山釣りの世界TOP

 画像数40数枚・・・写真と紀行文で綴る山釣りの世界

Brightness of the beauty fish that lives in the mountain stream of the secret
 連日好天が続き、どこの沢も超渇水状態に陥っていた。昨年原種岩魚の保護を願って、滝上放流を行った秘渓の岩魚たちは大丈夫だろうか。それを確かめるべく、仲間二人とともに秘渓に分け入った。ただ歩くだけではつまらない、ということで、竿を出しながらのんびり源流を目指した。案の定、力ない流れでは、すこぶる岩魚の食いも鈍かった。

 なかなか岩魚が釣れないものだから、あっ言う間に源流部に達してしまった。時間を持て余し、先人たちの手によって移植放流された滝上を探索してみることに・・・すると、滝壺から姿を現した岩魚が上の写真だ。その美しさに全員が釘付けとなった。「深山幽谷・神秘の美魚」とは、こんな岩魚のことを指しているに違いない。
 暑さを吹き飛ばす清冽な滝。マイマスイオンが充満する滝の飛瀑に誘われて、何度もデジカメのシャッターを切った。今回の岩魚紀行は、「秘渓に棲む美魚の輝き」、「水の力」・・・その心の奥底まで描写できるのは、単なる写真技術では決して撮ることはできないように思う。感激を釣った釣り人にしか決して撮れない写真もあっていいのでは・・・果たしてその心が、この写真と紀行文から伝わるだろうか。
 超渇水で力なく流れる沢に竿を出す。真夏のような強い日差し、流れは淀み底まで丸見え・・・釣りには最悪のコンディションだったが、奥へ奥へ吸い込まれて行く度に、不思議と筋書きのないドラマの連続となった。
 本流の岩魚・・・腹部は薄っすらと橙色に染まっているが、全体的に白っぽい感じのする岩魚。側線より下に薄く染まった橙色の斑点が見える。紛れもなく居着きの岩魚だが、「平凡な岩魚」のそしりを免れない魚体だ。
 沢全体が力のないせせらぎの音だったたが、たまに滝が現れると、意外にも水量が多く見え、一際美わしく見える。それだけに、渇水ともなれば、岩魚も人間も滝の飛瀑に魅入られてしまう。
 写真左の花がタニウツギ・・・沢の至るところに、色を失った白から淡い紅色まで美しく咲き乱れていた。この花が咲く頃は、山釣りのベストシーズンなのだが・・・。
 清冽な湧水地帯に群生するフキユキノシタ・・・この一帯は、湧水が一面に滴り落ちる場所なのだが、その湧水が枯れ気味だった。こんな光景を見る度に、水と緑滴る光景を渇望した。
水の力・・・聖なる飛瀑
 水の力・・・「谷を歩いていつも驚嘆するのは、水の力の素晴らしさだ」(冠松次郎)。岩魚を追い続けて谷を歩き、いつも驚嘆するのは、水の力の素晴らしさ、滝の麗しさ、人工的な美を超えた水の造形美だ。
 三脚はローアングルが可能な超小型三脚。シャッタースピードは1/4〜1/8秒。奥に竿を出す釣り人が見えるだろうか。入れ食いで釣れてくるが、20センチほどのリリースサイズばかりだった。それでもこの美わしい滝に時間を忘れて戯れてしまった。
 滝に思いっ切り近づきシャッターを押す。この滝は、飛瀑が物凄く、いつもなら近づくのも容易でない。いつも飛瀑にカメラを濡らし、退散したこと数知れず。それだけに渇水は、この滝を撮る絶好のシャッターチャンスだった。
 岩肌にビッシリ生えた緑の苔、落走する白い帯と滴り落ちる水・・・清涼感、マイナスイオンの飛瀑に満ちた空間は、身も心も洗い清めてくれる。暑くなればなるほど、心が渇けば渇くほど、こうした水の風景に恋焦がれるしまうのは私だけではないように思う。
 聖なる飛瀑・・・落走する流れが、苔生した岩をかみ、激しく飛び散る飛沫の一瞬を撮る。渓を覆いつくすブナの葉陰から柔らかな日差しが差し込む。無色透明の水が妖しいほどに輝やき、レンズを通して心の中まで飛び込んできた。
 渇水の時は、巻き道を通らず、滝を直登するシャワークライミングが最高だ。聖なる飛瀑が体の芯まで沁み通り、言い知れぬ快感を覚える。気分爽快、痛快、胸がすく。
美味なタケノコ
 小沢沿いの笹薮に入ったら、何とナギナタのようなタケノコになっていた。30度を超す異常な日もあったから、どうもおかしいとは思っていたが・・・タケノコの旬はあっという間に過ぎていた。それでも柔らかい先の部分をありがたく採取。タケノコは、その日のうちに処理しないと硬くなる。山の恵みは、最大限美味しくいただくのが鉄則・・・ならば、と疲れた体にムチ打って、タケノコの皮をむき、地鶏と一緒にタケノコ汁を調理。今年の初物の味はどうか・・・香り、山の風味、歯触り、上品で淡白な味、いずれをとっても絶品というほかなかった。

 ワンポイントアドバイス・・・これまでタケノコの皮を剥くには、手で剥きやすいようにナイフで切れ目を入れていた。切れ目を入れると簡単に言っても、誰にでも簡単にできるとは言い難い。そこで重宝するのが100円ショップで売っている「万能皮むき器」。本来は、ごぼうやニンジン、りんご、柿、じゃがいもなどの皮むき器だが、タケノコにも抜群の威力を発揮する。ぜひ試して欲しい。
隔絶された幽谷に棲む美魚を追う
 この滝を越えるには、大きく高巻かないと簡単に突破できない。しかも小さな小沢だけに、この滝上には岩魚が生息していないようにも見える。さらに、この滝下流では、岩魚の姿すら見えなかった。小玉氏は、「こんな滝上に、岩魚がいるのだろうか」と言った不安と疑念を持ちながら滝を見上げた。
 滝を高巻く途中で見つけたギンリョウソウ・・・別名「ユウレイタケ」と呼ばれるように、薄暗い林内に生え、一際目立つ銀白色の姿は、何となく不気味さを感じさせる。まるでロウソクで作った花のようにも見える不思議な花だ。
 滝上は、下流の明るい渓相から想像もできないほど谷が狭く薄暗い。まさに不気味さを漂わせたような幽谷の世界だ。秘渓だけに谷の風景をお見せできないのが残念だが・・・渇水にもかかわらず、8寸から尺上の岩魚たちが次々と釣れてきた。上の個体が、滝上の典型的な岩魚だ。顔はやや浅黒く、体全体が橙色に染まっている。体長の割りに顔がデカク、成長の遅い源流岩魚そのものの体形をしている。それだけにオス岩魚の精悍な顔が際立って見えた。
 頭隠して尻隠さず・・・超渇水で滝上は、瀬尻に遊ぶ岩魚が丸見えだった。接近する我々に気付いた岩魚は、すかさず岩に隠れた。よく見ると、頭は岩の穴に隠れているが、尻尾は丸見えだった。その滑稽な姿を撮ったのが上の写真だ。こんな無垢なる岩魚の姿を写真に撮れる世界は、もはや残り少なくなった。それだけに貴重な写真が撮れたと思うのだが・・・。
 小滝の壷で出た尺岩魚・・・この岩魚が釣れる直前、私は岩の小段に上り、沢に流れ込む湧水を撮影していた。ふと上流を振り向くと、小玉氏の竿が弓なりになり、尺岩魚が踊っているではないか。その岩魚を早く撮りたいと焦る余り、足を滑らせてしまった。悪いことに凸部の岩に尾てい骨をしこたま打った。どうも尾てい骨にヒビが入ったようでズキズキ痛む。それでもこの美魚たちを撮れた満足感は、お釣りがくるくらい嬉しかった。全身に散りばめられた斑点は小さく鮮やかで、まさに「星屑岩魚」そのものだった。
 同上のアップ・・・この大きな口を見れば、サンショウウオやカエル、ネズミ、果ては蛇まで丸呑みするのがよく分かる。大きな口と鋭い歯、これが岩魚最大の武器だ。歯は、口だけでなく、舌やアゴの中心部にも生えている。その歯は、みな鋭く、先が内側に向いていて捕らえた獲物を決して逃がさない構造になっている。
 アレッ、釣られてしまった・・・といった表情でカメラのレンズを眺める岩魚。この愛嬌ある顔とは裏腹に、野性味溢れる岩魚の大きな口と鋭い歯は、日本の在来淡水魚の中でも、紛れもなく悪食家のチャンピオンを象徴している。それだけに「野性を求める釣り人」を魅了してやまない。
 鮮やかな柿色に染まった個体。側線より下はもちろん、上の斑点も橙色に染まっている。口、腹部、胸ビレ、腹ビレ、斑点、体色・・・いずれをとっても鮮やかな色合いに「綺麗だなや」を連発すらしかなかった。
 腹部が柿色に染まった岩魚を釣り上げた瞬間。明るさが足りずブレてしまったが・・・この後、手前の流木が邪魔をし、見事にバラしてしまった。それでも釣り損なった岩魚に何の未練もなく、むしろリリースする手間が省けたようなサバサバした釣り人の笑顔に、またまた嬉しくなってしまう。
 秘渓の美魚を撮る
 これまで数限りなく源流岩魚を見続けてきたが、これほど美しい輝きを放つ岩魚を見たことがなかった。それだけにズキズキする尾てい骨の激痛を忘れてしまうほど、無我夢中でシャッターを押し続けた。こんな美魚を目の前にすると、ただただ「美しい」という言葉しか出てこない。そんなボキャブラリーの貧困さを呟くしかないほど美魚の輝きが圧倒していた。
 同上の魚体をアップ・・・側線は鮮やかな白い点線だが、斑点もパーマークも不鮮明で、異様なほど体色が黄橙色に染まっている。俗称「黄金岩魚」と呼ぶに相応しい個体だ。ちなみにサイズは32センチ余り。
 同上を尻尾側から撮る・・・こうして撮ると、遊泳力に優れている尾ビレの大きさに驚く。体は水の抵抗力を最小限に抑える楕円形で、各ヒレが飛行機の翼のようにも見える。厳しい源流に生きる岩魚の美形に納得。
 逆さにして体色、斑点の色をアップで撮る・・・こうして見ると、不鮮明に見えた斑点はやや鮮やかにも見える。その色は、側線の上も下も橙色で、白い斑点は何もないようにも見える。これがニッコウイワナか、と疑いたくなるような個体だ。腹部も白い部分がほとんどないほど柿色に染まっている。
 胸ビレの鮮やかな橙色と鼻曲がりの精悍な口、さらに口元は、まるで口紅でも塗ったような橙色に彩られている。どこから切り撮っても美しい。
 幽谷の美魚を釣り上げた釣り馬鹿・小玉氏。野性味溢れる美魚を手に、顔がやや高調しているのがお分かりだろうか。
本流に棲む源流岩魚
 先人たちが放流した岩魚の子孫探索、その興奮も覚めやらぬ中、急いで本流に戻る。岩陰に隠れて流木滝を釣る。
 当然のことだが、本流にも、滝上と似たような個体が釣れた。
 そして、滝上では見かけることのなかった個体も釣れた。その違いは、頭部から背中にかけて鮮明な虫食い状の斑紋だ。こうして丹念に撮影してパソコンに取り込み眺めていると、岩魚の多様性に改めて驚くほかない。
 沢沿いに林立していたサワグルミ。幽谷の美魚に酔い知れ、河原に寝転んで空を見上げた。細く尖ったギザギサの葉が天空を覆い、巨木の全身を包み込むツル植物にハッとする。共生の美・・・この木を見れば、どうしても林床に群れるヤマワサビを連想してしまう。それもそのはず、この沢はヤマワサビの宝庫なのだ。
原種岩魚を放流した秘渓を探索
 昨年二回にわたり滝上放流を実践した秘渓を訪ねる。滝の落差はおよそ100m、空身で高巻いてもゆうに30分はかかる。屹立する斜面を登るたびに、痛めた尾てい骨に激痛が走った。それでも新天地に放流した岩魚たちの無事を見届けたい一心で必死に登った。
 高巻き途中、ブナに混じって赤茶けたヒバの樹肌に目を奪われる。源流部に広がる森は、典型的な混交林だ。この真下に長大な滝が流れている。降りる位置を間違えると、滝の途中に出てしまうので慎重に高巻く。
 滝頭から下流を撮る。下段の滝壺から滝の傾斜は急にきつくなる。もちろん、神秘の美魚と言えども、この激甚の落差をもってほとばしる滝を自力で上れるはずもない。そこに原種岩魚の楽園を夢見て放流したのだが・・・。
 秘渓の風景・・・最初は小滝が連続しているが、やがて傾斜は緩く穏やかな渓相となる。超渇水でも枯れることなく、水が流れているのを確認し一安心。注意しながら歩いたが、しばらく岩魚の姿が見えなかった。岸辺の浅い淀みに、何か動くものが見えた。サンショウウオの子供たちに混じって岩魚の稚魚が・・・嬉しさで心が弾んだ。
 見上げればブナの巨樹が林立。深い原生林に包まれている。渇水のため、岩魚は岩陰に隠れてなかなか姿を現さない。恐らく、浅瀬に出れば外敵に襲われる危険があるためだろう。やっと滝壺の淀みで、一回り大きくなった岩魚が見えた。思わず身を乗り出してカメラを構えた。しかし、それに気付いた岩魚は、あっという間に白泡の中に消えていった。残念ながら写真に撮ることができなかったが、下流に下ることなく居着いていてくれた喜びで一杯だった。流れる水は冷たく、川虫もサンショウウオも豊富だ。きっと大きく育ってくれるに違いない。それをこの目と足で確認すれば、夢が現実へ・・・。
 昨年、この沢を訪れた時は、一面ヤマワサビの白い花で埋め尽くされていた。そのワサビ畑をもう一度見ようと、同一時期を狙って訪れたのだが、ヤマワサビの旬はとうに過ぎていた。しかたなく、根だけ間引くように採取し、沢を下った。
 今回滝上の岩魚調査に同行したのは、昨年二回にわたって岩魚を釣り、生きたまま滝上に運んでくれた仲間たちだ。いつもなら幽谷の美魚に酔いしれ、納竿、一目散に沢を下るのが常だ。しかし、今回は違った。私は尾てい骨がズキズキ痛み、仲間二人も夜明けから歩き尽くめですっかり疲れていた。そんな時、釣り馬鹿が、竿を持たずに、ただただ岩魚の生息を確認するためだけに、屹立する斜面を登った。そんな馬鹿げた計画を実行できるのは、その苦労を共にした仲間がいるからだ。左から伊藤氏、小玉氏、私の三馬鹿トリオ。幾つになっても馬鹿になれる仲間がいるほど幸せなこともない。
 再び遥かなる昔、先人たちが放流した岩魚の子孫・美魚たちの美しい輝きを眺めながら思った。自然と人とが素朴に関わってきた歴史と風土、文化に熱き思いがこみ上げてきた。ふと、山と渓谷、岩魚に埋め尽くされた書棚を見上げた。「渓流魚と人の自然誌 山漁」(農文協、鈴木藤夫著)、「愛もて 渓魚を語れ」(平凡社、紀村落釣著)

 その冒頭の文を私なりにもじれば・・・山釣りと言うのは、ある種の人間にとって、例えようのない悦楽である。突き詰めて言えば、その魅力の源流は、人跡稀な深山幽谷に、、今まで見たこともない美魚を発見した時の新鮮な感動、感激に端を発しているように思う。そんな風に感じる人間は、なぜか決まって、下界では奇人変人のように思われる人種が多い。よくよく考えると、それは単なる偶然とは決して思えない。
 人生の夢と快楽を求めて、人は皆、都会の雑踏に向かう。しかしそこに待ち受けていたものは、夢とは程遠い醒めた現実に、大きな落胆を感じてしまう。果ては、常に孤独を追い求め、次第に協調性、妥協性に乏しくなってしまう。かくして、人間の群れから落ちこぼれた人間は、何故かだんだん頑固な人格を持つようになる。「来るな!」と言わんばかりの激流を見れば、訳もなく飛び込み、激甚の滝を見上げては、危険を顧みず、未知の世界を彷徨う罠にハマってしまう。

 そんな罠にがっぱりハマルと、誰しもそこから脱出したくなる。そんな不安にもがき、苦しみ続けると、人生はさらに狂い、春から秋にかけて、谷暮らしに入り浸れ、オフシーズンは読書に明け暮れる。そんな暮らしを何年、何十年も続けていると、いつしか、暗く底なし沼のような世界に、キラリと光る宝石を発見する。その埋もれた宝石を拾った人間は、例え一瞬とはいえ、夢を追い続けた満足感にどっぷり浸る幸せ感を覚える。
 その幸せの絶頂を遮るようにもう一人の人間が静かに語りかけいくる。「もっと現実を見ろ」と・・・日常の世界に戻り、冷静に振り返ると、その幸せ感は、単なる妄想に過ぎないようにも思う。だが、その妄想はだんだん膨れ上がり、聖なる滝と無垢なる美魚たちが無性にいとおしく、無性に恋しくなる。その不思議な得も言われぬ「野性の感覚」・・・

 「奇人変人」と言えば、その元祖でもある平賀源内を思い出した。歴史上の人物で、彼ほど異能のエンジンをもって離陸し、事なかれ主義の世間のはるか上空に、奔放自在な曲線を描いてみせた人物はいないと言われる。しかし世の人々は彼を称して「鬼面人を驚かす絶倫の奇才」「口八丁手八丁のカラクリ師」「奇人変人」・・・果ては「山師」「詐欺師」「ペテン師」・・・などといった有難くないレッテルを山ほどもらい、ついには獄中で無念の死をとげた。

 鎖国政策が長い間続いた閉鎖的な時代に、平賀源内のような破天荒な生き様は、常人にとても理解できるものではなかった。5年先、10年先ならいざ知らず、100年先の夢を追い求める人間は、決まって悪しきレッテルを貼られるのが世の常である。「良薬は口に苦く、出る杭は打たれるのが世の常。されど、風次第で首を振るような一生を過ごすことは、折角親からもらったキンタマを無にするようなものだ。せめて、一生わが身を自由にするが儲けなり」(平賀源内著「放屁論後編」より)
 生涯の親友・杉田玄白は、源内の墓碑銘に次のように書いた。
 「ああ非常の人。非常の事を好み、行い、これ非常、なんぞ非常の死なる」・・・親友玄白からも「非常」の文字を4つもいただいた源内の一生を振り返ると、まさに「夢に生き、夢に死ぬ、夢の人生」だったようにも思う。平賀源内を称して「非常」とか「奇人変人」といったレッテルは、どこか「釣り馬鹿」のレッテルとも重なる部分があるだけに、同情の念を禁じえない。

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