6、本宿用水(牧堰水論)



鮎壺の牧堰橋から見た現在の牧堰
 本宿村と黄瀬川西側の牧堰15か村との間には、黄瀬川からの取水に関し長い間水論が交わされてきた。これは、それぞれが水不足解消のため止むを得ない論争であったと言える。

 深良用水(箱根用水)の掘抜き計画には元締めたちが下土狩村や竹原村の水不足を考慮に入れて工事出願手形を小田原藩や幕府に出している。
これは、下郷の灌漑までを十分に考慮していたと言える。しかし、結果として下郷の末端の村までは箱根用水の水が十分に行き届かず、計画どおり新田を多く作ることができなかったようである。

 このような状況の中で、いち早く湖水組合を脱退したのは牧堰15か村の人々で、友野与右衛門が沼津代官から江戸へ退去を命じられると間もなく、牧堰に箱根用水が入らないことを理由に湖水利用を断念した。



  
本宿用水(新井堰)取入れ口

 一方、本宿新井堰の掘抜き穴の入口付近には、鮎壺からの箱根用水の分け水が入っていたが、渇水時にはその量も少なく、本宿村は黄瀬川の牧堰からの垂れ水がどうしても必要であった。そこで本宿村は牧堰15か村に牧堰からの分け水を頼んできた。

しかし、相互の調整が利かず、元禄10年5月に本宿村の3名主は沼津・原の両代官所へ訴訟状を提出した。だが、代官の交代や大雨による牧堰の流出等が発生し、代官所による判定が下されないまま牧堰はより強固な堰を作り上げた。そこで本宿村の3名主は元禄12年5月に江戸奉行所へ訴訟状を提出した。奉行所による聴取の結果、井戸対馬守から「田作仕付のため牧堰水落とすべき」の書状を渡されたのであった。

 この書状により沼津の外山代官は牧堰の水を切り落とさせたが6月4日から3日間のみであったため、本宿村は再び奉行所へ訴えた。奉行所は元禄12年8月25日に本宿村と牧堰側の双方を評定所へ呼び、陳述を聴取するとともに検使を遣わし現地を検分させた。

 そして、奉行所は元禄14年2月25日に双方を呼び出し、評定所から裁許状が下された。だが、その後20年間近く牧堰水論は繰り返され、享保4年5月と6月に奉行所へ出された本宿村からの嘆願に対し、評定所は
@本宿村の者は一切牧堰に近寄ってはならない。
A牧堰の構造は石積として余水は本宿村に引き取らせること。
として、双方の確約書を評定所に提出させた。これにより、その後の牧堰論争は後を絶った。