チョウジソウ

國兼 治徳


(一)

 原先生が亡くなられました、との連絡を受けたのは十一月四日の黄昏どきだった。病床におられる間にもう一度伺うべきだった、と受話器を置きながら思った。
 亡くなる一ヶ月前に長生病院へ出かけた時、ナースセンターの方に院内感染のためスリッパを履き変え、女性用の割烹前掛けを着るように指示された。余程悪いのかと病室へ入ったが、2週間前と特に変わった様子はなく、むしろ腕の点滴がはずされていた。二人部屋の隣の患者が入れ替わっており、酸素マスクを口に当てていた。先生より重症のように見えた。側に寄って「先生」と声をかけると、瞼がしきりとしばたたく。又、おなかにのせた手がタオルケット越しに動く。先生はわかっておられるのだ。時々見舞って声をかけよう、それが先生にとり何よりの薬だと思った。
 九月の時には娘さんがおられ、病状や経過などもお聞きすることが出来た。娘さんも父はわかると思いますとおっしゃった。
 「ホラお父さんわかる? お見舞いにみえているんですよ」
 その時も先生が全身で力んでいる様子がわかった。春頃には声も出されたと云う。いつだったかお花を見せたら、ものすごく声を出したと云う。娘さんはそんなことを思い出しながら目をうるませた。その頃先生は右手がベッドに縛られていた。点滴の針が抜けるからだそうだが、痛痛しかった。

(二)

 私が先生と初めてお会いしたのは植物友の会においてである。それ以前にもお名前だけは知っていた。植物に興味を持ちはじめてから、道内で出版されている図鑑やリストをまず入手しようと考え、機会あるごとに書店の道内出版物コーナーを訪れた。又、新聞の出版広告などに注意した。そして、「室蘭の植物」を手に入れ、先生のことを知った。お会いする数年前のことである。まもなく「北海道植物図鑑上」が店頭に並び、これほどの図鑑を書かれる方はどんな方だろうと想像していた。それが幸運にも植物友の会の誘いを受け、先生を目の前でお会いできる様になり、直接指導を受けることになった。当時、先生は50ccのバイクを愛用され、現地にバイクで直行されることが多かったようである。月々の観察会の指導者として陣頭に立たれた。植物を慈しむ様子が全身から感じられ、一本一草にも慈愛のまなざしをそそいでおられた。指導の冒頭には  「私が代表して植物を紹介しますから、皆さんは採らない様に」と必ず一言つけ加えた。
 先生にお会いしてから四年目の昭和六十三年夏、多分六月の観察会だと思う。先生にチョウジソウの話をした。実はその前年、元同僚から紅葉山砂丘の東側にチョウジソウがあると連絡があった。早速行ってたしかめた。確かに農道の側溝沿いにチョウジソウの一群が咲いていた。その後私は腸の癒着障害で二度入院してしまい、原先生にお話するのが一年遅れてしまった。先生はすぐ見に行かれたそうである。次にお会いした時、確認されたことを話された。この事がきっかけとなり、先生に直接話しかけるようになった。又、一度は標本を見てもらった。場所は先生から丸善地下の喫茶店を指定された。その時どんな標本を持って行ったか、メモもなく不明である。今から思うと大変残念なことをした。
 私がチョウジソウを知ったのは、多分六十一年である。石狩に住んでおられる元同僚の家で、珍しい植物を見せられた。初めて見る植物で名前もわからず借りて調べたらチョウジソウであることが判明した。月形の石狩川堤防で見つけたと云う。後で月形まで出かけたが見当らなかった。
 先日、十一月十五日付朝日新聞朝刊の梅沢俊氏の「北の花つれづれ」は、チョウジソウだった。大きな美しい写真と原先生を悼む文が載っていた。この写真は北区で撮ったと書かれている。
 もう二度と先生とお話することは出来ないが、せめて来年は紅葉山のあの場所を訪れ、チョウジソウに会ってみようと思う。

ボタニカ12号

北海道植物友の会