わがままトーク「成人考」
「エトス」1988年1月号(太平洋教育文化交流協会関西本部発行)より転載



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 新聞のマンガを読むのを日課にしている。世界をうまく斬っていて、楽しいものだ。
 何年の、どの新聞でだったか、成人の日のことを書いたものがあった。来賓の政治家が 新成人を目の前にしたら、顔がみんな「票」に見えたという作品だった。「投票」するこ とにあこがれる高校生にとっては、妙に興味深く思われた。
 もし選挙権が与えられることが「大人」の指標であるならば、アメリカでは一八歳以上 が「大人」となる権利を与えられた人達だ。「一八歳以上」イコール「大人」と言わない のは、年令に達しても、選挙人登録をしなければ、投票できないからだ。
 日本の場合、二〇歳になれば、基本的にだれでも投票できる。だが、その二〇歳である ことを祝うために、誕生日だけでなく「成人の日」という国民の祝日を設けてあるのは、 何とも不思議な習慣だと思う。
 実をいうと、私には「成人式」がなかった。二〇歳になる年には、住んでいた市の規定 は「前年に成人した 人」が対象であった。これに対して二〇歳になって初めて 迎えた正月にいた都市では、「その年に成人する 人」が対象だった。見事に外 したわけである。もっとも、いずれの年も受験生であったから、成人式の記念品よりも、 目の前の数学の正答の方が欲しかった。実際に後の年には共通一次対策の模試を受けてい たし、ついでにいうと、二〇歳の誕生日にもある大学校(文部省管轄外の職員養成機関) の採用試験を受けていた。いわば、「戦場のハッピーバースデー」である。
 とはいえ、私自身はこんな経験を残念に思うことなど、全くない。むしろ他人にできな いことができて、うれしいくらいだ。つまるところ、成人するということは、儀式や祭典 などによって初めて意識されたり、他人や権力から与えられるものなのではなくて、もっ ぱら個人の心の中の問題であると思うのだ。だから、ムリに優劣をつけるとすれば、差別 につながると反対する人もいるけれども、選挙人登録の方が成人式よりも、いくぶん上に 位置すると思う。受け身ではなく、申請して初めて「大人」になれるのだから。
(山口 一朗)


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