原 松次 先生を偲ぶ

佐藤 謙


 1985年、原先生の来札に併せて「北海道植物友の会」が誕生し、ほどなく原先生による札幌近郊の綿密な植物調査が開始された。私は、父親に当たる教室の大先輩の知識や考えを教えて頂きたいこと、同定経験が少ない低地の植物を教わりたいこと、観察会の方法を教わりたいこと、高山の調査では安全のために助力できることなど、いろいろな動機を持って原先生による観察会や調査会に時折り参加させて頂いた。そして、原松次編「札幌の植物」(1992年)の刊行に協力できたことを心から嬉しく思っている。 ところが、原先生はその後急速に衰えられたままに、ご逝去されてしまった。まことに残念で仕方がない。まだまだ、私たちは教わることが多かったはずである。ここに、原先生に教わった多くの中から強い印象を記して、衷心からご冥福を祈りたい。

(1)観察会と調査会の違い 先生の観察会では、絶対「採集禁止」であった。先生は、観察会と調査会を明確に区分して、調査のための採集には必ず別の機会を設けていた。植物を大切にするため、山草趣味の方だけの利益にならないように、採集を許さない毅然とした態度があった。観察会において、標本を基礎とする調査だから最小限の採集が必要と意識を同じにできれば、この区別は必要なかったと思うが、観察会に参加する不特定多数の方への教育においては、徹底した区別が必要だったのである。フィールドに出かけると常に調査する習性の私には、観察会で採集しないことがとりわけ強い印象として残った。先生は、友の会において観察会と調査会という二つの任務を果たされたのである。

(2)先生にお供して 観察会のメモを見ると、野幌森林公園で教わったイヌガンソクの意味(犬雁足)、清田で教わったヤブマメの閉鎖花、小樽赤岩のミツバアケビ、白老ヨコスト湿原のクマヤナギなど、新たな知識を教えて頂いた喜びが記されている。先生の解説は、淡々として話題が豊富であった。毛がある、ザラザラした状態を良く「毛羽だつ」と表現されたことも、なぜか耳に残っている。 調査会にも何度かお供をした。無意根山と定山渓天狗岳の調査では、先生自身が始めて見るヒロハガマズミなど高山植物を熱心に観察されていた。無意根山では皆でジンヨウキスミレを数十年ぶりに確認できた。定山渓天狗岳ではヒメイチゲとエゾイチゲの違いが分からなくなることがあると言うと、先生は周辺を一生懸命捜して根茎の違いを教えて下さった。白石区米里周辺では残存するオオイヌノハナヒゲ、ミズアオイなどを教わった。 先生は、山中では疲れ知らずであった。というよりも、植物を見るのが本当に好きで、植物に浸りきって歩いていたと思われる。喜びをあまり顔に出されなかったが、時折遠慮がちにお顔が緩んでいた。高山での安全山行への助力という私の動機はまったく不要であった。足取りは年齢を感じさせず、細い体に鍛え上げられた強さを感じさせられた。だから、なおさら戻らなかった急速な衰えは、信じられない。

(3)原先生の遺志と友の会の今後 この10年ほどの友の会の活動は、原先生あってのものであった。先生は、「札幌の植物」刊行によって区切りがついた翌年度(1993年度)で副会長をやめられた。次に、先生は著書「北海道植物図鑑」の改訂を目指された。私たちにとって残念なのは、その志しが体力の衰えによって果たされなかったことである。改訂版では、私たちの知らないことが、諸々記されていたに違いない。 友の会活動は、私自身、参加できない忙しい状況になってしまったが、原先生が示された一般向けの観察会と地道な調査会の二つの目的を今後も追求すべきと思う。自然保護活動に重点を置いた今の私にとっても、この二つの目的は追求すべき大きなテーマである。皆で原先生の遺志を引き継いでいきたいものと考えている。

ボタニカ12号

北海道植物友の会