江戸城の石垣石
- 江戸城普請
慶長9年、江戸城普請を発表し、西国の諸大名に工事用の石材の調達を命じました。所領高10万石につき、100人持ちの大石1,120個でした。3,00艘の石船が熱海、宇佐美、伊東、川奈、稲取等、伊豆半島東岸の七ヶ所の石丁場に集まり、1艘で100人持ちの大石2個ずつを積み、月に2度往復したということです。
- 江戸城石垣の大部分−−−−小松石(安山岩)です
小松石の名は真鶴町旧岩村の小松山に由来しています。真鶴の本小松石は目が細かく、安山岩の中では最高級品として全国の安山岩の代名詞となっています。本小松石は山から切り出した状態では表面が酸化し赤褐色をしていますが、角材にし研磨すると、小松石独特の灰色、淡灰緑色の緻密な石面が現れ柔らかな光沢になります。真鶴が、石材の産地として有名になったのは、江戸城建設の石材供給のため、各大名家が真鶴の各所に石丁場を開いて石材を江戸ってからです。また、久能山東照宮の家康公宝塔は神奈川県真鶴町で産出される本小松石を使用しています。
- 真鶴系安山岩−−−−−−−−−−本小松石
- 東伊豆系安山岩−−−−−−−−−小松石
- 宇佐美−多賀系玄武岩質安山岩−−小松石
- デイサイト−−−沼津市江の浦
- 大阪城、江戸城の白く見える石−−−−小豆島石(御影石)
小豆島の地質は主に花崗岩から成り立っている。この島の北東部で採石されているのが小豆島石である。茨城産の稲田石によく似た荒目石で変色しない、光沢がある、加工しやすいなどが特徴がある。小豆島の「大坂城残石記念公園」には加工途中の石を見ることが出来ます。大阪城の210トンもある二の丸京橋門桝形内の巨石「肥後石」や大手門桝形「大手見付石・笑い積み」などの巨石も小豆島石です。
小豆島石は大阪城以外に、江戸城、江戸山王神社鳥居(笠井家文書)、皇居石橋(西丸大手橋)などに使用されています。江戸城の要所にら使用されている白い石の多くは瀬戸内海から運ばれたものです。
- 大坂城石垣石切丁場跡(小豆島内海町岩谷)
岩谷の山中や海岸には、矢孔や刻印のある石垣石や巨石が多数みられるが、これは大坂城を改築するために石垣用石を採取したときの残石です。岩谷には大きく分けて、南谷、天狗岩、豆腐岩、亀崎、八人石の五丁場がある。各丁場には石垣用石や種石、そげ石が混在し、総計1612個数えられた。この残石数は島内最高であり、島内最大の丁場であったと思われる。角取石には、○、□など40種余りの刻印があり、現大坂城石垣石の刻印と同種のものもある。この岩谷の丁場は徳川時代の大坂城改築時に筑前福岡城主黒田筑前守長政、忠之父子が採石したことが明らかで、幕末まで同家が石番を置いて管理していた。
- 大阪城残石公園(小豆島土庄町小海)
江戸初期の大阪城修復の時に肥後の細川家が小海地区で採石した40個の残石や道具類を展示しています。
- 江戸城の白く見える石−−−−小豆島石(御影石)
元和4年(1618)小豆島は河内国奉行小堀遠洲の管轄下におかれ、元和9年(1623)、小堀遠州が伏見奉行となり、二条城修築や大阪城本丸御殿の作事奉行に当たりました。寛永10(1633)年には、江戸城普請石を小豆島と備前大島で切り出し,大船11艘で江戸まで運びました。寛永17年(1640)小堀遠州は小豆島へ,江戸城普請石として,西国大名に小豆島の石を渡すよう命じています(笠井家文書)
- 岡山城・大阪城の石垣−−−−犬島みかげ(岡山市)
犬島は、良質の花崗岩(犬島みかげ)を産出する石の島として知られており、良質であるため大阪城や京都の二条城をはじめとする各地の城の石垣修復工事に用いられました。
大阪城「蛸石」は岡山市犬島産であり、近年の改修も犬島産が多い。犬島には定紋石と言われる刻印のある石が石が残っています。徳川期の大阪城再建にあたり、各大名に築城の割当がなされた際、犬島より運ばれた石に、佐賀の鍋島氏のものと思われる「三巴の紋(左巻)」が刻まれ、11個が1カ所に残されました。
- 鎌倉鶴岡八幡宮の一の鳥居−−−−犬島みかげ(岡山市)
秀忠公夫人の崇源院が将軍世継(家光)を懐妊したとき、八幡宮に安産の祈願をし、その御加護によって無事出産した。その霊験により崇源院は益々崇敬を篤くし、ある日「備前国犬島に奇石あり、その石を以って鶴岡社前の大鳥居を建立し給ふべし」という八幡大神のお告げを夢中に受けたため、次の社頭修営の時には必ずそのお告げを実行するように家光に頼み、他界し、家綱の時代に建立された。
社務所前の手水鉢(当時の造営奉行松平備前守隆綱奉納)もこの時代の石造物で、備前犬島から運搬されたものといわれている。
- 大阪城−−−−北木石(岡山県笠岡市笠岡諸島北木島)
北木島は笠岡諸島最大の島。そして、北木石で知られる石の島。大阪城築城の際には大量の石垣石を送りだした歴史を持ち、日本銀行、靖国神社の大鳥居にも使用されています。
- 金沢城−−−−赤戸室石、青戸室石
石川門内の、赤と青を巧みに取り入れた切り込みハギ積み石垣の見事さは日本随一です。赤味を帯びた石が「赤戸室」、青味を帯びたものが「青戸室」と呼ばれ、青戸室の方が赤戸室より石質が緻密で堅い。戸室石は、8kmほど東にある戸室山から運ばれてきたものです。
石丁場跡
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真鶴を含め東伊豆一帯は良質な相州産小松石が採れることから、江戸城石垣の石材として舟運で江戸まで運ばれました。石丁場は、所在によって山丁場と磯丁場、従事者によって大名所轄の御用丁場、村方才量の百姓丁場、商業資本の介在する商人丁場などの種別に分かれます。
- 真鶴町
北部山地で採石される石は本小松石と言われ、輝石安山岩です。安山岩中の上級品で、江戸城の石垣を築造するために多く使用されました。徳川御三家及び松平家、黒田家などが真鶴の各所に丁場を開いて石材を江戸に送りました。丁場は半島の海側に点在し、鵐(しとと)・駒ころばし・ことうばみ・元地(もとぢ)・ついし・道無(みちなし)・大浜(おおはま)・尻懸(しっかけ)といった磯丁場が有りました。現在も真鶴石は真鶴町の代表的な産物で、真鶴港から船で積み出されています。江戸時代300年間は、幕府の石奉行をおき官営採石石場「御用丁場」とよばれていました。
- 熱海市初島
- 熱海市網代
- 伊東市宇佐美北部石丁場群 御石が沢
宇佐美の石丁場ナコウ山(山頂石丁場跡)を中心として多量の石垣用の石材が運ばれました。羽柴越中守細川忠興の標柱石や、大名家の刻印石が見られます。
- 伊東市松原の丸山公園「太平の森ハイキングコース」
江戸城築城用 石丁場と刻印石の分布地、杉林の中に石材が残されています。
- 下田市須崎半島「須崎遊歩道」
海岸には江戸城の石垣を築くため石を切り出した丁場跡や、江戸時代に設けられた灯明場跡が残っています。
- 東伊豆町
東伊豆町は江戸城築城時に、土佐藩、加賀藩などの石丁場が設けられ、現在でも当時のままの石丁場跡と築城石が町内に多数残されています。
- 下田市須崎「細間の段」
- ホテルジャパン下田 洞窟風呂「海泉洞」(下田市吉佐美)
江戸城に使われた伊豆石を切り出したあとの洞窟を利用した野趣豊かな風呂。洞窟を通して海が眺められます。
- 賀茂郡松崎町雲実「室岩洞」
西伊豆松崎町にある室岩洞、石は伊豆のサクラ石と称され、江戸城の石垣に使うための石丁場跡だと伝えられています。
- 鷲頭山一帯、山麓の静浦や清水町徳倉
かつては石の切り出しが盛んであった。静浦の石丁場は直ちに船で海上輸送が可能であり、徳倉も狩野川に沿っているため運搬船の便があった。
残石
- 畳石−−−東伊豆町稲取223−1
「畳石」という石は重さ約20トン。側面に「御進上松平土佐守 十内」でと刻まれている。
- 北川築城石公園−−−東伊豆町奈良本1123
北川温泉の海沿いにある和風公園。江戸城の石垣にはこの地方から切り出された石が使われました。その築城石をシンボルとした公園
- ボ泣き石−−−東伊豆町大川 大川駅より登り方面へ徒歩20分
この石は安山岩で城郭用の天端石といわれています。7tにもなる重さから、人夫がボヤいたり泣きごとを言ったのが名前の由来、上部には「羽柴左衛門大夫口」と刻まれており、安芸広島城主福島正則のことです。
- 羽柴右近(森 忠政)の刻印石−−−熱海市網代
美作津山藩主の羽柴右近が供出した石。海岸に運搬中に転落したもの。一度転落した石材は、落城を意味し、けっして使われることはなかったと言われています。森 忠政は秀吉より羽柴の姓、後陽成天皇から「五三桐」の紋を拝領し、羽柴右近大夫と称した。金山侍従とも呼ばれた。慶長3年、羽柴姓を廃していますのでそれより前の刻印か?
- 千石石
熱海市多賀は熊本藩加藤家の石丁場だった所で、「千人石」と呼ばれる大石が残っています。
- 自性院−−−東伊豆町熱川
裏庭に池がある。そこに架かっている石橋は、江戸城造営の際、当地からたくさんの石を送ったが、その時、積み残しの石で、造られたものである。
積み出し港
- 積み出し港−−−−沼津、江浦、下田、稲取、伊東、網代、熱海、真鶴
- 稲取港(東伊豆町)
稲取港は、かつては江戸城修築に使うための伊豆石を船に積みこんだ港である。稲取地区に石丁場を置いたのは土佐藩主山内忠義で、二十万石を超える同藩は計二千二百四十個の石を切り出し、船で江戸に運んだ。『山内氏時代史稿』の慶長11(1606)年の条を見てみると、江戸城の石垣普請のために、家老深尾和泉らを伊豆半島の稲取に派遣し、「伊豆石」を採石させて江戸城まで運送させている。寛永6年(1629)に、最後の船積みを終えたが、将来の採石命令に備える10個の石が残された。
- 網代港(熱海市)
網代港は伊豆東海岸随一の天然良港であり、下田港と共に全国に知られています。江戸時代は活気に満ちた港町であった。また、江戸城築城における石丁場であり、舟運により石材を江戸に運びました。網代には石丁場跡や運び出そうとした築城石が残っていて、石材には採掘した大名の刻印が見られる。
- 下田港
下田港は,75里の遠州灘と45里の相模灘の間にあって,大阪江戸航路の風待ちや避難に最も重要であった。元和2年からは下田奉行を置き,江戸往来の船を監視させた。
記念碑
- 石工先祖の碑−−−− 真鶴町役場前
平安時代末、真鶴で石材業を始めた土屋格衛と、江戸城を築くための採石にあたった黒田長政配下の七人の石工たちの業績をたたえた碑です。真鶴町役場前の丘の上に建立されています。
- 黒田長政供養の碑−−−− 真鶴町西念寺
黒田長政より江戸城の用石発掘の命を受け、岩小松山に良質な石材を発見し石丁場を開いた小河織部正良が、黒田長政13回忌にあたり建てたといわれる供養の石塔です。
- へらへらもち−−−−東伊豆町
伊豆から江戸城築城の石が運ばれていた頃、名主宅で殿様が食し大変喜んだことからへらへら餅となづけられました。
- 大田道灌と猿の銅像−−−−東伊豆熱川
道灌が温泉に入ったり飲んだりしている猿を見て、温泉の効用を発見したとか。後年、江戸城の築城石をここ熱川で切り出しました。
- 石引き図絵巻(伝根府川石切り出し図)
石の搬出の様子を石の切り出しのための産出場所の探索からはじまり、切り出し・搬出・検分・船積みまで一貫作業を克明に描いている資料である。
- 御石曳きまつり−−−−東伊豆町稲取
土佐藩は、良質の石が取れる稲取に多くの人を派遣していました。山の石丁場で切り出された石は、稲取港へと運ばれ、そこから船に積まれて、江戸城へ向かっていました。この史実を今に伝えるのが 「御石曳まつり」です。15トンある巨大な石を200人がかりで曳く。
- 佐土原藩 薩摩十六烈士の墓−−−−下田市大安寺
明暦大火後の江戸城復興と寺社建築を好んだ将軍綱吉に,江戸城西本丸の普請用として献上する高級建材栂を積載して、遠州灘で難風にあい,船が沈没しかかったので、積荷の建材を海に捨てさせ,危うく沈没をまぬがれて下田港に漂着した。
不可抗力の事情とはいえ,大切な御用材を失わせた責任をとり,封建時代の思想では大切な藩主の御用材を投げ捨てた罪科はまぬがれぬとして,16人が切腹し、大安寺に葬られた。なお,船に残っていた建材は大安寺に寄進され,現在の本堂の柱となっている。
- 小室神社−−−−伊東市川奈小室山
宝永2年(1705)、相模国は小田原の城主「大久保隠岐守忠増」が、江戸城修築のため伊豆東海岸より石材を切り出し、相模湾を搬送する舟の海上安全、航行平穏を祈念して奉礼創建されました。
主な建築物の石
- 国会議事堂−−−−議院石(花崗岩 万成石 桜御影)
国会議事堂、衆参議院議員会館外装に大量に用いられたことからこの名がある。広島県安芸郡の倉橋島東端にある岩山から採石されている黒雲母花崗岩で、紅色の長石を含む中目石。2階以上の外壁と衆参両院玄関の大きな柱が広島湾倉橋島の「桜御影」と呼ばれる花こう岩。1階部分の外回りが広島湾黒髪島の黒雲母花こう岩である。「桜御影」は色調は淡紅色で、濃淡のバランスが美しい。
2003年9月、国会議事堂中央塔の頂上部分が落雷で破損。修理に使われたのは1個120キロの石材2個。広島県倉橋島特産の「桜御影」と呼ばれる花崗岩で、破損部周囲と同じ色合いの薄いピンク色のものを産地から切り出した。
- 新宿の伊勢丹ビル
- 銀座和光ビル
- 石原裕次郎氏の墓
- 皇居宮殿前広場−−−−由良石(安山岩)
由良石と言われ、高松市由良町で採石されている安山岩。石質は柔らかく加工しやすい。由良石の敷石は、皇居東庭(宮殿前広場)に使用されています。
- 稲田みかげ(笠間市稲田)−−−−花崗岩
江戸時代から笠間で採掘・加工されている黒雲母花崗岩。中粒の黒雲母が入る白色系の花崗岩
- 千代田区 三井住友銀行本店 明治35年
- 中央区 日本橋石工事 明治40年
- 千代田区 最高裁判所外壁 昭和49年
- 真鶴産安山岩
- 旧古川庭園の邸宅(コンドルの設計)
- 寛永寺灯篭
- 北木石
花崗岩は白色を主とし、少し赤みをおびた細目赤水晶、北木錆石といわれる赤さび色をしたものとの3種類があります。
- 靖国神社の大鳥居(昭和 7年)
- 日本銀行本店 (明治22年)
- 明治以降 石材の規格化・量産体制を整備し首都建設用資材として石材の供給
- 伊奈石−−−−東京都あきる野市横沢、三内、高尾、網代の山々から産出する石材
- 前田利家側室寿福院の層塔(大田区 池上本門寺)
- 縁泥片岩(りょくでいへんがん)−−−−秩父地方産ので造られた、武蔵型板碑
- 板碑
- 鎌倉石(凝灰質砂岩・スコリア質砂岩・スコリア質凝灰岩)
- 鎌倉で産出した石材で茶褐色の水性砂岩、鎌倉は花崗岩や安山岩のような良質の石材産地から遠く離れていたため、土木建材用等には経済的な鎌倉石が昭和の初期頃まで利用された。
- 房州石(凝灰質砂岩 軽石質凝灰岩)−−−−房総半島中南部から切り出された凝灰質砂岩ないし粗粒凝灰岩の総称、鋸南町鋸山等
- 根府川石
- 小田原市根府川・米神間に分布する溶岩流で、板状節理が極めて良く発達しています。研磨すると小松石に類似
石の生成
- 安山岩
輝石安山岩ってことで、40万年前位の古期箱根外輪山の溶岩が海に出会って急激に冷やされて出来た物。火山岩の中では一番量が多く、多量の白い斑晶鉱物と少量の黒色の斑晶鉱物、及び灰色の石基からできていることが多い。
- 御影石(花崗岩)の俗称。
花崗岩は、マグマが地下深所で個結した岩体であり、火成岩のうちでも深成岩の属する。地下でゆっくり個結した部分ほど鉱物結晶が大きく。粗粒の花崗岩となる。六甲山麓の御影地方で産する花崗岩が美しさで有名であったため。御影産の花崗岩を本御影とも称する。
- 庵治石(花崗岩)
香川県の庵治町・牟礼町にまたがる八栗五剣山山麓で産出する。構成鉱物のひとつひとつの結晶が極めて小さく、結合が緻密なため他地域の花崗岩に比較してもより硬い。
- デイサイト
安山岩と流紋岩の中間的なものは「デイサイト」と呼ぶ。