とよティーの喫茶室
 

 まあ、お茶でも飲みながら話しませんか? 平穏に見えても、実際は問題の多い世の中について!

HOME > とよティーのお茶箱 > 戦争被害者への謝罪と補償 &責任者の処罰

■戦争被害者への謝罪と補償 &責任者の処罰

>>教科書風2ページ版

 

 第二次世界大戦といえば、もう60年以上も前に終わったはずの戦争です。その時代を直接に体験した日本国民は少なくなりました。また日本は戦後大きな経済発展をとげたので、ふつうに生活している限りでは、戦争の傷跡を見つけることもなくなりました。多くの日本国民にとって「戦争」は遠い存在です。

 しかし、皆さんは信じられないかもしれませんが、日本や周辺諸国には、現在でも戦争中に受けた被害を抱え、その解決(謝罪や補償)を求め続けながら生きている人たちがたくさんいます。繁栄の陰に隠れて目立たない存在であっても、そのような人々の声に耳を傾けることをしないままでは、私たちの国・日本は本当に「美しい国」にはなれません。

 たしかに「戦争は国と国のケンカだから、加害も被害もあって当然。いまさらそんなことを問題にするのはおかしい」という人もいます。しかし「戦争」は、自然災害とは違って、人為的な出来事です。つまり戦争は、当時の国を動かしていた権力者が避けようと努力すれば避けられた事件なのです。ですから、その努力をしないであえて戦争をし、多くの人々に損害をもたらした以上、当時の(決して民主的な手続で選ばれたわけではない)権力者は、その結果に対する責任を負わなければなりません。

 責任をとるべき権力者が責任をとらず、他方で被害者が放置されている状況は、絶対にあってはならないのではないでしょうか? そのような状況を問題に感じる立場こそ、「正義」というべきです。

 

 はじめに

 Q1、日本国民は戦争でどんな被害・苦痛を受けたのか?

 Q2、日本(政府・軍)は戦争で周辺諸国にどんな被害・苦痛を与えたのか?

 Q3、責任者は処罰されたの?

 Q4、日本だけが悪いの? 日本はダメな国なの?

 Q5、被害と加害の問題をもっと知るには?

はじめに

 日本は、1931年に柳条湖事件を起こし(満州事変)てから1945年にポツダム宣言を受諾して敗戦するまでの約15年間、主として中国・アメリカと戦争を続けていました。この戦争は、当時は「大東亜戦争」と呼ばれましたが、現在では通常、「アジア太平洋戦争」とか「15年戦争」と呼ばれています。第二次世界大戦の一部(アジア戦線)をなす戦争です。

1895年

下関条約

日清戦争の講和条約で、台湾を植民地化。

1905年

ポーツマス条約

日露戦争の講和条約で、南満州鉄道の利権などを獲得。

1910年

韓国併合 

日本が韓国を併合し、朝鮮半島を植民地化。

1931年

柳条湖事件

日本軍が満州の奉天(現在の瀋陽)付近で南満州鉄道の線路を爆破し、「中国のしわざだ」と言って「満州」に侵攻 。中国と事実上の戦争開始。

1937年

盧溝橋事件

日本軍が北京郊外の盧溝橋付近で夜間演習中に、「中国軍から攻撃された」として中国軍と交戦。以後中国と激しい戦争 状態に。

1941年

太平洋戦争

日本軍がマレー半島に上陸すると同時に、中国からの撤兵などを要求するアメリカにも奇襲攻撃をし かけ(真珠湾攻撃)、本格的に戦争開始。

1945年

敗戦 

ポツダム宣言を受諾して、無条件降伏。

1946年

 

東京裁判が始まる。

 

Q1、日本国民は戦争でどんな被害・苦痛を受けたのか?

 このアジア太平洋戦争は、日本国民や日本周辺のアジア諸国民に多大の犠牲を強いる結果となりました。日本は、主としてアメリカ軍の攻撃によって多くの被害を受けましたが、その被害に対するアメリカ政府からの謝罪や補償、また責任者の処罰は、現在でもなされていません。

▼日本国民が受けた主な被害や苦痛▼

戦争最優先の「国家総動員」体制によってもたらされた物資窮乏生活や、治安維持法による言論弾圧など

戦争が始まると、国民生活のすべてが戦争最優先になっていきました。

生活必需品は乏しくなり、空腹と疲労の毎日が続きました。

そして戦争や軍隊、また政府に反対する者は攻撃されたり、処罰されたりしました。

国民精神総動員運動と国家総動員法、大政翼賛会と産業報国会

 1937年、政府は戦争遂行のために「挙国一致・尽忠報国・堅忍持久」をスローガンとする国民精神総動員運動を始めました。また翌年には「国家総動員法」が制定され、議会の承認がなくても勅令によって人や物の動きが統制されるようになりました。

 このような中で既存の政党は解散させられて「大政翼賛会」が結成されました。また労働組合も解散させられて「大日本産業報国会」が作られました。こうして政治・経済・労働の部面で戦争最優先の体制が作られていったのです。

教育勅語の神聖化、学徒動員・学徒出陣、切符配給制と学童疎開

 1890年に発布され、忠君愛国を強調する教育の基本方針とされていた「教育勅語」が、昭和に入ると次第に神聖なものとされるようになりました。既に 1903年に国定化されていた教科書とあいまって、学校では国家や天皇のために尽くすことが国民の最高道徳と教えられるようになり、人権や平和をさげすむ社会風潮が広がることになりました。教育勅語は「御真影」と呼ばれた天皇・皇后の写真とともに校内の特別な場所(奉安殿=独立の建物や、奉安庫=特別な金庫)に保管されたり、児童生徒に教育勅語の暗誦が課せられたり するようになり、その結果「教育勅語」は国家総動員体制と軍国主義を支える重要な存在になりました。

 やがて戦況の悪化による兵員の不足を補うため、1943年から学徒出陣が始まり、多くの学生が兵士として戦地に送り込まれました。また戦争中の労働力不足を補うため、学生や生徒を軍需工場などに動員する学徒動員も行われ るようになりました。

 戦争によって生活必需品が不足するようになると、それらは切符による配給制になりました。しかし配給される量だけでは生活できず、都市住民は農村へ買い出しに出かけたり、闇市を利用するしかありませんでした。

 また1944年からは国民学校(現在の小学校)の児童生徒は集団で農村に移り、親元を離れての生活を強いられました。1944年8月、集団疎開する沖縄県の子供たち等を乗せて長崎に向かっていた対馬丸が鹿児島沖でアメリカ軍の潜水艦に撃沈されて乗員乗客合わせて約1400人が犠牲になる悲劇も起きました(対馬丸事件)。

学問・言論・思想に対する弾圧

 1931年に満州事変が起こると、軍国主義の風潮が高まり、学界の通説であった自由主義的な見解が弾圧されるようになりました滝川事件(自由主義的な刑法学者であった京都大学教授の滝川教授が免職された事件)や、天皇機関説事件(大正時代から憲法学の通説だった美濃部達吉の天皇機関説を1935年に政府が「国体明徴声明」を発して弾圧した事件)が有名です。また1937年の日中戦争勃発以後は、矢内原忠雄(日中戦争に批判的な論文を発表したため東京大学教授を辞職させられた)、 マルクス経済学者の大内兵衛(検挙された)、実証主義・合理主義的な古代史学者の津田左右吉(著書が発禁処分を受けた)らが弾圧されました。

 また1925年に天皇制の廃止や社会主義運動を取りしまるために制定されていた「治安維持法」 は、やがて自由主義者や博愛主義者まで取り締まるようになり、特高警察によって残酷な拷問が加えられました。その犠牲者たちへの謝罪や補償、名誉回復は現在もなされていません。

 

抵抗した人々について調べてみよう

 

 このような軍国主義の時代にあっても、社会の風潮に惑わされることなく抵抗し、人権や平和を守ろうとした人々がいたことを忘れてはなりません。例えば次のような人物や出来事について調べてみましょう。

○「横浜事件」 (戦時下最大の言論弾圧事件)

○「灯台社事件」 (兵役拒否などを貫いたキリスト教団体が弾圧された事件)

○布施辰治 (宮城県出身の人権派弁護士で、弁護士資格を剥奪されたほか投獄された)

○正木ひろし (人権派弁護士で、政府批判の言論を掲載した個人誌が発禁処分を受けた)

○長谷川テル (中国人と結婚。日中戦争中、抗日ラジオ放送に従事し、反戦を訴えた)

 

<さらに余裕があればナチス・ドイツに抵抗した人々についても調べてみよう>

○「白バラ運動」 (ドイツの学生たちによる非暴力の反戦運動)

○ディートリッヒ・ボンヘッファー (ヒトラー暗殺計画に加わり処刑された牧師)

○マルティン・ニーメラー (反ナチスの教会運動における中心的な指導者の一人)

○カール・バルト (1934年にバルメン宣言を起草し、反ナチスの教会運動を指導した20世紀最大の神学者)

 

 

 

沖縄戦と米軍基地

各都市への空襲(アメリカ軍の残虐行為)

 沖縄戦は、住民を巻き込んだ国内最大の地上戦でした。

 1945年4月にアメリカ軍が沖縄に上陸すると、日本軍(沖縄守備軍)は沖縄住民を守るどころか、住民を戦闘に動員したり(ひめゆり部隊など)、あるいはスパイとして敵視する(方言使用の禁止など)などしました。また住民が「集団自決」に追い込まれた悲劇もありました。悲惨な戦闘の結果、軍人・民間人あわせて18万人以上が死亡しました。

 また戦後アメリカ軍は基地を建設するために沖縄住民の土地を「銃剣とブルドーザー」で奪っていきました。

 沖縄戦の被害者に対する謝罪・補償、また米軍基地用地の完全な返還は、現在でも終わっていません。

【写真:沖縄の平和祈念公園にある「平和の礎いしじ」(一部)。沖縄戦の全犠牲者の氏名を国籍や軍人民間人の区別なく刻んだ碑。2004年著者撮影。】

 

 1945年ごろから、日本の各都市はアメリカ軍の空襲を受けるようになり、多くの住民が無差別に虐殺されました。

 しかし空襲のために死んだり住居を失った人々への謝罪や被害補償、責任者の処罰はありませんでした。

 

東京大空襲

 1945年3月10日の空襲では、アメリカ軍の爆撃機の大編隊による爆撃で、市街地の40%が焼失し、約10万人が犠牲になりました。

  しかも許しがたいことに、東京大空襲の作戦指導者ルメイ将軍は、戦後日本の再軍備にかかわり、日本政府から表彰され ました。

原子爆弾の投下

 アメリカは、1945年8月6日に広島、9日長崎に原子爆弾を投下しました。強力な放射線・爆風・熱線のために、合計約20万人の住民(朝鮮人らを含む)が虐殺されました。 二次被曝や胎児被曝などを含め、被害は現在でも残っています。

 

中国残留孤児

ソ連軍の残虐行為と、シベリア抑留

 1945年8月8日にソ連が満州に侵攻すると、中国東北部の日本軍(関東軍)は、日本人住民を放置したまま逃走しました。そのため逃げ遅れた日本人住民は幼い子どもを中国に置き去りにせざるを得ないことがありました。その子どもの多くが中国人によって育てられ、「中国残留孤児」となりました。

 「中国残留孤児」たちは、日中国交回復後、身元確認を経て日本に帰国できるようになりました。しかし日本政府が「帰国は個人の責任で行うもの」としたため、現実には帰国できない孤児も少なくありませんでした。また帰国できても、日本語の習得など生活保障の政策も不十分だったので、多くの帰国孤児たちが困窮生活に追い込まれています。現在、元孤児たちによる裁判が起こされています。

 「満州」に侵攻したソ連軍は、置き去りにされた日本人を暴行したり強姦したり、その財産を略奪しました。

 また戦後、ソ連は、中国東北部で 数十万人の日本軍将校や兵士、「満州国」幹部を逮捕し、シベリアに抑留して強制労働をさせました。

 被害者への補償は 現在もなされていません。

Q2、日本(政府・軍)は戦争で周辺諸国にどんな被害・苦痛を与えたのか?

 アメリカ軍の攻撃による日本国民の犠牲だけを見ていると、日本はアメリカから一方的に攻撃された惨めな被害者のように見えます。しかしその被害の背景には、日本による多大の加害行為(国際法違反や、戦争犯罪を含む)があったことを忘れてはいけません。

 日本は、欧米諸国に対抗して近隣アジア諸国の植民地化を推し進める過程で、アジア近隣諸国民に多くの損害を与えました。特に「アジア太平洋戦争」が始まってからの15年間の加害行為の規模の大きさ・残虐さは、世界史的に見ても特筆されるほどです。ですから、例えば中国や北朝鮮が事あるごとに日本に対して賠償・補償を求める態度には、それなりの理由があるのです。

 ▼日本(政府・軍)による主な加害行為▼

731部隊と細菌兵器

強制連行・強制労働

 関東軍(中国東北部にあった日本軍)の731部隊(ななさんいち・ぶたい)は、 正式名称を「防疫給水部」といい、もともとは兵士の病気予防を任務とする部隊です。その性質上、隊員の多くは医者の資格をもっていました(軍医)。ところがその医学的知識を悪用して、731部隊では、当時から国際法で禁止されていた細菌兵器を開発し、 一部は実戦にも使用していました。また細菌兵器の開発にあたって、約3000人の中国人やロシア人らを実験台として虐殺しました。

 1945年のソ連軍の侵攻とともに施設は破壊され、部隊長・石井四郎は日本に逃亡しましたが、戦後、人体実験で得た知識をアメリカ軍に提供することと交換に、戦争犯罪人としての処罰を免れました。被害者に対する謝罪や補償は現在でもなされていません。また責任者の処罰もなされていません。

 731部隊の本部は、1938年ごろから中国のハルピン郊外に置かれていました が、731部隊を含む同様の部隊を上層で統括していたのは、東京・新宿にあった「陸軍防疫研究所」というところです。1981年にこの研究所の跡地から、異様な方法で解剖されたらしい多数の人骨が発見され、731部隊との関連が指摘されました。

 また731部隊員であった軍医の中には、戦後の医学界で活躍した者も少なくありません。薬害エイズ事件で非加熱製剤の製造元として問題になった「ミドリ十字」社の設立にも、元731部隊の関係者がかかわっていました。

【写真: ハルピン郊外の731部隊本部跡=ボイラー棟の残骸。1992年著者撮影】

 

敬蘭芝(チン・ランチー)さん

 敬蘭芝さんは731部隊に夫を殺された女性です。敬さんの夫は、1941年に日本軍憲兵によって拉致された後、731部隊に送られて殺害されたことが戦後 に確認され、1995年に日本政府を相手に裁判を起こしました。敬さんは2000年に死去しましたが、裁判は現在も続けられています。

「悪魔の飽食」

 731部隊の犯罪行為は、1981年に作家・森村誠一氏のドキュメンタリー「悪魔の飽食」が発表されたことがきっかけで広く世間に知られるようになりました。

 1984年にはこの小説を原作とした混声合唱曲「悪魔の飽食」が作られ(作曲:池辺晋一郎氏)、現在まで日本国内の約20都市、また中国でも4都市で、コンサートが開催されています。

  戦争中の労働力不足を補うため、日本は朝鮮人や中国人を拉致して日本国内(場合により占領地内)に連行して労働を強制しました。労働者あつめには軍隊の力も借りていました(労工狩り・うさぎ狩りと呼ばれた)。厳しい労働や労働現場の日本人監督らによる虐待のために、多くの朝鮮人・中国人が殺されました。その遺体が捨てられた場所は「万人坑」とも呼ばれます。 朝鮮人の強制連行は1939年ごろから始まり、被害者者は約60から80万人にのぼります。また中国人の強制連行は1944年ごろから始まり、国内135の事業所で働かされた者たちは約4万人にのぼりました。

 その被害者(朝鮮人や中国人など)に対する謝罪や補償は、現在でもなされていません。 日本の敗戦直後の1945年8月24日、日本で働かされていた朝鮮人たちが帰国するため乗っていた浮島丸が、京都府の舞鶴湾で爆発沈没した事件(浮島丸事件)については、米軍の機雷に接触したためという説もありますが、強制連行の事実を隠すため日本政府が爆破したものとする説もあります。

 

花岡事件

 秋田県花岡(現在の大館市)で、土木工事のため約900人の中国人を働かせました。1945年6月30日、過酷な労働環境に苦しんだ中国人たちが反乱をおこし多数の死傷者が出ました。

 事件の生存者は1995年に加害企業に損害賠償を求めて裁判を起こし、2000年に和解が成立しました。

 

 【写真:花岡事件で犠牲になった中国人の慰霊碑。著者撮影】

劉連仁(リュウ・レンジン)の逃避行

 1944年に拉致・強制連行されて北海道の炭鉱で働かされていた劉連仁は、重労働と虐待に耐えかねて逃亡し、敗戦の事実も知らないまま北海道の山野を放浪しました。1958年に発見されて、謝罪と賠償を求める声明を残して中国に帰ることができましたが、日本政府は強制連行の事実を認めなかったため、劉さんは1996年に日本政府を相手に裁判を起こしました。劉さんは2000年に死去しましたが、現在この裁判は遺族によって続けられています。

泰緬鉄道建設に伴う強制労働

 日本軍はタイとビルマを結ぶ鉄道建設の際に、多数の連合軍捕虜(約6万人)にも労働を強制し、多数が死亡した。映画『戦場に架かる橋』のモデルにもなった。

 

毒ガス弾の実戦使用と、遺棄

 「慰安婦」

 日本軍は、戦争中に広島県や神奈川県で毒ガス兵器を製造し 、一部は当時の国際法に違反して実戦でも使用しました。

 また日本軍は、敗戦前後に、大量の毒ガス兵器を中国大陸や日本国内の各地に廃棄(地中に埋めたり河川に投棄するなど)しました。そのため、その事実を知らない中国や日本の住民が農作業や工事などの際に毒ガス弾を掘り当て、中から出てきた毒ガスで死傷する事件が現在でも発生しています。

 これらの被害者に対する謝罪や補償も十分ではありません。

 日本軍は、兵士の性欲を満たす場を確保する(強姦事件を予防する)ためと称して、主として朝鮮人の若い女性を 多数、戦地に連行・監禁し、「慰安婦」として暴行しました。その被害者の多くは、謝罪も補償も受けていません。

 なお日本では、「慰安婦は民間業者が連れ歩いていた売春婦で、日本軍には責任はない」などと誤った主張をする人々がいます が、軍がかかわっていたことは既に明らかになっています。

住民虐殺・無差別爆撃

 

日本軍は中国などでたくさんの住民を虐殺しました。

中国では、日本軍の残虐さを「三光(焼き尽くし(焼光)、殺しつくし(殺光)、奪いつくす(略光))」という言葉で表現しました。

 

南京大虐殺

 1937年に日本軍は上海に上陸後、長江沿いに南京に進軍し、南京を占領しました。日本軍は、その進軍の途中および南京 市内と周辺において、 約30万人の中国兵や民間人を虐殺したり、多数の女性を暴行しました。その被害者は今でも謝罪・補償を受けていません。

 南京大虐殺で日本兵に暴行されながら奇跡的に一命をとりとめた李秀英さんは、1995年に日本政府に損害賠償を求める裁判を起こしました。李さんは2005年に死去しましたが、裁判は現在も続いています。

 なお日本では、「南京大虐殺の事実はなかった」などと誤った主張をする人々がいます が、当時のことは日本軍の行動を取材していた欧米ジャーナリストなどによって世界に報道されており、大量虐殺の事実は否定できないものとなっています。

 日本軍の2人の将校が「中国人を百人斬殺する」競争をした事実が、当時の日本の新聞に報道されています。この将校の遺族が、戦後この事実を紹介したジャーナリスト本多勝一氏などを相手どり「名誉毀損」として訴えていた裁判でも、最高裁判所は2006年12月に「百人斬殺の事実がなかったとは言えない」とする判決を出しました。

 平頂山(へいちょうざん)事件

 1932年9月中国東北部の撫順ぶじゅん炭鉱を収奪していた日本に抵抗する中国人ゲリラたちが撫順炭鉱事務所を襲撃。それに対して日本軍が報復を企て、炭鉱近くの平頂山の村民を虐殺し ました。【写真:平頂山事件の記念館で1992年著者撮影】

 平頂山事件で奇跡的に助かった莫徳勝さんが日本政府に損害賠償を求めた裁判は、2005年の最高裁判決で原告敗訴が確定しました。 結論は敗訴でしたが、平頂山事件の事実を認めようとしなかった日本政府に対して、裁判所が平頂山事件の歴史的事実を確認したことは大きな成果となりました。

 

無差別爆撃

 アメリカ軍による日本本土爆撃が本格化する以前から、日本軍は中国の大都市に対する無差別爆撃を行い、多数の中国人を虐殺しました。

華僑虐殺など

 日本軍は、1942年にシンガポールを陥落させたのち、現地の華僑(かきょう=中国人)を多数虐殺しました。 またマレーシアでは、住民の子供を空中に投げ上げ、落ちてきたところを銃剣で突き刺して殺すといった残虐行為を行いました。

 

皇民化政策

アヘン政策

 日本政府は、植民地化した地域の文化や伝統を否定し、住民を日本人化する(=天皇の臣民にする)政策を行いました。最も強力に進められた朝鮮半島では、日本語の使用・神社参拝・創氏改名などが強制されました。

 日本は、軍資金調達や占領地の抵抗運動を抑える目的で、麻薬の一種であるアヘンの栽培と売買を進め、多くの中国国民をアヘン中毒に陥らせました。

Q3、責任者は処罰されたの?

 第二次世界大戦は、戦後に責任者に対する国際軍事裁判が行われた点で、それ以前の戦争と大きく違っています。

 日本の同盟国であったドイツでは、1945年から翌年にかけて「ニュルンベルク裁判」という国際軍事裁判がひらかれ、侵略戦争にを計画したり加担したり、あるいは戦争犯罪や非人道的な犯罪を犯したことを理由にして、元・ナチス党の幹部や政府高官など24人が裁判にかけられ、半数の12人が死刑に処せられました。また1960年代には、ユダヤ人虐殺にかかわった人物をドイツ国民自身が裁く「アウシュビッツ裁判」も行われました。

 

 日本では、ポツダム宣言(第10項)に基づいて、1946年から48年にかけて東京で「極東国際軍事裁判(東京裁判)」が、またアジア各地でいわゆる「BC級戦犯裁判」がひらかれました。東京裁判では、「平和に対する罪(侵略戦争の計画など)」・「通例の戦争犯罪(捕虜の虐待など)」および「人道に対する罪(大量虐殺など)」のかどで、東条英機元首相をはじめとする軍や政府の高官など28人が裁かれ、うち7人が死刑に処せられました。

 

■ポツダム宣言(第10項)

 原文: We do not intend that the Japanese shall be enslaved as a race or destroyed as a nation, but stern justice shall be meted out to all war criminals, including those who have visited cruelties upon our prisoners. The Japanese Government shall remove all obstacles to the revival and strengthening of democratic tendencies among the Japanese people. Freedom of speech, of religion, and of thought, as well as respect for the fundamental human rights shall be established.

 原訳: 吾等ハ日本人ヲ民族トシテ奴隷化セントシ又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非ザルモ吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ言論、宗教及思想ノ自由竝ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ

 口語訳(by著者): 私たち(ポツダム宣言を発した米英中3国をさす)は、日本民族が奴隷化されたり、又は日本国民が滅亡させられることまでは意図しないが、私たちの捕虜を虐待した者を含む一切の戦争犯罪人に対する厳重な処罰は、実施されるべきである。日本国政府は、日本国民の間に民主主義的な傾向が復活し強まっていくために障害となるものを、すべて取り除くべきである。また言論・宗教および思想の自由ならびに基本的人権の尊重が確立されるべきである。

 

 「東京裁判」や「BC級戦犯裁判」は、戦勝国が敗戦国を裁くという構図となり、また「罪刑法定主義」や「法の不遡及」という近代刑事司法の基本原則などが保障されなかったため、当時からこの裁判を否定する意見はありましたし(例:東京裁判の判事の一人であったインドのパール氏)、現在でも同じ立場からこの裁判を否定する意見は存在します

 「パール判事の意見」というのは、東京裁判の判決に対するパール判事の個別意見のことです。日本の戦争責任を否定しようという意図をもつ人々は、しばしばパール判事の意見書を引き合いに出しますが、パール判事の意見書の一部を都合よく利用しているだけ、という面があるので注意しなければなりません。パール判事は、法律学者として東京裁判が法的に多くの問題を抱えていることを指摘していますが、日本の残虐行為それ自体については厳しく批判しています。それどころかパール判事は、戦後たびたび日本を訪れ、日本の再軍備(自衛隊創設)を批判し、憲法9条護持と非武装中立を主張し、ガンジーの非暴力不服従運動と絶対平和主義を唱え続けたのです。したがってパール判事の人柄や思想の全体像を無視して、「パール判事は日本の加害行為を許した」などというふうに誤解してはいけません。

 

 しかし、日本は1951年に結ばれたサンフランシスコ平和条約(第11条)で、東京裁判とBC級戦犯裁判を受諾することを宣言しています(下記)。日本はこの条約を締結したことによって連合国と講和し国際社会に復帰したわけですから、東京裁判とBC級戦犯裁判を否定することは、サンフランシスコ平和条約締結やポツダム宣言受諾を拒否する、つまり再び戦争状態に戻る決意をする、ということを意味しています。

サンフランシスコ平和条約 第十一条 日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。これらの拘禁されている者を赦免し、減刑し、及び仮出獄させる権限は、各事件について刑を課した一又は二以上の政府の決定及び日本国の勧告に基くの外、行使することができない。極東国際軍事裁判所が刑を宣告した者については、この権限は、裁判所に代表者を出した政府の過半数の決定及び日本国の勧告に基く場合の外、行使することができない。

 むしろ、これらの裁判を批判するならば、「裁かれるべき問題がきちんと裁かれなかった」点にもっと注目すべきです。例えば「東京裁判」では、731部隊の戦争犯罪は裁かれませんでした。731部隊が残虐な人体実験によって獲得した軍事的に有益な知識を、アメリカ軍が独占しようとしたためです。また戦前の日本における最高権力者であった昭和天皇も、「戦後日本の統治を円滑に進めるためには天皇を利用したほうが得策だ」と考えたアメリカの方針によって、ついに戦争責任を追及されませんでした。「慰安婦」についても裁かれていません。また「BC級戦犯裁判」では、そもそも日本の植民地支配について裁かれることがありませんでした。それゆえ、本来ならば日本の植民地支配の犠牲者であるはずの植民地出身者(朝鮮人・台湾人)が、理不尽にも「日本軍人」として裁かれるというような悲劇も起こったのです。

 ドイツでは、ニュルンベルク裁判で十分に裁かれなかったユダヤ人虐殺について、その責任者のごく一部ですが、戦後20年近く経過してからドイツ国民みずからの手によって裁いたことがあります(上述「アウシュビッツ裁判」)。しかし日本では、日本国民自身の手によって戦争責任者を裁判して処罰したことは、ただの一度もありません。法的手続きの面から東京裁判を批判する人々のほとんどは、戦争責任者の追及自体を否定しているのですから、東京裁判の欠点を補うような裁判の開催を求めるわけがありません。

 

■「ハバロフスク裁判」と、「撫順ブジュン戦犯管理所」

 日本の戦争犯罪を裁いた裁判が、実はもう一つあります。ソ連が開いたハバロフスク裁判です。ソ連が「満州」で拘束した日本人たちのうち、関東軍幹部や 731部隊に関係する人物らを、1949年にハバロフスクで裁判にかけたのです。12名が強制労働の判決を受けて服役しました。またこの裁判では、731 部隊の戦争犯罪も裁かれました。

 また、ソ連が「満州」で拘束した日本人の一部は、その後中国に引き渡され、撫順戦犯管理所に収容されて、“鬼から人間に戻るための教育”を受けました。肉親を殺された被害者であるはずの中国人たち は、“罪を憎んで人を憎まず”の精神に基づいて、日本人を丁重に扱いました。そのこともあって、収容された日本人はやがて自らの残虐行為を心から悔い改めました。 中国から許されて日本に戻った彼らは、1957年に「中国帰還者連絡会」(2002年に高齢化等のため解散)を結成して、日本の中国に対する加害行為について積極的に証言するなど、戦後の平和運動・平和学習の発展に尽くしました。【写真:中国帰還者連絡会が撫順戦犯管理所跡地に立てた「抗日殉難烈士謝罪碑」。1992年著者撮影】

Q4、日本だけが悪いの? 日本はダメな国なの?

 このような話題になると、中には「日本は(日本だけが)悪い」と思いつめて元気をなくしてしまう人がいますが、日本だけが悪いわけではありません。既に触れたように、アメリカやロシア(旧ソ連)にも、原子爆弾の投下やシベリア抑留などの戦争責任があるからです。しかし日本は、アメリカに対しては1951年のサンフランシスコ平和条約で、ソ連に対しては1956年の日ソ共同宣言で、それぞれ賠償請求権を放棄しました(=アメリカ・ソ連から見れば、日本に対する債務を免れた)ので、アメリカ政府や現ロシア政府は日本に対して(国家としての日本だけでなく、個々の被害者に対しても)、謝罪も補償もしていませんし、責任者の処罰も実行していません。

 

 しかし、「じゃあ、だから」と言って、「日本もアメリカやロシアと同じように、中国などアジア諸国の被害者への謝罪も補償も、責任者の処罰もしなくてよい」のでしょうか? 私はそうではないと思います。たとえば日本とは対照的に、ドイツは戦後、被害国に対して「永遠に謝り続ける」との決意で、真剣な謝罪を繰り返しています(1970年ブラント首相のユダヤ人ゲットー跡での献花や、1985年ヴァイツゼッカー大統領の演説が有名です。また2004年には首都ベルリン中心部の2万uの広大な敷地に、2711基におよぶ巨大な慰霊碑群を建設しました)。また「連邦援護法」や「連邦補償法」などの法律や「記憶・責任・未来」基金(総額100億マルク)の創設により被害者への補償にも積極的ですし、戦争犯罪人の捜索・裁判・処罰を現在でも続けています(ドイツでは計画的殺人には時効がありません)。それゆえ戦後のドイツは近隣諸国から信頼される国になっています。この他にもドイツではユダヤ人虐殺の事実を否定する言論は禁止されています。

 

 日本では、「日本はこれまで総理大臣が中国や韓国に行ったときに何度も謝っている、それなのにまだ中国や韓国の人たちは文句ばかり言っている。いったい何回謝ればいいんだ」というような意見を言う人が少なくありません。しかし、戦後すべての総理大臣が謝罪をしているわけではありませんし、そもそも“ひとくち「おわび」の言葉を口にすれば許してもらえる”わけでもありません。また、総理大臣が謝っていても、実際にはその総理大臣の出身政党につらなる他の政治家が、中国や韓国を侮辱するような発言を繰り返しているのですから、「本心からの謝罪」として受け取ってもらえるはずがありません。謝罪は、単に言葉だけでなく行動が伴わなければなりません。ドイツのように、具体的な被害補償や責任者の処罰をしながら、そのうえ「何度でも永遠に謝り続ける」という態度を示してこそ、被害国は加害国の謝罪を受け入れることができるのです。

 

 賠償請求権を放棄させたことをたのみにして謝罪・補償・処罰に応じないアメリカと、みずから積極的に謝罪・補償・処罰を続けるドイツとを比べたとき、いったいどちらが正しい態度だと思いますか? 私は、ドイツのほうが正しいと思います。それは人間同士の間では当たり前のことですが、国家間においても言えることです。罪を認めようとしない人が本当は信頼されないのと同じように、罪を認めようとしない国は本当は信頼されません。しかし今の日本は、残念なことに、アメリカと同じように、中国人や朝鮮人たちの謝罪・補償を求める声に耳をふさいでいるのが実情です。1972 年に日本と中国の国交が回復したとき結ばれた日中共同声明(第5項)に、「中国政府は日本国に対する賠償請求権を放棄する」との宣言があるため、日本政府は中国人戦争被害者個人からの補償請求にもいっさい応じない姿勢をとっています。しかし「中国が放棄したのは政府間の権利だけで、被害者個人が日本政府に補償を求める権利までは放棄していない」というのが中国側の主張で、この理屈には少なからぬ説得力があります。例えば日本政府自身も、過去に広島の被爆者が日本政府に被害補償を求めた裁判で、「アメリカ政府に被害補償を請求するべきだ」と抗弁したことがあるそうです。

 

 日本もドイツのように誠実な国になれば、近隣諸国から信頼されるようになり、中国や韓国から「文句」を言われることもなくなるでしょう。日本が立派な国になれば、このような問題でアメリカやロシアより優れていることになり、うまくいけば国際社会で正々堂々とモノが言えるようにもなるでしょう。国連の安全保障理事会の理事国になることをめざすよりも、そういう努力を積むことこそ、日本の歩むべき道ではないでしょうか。それは決して実現不可能な夢物語ではありません。実際にドイツが実行しているのですから、決意すればできることです。それができない「ダメな国」になるかどうかは、ひとえに日本国の主権者である私たちの判断と行動にかかっているのです。そして「愛国心」について言うのなら、日本をもっと信頼される誠実な国にしようとすることも、立派な愛国的態度です。

 

 最後に一つ。1968年の国連総会決議により採択され、1970年に成立・発効した国際条約に、「戦争犯罪および人道に対する罪に対する時効不適用条約」というのがあります。これは条約加盟国の国民に、戦争犯罪と人道に対する罪について永遠に責任追及する権利を認めたものです。しかし日本政府はまだ批准していません。1968年の国連総会決議の際も棄権しています。

Q5、被害と加害の問題をもっと知るには?

 多数の資料がありますが、いくつか選んで紹介します。

 

●書籍では

 治安維持法と特高警察について

  ○奥平康弘ほか『横浜事件』岩波ブックレット78、1987

 アジア侵略史・中国侵略史に関する概説として

  ○日中韓3国共通歴史教材委員会『未来をひらく歴史』高文研、第2版2006

  ○岩波ブックレット・シリーズ昭和史

  ○本多勝一『中国の旅』朝日文庫、1981

  ○高嶋伸欣『旅しよう東南アジアへ ―戦争の傷跡から学ぶ―』岩波ブックレット99、1987

  ○森正孝ほか『日本は中国に何をしたの』明石書店、1994

 731部隊に関する入門書として

  ○西野留美子『七三一部隊の話 十代のあなたへのメッセージ』明石書店、1994

  ○森村誠一『悪魔の飽食』角川文庫、1983

 従軍慰安婦に関する入門書として

  ○西野留美子『従軍慰安婦 十代のあなたへのメッセージ』明石書店、1993

  ○吉見義明ほか『従軍慰安婦をめぐる30のウソと真実』大月書店、1997

 南京大虐殺に関する入門書として

  ○本多勝一『南京への道』朝日文庫、1989

  ○藤原彰ほか『南京大虐殺の現場へ』朝日新聞社、1988

 戦争責任・戦後補償について

  ○丸山真男『現代政治の思想と行動』未来社、1964  

  ○家永三郎『戦争責任』岩波書店、1985

  ○ハンドブック戦後補償編集委員会『ハンドブック戦後補償』梨の木舎、1994

 ドイツの謝罪について

  ○ヴァイツゼッカー『荒れ野の40年』岩波ブックレット55、1986

 

●映画では

 日本の被害を描いた作品として

  ○大澤豊『GAMA・月桃の花』1996 沖縄戦を描いた作品

  ○高畑勲『火垂るの墓』スタジオジブリ、1988

  日本の加害行為を描いた作品として

  ○池谷薫『蟻の兵隊』2005

 ナチドイツへの抵抗を描いた作品として

  ○マルク・ローテムント『白バラの祈り』2005 ベルリン国際映画祭銀熊賞受賞作品

 ドイツ政府のナチ戦犯追及を描いた作品として

  ○コスタ・ガブラス『ミュージック・ボックス』1989 ベルリン国際映画祭金熊賞グランプリ受賞作品

 

●市民団体では

 ○治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟

 ○中国人戦争被害者の要求を支える会

 ○映画「侵略」上映委員会


2006/12/31 初版

2007/1/7 教育勅語に関する記述を追加

2007/7/22 教科書風2ページ版追加

2008/1/2 パール判事の意見書に対するコメントを追加