原 松次 先生

桂田 泰恵


 原先生が亡くなられた。自分の中では何度もお別れをしていて、その時がきても取り乱したりしないつもりだった。福地さんから訃報の電話があった時、いつもある筈のメモ帳とペンをみつけられず大声で書くもの頂戴と叫んでも誰もくれないと怒りながら電話をきった。まわりをみると誰もいなくて気付かなかった自分に驚いた。
 よいしょという掛け声と共に部屋に入ると先生は丁度納棺されたところだった。穏やかな白い顔をみると涙が出た。お嬢さんの和子さんと目が合うと二人共顔を背けて涙でしばらく声がでなかった。亡くなった時の様子などを伺って帰った。
 翌日まだ人の入っていない葬儀場に行くと始めてお会いした頃の先生のとても良い写真が飾られていて又涙がでた。先生は差別はされなかったが能力に応じて区別はきっちりされた方だったとおもう。私には最後まで出来の悪い子供を気遣う保護者の立場というかんじだったのでしょぼしょぼと泣くばかりで何の役にもたたないのもわたしらしくていいかなと思った。しょうがなかった。
 先生が亡くなる一年程前、体調がお悪そうだと聞き行ってみるとその日はとてもお元気で私が伺ったことをとても喜んで下さった。私のリンゴをむいてあげる手つきが危ないとリンゴを割る時「ここに置いてやりなさい」と台を指したりなさった。久し振りの「危ない、危ない」だったのでうれしくて笑ってしまった。写真のはっていないアルバムがあったので先生御自身の写った写真のことをおもいながら「この頃写してないの?」と伺うと、「写してない。ここへ来てから一枚も写してないね」と植物の写真のことを考えていられた。それからまもなく病院へ入院され四回程御見舞に伺ったが一度も目を開けてくださらず、とても痩せてしまって悲しくて病院へは行けなくなってしまった。
 先生はあんなに丁寧に植物のことを教えて下さったのに不勉強で本当に申し訳ないが、知識ということとは別にいろんなことを学べたと思う。忘れてはならないとおもう一番大きなことは先生は本当に植物が好きで可愛くてとても楽しそうであったということだ。地味でさほど珍しくもない植物でも花盛りの時には「きれいだねー。せっかく咲いているんだからみてやって」と言われ花と一緒に私達に勉強しているふりなどさせて写真をとって下さったりした。ともすると珍しいもの、きれいなものばかりに目がいってせっかく咲いていても感動がなくなってしまってはつまらない。勿論先生も珍しいものは大好きで夢中になって人の声も聞こえなくなり、動かなくなってしまうこともしばしばだったが。囲いがあれば入ってみる、崖は登る、川は石を投げ込んで渡る。人が行きづらい所にはおもしろいものがあった。崖から滑り落ちたり、川にはまったり、管理人にみつからないように音をたてずに歩いたり、とにかく、おもしろかった。先生は私達が喜ぶのでつれていってくださり、私達は先生が楽しそうなので楽しくなった。植物のことは未だにちっともわからないけれど思い出はいっぱいです。先生が今いらしたらこんな拙い文を四苦八苦して書いている私をみて又「無理しないで。書かなくてもいいんだよ」とおっしゃりそうだ。

ボタニカ12号

北海道植物友の会