「駿州駿東郡本宿村検地帳 慶長十四年九月一日 御縄入」
 江戸幕府を開いた徳川家康は、農民支配に新しい方法を打ち出すため、最初の検地を慶長9年(1604年)から実施し、当時天領(江戸幕府の直轄の領地)だった本宿村も慶長14年に行いました。

 検査役人は牛田松右衛門、川上十助、賀冶次左衛門、筆記係 堀越半左衛門、本宿村案内役として名主高田久左衛門があたっています。

 検地帳は、間竿や縄を用いて、村の田畑や屋敷などを一筆(区画)ごとに段別(田畑の広さ)の測量と、田畑の良し悪しや石高(収穫量)、そして耕作農民の名前を一人ひとり記録した帳面です。

 慶長の検地による本宿村の田畑の合計は13町4反6畝17歩、屋敷の合計は8反4畝29歩で、総合計が14町3反1畝6歩あり、総村高(土地の生産高)が上げられて本宿村の年貢や諸役賦課の基準が定まります。農地を通じて、農民と領主の関係が結ばれます。
◎間竿:
土地の広さを測るために用いた竹の竿で、豊臣氏は6尺3寸、江戸幕府は6尺1分を用いた。
◎諸役賦課
種々の雑税を割り当て負担すること。