オミナエシ

國兼 治徳

 

 今年もお墓参りのために滝川へ出かけた。愚図ついた天気が続き、この日も時々小雨の降る予報と知りながら、例年8月13日に墓参をする習わしが、父の代から続いていたので出発した。我が家の墓は滝川にある。正確にいうと、滝川市との境の空知川に近い砂川市の空知太にある。開拓時代、両市が一緒の行政区であったこともあるから、その当時の名残だろうか。なだらかな丘陵の斜面にあり、樺戸山脈に至る平野を一望にできる。
 朝早めに札幌を出たため、10時頃には墓地に到着した。さいわい雨は上がっていた。閼伽桶に水をくんで坂を登りながら、道に面した墓の列をながめた。すでにお参りを済ませた墓には、供花があり供物が置かれている。墓にお供えなどを残さずに持ち帰ってほしい、と連絡を受けたことがあったが、気持ちとしては暫くお供えしておきたい。カラスが供物を荒らし、野良犬・キタキツネがうろつくので始末に困るらしい。物のない頃は、子供達が供物を集めている姿があったが、近頃はとんと見かけない。あり余る時代であり、おやつ代わりに供物を食べたりしなくなったのだろう。
 ふと、供花の中にオミナエシがあった。珍しかった。墓地の入口に墓参用の花や線香・ローソク等を売る店が出るが、今までにオミナエシを見たことはない。多分家から持って来たものだろう。本州の地方によってはオミナエシを供える風習が続いており、それをまねてお供えしたものだろうか。3年程前、木曽路の奈良井宿に行った時、駅前にオミナエシを積んだ小型トラックが止っていた。地元の人が次々とその花を買っていく。1本2本でない、束にして購入する。不思議に思って尋ねたら、お墓に飾るためだと云う。所変われば盆花も変わるものかと思った。
 

 私の住むまわりにオミナエシの自生は見当たらない。家内の実家の墓地は厚岸町の太田にある。人里離れた樹林帯の一画で、墓の周囲は草丈の高い草原になっているが、その中にオミナエシがあった。その他にホタルブクロやツリガネニンジンも自生していて、印象的だった。20年以上も前の話である。その後オミナエシを見たことがなかったが、昨夏中札内の坂本直行記念館へ一家で出かけた時、記念館のあるカシワ林内にオミナエシが咲いていた。
 直行氏は維新の志士竜馬の一族である。正しくは竜馬の姉の次男直寛(長兄権平氏の養子)の孫に当たる。このことは高知の竜馬記念館で系図を見て知った。驚きだった。直行氏については、札幌北陵高校に勤務していた時、講演のため学校に見えたことがあった。どんな話をされたか覚えていないが、背の高い方でたんたんとした話ぶりだったと記憶している。
 氏の絵は帯広の名菓「六花亭」の包装紙に載って、一躍有名になった。札幌そごうデパートに六花亭が出店した頃、氏の「北海道の山野の木と草」という小冊子を配布したことがある。私はその小冊子が欲しくて何回かおとずれ、赤と青の2種類とも入手した。氏の絵は何となく温かい。山や花の絵が多いが、「開墾の記」正・続には生活のスケッチも随所に出てくる。
 ところで、記念館のオミナエシはカシワ林内に自生していたのだろうか。氏の「わたしの草と木の絵本」(1976年)「坂本直行スケッチ画集」(1992年)に、オミナエシは載っていない。氏はこの他にも多数の著書があり、総て見たわけでないから断定できないが、氏は身近で見ていないのではないかと思う。もし、入植した広尾の原野に自生していれば、氏が画かないわけはない。しかし、これはあくまでも勝手な推測である。
 

 オミナエシは秋の七草の1つである。その出典は、万葉集の歌人山上憶良が詠んだ歌である。

1538芽之花 乎花葛花瞿來之花
  ハギガハナ オバナクズバナナデシコノハナ

  姫部志 又藤袴朝貎之花
  オミナエシ マタフジバカマアサガオノハナ  (註1) 

 万葉集には憶良の歌を含めて、オミナエシを詠んだ歌が14首ある。原文は万葉仮名で、私の手に負える代物ではない。オミナエシの表記だけでも11種もある。即ち、

娘子部四・姫押・娘部思・娘部志・姫部志・
姫部思・佳人部爲・美人部師・娘部四
乎美奈敝之・乎美奈弊之

である。なぜこのように表記が異なるのか。それは、この時代にまだ仮名がなく、漢字の意味に日本語をあてたり、逆に意味を無視して音だけ利用したため、とものの本に出ている。今は「女郎花」と書いているが、14首の中には見当たらない。万葉植物事典(註2)によると、「女郎花」の表記は延喜年間(901〜923)頃からとあった。延喜5年頃に古今集が出来ているから、「女郎花」の根拠を求めて、今度は古今集を渉猟しなければならないのか、と思うと気が遠くなった。
 たまたま国語科の友人に電話をした折、「女郎花」の表記にふれたところ、札大の川上先生はその方の専門です、と紹介があった。実は先生とは旧知の間柄だが、彼が万葉集の権威とは迂闊にも知らなかった。その後会う機会がありお願いしたところ、程なくして返事がとどいた。それによると、

−「女郎花」の表記の初見は、菅原道真選「新撰万葉集」かと思う。上巻(893年)の詩に「女郎花」とあり、これは和歌の「女倍芝」(をみなへし)に当たる。
 また、「和漢朗詠集」(1013年か)に「女郎花」の詩があり、作者は源順(911〜983)だが、この中に「俗に(おみなえしを)女郎という」とあり、この頃この花を一般に「女郎花」と呼んでいたとみていいでしょう。−

と述べている。その他に、「倭名類聚抄」「類聚名義」「色葉字類抄」といった10世紀から12世紀にかけて成立した古辞書類や、「古今和歌集」まで調べられた。その上で「をみなえし」を「女郎女」と表記することが、当時確立していたとの見解を示され、関係部分のコピーが添えられていた。学者とはすごいと思った。いかに専門とはいえ、徹底して調べる姿勢に心が打たれるおもいだった。お蔭で私の疑問は一挙に解決した。
 しかも和漢朗詠集の一節に、「花色如蒸粟…」(花ノ色ハ蒸セル粟ノ如ク…)とあって、オミナエシを粟に見立てている。オミナエシは現在も地方によってアワバナと云う。小さい黄色の花がかたまって咲く様子が、粟に似ているからである。すでに上代で形容されているのには、驚いてしまう。人間の感性は今も昔も変わらない。
 だが、どうして「女郎花」と書くようになったか。先生の見解はさらに続く。

−万葉集に「いらつめ」という語があり、「郎女」「女郎」「娘子」と表記する。「女郎」は女性を敬愛して呼ぶ言葉であって、江戸時代以降の遊女をさすような語感ではない。万葉仮名で「佳人○○」「姫○○」「美人○○」と表記しているのは、この花を美しい女性にたとえたわけで、それが後に女性を敬愛する「女郎」と結びつくのは、ごく自然でしょう。−

と。我が意を得たりと云うところだった。
 ところが、進化学研究所の湯浅浩史氏は著書「植物と行事」の中で、オミナエシが女性のように美しい花に由来すると解釈するのは、間違いであると断定している。その根拠は、オミナエシの「オミナ」は女の意味だが、「エシ」は飯のことで、メシからエシへ変化した。しかも、オミナエシの蕾は黄色で、粟粒やキビに似ている。アワやキビの飯は、米の飯にくらべると下位のものとされていた。男尊女卑の時代だから、米飯の男飯に対して粟飯は女飯になったのである。現に白い蕾のオトコエシがあることから考えると、黄色の方はオミナエシになるというのである。わかりやすい。しかし、この説明には無理があると思う。上代は男尊女卑の社会と決めつけ、米飯は男、粟飯は女とするのはあまりにも短絡的すぎると思う。
 

 オミナエシは合弁花である。花の先端は五弁に切りこんでいるが、花筒は1つである。それに雄蕊は4本、子房は3室だが種子は1個しかできない。岩手出身の知人は、手稲の自宅の庭にオミナエシを植え、開花したところで佛壇に供えたが、悪臭で参ったとこぼしていた。私にはそれがどんな臭いか経験ないが、鼻持ちならないという。オミナエシの切り花が臭うことは、本にも出ている。
 中国の図鑑によると、オミナエシ科は敗醤科と書く。字面から想像するに、腐った醤油の意味だろうか。ただし、オミナエシは黄花龍芽、オトコエシの方は白花敗醤とある。オミナエシを黄花敗醤と表記してくれるとわかりやすいのだが。どうして黄花龍芽と書くのか、不明である。
 学名はPatrinia scabiofolia Fisch.で、属名Patriniaの語源はフランスの植物学者E. L. M. Patrin(1742〜1814)への献名、種小名scabiofoliaはscabiosa(マツムシソウ属)+folia(葉)の合成語である。また、命名者Fisch.はF. E. L. von Fischeri(ロシアの分類学者)の略称である。学名から察すると、オミナエシの葉はマツムシソウの葉に似ていることになるが、マツムシソウは茎の上下で葉の形に変化がある。下部の葉はともかく、上部の葉は裂片が著しく細くなり、オミナエシとは似てもにつかない。いくつか疑問は残るが、冬の今では推測の域を脱しきれないでいる。
 

 万葉の歌人達ではないが、オミナエシの咲く高原を逍遥しながら、微風に楚楚とそよぐ姿をながめてみたいと思う。
 

 註1.アサガオはキキョウだとするのが定説である
 註2.北隆館発行、平7.初版

 

ボタニカ14号

北海道植物友の会