エトスサロン「ニホン語」
「エトス」1987年9月号(太平洋教育文化交流協会関西本部発行)より転載



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 「カタカナ恐怖症」にかかったことがある。一年ほどいた米語文化圏から帰国した後の ことだ。一緒に帰ってきた友たちの多くは、成田に着いてからも「米語文化」を引きずっ ていた。日本語の中に米語が混じったり、公衆の面前で抱き合ったりすることなど、当然 のことのようだった。郷に従えない友たちに対して、軽べつに近い同情の念を抱いた。
 一ヵ月ほどして、日本の高校に戻った時、私の病気は悪化していた。耳や目は、カタカ ナだけでなく日本語全般の「誤用」に対して強い拒否感を持っていたのだ。たとえば、「 いまいち」とか「全然いいね」という類のことばは、日本語ではないと信じていた。だか ら今度は、誤用する友たちに対して、驚きに似た失望を感じた。
 このように思うのは、ことばや身ぶり、手ぶりが情報伝達の手段としての役割しか持っ ていないとすれば、「保守本流」と銘打っていいことなのかもしれない。事実、かくお考 えの方も多数おられるだろう。だが、この考えもいささかマユツバものであるらしい。
 というのは、「国語」には日本語化した外来語があるからだ。通常、漢語は外来語には 含まれていないものの、輸入されたものであるには違いない。だから、輸入された、つま り外来 のことばを拒否するとなると、文字まで使えなくなってしまうから、た いそう都合が悪い。また、外来語が使えないと、正確に伝わらなくなることがある。専門 用語や既に日本語の一部となっている語句は、無理やり漢字に直しても、何のことやらさ っぱりわからないことがあろう。たとえば、映像受信機だの、天井開閉車だの言われたら 、どうだろう。
 更に、こんな例もある。誤用しない 人たちが、とても よく使う「 ケリをつける」という用法は、和歌などの最後に助動詞の「けり」が多く使われていたこ とから転用されたものだという。つまり、正しくはない用法が一般化したものなのだ。
 だから、私は、「E電」だの「NTT」だのと何でもかんでもローマ字になってしまう 我が公用語には悲しみを抱きつつも、「誤用だ」とはとても 言い切れない のでいるのである。
ピース九期生 山口 一朗


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