174「木津川口戦勝始末」



児玉就英(?―?)

内蔵大夫、内蔵丞。児玉就方の子。毛利元就、輝元に仕える。元亀元年(一五七〇)、出雲を攻め、尼子氏の水軍を破る。天正四年(一五七六)七月、木津川口海戦で織田水軍を破り、石山本願寺へ兵糧搬入に成功し、輝元から感状を受けた。天正六年二月、水軍を率いて淡路に移り、岩屋城を守備する。後に広島築城にあたり、輝元から本願地草津からの退去を命じられ、一時は拒絶したが、小早川隆景らの説得によりこれに従った。

◆織田信長の軍勢によって攻囲中の石山本願寺内では、糧食の欠乏に悩まされていた。天正四年(一五七六)、本願寺の法主顕如は中国の毛利輝元に援軍の使者を送る。輝元はこれを快諾し、飯田元著および大多和就重の両将を大坂城に派遣する一方、福間元明、児玉就英、井上春忠、乃美宗勝、村上元吉、村上吉充ら安芸・備後・伊予の水軍七百余艘を差し向けた。

◆毛利水軍は六月はじめに淡路を占領し、ここを基地とした。翌七月十二日、岩屋を発して和泉国貝塚へ至り、雑賀衆と合流。十三日に堺、住吉を経て木津川口に進撃した。河口を封鎖して待ちうけていた織田軍に、毛利水軍は一斉攻撃をしかけてこれを退けた。十四日早朝までには織田水軍は壊滅し、淡輪主馬、沼間伊賀守らが戦死したといわれる。

◆本願寺に糧食を搬入し、当初の目的を達した毛利水軍は安芸へ帰還することになったが、その毛利の諸将の中でひとり、高砂に舟がさしかかった時に声をあげた者がいた。

◆舟手の大将児玉内蔵大夫就英であった。

就英「古の桓温、嘗て枕を撫し嘆じて曰く、男子芳を百世に流るること能はずんば、亦当に万年に嗅を遺すべし。わしは如何なる悪逆をなしてでもわが名を末代にまで残してやるぞ」

桓温は東晋の人である。帝をも凌ぐ威勢と野心を持ちながら、帝位簒奪一歩手前で病死した。

◆高砂に「相生の松」という名所がある。古くから歌にもうたわれたが、世阿弥作の能が有名である。阿蘇から出てきた神主友成は高砂の浦で出会った老夫婦(実は松の精)に「高砂と住吉と離れた場所に立っている二本の松が、どうして相生の松と呼ばれるのですか」とたずねる。相生の松とは、普通は根が一つで雌雄の幹が左右に分かれた松のことで各地にある。老夫婦は「遠く離れていても夫婦の心は通じ合うので、相生である」「松は千年も色が変わらないのでおめでたいものなのです」と答え、友成に「住吉神社で待ってますよ〜」と告げて消え去る。その後、友成が高砂から住吉の浦へ赴く謡曲の部分を結婚式で聞いた人もいるかもしれない。

高砂や この浦舟に 帆を上げて
この浦舟に帆を上げて
月もろともに 出汐の
波の淡路の島影や 遠く鳴尾の沖過ぎて
はや住之江に着きにけり
はや住之江に着きにけり
この二本の松のうち、高砂神社のほうを児玉就忠は引っこ抜いてしまったのである。そればかりか、船中の薪がわりに燃やしてしまった。

◆就英の所業は悪逆というよりは心ない行為というべきで、いわば「生木を裂く」そのもの。この点、引き合いに出された桓温とは釣り合わぬこと甚だしい。現代から見れば、これをもって就忠に奸雄・逆臣・悪党・奸賊のようなネーミングを冠することは到底できない。いわば、若者や酔っ払いが器物を損壊させたり、マナーを逸脱する行為に等しい。ただし、相生の松を薪にしたのが木津川口海戦直前だったら、まだしも逸話として成り立ったかもしれないが、戦勝気分でやった所業であれば、やはり酔っ払いかお調子者のレベルであろう。

◆さて、就英はといえば、たちまち神罰がくだって、白癩の身となり眉も髭も落ちてしまった。「もし人不善をなし、名を顕はすを得る者は、人を害さずとも天必ずこれを誅す」と古人も云っていることは誠なるやとぞ覚えける、と『陰徳記』は伝えている。最近は有名になりたい、注目を浴びたいという理由だけで犯罪を犯す者がいるが、自分の卑小さを世間にさらけ出すだけであろう。

◆実際に就忠が相生の松を切ったのかどうかはわからない。松の名所でもあるので、そのうちの一本を切ったのかもしれない。天罰で一瞬にしてじじいになりはしなかっただろうが、天正末年、広島城を築くことになった毛利輝元によって本拠地を追われる羽目になった。そちらのほうが天罰であったかもしれない。

◆現在も高砂神社境内に五代目の「相生の松」がある。しかし、これを引っこ抜いたところで、児玉就英の「汚名」はあまり伝わっているとは言えない。むしろ、木津川口海戦の勝利者の名で知られているのは皮肉なことである。




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