原 松次 先生を偲んで

高橋 美智子


 原先生に初めてお会いしたのは道が募集したボランティアレンジャーの講習会の時でした。その時先生がスライドを見ながらのお話で、クサギを例に雄しべ先熟、自家不和合といったお話をされていました。根を張って動かないように見える植物の営みの中に動物達の中で行われている強い種(環境に適した)を残す営みが有るというお話は、見るもの皆な新しい輝きを持って見えるほどの新鮮な感動でした。いらい先生にお会いできるという滝野公園での観察会や、朝日カルチャー教室に出席し、あっかましくも、ボラ連の研修会の講師を再度お願いしたり、石狩浜や樽前の植物調査標本の同定を「お金がなくてお礼は出来ないのですが」と言いながら、先生の「いっこうに構いません」と言うお言葉に甘え調査仲間が集まってお教えいただきながらの標本同定は、「えっ、そーナンダ」「ふーん」と言葉にならない感嘆詞の連続に終始したものでした。先生の優しさに甘えてばかりで、おぼえの悪い生徒達を先生はどう思っていらしたのかと恥ずかしいばかりです。この頃先生は“札幌の植物”の編集を終えられ次なるものを求めて足を石狩、厚田方面へ運ばれるようになり、私はたまたま石狩に住んでいたことが幸いして、いつも指をくわえて?遠い存在として考えていた札幌の植物の調査仲間に加えていただくことになったのです。そのフイルドワークは毎週照る日も雨の日も先生ご自身も体調の優れない日もおありになったと思われるのですが、その日の終わりにはコーヒーをご馳走になりながら次週の予定が決められ、それは確実に堅実に進められ、一方先生の一番心に掛けていらした“北海道植物図鑑”の再編集作業がいよいよ始められたのでした。それは、先の3冊の図鑑の1種ごとのコピーを取り、後日先生が図鑑に加筆にされたものを写し取ることからでした。その図鑑はご自身の著作にも関わらずどのページもびっしりと書き込みがあり私たちを驚かせたものでしたが、先生は「図鑑を作るものの宿命です」と淡々としていらした。その時参考にと渡された書き物に一括りの「おしば標本より転記、58〜59年度作成」というものがあった。これは、No.1〜No.4までおよそ100頁づつ、きく科〜しだ植物までを種ごとにいつ何処何処で見たと云ったことがまとめられたもので、昭和44年から58年まで北海道の各地を、図鑑制作のために精力的に廻られた時に記されたもののようで、これには更に“植雑No.35、明治23年1月、エゾノジャニンジン日高サルサンドウに産す、宮部金吾氏の採集に係る”といった古い文献から、植物採集ニュースや北陸の植物では、“1968.12、伊藤浩司、ヒメビシを北見猿払村キモマ沼で採る”と云うような学術誌からの抜き書きに始まり、漢方では何と呼ぶ、薬効はとか、万葉集からの引用、知里真志保のアイヌ語辞典、宇都宮貞子の随筆、新聞は道新、朝日、日経、ラジオ放送などこの時期先生が目、耳にされた植物に関するありとあらゆる記事が、書き記されたものでした。「これを読んだら植物博士になれる。」「但し覚えたらね。」なんて仲間で言い合ったものです。
 幸いこのコピーが手元にありますので久しぶりにこれを頼りに先生とフイルドへ出かけてみたいと思います。

 S.51.9.12 北湯沢
 天狗山、友の会例会。50人参加。
 初見。不明。びっくりする。頂の岩場に近いところ。ジンヨウイチヤクソウ、ウメガサソウ、トウゲシバなど点在。その他のものほどんとなし。小道のふち。全員が発見。一株は2本、この株は5本あった。(2本、前川先生に送る。9/15)
 唇弁と距が最上部にあり風変わり、茎は中空、地きわ太くふくれている。白色、太いものでその部分10mm、リン片3片あり。
 これは上巻p.233にトラキチランとして載っているもので、写真も1976.9.12胆振、大滝村とありこの時のものなのです。

 S.53.10.8 友の会 柏木民次郎氏生きたセンブリを片手に。ベネの丘に20本くらい有ると。びっくりする。夕方早速行く、休憩所も立派になっている。総合アンテナの下でやっと1本発見。シバ、エゾフユノハナワラビ、ユウゼンギクと混生。いやはや。すぐ近くでウシノシッペイにも出会った。これまた驚き。
 北海道植物図鑑上巻の出版が56年ですのでそろそろ図鑑に着手された頃でしょうか。

 S.56.6.14 マルバチャルメルソウ 層雲峡
 林床に群生、うれしい。葉はズダヤクシュに似ているが小さい。暗緑色の越年葉もある。
 中巻に出てくる写真がこの時の日付と一致します。が更にこの後この花とは2度もデートを重ねています。“花とデート”は先生のよく口にされた言葉ですが室蘭から50ccのバイクで層雲峡まで遠くなかったのでしょうか?
 S.56.7.14 同上 未熟果なのに2裂開し、緑色種子のぞかせている。
 S.56.8.15 同上 果実は内面がむくれあがり黒光りする。1mmほどの種子何個かつけている。

 シャクジョウソウ
 S.53.8.24 苫小牧から支笏湖への道左側、エゾマツ林地内、1本発見。
 S.54.9 果実。
 S.55.7.6 林内、昨年とは別の処。白色菌があたり一面を覆っている。腐植の上を。関係有るのだろう。地表に少々黄色湾曲茎のぞかせている。腐植をさぐってはっきりする。つぼみ付けた花序が湾曲のまま立ち上がっている・・・・。あと10日もしたら花が、今年こそ成功しそうだ。
 S.55.7.19 走り咲き一花のみ。早すぎた。
 S.55.7.25 やっと出会えた。登別でひどい雨にやられたがあきらめずに走る。白老の途中から雨なし。ラッキー。30本位。ごっそりある。素晴らしい。
 上巻、1980.7.25苫小牧市と記されたシャクジョウソウの写真はこうして撮られたものだったのです。
 植物の一生を正確に知り、伝えるということが先生の命題だったように思うのですが、
 S.53.10.16 中洞爺
 前川文夫先生一行をご案内、湖畔一周の時パーキング場で先生向かいの山並みの紅葉をカメラに収めているうち、反対側の湖畔に近づいて見た。巾1mほどの小川にちょろちょろの流れ有り、そのそばにウワバミソウありびっくりする。こんな処にあったのか。何十本もある。大で60cm。
 茎や枝の上方そのものが肥厚し、ムカゴ状となる。すでに葉は傷みあり遅すぎ、上から何枚位までか不明。茎に縦溝1本有り。地中の冬芽茎を中心に見ると外方へ巻いている。肉芽のない株もあった。肉芽やや赤み有り、大で10×5、表面に1芽あり。離層のためならん触るとぽろり落ちる。葉と共に、しかし葉も触ると落ちる。
 S.54.5.26 同上
 昨秋こぼれ落ちた肉芽、およびバラバラになった茎の破片から新苗が伸び出ている。高さ2〜6cm位。もちろん夫々から細根が地中に出ている。多数の苗がある。

 継続観察1年を通して見る、そうしたらその植物の姿が見えてきます。と先生はよく言われてました。その植物の生態を見極めるためのフイールド通いは例えば
 ブナの開花を見にS.51年からS.57年まで毎年同じ時期に伊達へ通い、伊達のものは隔年開花だと書いておられます。ヤドリギも興味を引かれたものの一つだったようで種々観察されていますが、ツチアケビについて、図鑑には“一般的に開花の翌年は休眠するようである”と書かれてますが、これについてもS.51年から58年にかけ、幌別と測量山の2カ所へ毎年通い、開花、発生なし、果何個等の記録をされています。
 またゴルフクラブのようだと根を見せていただオニノヤガラについては菌根植物といったことも特に興味がおありになったのだと思います。実に多くの処で観察されていますが
 S.54.7.11 洞爺湖畔
 2本花盛り70cm,ほぼ同大、花10mm,1本のいも9×3.5cm,菌糸あり。注意深く掘る。いもの末の傷んだところ何か? 黒変した木の根の中に潜り込んでいた。旧いもならん。2本ともそうだ。1本のいもはその近くに5mmの子いもある。他のいもの近くには別のいもの固まりあった。土掘りなかったので木でやった。いもを砕いてしまった。それには3〜4この太い芽が付いていた。来年茎となるのか。2本とも元の状態に埋めて置いた。
 同上、S.54.8.22
 茎枯れ種子すでになし。2つともいもの肉全くない。皮の一部のみ残っている。そこに菌糸付いていた。
 野帳の写しで、特に誰かに見せるために書かれたものではないと思うのですが先生の息づかいが聞こえてきそうなそんな気がするのは何故なのでしょうか。

S.54.8.20 雷電海岸 ヒカゲミズ

 北海道新記録;村田源先生;54.11.12
 S.56.7.18 音別町
 海岸草原の中、国道沿い。数本あった。56.8.12村田源先生;北アメリカ原産で我が国ではまだ報告がありません。花序は茎頂に1個だけですのでヒトフサニワゼキショウと新称したいと思います。
 ・村田源;新帰化植物;ヒトフサニワゼキショウ(新称)植物分類地理;1982.4
 これ等も図鑑をお書きになっていた頃の先生の生活の一端を推し知ることが出来ますが、室蘭の知人からこの頃50ccのバイクを1年で乗り潰されたこともあったと聞いたことがあります。

 S.48.7.22 礼文 ヤマグワ
 赤と黒果とある。枝に触れると黒果は落ちる。地表を黒く彩る。こんなに旨かったか。存分に食う。柄を付けたまま。

 今思うと、ご病気になられる直前、着手されていた“北海道植物観察紀”の資料になるものではなかったかと思われるのですが、ご病床に伺ったときはいつも図鑑のことを気にかけておられ牧野富太郎博士の「わたしは自分を植物の精だと思っています。」という言葉を思い起こすのです。

ボタニカ12号

北海道植物友の会