が女性を拒否している事実は、どうしても納得できない。関係者が速やかに検討してくれることを望みたい。
 最後に、今一つ、能力・知力の劣った者に対する教育を、今後、学園で、徹底的に検討してほしいということである。牧口は、そういう教育こそ重要であるし、そういう人間こそ、長期間の教育が必要であると断言した。
 今のところ、学園では、中学・高校の入学試験の倍率の高いことを誇りにし、小学校や中学校の、いわゆる学校秀才を集めることに一生懸命であるようにみえるが、それは、私の誤解であろうか。
 そこに、自ずと、従来の学力評価にずるずるとひきずりこまれる傾向もある。もちろん、二十一世紀の日本の指導者、世界の指導者を育てようとすれば、従来の学力評価の中心をなす記憶力・暗記力や理解力・批判力などが一定以上にすぐれていることも必要であろう。知能指数の高いものを集めることも大切であろう。
 しかし、ここには、全生徒を「健康な英才」にという教育目標と異なるものがある。むしろ、選ばれない生徒を、普通の生徒を、「健康な英才」に育てあげてこそ、学園は、世の中から絶大な評価をうけるのではあるまいか。
 ことに、能力・知力の劣った者達を救いあげ、人並な社会人に育てたときにこそ、最も強い感動を世間の人々に与えるのではあるまいか。
 二十一世紀の日本と世界を指導しうる人間の教育と、能力・知力の劣っているとみなされる人間の教育と平行したとき、初めて、創価教育は、その真価を発揮する。
 指導者養成の教育は、ゆがんだ形にせよ、常に、人々が志してきたが、能力・知力の劣っているとみなされる人間の教育は、ほとんどまだ、手がつけられていない。まして、彼等を英才に育てる教育など、一部の先進的な教師が発想し、わずかな範囲で試みた以上にはいかない。
 全高校生の七割が現行の教科書を理解できないといわれながら、依然として、教師も、著者も、文部省もそういう教科書をつくることに関心が向いていない。高校生不在の教育が恥ずかしげもなく行なわれている。
 学園は、将来、教科書をつくりたいといっているが、それは、あくまで、現在の学園生を対象にしての教科書である。そういう教科書と同じように、必要なのは、七割の高校生を対象にした教科書である。
 それは、そのまま、中学・小学校にもあてはまるということであるし学園が今後、とりくまなくてはならないのは、多数の子どもに、劣等感や自己嫌悪を与えている学校教育の現状を、いかに克服するかということである。

 

 

 

第3章 創価大学の理念

   池田の大学教育論

 

 最近二年間は、大学問題が焦点であったし、大学教育を未来社会に対してどう位置づけるか、学生と教授との関係はどうあるべきか、学問そのものを、どうすることによって、現代をふくめて、未来社会の課題にこたえうるのかということは、今日、まだまだ、十二分に明らかになっていない。結論も出ていない。それほどに、これらの問題をめぐっての甲論乙駁はすさまじい。すさまじいゆえに、これからの大学をどのようにもっていこうかということについて、依然として低迷しているというのが現状である。
 池田も、そういう現状をふまえて、幾度か、大学論・大学教育論・学問論・教授と学生の関係等について発言した。だが、彼は、それらの発言にさきだって、昭和三十九年に、創価大学の創立のことをいっているのである。あたかも、この二、三年の大学闘争を見透したかのように、そして、大学が大学の使命を本当に果たすためには、新しい大学をつくる以外にないと見究めていたかのように、大学の創立を予告したのである。
 そのことにふれる前に、まず、池田の大学教育論、とくに、大学革命論について述べてみよう。

 

 大学の革命は教授層から<創造的人間養成のため>

 池田は、まず、大学と宗教の関係について、
「大学は、一国の文化の母体であり、民族の精神文化の結晶でなければなりません。現在、名実共に、世界的な大学といわれているイギリスのオックスフォード、ケンブリッジ大学、フランスのパリ大学、アメリカのハーバード大学などは、いずれもキリスト教神学の研究を中心にして創立されたものです。
 もとより、歴史の経過と共に、学問の自由が確立され、自然科学・人文科学・社会科学等の多方面にわたる学問の進歩の結果、現在は、神学研究は影がうすらいでおります。だが、こうした宗教的精神の伝統は、今なお、大学構内に教会堂が設けられている事実、学生達が食事の時間には、全員で祈りを捧げるという姿のなかに、厳然と残されているのであります。
 キリスト教に対する宗教批判の問題は別として、ヨーロッパの大学がいずれもそうした精神的支柱をもち、崇高な理想を追求する使命感に貫かれてきたことは事実であり、そうしたなんらかの精神的支柱があってこそ、真の大学といえると思うのであります」
 と述べ、それに対して、日本の大学、その代表的な大学であるとされている東京大学には、国家のために働く人間をつくりだすというだけで、未来の大学になくてはならぬ崇高な理想精神がないと批判している。
 そこからは、すべてが国家目的に吸収されるだけで、真理に奉仕し、人類のためにつくすという崇高な精神、人類の平和と発展の中にのみ、国家の平和と発展があるという考えは出てこないし、さらには、国民を支配し、国民を国家という名目の下に、自分達権力者、支配者に利用するという考えしか出てこないともいいきるのである。
 もちろん、日本にも、仏教を奉じて開設された大学も沢山ある。しかし、池田からみたとき、そういう大学は、仏法そのものを死滅させ、宗派宗教になってしまった仏教を学ぶものでしかなかった。学問の支柱となり、諸科学を統一し、諸科学的知識を人間の知にたかめようとする視点も意欲もなかった。それは、もはや、釈尊や日蓮の説く仏法でなかった。
 とすれば、池田が、彼の考える仏法の理念に即して、その理念をかぎりなく、今日的に追求し、自らのものとしていく大学を日本につくらなくてはならないと考えたとしても、全く無理のないことであった。
 まして、崇高な理念もなく、また、諸科学を統一し、諸科学に生命を与えるものがないままに、単に、国家社会の巨大なメカニズムの一部を構成する部品にすぎなくなっている大方の大学教授と大学卒業生を見たとき、池田は、いよいよ、日本の今の大学の限界を思うとともに、大学こそ、
「高い理念をもった、優れた人格者であり、豊かな個性をもち、技術、学術を使いこなしていける創造的人間を養成しなくてはならない」
 と叫ばざるをえなかったのである。そして、そういう人間をつくりうるのは、大学教育の中心に、学問の中核に、仏法をおくとき、初めて可能であると思い知るのである。
 さらに、池田は、仏法を自らのものにした教授は、
「学生との関係を対峙するものとしてとらえず、ともに、真理を求め、価値を創造していく同志、先輩と後輩の関係としてとらえる」
 というようにもいっている。それこそ、大学の自治は教授会の自治であり、学問の自由は教授の学問の自由であり、学生とは、あくまで教育されるものという、世の大方の見解に対して、彼は、はっきりと拒否する。
 だから、学生の前に、先輩としてともに学び、ともに行動しないような教授は、失格者となる。学生の前に、自分の学説を押しつける者は、逆に、学生以下ということになる。
 しかし、実際には、失格者である教授、学生以下の教授があまりにも多い。学問の自由とは、教授の学問の自由であり、学生の学問の自由ではないと考えている教授が非常に多い。
 池田が創価大学の教授には、若手を思いきって起用したいというのも、そういう現状をふまえての発言であろう。学生たち以上に、教授層こそ、その人間革命を、学問革命をやらなくてはならないと彼は考えている。
 それは、池田が、
「いかに優秀な学者といえども、自己の専門分野についての知識しかない。少し分野が異なれば、一般庶民となんら変わらない」
「知識人必ずしも知恵者とはかぎらない」
 と明言していることでも明らかである。今日の大学教授の多くは、明らかに、それぞれの専攻する科学に即して、科学的知識のみを追求している者でしかない。
 しかも、その知識は、一般の人々に、卓越しているが、生活知、行動知については、かえって、一般の人々より無知である場合が多い。
「知識は、知恵にいたる門である」とか、「知恵は知識を動かしていく力である。知識は知恵を高めていくもの」と、池田が強調してやまない人間の英知を求める方向に進んでいる大学教授は非常に少ない。
 学者の科学的知識は、それがどんなにすぐれたものであっても、それは、窮極には、人間の知恵にたかめられなくてはならないといいきる池田、知恵の研鑽を伴わない。知恵を志向しない知識の習得は、無味乾燥に終わってしまうと明言する池田。
 池田が英知と情熱を強調し、英知を知識の到達点とみなす以上、これは、総体としての大学教授に挑戦することであり、大学教授の学問革命・思想革命に挑んでいることである。大学教授こそ、その学問革命・思想革命を必要としていると断言していることでもある。その意味では、大学革命・学問革命を推し進めようとする一つの頂点になっているのが池田ということになる。

 

 四権分立の提唱<大学再建のために>

 だからこそ、池田は、今日の大学革命は、
「既存の社会・文化・価値観に対して、それを受け経ぐべき世代が継承を激しく拒否する」ところからおこったもの、教授たちの学問に対する考え方を否定するところからおこったものと考える。
 彼は、それを、次のようにもいう。
「青年は純粋である。曇りのないレンズのように、はっきりと被写体の実相を受けとめるものだ。ゆがみはゆがみとして正直に映し出して容赦しない。潔癖で清らかな青年の心情は、腐爛した為りの繁栄の中に、“昭和元禄”だの“豊かな社会”だのと、うそぶく大人の図々しさに我慢がならないのであろう。……
 現代文明の危機というものも、冷静な英知の眼からみれば、皮肉な戯画の題材になりかねない。頭上に吊り下がっている核兵器のダモクレスの剣や、足もとに押し寄せる戦争の危機、そして、うわべの豊かさに反して、心の中にぽっかりとあいた空洞等々……。
 もとより、現代の大人達にも、これらが見えていないわけではない。見えてはいるが、凝視することを忘れているのではないか。……
 少なくとも、この社会の矛盾をできるかぎり解決し、正常なものにして、次第に譲るような努力をすることが、大人の義務ではあるまいか。しかるに、そうした青年たちの不満や憤りを権力で抑圧するなどとは、卑劣とも、愚かともいいようがない。
 私自身、社会の矛盾と不満に対しては、不断の戦いをつづけてきたし、権力の横暴にも真っ向から挑戦してきた一人である。青年たちの憤りと決意が、痛いほど私の生命に共鳴するがゆえに、私は心から同情せずにはいられないのである」
 大学教授こそ、そういう偽りの繁栄を批判し、未来社会をいかに建設すべきかということを示すべきであるのに、逆に、その偽りの繁栄を批判することがないばかりか、そういう社会の現状に目をふさいで、単に、自分一人を満足させる研究にうつつをぬかすか、それとも、その偽りの繁栄にぶらさがって、自分もまた、そのおこぼれをもらって得々としている者が多いのである。
 池田がそういう教授たちを、その全身で告発する学生たちに、強く共感するのはいうまでもない。そういう教授の実態こそ、科学的知識を知識にとどめて、人間の知恵に発展させようとしない結果であり、現代文明をゆきづまらせたのは、知恵を志向しない大学教授だと厳しく、彼は、断罪するのである。
 そういう大学教授の人間革命・学問革命を推し進めないで、それを指摘し、告発する学生達を逆に権力で抑圧する国家権力、それに同調する多数の大学教授をみたとき、池田は、激しく怒る。彼の現実の大学と大学教授、あるいは、国家権力に対する不信がいよいよ、決定的になっていく。
 しかも、そういう状況をふまえて、池田は、なおも、
「現在の政界の一部には、政治権力の介入によって、大学の再建をはかろうとする動きがあるようだが、それでは火に油をそそぐことにしかなるまい。真の解決策は、むしろ教育の尊厳を認め、政治から独立することに求めなければならないと思う。
 本来、教育は、次代の人間と文化をつくる厳粛な事業である。したがって、時の政治権力によって左右されることのない、確固たる自立性をもつべきである。
 その意味から、私は、これまでの立法・司法・行政の三権に、教育を加え、四権分立案を提唱しておきたい」
 と叫ばずにはいられないのである。
 池田は、今日、三権分立など崩れてしまい、司法も立法もともに行政にひきずりまわされていることを、また、三権分立を可能にするのも人であり、それが崩れているのも人がいないためであるということを、十二分に知っているはずである。
 それでいて、池田が四権分立案を提唱するのは、そういうことになれば、権力の教育への介入が今より幾分少なくなるのではないかという期待である。それほどに、今日の教育への権力の介入はひどいし、権力に迎合する知恵も勇気もない大学教授たちが多すぎる。
 こうして、ますます、池田の創価大学への夢はふくらみ、それへの期待は大きなものになっていく。池田こそ、今日の大学と学問を激しく批判している学生達と同じように、大学革命・学問革命を最も鋭く切望し、また、そのための戦いを進めようとする者である。
 人間の全行動ににじみでる英知、その全生活を支配し、創造できる英知、それこそが尊いのであり、学問の使命は、それ以外にないといいきるのが池田である。

 

                 <第三の大学…創価大学 目次>

 

   創価大学の理念

 

 創価大学の創立については、昭和三十九年六月、池田によって、創価学会学生部総会の席上で、初めて明らかにされたが、その後、創価大学設立審議会・設置基準委員会・大学専門委員会が次々に発足し、さらに、昭和四十三年十二月には、「学校法人創価大学」設立準備財団が生まれ、戸田の命日である昭和四十四年四月二日には、起工式を行ない、現在は、昭和四十六年四月の開設に向かって、最後の努力を集中しているというところである。
 その所在地は、東京都八王子市丹木町で、敷地約百十万平方メートルの大学キャンバスの中央には、三十階建の大学本部棟が建ち、その向かって左側には、六千人収容できる講堂、右側には、LL教室、コンピューター室、図書室などをもつラーニング・センターと八階建の文学部・経済学部・法学部の校舎が建つことになっている。そのほかに、理学部・工学部・医学部などの校舎が、将来、合計七棟建つことになっている。
 もちろん昭和四十六年四月には、文学部・経済学部・法学部の三学部が出発するが、徐々に、理学部・工学部・農学部・医学部・薬学部・歯学部などに組織を拡大し、学生総数は六千人にする計画があるという。
 また、それと平行して、夜間部や通信教育部・大学院の設置もできるだけ早く実施するように計画を進めている。
 そして、ここで、創価大学の設立趣意書にあるように、
「大学が人間形成という教育本来のあり方を回復することを今日ほど強く要望されている時代はない。創価大学は、このような時代の要望にこたえて、創価学会会長池田大作先生によって提唱された人間性尊重主義に立脚した教育を行ない、最高の人間形成をはかるとともに、深い知識と豊かな教養を身につけ、健康で英知にあふれた創造力豊かな人材を育成することを目標としている」
 教育をしようとしているのである。

 

 民衆を守る要塞<開校近し創価大学>

 池田自身は、創価大学について、具体的に、どう発言しているのであろうか。
 池田は、まず、
「創価大学は、まさに、新しい理念と思想による、全く新しい大学の出現を待望する時代の要望にこたえる新時代の学府でなくてはならない。また、それは、同時に、破壊と混乱に終始している、今日の大学革命のなかにあって、初めて芽ばえた建設の象徴であり、先駆であります」
 と述べた後、三つのモットーを、その基本理念として掲げる。
一、人間教育の最高学府たれ。
一、新しき大文化建設の揺藍たれ。
一、人類の平和を守る要塞たれ。
 そして、彼は、それらを次のように説明する。
「第一は、人間を、社会のメカニズムの部品化し、人間性を無視している現代の教育界の実情に対して、社会をリードしていく英知・創造性に富んだ、全体人間をつくっていく学府でなくてはならない。
 第二は、行きづまっている現代文明のなかにあって、大仏法を根底におき、人間生命の限りなき開花を基調とする、新しい大文化を担っていくことであります。すなわち、第三文明を建設してゆく、あらゆる分野の人材がこの創価大学から巣立っていかなくてはならない。
 すでに、私どもは、芸術祭や文化祭等を通じて、第三文明の崩芽ともいうべきものを世に示してまいりました。だが、まだこれらはほんの序文にすぎない。真実の第三文明の興隆は、創価大学に学び、創価大学から巣立った、未来の人材によってなされることを断言しておきたい。
 第三は、人類の平和を標榜したゆえんは、新しき文明の建設といい、未来社会の開拓といっても、平和なくしてはありえないからであります。
 いかにして平和を守るか、これこそ現代人類の担った最大の課題であります。過去の指導者は、常に世界を戦乱の渦中に巻きこみ、民衆を不幸のどん底にたたきこんでまいりました。
 今、私どものつくる創価大学は、民衆の側に立ち、民衆の幸福と平和を守るための要塞であり、牙城でなくてはならない」
 池田が、ここで述べている中で、最も特徴あり、独自の見解を展開しているのは、彼の大学教育論のところでも書いたことだが、それは、大学の根底に、仏法の理念をおき、その理念を今日的に、より一層明確にし、発展しなくてはならないといっていることである。
 仏法の理念を大学教育の根底におくということは、分化しつづける諸科学を総合・統一し、それらを人間の最高の英知として、すべての人間の行動力をそれによって導き、人間が社会のメカニズムの中に埋没しないことをねらっているということである。すべての人間を自立させ、どんな権力者・支配者にも使われないだけの英知をすべての人に与えるということである。
 民衆は、これまで、あまりにも、権力者・支配者・指導者のいうなりに生きてきた。生かされただけで自分自身の生を十二分に生きることがなかった。それに、終止符を打とうとするのが創価大学である。第三文明というも、これ以外のものではない。すべての人間の生命を限りなく開花させるということは、すべての人間が自立して、自分自身の手に、自分の生をしっかりと握るということである。そういう教育、そういう文化の建設を創価大学は課題としているというのである。
 今一つは、そういう教育、そういう文化は、やっと、萌芽の段階で、その建設はこれからなさなくてはならないといいきっていることである。池田は、教授も学生もともに、それを追求し、建設しなくてならないものと考えており、一般の大学のように、あるいは、文部省のように、教授とは教えるもの、学生とは教えられるものというように考えていない。彼は、むしろ、教授になる者よりも、学生になるほうに、第三文明の建設の主役者をみ、期待している。
 私は、かつて、昭和十五年に創設され、昭和二十一年に消滅した神宮皇学館大学に学んだことがあるが、そのとき、私達学生の一部は、当時の学長山田孝雄に、
「私達の満足できる講義をする教授はほとんどいない。私達の求めている思想を展開できる教授はいない」
 と訴えたところ、彼は、
「そういう講義、そういう思想を示しうる教授がいなくても何も悲しみ、怒ることはない。君達がそういう講義をし、思想を展開しうるようになればよい。今の教授は、それまでのつなぎである。大学とは、教授に教えてもらうところでなく、君達自身が考え、学び、創造するところである。教授に求めず、君達自身に強く要求してほしい」
 と答えた。私は、今でも、それを聞いたときの感動をなまなましく心にとめているが、池田は、それと相通ずることをいっている。これほどに大学というもの、学問というものを深く、しかも適確に知っている言葉はない。この言葉を吐けるものをもつ創価大学は発展をつづけるに違いない。

 

 現代の松下村塾たれ<実践と創造の英知を学ぶ>

 つづいて、池田は、創価大学の特色として、
「創価大学の教授は、たとえ無名であっても、青年のように、旺盛な研究意欲をもち、教育に生命をかけてとりくんでいく人をもって構成する。教授が有名だから立派な教育が行なわれるとはかぎらない。そのなによりの証拠が今の東大などの一流大学の姿であります。
 かつて、明治維新の原動力となった長州・萩の松下村塾は、吉田松陰という一人の学究が師匠であり、集まった生徒も下級武士の子弟であった。今でこそ、吉田松陰といえは有名でありますが、当時は片田舎の無名の学者にすぎなかった。
 しかも、松陰は、幕府に捕えられて刑死したのが三十歳でありますから、子弟を養育したのは、二十代のころであります。名もない貧乏な青年が開いた、ひなびた松下村塾という私塾が日本の運命を変える原動力となり、近代日本の先駆けとなる人材を輩出するなどということは、当時の誰が予想しえたでありましょうか。
 いかなる革命であれ、真実の革命は無名の青年によって初めて成し遂げられるのであります。創価大学もまた同じであります。次代の日本の運命を決定し、世界平和を築いていくのは、無名の教授と無名の学者とによってつくられていく創価大学をおいて、他にはないと断言しておきたいのであります」
 といっている。
 創価大学の理想は、松下村塾であるといったと考えてもいい。そして、確かに、松下村塾に学んだ人々は、新しい日本をつくっていく上で、中心的に活動した人々である。なぜに彼等は、中心的に活躍し、多くの人々を指導し、多くの人々に、その方向を与えることができたのであろうか。
 まず、第一は、松陰を中心に、そこに集まった弟子達は、先輩と後輩という形でがっちりと結ばれ、教える者と教えられる者という関係をとらなかった。師松陰は、時代の課題とその解決を求めて、限りなく追求し、行動する者であったが、弟子達もまた、そういう人間として、松陰は、彼等を最大限に尊敬し、信頼した。彼等から、積極的に、学んでいった。弟子達が師に学ぶ以上に、師は弟子達から学び、師は、それを弟子達に返していった。あくまでも、師と弟子は、切磋琢磨して、学び合い、力になり合う関係であった。
 しかも、師松陰は、常に、弟子達の先頭に立ち、時代の課題に立ち向かって生きつづけ、最後には、そのために、死んでいくのである。師自ら、時代の課題の前に、生き、死んでみせるという教育ほど激しく、壮烈なものはない。弟子たる者は師の屍を乗り超えて、生きていかざるをえまい。
 第二は、松陰を中心に、その弟子達は、従来の学問観に挑戦し、彼等自身の新しい学問観を求めていったということである。これまで考えられ、通用していた学問観は、文化・社会・政治についての解説的知識であり、それを単に、正確に、かつ沢山知っているというにすぎなかった。
 それに対して、松陰とその弟子は、学問とは、何よりもまず、人間であることの誇りと自覚を自分達に与えるものであり、同時に、人間の誇りと自覚を抑圧している政治・社会を変革するために役立つものでなくてはならないと考えた。
 いいかえれば、自己を変革し、変革した自己によって人間と社会を変革するのが学問であると考えだしたのである。だから、学問するということは、自己を変革し、人間と社会を変革していく実践的・行動的英知を身につけるということであり、英知にいたらない、単なる物知り的知識に終わる者を腐儒といって、最高に軽蔑した。学問をしない一般庶民よりもだめだと評価した。
 第三は、実践的・行動的英知を尊ぶから、それだけが尊ぶに値すると考えたから、松陰達は、いかにすれば、実践的・行動的英知を自分達のものにできるかを必死に究明した。彼等は、単に、記憶力や暗記力がいいということを高く評価せず、自己と社会を変革し、自己と社会をかぎりなく向上させようとする情熱と意欲を最も重視した。それゆえに、感情教育・感覚教育を重視し、感覚を研ぎすまし、鋭くすることに、そして、その感覚が知識を支えるとき、その知識は強力に生きるし、実践性・行動性をもってくることをも発見したのである。
 しかし、松下村塾教育の以上のような三つの特色も、教育とは、他によってなされるものでなく、自分が自分に対してほどこす自己教育であるということにすべて、収斂されたのである。ここに、松下村塾成功の秘密がある。今、池田は、松下村塾をモデルとして、創価大学を建設しようとしているが、彼の考えていることが、いかに、村塾と相似ているか、それは、これまで述べてきたところで明らかであろう。

 

 偉大なる未来に向かって<人間主義の学をめざす>

 そういう創価大学に対して、池田は、いろいろの期待を寄せている。その一つに、次のようなのがある。
「将来の構想の一つとして、東西文明のかけ橋であり、仏教東漸の道となったシルクロードへの学術調査団の派遣、国内では邪馬台国の実地調査等にもとりくんでいってはどうかと考えております。
 さらに人間主義経済の研究、すなわち、資本主義・社会主義を止揚する人類の新しい経済について、理論的・実践的な研究もしていったらどうかと思う。
 また、人間史観の研究、すなわち、唯物史観・唯心史観に対して、生命哲学のうえに立脚する新しい歴史理論の確立などやってはどうかと提案しておきます」
 学術調査団はともかくとして、人間主義経済の研究、人間史観の研究はともに難問題である。ことに、新しい理論、新しい思想体系を構築することは至難なことである。今日、世界の先進的経済学者はほとんど、資本主義経済理論か社会主義経済理論を精力的に追求しているし、哲学者・歴史学者は、唯物史観か唯心史観の立場に立っている者が圧倒的多数である。彼等の多くは、全くといってよいほどに、自らの経済理論に、歴史観に疑問をさしはさんでいない。それほどに、それらの経済理論・歴史観に確信をもっている。確信をもたせるだけのものをそれぞれがもっているということでもある。
 だから、それらを本当に克服して、新しい人間主義経済、新しい人間史観を確立し、これらの学者・思想家を説得するということは容易なことではない。
 池田が、その方向を示すだけで、その実質的な構築は、創価大学の教授と学生に要望したというのは、しごく当然のことである。その意味で、創価大学の課題はかぎりなく大きい。また、それゆえに、希望と期待がかぎりなく湧くともいえよう。

 

                 <第三の大学…創価大学 目次>

 

   創価大学と新学同

 

 現状の社会・教育問題を考えて、創価学会学生部員によって、大学立法粉砕全国連絡協議会が生まれ、さらに、学会外の学生をふくめて、新学生同盟が昭和四十四年十月に結成されて、学生運動に、新しい潮流がおこり始めた。
 いずれは、この新学生同盟の中に位置して、これを支えて発展させるものは、創価大学の心ある学生達と考えられるが、また、その学生達がその組織の中に入ったとき、そのうねりは、さらに倍加されるであろうし、その質も一層高まろう。
 それは、創価大学学生達への違った視点からの期待といえるし、その点で、新学同の思想と方向を考えておくことは、非常に重要である。
 では、これらの学生達は、どういう状況の中に生き、どういう課題を突きつけられているのであろうか。

 

 人間存在の本質に立脚<第三の学生運動>

 これより先、池田は、昭和四十四年五月の総会で、
「現在の学生運動が、既存の大学のあり方、また、ひいては社会それ自体の矛盾と、不合理への抵抗として起こっていることは、私も理解しておりますし、その青年らしい純粋な心情には、同情もしております。しかし、その半面、純粋な青年の心情が、一部の扇動家や陰険な政治家によって利用され、無用の混乱と、下手をすれは、逆コースをも招きかねない実情にあることも知らねばならない。
 しかも、学生同志、いわゆる三派全学連・代々木系と、幾つもの派閥に分かれ、互いに争って、無用な混乱を繰り広げていることも事実であります。私は、こうした学生の姿をみるにつけ、いじらしいし、可愛想でもあり、また、正しい学生運動の発展のために残念に思えてならない。
 そこで、一つの将来の問題として、もしも、このまま、学生運動が混乱のなかに、いつまでも悪循環を繰り返していくとするならは、やがては健全な学生運動の発展のため、日本の将来のために、第三の道を考えることも必要ではないかと思う。……
 深く、未来への展望の上から考えると、今日の大学問題、スチューデント・パワーの意味するところは、所詮、既成の価値観、既存の思想、理念の崩壊であり、新しき価値観、新しき思想、理念を求める時代の流れであります」
 と語り、さらに、雑誌「潮」の七月号には、
「学生運動の理念は、いったいどのようなものであろうか。なによりも、それは人間存在の本質について、明快な解決をあたえる理念でなくてはならない。……
 いま、新しい大学の建設に当って、私は、“生命の哲学”を求めよと訴えたい」
 と書いた。
 池田は、ここ二、三年の激しいスチューデント・パワーに、深い共鳴を感じながらも、そこには、未来へのはっきりした展望もなく、また、人間存在の本質について、徹底的に考え抜こうとする姿勢がないと判断したとき、彼は、第三の学生運動を提唱せずにはいられなかったのである。
 果たして、彼等に、人間存在の本質を考えようとする姿勢がないか、未来への展望がないかどうかということは、なお、究明の余地があるとして、その運動が、新しい理念の追求に精力的であるよりも、現実の政治的行動により多くのめりこみ、現に、そのことが、大学革命・学問革命を実り少ないものにしていることも事実である。
 その意味では、今後の学生運動は、その反省と検討の中に樹立されるであろうことだけは確かである。
 池田が最高に評価する吉田松陰も、現実の壁にぶちあたって、どうすることもできなくなった時点で、もう一度、自分で考え、自分達で、新しいビジョンを構築できたとき、そのビジョンは、初めて、本物となり、力ある思想になるといったが、彼の提唱する第三の学生運動もその戦いをふまえ、その反省の上に、新しい理念、新しい思想を構築せよといったものに違いあるまい。
 そして、ここでも、池田は、「生命の哲学」という方向づけを与えたのみで、その内容を構築するのは、学生自身であると明言している。学生自身が主体的に考え、創造していくもの、創造していかねばならないものといっている。

 

 70年革命の先頭に立て<人間を原点として>

 池田のこうした発言を受けとめて、新学生同盟は、「大学革命を勝利する反権力闘争にむけて」という闘争方針の中で、次のようにいう。
「敗戦による天皇制国家の崩壊によって、儒教理念はうち破られ、近代合理主義は、戦後民主主義という形で、その全貌を現わすことになった。
 そして、戦後における近代合理主義の暴走は、人間という視点をもたない戦後民主主義の擬制をあばき出す一方、学問としては、無目的な学問至上主義という形で始まったのである。
 近代合理主義のもつ本質的な欠陥は、やがて戦後民主主義を空洞化し、権力の反動化を招き、さらには、学問至上主義=学問の自由との美名に酔いしれた大学を反動体制の内に再編しようとする暴挙を許すにいたったのである。
 こうした戦後の矛盾は、やがて戦後教育をうけて育った、我ら新しい世代によって、徹底的に告発され、今日のラディカルな学生総反乱を惹起するにいたった。……
 人間が認識し、思索し、体系化したものが、いわゆる学問であるからして、いかなる学問といえども、人間の存在情況、つまりおかれている環境と、そこに一般化している価値観や当人の思想的遍歴や人間性等から全く隔絶した所には存立しない。従って、学問の性格・内容といったものは、それら全てが、それを生みだした人間に規定され、拘束されたものであるということができる。……
 従って、もし、学問の発展の原初において、把握すべき原点を誤った場合には、人間の、特に現代の人間の生活が学問の成果によって甚大な影響を受けているから、多くの悲惨と苦悩を生みだすことは、自明である。……
 学園闘争の中で告発されたことも、まさにこのことであり、歴史の動向として大衆が希求し始めたのも、人間を原点にした人間のための学問であるからだ。我々が創造しようとする学問とは、まさしく、この人間という原点に立った人間のための学問である。それは既存の学問の原点となった理性の非全体制を認識し、人間存在の本質、人間性のありのままの姿の哲学的把握・原理的把握を、その原点とする所から出発する。この人間性の全き開化と解放・昇華を促すものとしての体系を、理性的・合理的に追求していくところに、真の学問は成るものと信ずる」
 新学生同盟議長の津田忠昭の、
「現代社会の矛盾を鋭く告発したのは、60年代末期に爆発した学生運動の嵐であった。彼らの提起したものは、国家権力と結びついた大学の存在、教授のあり方、空洞化した民主主義等々であった」
 という発言にもあるように、今、新学生同盟は、ここ二、三年の学生運動の成果の上に、彼等自身の新しい思想を構築しようとし、その戦いを執拗に進めようとしている。
 彼等は、明らかに、大学の現状を拒否し、教授のこれまでの学問に挑戦している。教授の学問・思想の影響を受けて、日本社会を指導している政治家・経済人すべてに対して、拒否の姿勢を示している。
 彼等は、その運動を通じて、彼等自身をふくめて、学生一人一人の思想変革をやろうとしているだけでなく、教授達をその運動にまきこみ、その学問・思想を変えようとしている。政治家・経済人の思想革命をやってのけようとしている。
 教授達の学問・思想に変革をもたらすことは至難に近いと先述したが、ここ二、三年の燃えあがった学生運動もそのことでいきづまり、挫折した。権力や機動隊におしつぶされたものでもないし、展望がないために混乱したのでもなく、むしろ、教授達との理論闘争・思想闘争に敗れ去ったのである。教授達は、たとえ、国家権力と結びつこうと、また、その前に沈黙するような情熱や勇気がない存在であろうと、彼等には、逆に、十数年以上、こつこつと蓄積したものがあり、その上に、どっかりと腰をおちつけさせるものがある。それをえぐりだし、批判し、それによって、彼等のよって立つ基盤を克服させることは全く困難な仕事である。
 新学生同盟がそれをどこまでやっていくか、やっていけるか。
 それには、何よりも、書記局のなかの理論部を強化し、新しい学問、新しい思想の構築に向かって、新学生同盟の総力を結集すべきであろう。大学院の学生を積極的に、同盟に参加させ、新しい学問・思想の創造に協力させることも大いに必要であろう。
 そのとき、新学生同盟に参加する学生一人一人は、日本中の、世界中の学問革命・思想革命をやっていく革命家の集団になっていくであろう。

 全国千に近い大学の学問革命から、さらに、日本の学問革命をやってのけようとするかぎり、それは、すべて、新しい学問、新しい思想ができるかどうかにかかっている。創価大学はその新しい学問・思想に挑戦するものと思う。
 その意味では、創価大学は、学問革命・大学革命のメッカである。メッカにならなければならない。

 

                 <第三の大学…創価大学 目次>

 

   創価大学の一般教育論

 今日の大学紛争の中で、一番焦点になり、その処遇をどうするかということで、学生・教授をふくめて、大学関係者の悩みの種になっているのが、一般教育の問題である。極論するなら、今日の大学革命の嵐は、それをめぐって、学生と教授が鋭く対立したところに、ひきおこされたものであるといっても、いいすぎではない。
 というのは、この一般教育は、戦後の大学制度が質的変換をとげるとき、大学の前期の教育に与えられたものがあるが、それは、これまでの大学教育、大学の学問に対する反省から生まれると同時に、これからの学問の方向と内容を模索するものとして設けられたもので、将来、人間はどう生きるべきか、社会はどうあるべきかに深くかかわる新しい学問を志向するものであったにもかかわらず、実際には、一般教育を講義する教授たちは、そのことを深く知ろうともせず、学生たちに、最も悪評の講義をしつづけたのである。それこそ、一般教育のねらったものは、学問とは何か、人間とは何か、学問と人間の関係はどうあるべきかという、学問と人間の原点に立ちかえって、学問と人間を考えようとするものであった。だから、一般教育をどのように考え、学問と人間をどのようにとらえるかで、その後の専門教育としての諸科学そのものの内容を変え、発展させるものをもっていた。

 

 権力奉仕の鎖を切れ<大学紛争の根底にあるもの>

 牧口は、郷土科は、諸教科の起点であり、終点であるといったが、まさしく、戦後の一般教育は、諸科学の出発点であり、終着点でもあったのである。学問革命を志向したものであった。
 要するに、明治以後から敗戦まで、大学の学問とは、国家に奉仕する学問であり、その枠内での学問の自由であり、学者のための学問至上主義であったにすぎなかった。だから、真理そのものに、人間そのものに奉仕する学問となることもなく、そのゆえに、戦争そのものをとめることができなかっただけでなく、逆に、学者たちの多くは、戦争に積極的に協力することしかできなかったのである。それぞれの科学の奴隷となってしまった学者たちは、人間と社会と自然を総合的・統一的にとらえることができず、人間と社会と自然を裏切るしかなかったのである。
 だから、戦後、人間のための学問として、諸科学が統一され、人間の英知として働かなくてならないと考える者がでたとしても不思議でない。その代表的人物が、当時一橋大学長であった上原専禄である。
 彼は、一般教育の課題として、
「深く自己の能力の限度を知るが故に却ってその能力の研磨にいそしむところの個々の国民、未知のものに対して飽くまで謙虚であるが故に却って自己に内在する限りなき生命力に対する信仰を失わないところの個々の国民、自己の能力と生命力とに対する信頼の故に他者のそれに対して敬愛の念を禁じえないところの国民、自己と他者との生命の価値を思うが故に自他の関連と相互の交渉とに深き顧慮を加え細心の工夫をこらすにやぶさかでないところの個々の国民、要は自己を信じ他者を愛し、自他を内包する社会の進歩のために努力する個々の国民」(「教育革新の精神的前提」から)
 をつくることにあると説明している。
 それは、これまでの学問が、人間の行動・生活と無関係に成立しているにすぎなかったのに対して、一般教育を、人間の行動と生活をリードし、発展させるものでなくてはならないと考えたということである。
 生活知・実践知を与えるものこそ、一般教育そのものであるというのであり、分化したそれぞれの専門科学は、人間の行動・生活を、政治・経済・歴史・法律等と分類して、より精緻に分析するために成立したものであるとしても、それは、窮極には、人間の行動・生活に統一され、収斂される総合的・統一的な英知でなくてはならないということであった。
 だから、それぞれの専門科学は、人間の学としての専門科学になり、さらに、人間の学に統一されなければならないと考えた。
 それゆえに、上原は、一般教育を重視し、専門教育の基礎とみた。
 このような一般教育は、教授が学生達に教えるというよりも先に、従来の学問観に立ち、何の自己批判もなく、諸科学を専攻してきた教授達にこそ、まず、求められるべきものであったし、それは、彼等が学問革命をして初めてえられるもの、しかも、永遠に追求することを必要とするものであった。
 しかし、一般教育を受持つ教授たちは、それをやろうとしなかった。そのために、これまでの諸科学を変質させるということもなかった。加えて、戦後の大学教育は、産業界の要請で、目先の知識・技術の教育をやり、諸科学の中にわずかに生きていた原理・原則を求める学問の性格をもいよいよ見失わせ、国家権力と資本に癒着していく以外になかったのである。
 学問それ自体を見直すことから出発した一般教育をどのように再建するかということでなく、逆に、その存在を疑っているところに、また、その処遇をどうするかという視点からのみ考えているところに、今日の大学闘争にとりくむ文部省や大学当局、さらには大学教授は全くどうかしているということになる。
 学問の質を考え抜こうとする学生達、それは今一度、一般教育を考え直そうとする学生達と、大学問題は、学問の質でなく、制度の問題であると考えることしかできない大学教授との間におこっているのが、今日の大学紛争である。
 その点で、創価大学がどのように一般教育を考え、どのような一般教育を設けるかということは、そのまま、大学教育の成否にかかわる問題である。

 

 いかに全体人間を育てるか<大学革命推進の第一歩>

「一般教育をどのように考え、どのような一般教育を設けるか」という私の質問に、学長の高松和男は次のように答えてくれた。
「今日の大学の一般教育は、高校教育のレベルで、そのくりかえしに終わっている。そこに学生の不満がある。
 創価大学では、全体人間を育成する視点から、重視するし、とくに、高校・大学の一貫したカリキュラムをつくり、高校教育を検討して、決して重複しないように、だからとて、欠落しないように十分に考えていくつもりである。
 ことに、創価大学では、まず、文学部・経済学部などを設置するが、これまでの文科系の学生にとっては、一般教育としての自然科学は、単に理科系の学問・知識を機械的に学ぶということに終わって、それ自身として完成するということもないし、全体人間の中にくみこまれるということもなかった。
 したがって、創価大学では、相当水準の高い、理科系の専門課程で教えるぐらいのものを与えていきたいと思っている。実験も合わせてやるようにしたい。
 しかし、窮極には、学生一人一人に、なぜ学問をしなくてはならないかということを知らせることに尽きている。それは、仏法哲学を身につけさせることであるといってもいい。
 でも、学問・科学とは、知識・技能を求めるもので、仏教哲学そのものが物理学でもないし、数学ではない。だから、ナマの形で仏教哲学を口にするようなことはしたくないし、学生の中に、学問への畏敬の念をおこさせたい。その意味からいっても、宗教教育・宗教行事は一切もちこまない」
 高松が一般教養としての自然科学の教育を全的人間をつくるという視点からとらえ、その思考方法を人間の英知の中に吸収し、生かそうとしていることは見事というほかない。
 しかし、むしろ、問題なのは、自然科学だけでなく、一般教育としての人文科学・社会科学をどう考え、どう教育するかにある。また、今日、問題になっているのも、その中心は、一般教育としての人文科学・社会科学と、専門教育としての人文科学・社会科学の関係がはっきりしていないということである。
 専門教育としての人文科学・社会科学・自然科学の基礎になり、その一方、諸科学を学んでいく、さらに研究を進めていく上で、欠かせぬものは何であるかということである。
 高松は、それを仏法哲学であると答えるが、それだけでは、解答にならない。だから、一般教育としての自然科学をどうするかということよりは、一般教育の人文科学・社会科学をどうするかということをこそ答えてほしかった。
 彼のいうように、高校教育のレベルで大学の一般教育がなされているということが問題でなくて、高校の教育の質と大学の学問の質が同じようになっていることに、何とも不思議を感じないということこそが問題なのである。
 一般教育としての人文科学・社会科学・自然科学は、本来、専門教育として現にある人文科学・社会科学・自然科学に常にアンチ・テーゼを提出するものとしてあるし、そのためにこそ生まれたものである。それは、現にあるということで、常に過去のものとなりつつある諸科学に対して、新しく、学問とは何か、科学とはなにかを問い直し、そこから、学問・科学を始めなくてはならないということである。
 新学生同盟も、今、既成の学問・科学を問い直すことから出発しようとしている。それは、一般教育とは何かを追求しているということでもある。
 その意味では、創価大学らしいカリキュラムを真に効果的に、編成するために、高松を中心にして、来年四月までに、一般教育をどうするかということについて、徹底的に究明してほしいと思う。
 それが、日本の大学革命を推し進める第一歩となるし、新学生同盟が欲し、全国の学生達が待望し、さらには、創価大学の学生達が切望することである。
 それと関連して、高松が仏法哲学が基盤だといいながら、宗教教育をもちこまないといっていること、初年度には、文学部に文学科と社会学科を設けるが、宗教学科=東洋哲学料を設置しないと発言していることには、すごく問題がありそうである。
 創価学園の項でも述べたが、彼のいうところは、狭い意味の宗教教育はしないということであろうが、人間・社会・自然をトータルにとらえる世界観としての宗教教育をしなければ、また、一般教育の中核に、人間最高の英知を追求する宗教をおかなければ、創価大学の一般教育は存在しないのではないか。
 何はさておいても、宗教学科=東洋哲学科を初年度から設置すべきではあるまいか。それが、戸田の願いであり、池田の考えるところではなかったか。

 

                 <第三の大学…創価大学 目次>

 

   創価大学の課題

 

 創価大学が大学革命の最中に発足するということは非常に意味深い。世の中には、大学革命の嵐は一段落したと考えている人々も多いが、すでに書いたように、それが新しい学問、新しい思想をめざし、大学教授の学問の変革をめざすものである以上、大学革命はその緒についたばかりである。それほどに、大学革命は至難の仕事である。しかし今、創価大学は、学生達が大学革命の中で告発した問題点を正当に受けとめただけでなく、それらをふくんで、なお、数多くの問題の解決にとりくむ大学として出発しようとしている。誠に喜ばしいの一語につきるが、それゆえにまた、創価大学の課題は限りなく大きい。その課題を果たすために配慮してほしいと思うことを、二、三述べてみたい。

 

 何のために学問をするか<新しい学問のための戦士を選ぶ>

 創価大学は、「人間教育の最高学府たれ、新しき大文化建設の揺藍たれ、人類の平和を守る要塞たれ」という三つのモットーを掲げて出発するが、それは、創価学園のモットーとして掲げている「真理を求め、価値を創造する、英知と情熱の人たれ」をより具体的にいいあらわしたものである。
「真理を求め、価値を創造する、英知と情熱の人」とは、これまでの大学教育のように、学問を単に理性的、頭脳的作業とみなしたのと違って、学問をするということを全人間的行為とみ、その活動と行動を導く思想をとらえようとする人間ということである。だから、そこには、従来のような、学者・研究者と生活者・実践家という分裂がないし、人間の生活と行動を支配できる学問・思想のみが、真に、学問・思想の名に値するということである。
 そういう学問をする人間の教育をするということになれば、創価大学に入学させる学生の選択には、これまでの大学受験とは全く異なった人間評価が必要になってくる。ことに、人間の全的能力をどのように評価するか、具体的には、人間の情熱と意欲をどのように評価するかということであろう。
 ○×式の受験方法、それに伴う小手先の受験技術だけを身につけることが批判されて、記憶力や暗記力よりも、次第に理解力・批判力、さらには独創力を評価する試験方法にかわる傾向にあるといっても、人間の情熱・意欲を評価する方向にはいっていない。人間の全的能力を評価する方向には向かっていない。
 記憶力・批判力をつけている人間には、それ相応の情熱と意欲があるとみなしているにすぎない。しかも、その情熱と意欲が、人間の全情熱・全意欲を示すものかどうかという反省はないし、英知と情熱という場合の情熱にあたるかどうかということも、全く考えられていない。
 創価大学でいうところの情熱とは、自らのつかんだ価値を実現していく情熱であり、どんな困難にもまけずにやり抜いていく不退転の姿勢である。英知を支える人間的情念とでもいえるもの。単なる学者、研究者に終わらせず、その価値を実現しようと行動する者、生活する者にしていくということである。
 もちろん、教育を通じて、英知を伸ばしうるように、情熱もまた引きだし、それを熾烈にすることもできるだろう。しかし、三つの課題を背負う創価大学の学生は、その出発点において、英知を求め、情熱を限りなく大事に思う者でなくてはならない。また、そういう人間を選ぶための入学試験であるはずである。
 だから、入学試験では、情熱の審査に細心の注意が払われなくてはならないし、受験生を落すためにするような意地わるい試験は徹底的に排除すべきである。
 それに、受験生一人一人が、これまでの高校生活と高校教育を整理した後に、新しい学問を創造する戦士としての自覚をもって、入学してくることは、とくに必要であるから、それにふさわしい大テーマを前もって与えて、それについて、十分に研究させ、考えさせた上で、試験では、その中の小テーマについて書かせてみるということもあっていいのではないか。
 あるいは、試験の当日、あるテーマについて講演をし、それについての感想を時間をたっぷり与えて書かせてみるとか、あるテーマについて、数人に討論させ、それについての感想を書かせてみるとかするのも一つの方法であろう。
 そこには、受験生の情熱・意欲・学問する姿勢がそれぞれの程度に応じてあらわれる。しかも、それに基づいて、口頭試験をすればいいのである。
 かつて、松下村塾は、何のために学問をするかということを質問して、入塾の可否を決めたが、池田のいうように、この世における同志を選ぶには、それだけの手間と時間をかけてもいいのではないか。松下村塾のように、何のために学問をするか、また、大学では、何について研究するか、そのテーマについて、じっくり書かせるということをしてもよい。
 いずれにせよ、大学が求めているのは、英知と情熱を求める人であって、英知だけの、情熱だけの、かたわ者でないということである。まして、頭デッカチだけの者は、求めていないはずである。しかも、そういう人間は、人間としては、半端者ということを、学生にも、世間一般にも知らせるということが、創価大学の入学試験であると断言しても、いいのではないか。

 

 自己の思想で立ち、生きる<英知と情熱の大学教育を>

 次は、こうして入学してきた学生達に、徹底的にオリエンテーション(方向づけ)を実施するということである。それは一ヵ月、二ヵ月とつづいてもいい。まず、日本と西洋における学問論・学問観の変遷について、精細に論ずるのを中心に、哲学という学問がどのようにして、原理の学を志し、総合の学であろうとして、それに失敗したか、今日、学問が、それぞれの専門科学がどういう状況にあり、これからの学問はどういう課題を背負っており、どういう方向に歩まねばならないかを、究明してみせることも必要であろう。
 西洋における宗教と科学の闘争の歴史を説くことも、また、日本において、本来、学問であり、科学でもあった仏法が、なぜに、宗派宗教としての仏教となり、学問・科学の位置を失っていったかを、論じてみせることも重要であろう。
 要するに、一人一人の学生に、学問の過去・現在・未来について考えさせるだけでなく、学生一人一人の関心と情熱を、学問の現状と交錯させ、その中で、各人の追求する課題をより明確にとらえさせるように、指導することが大切である。
 そのためには、二時間講義して、二時間討論し、数時間を費して、論文を書かせるという日課が一ヵ月、二ヵ月とつづくことが望ましい。必要な参考文献を用意して、その講義と平行して読ませることも、考えさせることも、さらには、論文作成の上に、役立たせることも必要である。
 その中で、大学とは、高校と違って、徹頭徹尾、自分で考え、自分の思想で立ち、自分の思想を生きるということ、自分自身の英知と情熱だけがよりどころであることを、とことん知らせることである。先人の思想を沢山知ることでなく、先人の思想を導きとして、自分自身の思想をつくっていくことが、学問の出発点であることを、骨の髄まで、実感させるということである。
 当然、日本の学問論を説く中で、日本にすぐれた人間科学者・社会科学者が出なかったのは、学説の解説者、亜流者のみ多くて、その批判的摂取がなかったこと、解説的な学者が多くて、創造的な思想家があまり出ないのは、学問を全人間的な主体的行為として受けとめようとしなかったことを、明らかにすべきだし、また、創造的思想家になった者も、それは、大学教育が生産したのではなく、ほとんど、その人の個人的努力と自覚の結果であったことも、学生に知らすべきであろう。しかも、そういう学者・思想家が重視されない思想風土であったということも。
 そして、大学生にとって最も必要なことは講義を聞くことでなく、自分自身で考えることであり、どんなにすぐれた内容のある講義でも、それは、自分で考える素材にすぎないということを知らせることである。
 だからこそ、二時間講義を聞き、二時間討議し、後の数時間余は、自分自身で考える時間にあてるし、そういう生活が一つの姿勢となり、習慣となるまでに、学生一人一人を学問する学生として人間革命することを、オリエンテーションの課題と考えるのである。
 学問への情熱を引きだすこともなく、学問への使命感を感じさせることもなく、大学生を試験で圧迫するほど愚劣なことはない。そこには、学問をする学生をなくさせるばかりか、学問をけがすものしかない。
 これまで、大学教授たちの多くは、学生たちの学問への情熱・意欲がないことのみをいってきたが、彼等は、一体、学生達の学問への関心をひきおこすことに、どれだけ努力したか、また、その学問が学生達にとっていかほど必要なものかを説いたかどうか、全くあやしい。それこそ、教授の考える学問は、多くの学生達には、ほんのちょっぴり必要なだけ、それ以上のものでないことは、彼等自身何よりも知っているのではないだろうか。学生達も、それゆえに、あまり、学問への情熱をかきたてられないのである。
 若者である学生達に、情熱がないのではない。英知を求める心が働かないのではない。ただ、英知と情熱を求める大学教育がなかっただけである。英知と情熱をかきたてる学問がなかっただけである。
 大学に英知と情熱を求める動きがおこれば、学生達の多くは生きかえるだろう。無関心と惰性に流れるしかなかった学生達の多くは、生命を吹きかえすであろう。
 創価大学は、そのオリエンテーションで、全学生に生命を吹きこんでもらいたい。若者らしい夢と情熱に生きる学生として、夢と理想を追う学生として生きかえらして欲しい。

 

 能動的に統一の方向へ<創価大学に望むもの>

 先に、宗教学科=東洋哲学科を設置することが、池田の創価大学構想の一つの柱であると書いたが、それは、同時に、戸田の切望するところでもあった。彼の願いは、人間最高の英知としての宗教ということを世の中の人々に知らせるとともに、真にそのような宗教をつくりあげるということであった。宗教学科の設立が、強く望まれる理由であるが、それと平行して、牧口の願いを果たすために、教育学部の設立を、ぜひ実現してほしい。
 将来、文学部の中に、教育学科を設ける構想はあるかもしれないが、教育学科だけでは、牧口の教育思想を発展する上に役立っても、彼の望んだ、教師の思想革命・教育革命を通して、日本の教育界そのものを革命することはとても実現できない。
 今の日本には、小・中・高校の現場で、直接に、教育革命を進めるものが必要とされている。それには、教育学部を設けて、小・中・高校の専任教師を養成し、教育革命を推し進める戦士を送り出すべきである。それによって、二万人という教育部会に参加する人達に、年々、新しい活力を注入していくとともに、明確な方向と豊かな内容を与えていくこともできよう。近く設置されるという通信教育部は、教育学部を中心にして、より多くの女性を吸収し、女性を社会的に覚醒し、教育活動に積極的に参加させるように配慮することも大切であろう。とくに、女性が平和の戦士となることを希望する池田の立場からいっても、女性が平和の戦士となって、子供達の先頭に立てるように指導することは忘れてならない。
 だが、それよりももっと重要なことは、付属教育研究所をつくることである。今までの教育研究所は、子どもと教師を研究の対象とし、その研究の結果を現場の教師がいただくというものが多かった。しかし、牧口は、一人一人の教師が自らの教育理論をつくるだけの教育経験を持ちながら、自らの教育理論をつくりあげようともせず、また、そのように、現場の教師を指導しようともしなかったことを激しく怒っていた。
 だから、この教育研究所は、子どもと教師を研究対象にするのでなく、子どもと教師のための教育研究所、教師一人一人が自らの教育理論をつくりあげ、また、それを再検討するための教育研究所でなければならない。そういう研究を夏休み・冬休みを利用してやるか、土曜・日曜を利用するか、文通によってやるかは、教師の実情に即して考えればよいことで、要は、教師一人一人の教育理論確立のために、相互批判による理論の深化のために、教育研究所がどうしても必要だということである。
 それに、この教育研究所で明らかにしなくてならないことは、牧口の考えた「教授の統合中心としての郷土科研究」について、それを生かすには、今日、どのように考え、どのようにカリキュラムを組むかという研究であり、それをさらに、中学・高校で生かすためにはどうすべきかということである。
 牧口の考えたところは、戦後の社会科教育の中で、一時期やろうとしたが、それは、大学の一般教育同様に実ることもなく消え去っている。それをなしうる教師もいなかったし、文部省もそれを進んで壊す方向に働いた。
 大学が一般教育をあらためて考えなくてならないように、高校・中学・小学は、社会科・郷土科を徹底的に究明し、再構築しなくてはならないときにきている。それを、教育研究所は、当面第一の課題としてとりくむべきである。

 教育学部の設置と同じくらいの比重をもつのが政治学部=法学部の設置である。初年度、文学部・経済学部・法学部の三学部で発足するということであるが、池田の政治教育論を考えるまでもなく、牧口の教育学部、戸田の宗教学科=部、池田の政治学部(法学部も含む)となるのは、衆目の認めるところであろう。とくに、政治の季節といわれる今日、人間の行動・活動の大部分は政治的行動であり、政治的活動である。私達が意識しないところにも、政治はどんどん入りこんでいる。政治を離れて、一日も生きられないといってもいいほど、政治に支配されているのが、私達の今日の生活である。
 政治学部こそ、法学部に独立して発足させてほしいだけでなく、これまでのように、政治哲学も政治理念もないような政治学でなく、政治哲学・政治理念を中心とした政治学を早急に確立してほしいと思う。従来の法学部こそ、その学生に権力意識を植えつけ、国民と民衆を手段視し、奴隷視してきた元凶である。人間を支配と被支配に分けた。
 大学革命を推し進めようとするなら、創価大学の理念を実現しようとすれば、ぜひとも設置が急がれる学部といえよう。そして、教育学部に教育の研究所が必要なように、政治学部には、政治研究所=政治経済研究所が必要である。
 それを人間科学研究所と名づけてもよいであろうが、そこで、人間の学としての政治学・経済学と、そして、池田のいう人間主義経済や人間史観の研究、さらに、仏法民主主義・人間性社会主義・地球民族主義の理論的深化のために、じっくりととりくんでほしい。
 高松和男は、大学ではマルクス経済学を講義するといっていたが、それも大いに結構だが、それよりもまず、マルクスの哲学、思想としてのマルキシズムを講義することであろう。それは、マルキシズム・コミュニズムを感覚的に憎悪する者の多くは、マルクスの哲学、思想としてのマルキシズムについて、全く無知な者が多いからである。それも、第三者が批判したものを学ぶだけで、それを憎悪し、批判しているだけで、直接、マルクスの哲学論文を読んでいる者はほとんどいない。
 これでは、高松のいうような「学問に敬虔な」者といえないし、学問的であるともいえない。政治研究所=人間科学研究所では、本格的にマルキシズムの研究にとりくんでほしい。
 戸田は、仏法は、人間生命の法則、社会生命の法則、宇宙生命の法則のうち、主として、人間生命の法則を追求し、究明したものといったが、マルキシズムの現段階は、人間の法則、社会の法則、自然の法則のうちに、主として社会の法則を究明したものである。しかも、仏法が社会生命の法則、宇宙生命の法則を無視しないように、また、それは今後の仏法の課題であるように、マルキシズムの正統派をもって任ずる人達も、また、人間の法則、自然の法則の究明を残された課題としてやろうとしている。現にやり始めている。
 マルクスの哲学、思想としてのマルキシズムを日本共産党あるいは、現実の社会主義国家と混同してはならない。
 仏法的英知に立とうとする人々が、仏法に全く無知で、偏見をもつ人々のように、思想としてのマルキシズムに無知・偏見であってはならない。
 その意味で、創価大学が、無知・偏見を人々の中から取り除くことに邁進してくれることを心から期待したい。平和は、そこからのみやってくるといってよかろう。
 池田もいっている。
「思想は、因襲とならない限り、たえず、発展していく。より高いものへ、より純なものへ、さらに、より正しいものへと統一されようと動いてきた」
「思想の統一も、権力によって、受動的に統制された時代は、もはや去り、今や、人間一人一人の自由な判断に基づいて、能動的に統一の方向に進みゆく時代になったのである」
 いずれの宗教・思想がよりすぐれているかということは、過去にそれが偉大であったということでもなく、また、現に偉大であるかということでなく、未来永劫にわたって、その宗教・思想がどれだけ、現実から謙虚に学びつつ、発展し、太りつづけていくかということである。そういう宗教・思想だけが生きつづけるのである。
 学ぶことをやめた宗教・思想は、その直後、生命を失い、発展することをやめる。
 だからこそ、池田は、学ぶことを強調し、人間が生涯学んでいくことを説きつづけているのである。

 

                 <第三の大学…創価大学 目次>

 

第4章 師を超えるもの

   日蓮に学ぶもの

 

 世の中の人々は、ともすると、宗教家もしくは宗教の信者は、宗祖の教えを絶対視し、それを無謬のものとして、信じきるものであり、一つの宗教は、そうすることによってのみ、初めて成立するものであると考えがちである。確かに、そういう宗教家や宗教信者は多いし、また、それによって存立している宗教もあることは事実である。
 だが、これまで述べてきたところでも明らかなように、そういう宗教は発展しないし、発展しないだけでなく、人々の心、要求から次第に離れていく。さらには、現代の課題に向き合っている学問・科学からはソッポを向けられる。そのために、ときとして、宗教に走る者、宗教によりかかる者は、人間の中で、最も知恵のおくれた者、最も弱い部類の者という考えが、成立することにもなる。
 その意味で、宗教というものが、宗祖が開いたものより発展せず、常に閉鎖的なままに、盲信するものでしかなかったならば、そう思われてもしかたがあるまい。
 しかし、日蓮や釈尊の思想を継承し、発展させている仏法は、そういう宗教ではなく、それと全く相反する宗教、学問的・科学的であると同時に、無限に発展しつづける宗教、常に人々の心の要求を見つめて、それに答えつづけようとする宗教であった。人々の心や要求とともにありつづけようとする生きた宗教であった。宗教という言葉に、抵抗を感ずる人々のためには、宗教とは、生きた英知、逞しい行動知であり、人々を最も人間らしく生きさせる英知、人々の生命力を最も豊かに発動させる行動知であるといってもいい。
 なぜそうであるかということを、日蓮の宗教・思想の発生・成立に則して考えてみたい。

 

 行動の論理の底にあるもの<青年日蓮の思想の遍歴>

 ご承知のように、平安時代から鎌倉時代にかけては、仏教諸派が激しく対立し、中には権力と結びつき、あるいは、権力のとりことなって、抗争をくりかえすという思想状況であった。そこには、釈尊の説いた慈悲の思想はかけらほどもなく、人間に英知をもたらす仏教であるにもかかわらず、逆に闘争を惹起していた。
 そういう時代状況の中に生まれた青年日蓮が、強く、既成の仏教諸派に幻滅を感じたとしても不思議ではない。しかも、彼は、同時代の先達であった親鸞や道元の思想にも失望した。これらの思想によっては、自分の疑問や不満は解決されないし、同時代の人々の苦悩も除かれないと考えたのである。
 では、日蓮の疑問と不満とは、一体、どういうことであったかといえば、それは、「釈尊の思想である仏法が、どうしてこんなに多くの宗派に分かれ、相互に争うのか、釈尊の本当の思想は、どこにあるのか」ということに尽きていた。
 だからといって、日蓮は、仏教を捨てようともしなかったし、あくまで、仏教の中で、その疑問を解明していこうとした。それというのも、当時の仏教は、今日、考えられているような、宗教の中の一仏教でなく、学問そのもの、思想そのものであると考えたためである。それは、今日の哲学・文学・心理学から、歴史学・政治学・経済学、さらに、自然科学までも包含する、人間・社会・自然をトータルにとらえる世界観としての学問・思想であったばかりでなく、当時の代表的な学問・思想であったということである。
 だから、青年日蓮が当時の仏教に、仏教諸派に絶望したということは、そのまま、当時の代表的な学者・知識人・思想家に絶望したということでもあった。しかも、彼の絶望は、それを放置したままに生きていかれるほど、なまやさしいものではなかった。その疑問を抱いたまま、過ごしていけるような甘いものでもなかった。
 そうなると、日蓮は、彼自身で、彼の納得のいく結論を見出す以外になかった。こうして、青年日蓮の仏教教学についての研究が始まったが、彼は、それを果たすために、二十一歳のときに、仏教教学の中心地である比叡山延暦寺に入門した。といっても、すでに、当時の学者・知識人・思想家に幻滅を味わっていた彼のことゆえに、誰かを師とし、誰かを導きとして、その疑問を解決しようとしたのではなかった。
 日蓮は、あくまで、仏教聖典だけを手がかりとして、彼自身の頭と生活で、それを丹念に読み、考える作業にとりかかったのである。それは、仏教聖典を彼流に読むということであり、同時に、釈尊の思想を釈尊の立場に立って、あらためて、考え直してみるということであった。
 日蓮は、そういう生活を十余年もつづけた。十余年間、仏教聖典と彼だけの対決がつづいたのである。もちろん、その間、彼は、延暦寺に閉じこもってばかりいたわけではない。あるときは、京都・奈良・高野山・大阪などの各地の寺にでかけ、直接、倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・華厳宗・禅宗などについて深く学んだし、さらには、漢学・国学などを学ぶということも怠っていない。それは、軽々しい批判を最もおそれるとともに、彼自身の悩みと疑問を解く鍵が仏教以外にもありはしないかと考えた、彼の慎重な態度、学問的姿勢、科学的な態度であった。
 その結果、日蓮は、

「法華経は諸経にすぐれ、諸経は法華経のためにある以上、今、日本に必要なことは、この法華経をひろめることである」
 という結論に到達した。それは、そのまま、当時、仏教諸派が対立し、抗争しているのは、人々がこのことを知らないためであり、人々が平安でないのは、法華経をよりどころとしていないためであるということであった。彼にとって、法華経に書かれている思想が、人間最高の英知であった。
 日蓮の到達した思想の中で、今一つ、重要なことは、法華経が最高の英知であるということと関連して、現実の国家原理・指導原理も法華経の思想によるべきであり、現体制の支配者・指導者がそうしないようなときには、その国は、必ず乱れ、他国からも侵略されるといいきったことである。
 要するに、現実の指導原理と理念としての指導原理との二つがあり、現体制の支配者・指導者は、理念としての指導原理を仏法に常に求めるように努力しなくてはならない、ということを明言したのである。
 そこから、日蓮の、当時の支配者・指導者を初めとして、人々を、人間最高の英知としての法華経に改宗させようとする捨身の活動が始まることになった。どんな迫害、どんな妨害、どんな批判にもめげずに邁進する彼の行動がでてくることになった。

 

 苦闘と模索の上に<思想創造の原動力>

 以上のことから、私達現代人は、何を学びとるべきか。とくに、創価学園・創価大学の生徒・学生達は何を学びとるか。戸田城聖のように、日蓮の思想から、法華経から、「生命の哲学」を学びとるのもよいであろう。その生徒、その学生が学会員であれば、その思想から、それを学ぶことも大いに必要であろう。
 だが、現代に生きる学生達、現代の課題に立ち向かい、それを究明する学生達としては、日蓮のその時代の課題に立ち向かった姿勢、その課題を究明する上にとった学究的姿勢をこそ学ぶべきである。日蓮は、その学究的姿勢のゆえに、釈尊を生きかえらせることができたし、その思想をその時代状況に合わせて発展させることもできた。さらには、当時の仏教が狭い意味の宗教に閉じこもり始めたときに、逆に、人々の全人間的行動・全人間的知的活動を指導していく仏法に、具体的には、政治活動・経済活動をも指導しうる仏法、人間最高の英知としての仏法にひきもどすことに成功したのである。
 戸田が「日蓮大聖人の立場にかえって判断せよ」というのも、その一つは、ここにある。
 ことに、現代とその思想状況は、文字どおり、日蓮が生き、日蓮が絶望したと同じもの、相通ずるものがある。思想という思想、宗教という宗教は、すべて、その限界をさらし、非生産的な対立・抗争をつづけている。
 今日の学生たち、若者たちは、かつての、青年日蓮のように、現代の学者・思想家に絶望し、既成の思想・宗教に幻滅して、迷い、苦しみ、摸索をつづけている。日蓮は、自らの思想をつくりだし、確立するのに、十年余を費したが、彼等もまた、それをつくりだすまでは、必死にとりくんでいく以外にない。もがいていく以外にない。
 その場合に、必要なのは、日蓮が、その思想を創造し、確立するには、十年余かかったという認識である。新しい思想の創造とはそういうものである以上、若者たち、学生たちは、あせることなく、じっくりととりくむべきだし、大人達の見当はずれの批判には、全く耳をかさなくてよい。
 現代から未来にかけて、それを指導しうる思想、現代における最高の英知がそんなに簡単に創造されるわけはない。だからといって、他人の思想を適当にいただいてきて、それを自らの思想とすることはなおさらできないはずである。ことに、かつての日蓮のように、深く、現代に絶望し、その思想に幻滅を味わっている者には、彼のように新しい思想を求めて、どこまでも、苦闘する以外には、どうしようもないはずである。
 しかし、自分自身で、長い間、苦闘し、考えつくして、創造した思想は、日蓮が確信し、誇りをもったように、その人に、自信と誇りを与える。困難にぶつかって、また、権力の弾圧にあって、転向することもない。さらに、自分自身で、どうしても自分自身の思想を創造したいと思う者には、必ず、自分の思想を創造できるということを教えているのも日蓮である。現代への絶望の深さ、現代思想への不満の徹底が、思想をつくらせる。思想を創造する原動力になるのである。
 これまで、日本には、自らの思想を求めて思索し、苦闘する者が比較的少なく、多くは、他人の思想に依存し、その追従者になった。日蓮のように、生き、考え、行動した、すぐれた先輩がいたにもかかわらず、そういう生き方、そういう学習方法を自分の中に定着させることもなく、今日まで、多くの日本人がぼんやりと生きたということは、彼のように、絶望や不満が深く、徹底していなかったといえると同時に、日蓮の思想や行動に学ぶことがあまりに少なかったということである。
 日蓮の追随者になり、その亜流となるということは、決して、日蓮を理解し、彼の思想と行動に学ぶということではない。彼を最も深く、理解し、彼の思想と行動を学ぶということは、彼がその時代に生き、考えたように、現代に生き、現代を考えるということである。現代の課題に立ち向かって生きるということである。
 具体的には、かつて、日蓮が、国学や漢学を徹底的に研究し、仏教諸派を自分自身でとことん究明したように、今日に生きる若者達は、キリスト教や回教を、さらに、プラグマチズムやマルキシズムなどを究明することから始まって、もう一度、仏教そのものを現代という視点から見直して見るということである。そうして、初めて、現代最高の英知としての仏法が確立されるし、思想的自立も生まれる。
 その困難な思索・追求を怠る者は、日蓮をいい、日蓮を尊敬する資格はない。彼は、諸科学・諸思想の発達していない時代にあってすら、十数年間の思索と苦闘の後、これだというものを発見し、創造した。今日の思想状況の中で、彼のような確信をもつためには、彼に倍する思索と苦闘を必要とする。しかも、現代という危機的状況は、それを激しく求めている。それをやりぬく者が次々と出てくることを求めている。
 今日、日蓮に学ぶということの意味は、いよいよ深まっている。現代における人間最高の英知を求めようとする者、そのために苦闘する者は、すべて、日蓮の弟子である。日蓮の道統とはそういうものである。私には、そのように思われてならない。無知・軽信・盲信、それこそ、日蓮が最も軽蔑し、憎んだところである。

 

                 <第三の大学…創価大学 目次>

 

   牧口の創造性

 現在、牧口とその思想ほど正当に評価されていないものはない。中には、彼の「価値論」を高く評価し、そこにあらわれた思想を機会あるごとに宣伝しているものはいる。しかし、その思想も結局は、「人生地理学」「教授の統合中心としての郷土科研究」という、彼の初期・中期の作品の帰結として生まれたものであり、あたかも、マルクスの思想をいうとき、彼の後期の作品である「資本論」のみに注目し、彼の初期・中期の作品を見ようとしないために、彼の思想の全体像を見誤っているように、牧口の全思想を理解することにはならない。
 しかも、マルクスの場合、その初期・中期を見直そうという動きは相当に進んでいるが、牧口の場合には、依然として、そういう動きはあまりおこっていない。おこっていないのみか、牧口の「価値論」をいう者も、その多くは、その思想の追随者・亜流者でしかない。
 人とその思想を正確に、理解し、発展させることはむつかしい。単に、その思想を正確に知っただけでは、本来のその思想と全く相反し、その思想をけがすということもありうる。とくに、その思想が、現実に生き、作用することを求めているものであればあるほど、なおさらである。まして、その思想を継承し、発展させなくてはならない場合には、その思想を矮小化することを最も恐れなくてはならない。かつて、仏教諸派が釈尊の思想を矮小化したように、また、日蓮諸派が日蓮の思想を矮小化したように。
 その矮小化をおしとどめ、さらに、発展させたのが日蓮であり、あるいは、牧口や戸田であったが、今また、牧口の矮小化がすでに始まっているともいえる。本当に恐しい。このことは、どんなに注意し、戒心しても、注意しすぎるということはない。戒心しすぎるということはない。

 

 激しい怒り、鋭い批判<教育界への挑戦状>

 では、牧口の「人生地理学」「教授の統合中心としての郷土科研究」にあらわれた思想とは何であり、それは、どのように、今日、正当に理解されていないのであろうか。
「人生地理学」にあらわれた思想とは、牧口の執筆姿勢にある。彼は、その序文の中で、
「“人生”の語は、その結局は同じからんも、一見二様の意味に用いらるるものの如し。“人の一生”と“人間の生活”とこれなり。ここのは、その後者の意味に従いたるものにて、人類の物質的および精神的両方面の生活を意味し、したがって、その中には、経済的・政治的・軍事的・宗教的・学術的等、諸般の生活を包含す。人類社会の生活のこれら諸方面と地理との閑係を論ずることは、これ本書のいささか予測したるところ」
 と書いているように、自然的現象・地理的事象と人間の生活がいかに深くかかわり、それが人間にいかに強い影響を与えているかを観察し、究明しようとした。それは、従来の地理教育がどこにどういう山や河があり、どういう産物がどの地方に出るかという知識を、単に機械的に教えるということに終わっていたのに対して、彼は、自然的現象・地理的事象と児童一人一人と、さらには人間一人一人の生活とどういう関係にあるかを知悉させて、自分の住む社会と自然を活用し、変革できる能力を与えようとした。
 牧口は、地理についての単なる知識でなく、生徒一人一人の人間形成・思想形成に、いかに深く、それらがかかわりあっているかも知らせようとしたのである。いいかえれば、地理教育をとおして、精神的・物質的存在としての自己自身、政治的・宗教的・文化的存在としての自己自身を把握させ、自己と同時に社会・自然を変革できる主体的知識=英知を与えようとした。現実に作用する知恵をこそ、教育しようとしたのである。
 しかも、牧口のこういう考えは、日本海に面する荒海、砂丘海岸の中に育って、村人の多くが出かせぎにいかなければならない状況を見つめて育ったところから生まれたもの、そういう自然的・地理的環境を直視しつづけるところから育ったものである。
 人々は、多くの場合、そういう悪い環境から逃げだすか、それを忘れようとする。普通、勉強し、学問をするということは、自分だけが、その自然から、その社会から脱出していくことを意味していた。だが、牧口は、生まれた社会とそこに生きるしかない人々を捨てず、最後まで、それに食いさがり、その自然と社会を変えようとした。そこに住む人々とともに、向上しようとした。彼には、「人民のなかへ」という言葉は通用しない。
 牧口のこうした思想と姿勢は、明治三十六年、彼が三十三歳のときに、「人文地理学」の中で、明らかにしたものだが、それは、単に、地理教育を変質させるだけでなく、各教科を変え、さらに、学問そのものの意味に変革を迫るものであった。
 だが、日本の地理教育は、かわるどころか、ますます、児童の感覚・生活とは無縁に、死んだ知識をいたずらにつめこむことに狂奔したし、学問は、いよいよ、専門科学に分化し、学問の目的が何であるかを見失い、学問とは何かと問おうとする者さえ、ほとんどなくなるという有様であった。
「人生地理学」は、文検の教科書になったとさえいわれているが、試験官も受験生も牧口の意図を考えようとする者はほとんどいなかった。誰一人、牧口の中にくすぶっている激しい怒り、鋭い批判を感じとろうとはしなかった。
 だから、明治四十五年、牧口の四十二歳のときに、出版された、「教授の統合中心としての郷土科研究」は、彼の怒りの所産であったということもできる。それは、日本の教育界、学問の世界への挑戦状であった。
 牧口がここで、意図したものは、教育と学問を、学者・知識人の手から、教育者の手に、庶民の手にとりかえそうとしたことである。
 彼にとって、学問とは、日々生活している中で苦悩する庶民、時々行動する中で、空転をつづけるしかない庶民のために、その生活と行動に役立ち、それを導くに足るものでなけれはならなかった。
 日々、教育活動にとりくむ教師に必要なのが教育理論であった。しかし、現実の学問は、学者・知識人の手中にあって、日々、生活し、行動する庶民の要求に耐えるものではなかった。それは、学者・知識人がその学問に従って生活や行動を実現しないところに、自然にその学問がその生活・行動と離れて観念的となり、趣味的となっていったためである。ときに、行動理論を求める学者・知識人がいても、彼等は、直接、生活者・行動者でなかったから、その理論が非常に不十分なものであっても痛みを感ずることも、その理論の被害者になることもなかった
 その代表的な例が、学者・知識人の教育理論で、彼等は、教師と児童をその犠牲にすることを何とも思わなかった。しかも、彼等の多くは、無責任に、次々と、外国の教育理論を日本に紹介することにのみ専念し、彼等自身としては、一つの教育理論をすら創造しようとしなかったのである。
 牧口が、教師自身に、庶民自身に、その教育理論、その学問を創造するように呼びかけたのもそのためであった。教師と庶民が自らの理論、自らの学問で武装しようと考えだしたとき、初めて、教師と庶民は、自らの生を自らの手に、しっかりとにぎることができると考えたのである。
 牧口の、このような考えは、「人生地理学」当時の考えをさらに発展させたものだが、彼もまた、日蓮のように、その時代と思想に絶望し、自ら、それにかわる思想を創造する作業にとりかかった。日蓮を、当時の彼は全く知らなかったが、日蓮の歩んだ道を彼自身も歩もうとしたのである。その時代の課題に向き合って、全身でそれにぶつかっていこうとするものは、期せずして同じ道を歩むことになる。

 

 教育の貧困を救おう<「価値論」の集大成果たせ>

 牧口が、すべての人間が人間として自立し、誰のために生きるのでもなく、また、誰によって生かされるのでもなく、自分で自分の生を精一杯に生きていける可能性のあることを、すべての人に向かって、指し示したことは、全く、画期的なことであった。ことに、生活知・行動知という視点からとらえたとき、たとえ、それが政治学的知識であろうと、経済学的知識であろうと、また、自然科学的知識であろうと、それは、どんな人間にでも把握され、理解されるものであると断言した。その上、その知識を感覚と情念の延長にとらえるときには、その知識が単なる知識であることをやめて、行動知・実践知になり、人間の全生活を支配し、その生活を変革し、発展させる英知になることを明らかにしたのである。そして、この生活知・行動知の原点となる教科が、郷土科であった。
 牧口がこの意見を発表したのは、すでに書いたように、明治四十五年。ということは、戦後、社会科の理念を米国から輸入し、日本の教育界がそれに歓喜したときより、実に、三十五年も前のことである。
 牧口が発表したとき、ほとんど、誰も喜ばなかった郷土科。それのみか、三十五年後に、社会科の理念で躍りあがった学者・教師の中、誰一人として、この牧口の郷土科を思いおこそうとはしなかったのである。
 そのことが、社会科の理念をわずか数年で失わせて、単なる社会科的知識を与えるものにするしかなかったのである。そればかりか、昨年(昭和四十四年)、牧口の教育思想に注目した米国の一学者が、来日して、国立教育研究所を訪れたとき、誰一人、彼の思想に関心を寄せているものがいなかったという。そして、彼の郷土科教育についての質問に、そんなものはすでに時代おくれであると答えたのである。無知もここまでくると笑いたくなる。
 だが、笑っていられないのが、日本の教育の現実であり、そのために、被害者となり、だめにされているのが児童達であり、教師達である。考えただけでも、ぞっとする。ぞっとするほどに、日本の教育界はお粗末である。
 牧口の晩年の作「創価教育学体系」とともに、彼の思想と精神は、ほとんど、今日、生かされてもいない。生かすことができないほどに、日本の教育界は、貧しいのである。
 しかし、今日、牧口の教育理念を学び、考えきろうとする学生は出始めている。彼の「価値論」のみでなく、「人生地理学」「教授の統合中心として郷土科研究」をふくめて、彼の全思想をじっくりと学び、工夫してみようとする学生がでている。彼が、その時代に、いわんとしたものが何であるかを、日蓮や牧口のように、誰にも教えられず、また、誰の指導も受けずに、彼自身の立場に立ちかえって、自分で読み、考えようとしている。自分の身体と生活で読み始めている。誰のためにでなく、自分自身のために読もうとしている。試験や出世のためでなく、ただそれ自身のために読もうとしている。牧口の全思想にひかれて。
 そういう学生達には、非常に期待がもてる。日蓮や牧口が徹頭徹尾、独学・自学を通したゆえに、あれだけのものを創造したように、今、独学・自学をすすめる学生には期待がもてる。その創造性に望みを託することができる。
 牧口の「価値論」を整備し、発展させることのできるのも、そういう学生である。彼等の思索と苦闘の後、初めて、「創価教育学」は、充実するであろう。今日の教育界をふまえた上での教育理論が生まれようし、牧口がやろうとして果たせなかった各教科論も出てこよう。さらには、中学校・高校・大学の教育理論も彼等の中からでてくるにちがいない。
 しかも、牧口が、美・利・善の統一的価値を追求したのは、何も教育の分野のみではない。
 彼の思いは、政治・経済・美術・医療・建築などすべての人間の生活・行動の中に、美・利・善の統一的価値を探求していくことに、最後の望みがあったはずである。
「創価教育学」にならんで、「創価政治学」「創価経済学」「創価芸術学」「創価医学」「創価建築学」などが構想されていたに違いない。
 それこそ、日蓮にとっての最高の英知が法華経であったように、牧口の最高の英知は「価値論」である。この「価値論」は、今後ますます、発展し、補足しなくてならないものということである。彼は、それを誰よりも、今日の学生達、若者達に求めている。

 

                 <第三の大学…創価大学 目次>

 

   戸田の全体性

 戸田の生活と思想から、今日の学生達、若者達が何を学び、どのようにして、彼を超えていくかということは、非常に重要な問題である。その成否は、仏法が今日から未来にかけて、ますます、人々の要求に合致し、その要求を満たすものになるかどうかという分岐点である。そのことを、まず、心と身体に刻みつけて、戸田の生活と思想を見直していくことが必要である。それだけの自覚と覚悟のない者には、何度もくりかえしているように、彼の追随者・亜流者になるしかない。彼の最も嫌った軽信・盲信の徒として、彼の真価をゆがめ、彼を矮小化する者、さらには彼のやろうとした第二の宗教改革をおしとどめる者である。
 戸田の生活と思想を凝視し、そこから学ばんとする者には、最低、それだけの覚悟がなければ、彼を正確に理解することはもちろん、彼の生活と思想を発展させることはできない。

 

 人間科学としてのテーゼ<諸科学と「生命哲学」>

 戸田はいいきった。
「仏法は、人間生命の法則、社会生命の法則、宇宙の生命の法則を究明するもの。しかし、これまでの仏法は、主として、人間生命の法則を究明してきた」
 と同時に、
「仏法は、諸科学を指導しなくてはならない」
 ともいった。彼は、この発言で、
「仏法とは、人間科学・社会科学・自然科学を統一的に把握して、それを人間の英知とするものでなくてはならない」
 といったのである。ということは、人間科学は、人間生命の法則を、社会科学・自然科学は、それぞれに、社会の生命、宇宙の生命を究明するものである以上、仏法は、人間科学・社会科学・自然科学そのものであるということである。しかも、現実にある人間科学・社会科学・自然科学が単に人間・社会・自然を対象とし、それを究明した知識、それもバラバラに併存する知識であるのに対して、戸田は、それを統合し、人間のための生きた知識、すなわち、人間の英知としてとらえようとしたのである。人間科学・社会科学・自然科学などの科学的知識は、それにとどまるかぎり、仏法ではないと断言したことにもなる。
 戸田のこういう発言は、世の中の人々にはなかなか理解できないところであろう。とくに、宗教というものを、超歴史的・超科学的なものとして理解することになれた人々、現実に、宗派仏教しか見ることのできない人々には、戸田の発言を理解できないのも無理はない。
 そこに、戸田の、
「仏法とは諸科学を指導するもの、指導しなくてならない」
 という発言が、でてきた理由がある。
 しかし、いずれにしても、戸田が、人間科学・社会科学・自然科学を包含するところに、現代の仏法が成立すると考えたことは動かせぬ事実だし、そのためには、これまでの仏法に非常に欠けている社会科学・自然科学的究明を、今後の課題として考えたことも容易に想像できよう。
 社会科学的究明とは、本来、人間の社会に働きかける生活と行動を究明するもの、具体的には、政治的・経済的・歴史的・社会的・教育的などの諸生活と諸行動を究明するものであり、自然科学的究明とは、自然に人間が働きかける生活と行動を究明するもので、自然の神秘、宇宙の神秘を明らかにすることから、農業・水産業・工業などの諸生活・諸行動までを究明するものである。
 それは、人間を、人間科学的側面だけでなく、より全体的に、より具体的に究明するということであり、人間科学的究明と併行させて、社会科学的・自然科学的究明をやると、なお 一層、人間というものが、人間の存在というものが明白になるということである。
 しかし、今日、社会科学・自然科学が社会と自然を究明するということに終わり、それが、人間を見究めるところに目的があるということを忘れたところに、それらの科学が人間から遊離し、果ては、人間を支配するという状態までになってきた。
 その点で、戸田が人間生命といい、社会生命・宇宙生命といって、生命そのものの視点で、人間・社会・宇宙を統一的に把握しようとしたことは、仏法の思想に導かれたとしても、卓見である。
 戸田が「生命の哲学」において、仏法をとらえ直そうとしたのも、今日の学問・科学を再生させようとする以外になかったし、それを理解しないところには、彼を正確に理解したということはできない。「生命の哲学」を基調にして、政治・経済・教育・文化などの諸活動をおこさなくてならないなどという発言は、まさに、戸田の「生命の哲学」を固定化し、矮小化するものでしかない。
 だから、戸田の「生命の哲学」即仏法は、今後にこそ、さらに、整備し、発展しなくてならないもの、すでに、完成しきった思想・哲学でないことは明らかである。もし、彼の「生命の哲学」をもちまわり、解説し、祖述し、宣伝するに終わるならば、彼を最高に冒涜するものといわなくてならない。彼の生活と思想をめざすものには、それは、全く無縁なものである。まさに、これからが、戸田の生活と思想が真価を発揮するときであり、それは、すべて、彼の生活と思想を継承し、発展させていこうとする人々の努力と責任にかかっている。
 戸田は、第二の宗教改革の路線を大胆に、かつ積極的にきりひらいた者、その成否は、すべて今後にかかっている。果たして、よく、彼の意図した社会生命の法則、宇宙生命の法則を仏法の中に摂取しきれるかどうか。「仏法と哲学」「仏法と政治学」「仏法と経済学」「仏法と芸術学」「仏法と医学」などというように、仏法を人間の全的活動を導く思想として発展させることができるかどうか。
 その路線をひいた戸田は、文字どおり、思想的巨人である。

 

 何をなすべきか<現代の危機にのぞみ>

 戸田が、そういう思想、そういう立場に到達したのは、彼の四十四、五歳のときであった。もちろん、それまでの彼は、牧口に親しく接し、厳しい指導を受けてきた者であり、牧口の生活と思想とを最も深く理解し、継承するものであったが、それゆえにまた、牧口の生活と思想を、それがもつ本当の重さで実感することもできなかったし、戸田一人で立つ者でもなかった。
 あくまで、牧口に従い、牧口の後を歩む者であり、戸田一人立つことによって、牧口の生活と思想を、逆に、発展させるものではなかった。まして、彼自身、思想的巨人牧口とならんで、彼自らの生活と思想をつくりあげるものでもなかった。
 しかし、戸田は、長い獄中生活を通して、ただ、法華経と向き合い、自分自身と対決する生活をつづけていく中で、法華経をその文章で読むのでなく、心と身体で読む生活を始めた。法華経についての知識をあれこれと貯えることでなく、法華経そのものを徹底的に考えきる生活を始めた。
 そこには、もはや、牧口もなく、ただ一つ、法華経を媒介として、宇宙の中に、宇宙と向き合って立つ戸田一人しかなかった。社会の中に、社会と向き合って立つ、ただ一人の戸田しか意識しなかったのである。法華経を唱える彼自身の歓喜と満足が全身にわきあがったのは、そういう生活の果てに、彼自身が到達し、彼が自力できりひらいたものである。
 四十四、五歳ということは、それまで、長い期間にわたって、準備したということであるし、戸田が自分自身で一人立つこと、立てることをその全存在でつかんだということは、長い獄中生活の中で、幾多の誘惑と戦い、自分自身との格闘・苦闘の果てであるということである。
 この事実は、戸田の生活と思想を知る上に非常に重大なことである。彼は、そのとき、初めて、牧口の生活と思想を本当に理解することができたし、牧口の生活と思想を継承し、発展させる者にもなることができたといえる。それは、戸田の生活と思想が本当にわかり、その生活と思想の継承者・発展者になることは、非常にむつかしいということでもある。
 戸田はそのとき、同時に、日蓮の思想と生活に迫り、日蓮が彼自身に向かって語りかけるものを聞くことができた。日蓮と戸田との交流が歴史を超えて、行なわれ始めたのもそのときからである。
 だから、戸田が、牧口の創価教育学会を創価学会として、すべての人々を対象として、宗教活動を展開しようとしたのも、また、仏法を「生命の哲学」として、これまで、主として人間生命の法則の究明に終わっていたのを、さらに、社会生命・宇宙生命の法則を究明することを課題とする仏法、これからの仏法にしようとする第二の宗教革命にのりだしたのも、そのためである。
 獄中の中で苦闘し、呻吟したということは、人間がすぐれた政治的存在であり、歴史的存在であるということ、しかも、自ら発見した真理に従って、価値を創造しようとしたときには、必ず、苦闘や呻吟がつきまとうということを発見したということである。この世を支配する真理、それに基づく価値創造という人間の最も崇高な行動を妨害し、人間を人間以下に堕落させようとするものは、政治的暴力であり、ゆがんだ政治権力であるという認識が戸田のものになったとき、彼もまた、日蓮と同じように、国家権力を正し、政治的暴力を敵として戦うということが第一の課題となった。
 ここに、政治や経済を離れて、宗教は存立しないという認識、政治活動や経済活動を包含しない宗教はインチキだという理解が生まれた。仏法は、人間の諸活動に方向を与えるだけでなく、何をなすべきか、何をなしうるかを答えるものでなくてはならないと、彼が考えたとしても無理のないことであった。
 戸田は、こうして、日蓮と相応じ、日蓮の生活と思想を現代に再現しようとした。日蓮の意図したものを現代の中で明らかにし、現代に実現しようとした。しかし、それは、彼のような思想的巨人といえども、彼一人で、よくすることのできるものではない。それこそ、人間の総力と英知をしぼって、初めてできるものである。
 今日、深刻な、危機の中にあるのは人間であり、人間の文化であるが、その危機を仏法が救いうるかどうかは、すべて戸田の遺した課題を達成できるかどうかにある。若者の、学生の努力いかんにある。それをいい遺しているのが戸田である。戸田の遺業を受け継ぐということが、そういう意味である以上、単に、創価学会の学生や若者だけでなく、全人類的課題である。

 

                 <第三の大学…創価大学 目次>

 

   池田を超えるもの

 

「師の言葉を、ただ繰り返しているのが弟子ではない。それを応用し、発展せしめて、師の意志を実践し、師の理想を実践していくのが弟子の中の弟子である」
「いま、皆さんは立派なスリッパをはいていますが、それはそれとして、私がお年玉として、全員にスリッパをさしあげます。私の努力の蓄積の上を踏みこえて頑張ってください」
 というようなことを、池田は、しばしば発言する。彼がいかに深く、若い人々に、自分の思想と生活を継承してほしい、また、それを発展させてほしいと期待しているかということである。
 それにこたえるためには、池田が若き日にいかに生き、いかに考え、いかに苦悩したかということを深く知り、若い人々がそれによって、まず、青年池田と対決する姿勢と情熱を身につけることが必要である。青年池田と四つに組んで、その思想と生活を思う存分に吸収し、自らのものにしていくという気迫が最も必要である。そのとき、彼等の中の幾人かは、池田の仕事を本当に助ける人間に成長するし、彼の思想と生活をさらに発展させる人間にも育っていく。池田の生活と思想を超える者は、池田の全生活と全思想と四つに組む気迫と意欲のある者だけである。
 しかも、もっと、重要なことは、今日の池田の生活と思想は、一朝にできあがったものでなく、一般の青年と同じように、迷いに迷ったあげくに到達し、創造したもの、彼も普通の青年であったということを知りつくすということである。
 それが若者に、希望を与える。自分自身への自信を与えることになる。自分自身に厳しい課題を与えて、池田と自分を区別しないだけのものが生まれることにもなる。池田に学ぶということの一つの意味は、そういうことである。

 

 “進め、叫べ、戦え”<「若き日の日記から」>

 池田は、「若き日の日記」の中で、自分自身の苦悩、迷い、弱さを赤裸々に記している。
「朝から頭が痛む。身体は大事にせねばならぬ。変遷に変遷を重ねてゆく心境。目的を凝視していながら、ふらふらとしている自己の悲しさ。勇躍し、はちきれそうな青春詩を実感したかと思うと、魔に流され、断崖に立つ思いをなす自己。
 宗教革命と大理想を思惟したかと思うと、現実の嵐に、境遇に戦く、寂しき自己」
 こういう悩み、苦しみを告白した文章は、各所にでてくる。でてくるということ自身、池田がいかに、一般の青年と同じく、悩み、苦しみ、迷い、考える青年であったかということであり、さらに、純情で、自分をいつわらぬ青年であったかということを示している。
 背のびした自分、弱さをかくした自分として振舞うのでなく、自分のありのままの姿を見つめ、それと真剣にとりくむ、とりくもうとする青年。それが、若き日の池田である。
 そこから、池田は、高らかに、自分に向かって、語りかける。呼びかける。
「偽善者となるなかれ。柔弱な人格者となるなかれ。社会の人々より、尊敬せられるのも、表面上の、形式の賞嘆であってはならぬ。そんな、名誉を欲するのは、乞食以下の、みじめな輩である。
 若人よ、真先に苦難に進め。信念と正義の偉大なる人生を生きんがために。国のため、人類の幸福のために。
 いかなる圧力にも屈するな。希望と大志を胸に」
 このように書いたとき、池田は変貌した。
 今度は、苦難を厄介視し、苦難を除去しようとしていた今までの彼から、逆に、苦難を引き寄せ、苦難とともに生きつづけようとする青年に。苦難と四つにとりくむ生き方。その苦難は、民衆が悩み、苦しんでいるかぎり、決してなくならないし、自分の中からなくしてはいけないということを知る。そして、人生とは、そういう民衆の苦難を忘れて、自分一個人の栄達と満足を求めようとする、貧しい心との戦いであるということも同時に知った。
 そこから、池田は自分自身を叱咤し、励ます文章で、次々に、その日記を埋めるようになる。
「若人よ。
  太平洋の悠々たる、うねりを知れ。
  奥山の厳粛なる、境地を知れ。
  太陽の赫々たる、情熱を知れ。
  紅葉の優美なる、色彩を知れ。
 若人よ。
  これらを忘れず、生きぬくのだ。
  これを感じて、前に進むのだ。
 若人よ。
  今日の戦いに、勇敢であれ。
  明日の理想を、祝福せよ。
  過去の夢を、忘れ去れ。
  未来の夢に、起ちあがれ。
 若人よ。
  進め、進め、永遠に、前に」
「一度、現実に大敗しても、それを土台にしての飛躍が、最も大事となる。青年の感謝すべきことは、その存在、体験を通して、これをいかほど、真正面から対処して戦ったか。自分がいかほど、深く、高く、人生を社会を、思念したかに価値があるのだ。
 一、意志
 二、勇気
 三、誠実
 この三つが、大事なことだ」
「思う存分、活躍しきることだ。
  進め、叫べ、戦え、
   若いのだ。若いのだ。
 今活躍せずして、いつの日か、青春の戦う日があるのだ」
 こういう池田の言葉を抜いていけばきりがない。日記の全部が、彼の決意と抱負でうずまっているといってもいい。しかし、その言葉のうらに、私は、彼の悩みの深さ、迷いの激しさを読まずにはいられない。彼の悲痛な叫び、まけまいとする心を見ないではいられない。
 もちろん、そのときに、そういう池田をじっと見つめていたのは戸田であり、戸田の目が彼を支え、不退転の心を徐々に彼自身のものにすることを助けたということができよう。彼が師といえるものをもつ幸福を、しみじみと語るのもそのためである。
 しかし、池田がそれらに打ち克ち、今日の彼をつくりだしたのは、ほかならぬ彼自身であり、彼の精進と努力と大勇猛心である。彼は、どんなことにも逃げることなく、それに、彼の全身でぶつかっていった。彼の全知全能でぶつかっていった。そういう生活が、徐々に、彼を鍛え、その全知全能をより豊かに、よりすぐれたものにしていったのである。彼の英知と情熱を最大限に磨き、強めたのである。
 これは、池田が、必ずしも一般の青年と異なるものでないということを知るために、非常に大事なことである。

 

 先人の思想を超えて<池田大作の歩んだ道>

 池田は、早くから、仕事をもち、その中で勉学した。戸田の個人指導で、毎朝、仕事の始まる前に、法律学・政治学・経済学・物理化学・天文学などの講義を受けた。それが、彼の学問を書物の上のことにせず、観念的な知識に終わらせることを防いだ。彼自身、仕事の中で、常に、具体的に生活し、行動していたから、どんな学問も、彼の生活・行動の延長にとらえた。そうせざるをえなかったといったほうがあたっているのかもしれない。とすれば、彼の生活の知恵・行動の知恵は、ますます、磨かれ、深まることになる。学問と行動が別々になる学生、学問をすればするほど、その学問と彼自身の生活と行動は、いよいよアンバランスになる学生と違って、彼の場合、学問をすればするほど、彼自身の生活知・行動知が豊かになっていった。
 もちろん、そのために、池田は、人に倍する努力をした。苦痛をも、受けとめねばならなかった。しかし、そのことが、彼の忍耐力・克己心・意志力をいよいよ鍛えたということもできる。
 文字どおり、池田の勉学は、泣きながら、スポーツのトレーニングを受ける運動選手のように、歯をくいしばってがんばりとおした。戸田の叱咤に堪えつづけた。そういう生活を長い間つづけたところに、つづけることができたところに、今日の彼が育った。しかも、それがどんなに苦しく、堪えがたいものであったとしても、彼はがまんし、堪えた。それに、池田が苦しかったというよりも、戸田のほうがもっともっと大変であったろう。
 しかも、ここには、それをいとわぬ師がおり、それを受けて立つ弟子がいたということである。そのコンビこそ、驚嘆すべきものがある。それにしても、池田の求める激しさが戸田の心を動かした。戸田にしても、自分の思想と生活を継承し、発展するものとして池田を発見したときは、彼の可能なかぎりの英知と情熱を彼にぶっつけずにはいられなかったのであろう。
 池田の今日は、彼自身と戸田との共同労作であったというと、いいすぎになろうか。
 いずれにしても、池田は、一方で、戸田の個人指導を全身に受けとめながら、他方では、彼自身、全力をあげていろんなことを追求していった。
 とくに、池田は、小説を読み、小説をとおして考えていくことが好きであった。そこには、具体的な人間がおり、生きた社会があった。政治的・経済的社会の中で人間が生き、行動し、生活するということは、思想が具体的に作用するということをみるということであった。書物に書かれている抽象的思想や観念的思考でなく、生き生きと人間と社会を動かしていく思想であった。
 青年池田が強く、魅了されたのも無理はない。彼は、「水滸伝」「新平家物語」「十八史略」「三国志」「プルターク英雄伝」などを読む中で、そこに生きる人達に、自分の夢と思想を託して、読み、考えていった。読んでいく中で、彼自身の夢と行動を限りなくふくらまし、その理想を鍛えていった。さらには、彼自身の人間教育・感情教育をやってのけた。
 それと平行して、政治・経済の研究も徐々にではあるが本格的に進めていった。現実の民主主義に疑問を抱き、資本主義や共産主義の理想を一生懸命考えたのもこの頃である。
 もちろん、日蓮の御書の研究、仏法の研究をその学究生活・求道生活の中心においたことはいうまでもない。彼のその頃の日記に、次のようなものがある。
「青年期に何とか、本を出版したい。大論文をつくりあげておきたい。
 一、仏法根柢による、政治観、科学観、教育観等。
 一、信仰の絶対必要性を知らしめる生命論等。
 一、広宣流布し、活躍してゆく学会の歴史等」
「文化部作戦会議。文化部の人材の刷新を心に思う。学会の進展も、消滅もこの部の如何にありと憂いつつ。
 信心と政治、社会と仏法、絶対性と妥協性等々の本質的問題をはきちがうと危なし。
 研究、そして書きたきテーマ。
 一、日蓮大聖人の国家観、世界観。
 二、宗教界の分析とその未来。
 三、文化と宗教」
 池田が早くから、仏法と政治、仏法と科学、仏法と教育などの視点をもちつづけていたことがわかるし、仏法と政治、仏法と社会の関係を誤まると、学会にとって生命とりになることを強く警戒したこともわかる。
 このように、青年池田が描いた夢と理想はかぎりなくでっかい。しかも、それを実現しようとする自分自身に対する要求は、非常に厳しかった。彼は、書いている。
「正法が一人一人に理解され、時代の原動力・原理になりきったら、いかほどか、根深き国家ができようか。いかほどか、光輝ある、合理的な社会が建設されようか。いかほどか、矛盾なき、行き詰まらざる人生を歩むことができようか。
  正法を、深く、汝自身が理解することだ。
  正法を、広く、汝自身が広めてゆくことだ。
  正法を、強く、汝自身が生活に生かすことだ。
  正法を、高く、汝自身が宣揚してゆくことだ。
  正法を、清く、汝自身が生命の奥底に流してゆくことだ」
 誰かに期待し、頼むのでなく、その最高の課題を自分自身につきつけたところに、青年池田の真骨項がある。

 

 思想を生活の上に<師の偉業を継ぐため>

 しかし、池田は、その青年時代をそのように過ごしたゆえに、彼には、先輩を先輩と思わぬ自信過剰もあったし、ときには、オーバーに悲しみ、怒る青年、過剰に苦しみ、迷う青年の一面もあった。
 それを証明するのが、日記に記されている次の文章である。
 「自分を知ってくれる友は少ない。
  自分を信じてくれる同志は少ない。
  われを真実育てくれる人は少ない。 
  われを本当にまもってくれる人も少ない。
  いや、その甘い考えがいけないのだ。
  一切法といえども、一念にある。
  人を批判する前に、自己を、自分を、われを反省し、
  自らの信心の凝視を忘るるな」

 「大白法流布に生きる若人、運命、使命。
  広宣流布に進みゆく、若人、青春、決意。
  真の同志は幾人いることか。
  真の同志は誰人なりや
  真の同志は自己が心から感じている人なりや」
 ここには、威猛高に、絶叫する青年池田の生まの声、叫ばずにはいられない心がよくにじみでている。自分に厳しいが、同時に周囲にも激しい要求と批判をつきつける若々しさがある。非妥協の精神に溢れている。
 おそらく、こういうものは、世の大人達のいやがるところであり、評価しないところであろう。だから、二十歳前後の池田から、一体幾人の人が今日の池田を予想したであろうか。ある人達には、はなもちならぬ自信過剰の青年と映ったのではなかろうか。大言壮語をくりかえす青年と映ったのではなかろうか。
 二十三歳の青年が「十年後、二十年後、自分達の成長したときをみよ」と豪語すれば、「自分こそ、世界平和の樹立者だ、民衆救済の闘士だ」といいきれば、大方の大人は、そう思うだろう。

 だが、今日の池田は、それらを自分自身に課しただけでなく、その課題を見事に果たして、今一千万人の学会員とともに、二十一世紀に向かって立っている。より多くの課題を背負って、未来社会に立ち向かっている。彼が創価学園をつくり、創価大学をつくろうとするのも、牧口・戸田の遺業、さらには、池田自身の考えることを、そこに学ぶ若者達に継承し、果たしてもらおうと思うからである。彼自身の考えることは、一人や二人の人間では、到底できるものではない。池田の生活と思想を、それが歴史の上にもつ重さだけ、正確に、理解し、継承する人間がでてくるだけでは、だめである。
 それこそ、池田の生活と思想を発展させる人間、それを矮小化せずに、普及し、実践する人間が何千人、何万人と出現したときにのみ、それは可能である。
 池田の生活と思想を、それが歴史の上にもつ重さだけ理解できるということは、単に、池田の全書書と全発言、戸田の全書書と全発言、牧口の全著書と全発言、日蓮の全著書をいかに、心と身体でくりかえし読んでもだめだということである。
 池田の生活と思想を理解し、継承するためには、そのもつ意味を正確かつ客観的に評価し、批判できるものがなくてはならない。池田・戸田・牧口・日蓮の著書以外に、おびただしい書物を読み、能動的な行動に突き進むことである。池田や戸田・牧口と同じだけ、読み、行動し、考えるということである。
 だから、池田を超えるということは至難である。しかし、池田がまず、何よりもそれを切望しているし、今日という時代も、それを若者たちに求めている。求めなくてならないほどの危機に直面しているのが、今日という時代である。

 

                 <第三の大学…創価大学 目次>

 

終章 21世紀に挑戦する
    
 宗教・政治・教育

 

 今日という時代は、宗教・教育・政治の全領域にわたって、大きく変わろうとしている。池田は、それを、簡潔に「人間の世紀、生命の世紀に向かって、変質しようとしている」という。だが、同時に、「それは、人間自身がつくりあげるもの、つくりあげなくてならない」ともいいきっている。
 そして、今、池田は、それを実現するために、単なる言葉に終わらせないために、学会員の先頭に立ち、学会員とともに、それと四つにとりくんでいるというのが実状である。
 しかし、その矢先に、池田とその学会は、「言論の自由を認めず、出版を妨害する姿勢をその体質としてもっているのではないか」「会長の神格化、それに伴うファッショ化の傾向があるのではないか」「政教一致の前近代的政党が公明党ではないか」「御利益論、法罰論を強調するところは、近代宗教ではないのではないか」などの批判を矢つぎばやに、各方面から激しくつきつけられることになった。それらに対して、学会がどう答えていくかということが、そのまま、池田のいう、人間の世紀、生命の世紀を担い、実現する主体に、学会がなれるかどうかという鍵をにぎっているということにもなる。
 それについて、私は、これまでに述べてきたことを中心にして、私なりの意見と希望を展開してみたい。それは、あくまで、今日の人間の危機的状況を深く憂うるために、人間の世紀、生命の世紀を標榜する学会が、これを実現する集団として大きく成長してほしいと思うからである。

 

 人間の世紀実現<思想と科学を志向する集団へ>

 まず、ここで、戸田城聖が、
「仏法とは、人間生命・社会生命・宇宙の生命の法則を探求するもので、諸科学的知識を包含するもの、包含しなくてはならないもの」
 といいきり、第二の宗教革命を何ものをも恐れず主張し、実現しようとしていたことを思いおこすことが必要である。
 この事実は、どんなに考えても、考えすぎるということのない、重要な点である。牧口の創価教育学会を創価学会にしたのも、そのためである。単に、そうしたほうが学会が発展すると考えたわけではない。
 ということは、戸田の考えた創価学会という仏法集団は、それまでの狭い意味での宗教に革命をもたらそうとしたもので、厳密には、思想・科学を志向する集団であろうとしたということである。それは、彼が、人間を人間として凝視し、その生活、その行動を最大限に生き生きとしたもの、生命力に満ちたものにするためには、人間を、その行動を全的にとらえなくてならないということを考えた結果である。
 人間の教育活動を、法則にかなったものとして、最大限に、発展させようとした創価教育学会も人間の部分的活動であり、それと同じほど重要なのは政治的活動であると知ったのも、戸田が、人間の諸行動・諸活動を全的にとらえようとしたことによる。それに、日蓮その人が、すでに、人間をその本質に加えて、具体的には政治的存在としてとらえていた。こうして、彼は、教育的存在としての人間の側面とともに、政治的存在としての人間の側面を鋭く追求するようになったのである。
 創価学会の政治進出は、戸田の考える仏法理念からみても、全く、自然なことであった。むしろ、これまで、人間の救済を、単に精神的なものに限るといって、人間の悩みがあたかも抽象的に存在し、生起するものと考え、それを社会や自然との関連の中で、具体的に考えようとしなかったところにこそ問題がある。それゆえに、彼は、これまでの仏法は、主として、人間生命の法則を究明したといい、これからの仏法は、社会生命・宇宙生命の法則との関連のなかで、人間生命の法則をより明らかにしなくてならないと、いいきることができたのである。
 もちろん、その課題は、今後の学会に残されたものであり、それにできるだけ早くとりくみ始める必要がある。池田が、「政治と宗教」「科学と宗教」などについて発言するのも、そのためであるが、まだまだ、始まったばかりである。
 その意味では、仏法集団としての創価学会は、ここで、あらためて、自分達の集団が思想と科学を志向する集団であり、具体的には、教育集団・政治集団・芸術集団等の団体であることを確認する必要がある。そういう自認こそ、方向を失っている今日の学問・科学をよみがえらせるし、どこにいこうとしているかわからなくなっている人間を、生命の世紀、人間の世紀を実現する人間にしていくこともできるのである。閉じられた宗教団体でなく、開かれた宗教団体として、永遠に発展しつづける宗教団体にもするのである。
 牧口が折角、美・利・善の統一的価値を主として、教育活動の中に実現しようとつとめたが、今日、なお依然として、美・利・善を追求する教育活動は実現していないし、まして、美・利・善を追求する政治活動・経済活動は実現していない。それに、美・利・善を追求する政治活動・経済活動などになると、全く、縁遠いというしかない。美・利・善を忘れた政治活動は、それがいかに、大きな政治勢力になっても、牧口の思想と精神を継承するものではない。美・利・善を忘れた政治集団は、それが大きくなればなるはど、美・利・善から遠ざかる。庶民の要求から遠ざかる。
 学会が戸田のめざした仏法集団・思想集団になるか、どうか。そして、また、教育集団・政治集団の二側面が真に、美・利・善を求めて活動する方向にあるかどうか。学会は、それをじっくりと考えてみるところにきているようである。

 

 たとえ道は険しくとも<開かれた思想集団へ>

 これをとことん考えるところに、創価学会と公明党の関係も自然に明らかになってくる。政教一致は、たしかに、前近代的である。しかし、学会と公明党を分離しようとすることは、学会が古い意味の宗教団体であることを認めるとともに、公明党が一部の政党人、政治を独占する一部の特権者の集団であることを認めるということである。
 それは、明らかに、戸田の意図に反する方向であるばかりでなく、政治を国民に解放し、すべての人間を政治する人間に育てようとした牧口の考えにもそむくことになる。池田のいう全的人間として生きるということとも矛盾する。
 学会という仏法集団は、思想集団として、また、公明党は職業政治家の集団としてでなく、政治する国民の代表者・代議員の集団として、あくまで、未来の思想集団・政治集団としてとらえるべきである。
 生命の世紀、人間の世紀を叫ぶということは、宗教や政治を一部の職業的宗教家・職業的政治家の手からとりかえして、それを全民衆・全人間のものとするということではないのか。
 また、将来、大管理社会ができて、極少のエリートと、相変わらず、それによって生かされる大多数の民衆が存在するのではないかという不安と危惧に、真正面から反対する、アンチ・テーゼとしてあるのではないか。
 それには、牧口の考えるように、民衆一人一人を自立させる以外にない。自立を願望する人間に育てる以外にない。戸田の考えるように、統一的・全体的英知を民衆一人一人に与え、政治される人間、管理される人間から、自ら政治し、自ら管理する人間に一人一人を導くしかない。池田の言葉によれば、それぞれの能力の極限をだしきって、すべての人間が英才になるということである。
 池田を中心とする学会員が、真底から、現代の人間と文明が危機に立っていると判断し、あくまで、人間の世紀、生命の世紀を念じ、その実現を求めるなら、政教一致という批判は、現代に存在する宗教と政治にはあてはまっても、未来のために存在しようとする宗教と政治にはあてはまらないと断固いうべきであろう。それだけの自信と誇りはあってもよいのではないか。
 もちろん、そのことと、今批判されている言論抑圧云々ということとは、明らかに別問題である。言論抑圧ということは、むしろ、戸田のいう「発展しつづける仏法集団・思想集団」ということには相反する。批判を拒否するところには、真の発展がないし、批判を抑圧することは、自らの思想と生命を枯渇させることである。
 まして、池田のいう人間の世紀、生命の世紀を実現することにはならない。それこそ、ファッシズムが、自分たちの思想を認めるものだけの繁栄を考えたように、学会は、自分達仲間だけの人間の世紀、生命の世紀を考えているのか。それは、仏法の理念に反するだけでなく、そんなところに、人間の世紀、生命の世紀をうたいあげることはできない。
 どこまでも、すべての人間を対象にし、すべての人間に生き、存在する喜びを感じとらせようとする限り、まず、どんな人間の批判、たとえ、それが中傷であったとしても、耳を傾けることから出発しなくてはならない。そこから、彼等の批判・要求に即しながら、彼等を説得する思想と姿勢もでてくる。彼等を包含することによって、自らもまた、成長し、豊かになる。折伏とは、一方的に、自分の思想を押しつけ、他を論破し、屈伏させることでなく、それを通して、思想的にも人間的にも相互に発展するということである。
 異なる思想とその人間を排除するということでなく、それらを吸収し、養分として、自分達と、その思想を肥え、太らせることである。もちろん、否定し、拒否する思想があることを知悉した上で、なお、自分達とその思想を発展させることが折伏の眼目である。そうしてこそ、戸田のいった、発展もあるし、閉じた宗教団体でもなくなるのである。
「思想の統一も権力によって、受動的に統制された時代は、もはや去り、今や、人間一人一人の自由な判断に基づいて、能動的に統一の方向に進みいく時代になった」
 という池田の発言も、そのことをいったはずである。
 言論抑圧どころか、生命の世紀、人間の世紀を実現しようとする学会は、進んで、他の批判を求め、それによって成長し、発展すべきである。発展しなくてはならない使命をもつのが、今日の学会ということになる。

 

 最大の敵は何か<一人一人が英知と情熱を>

 会長の神格化の問題は、学会の掲げる御利益論・法罰論と一緒に考える必要がある。世の中の人々は、ともすると、会長の神格化の問題を、会長自身、または、その周辺の人々の思想動向として考えようとする傾向がある。たしかに、そういう面は重要である。しかし、今日、もっと大事な視点は、学会員にそれを求め、認める姿勢があるかどうかということである。それを肯定する思想・意識があるかどうかということである。
 そして、学会員の意識・思想を考える上に、一つのバロメーターになるのが、学会員の受けとめている御利益論・法罰論ということになる。実際、学会の掲げている御利益論・法罰論にひかれて、入会する者が多いのも事実であろう。
 しかし、それらがお粗末とか、程度が低いというのは、全く誤っている。現世利益といっては、正確でないといえようが、地位や富を求めて狂奔しているのが今日の大多数の人間である。それを一流大学・一流会社によってえようとするか、学会によってえようとするかの差だけである。
 しかも、それが決定的に違うのは、前者がどこまでも地位や富だけを追い求めるのに対して、後者は、徐々に、人間としてめざめ、人間としての夢と理想を追い求めるようになることである。人間の世紀、生命の世紀ということをどこまで理解しているかということを別にして、それを口にし、求める人間に変わっていく。これは非常な違いである。
 学会の掲げる御利益論には、これがついてまわる。それこそ、すばらしいご利益といってよかろう。もちろん、学会のいうご利益とは、もっと、直接的で具体的である。すなわち、病気が治り、生活が楽になるというのである。だが、ここで重要なことは、人間生命の法則や社会生命の法則を見究め、実践することによって、病気が治り、生活が楽になると説いているということである。法罰論というのも、これと無関係でなく、人間生命の法則、社会生命の法則に相反すると、元も子もなくなるといっているにすぎない。
 仏法にでてくる御利益論、法罰論は、これ以外にない。ただ、仏法の道理に暗い人達に対して、折伏を急ぐあまり、あるいは、仏法の道理を見究めることなく、人々をせっかちに、説得しようとするとき、それらが迷信・狂信・盲信の性格をもってくるのである。
 科学や理性を逸脱したところで、御利益論・法罰論を展開する。そして、問題は、科学や理性を逸脱するところに成立する迷信・盲信のたぐいである、御利益論・法罰論を信じている学会員がどの程度にいるかということである。
 そういう学会員が会長を神格化し、神格化した会長を求めるのである。
 だが、すでにみたように、池田と学会員は、人間の世紀、生命の世紀を求め、それを実現しようとしている。しかも、そのことは、人間一人一人が、自己のもてるかぎりの力を発揮して、自ら政治し、自ら管理する人間になるということであった。いいかえれば、学会員一人一人が会長を神にするのでなく、逆に、一人一人ができるかぎりの英知と情熱を身につけて、会長に近づくということであった。
 会長を神にするということは、人々が恐れ、不安を抱いているところの、将来は大管理社会になるという考えと共通するものである。今日、池田も学会幹部も、そういうことに対して、最も果敢に挑戦しているはずである。池田と学会幹部は、もっと確信をもって、会長神格化と逆の方向に、ファッシズムと逆の方向に歩もうとしていることを明らかにすべきであろう。
 会長神格化とファッシズムは、仏法集団である創価学会の最大の敵であることを、もっと声を大にして明らかにすべきだし、そのためにこそ、教育活動を重視しているのだということを強調すべきである。

 

 思想の創造ひとすじに<創価大学の意義>

 そこに、ますます、創価大学のもつ意味が大きくなるし、創価高校や中学の存在価値も重さを増してくる。なんといっても、創価大学や創価高校・中学の課題の一つは、一千万人の学会員をいかにして、人間の世紀、生命の世紀を実現していく人間に育てていくかということにある。世の中の人々に信頼され、尊敬されるような人間にするには、どういう教育をすれば可能かということを見究めることにある。
 そのことを別にして、どんなに、日本と世界の指導者を養成したとしても、本末転倒ということになる。牧口や戸田が切望したことも、学会員一人一人が英知と情熱を身につけて、自立することであった。
 率直にいって、創価学会は、驚くほどの多数の人間を吸収し、富士大石寺の拡充から東京文化会館などの建設にいたるまで、すばらしい躍進ぶりを示している。芸術活動や出版活動もなかなか派手である。
 しかし、思想集団としての創価学会が一番力を集中し、その力を発揮しなくてはならない思想創造の活動は、あまりにも、池田一人におんぶし、それに期待している、といえるのではあるまいか。そういう評価は誤まっているというなら、その評価をとり消そう。
 しかし、牧口の「創価教育学体系」を完結させる動きはまだ出てないし、それに、彼のそれは、小学校教育のための教育理論であって、中学・高校・大学のための教育理論ではなかった。創価中学・高校・大学の成立が、それに答えようとしているといっても、それだけでは、解答になるまい。それに、生涯教育を考えた牧口の考えを理論化するところまでは、到底、いっていない。
 さらに、戸田の遺した課題は、人間生命・社会生命・宇宙生命の法則を究明する仏法の完成は今後に残されている。具体的には、「仏法と政治学」「仏法と経済学」「仏法と歴史学」などと、究めつくさなくてならないものは、数限りなくある。
 とても、池田一人の手に負えることでないし、池田だけでなく、多くの人たちが究明してこそ、それだけ、仏法の思想が豊かになる。
 もしも、言論抑圧ということがあり、ファッシズムになるのではないかとか、迷信的・盲信的御利益論や法罰論が横行しているとかと、一般に批判されているのは、たとえ誤解であったとしても、それは、結局、思想集団として、思想創造を怠ってきた結果生じたものということであるまいか。
 外部に向かっての積極的活動に比べて、内部に向かっての教育活動・思想創造活動がおくれていたということである。
 一千万人の会員一人一人を本当に英才に育てあげ、その人達が団結し、協力して、人間の世紀、生命の世紀を実現しようとするなら、それは容易に実現されよう。一千万人をすべて、英才にする指導と教育が至難な仕事であって、それができるということは、人間の世紀、生命の世紀が実現したということである。そのように断言してもよいであろう。
 ここで、もう一度、思想集団としての創価学会、政治集団・教育集団としての創価学会を見つめ直すことは、学会員・非学会員の別なく、非常に重要なことである。それに関連していえることは、政党としての日本共産党と対決する必要はないかもしれないが、思想集団としてのマルキシズム集団とは、徹底的に思想の次元で対決し、自らの思想を肥え、太らせなくてならない。
 思想集団・仏法集団としての創価学会が、今後、思想の次元で、対決しなくてはならないのは、人間・社会・自然の法則を追求する思想としてのマルキシズである。公明党書記長の矢野殉也も、「新左翼を名のる人々は、今、マルキシズムをとらえ直そうとしている。人間の全的解放を求めた、マルクスの初期の立場に立って、そこから出発しようとしている。それについて、どう思うか」という私の質問に対して、
「それは非常にいいことだ、私もその動きに注目している」
 と答えている。
 創価学会にとっての最高の好敵手、それは、思想としてのマルキシズム集団である。それをどのように、思想的に吸収し、克服していくかに、今後の創価学会の発展はかかっているというと、いいすぎになるであろうか。

 

                 <第三の大学…創価大学 目次>

 

参考文献

 

牧口常三郎全集           東西哲学書院
戸田城聖全集            和光社
若き日の日記    池田大作著   会長就任七周年記念出版委員会
人間革命      池田大作著   聖教新聞社
科学と宗教     池田大作著   潮出版社
政治と宗教     池田大作著   潮出版社
指導要言集     池田大作著   聖教新聞社
池田会長講演集           創価学会
創価学会      原島嵩著    世紀書店
創価学園建設の一年         創価学園刊行委員会
創価学園建設の二年         創価学園刊行委員会
実践の教育             創価学会教育部
牧口常三郎     池田諭著    日本ソノ書房
池田大作      小林正己著   旺文社
灯台バックナンバー         灯台刊行委員会
公明党創価学会批判 榊・中川編   新日本出版社

 

 

             (1970年 学園書房刊)

 

 

    < 目 次 >

 

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