西野の谷(里)の今昔に想う-ここ1万年前以降の植生の変遷-

牛沢 信人

 ここで西野というのは、別に言えば琴似発寒川の中・下流域のことをいみしている。私は西野第2小学校の西側の、広島通りを挟んだ山側に住んでいる。
 近頃近隣で、西野の膨張の最盛期である四半世紀位前に建てられた住居がとりこわされ建て替えられるところがぽつぽつと出はじめている。更地になったところをあらためてみると人頭大の亜(ア)角礫(角礫に近いといういみ)と、それを包むようにして褐黒色の土壌とがあらわれている。この辺も、もともとは昔の発寒川(右股)の沖積作用によってできた平坦地に近い緩傾斜地なのである。当時は角礫と砂であったものの、長年の間に、表面積の大きい砂の部分のみが風化分解して土壌化したものと考えてよい。
 当の発寒川本流は、いまでははるか7*800m南に移動している。当時この辺の平坦地が発寒川で作られたのは、およそどの位前であったろうか。確たることは云えないがおよそ数1,000年位前のことであったと思われる。
 さてわが西野の里もいまから、せいぜいわずかに100数10年も遡れば、いまでは想像するのも困難であるが完全に人跡無踏、千古斧鉞の入らない、そしていまと植生の変らない森に蔽われていたとみてよい。しかし遥かに遠い遠い昔には、いまみられると同様の樹種が、ただ原始の状態で存在したわけではない。たとえばわずかに(地質学的に)1万年位前であっても、その植生を考えるうえで当時の気候条件を無視することができないからである。いまから1万年前といえば最終氷期の末期にあたる。年の平均気温がいまより数度も低く、地表はグイマツ、ハイマツ、カバノキ等で蔽われていた。
 このことは地中に埋積しても腐らない樹木の花粉の分析からわかることなのである。
 グイマツは、いまではサハリンやいわゆる北方四島以北に存在する。いま北大植物園でみられるあの美事なグイマツはエトロフ島から移植したものであるという。ところで最終氷期が終って完新世に入り気候が次第に温暖化するとともにいまから8,000年前頃になってグイマツは本道から消滅し北方に去った。この8,000年前を境にして、この方今にいたるまで我々の身の廻りの植生には本質的な変化はないという。
 その後、いまから6*7,000年前に年間平均気温が数度も上昇して温暖化したのち再び冷涼化して現代に至っている。  上述の、北方種であるグイマツのふるまいは印象的である。逆に南方樹種である、いま道南の黒松内付近を北限とするブナの気候変動に対するふるまいはグイマツにおとらず印象的である。直接標題には関係ないが触れておこう。かつて数万年前とみられる後期更新世の氷期の間の、間氷期中の温暖期に、ブナは北上し実にいまの札幌の位置をこえて、本道の脊梁山脈の西側にまでその分布を広げている。それがそのごの最終氷期の到来と共にはるかに後退南下した。それが氷期が終って完新世の温暖期の到来とともにいまから8,500年前に再び北上して津軽海峡にまで到達した。その後3,500年かかって海峡を越え、すなわち凡そ5,000年前にいまの函館の位置に到達した。それから北上しいまのように黒松内の付近に到達したのはわずかに350年前頃と云われている。
 さて、地質学的にごく近い過去に以上のような経緯があったことをふまえたうえで、わが西野の里のいまの植生について概観してみることにしよう。草本は別として木本の場合には無雪期の道路沿いでの観察には限界がある。知見の多くは、むしろ積雪期の、雪山を縦横に走破するクロカン・スキーでの観察によるところが多い。我々の身の廻りの樹林は、原生的な自然林といえよう。100数10年の間多かれ少なかれ、建築用材、薪炭用材として里人の手が加えられたものである。
 針葉樹でわりに低所から山の高所にわたって多く存在するのはトドマツである。
 これに比べて量的に少いエゾマツ、アカエゾマツは標高4*500mから上にのみあらわれるようになる。アカエゾマツはエゾマツに比べてもその量は格段に少い。特に印象的なのは百松沢山山頂付近や域外ではあるが砥石山に多いエゾマツや迷沢山頂付近にみられるアカエゾマツの高樹の群である。
 イチイは極めて稀で筆者は、発寒川上流域の標高700m位の高所で幼樹ひと株をみたにすぎない。
 落葉広葉樹で低地、丘陵地に普遍的しかも絶対的に多いのはつぎの種である。
 シナノキ、アカイタヤ、キタコブシ、オニグルミそれにミズナラ、カシワ、ヤチダモ、セン、ホオノキ、ハルニレ、オヒョウ、ニガキ、エゾヤマザクラ、ミズキ、ウダイカンバ、シラカンバ等々である。中低木ではハウチワカエデ、ムシカリ、ヤマグワ、ヌルデ、ツリバナ、エジニワトコ、ハイイヌガヤ等がある。
 ナナカマドは自生するものは標高4*500mから上にのみ存在する。とくに顕著な例は、阿部山の稜線付近である。  ダケカンバも高地に普遍的に存在する。
 カエデの仲間のオガラバナ、ミネカエデも標高6*700m位より上ではめずらしくない。わりに地域的にかたよって存在するものにつぎのような樹種がある。
 カツラ(西野の谷の低所に数ヶ所)、ケヤマハンノキ(特に中の川上流)、ヤマグリ(ワンパク村周辺)、アズキナシ、アサダ(ともに山田山)、ハクウンボク(ワンパク村手前)、イヌエンジュ、ヒロハノキハダ(山田山、水源池の山など)、中低木でハシドイ、ウリノキ、ミツバウツギ(以上いずれも山田山)、ノリウツギ(宮ヶ丘)、クサギ(平和病院東側の丘陵、ワンパク村、宮ヶ丘など)、稀でかなりかたよった場所にのみみられるものにはつぎのようなものがある。アオダモ(ワンパク村手前、平和病院東側山裾)、サワシバ(山田山)、シウリザクラ(山田山とワンパク村の中の川右岸)。コシアブラこれは高度(温度)に対する適応性が高いとみえ標高120-130mの低所から発寒川上流や迷沢山中腹(ともに標高600m前後)にわたって存在する。クロミサンザシは三角山と宮の沢に1株づゝみたが後者はその後筏採された。低木としてカンボク(中の川上流)、ノイバラ(三角山)、オオタカネバラ(宮城の沢上流)等があげられる。
 以下樹木でも先人によって植えられた植栽樹について述べよう。これにはカラマツ、ハリエンジュ、ドイツトウヒ、アカマツ、カシグルミ、ストローブマツ、キリ等々がある。これらは入植した先人達が故郷を偲ぶよすがに植えたもの(アカマツなど)や経済的な利用を目的として植えたもの(カラマツなど)があると思う。
 これらはこれらで地域の歴史の歩みのあかしとして有意義なものといえよう。最も規模の大きいのはカラマツ林である。
 宮の沢上流や手稲山の南に張り出した尾根のように、実に海抜700m付近にまで植栽されている例がある。西野の里ではカラマツ林は放棄林の形で各所に存在する。ブドウやコクワ等のつる性植物のために先端がへし折られているものも多い。
 このカラマツと雑多な広葉樹の混交林の中に、時にポツポツとストローブマツが存在することがある。何のために植えられたものか。これはカラマツと違ってしなやかなものだからツル植物に先端をとられても180*幹を曲げて先端を地面につけているものもあるほどである。ストローブマツは西野中学校の、あの広島道路をへだてた向い側にある並木をつくる樹々である。
 植えた家々のシンボルになるようなアカマツの年老いた古木が少いのは淋しい。
 わずかに山田山の、西野川をへだてた向いの山田氏宅にアカマツの大樹がある。
 かつては、いまは消失した幽邃な池の傍に植っていたものである。
 ハリエンジュ(ニセアカシヤ)は域外だが宮の沢や手稲本町などの手稲山の北麓にはかなりの高度にまで規模の大きい林がある。樹勢がまことにたくましく、成長が早く上記の処では始末に困って筏採しているところもある。西野の里ではわずかに山田山の裾から上にかけて存在する。先人がどのような目的で植えたものか。
 ドイツトウヒは西野の山裾の各所に植栽されている。山田山西側のものは、根が浅いためであろう、大あらしの度に1本2本と倒されてゆく。
 カシグルミは西公園(山田山)に数株と近くの民家の庭にかなり多く植栽されている。巨大樹に成長するために、多数の実をつけるのは魅力だが、手にあまって筏採しているところもあるほどである。
 この様な樹でも面白いことに、この地域ではないが、北の沢で膝位までに筏ったのを密植して生け垣にしているのをみたことがある。
 キリについて述べよう。通称前鼻山の上や、山裾にみられるほか山田山の東面の混み合った林の中に、一株、それ自身も大樹に成長したキリがみられることである。ここに存在する理由が不可解である。なぜ簡単にキリと確認できるか。それは初夏に樹々がつくるこみいった樹冠を見上げながら歩いている時、すみ切った青空を脊景に、ちりばめたようにキリの素晴しい紫色の花々がみられるからである。  また中の川の、下の方の砂防ダムのところから、右方向に大きくのびる山道の傍にキリの大樹がある。これなどは、かつての水田の上限はここまでという意味で畔にあたるところに一株植えたものか。
 草本についてのべよう。
 特に印象深い草本についてのみ摘記する。草本の歴史も西野の里の、とくに近い過去の自然史、そして人間の営みの歴史の一部にかかわりがある。
 一属一種の貴重な種であるとされるシラネアオイの存否が、自然の開発の度合いを示す指標のひとつであるあるといっても過言ではあるまい。15年程前であるが築山牧場のふもと、発寒川右岸べりにすら存在するのをみたことがある。いまのようにバイパスどころか道路さえ全くない頃のことである。我が家の近くでは西野浄水場近くの樹林中のササ原の中に近年までかなりのシラネアオイが存在した。  それが年々次第にその数を減らしてきている。それがあたかも人間の気配を忌避するかのように。その他西野の里でこれが多くみられるのは発寒川中流右岸で阿部山のふもとにあたるところである。
 しきつめられたように生えるユキザサの群落の中にポツンポツンと輪状に群生している。時にはサンカヨウと共生する。共生するといっても西野の里でサンカヨウがみられるのはわずかにここだけにすぎない。この近くにはまためずらしくエゾノリュウキンカも存在する。その他シラネアオイは平和病院の東側の山中、あるいは宮城の沢右岸の送電路沿いに登った標高500m前後の山中にみられる。  7*8年前のことである。中の川の、上の方にある砂防ダムのところで川に降り川の中を遡上してみたことがある。そこではバイケイソウやカラマツソウをみることができた。西野の里の、ほかではみられないものである。当時ダム下流の右岸の小道沿いには、サイハイラン、ハクサンチドリ、ノビネチドリ等が点々と咲いているのをみた。これらはサイハイランの少しを残してすべて絶えてしまった。  ノビネチドリは宮城の沢の最下流のダム付近の沢の氾濫原の中にアカバナ、シロバナの両者が存在している。
 通称崖山(山田山)の西側(裏側)、それに西野8-9-11付近にわたって、一帯はめずらしく原始の香りをいまだにとどめているところである。コバイケイソウやエゾエンゴサク、キバナノアマナ、オオウバユリ等の大きい群落があり、一部に往時の水田の水路跡のようなものが存在する。西野の里でオオウバユリの群落がみられるのは、ここのほかは三角山の北面、中段の山道傍位ではなかろうか。  西公園の芝生の中に、5年程前のある年ネジバナが数本、また園内の小路沿いにクゲヌマラン数株をみたことがある。それ以来絶えてみたことがない。このことはどう解釈したらよいものか。
 西公園の北部の崖山へ登る桟道付近には、桟道の中にまで、早春足のふみ場に困る程フデリンドウやニシキゴロモ等が咲いていたがこれも近年殆どみることができなくなった。
 西野西公園の東側西野9-9-6付近と、づっと離れて平和の、平和寺から手稲山に向う自然歩道のすぐ右手にノッポロガンクビソウを見たときの印象が深く心にのこっている。隔離分布の顕著な例といえようか。
 平和寺に至る手前数100mの、道の左側と、そこから直距離にして1kmも離れていると思われる宮城の沢最下流の砂防ダム付近との2ヶ所にセイヨウヤブイチゴのかなり大きな集落がある。帰化植物がこのようなところにあるいわれはどういうことであろう。  宮ヶ丘小学校に近い丘の裾にミヤコグサの群落がある。宮ヶ丘全体はまたエゾヤマハギの著しく多いところである。
 最後にブタナ(タンポポモドキ)のことについてひとこと触れよう。ブタナは我々の身の廻りに非常に多い。それが手稲山の頂上付近にまでみられる。気温に対する適応性が大きく、みるからにたくましい種である。発寒川沿いの自然歩道の途中にみられないことからすればブタナは表側の登山道(開発道路)を通って頂上まで登ったものと思われる。

参考
伊藤浩司(編):北海道の植生(1987)
北大放送教育委員会:大いなる島(1991)
小野有五・五十嵐八重子:北海道の自然史(1991)

*本稿は、西野第二町内会発行の町内だより205〜206号(1995年2月〜3月)に掲載されたものである。

ボタニカ11号

北海道植物友の会