野菊

國兼 治徳

 

 野菊はいつも清楚である。
 私の野菊は二つのことに連なる。一つは國民学校(現小学校)時代の唱歌と、他は「野菊の墓」である。

          野菊

 一.遠い山から吹いて来る
   こ寒い風にゆれながら
   けだかく、きよくにほふ花
    きれいな野菊
    うすむらさきよ
 
 二.秋の日ざしをあびてとぶ
   とんぼをかろく休ませて
   しづかに咲いた野べの花
    やさしい野菊
    うすむらさきよ
 
 三.しもがおりてもまけないで
   野原や山にむれて咲き
   秋のなごりををしむ花
    あかるい野菊
    うすむらさきよ      (注1)
 
 これが國民学校初等科時代にならった唱歌である。私はこの歌詞の一番の二小節しか思い出せなかった。この文を書くために、北陵時代のN先生(音楽担当)に賀状に添え書きをして教えを請うた。先生は奥さんと二番まで歌詞を思い出され、メロディを譜に起こし待っておられた。電話をすると早速ピアノを弾いて歌ってくれた。私は受話器越しに一緒に歌った。さすがである。この歌が今の小学校で歌われているかどうかわからないが、いい歌だと思う。
 私は一己で初等科を卒業した。いつの学芸会であったか不明だが、私は級友と二人で国語の朗読をした。そしてその朗読の前に、近所の公宅に住んでおられたI先生の娘H美さんがこの「野菊」を独唱した。私は幕の陰で聞き、その上手なのに驚いた。
 I先生はもの静かな感じの女の先生で、直接習ったことはないが、私は何となく先生の雰囲気が好きだった。どんな事情かわからないが、I先生はH美さんと二人暮しであった。ただ、一時期先生の妹さんと云う方が同居していたが、猖紅熱で急逝された。たしか二十才を越えておられなかったと思う。この病気は伝染病で、先生の公宅は丸ごと消毒され、しばらくは側を通っても臭いがした。H美さんとは一軒置いた隣だから、時には一緒に遊んだこともあったと思うが、あまり記憶にない。一度、招待を受けて私一人だけがご馳走になったことがある。多分、中学校合格の時でないかと思う。どんなご馳走か一向に覚えがないのに、ストーブの煙筒を妙に記憶している。その煙筒には針金の防護網がまいてあった。ここからは全くの想像だが、呼ばれて行ったがご馳走の出るまで所在なく、煙筒の陰にでも突っ立っていたのだろうか。あるいは手で防護網に触れたかも知れない。三月下旬であれば、まだストーブははずされない。 それから大学生の頃に記憶は飛んでしまう。夏休み、先生に会いに行った。たしかボーイスカウトの関係で深川へ行った折で、先生のお宅にもお邪魔した。当時、母校は深川寄りに移転していたし、先生の公宅も移っておられた。
 更に平成に飛ぶ。一昨年(平成四年)春、藻南公園観察会で、会員のOさんから
「I先生をご存じですか。Iさんとは何年も前からおつき合いをしています。一度会いたいとおっしゃっています。」
 と声をかけられた。Oさんが会誌「菩多尼訶」をI先生に見せたことが、私につながった。私もお会いしたいと思った。約四十年ぶりに先生にお会いした。娘のH美さん宅と隣合わせで、一度にお二人に再開した。I先生は、私を「ちゃん」付けで呼んでいいかとおっしゃる。私を昔の愛称で呼ぶのは姉達ぐらいで、他にない。私は一気に小学校時代に戻ってしまった。I先生は現在小説を書いておられる。戴いて読んだが、平安王朝もので古典を熟知された立派な作品である。作家の高橋揆一郎氏が書評欄でとりあげ、単なる趣味の著作ではないと褒めている。H美さんも昔の雰囲気の儘であった。この方が「野菊」を歌った。その時はそんな話にもならなかったが、一己が共通の土俵で、いつまでも話は尽きなかった。
 唱歌「野菊」は初等科音楽一(第三学年用)の三十八ページから四十一ページに載っていた。しかし作詞家も作曲家も掲載されていない。国定教科書だからだろうか。そして、この野菊の正体は何だろう。歌詞から察するに、花色は薄紫、花期はトンボの飛んでいる頃から霜の降りる頃と云うから八月〜十月、生育地は野原や山、分布は東京中心に教科書が編纂されたと考えて関東地方、若干のにおいがあると云うことになる。広辞苑(第四版)の「のぎく〔野菊〕」の項に
 (1)野に咲く菊。ノコンギク、ノジギクなど。
  (季・秋)(日葡)
 (2)ヨメナの別称
と出ている。又、「四季の野草・秋」(山渓)の野ギクの仲間の項に
「植物学上で野ギクという場合は、キク科のキク属をさすが、ここではよく似たシオン属、ヨメナ属、ハマベノギク属も一括して野ギクの仲間に入れてある」と。そして十二ページにわたりカラー写真で各属の何種かを紹介している。
 第一、ノギクと云う和名はキク属にない。只、サツマノギクとかナカガワノギクと地名のついたノギクはあるが、花は白色である。秋に関東地方で咲く薄紫のキクは、シオン属のノコンギクとコンギク、ヨメナ属のユウガギクとカントウヨメナが該当する。しかし、歌詞の印象から山野に最もふつうに見られると云うノコンギク Aster ageratoidesにしたい。コンギクは舌状花が濃青紫色、ユウガギクは薄すぎる。カントウヨメナは葉が厚く、清楚な感じにほど遠い。道内ならさしずめエゾノコンギクがピッタリだと思う。
 
 私の野菊はもう一つ「野菊の墓」を想起する。アララギ派の歌人伊藤左千夫の小説である。この小説を読んだきっかけは、木下恵介監督作品「野菊の如き君なりき」である。この野菊は何だろう。「…民さんは野菊のやうな人だ」のくだりがある。政夫と民子の二人が山の畑に綿つみに出かけた時の会話である。この日は陰暦九月十三日と書いてあるから、今の暦の十月十七日で、場所は現在の千葉県松戸市に近い矢切の渡のそばの矢切村での純愛物語である。水蕎麥蓼が一番多く繁り、都草の黄色の花が見えた頃の野菊、文のどこをさがしても花の色は書いていない。只、野菊を連想させる一節がある。
「眞に民子は野菊の様な兒であった。民子は全く田舎風ではあったが、決して粗野ではなかった。可憐で優しく優しくてさうして品格もあった。厭味とか憎氣とかいふ所は爪の垢ほどもなかった。どう見ても野菊の風だった。」   (注2)
 私はこの野菊もノコンギクにしたい。たしか映画では、二人が野菊の咲いている中を歩いたと思い家内に聞いたが、家内の見たのは山口百恵の「野菊の墓」だと云う。娘が蔵入りのビデオ「野菊の如き君なりき」を借りてきた。二人が歩くシーンで野菊も出たが、白黒映画だから花は断定できなかった。でもノコンギクかも知れない。只、お蔵入りしていただけに映像が悪く、折角の雰囲気が半減した。懐想部分が楕円のアングルで、幻想的だったのに残念だった。
 
 私がエゾノコンギクを知ったのは滝川高校に勤めてからである。従って、小学校時代「野菊」を習った頃は、関心もなくまた住んでいた周りに野菊が咲いていたかどうかも記憶にない。ただ、歌詞の一部が常に頭の隅に残っていて今日に至った。そしてこの歌はH美さんを、更にI先生へと思い出の系譜になっていた。
 
(注1)日本教科書大系 近代編25巻 唱歌
     p.441より(講談社・昭40)
(注2)伊藤左千夫「野菊の墓」 p.182より
    現代日本文學全集11(筑摩書房・昭50)
 
 

ボタニカ10号

北海道植物友の会