岩波文庫2002年度目録掲載分を読んでみよう

その1

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自省録書物紋切型辞典イソップ寓話集四季をめぐる51のプロポ

夫が多すぎて博物誌読書案内努力論新編 明治人物夜話フランクリン自伝

ギリシア・ローマ神話サロメ酒の肴・抱樽酒話変身物語(上)(下)

孔子論語山月記・李陵他九編恐るべき子供たち上田敏全訳詩集

自省録,マルクス・アウレーリウス著,神谷美恵子訳,1956(1999第62刷). 青610-1

 私が最も尊敬する女性のひとりと言ってよい、神谷美恵子が、少女時代に出会い、生涯の愛読書とした作品。

 ローマ皇帝マルクス・アウレーリウスが、ストア哲学に基づいて、自らの言動を省み、瞑想した記録の書だが、今風に言えば日記ということになるだろう。

 しかし、書籍でもネット上でも数多あふれる日記と明らかに次元を異にするのは、愚痴も他人への不平もなく、ただひたすら己を善くあらしめようとする姿勢の強靱さである。人に見せることを前提としない記録において、これだけ自己のみを批判し、他人を攻撃しようとしない精神とは、一体どのようなものだったのだろうか。
 神谷美恵子の解説は、平易な文章ながらこの書の魅力を非常によく伝えている。
「ストア哲学は、現代の我々にとっては、内に新しい生命力を湧き上がらせるようなものではないが、マルクスの魂に宿ったストア精神はなんと魅力的なものであろう。それは、彼がこの思想を身をもって生き、生かしたからである」
という記述は、なぜ背後の哲学が寿命尽きた後も、この作品が読み継がれてきたかを教えてくれる。
 私は同じような感想を、シモーヌ・ヴェーユの散文に対して持ったことがある。シモーヌ・ヴェーユという人間そのものには聖性を感じるが、彼女の思想そのものにはあまりそれを感じない。ただ彼女がその思想を、既存の権威に頼ることなく、妥協せずに追求し磨き続けたということが素晴らしいと思う。逆に言えば、彼女の思想や哲学を、現代の哲学者が語ることには、ほとんど意味を感じられない。一代限りの学問があるように、一代限りの思想というのも、恐らく存在するのだろう。


書物,森鉄三・柴田宵曲著,1997. 緑153-1

 書物研究者二人による、書物についての随想集。書かれたのは昭和19年、改訂されたのが昭和23年ということで、かなり昔の本なのだが、「最近の書物は粗製濫造だ」「本の数が多すぎて、処分しないとやっていられない」等々、今まさに新聞の書評欄あたりで書かれていてもおかしくない内容。ぜーんぜん書籍の世界は進歩してないのではないかという気分にさせられる。
 むしろ、時代を感じさせるのは、「講談社は、講談の名の通り、あくどく野暮ったく、雑誌の水準を大いに低めた」と書いてあったりするところ。講談社は、今でも大嫌いという人がいたりするけれど、それはやはりこの時代の名残なのかも。「最近流行している岩波文庫というものは、文字が小さくて、読んでいられない」という随想が、堂々岩波文庫に入っているというのも、なかなかユーモラスな眺めである。


紋切型辞典,フローベール著,小倉孝誠訳,2000. 赤538-10

「ぼく自身のつくりあげた言葉はひとつも見当たらず、だれでも一度これを読んだなら、そこに書いてある通りをうっかり口にするのではないかと心配になる」ような辞典、とフローベール自身が称したそうだ。フランスにある森羅万象について、俗説や偏見や紋切型表現を集めた本。
 揶揄と諷刺を目的とした辞典といえばビアスの「悪魔の辞典」だが、あちらが攻撃的な文章ににやりとさせられる、けれんみあふれる読み物とするなら、この「紋切型辞典」にはそういったけれんが皆無である。はっきり言えば、読んでもあんまり面白くない。諷刺が直接的ではないので、さらっと読んでもよく伝わってこないのだ。攻撃対象への悪意と侮蔑が、二重三重に屈折して描かれていて、理解するのに案外骨が折れる。読み物というより、研究対象とした方がいいのかも知れない。
 でも時々、こんなわかりやすい項目に出くわすこともある。
「考える〔penser〕  つらいこと。それを強いるような事柄は、ふつうなおざりにされる。」



イソップ寓話集,中務哲郎訳,1999. 赤103-1

 イソップが作った、と言われている寓話を集めたもの。という訳で、実際にはイソップテイスト教訓集、ということになるのだが、これを子供向けの人生訓話に仕立て上げた人はすごいなぁ、という気にさせられる。ことわざと同じで、あっちでは友情の大切さを謳い、こっちでは友情の無意味さを訴え、と分裂しているので、実際にはその時々でみんな都合のいいところを引用したのだろう。
 古い時代のものにお約束の下ネタも満載だが、その中でもいきなり「男色家がなぜ恥知らずなのか」を説明した寓話には唖然とした。そういうことを、ここで説明するかねぇ。古代人の感性はわからぬ。


四季をめぐる51のプロポ,アラン著,神谷幹夫編訳,2002. 青656-3

 プロポとは、一枚の紙葉に、下書きすることなく一気に書き上げた哲学断章のことで、このフランス人哲学者が生涯書き続けたものとのこと。これを毎日毎日やむことなく書き続けたことに、まずは素直に感嘆する。見習った方がいいのかも知れない。
 ここに書かれている文章の見事さは、内にひそむ思想の美しさによるものではない。ひとつひとつの言葉、比喩が、何かの代用物としてではなく、必然として存在していることだ。多くの場合、比喩やストーリーは、書き手が言いたいのだが直接書けないものを代わりに示す、代替物である。しかしアランのプロポが紡ぎ出す比喩は、その意味や真意を分析するようなものではない。彼は真実書きたいことを書いたのであって、文章の平易さも美しさも、そこに由来している。単純明快な哲学の、なんと奥深く難しいことか。
 ところで、この訳者はすぐれたアラン研究者なのだろうが、解説や訳注の文章に、自分の言葉に溺れた自己陶酔のにおいがあって、どうも困ったものである。自分もどちらかというとそういうタイプなので、余計鼻についたのだろう。


夫が多すぎて,モーム作,海保眞夫訳,2001. 赤254-9

 実は、私にとってモームとは、扱いに困る作家である。すぐれた作家だと言われているし、実際そうなのだろうとも思うのだが、正直読んでもあんまり面白いと思わないのである。しかもこれは戯曲である。戯曲の台本だけ読んでも、面白さというのはなかなか伝わらないものだろう。

 という訳で……あんまり期待しないで読んだ。「だが予想を裏切って面白かった!」と続けられればいいのだが……まぁ予想通りだった。ただ、私の好みではないというだけの話で、たぶん面白い戯曲なのだろうな、とは思う。
 夫が戦死した美女が、彼の親友を再婚して生活していると、そこへ死んだはずの夫が思いがけず帰ってくる、という話。が、これは悲劇ではなくて、美人だがわがままな妻に、実は二人とも辟易していて、互いに「彼女の真実の夫は君だ!」と押しつけ合う話である。あげくに彼女は、大金持ちで彼女に惚れ込んでいる男とさっさと結婚してしまい、何と強引にハッピーエンドになるのだ。
 これ、妻の役を沢口靖子がやったら、今の日本でヒットするかも知れないなぁ。


博物誌,ルナール著,辻昶訳,1998.5.18.,赤553-4


 あひる、馬、ろば、白鳥……身近な動物や昆虫、風物を、ストイックな文体で描写するルナールのエッセイ。しかし、動物への愛情や自然への憧憬を素直に期待すると、あてが外れる。これを読んでも、はっきり言って心が温まる訳でも自然が恋しくなる訳でもない。動物は擬人化されることなく、朴訥ではあるが愚かである。ましてや、所々に現れる人間は、ひどく自己中心的で狡猾で、醜い。ありのままを描こうとするルナールの文章は、決して気持ちのいいものではないが、ただ唯一樹木を描く文章にだけは、透き通るような憧れがある。


読書案内,W.S.モーム著,西川正身訳,1997.10.16.,赤254-3

 ようやくモームの文章を読んで、素直におもしろいと思えた。要するにこの人はフィクションよりもエッセイの方がおもしろいらしい。もともとは雑誌に掲載されたもので、世界文学(といってもイギリスとヨーロッパとアメリカだけなんだけど)の中の、まあ確かにケチがつけられない「名作」を紹介したエッセイ。

 「読書は楽しくあるのが本当だ」「一流の批評家がほめたたえようとも、あなたにとって興味がわかないのなら、その書物はあなたにはなんのかかわりもない」と堂々書いてみせるモームは、古き良き時代のイギリス知識階級の最も美しい姿を示して見せていると言える。色々な文学者へのモームの感想やコメントも、もったいぶっていなくて楽しい。
 ちなみに。ここでもやっぱりトルストイの「戦争と平和」は壮大なすばらしい小説として称賛され、そのヒロインは「小説にあらわれたもっとも魅惑的な女主人公」とほめちぎられているのだが……私には、気分に左右される、一貫性のない、いつもその場限りで行動する頭の悪い女性にしか見えなかったのだが。うーん。モームの時代では彼女が魅力的だったってこと? それとも男の視点と女の視点の違い? 単に私の趣味が世間と違うだけ?


努力論,幸田露伴著,1940.2.16.(2001.7.16.改版第1刷),緑12-3

 自己啓発本の先駆けといえば福沢諭吉というのが私のイメージなのだけど、この本も今出たら意外と売れそうな自己啓発本という感じ。努力をすることで幸福を目指し、なおかつ幸福を独り占めするのではなく世界に広げることを訴えた本。まぁ日本版「7つの習慣」?

 書いてあることは正しいし面白し現代に十分通じる内容なのだけど、何というか、幸田露伴という人があまりにも「真面目でまっとう」な人すぎて、完璧な正論を聞く時のしらけみたいなものを感じてしまう。
 あと露伴の「気」観を論じた三本の論文が収録されている。これも根拠があるようなないような、論というよりは随筆に近い感じなのだが、多くの思想や占いにも通じるような発想なのが面白かった。運命決定論を排しつつも、何かの「流れ」は常に感じる、というのがこの時代の知識人の姿だったのだろうか。


新編 明治人物夜話,森鉄三著,小出昌洋編,2001.8.17.,緑153-3

 著者が様々な文献から丹念に集めた、明治の有名無名の人物の挿話をまとめたもの。明治期の日本史の知識が不足している自分が残念極まりない。それがあればもっと面白いはずなのだけど。
 とはいえ、素直な人間観察記として読んでも十分面白い。明治天皇が酒豪で、御用学者を無理矢理酒席に引っぱり出しては酔ったところに難しい質問をするという意地悪を楽しんでいた、といった話など、そのまま酒席の話の種になりそうだ。
 この本は、基本的に引用で成り立っている。森鉄三は図書館学でも名の知れた有数の図書館利用者だった。図書館の中で埋没した様々な資料から、忘れられるには惜しい挿話を探し出し、編集を加え、日の目を見せるという執筆方法をとっていた。今の世では図書館の発展とインターネット普及のおかげで、こういうやり方がもっとたやすくなったはずなのだけど、これに匹敵するような著作が見あたらないのは不思議な話だ。

 資料が多すぎるから? 信頼性の低い資料が多いから? 対象となる人間に魅力が乏しくなっているから? ……色々理由はありそうだけれど、やはり独自の視点で編集を行うところに難しさがあるのかも知れない。森鉄三という人間性が隅々までしみわたっていながら、著者としては常に一歩後ろに下がって対象を浮かび上がらせるというこの本の特徴は、単純な技巧でまねできるものではない、森の才能というものなのだろう。
 ともあれ、何となく身の回りの人間を対象に夜話でも書きたくなるような、そんな楽しさのある本だった。


フランクリン自伝,松本慎一・西川正身訳,1976.5.20.第23刷,赤301-1

 まるで小説のような自伝である。エピソードが突飛だからではない。ひどく普遍的だからこそ、小説っぽいのだ。おまけによりよく生きるためのノウハウの紹介つきである。一冊で二度おいしい、自己啓発系小説という趣。ロマンスがほとんど見えないところだけが、物語としては欠点といえるか。
 特に前半、フィラデルフィアからロンドンに出てきて印刷屋として修業する間、次から次へと友人に金銭をせびられては踏み倒されたり、フィラデルフィアに戻って印刷屋を始めて、同業者の妨害をくぐり抜けて実績を作っていくあたりなど、まるきりディケンズの小説だ。
 反面、多くの人がフランクリンに抱く疑問、つまり何故彼はあれほど多種多様な分野で精力的に活動し成果を上げられたのか、ということについては全くといっていいほど説明がない。努力したからだよ、と素っ気なく答えるのみ。彼が熱っぽく語るのは、具体的な職業的技巧ではなくて、人間性を底上げするために樹立した「十三徳」やそれを生かすための生活態度の方である。
 という訳で、この本には
1. 初期アメリカの風物を味わうディケンズ風小説として
2. 生活態度を改めるための自己啓発本として
3. 若者の立身出世話を読んでカタルシスを味わう励まし本として
といった複数の楽しみ方ができる。でもスキャンダルを楽しみたい向きにはおすすめできない。

 あと、この時代のイギリス人特有の偽善性(ネイティブ・インディアンへの偏見など)がいちいち神経を苛立たせるのは確かなので、その辺も注意。


ギリシア・ローマ神話,ブルフィンチ作,野上弥生子訳,1990.2.15.改版第21刷,赤225-1,4-00-322251-2

 やや古風な文体で書かれる、ギリシア・ローマ神話。創世神話から始まって、イーリアス、オデュセイアまでに至るまでが一気に描かれる。初版が1953年に出されているものだから、現代の言語感覚から言うと決して読みやすい本ではないが、読んでいると時間の流れがゆっくりになっていくような趣がある。
 おおづかみにギリシア・ローマ神話を知るための手引き書として非常に便利な本だが(何しろ巻末にはきちんと索引もついているし、目次も詳細でわかりやすい)、そういう実用的教養書として読むよりも、純粋に古代文明の香りを楽しむために読むのがいいのかも知れない。
 冬の寒い日、暖炉に火を入れて、熱いココアやバターを落としたお湯割りラム酒など片手に、少しずつページをめくる。気が向けば、傍らにいる子供や犬にでも朗読してやる。絶対的で人間の言うことになど耳を傾けぬ容赦なき神、崇高でありながら誓いに縛られる英雄、不可思議な過去を持つ怪物たちに思いを馳せる。……そんな、ノーマン・ロックウェルが描く絵のような、あるいはターシャ・テューダーの写真集にありそうな風景が、思い浮かぶ一冊だ。


サロメ,ワイルド作,福田恆存訳,2000.5.16.改版第1刷,赤245-2,4-00-322452-3

 あまりにも有名な、「ああヨカナーンよ、お前の口に口づけしたよ」の一節で知られるこの戯曲は、確か高校生の時に一度読んだ。なるほど美文だ、という印象を持ったのだが、今読み返してみると、実はこの戯曲は美文ではない、という気がする。幻想的で豊麗な文章、という評も、少し違うような。台詞回しは確かに長いが、描写のひとつひとつは水晶のように硬く、素っ気ない。だからこそ小説ではなく戯曲なのだ、とも言えるだろうし、過度の描写を削ぎ落としたカッティングの光芒こそが美しい、とも言える。
 訳者の福田は、「これはスペクタクル官能美を表現したものではなく、運命悲劇である」と言っている。確かに陰惨な内容だ。しかし、これは本当に悲劇なのだろうか。

 私にはサロメは、滑稽な話に思える。あるいは不条理劇か。登場人物の誰一人として、まともに見つめあうことも心を通わすこともなく、互いの勝手な思いこみだけが先走りし、殺し合う。ここには、悲劇と呼べるような圧倒的崇高さはない。あるのは、抑制し損なった衝動だ。
 おかしな例えだが、池田小事件が運命悲劇ではなく、ただの醜い衝動の暴走であるように、「サロメ」は衝動の物語である。それが美しく見えるのは、サロメとヨカナーンが、ただひたすらに美貌であるために過ぎない。

酒の肴・抱樽酒話,青木正児著,1994.11.5.第5刷,青165-2,4-00-331652-5

 酒飲みの、酒飲みに関する、酒飲みのためのエッセイである。
 ゆえに、自他共に認める下戸である私からすると、少々皮肉っぽい突っこみを入れたくなるところも多い。「酒の趣は下戸に話してもわからないのだから、害を言われても超然と聞き流せばよい」と言うのであれば、こちらは「茶の趣はアル中に話してもわからないのだから、茶を点ててやるには及ばない」などと返したくもなる。まぁ習慣性の強い嗜好品についての礼賛は、話半分に聞いておくのが大人の反応というものであろう。LSDやコカインの中毒者だって、芸術的才能があれば、そのめくるめく快楽と美点を説くことができるのだろうし。
 だが、それはそれとして、このエッセイには強烈な魅力がある。それは、書かれたのが戦後の食べ物などほとんどない時期であることに由来する。配給に振りまわされ、まともな酒や肴など皆無であったろう時に、あえて古典をひもといて美味を語る。しかもひたすらにその美味さを追い求めるのではなく、結局は自分の口に合うものが美味だよと言ってみせる。いかにも学者的な飄々とした姿と見るか、迫力のあるやせ我慢と見るかはそれぞれだろうけれど、脱帽するよりほかない。
 酒の肴と抱樽酒話の間に、短い散文詩のような一文が入っている。著者が自宅で、青菜のおひたしと豆腐を肴に一献傾ける様を描いたものだ。質素ながらも色々考えて精いっぱい席をしつらえてくれる自分の妻への感謝と、ほどほどにいただく酒の妙味が素直に表されている。何とも微笑ましいこの一文が、この本の白眉であると私は思う。

変身物語(上)(下),オウィディウス,中村善也訳,1981.9.16.(上)1984.2.16.第1刷,赤120-1,120-2,

 ローマの神話(つまりギリシャ・ローマ神話ということになるのだが)の中から、人や神が様々な姿に変化していく挿話を選んで詩となした、オウィディウスの一大傑作である。オウィディウスがこの作品を通して、己の存在そのものを永遠のものとして昇華していったことは、最後の最後に明らかになるのだが。
 この作品は、ローマ神話の神々や英雄のいわば言行録なのだが、ほぼ同じようなパターンをたどって展開されるカノンを思わせる。ため息が出るほどに、彼らは「この道はいつか来た道」を繰り返す。そして女性として何とも暗澹たる気分になるのは、全体を通じて女性が欲望の対象でしかありえないということだ。

 登場を許されるのは美女だけであり、その美女たちは神々や英雄の欲望をかきたてる存在として描かれ、本人の意志とは何の関わりもなく謀略や暴力によって犯される。それを免れるためには、大きな力の庇護によって自然物に変身するよりほかない。庭仕事を愛するニンフを誠意と説得によって口説こうとする牧神のエピソードや、男にだまされて失意にあったアリアドネを真心の愛によってなぐさめるディオニソスの話が例外としてあるくらいだ。

(ちなみにディオニソスは、有名な酒の神だが、ギリシャ・ローマ神話ではとても珍しい、一夫一妻を守った神である。「酔った勢い」云々で自分の行状を言い訳する一部の人間に見習ってほしいものだ)
 ギリシャやローマは古代社会の中でも群を抜いて家父長制度の強い社会であり、ここに描かれている女性像はその反映なのだろう。そのぶん、アルテミスを始めとする独身の女神たちの恐ろしさは群を抜いている。社会の一部を別の一部の従属物としておしこめた結果が、このような形で現れたのかも知れない。


孔子,和辻哲郎著,2001.7.5.第17刷,青144-5

『論語』の成立過程を分析したこの本は、薄くてするするっと読めて、後にひっかかりが残らない。あまりに明朗にすっきり腑に落ちてしまうので、かえって疑心暗鬼になるくらいだ。ここで述べられる説が妥当かどうか、私にはその方面の知識が皆無なので判断することはできない。だがとてもすんなりと説得される。なるほど、論語とはそういう過程で作られてそういう方向性を持たされたものなのだな、とあっさり納得してしまう。これが様々な証左をあげつらって事細かに説明するようなものだったら、待てよとこちらも身構えができるのだが。妖怪ぬらりひょんのようなしたたかさである。
 ともあれこれを読むと、とりあえず論語を読みたくなることは間違いない。


論語,金谷治訳注,1999.11.15.(改訳第3刷),青202-1

 言わずと知れた、でも意外と読んでいる人が少なそうな、孔子の言行録である。
 色々な人が指摘していることだから、あえて書くまでもないのだが、孔子の思想の秀逸さは、徹頭徹尾凡庸な道徳論をまじめにまじめにまじめに説き続けたことにある。

 論語を読んでいても、今まで腑に落ちなかった疑問が雲が晴れるように消えるとか、今までと違った世界が見えてくるといった強烈なカタルシスは、全くと言っていいほど、ない。儒教思想がそれなりに浸透した日本に生まれ育ったせいなのかも知れないが、論語を普通の思想書や哲学書として読み返そうとすると、大半の人間の感想は「So, what?」というものであろう。
 もっとも、だからこそ人生論や処世訓としてこの上なく有用かつ優れているのであって、多くの企業人や成功者が「論語」を座右の書としてあげるのもそのためかも知れない。発見はないが、「役に立つ」思想なのである。
 だがそうした思想的背景を別として、「すぐれた師とそれを取り巻く弟子達の人間模様」として読み始めると、俄然この本は盛り上がりを見せてくる。

 孔子一番のお気に入りで完全無欠の顔回、優等生すぎて失敗する子貢等々、この少ない文章でよくキャラクターを書き分けられるものだと感心するほど面白いのだが、何と言っても一番魅力的なのは、がさつで気が利かないが真正直で憎めない子路であろう。

「やけになっていっそ筏で海にでも出ようかね、ついてくるのは子路ぐらいだろうけど」と孔子が冗談で言うと本気で喜び、「でもね、お前は筏の材料を探すのを忘れそうだし」などとたしなめられる。バカな子ほど可愛いという諺を地でいくような二人の掛け合いは、なるほど中島敦に『弟子』を書きたいと思わせるに足る魅力があったのだろうと思ってしまうのだ。

山月記・李陵他九編,中島敦,1997.4.15.第5刷,緑145-1

 我とは何か? という掬いようも救いようもない疑問に終生悩みつつ、夭折した中島敦の作品集。これを読んだのは『孔子』『論語』と続く流れの締めとしてである。孔子の弟子子路を描いた「弟子」という短編が掲載されているのだ。


「弟子」のことはとりあえず置いて、中島敦は何と己という存在について実感の少ない人だったのだろうと思わずにはいられない。それは自己嫌悪というよりも、もっと脆くて痛々しいものである。作品を読む限りでは、彼は最初から最後まで「自分」について、「世界」について、リアリティを感じ得なかったのだろうと思わされる。もっともそれは、近代から現代に生きる知識人の大半がそうであったのだろうが。

 自分の生き方を生涯肯定できずに絶望する李陵、世界と向き合うことができずに虎となる山月記の李徴の姿は、恐らく中島敦の自画像なのだろう。

 もちろん、深淵のような絶望だけが彼の作品ではなく、文字の精霊が人間をいかにして支配していくかを描いた、星新一っぽい雰囲気の寓話がひょっこり現れたりもするのだけれど。


 さて「弟子」なのだが、この本の中で「弟子」はかなり異なった色彩を放っている。太宰治作品集の中で「走れメロス」だけが「何を間違えたんだ!?」と言いたくなるような雰囲気の違いをみなぎらせているように、「弟子」はその他の作品とは明らかに違うような気がしてならないのである。
 この短編は、非常に明快な中島による孔子論と言ってもいい。孔子のどこが優れていたのか、どこに限界があったのか、といったことをきっちりと書く。そして合わせて、子路のどこが人並み外れて優れ、どこが至らなかったのかということを克明に書く。

 子路の崇高なまでの没利害性、師のために命も名もなげうって悔いない純粋さ、だが孔子の思想を隅々まで体得することはできないあまりの単純さと融通のなさ。

 そしてついに政変に際し、彼はその、いかにも融通の利かない真っ直ぐさによって、惨殺される。それだけ読めば、子路という人間の、立派ではあるが永遠を見ることのできなかった卑小さが描かれていると見えなくもない(実際、解説ではそのような解釈が呈示されている)。


 だが、実際に作品を読むと、そういった否定的な、悲劇的なと言ってもいい雰囲気は全くないのである。中島は、ものすごくこの話を「楽しんで」書いたような気がしてならない。

 子路はどこどこまでも「自分」で在り続けた。彼は自分がどんな人間であるかを知り、それを曲げることなく、自分の愛する師を守り続け、最期は自分の師の教えを叫びながら、自分に殉じて死ぬ。その圧倒的な生き方は、その他の中島作品の苦悩とは正反対と言ってもいいほどだ。彼の凄絶な死に様には、中島の激しい羨望と憧憬すら感じられる。

 恐らく中島自身は、薄紙越しに万物と接触しているような、もっともどかしい人間であったのだろう。そして後悔のない生き方ほど幸福なものはなく、またそれが手の届かないものであることを噛みしめていたに違いない。
 子路が死に至る様を、中島は淡々とした口調をかなぐり捨てて、燃え上がるように書き綴る。仕えた主人を救わんと、敵の中へ身を投じ、正義を唱え、無数の敵と群衆に膾のように切り裂かれて殺される。最期に「君子は冠を正しゅうして死ぬものだぞ!」と孔子の教えを絶叫しながら。その最期を知った孔子が号泣し、彼の死体が塩漬けにされたと知って以後一切塩漬けを口にすることがなかった、という素っ気ない文章でこの物語は終わる。
 恐らく、色々な解釈や深読みがこの物語には可能だろうが、しかしどんなうがった読み方よりも、この最後のくだりが読者の胸に落としこむ深々とした感情にかなうものはないだろう。恐らく中島にとって、この物語で描かれた子路は最高のヒーローだった。ヒーローがそうであるように、手の届かない憧れの存在だったのだ。

恐るべき子供たち,コクトー作,鈴木力衛訳,1992.10.15.第48刷,赤566-1

 ものすごく好き嫌いが分かれそうな作品。好きな人にとっては全てがたまらなく美しく、嫌いな人にとっては吐き気がするほど醜く、そしてそれ以外の人にとっては好き嫌い以前に何が何だかさっぱり理解さえできない、というところだろう。
 奇妙なたとえだが、私がこれを読んだ時に連想したのは、女性向けボーイズ・ラブ作品だった。そこでは男性が、「女性というリアルな存在ではない、何か」を表現するために使われている。この作品では「子供」が、その役割を果たしているのだろう。

 子供の世界、幼心を美しく残酷に表現した、と言われているが、この作品が表現しているのは子供の世界などではない。譲歩しても「大人が夢想する子供の世界」である。それを自覚することができれば面白いが、もしその自覚がなければ、ボーイズ・ラブ作品を人間の理想愛と錯覚する少女に本物のゲイが見せるような、救いようのない軽蔑が待っているだけだろう。
 作品の端々にまで満ちているポルノ小説並に甘く、ご都合主義な空気も、そうとわかっていれば長所と見なすことができる。リアリティの有無やいい加減な展開を取り沙汰してみても仕方がない。そういった批判では傷つかない遠いところに、この作品の価値はあるのだ。

 この世界はひとつの夢であり、夢として首尾一貫している。そしてこの夢が、確かに大きな力となりうる種類の人間は一定数必ず存在する。ただし夢が夢である、ということを忘れない限りにおいては、だが。

 夢が現実より価値がない、あるいはその逆だと言いたいのではない。二者は全く別々のものであり、相互に関連しあってはいるが、その関わり合いは単純に対応関係が指摘できるほど易しい代物ではない、というだけのことだ。
 私自身は、率直に言ってこの作品が好きではない。だが、私の心象風景の中で、全く別の空気と風合いを持ちながら位置としては極めて似通ったところにある作品や対象は、確かにある。私がこの作品を認めるのは、まさにその一点においてなのだろう。

上田敏全訳詩集,山内義雄・矢野峰人編,1980.11.20.第20刷,緑34-1

 山のあなたの空遠く……とか、なべて世は事もなし、とか、とにかくこの人の訳詩のかけらを一度も耳にしない読書家はいないであろう、上田敏の全集である。
 フランス、イタリア、ドイツを始めとした様々な国の近代詩の総ざらえという感もあるこの一冊だが、何しろ訳詩の言葉自体がもう失われつつある文語である。すでに私にはなじみの薄い言葉であって、読み終わるのにかなりの時間を要してしまった。訳詩をさらに翻訳しなければならなかった訳で、この二重翻訳によって細かいニュアンスはかなり変化してしまったような気がする。
 その中でも先程あげた二つの言葉が入っている詩は、やはり飛び抜けて読みやすく、かつ美しい。発音した時の響きやリズムといった口腔感覚、文字の飾らない美しさ、意味のかなしさ、こういったもの全てを兼ね備える訳詩を作り上げるのは、努力や才能のみならず、奇跡に近い何かがなければならないのだろう。これらに比べると、ランボオの「酔いどれ船」やシェイクスピアのソネットでさえも、やはり響くものに欠ける。
 全く読んだことのない詩もたくさんあった。その中でも、ヴィクトル・ユーゴーの書いた「良心」という詩は、詩というより凄まじい迫力の短編心理小説といった趣。さまよう弟殺しのカインが、悔恨から逃れようと放浪し、最後には洞窟の奥深くの地面に穴を掘ってその中に隠れるまでゆくのだが、それでも「自分を見つめる眼」から逃れられずに苦しむ。モチーフは単純といえば単純だが、本当に息が詰まる。
 印象に残ったフレーズは、トゥルゲニエフ「祈祷」の中の、
「人間の祈は、ねぎごとの何なるを問はず、すべて皆奇跡を祈るなり。」
という一節。新興宗教華やかりし現代日本において、奇跡や宗教や祈りの意味について、深々と考えさせられた。