かきざきすけいえ 柿崎祐家 生没年不詳

(源三)上杉謙信の家臣。柿崎景家の嫡男という。天正元年(一五七二)、越中朝日城攻めで一向一揆と銃撃に遭い、のちに病死したと考えられる。

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かきざきのりいえ 柿崎憲家 生没年不詳

(千熊丸・弥次郎・能登守)上杉景勝の家臣。謙信によって誅殺された重臣柿崎景家の末子あるいは孫といわれる。天正六年(一五七八)の御館の乱に景勝に味方して、柿崎家の名跡を再興した。慶長二年(一五九七)、改易されたが、寛永年間になって再出仕した。

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かすがかつよし 春日勝賀 ?〜一五八三(?〜天正十一)

弾正忠。春日虎綱(高坂昌信)の子。海津城代として武田勝頼に仕えるが、その滅亡後、上杉景勝に帰属。北条氏直に内応したかどにより上条宜順によって処断される。

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かたくらしげつな 片倉重綱 一五八五〜一六五九(天正十三〜万治二)

(左門・小十郎・重長)伊達政宗の懐刀・片倉小十郎景綱の嫡男。慶長五年(一六〇〇)、白石の合戦に出陣。両度の大坂の陣で功をあげる。特に元和元年(一六一五)、夏の陣においては、道明寺口の戦いで後藤基次、薄田兼相を討ち、「鬼の小十郎」と世評される。慶安四年(一六五一)、一家に列した。片倉氏の居城白石は一国一城令ののちも残る。万治二年(一六五九)三月二十五日没。法名一法元理真性院。墓所は白石傑山寺。室は真田幸村の女。

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かのうしゅぜん 狩野主膳 生没年不詳

(刑部)北条氏照家臣狩野一庵の男。一庵が氏照の侍女との間にもうけた子で、氏照の落胤という説もある。主家滅亡後、浅野氏に仕官。

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かみいずみよしたね 上泉義胤 一五九二〜一六七二(文禄元〜寛文十二)

(孫次郎・民部・権右衛門・秀信・義郷・宗重・是入)父は上泉秀胤。剣聖・上泉伊勢守信綱の孫にあたる。陰流はおさめず、父の師匠・長野無楽斎(林崎甚助門流)について居合抜刀術を習得。無楽流上泉派居合および民禰流を流名とする。諸国遍歴の後に柳生利巌の推挙によって尾張徳川家に仕える。没年には正保四年(1647)説もある。

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かみいずみやすつな 上泉泰綱 一五五二〜一六〇〇(天文二十一〜慶長五)

(主水)山内上杉氏の家臣。のちに北条氏に属すが、主家滅亡後、浪人。慶長二年(一五九七)上杉景勝に仕える。慶長五年、陸奥国信夫の合戦で伊達政宗と戦う。同年、直江兼続の最上攻めに従軍し、九月十九日、長谷堂において戦死。

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かわいただとお 河井忠遠 ?〜一六〇三(?〜慶長八)

(伊勢守)佐竹義重・義宣の家臣。秋田転封後、渋江政光暗殺を企てたかどで義宣によって誅殺される。

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