ラッキーな話

山田野 案山子


 中山峠から北西に4km足らずの所に、中山湿原と呼ばれる湿地がある。国道230号線の中山峠から湿原まで、標高差100mにも満たない平坦な道が続く。北電の送電線が数本道を横切り、NTTの電波中継所もあり、これらの設備を維持するための作業用道路だと聞いている。道の両側は草刈りが行き届き、側溝も通り、何ヵ所か舗装部分まである。7〜8年前、原松次先生に初めてここを案内していただいた折は、舗装部分はこんなに無かったか皆無だったように思うし、ノビネチドリやハクサンチドリの白花の見事な株がもっとたくさんあったように記憶している。
 下界は好天でも峠は雨や霧になることが多いのに、7月3日の観察会は運よくお天気に恵まれ、汗をかくほどだった。道案内役ということで、昨年この辺りをテリトリーにしているクマに出くわしていることを話し、できるかぎりかたまって行動するようお願いして出発した。だがものの100mも進まないのに一行の頭と尻尾が切れはじめた。並の速さの一団と、勉強家集団ができ、その中間あたりで牧羊犬のようにウロウロしているのが私。植物の案内役は、プロが何人も参加しているので問題はないが、単独行動する人が出ないように注意するのが牧羊犬の役目だ。しかしこの牧羊犬、放浪癖があるのだから、甚だ頼りない。ハクサンチドリ、ノビネチドリ、ベニバナイチヤクソウ、ツバメオモトなどの花に見とれたり、写真を撮ったりと結構楽しんでいる様子が見られる。全身棘だらけのハリブキや、クロツリバナの暗紫色の実、地面に貼り付いているイワツツジもそれぞれおもしろい。空き缶やプラスチックの弁当箱が目について、折角の花が艶消しなのは残念で腹立たしい。山菜採りの連中の置き土産なのだろう。湿原に着いたらお弁当にしますの声に励まされて、スピードアップ。とうに12時を回っているにだから、みんな腹ぺこなのだ。道路脇の鉄塔から右に折れ、送電線下の作業道を辿ると間もなく湿原が展かる。アカエゾマツの濃い緑、ワタスゲの白い毛搶、エゾカンゾウのみずみずしい黄色の対比が絶妙だ。イワイチョウが群生し、スゲの間からツルコケモモやツマトリソウの小さな花がのぞき、ミズゴケやモウセンゴケもある。ここも他の湿原の多くと同様乾燥化が進んでいるそうで、なるほどササが幅をきかせジワジワと湿地を狭めている。踏み荒らしを避けるべく作業道を辿って湿原を突っ切る。踏みしめる度にジューと音がして水の匂いが立ち込める。ササの中の2本目の鉄塔の周囲は構築時の工事跡も瞭らかに、黒い粘土分の多い泥炭層が剥き出しになっている。おどろいたことに、崩れてはいるが地面に喰い込んだ一年前のクマの爪跡が残っていた。これがクマの前肢で、こっちが後肢で、こうして顔を向けたのだと身振り手振りで説明すると、笑う人あり、真顔になる人あり、ササ薮を窺う人ありとさまざまな反応だ。他の送電線との間を縫う形の砂利道の下を小さな川がくぐっている。小川は下手で浅く広がり田んぼのようになっていて、シナノキンバイの群落が得意気に金ぴかの花を競い合っている。およばずながら私もと、ミヤマキンポウゲも小さい金ぴかの花を咲かせている。ミズバショウは大きな葉を自慢しているように見えるしネジバナは捩り鉢巻きで、道端の小砂利の中からピンクの花を立ち上がらせている。すぐさま花を観察する人がいるかと思えば、もうおにぎりをぱくついている人もいる。私はもちろん食欲組。遠景に残雪まぶしい無意根山や中岳、中間にアカエゾマツ、目の前はシナノキンバイの花盛り。流れの水音と野鳥の囀りがこの風景をさらに引き立ててくれる。先程まで快くさえあった残雪の冷気を運んでくる無意根おろしが、いやに寒々と感じられる。

ボタニカ11号

北海道植物友の会