「慶長八年三月五日 天野康景 石仏料宛行状」
 本宿村の雲龍寺は平安時代の古い寺で、治承元年(1177年)に阿闍梨閑察上人が真言宗のお堂を創建し、文治二年(1184年)初代法蓮社性譽上人が大法山興国院雲龍寺を開山(そのお寺を初めて作ること)し浄土宗に改宗したと伝えられています。

 慶長八年(1603年)、興国寺城(沼津市根古屋)の城主であった天野三郎兵康景は、信仰心厚く「雲龍寺御同宿中」あてに御判物をくださいました。これは「雲龍寺に安置されてある弘法大師御作の大仏如来と不動尊の石仏へ二石の収穫のある土地を検地帳から差し引き寄進するので、末代まで仏を供養するように」との宛行状です。

 雲龍寺では、現在もこの宛行状どおり、大日堂を建てて二体の石仏を安置し、今なお厚く供養しています。
◎天野三郎兵康景(あまのさぶろひょうえやすかげ)
 三河(愛知県東部)の生まれで、幼少のころから家康に仕え、家康の”康”の字を賜る。家康に従い歴戦、特に三方ヶ原、長久手、関ヶ原の戦いで軍功がある。慶長六年(1601年)に一万石の大名に取り立てられ、駿河国駿東郡興国寺城の城主となる。
◎宛行状(あておこないじょう)
武将が家臣に所領などを与えるときに渡した文書。
御判物とは、宛行状などの文書を総称したもので、将軍や大名の花押があるもの。



天野三郎兵衛康景が本宿村にあてた石仏料宛行状