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たくげんそうおん 沢彦宗恩 ?〜一五八七(?〜天正十五)
臨済宗妙心寺派の僧。美濃を平定した織田信長の依頼で岐阜の名と天下布武の印章を選定した。信長という名も沢彦が選んだという説もある。
たけだたかのぶ 武田高信 ?〜一五七三(?〜天正元)
因幡国の国人。因幡守護、山名豊定の家臣。天文年間後期、因幡守護家と但馬守護家との抗争拠点となった久松山城の城主を自ら買って出て、山名家中での勢力を強める。永禄三年(一五六〇)、山名豊定が死去したのを機に、次第に山名家の実権を奪っていく。永禄六年、豊定の後を継いだ山名豊数を追放し、鳥取城乗っ取りを果たす。福田光信ら他の国人を傘下におさめ、山名家の侵入をよく防ぎ、鳥取城に約十一年在城した。しかし、天正元年(一五七三)、豊数の弟、山名豊国が、山中鹿之助と手を結び、鳥取城を奪回、高信は、鳥取城で病気のため陣没したと伝えられる。墓は、鳥取県河原町大義寺にある。
たけだのぶざね 武田信実 生没年不詳
安芸の武田元繁の甥。繁清の子。元繁の子光和の死後、光和の甥信重と武田家の家督を争う。家督争いの隙を突いた毛利元就の攻撃を受け、出雲に逃亡する。
たけだのぶみつ 武田信光 一五五四〜一五八二(天文二十三〜天正十)
(左衛門佐・信雅)甲斐武田家の親族衆。信友の子。百騎を付される。勝頼の代に働き、長篠合戦にも従軍。天正10年3月、武田崩れの時には岳父の小山田信茂とともに勝頼を裏切る。戦後、逆臣の行為を信長より嫌われ、甲斐善光寺にて討たれた。
たけだもとしげ 武田元繁 ?〜永正十四(?〜一五一七)
安芸守護。古の項羽になぞらえられる程の剛勇で知られる。大内義興と対立。永正十四年(一五一七)、大内方の毛利元就に敗れ戦死する。