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種村季弘について
種村季弘(1933-2004)はドイツ文学者、評論家、エッセイストとして活躍した。

翻訳家としてはホッケのマニエリスム論や、ハンス・ヘニー・ヤーン、オスカル・パニッツァ、フリードリヒ・グラウザーらマイナーな作家の紹介が知られている。

エッセイストとしては澁澤龍彦と並び称されたように、その分野はオカルティズムや博物学、美術、文学など多岐にわたっているが、書斎派で「少年皇帝」と言われた澁澤に対して、温泉好きとして各地を旅するなど、「徘徊老人」を自称して精神のみならず肉体も常に運動することを好んだ。

その文章の特徴としては、文芸評論や映画批評において顕著なように、フロイト、バシュラールらの精神分析の手法を取り入れたことが挙げられ、アナロジー(類推・類比)によって、国も時代も違う作品が結び付けられていく鮮やかな論理展開が魅力である。

1980年頃から書き始められた「漫遊記」シリーズでは、実体験をベースにしたなかば小説のようなスタイルのエッセイを確立。温泉や紀行に関する文章も多いが、現実と文学世界を自由に往来して架空の紀行を書いたりもした。

翻訳でマイナーな作家に注目したのと同様に、アンソロジストとしても隠れた名品を発掘することに定評があり、『東京百話』『日本怪談集』など数多くの本を編集している。

その仕事は『種村季弘のラビリントス』全10巻(青土社、1979〜80年)、『種村季弘のネオ・ラビリントス』全8巻(河出書房新社、1998〜99年)にまとめられているが、現在絶版となっているものも数多く、また、単行本未収録の作品も厖大にあり、その全貌はまだ明らかとなっていない。
(「活字倶楽部」2005冬号(雑草社)に掲載された拙文に加筆・修正)

年譜(1965年までは『器怪の祝祭日』栞掲載の年譜による)
昭和8(1933)年3月21日 東京市豊島区池袋二丁目九六三番地に生まれる。
昭和14(1939)年4月 池袋第二小学校に入学。
昭和19(1944)年6月 長野県上山田温泉へ集団学童疎開。
昭和20(1945)年3月 中学入学のため帰京途中、碓氷峠前にて東京の夜空が真赤に燃えているのを見る(東京大空襲)。
昭和20(1945)年4月 府立第九中学校入学。
昭和20(1945)年4月13日 第二回東京大空襲のため生家焼亡。翌朝ただちに東京市豊島区池袋二丁目千三番地に移転。
昭和20(1945)年7月 盲腸炎手術のため東大病院小石川分院入院。
昭和21(1946)年11月3日 母かね(生家名・石橋)死去。
昭和23(1948)年4月 府立第九中学校が学制改革により都立第九高等学校となり、第二回生として進学。同校はのち都立北園高校と改称。
昭和24(1949)年4月 学内にドイツ語講座が開設され、必修語学を英語よりドイツ語に切り換え、阿部賀隆先生に指導を受ける。この頃しきりに池袋の闇市をうろつく。
昭和26(1951)年4月 東京大学教養学部文化二類九DE(フランス語・中国語クラス)に入学。同級に松山俊太郎、吉田喜重、藤田敏八、阿部良雄、石堂淑朗、井出孫六などがいた。吉田喜重を通じて宮川淳と識る。
昭和28(1953)年4月 文学部美学美術史科に進学。
昭和29(1954)年4月 学内転科して文学部独文科に再進学。
昭和31(1956) 東京大学学生新聞の編集部にて丸元淑生と知り合う。伊藤成彦編集長と対立して退部。
昭和32(1957)年3月 卒業後、新聞の求人広告をみて東京言語文化研究所附属日本語学校に就職。一年足らずで退職。
昭和33(1958)年9月 光文社入社。「女性自身」編集部を経て単行本編集。手塚治虫、田宮寅彦、結城昌治、梶山季之らを担当。
昭和35(1960)年 光文社退社。新聞雑誌の無署名コラムライター、岡スタジオ嘱託などで食いつなぐ。
昭和38(1963)年1月13日 茅野薫と結婚、芝愛宕山に住む。以後、40年頃まで豊島園、阿佐谷、茅ヶ崎、晴海、秩父などを転々とする。
 駒澤大学文学部非常勤講師となる。澁澤龍彦を知り、矢川澄子と共にルネ・ホッケの『迷宮としての世界』翻訳に着手。
昭和40(1965)年 「映画評論」に「ジョン・フランケンハイマー論」を発表。以後、文筆活動に入る。
 1960年代後半から1970年頃まで東京都立大学助教授。
 ?年 國學院大學教授となる。
昭和62(1987)年 朝日新聞で文芸時評を担当。
平成7(1995)年10月 金沢の旅館にて脳梗塞で倒れる。
平成8(1996)年10月21日 銀座・キャバレー「白いばら」にて、第2回小原庄助賞・受賞パーティ。受賞者はほかに赤塚不二夫氏、石井光三氏、内田春菊氏。
平成12(2000)年2月4日 学士会館にて泉鏡花文学賞受賞記念「立春の宴」が開かれる。
平成12(2000)年3月 國學院大學退官(以後、2001年まで語学の講義を担当)。
平成14(2002)年4月 朝日新聞書評委員となる。
平成16(2004)年8月29日 午後8時25分、胃癌のため静岡県内の病院で死去。

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