原 松次 先生の思い出

金上 由紀


 原先生が亡くなられて日が過ぎ、友人と会った時などに思い出を語り合ってみると、互いの原先生像が微妙に違っている事に気づく。だから、これは私の独り善がりの原先生物語である。

 原先生にはじめて会ったのは北海道植物友の会が発足した翌年2月だった。私は1984年3月まで北見市に住んでいた。そこで松木恒夫先生を指導者にお願いして植物観察の会を作って、10人程で勉強を始めていた。原先生が噴火湾社から出版された「北海道植物図鑑 上」はとても分りやすく、感激した「草の会」の仲間が「続編も早く出してほしい」と原先生にお手紙を差上げた。原先生から鉛筆書きのお葉書がすぐに返ってきた。その後、家人の仕事の都合で札幌に転居した私は、新しい友人から原先生も札幌に住んで居られる事を聞いた。「私は原先生のファンなの」と、その人に北見での話をしたところ、仲介の労を取ってくれ先生にお目にかかれる事になった。6、7人の仲間と喫茶店ヘ行くと、先生はすでにいらしていた。ツイードの上着で風格のある紳士だなと感じた。楽しく話は弾み、それがきっかけで新サークルあかしや会ができ、3月に先生のスライドを見せて頂く事から活動が始まった。その喫茶店でテンニンソウの話をした。前年秋、百松沢で見たしそ科の植物が分らなくて懸命に調べてテンニンソウである事を知ったと、福地さんとかけ合いで話していると「それはどこですか。ぜひ案内してほしい」と先生がおっしゃった。先生と個人的に歩くようになつたのは、このテンニンソウのおかげだつた。
 私は先生と野山を歩く事が楽しくて、朝日カルチャー、北海道植物友の会等手当たり次第に入会した。一方月に1、2度福地さんや私の妹の桂田と、先生について近郊を歩き回った。「これなあに」としか言えない妹と私だったが、「目が多い事が大事だから」と先生は寛大で、帰りには必ずコーヒーを御馳走してくださった。先生はご自分の事をあまり話さない方だったが、それでもコーヒータイムにはさまざまの話をして下さった。
 内気な少年だった原先生は、牧野富太郎の主宰する植物の会に参加し、とても楽しかったという。胴乱一杯に採集した植物を持って牧野先生の家に伺うと、縁側に新聞紙をひろげてにこにこと一つ一つの植物を説明して下さったそうだ。牧野先生の影響で大学に行くよりも実践と考え、北大植物園に勤務したところ休日がなく「植物採集に行きたい」と申し出ると、上司に「雪が降ってから行け」と言われ1年で勤めを止めた。その頃館脇先生の教室に出入りしていて、樺太に採集旅行に派遣されたり、天神山のあたりでコウライワニグチソウを採集したりしている。牧野門下の寺崎留吉が札幌に来たのもその頃で、原青年が指示された植物を採集して旅館に届けると、寺崎は墨でたちまちのうちにそれらの図を描きあげたという。宇都宮高等農林をへて北大に入った時には「分類では食べて行かれない」との助言があり、病理学をまなび、卒業後は軍需産業であった帝国製麻に勤務した。会社では先進ヨーロッパの文献を翻訳したり、栗山工場の工場長だったりしていた。戦後、化学繊維等に押されて衰退してきた製麻業の挺入れのため、先進技術研究にヨーロッパに長期派遣された事もある。「高級な麻製品を作るには日本産の原料は丈が短く適さなかったのですよ」と言葉少なに話して下さった事があった。後に資料室に移られたが、そこで独自に製麻業史をまとめられた。「調べたりまとめたりする事が本当に楽しかった」との事だ。  友人の誘いを受けて室蘭文化女子短大の教授になられてから、何十年も忘れていた植物観察、採集、分類を趣味として再び始めようと思い立ち、同好会の呼びかけを短大生達にしたところただの一人も集らなかったという。そこで一般の人に声をかけると、すぐに反響が返ってきて胆振植物友の会ができた。
 植物観察を再開してみると、北海道の植物の図鑑が無い事に気づき、道新の投書欄に「北海道に住む人のための植物図鑑を作ってほしい」と投書したがどこからも反応が無かった。「それなら自分で作るしかないな」と思ったのだそうだ。先生の図鑑が出版される前後に道新や北大図書刊行会から「北海道植物図鑑」が相次いで出された。「その情報を知っていたら僕は作りませんでした」
 植物の調査をするためにはまず足の確保をと考えた先生は、自動車の運転免許を取りに行った。自動車学校で初日に見せられる事故のビデオに衝撃を受けた先生は原付の免許に変更する。加害者にだけはなりたくなかったのだろう。こうして先生のトレードマークの50CCのバイクが登場する。金・土・日・月と授業を調整して、このバイクで全道を走り回ったのだが、慎重な先生でも何度かスピード違反で捕まったそうである。「50CCのバイクは制限速度が30キロなんですよ。それではどうしても間に合わない事があるんです」
 北海道植物図鑑上中下を出し、胆振植物友の会も10年で区切りをつけ、室蘭文化女子短大を辞められた後、先生は札幌に転居された。  札幌に出てきてからの先生は、学生のような身軽な生活を楽しんでいらした。早寝早起き、食事のメニューも大体決まっていて、朝7時にはバイクで出発し、気になる緑を見つけると停めて歩いてみる。昼食はラーメン。遅くならないうちに帰路に着き、途中でコーヒーをのむ。野帳や標本はその日の内に整理する。テレビは無し。  札幌での先生の評判が高まり、様々なグループから指導の依頼がきた。植物の講師をする時に先生がこころがけている事は、野外のその場でAはA、BはBと明確に説明できる事。又、よく似たものはその相違点を指摘できる事。同定のポイントを正確にわかりやすく説明する事。分らない時には曖昧にせず「分りません」と言い、間違えた時には後日必ず訂正をされた。人を見る目も的確で、相手の要求に応じた答え方をされた。人間に対する好き嫌いはあったとは思うが、植物に関する質問には実に誠実に丁寧に答えていらした。ご自分も「たくさんの人に教えを受けてここまできたのだから」と不公平な事や不親切な振舞いを律する姿勢が感じられた。同じ物を何度も「これ なあに」と伺っても嫌な顔をされた事がない。
 「高山や北海道固有種はすでによく調べられている。僕は平地や本州と共通の植物、身の回りにある皆に見過ごされている植物に注目している」
 「自分は学者と一般の愛好者をつなぐ役割をしたい」
 「同好のサークルで自然散歩をすると、皆とても楽しい、良い気分転換になると言ってくれるのが嬉しい」
 冬は標本の整理や書物での調べものをしていらしたが、体力が落ちないようにビル・トレッキングと称してデパートの階段を上り下りする事を日課にしていた。  先生は札幌に来て以来、札幌の植物目録を作ろうと計画していらしたのだが、ある時伊藤教授から「それは友の会の仕事にしよう」と提案があった。会が動き始めるとそれまでののんびりムードは一変した。適材適所に人が配され目録作りが進んだ。ある時期からバイクをやめられた先生は私の運転を信頼して下さり、私の車に多く乗って頂けたが、桂田と私とは相変わらず「これなあに」係しかできなかった。仲間内でのトラブルも少しばかり起きてきて、ある時私は大変に怒り、地下鉄の駅に皆を下ろすと挨拶もせずに帰ってきた事があった。まもなくかかってきた先生の電話の声を私は生涯忘れない。私を怒らせたのは先生ではなかったのに、こういう電話をかけさせる結果になった自分の心の狭さを私は恥じた。
 大雨に降られても帰り道に晴れれば「今日はラッキーでしたね」と言われる程楽天的な面もあった先生だが一方争い事や、不当に人間性を殺すような事、威張り散らす事などがお嫌いだった。例えばガソリンスタンドなどで従業員が出ていく車に最敬礼している場面に遭遇したりすると、眉をしかめて「ああいう事は必要ない」と繰り返し言われた。「牧野富太郎は秀才、南方熊楠は天才でしたね」と常々言われていたが、在野の偉人を尊敬される傾向があった。後に、先生が生まれた時にお母様が亡くなられ、寂しい生い立ちだったと聞き及び、そんなことも影響していたのかなと思った。
 先生といて珍しい植物に出会い、皆で喜び合うのが私にとって至福の時だった。先生に「ほほう!」と言って頂きたくて、私は懸命に植物を探して歩いたのだった。
 先生の体調が崩れ出したのは、「札幌市の植物目録」が出来上がり、増毛・浜益方面の調査にかかり始めてからだ。先生の全身に皮膚炎ができ「まるで刺青のようで、銭湯に行くと驚かれるのです」という。とても痒い炎症で治療の効果もでず大変苦しんでいらした。それから段々にあちこちの故障がでてきて、朝日カルチャーの講師を辞め、植物友の会を辞められた後は、こちらが対応出来ないでいる間に、一人でどんどんと深い迷宮の奥に踏込んでいってしまわれた。
 80才まで生き、北海道植物図鑑の改定版を作る事、「北海道植物誌」なる随想録を出す事を願っていた先生から、お見舞いに行く度に「本は進んでいますか」と問われ辛かった。  お別れの日、ご遺族のかたにお願いして、先生のお棺のなかに手帳とコダックのフィルムと日本手拭いを入れさせて頂いた。痛みも苦しみも消えた今、どこか遠いところで、グレーの作業服にゴム長靴、頭に手拭いを被った先生が、地面に座り込んで「おいおい、綺麗に写してやるから、ちょつとの間じっとしてくれよ」などとブツブツいいながらあの世の花にカメラを向けていらしたらどんなに嬉しいか・・・・・

 ここに記した事には私の思い違いや聞き違いがたくさん有る事だろう。「こことここに誤りがある」と指摘した鉛筆書きの葉書がどこからか届くかもしれない。
ボタニカ12号

北海道植物友の会