黒幕は豊臣秀吉だ

私は、実は秀吉なんじゃないかと思ってます。動機も十分だし、なんか、中国大返しにしてもタイミング良過ぎですよね。光秀にしても、安心しきってたような感じもしますし。妄想を膨らませば、秀吉、家康、光秀の密約があったりして。家康が京を逃れた後、旧武田領の切り取りに腐心して京にあまり熱心でなかったのも怪しいし。まぁ、素人の妄想ですが(^^;
専門家の方々が最終的に否定しているような感じがしますので、何か決定的な否定的根拠があるのでしょうか?(Mook)

黒幕は光秀ではない

学校の授業で黒幕は明智 光秀ではないと聞きました。(名無しさん)

天皇、朝廷を含めた藤原一族こそ・・・

実行犯である惟任日向守光秀を除くならば、最大の黒幕は藤原一族でしょうか。(組長や紀香ではない)
藤原一族とは、すなわち朝廷や、一族の象徴である天皇であるということです。信長の朝廷に対する行動に不安を抱いた藤原氏が、光秀をたきつけ暗殺を成功させた。そして、信長の後継者秀吉は、朝廷の思惑どおり関白職を喜んで拝して朝廷庇護者となり、以後、締め付けを喰いながらも三百年以上にわたって一族を継承し続けた。信長との主従関係に不安を抱き始めていた光秀に踏ん切りをつけさせた「黒幕」は、藤原一族、そして血縁的には藤原氏とも呼べる天皇ではないかと思います。(匿名希望)

黒幕はやはり朝廷

光秀単独犯ではない、と思っております。黒幕となると、矢張り朝廷でしょうか。で、朝廷との橋渡し役が細川幽斎。光秀は信長が活用していた人物なだけあって、矢張り冷静で優れた人物なのです。悪く言えば計算高い。私憤私怨で事を起こすなど、天下が見えている時に無駄な事はしないでしょう。ならば謀反などという暴挙は単独ではしない筈。やるとしたら手回し根回しは周到に行われていた事でしょう。しかし後々の事など全く考えていなかったというような事後処理の手際の悪さ。『謀反』とは成功させないと共倒れになる可能性を充分持ち合わせているのにも拘わらず。用意周到な光秀が単独で起こした事ならば、少なくとも天王山であっけなく負けることは無かったと思います。若しくは信長に事前に察知されていたか。縦しんば天皇すら引っ繰り返す力を持った信長に対して含むものがあったとしても、彼一人では決行出来なかった。光秀は確かに使えた人物。しかし惜しいかな、人間としての度量が狭く、頂点の器も持ちえていなかった。つまり光秀は家臣という立場でのみ力を発揮できる人で、担ぐ神輿が無いと何も出来ないのです。頭の回転は速いが、信長や秀吉の様な柔軟な精神の持ち主とは言えない。要は優等生の『常識人』。武家は厭くまで朝廷の臣である、という有職故実から逃れられなかったと。其処を幽斎に付込まれたと考えます。もしも『逆賊・信長を討て、と勅命が出た』なんて言われたら?『常識人』の光秀からすれば『勅』ほど重きを為すものはなくて。否、『勅』を出されてしまった時点で彼の道は決まってしまっていたのです。仮にその『勅』を断ったとしても遅かれ早かれ信長には知られるでしょう。猜疑心の強くなってしまった信長に知られたら、その結末は火を見るより明らか。『勅』を断っても、自ら『勅』の事を言上しても信長にとっては『密勅』が光秀に出されてしまった事自体が問題。なぜ故に光秀なのか。つまり光秀なら『勅』を実行しそうだと思われている。若しくは思われる言動をしている。信長には其れだけで充分の筈。と、幽斎に諭されるまでも無く、光秀なら自分の末路が見えたでしょう。で、朝廷は此処でもう一工夫。謀反を起こした逆臣を天下人にする訳にはいかないのです。光秀に信長を討たせた後は、光秀を切り捨てる、と。『死人にくちなし』という事。光秀は頂点に立てない、其れだけの器でない事も朝廷は知っていたのでしょう。使い捨て、には丁度良い人物であったのです。かといって最早自力では如何にもならなくなっていた朝廷は次なる者に白羽の矢をたてました。其の者の為に主君を討った逆臣を討伐するという、何とも華々しい舞台を用意して。その舞台を見事演じきったのが猿面冠者。稀代のカリスマ、日本史上最高の英雄は、己の事しか考えない黴の生えたる奸どもの策に嵌ったのです。流石は無駄に続いておりませんね公卿社会。様々な手法が培われていたようで。己の手を汚さず、血も浴びず、傷付く事も無く、保身の謀略のみは長けていたと。つくづく、織田信長という男の存在が惜しまれます。(匿名)

徳川家康が平氏将軍阻止を教唆

1582年4月、朝廷は織田信長に征夷大将軍、関白、太政大臣のいずれかに就くよう勧められる。織田家は源・平・藤・橘の内、平氏にあたり、信長が将軍職に就けばそれまでの慣例(将軍職は源氏たるべし)をうち破ることとなり、また源氏を名乗る戦国大名たちは将軍への夢を絶たれることとなる。徳川家康・明智光秀らがそれにあたる。本能寺の変当時の織田家状況を見てみると、柴田勝家ら北陸勢は越中の上杉領へ侵攻中。羽柴秀吉ら中国勢は備中にて毛利家と対陣中。滝川一益・河尻秀隆は旧武田領の統治に着手し始めたばかり。織田信孝・丹羽長秀は四国への侵攻準備中。織田信長・織田信忠・明智光秀は中国方面への加勢準備中。つまり織田家は各方面へその勢力の大半を注ぎ込み、天下統一へ邁進していた。しかし「それ以外の地域」は当然手薄となり、ひとたび「それ以外の地域」で戦火があがれば(事実、光秀が謀反するのだが)、織田家が危機的状況に陥るのは必然であった。ここで信長の将軍職就任阻止を目論み、家康が尾張または甲斐から織田領へ侵攻すると第三次織田家包囲網を布く事ができる。武田信玄在中のころに比べると織田領は広範囲にわたっているため、たやすくそれに対応する事ができないと思われる。当然、信長がこのことに気づかぬはずはなく、中国遠征準備中のこの時期に家康を上洛させ、大いに歓待(懐柔)した。しかし見方を変えれば、家康を畿内に釘付け(体の良い人質)してる内に中国遠征を片づけるか、もしくは将軍職を拝命してしまえば、家康の機先を制することになる。そこで、家康は平氏将軍阻止の大義名分のもとに、光秀に信長を討つよう唆す。故事や慣例の大好きな光秀は、個人的な感情も含めてこれに賛同した。しかし家康の誤算は、光秀も将軍職を欲しており、信長と同時に源氏のライバル家康も葬ってしまおうと考えたことであった。本能寺の変後、家康は危うく命を落とすところであったが、平氏将軍阻止は達成でき、また20年を経て自身が将軍職就任を果たした。これはあくまで暴論であるが、あくまで徳川家康と言う人物が大戦略家であったゆえである。また平氏将軍阻止起因説は歴史家にもよく語られている一説である。(畠山義澄)

黒幕は足利義昭だ

やっぱりこの人でしょう。光秀が織田家臣になる前の主ですし、義昭に背いて織田に走った後も影響力があったのでは?信長と光秀は母親見殺し、諸将の前での折檻、比叡山焼き討ちなど遺恨が多数あったのでそこを義昭ににつけ込まれたとも考えられる。信長は将軍家は大切にしなかったが天皇家は丁重に扱ってるような気がするし。京都を逃げ出したあと誰からも相手にされず(毛利にも大切にはされなかったみたいやし)一発逆転をかけたのでは。(ハロ)

明智光秀による怨恨説

本能寺の変は、光秀の怨恨説、野望説、それから他者の黒幕説に大別されると思います。 私は怨恨説を採ろうと思います。理由は私の戦国武将に対する思い入れからです。 黒幕説を採った場合、当時の人々(身分を問わず)の誇りを汚すような気がしますし、光秀自身からも叱責を受けてしまいそうです。野望説は論外と言い切ります。光秀の才幹(野心のみで戦略なし)と、光秀の才幹を重用した信長(無能な野心家を重用)と、農民や海賊や盗賊でも才幹次第で大名になれる織田家(他家では絶対無理)を否定することになるからです。怨恨説とは言っても、主に江戸時代に入ってから出てきた話(領国転封、甲斐攻めの際の顛末、叡山焼討)ではなく、もっと私怨を感ずること。極端な話、光秀の娘、玉子に関して何かあったのでは?(笑わないでね)とさえ思うのです。少なくとも光秀らしくない、非常に感情的な暴挙で、義憤という線も消えそうですしね。正直、怨恨説も嫌いなのですが、当り障りがなさそうなので。(ガリンシャ)

下手人は前田慶次郎だ

犯人は前田慶次郎です。 間違いありません。信長と遊んでいるときに誤って殺してしまい、”冗談だったんだ”と言い残し京の方角へと逃亡したのです。”信長死す”との報告を受けて駆けつけた、明智光秀こそいい迷惑であったでしょう。(ガリンシャ)

四国経略の方針転換をめぐって

怨恨説・野望説・黒幕説などありますが、これらが複雑に絡み合っていたと思います。その中で光秀にとって、土佐の長宗我部元親もある程度当てにしていた存在ではないでしょうか。信長政権において申し次ぎ役というのがありまして、光秀は四国担当でした。同じように秀吉は中国担当。阿波・讃岐の三好の残党が長宗我部に攻められ信長に助けを求めたとき、本来なら光秀を通すべきところ、秀吉を通しました。(後に秀次は一時三好家の養子になっています。)その理由については、当主元親の妻が明智家臣斎藤利三の妹であり、明智家とあるていどのよしみがあったためと思われます。長宗我部は光秀の取次ぎで、早くから信長に通じ、長子信親は信長の信の字をもらったほどですが、当時信長のお気に入りだった秀吉の取次ぎにより三好支援・長宗我部征伐の方向へ傾き、光秀も四国の申し次ぎ役を解任され(元親の妻の縁で内通を疑われた?)秀吉の支援(山陰攻略)にまわされます。このことが光秀と秀吉・信長との不和を招いた原因のひとつになったと思われます。他の説と同様、元親が光秀に信長殺しを教唆した証拠はありませんが、畿内を押さえた後、自らの強力な同盟者になると当てにしていたと見ていいでしょう。(夏草)

光秀の暴走

当時の光秀はもう50歳も大きく超え、今で言えば70歳近い感覚であったと思われる。長年、信長に仕え領地を得、施政に精を出す。領民にも慕われたりする。そんな時に「おい、中国で喧嘩して来い。」と言われた。おまけに「勝ったらそこをアゲル。」とかも言われた。
「もう勘弁してよー。」おじいちゃんになった光秀は疲れていた。
「そんな体力も、寿命も残ってねーよ。」
「イチカバチかやってみるか?」
そんな感じではなかったでしょうか?確かに四国を巡る秀吉との確執や、四国勢との血縁的なしがらみも有ったでしょうし、公家スジからの耳打ちも有ったとは思います。「私がやれば、他にも賛成してくれる人も居る筈。」そう思いこんで、或いは疲れていた光秀は自分の都合の良い方向に自らを思い込ませ、かつ、信長が本能寺で小人数で居たこと(居るはずと言う事前情報)も光秀を後押ししたでしょうし、その日になっても本当に信長は本能寺に居るみたいで、四国征伐も明日に迫ったし、「やっちまえ!」とか思ったんではないでしょうか?まあ、小人数で余裕かましてた信長が有る意味では犯人かも知れません。(天正10年)


文中、敬称略させていただきました。ご了承願います。