柿崎景家 | ?(?)―天正二(1574)
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![]() 弥次郎、和泉守。上杉軍団切り込み隊長。七手組。謙信をして「分別があれば越後七郡に敵すべきものなし」と言わしめた猛者。 奉行として内政面で活躍したことは意外と知られていない。 しかし、世評は必ずしも芳しいものではなく、好色、残忍、裏切り者の烙印をおされ、死後、亡霊となって謙信を苦しめる役どころになってしまっている。が、その領地であった柿崎町では今でも慕われている。 天正二年、織田信長に馬を売ったことの礼状を謙信に伝えていなかったため、内通と見なされて誅殺されたというが、子の晴家は変わらず奉公しているので、これは誤りらしい。晴家は越相一和の折、北条方へ人質として赴く。のち越後へ帰国し、天正五年、越中水島で織田信長に内通した罪で殺された。この事件が混同して伝えられたものか。晴家の遺児千熊丸は御館の乱において景勝方につき、柿崎家を再興している。 景家の墓所は新潟県楞厳寺にある。同寺には「柿崎景家夫妻肖像画」が伝わっている。 |
鬼小島弥太郎 | ?(?)―?(?)
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![]() 正しくは小島一忠。謙信の用心棒的存在。 有名なエピソードとしては、信玄の陣所へ使いした時のものがある。弥太郎は、信玄がわざとけしかけた猛犬に腕を噛まれながらも顔色ひとつ変えずに主人の口上を述べた後、腕を一振りしてこの犬を叩き殺してしまったという。とかく虚構・伝説の人と見られがちだが、れっきとした実在の人物である。 墓所は曹洞宗英岩寺(長野県飯山市)と伝えられ、弥太郎はこの地で討死にしたものと思われる。また、新潟県長岡市には弥太郎が開基となった龍隠院があり、ここには弥太郎の遺品などが伝えられている。法名大功徳主福聚院殿無量徳海入道大居士。 |
斎藤朝信 | ?(?)―?(?)
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![]() 下野守。赤田城主。旧守護上杉家の四家老でもとは謙信の長尾家とは同格であった。「越後の鐘旭」とうたわれ、行政手腕に優れる。謙信没後は景勝に仕えた。天正末年に没したという。 |
色部勝長 | ?(?)―永禄十一(1568)
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岩船郡小泉庄平林城主。永禄四年、川中島の合戦において先鋒柿崎隊の危機を救った戦功により、有名な「血染めの感状」を受けた。関東出陣に際しては、下野佐野城を守る。永禄十一年一月、本庄繁長を攻囲中に没した。 |
直江景綱 | ?(?)―天正五(1577)
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実綱、大和守。入道酒椿。与板城主。謙信の初期政権では本庄実乃、大熊朝秀とともに執政を掌る。以後、謙信の晩年にいたるまでおもに内政・外交面で活躍した。晩年は越中石動山城主となる。男子なく、総社長尾家の景孝(大和守信綱)を養子に迎え、嗣子とする。 |
長尾政景 | 大永六(1526)―永禄七(1564)
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![]() 越前守。上田長尾当主。室は謙信の姉仙桃院。坂戸城主。上杉二十五将の筆頭。 父房景とともに若き謙信に反抗したが、守護上杉定実の調停により降服した。武勇にすぐれ、謙信の副将として信任された。謙信が出奔事件を起すと、これを翻意させたのは政景の説得による。謙信の関東出兵に際しては、春日山城留守居を任された。 のちに宇佐美定満と野尻池に遊び水死。この事件についても、政景の謀反による謙信謀殺説が流布している。この出所はおもに軍記物で、越後を追われた宇佐美家の手になるものが多い。上杉の正史には単に水死と書かれている。 米沢市常慶院には「長尾政景夫妻画像」が遺っている。 次子喜平次顕景は政景の死後、謙信の養子となり、さらに家督を相続する。娘はそれぞれ上杉景虎、上条義春に嫁している。 |
本荘繁長 | 天文八(1539)―慶長十八(1613)
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![]() 弥五郎、越前守。勇猛な将士が多い揚北衆の中でも一匹狼的存在。 武田信玄と結び謙信に抗した折も、結局は葦名氏の調停で帰順したが、戦闘では負けていない。天正十六年、最上義光を破り、出羽庄内地方を征圧す。謙信に異見してはばからない叛骨精神は、天下人豊臣秀吉に対しても変わらず、一時その勘気にふれて蟄居させられている。上杉家の会津移封に際し、福島城を預かる。慶長五年、上杉領を侵した伊達政宗を福島に撃退す。 馬術にかけては「一に謙信二に繁長北条桃井負けず劣らず」と評された。また、その佩刀正宗は本阿弥光悦の折紙つきで、徳川家康に買い上げられた。 |
河田長親 | ?(?)―天正九(1581)
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豊前守。近江守山出身という変わり種。永禄二年、謙信が上洛した折、これに見出される。河田一族は以後、重要なポストを占めていく。信長が召し抱えようとしたが、長親は応じなかった。御館の乱では越中・能登の兵を糾合して景勝方につき、その勝利を決定づけた。その後、信長の誘降にも応じず、越中の上杉方拠点を堅持した。 |
北条高広 | ?(?)―?(?)
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厩橋城代。謙信の関東拠点を守る重要な地位にあったが、武田・北条氏などにたびたび内通し、去就が定まらなかった。子の景広は御館の乱で戦死、高広は行方不明となっている。 |
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