173「埋忠の槍、蛮人の遊戯に供される事」



埋忠明寿(1558―1631)

橘重吉、宗吉、彦次郎、鶴峯。明欽の子。京都西陣で刀剣に関する諸工作を行った「梅忠派」の刀工。三条小鍛治宗近二十五代目を称す。初銘は宗吉であったが、慶長初年頃に入道して明寿と改めた。特に鍔の製作で知られる。象嵌、刀剣の磨り上げ、金具の製作を家業とし、刀剣製作はむしろ余技であるが、刀身彫刻の斬新な作風から新刀鍛治の祖ともいわれる。足利義昭、織田信長、豊臣秀吉に仕えた。門弟からは肥前の忠吉や安芸の輝廣など新刀期を代表する名工が輩出している。金家・信家と共に桃山時代の三名人にかぞえられる。

◆埋忠家は代々、足利将軍家の御用刀工であった。明寿も足利義昭に仕えている。以後、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、徳川秀忠と歴代の権力者に厚遇された。明寿の作品は実戦ではなく、むしろ諸大名などへのプレゼントとして重宝された。

◆諸大名への贈答用に重宝された埋忠明寿の作品群であったが、その彼が自分で作ってあまりに出来がいいので「人の手に渡すのが惜しくなってしまった」という逸品が京都国立博物館に収蔵されている。作例が極端に少ない太刀で、裏銘には「慶長三年(一五九八)八月日 他江不可渡之」とある。快心の作だったのであろう。相馬家に伝来したもので、ちなみに太刀はこれ一振りしか確実な作品はなく、他は偽物と疑ってかかったほうがよいそうである。

◆米沢上杉家には、「埋忠作」と銘がある十筋の槍(重要文化財)が伝わっている。文禄三年(一五九四)十月二十八日、豊臣秀吉が上杉景勝の邸に来駕の折、二十筋贈られたもののうちの十本である。銘は「城州埋忠作 文禄二年十二月日」とあり、金具は赤銅魚子地に五三の桐紋が高彫りされている。戦前になって上杉家から上杉神社に寄進されたもので、同じものが十筋も揃っているのは珍しい。しかも身も拵えも製作当時のままである。

◆雨傘もブランドものになると、「雨の日にささないでください」という注意書きがあるのだそうだ。埋忠明寿が製作した象嵌をほどこした槍や刀も同じようなものなのであろう。もっとも、最近の研究(鈴木眞哉『刀と首取り』など)によれば、刀は贈答品であって、実戦に使用されても、槍や飛び道具がなかった時か、首斬りの段階ぐらいだったらしい。それは刀だけが大量に今に伝わり、槍や鉄炮が少ない事情を反映しているという。

◆もちろん、米沢上杉神社の槍十筋も実戦に使用された形跡はない。ただあちこちに擦り傷がめだつ。太刀打ちの朱塗り部分も所々はげている。地元の話では、終戦直後、米沢市に進駐してきた米軍兵士たちが、槍投げ用に使ったということである。残る十筋はこの時に接収されたともいわれている。

◆米兵の行為には、相手国の神性、古美術品への愛着、畏敬、は微塵も感じられない。おそらくは「ヘイ。こいつらはこんな槍で俺たちと戦おうとしてたんだぜ」と小馬鹿にするような態度で神社に押し入り、奉納されていた槍を持ち出して遊戯にふけったのであろう。このようなエピソードを聞くと、美術品として略奪され、海外へ持ち去られたほうがまだしもと思うこともある。もっともこの間のイラク戦争で国立博物館から宝物が略奪される行為が映像で流されると、金儲けという卑しい部分が露呈して見るに耐えない。槍投げに興じているほうがいいのだろうか。

◆それにくらべて明治にやって来た外国人――主に欧州だが――美術を解する鑑識眼を備えていた人々が多かった。結果、多くの日本美術が海外へ流出したわけだが、幸か不幸か、槍投げに興じた人々は無教養だった。埋忠の槍はわが国に残った。いかにも歴史のない国柄らしい。

◆接収されたという十筋の埋忠の槍は武器と認定されて処分されたのであろうか。それとも兵士たちの「おみやげ」として持ち帰り、海を越えて、今も彼の地のどこかに眠っているのだろうか。西部のどこかの農家の納屋で、藁と埃にまみれて、すっかり錆びついた姿を想像してしまう。




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