8、本宿下堰



本宿下堰と寿橋の安全を祈願した供養塔
 
 本宿は水不足の時期となると、黄瀬川自体の水が僅かとなり、新井堰から本宿用水に殆ど水がとどかない状態であった。そのため牧堰との水争いが絶えなく、どうしても黄瀬川の水を利用できる別の堰を設けて下原方面の灌漑を行う必要があった。
 そこで、本宿では寛文9年に野村代官へ実情を陳述し、野村代官の許可により翌年寛文10年春に下堰が構築された。
 下堰は現在の新幹線鉄橋から数十メートル下流の「本宿字四通307番地」付近に対岸までの川幅一杯に、長さ30間・幅4尺・高さ3尺の堰を築いた。そしてこの堰から黄瀬川の土手に15間の溝を掘り、周りを芝で敷き詰めた。さらに、南方に向かって黄瀬川に沿い250間の溝を掘った。

 この堰と用水路は比較的簡単な構造で構築したが、本宿の下原方面と伏見の灌漑には大きな効果をもたらした。
 これらの本宿農民による努力は、この時期の収穫米調査記録から収穫量が増量していることからも読み取ることが出来る。そして、この時期は箱根用水がまだ開通しない2年前のことである。

 本宿下堰は現在全く形を残していないが、用水路の跡は黄瀬川沿いの茂みとして今も公図に水路敷きとして残っている。
 また、下堰から黄瀬川の土手に築かれた溝割り沿いに立てられていたと言われる供養等は黄瀬川の増水により土手が崩れ、長い間河川の中に埋もれていた。十数年前に本宿共有地管理委員会により、川の中から引き上げられ旧寿橋沿いに祭られた。




寿橋から見た下堰付近(新幹線鉄橋の手前付近)