原 先生 を偲んで

イブリ植物友の会代表 尾崎 保


 永遠の別れは悲しい。
 不帰の人となられた 原 松次氏 享年78歳。晩年の先生とは、そんなに久しくお会いしていた訳でもないのに、今になって妙に色々な事柄が浮かんでくるのであります。穏やかな人柄のなかに気骨を秘めて信念で生きる人の印象をとても強く抱かせるものでした。先生の業績は、北海道の野生植物研究界はもとより、私たち植物愛好会、愛好者にとって大きな痛手であり、まことに惜しまれてなりません。今ここに先生が歩んだ室蘭在住時の一時を偲んで私の追悼文としたい。
 札幌より、文化女子大学室蘭短期大学に着任された翌年(昭和45年)室蘭生物同好会を設立され、植物と昆虫を野外に楽しむ主旨でしたが、昆虫指導の先生が欠席、会員が各地域にひろがった為改名し、いぶり植物友の会として「ハイキングしながら草や木に親しみませんか、ゴミは持ち帰り、会費不要、参加自由」を主旨として、10年間に亘り国鉄やバスを利用し、東は門別町、西は長万部町、北は大滝村として、管内周辺地域を市民対象に植物との関わり合いを求めて、4月より10月まで探索花紀行を主宰し続けられました。
 その一方で先生自身の植生調査を道内一円に探索が実施されていました。行動範囲も国鉄、バス利用のため制約が多く時間帯を嘆くこともままありました。この調査の移動に大変難儀して居た一頃がありました。会員の中に知人山木正五氏がおられ、例会参加時に何時もバイクで早来町より出向いて来られるのに奮起したのでしょうか「こんど、教習所え通いますヨ」と、昼食時に車の免許証の話をされて間も無く次回の例会に、50ccバイクに跨りヘルメット姿で現れ会員の皆さんから大きな拍手をもらいました。エッ・・・50ccバイク? 「ヤアー、バイクにしましたヨー」教習所通いしている筈ですが、申し込み受付し、教習講座の中で公開された交通事故による人身事故の恐ろしさを目の当たりにし、乗用車を断念した事でした。バイクで一番苦労したのは日勝峠越えであった事、又バイクを利用することで狭い山間部に入られる便利性を大変喜んでおられ、乗ったのは53年8月です。
 先生と私の関わり合いは、昭和47年5月、同好会例会のナニワズの香りをかぐ会から始まりました。当日、室蘭駅前集合で60名程が参加されており、初参加ですが主催者らしき人も見当たらず、待合室に黒の中折帽、色浅ぐろく細身の体にリュックを背負い、手にコウモリ傘、ゴム長でよく見ると腰には日本手拭いをぶらさげている姿の方が、主催者原松次先生であることを知りました。
 八幡神社境内より測量山えと向かう道傍で始まった草木との触れあい、参加者の繰り返す問い合わせに手順よく特徴、方言、時には風土的な解説をし、疑問にはルーペを覗き観察して行く姿、丸めた指先に大きな筆ダコを見出していました。
 私の知る限り、この姿は終始変わる事なく野辺に続きました。例会に参加する都度、草木の不思議な営みに引き込まれ、出来る限りメモし後日の検索の資料にしました。場所が変わる度に次々と知らされる花の多様性の博学にただ先生って凄いなあ・・・と感じ、あまりにも深い知識の豊かさに驚き羨望が絶えませんでした。当時室蘭管内では野山に訪ねて草木を教わる指導者を知ることもなかった時代でした。
 先生のこの植物同好会は大変な好評を得ていました。昼食時に恐る恐る牧野先生の資料を尋ねた処、「いやー、僕も先生が始めた東京での同好会の楽しさが忘れられず、それに少しあやかったのですヨ・・・」その時初めて川崎の人で、北の植物に憧れ来道した由、後日、日本植物友の会の所在地、入会の件などハガキで知らされ実直な人柄を知り、花に関わる道を歩き始め縁あって翌年(昭和48年7月)静狩湿原に案内しました。多彩な植物の群落と初見の植物を見出し大変喜ばれ、早々に礼状が来ました。後日この湿原と周辺地域から採集した資料が、北海道植物図鑑の頁に記載される先生のフイールドの一つになりました。
 昭和50年4月より測量山の植物調査を開始され、月2回の調査ルート設定、リストアップ等、先生単独時の同伴者としてお手伝いし総数545種の分布を確認し、翌年(昭和51年7月)室蘭の植物ー測量山を中心にー噴火湾社より著書として出版され、内容はカラー図版を使用し、花暦、仲間同志の比較、植物研究の手引きなど大変独創的な編集方法で表され好評を得ています。
 調査の中に一部分であるが、分布上興味深く、魅力ある種類を見出しています。それはウリノキ、ヒメニラ、ユウシュンラン、エゾマンテマ、エゾオトギリ、ヒキヨモギでありました。又51年夏、山麓の観光道路沿いからツチアケビを見出し大変喜んでいました。(後日判明したのですが札幌在住の昭和 11年秋に野幌森林公園で見出した当時の頃の思い出の植物であることを知りました。)58年まで記録されましたが道路整備拡張工事によって60年に消滅しました。
 昭和51年4月より有珠山周辺の植生調査を,10名の会員で2年間の予定で実施されました。地域的には有珠山も含めて洞爺湖周辺から洞爺中の島、昭和新山周辺と大きな地域となりました。昭和53年2月「有珠山の植物」として調査結果を発表しました。昭和52年8月7日有珠山爆発に依り中断したものの、一瞬にして死の山と化した有珠山周辺の調査を再会した。総数552種の中に国内初の発見種もあり、調査結果非常に特異な種が見出され、その中で主な種を記してみると次のようなものがありました。
 ミズスギ、タカネハナワラビ、ヒメハナヤスリ、ゲジゲジシダ、サカネラン、カラフトダイコンソウ、キクバクワガタ、キヨスミウツボ、イワギキョウ、ハハコグサ、特に中の島にシカの生息を確認しました。ゲジゲジシダは産地として北限であった事。タカネハナワラビ、見出した当初、外輪山の内斜面で小さな10cm程のもので名前もわからず、短大に帰って図鑑で検索しても該当するものがなく、船橋市在住の佐橋紀男氏に同定をお願いしたことを知らせてくださいました。後日大変な発見であった事が判り、氏から日本で初発見で和名をタカネハナワラビと命名し、大変貴重なものなので論文にまとめ、この論文は先生に捧げたいという返事が来たと言って非常に喜んでおられ、佐橋氏の来道を心待ちにしておりました。
 昭和54年11月 納会をもって長い間市民対象に歩んでこられた友の会も解散、いぶり植物友の会解散にあたって、社会の一員として、進んで自然保護を図るべきであると考えるようになったこともさることながら、元気のうちに胆振管外の各地へどしどし出かけこの目で全道の実態を調べたくなったからであります。会誌に伝えられた言葉通りに、翌年より各地で先生のバイク姿を見かけたと言う情報が寄せられました。
 こんな事もありました。地球岬の潮風当たる岩場より採集した小さなシダ植物、奇妙に切込み厚く堅く5cm程で柄がありました。名が判明せずに先生に電話で伺った処、早速短大よりバイクで母恋駅までかけつけて、一物を裏表ひっくり返して「あァ、これはオニヤブソテツだよ・・・」本来本州では80cm程で常緑の大きな植物であることを知りました。自生も静内まで見られるそうで、問い合わせた説明不足を恥じました。同定を終えるとヘルメット姿で、ラッパ森の坂道に消えたバイク姿が妙に思い出されます。調査中に見出した初見の植物は会誌に載せられて51年より54年まで7号に連載されました。資料記載不足になりますが主な種類を記してみます。
 オゼニガナ、ヨモギ、サワトウガラシ、エチゴトラノオ、ヒメチドメ、ゴヨウアケビ、サデクサ、カラフトミヤマシダ、カゼクサ、ナガエミクリ、マルバヤブマオ等が発表されています。
 またこの10年間の調査研究結果を「北陸の植物」「植物と自然」等の機関誌に寄稿されるかたわら、昭和54年9月「北海道いぶり地方植物目録」を発刊公表される。友の会例会時も含めて見出した種として フォリーアザミ、センブリ、ヒダカイワザクラ、イチゲイチヤクソウ、ナガハシスミレ、クマヤナギ、モミジイチゴ、トラキチラン、オオバギボウシ、イヌカワヤナギ等が先生同伴時に見出して関わった主な植物ですが、他に近郊からイワヒバ、チョウジソウ、ヌマトラノオ、トモエシオガマ、オオチゴユリ、エゾノハクサンラン、クマガイソウ、チトセバイカモなどがありました。野外では何時も言っておられた言葉「フィールドは足ですヨ・・・。何が出てくるか判らないからねェ・・・」それだけに健康には充分気を付けられ、4時起床、一杯のクエン酸、青竹踏み、ラジオ体操で日課が始まる事でした。あの俊足は常日頃の鍛錬から来るもので、先生の一面をみる思いでした。
 昭和56年4月上版、58年6月中版、60年4月下版「北海道植物図鑑」を城谷武男氏主宰の噴火湾社より発刊されました。フィールドは必ず自分の足で確認観察を実践しました。イワヒバ自生地を知らせた時など、あの深い山、川を越えて岩場に辿りついた事を聞き驚いたものです。広い道内を50ccバイクを足に精力的に精査した図鑑の陰に誠実につきる労作でありました。実一つでも他から引用することなくフィールドに徹した姿でした。
 当時、室蘭の植物、図鑑上版を発刊した時、私達一部で、細やかな出版記念会を申し出たときも強く辞退され、また室蘭市緑化事業に関わる銘木指定委員会推進委員も辞退されました。市民功労者表彰推薦の話などおよびませんでした。在野にあって研究調査に中版、下版の発刊に没頭する時期に向かっていました。
昭和60年下版発行と同時に、札幌に住まいを移され、北海動植物友の会など市民対象に野生植物研究に活動され多くの成果を「ボタニカ」「北海道の自然と生物」等機関誌に公表される一方で、サークル、会員協力の著書として「花ある風景」札幌市全体の植物分布と目録「札幌の植物」を刊行され、高い評価を得た業績になりました。
 平成6年初秋の頃です。知り合いの方より原先生が健康を崩されている様子を伺い見舞いをと思い立ち、電話口で伝えた処、「いやーどうも、どうも」と言うことから9月25日午後より北区の自宅に訪ねる時間を得ました。先ほどまで伏せっていたとの事ですが、元気そうで、玄関にはいるなり、「いやア・・・よく来てくれたネ・・・どうぞ、どうぞ・・」と言ってあの両手でガッチリ握られ、訪ねた方が戸惑いました。友の会など、札幌の花など話が進むほどに、先生自ら川崎の生家、牧野先生の事など、札幌に憧れて北の植物に夢を抱いて来たものの、現実の厳しさに、芝生上で大の字になって涙した事、短い月日であったが、館脇先生の指示で樺太の国境周辺に植物採集に出向いた時期もあった事など、北大に進んだ経緯を話され。私自身、先生の口から青春の一頁を聞かされるとは思いもよりませんでした。北大を卒業される間近に帰郷し、就職の件で父親に相談した処、とても怒られて涙した事、「おまえは何だ、同輩が入隊や軍事教練しているのに、草や木を著して喰っていけるのか、外を見てみろ・・・」昨日の出来事のように話され、感情の中に涙が滲んでいました。この事があってから側面から軍隊に奉仕できると軍需産業への就職を希望、帝国繊維株式会社(札幌)入社、昭和44年まで勤務された事を話され、以後文化短大に来られた事を語られました。会社勤めの傍ら、草木の語りはなく、戦後歩んだ繊維業界の合理化の苦労に涙する事が多々あった事、直接生活に関わる事なんでネ・・・」人員整理の問題を想い出した様子でした。会社勤めの研究成果を、室蘭時代に「北海道における亜麻事業の歴史(噴火湾社)」で発刊されております。
 話の中で、出版された「北海道の植物図鑑、上、中、下」の写真も含めて、配列、補足して出す話があって仲間内で原稿の精査をしているのだが、私自身こんな具合でと、気遣いをしていました。これでも天気の良い日は散歩していることを話されておられました。少しの時間と思って訪ねた結果、長時間を詫びて、帰り際には入口まで来られ熱い握手になりました。3時30分を廻っていたのでした。不思議な巡り合わせになりました、丁度室蘭では私の初孫が誕生した時刻でした。
 その日からしばらく日々が去った時、先生が入院されたことを知り、翌年2月6日、N病院に見舞いました。札幌は大雪に見舞われ何処も雪の中に埋もれていました。明るい病室でした。出向くと伏した体を起こされ「いやー、どうも、どうも・・・」あの微笑で逢って下さいました。持参したイチゴを差し出すと「ウンこれはうまい・・・」言って3個ほど食べられ、冬でもイチゴが食べられる時代を喜んでおられ、春になったら歩きたい話、歩いた場所を想い出して次から次と植物をなぞっていきました。花の名が出るんですが人名の方は想い出せない場面が多々ありました。病院生活は何かと制限が多く困ったものだと嘆いておられる場面もあり、返答に困って戸惑いました。病床にあっても、明日に歩こうとする植物にかける信念を思い知らされてなりませんでした。帰り際には廊下まで出向かれて軽く手を握られて、とても印象深いものになりました。訪問名簿を記入時に拝見すると友の会の人、サークルの人、多くの人の訪問を受けておられる様子で心強い限りでしたが、再びお訪ねする機を失ってしまいました。
 先生から珍しく長文の手紙を戴きました。49年1月29日付、北方植物に憧れて来道した時代から、室蘭在住に至る事柄を述べられた最後の箇所に、文化へ来るまで、約30年間は、分類とは無縁で、道草をしてしまったことになります。もうとりかえしはつきません。・・・今、違った道草を行くのでしょうか。
 自然に対する厳しい態度や感覚、細やかな心遣いなどを教えて戴いた事、独創的に形態的特徴の中から、文学的、体験的な事柄を鮮やかに教えて下さったフイールドや研究室での語らいが甦ってくるのであります。そうしてもう一つ、納会の宴で詩う十八番があります。「・・・小諸なる古城のほとり、雲白く遊子悲しむ、緑なすはこべは萌えず・・若草もしくによしなし・・白銀のふすまの岡辺 日に溶けて 淡雪流る・・・」正座して、あの細身の体から漂々として流れ、千曲川旅情に青春の惜別を詩いあげる時は酔いも多少廻った事を知るのであります。
 花を通じて自然の構成と、人の営みの真摯な態度の尊さを教わったことは、終生私を離さないだろう。今ここに北海道の植物に魅せられ愛してやまなかった先生の浄土の道に「どうぞ安らかにお眠り下さい」の言葉はあまりにも寂しい。 ー合 掌ー
ボタニカ12号

北海道植物友の会