年 | 宗滴の出陣 |
明応三(1494) | 十八歳。豊原寺合戦。 |
明応四(1495) | 十九歳。柳ヶ瀬合戦。 |
文亀三(1503) | 二十七歳。朝倉景豊の謀反に加担。のち、景豊を自刃させ、朝倉貞景に降る。 |
永正元(1504) | 二十八歳。九月、朝倉景総と戦い、敵将金井父子・堀江兵庫らを討ち取る。 |
永正三(1506) | 三十歳。一向一揆の大軍を九頭竜川で破る。 |
永正四(1507) | 三十一歳。加賀へ出陣。 |
永正十四(1517) | 四十一歳。丹後守護代延永春信の乱鎮圧のため、丹後へ出陣。 |
大永五(1525) | 四十九歳。近江小谷へ出陣。六角氏と浅井氏の間を調停。 |
大永七(1527) | 五十一歳。細川高国の要請に応じ、上洛。十一月十九日、京都泉乗寺口の合戦で渡辺新五郎・遊佐弾正を討ち取る。 |
享禄四(1531) | 五十五歳。一向一揆の分裂につけいり、加賀湊川へ出兵するが、退却。宗滴、唯一の敗戦。 |
天文十三(1544) | 六十八歳。美濃へ出陣。 |
弘治元(1555) | 七十九歳。加賀へ出陣。病のため帰国し、九月八日、一乗谷において没す。 |
朝倉教景 | 文明九年(1477)―弘治元年(1555)
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小太郎、太郎左衛門尉、号金吾。英林孝景の末子。朝倉景豊の謀反に加わりながら、これを裏切り、景豊にかわって敦賀郡司となる。貞景・孝景・義景の三代に仕え、戦奉行として十二度の出陣、三度の太刀打ちをした、と語っている。「仁愛の博きこと、忠信の敦きこと」と禅僧月舟寿桂が賞賛。文芸にも通じ、連歌師宗長とも親交があった。『朝倉宗滴話記』は彼の側近荻原某が筆記したものといわれる。 法名照葉宗滴。墓址は福井市安波賀金魚谷にある。 |
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