長宗我部氏基礎知識
信長卿莞爾と笑はせ給ひ、「元親は鳥無き島の蝙蝠なり」
と仰せければ、可之助謹みて、
「蓬莱宮のかんてんに候」とぞ答へける(土佐物語より)
長宗我部氏の出自
中世、土佐におこった豪族。長曾我部とも書く。家紋は鳩酢草。長宗我部氏は中国秦の始皇帝の末裔・秦河勝(*1)の子孫と伝えるが、蘇我氏部民の子孫とする説もある。平安末期に秦能俊が出て、信濃国更級郡から土佐国長岡郡宗部郷(高知県南国市)に移り、地名をとって長宗我部と号した。東に隣接する香宗我部氏と区別するためと伝える。七代・兼光の頃、多くの庶流(*2)が派生し、のちに長宗我部一門を形成することになる。
(1)秦河勝。六世紀後半から七世紀前半の官人。厩戸皇子の側近。
(2)鎌倉時代にわかれた主な庶流として、江村、久礼田、広井、中島、野田、大黒、中野などがある。
十一代・信能は足利尊氏に属して戦い、細川氏が土佐国守護代として入部してからは、これに従って吸江庵(高知市)の寺奉行となった。やがて細川氏が衰退すると、永正五年(一五〇八)、十九代・兼序は本山・山田・吉良・大平の連合軍の攻撃を受け、岡豊城は陥落した。兼序は自害したが、子の国親は逃れて幡多郡中村の(*3)一条房家を頼った。長宗我部氏は一条氏の土佐入部時、岡豊城へ迎えたといわれ、両者の関係は深かった。
戦国期の土佐には国司に任命された一条氏を別格として、おもだった七家が特に力を持っていた。『土佐物語』によれば「土佐国に宗徒の将は、安芸・香宗我部・山田・本山・長宗我部・吉良・片岡・大平・津野等なり」とある。このうち、山田・片岡を除いた七家は俗に「七雄」あるいは「七守護」ともいわれる。文字通りこの角逐戦に勝ち残った者が土佐一国の守護たるべき地位につくことができるのである。
国親は一条氏の後援(*4)によって十年後の永正十五年に岡豊城を回復した。国親は吉田氏、本山氏と結んで勢力を伸張した。以後、近隣の土豪を討ち平らげ、弘治二年(一五五六)には五台山竹林寺と吸江寺の争論を斡旋解決するなど政治的立場も強化するに至った。永禄三年(一五六〇)、本山氏の兵糧船襲撃を機に戦端を開く。国親は本山方の長浜城を攻撃し、攻略。さらに戸の本(高知市長浜)で本山氏の主力を破った。本山勢は浦戸城へ籠ったが、長宗我部軍の攻撃で敗走した。しかし、国親は唐突に兵を引き、間もなく急病により岡豊城で没した。
(3)土佐・一条氏は応仁の乱を避けて幡多荘に土着し、国司に任命された。伊勢・北畠氏、飛騨・姉小路氏とともに「三国司」と呼ばれる。
(4)国親の少年時代の逸話として、所領を取り戻したければ欄干から飛び下りて見よ、と言われて一丈もの高さから飛び下り、一条言房を感心させたという。
「戸の本合戦」は元親にとっては初陣であったが、すでに二十三歳と戦国大名の中ではきわだって遅い。(*5)
しかし、初陣で戦功をあげた元親は父国親はじめ家中を瞠目させ、「土佐の出来人」と評されるようになるのである。
永禄三年六月、国親の死によって家督を継いだ元親は、本山・吉良・安芸・津野の諸勢力を制圧し、ついに天正二年(一五七四)、国司一条家の所領であった幡多郡をも掌中におさめ(*6)、翌年には安芸郡東部を併呑して土佐一国を平定する。また、この頃、元親はのちの「長宗我部元親百箇条」(*7)のもととなる「天正式目」を制定している。
続いて、阿波・讃岐・南伊予へ兵を出し、天正九年頃にはほぼ四国の大半を制圧する(*8)にいたった。しかし、讃岐中富川の合戦で三好勢にとどめをさすことができず、その勢力を完全に払拭することはできなかった。
天正十年には中央で勃興した信長の勢力圏と抵触したが、本能寺の変によって危機を脱した。その後も中央の政局に対して背後を脅かす存在であり続けたが、ついに天正十三年六月、羽柴秀吉により四国征伐が開始された。
(5)この元親の青年期を『土佐物語』は「生得背高く、色白く柔和にして、器量骨柄天晴れ類ひなしと見えながら、要用の外は物言ふ事なく、人に対面しても莞爾と笑ふばかりにて、会釈もなく、日夜深窓にのみ居給ひければ、”姫若子”と異名を付けて、上下囁き笑ひけり」と記している。
(6)一条氏は当主兼定が家臣によって追放され、さらに天正九年には一条内政も元親によって伊予に追放されて滅亡する。
(7)元親の法令は「天正式目」「掟二十二箇条」を経て、文禄末年あるいは慶長初年に「長宗我部元親百箇条」として集大成された。
(8)天正十三年の段階でなおも長宗我部氏と三好・河野氏らは伊予・讃岐で戦闘状態にあり、元親の四国平定については疑問視されている。