「慶長八年三月十五日 天野康景 井堰料宛行状」
 本宿用水は、着せ側の鮎壺の滝の上から掘り抜き隋道で、本宿地区内に用水として引かれています。この用水取り入れ口には、平成3年と平成11年に改修された「本宿用水隋道」の記念碑が、それぞれ建立されています。

 江戸時代、本宿村は、黄瀬川の段丘や氾濫の地にあり、その上土質も悪く、いつも干ばつの危険にさらされ、用水は村民の死活問題でした。

 慶長八年(1603年)、興国寺城(沼津市根古屋)の城主であった天野三郎兵康景は、本宿農民の願いに応えて、本宿堰の築造を許可しました。これは、箱根用水ができる64年前のことです。当時の本宿村の農民が松明の光のもとで、どのようにして掘削が行われたか関心のあるところですが、藩主の天野康景は、本宿村の農民にあてて、ありがたいお墨付きの証文をくださいました。
 
「本宿村のうち、十石分の土地を検地帳から差し引き、管理費にあてるよう免除するので、毎年堰の管理を怠らぬように」との御判物です。

 本宿用水の歴史は、慶長のころから今に続き、平成の修復記念碑の終わりには、感慨深い言葉とともに、隋道の全長や総工費の額などが刻まれています。



天野差三郎兵衛康景が本宿村にあてた井堰料宛行状